Un chagrin de passageは、サガンの晩年の作品である。主人公の男は40歳になる建築家であり、ラグビーで鍛えた肉体の持ち主である。作品は医者に肺がんを告げられた朝から、その診察が誤りであったことを知る夜までを描いている。その間が「つかの間の悲しみ」である。しかし、この作品の残酷さは、悲しみはこの一日ではなく、実は彼の人生のそのものが愚かなものでしかないことを、この誤診があばきたててしまったところにある。
主人公が«le prototype du Français médiocre»(p.53)というとき、その凡庸さとは何だろうか。あさはかな友情、心のかよわない、自らのmacho(優位)ぶりを示すだけの愛人との関係、過去の愛を求める幼稚な精神。それらがすべて主人公の凡庸さを物語る。しかも、彼はそれらの他人を訪ねながら、ひとつの喜劇をあくまでも演じているのである。愛人や昔の10年前に別れた女と最後の6ヶ月を過ごすことを望み、愛のない妻の介護をかたくなに拒否する姿には凡庸を通りすぎてもはや哀れみしかない。
サガンのこのような構成を通して、私たちが感じるのは、「俗っぽく、群れをなし、ありふれたもの」(p.149.)であればあるほど、成功するこの社会の欺瞞である。社会が求める価値は、所詮は凡庸であり、その凡庸さを疑いもしない、主人公を典型とする人間たちは、実際にはそうした生の裏にある虚無に気づいていないのだ。
お決まりの筋の展開、人間の行動、想定内の出来事の集積は、物語の凡庸さを私たちに印象づける。生も死もドラマティックなものではなく、生きることはただ凡庸でしかないという強烈な厭世観。そのサガンの諦念を感じざるをえないのだ。