畠山直哉、大竹昭子

・写真と外界
 「芸術というと、心とか感情とか内面とかの話題が中心になることが多いけど、写真を撮っていると、どうしても内側より外側のほうが大事なことのように思えてしまうんです」(p. 18.)。

 芸術作品は、表現者の内的なものの外への表出という形で創作されたものとして捉えることも可能である。しかし写真は、この捉え方が難しい。本質的に写真が生まれるときは、画面に写された外側の存在物が前提としてあり、それを写し取るという意味では、写真家の表現行為は二次的とみなされてしまうからだ。

・写真と言葉
 この場合の「言葉」とは、ひとつはキャプションである。キャプションなしでも鑑賞が成立するかどうかが、写真のアート性のひとつの条件となる(p. 37.)。

 もうひとつは撮った本人が説明しながら写真を見る場合である。その場合「言語的な情報を与えられることによって、他愛もない写真が唯一の写真になってくる」(p. 37.)。それは「絶対的な」写真と呼ばれる(湊千尋)。絶対的とは、「個人の記憶や感情に根ざした写真」(p. 38.)という意味である。

 直接の説明でなくとも、私たちに前知識があるとき、写真は、その知識がなかったときとは同じ見方ではもはや見ることができなくなる。畠山直哉という写真家が、陸前高田で生まれ、津波で実家を流出し、母親を亡くした写真家であると知るならば、彼の陸前高田の写真は強い絶対性を帯びる。それは「特権性」とも言いうるものである。それでも展示をするのはなぜか。それは写真をめぐる意味の変化をこれほどまでに強く感じることはまれだからだ。だからこそ、畠山は「考える素材」として「自分の身を差し出した」(p. 41.)と述べている。

・「いい写真」
 写真家は、たとえ「大量の死と破壊」、「圧倒的な出来事」を前にした時でも、いやその時こそ「いい写真」を撮りたいと願う(p. 99.)。では実際には「いい写真」は何をもって「良い」と判断されるのだろうか。

 近代写真芸術の美学においては、「撮影者の個人史や背景が加味されることはまれ」(p. 104.)であった。すなわち作品の自律性こそが美を定める条件であった。しかし瓦礫を前にして、個人を捨象して「いい写真」を問うことは「空疎な響き」しか持たないと言う。

 それであってもなぜ写真を撮るのか。畠山は「僕は誰かにその写真を見せたいというより、誰かを超えた何者かに、この出来事全体を報告したくて写真を撮っている」と言う。ここにはおそらく時間が関係している。想定できない、未だ会ったことがない、このことを体験として感じることのない、写真を見て確認をするのではなく、写真を見て初めて何が起きたかを知る人々」に向けて写真を撮っているということだろう。

 「いい写真」が成立するのは、その現実の風景や人がいいとか、その風景や人がうまく撮れているではなく、そうした現実を捨象した独立した空間においてである。だが津波のあとでは、そのような問いを成立させる場がそもそも不確定にさらされている。

 だが、写真が現実の方にひっぱられるとき、それはそもそも「写真家の能力」(p. 111.)の話ではなくなってくる。あるいはそれなりの体験をした写真家ということもあるが、そのの意味では写真家としての資質ではなく、人生経験の話になってしまう。そこには写真の「公共空間」は成り立たなくなる。

 その上で「いい写真」の判断は、「美学的」なものではなく、「観客がある種の能動性を発揮する」ものを「よい仕事」(p. 124.)であると畠山は言う。
 
・表象としての写真
 写真と現実と言葉は密接な関係を持つ。とはいえ写真は言葉なしに成立しうる。写真家は「表象に対しての現前の優位」とわたりあう。バルトは「写真はコードのないメッセージである」と言う(p. 133.)。写真という表象を読みとくためのコード(暗号)は存在していないが、それでも読み取られうるものとして(=意味を派生するものとして)存在している。また出来事の「表象不可能性」ということも言われる。さらに経験・体験の優位もある(「僕は芸術とか文学とかデザインとか、(...)心を扱う表現活動というのは「体験しないやつにはわからないよ」っていうような気持ちがもっているほんとうにさびしいニュアンスを超えるための方法をつくっていくことだ」p. 212.)。こうした写真をめぐる言説は、写真が自らの表象の空間を確保することが芸術の営為となることを示している(p. 145.)。

・「写真として」
 「写真としてどうか」という問いかけは、「写っている物事や撮影行為のおもしろさとは論理のタイプを異にする」写真それ自体への問いかけである。これは写真を「分析的な態度」をもって扱うということを意味する(p. 193.)。それは「メディウム」や「形式」という言葉でも指摘できよう(p. 194.)。

 しかし、実物がもたらす感慨を決して否定すべきではない。むしろ形式と内容が一緒になっていることこそ、写真の特性でもある。つまり「具体性から逃げられないという性質」(p. 197.)を写真は持っているとされる。
 
・きれいな写真、美しいと感じる心
 被災地の写真を見て、そこに美しさを感じることは、「道徳的に何か間違いを犯した気になる」と大竹は述べ、そこに「現代人の感情の萎縮」を指摘するとともに、人間の感情の本質を認める。そもそも美しさは、感情をきわめて限定した言い方に過ぎず、そこには悲しみも混じる。そしてその心の状態をもつことが自分を平静に保つ状態にもっていこうとする動きであると言う。

 写真家自身は、写真的な美学のもとで教育を受けてきた以上、美しい写真を撮ってしまう。「美しくない写真というのは無理しないと撮れない」(p. 245.)。ただし、それが写真である以上、「美しい」は、現実を見てそう言っているのではない。美しい・美しくない写真だと思うときの美しさと、出来事が美しいかは次元が違う(p. 245.)。あくまでも写真は表象物であり、人は、「ここにこうしてある表象物の状態で見る出来事が美しい」(p. 245.)と言っているのである。とはいえもちろんそれは簡単に切り離せる話ではない。そこに「写真の問いの深さ」(p. 246.)がある。

 震災は、「現実存在が持ってしまうどうしようもないなまなましさ」(p. 255.)が写真の中にもあることを露呈した。陸前高田の写真を見せることは、「僕が持っているさざざまな背景を同時に見せている」(p. 256.)ことになる。そして写真を撮る行為も自分自身のためとは言い切れず、誰だかわからない誰かを措定することが多くなっている。こうしたことを含み込んだ意味の変形が時を経るなかで行われている。