Lévinas, Emmanuel

 Éthique et Infini『倫理と無限』は、仏ラジオ局France Cultureで放送された対談をおさめている。第1章はBible et Philosophie「聖書と哲学」である。レヴィナスにとって聖書と哲学書は対立するものではなく、実はそれらを読む行為がそのまま解釈行為になるという意味において、とても近い存在である。

 そもそもレヴィナスにとって、宗教や哲学そして本人の知的形成に寄与した文学(シェークスピア、19世紀ロシア小説)、そして研究の出発点で出会った社会学(デュルケム)に置いても、書物を読むということは、決まりきった知を、固まりきった信仰を受け取るためではない。書物とは私たちの存在の一様態であり、それは今ある現実を、今ある我々自身を越えて、「存在するのとは別の仕方」で存在することを可能にする。
 考えることはこの別の仕方の存在を生み続けることだ。レヴィナスは対談の冒頭で「考えの始まりには何があるか?」と問われ、次のように答えている。

Cela commence probablement par des traumatismes ou des tâtonnements auxquels on ne sait même pas donner une forme verbale : une séparation, une scène de violence, une brusque conscience de la monotonie du temps.
 
それはおそらくは、私たちがことばという形を与えることさえできない外傷(トラウマ)や手探りな状態から始まるのです。別離、暴力的な場面、時間の単調さに突然気づいたときに。

 ここではもちろん、ことばにできない体験があると言って、表象不能な体験を保存しているのではまったくない。これらの体験は問いかけの対象となり、思考の始まりとなるのである。むしろ既存の知識の枠内に保存してしまうのではなく、それらを取り払って、あらためて志向する、現象学的態度を問題にしているのだ。

 ただ、レヴィナスにおいて現象学とは学派の意味ではなく、おおよそ彼の思想の根本的態度を意味している。既成のものとして乾いて固まってしまった現存から離れ、忘れられた思念の地平まで遡ること。存在について問い直すことが現象学的態度であり、そこにまた問いが生まれてくるのだ。「あるものはどのようにしてあるのか?」「あることの意味は何か?」と。

 聖書にむかう態度も同様である。聖書とは解釈の対象であり、解釈にゆだねられ、意味を生んでゆく豊かな深みをたたえた書物だ。上に述べたように、おおよそ読むとは解釈をすることであり、そこに意味と思想が生まれてくる。そして偉大な哲学者の書物もそうした読みを可能にする。
 さらにこの根本的態度はベルグソンとの関係にもあてはまる。レヴィナスにとってのベルグソンの時間論は、時間がリニアで同質なものへとは還元できないことに大きな意味がある。そのような時間は、レヴィナスにとっては新しさの可能性のない、未来への可能性のない世界に身を置くことであり、それはすべてがあらかじめ決められているような、かつての決定論が支配する世界に身を置くことに等しい。

 レヴィナスの思想には常にこの生み出すこと、生み出す運動によって、自らが可能性の中で変化すること、言葉や知によって固められた客観性から自らを解き放ち、自己を創造すること、すなわち「絶えざる刷新」があるのだ。だがそれは飛躍的な信仰、神秘的な精神性によるのではない。あくまでも知性を厳密に適用し、書物との対話のなかから批判に耐える解釈を生み出すこと、それによってはじめて「新しさ」が生まれてくるのだ。新しさは、刹那的な突飛なものではない。人間をたえず新たな可能性へとひらいていく新しさとしてそれはある。