メショニックの本論文は、バンヴェニストが考察したsémiotiqueとsémantiqueに関連して、言語の本質をどのように規定すべきかを再検討したものである。メショニックが問題にするのは、バンヴェニストが言語の特質の画定を考えるあまり、言語と芸術作品とが峻別されるものとして提案されている点である。
バンヴェニストは言語とはsémiotiqueとsémantiqueの二重の体系(système)をもつものであるとし、芸術はsémantique sans sémiotiqueが本質であるとして、その芸術作品解釈の無限性を強調する。
それに対してメショニックは、sémiotiqueとsémantiqueの区別が実際には難しいこと(それは何よりもバンヴェニスト自身がdiscoursという概念を導入し、意味生成のダイナミズムに言及していることに伺える)、また言語をlangueではなく、langageととらえるとき、その意味生成のメカニズムは、実は芸術作品だけではなく、ポエティックとしてのlangageにも十分に認められることを述べ、バンヴェニストの理論の展開をはかる。この言語と芸術作品の垣根を越えるところにメショニックの本論文における主眼がある。
メショニックがバンヴェニストの新しさとして指摘する要素のひとつがunitéとsigneの違いである。作品はその全体でひとつの「統一体」を形成するが、この「統一体」は記号ではないし、記号で構成されているわけではない。もしそうならばバンヴェニストもいうように、記号の累算が作品ということになってしまうだろう。だからメショニックも「語が作品を作り上げるのではなく、作品こそが語に付与されるものを作りだすのだ」(p.395.)と指摘する。
だがメショニックはsémiotiqueそのものの定義を、閉じられた有限の記号体系ではなく、「他の記号へ、他のディスクールへと一般化可能な、そして一般化されうる記号体系」であるとする。そしてこの意味生成のメカニズムにディスクールが深く関与する。ただし、メショニックの提示するディスクールとは、複数の人間(社会)の間で了解される、その場に生起してくる意味というものではない。
メショニックにとっては、その意味生成のメカニズムには、ポエティック、そしてリズムが関わってくる。そのために、メショニックは続いて、バンヴェニストが例示したsémiotique sans sémantiqueの例(礼儀にまつわる所作振る舞い、仏教における手の位置)を批判する。メショニックは実際にはsémiotique sans sémantiqueの事例は、「純粋にステレオタイプ化された信号」(p.401.)に限定されると述べる。
そしてメショニックはsémantique sans sémiotiqueとしての「作品」の性質を、バンヴェニストの言う、1)芸術家がみずからのsémiotiqueを作ること、2)このsémiotiqueとsémantiqueの関係は作品そのものに内在していること、3)作品における意味の生成は、決して、両者の間で共通に受け取られている取り決めへとは参照されない(Benveniste, p.59, Meschonnic, p.404.)としてまとめる。
(付記:この3)の定義によって、宗教表象は作品から除外される。そこには、宗教的な取り決めがあり、その解読のみが機能として取り上げられるからだ)。
そしてこの「作品」の性質は、メショニックにとっては、芸術と文学だけではなく、langageの理論そのもの(signeの批判として)となる。
このような観点に立って、メショニックはバンヴェニストの理論の問題点を取り上げる。
一つ目は言語は、解釈の体系であり、言語はそのためparler de「何かについて話す」という機能をもつとしている点である。それについてのメショニックの論証をまとめるならば以下のように考えられる。
「何か」についての「何か」とは、作品の外部にあるものとの関係を措定する。これは記号の機能であり、作品はむしろdire「何かを言う」ものである。何かを言っている以上、その何かというsémantiqueなもの=意味の生成こそが、解釈の対象となるのではないか。
二つ目はバンヴェニストが「langueは、ある共同体のすべての構成員のもとで、レフェランスの価値が同じままで、生産され、受け取られる」(Benveniste, p.62, Meschonnic, p.409.)としている点である。これは、バンヴェニストによって、芸術の意味生成と対比させるという意図のもとなされたlangueの定義である。
この対比とは、メショニックに言わせれば、芸術における意味の無限、新たな読み、多様性、他者性と、言語のsémiotiqueな全体性、同一性の対比である。
その上で、メショニックは、言語の解釈作用という機能においても、かならずそこから抜け落ちるものがあり、それが未来において価値の意味を生んでゆくのだとする(p.410.)。
ここからメショニックの主眼はディスクールへと移る。メショニックは「langageがディスクールの秩序の中で考慮されるならば、そこで観察されるものは、記号が隠している、継続continuitéの機能である」とし、さらにその継続とは、エクリチュールとオラリテの両方に存在するパロールの運動組織としてのリズムであるとする(p.411.)。ポエティックとは、不断のこのsémanitqueとsémiotiqueの対立なのである。ポエティックの対象とは、「これまで名前のなかったもの」である。
このようにMeschonnicは、言語と芸術の差異というバンヴェニストの対立的な考え方を解きほぐしながら、言語(langage)に内在するポエティックを、バンヴェニストのディスクールに参照させつつ、sémantiqueな領域=意味生成の領域へと引き寄せるのである。