De Fontenay, Elisabeth

 フランスの大学で長らく哲学を教えてきたエリザベート・ド・フォントネは、80歳になろうとする自閉症の弟について書くことを決意する。だが、通常のコミュニケーションを取ることのできない弟の何を理解し、何を語ることができるのかとフォントネは自問する。

 この困難さの中で、フォントネは、長い考察を展開するのではなく、ごく短い断章を連ねる形式を選択し、子ども時代の断片的な記憶、そのときに自分が抱いたおぼろげな印象、そして今現在からの推察を重ねていく。どれも確証のあるものではない。その意味で、フォントネに取って弟は、決して埋めることのできないひとつの「空白」である。それでもフォントネは、弟という「不在の存在」をことばによってかたどろうとする。

 弟についての記憶は、同時に家族についての記憶でもある。特にユダヤ系の母親を持つフォントネにとって、第二次世界大戦時のドイツ占領下での家族の苦難は強く記憶に残っており、それによってテキストは小さな同時代的歴史の意味も帯びる。

 作品中には、こうした弟、家族についての叙述に加えて、これまで西洋の歴史において障がいをもった者たちがどのように扱われてきたのかが論じられてる。そしてときに彼らが「何かが欠落した存在」、社会のマージナルな存在とみなされてきたことを批判する。

 それに加えて、例えばドストエフスキーの『白痴』のように、文学作品に登場する「精神的障がい」をもった人物たちについても論じられている。

 ただし、こうした歴史、文学にまつわる叙述は、客観的な考察に徹しているわけではない。それは、西洋思想を「障がい」という主題から振り返り、「人間観」をあらためて検討し直すと同時に、その文脈に、弟が受けてきた治療の意味や、弟の存在自体を位置づけ直すという二重の意味がある。

 このように本書は、記憶と考察を交え、弟・家族の歴史と障がいをめぐる人文学の歴史を交えることで、文学、歴史、哲学、精神医学の諸領域を横断していく、ひとつのジャンルにおさまらない、豊かさを湛えた作品となっている。

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 本作品は、長らく大学で哲学を教え、多くの哲学書を著してきたフォントネが、初めて私的な主題を取り上げ、一人称を用いて自閉症の弟について語った著作である。

 表題『夜のガスパール』のガスパールは、実名を伏せるためにフォントネが選んだ名だが、ここには19世紀に「野生児」として発見されたガスパー・ハウザーと弟を重ねあわせる意図も含められていた。またフォントネは、弟を理解することの困難さ、弟との意思疎通の困難さを告白しているが、「夜」はその困難さの例えである。

 だが本書は、弟についての私的記憶のみに終始しているわけではない。ガスパールの例がその一端を語るように、西洋社会の中で、ろうあ者、知的障がいをかかえる人々が、どのように扱われてきたか、また文学作品でそうした登場人物たちがどのように描かれてきたかが論じられている。

 この障がいをめぐる考察は、フォントネの哲学的思索の主題のひとつであった、動物の権利の擁護に重なる。フォントネは、動物や障がい者を、人間社会における「異質な存在」とみなし、社会から排除する姿勢を厳しく批判する。

 その姿勢は、本書の中で、フォントネが弟を病名で名指すことを極力避けていることにもつながっている。アメリカの批評家スーザン・ソンタグは『隠喩としての病い』で、エイズや癌などの病名に社会が過剰なイメージ(=隠喩)を付与していることを批判し、これらの名から付属物に過ぎない意味を剥ぎ取ることを主張した。フォントネにも、障がいについて私たちが抱いているイメージから、弟をできるだけ遠ざけ、あくまで人間として描こうとする意思がはっきりと認められる。確かに理解しあえない事実は厳然と存在する。しかし弟はここに存在している。その存在自体をかけがえのないものとするために、フォントネはこのテキストを書いたのだと言えよう。

 社会において「弱者」とみなされた存在に目を向け、その存在の尊厳の回復をはかろうとする本書は、弟の存在に対する感受性豊かな文体と、哲学者としての透徹した知性による文体が、調和し、個人性と普遍性をともに湛えた作品となっている。

 有用性や生産性の名の下で、人々が選別されてしまう社会の風潮を考えるとき、本書は、私たちがあらためて人間存在の尊厳を根本から考え、議論するための大きな示唆をあたえてくれる。