本田美和子、イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ

 ユマニチュードは、フランスで生み出された、高齢者、とりわけ認知症の人へのケアの技法である。ユマニチュードという言葉は、人間らしくある状況を指す造語で、フランス領マルチニック島出身の詩人・政治家エメ・セゼールが「黒人らしさ」を価値づけるために作ったネグリチュードに想を得ている(p.5.)。

 ユマニチュードとはケアの技法であり、同時に「人間らしくある」ための哲学的洞察である。ユマニチュードは「精神論」ではなく(p.34.)、哲学に基づいた技法の実践である。哲学と言っても、難解なものではない。その問いはきわめてシンプルであり、根本的である。それは人間とは可能性をもった存在だということにつきている。可能性とは具体的に何かができるような能力が身につくという意味ではない。私たちが生きていると確証を得られるのは、今とは別のあり方ができる、変化しうると実感できたときである。もし私たちが不動であるならば、もはや時間も流れず、永遠の不変となってしまうだろう。それは死に等しい。

 この生の可能性は、ユマニチュードの実践技法では、「立つ」ことの重視として現れる。寝たきりの高齢者の立つ能力を見極めること。立ち、歩けるようになると、「再び生きる意欲を賦活し、人間としての尊厳を保つ」ことにつながる(p.142.)。生とは動くこと=変化なのである。「生きているものは動く」「動くことが生きていることだ」を当たり前に受け止めることがケアの文化を育てると、筆者たちは言う(p.30.)。

 生、可能性、動き、これらの人間の根本条件を尊重して、ケアを行なうためには、ケア自体の評価、レベルをきちんと見定めなくてはならない。このケアの「中心に位置するのはケアを受ける人とケアをする人との『絆』」である(p.34.)。

 絆とは何か。筆者たちは、生まれてくるという生物学的な第1の誕生と、「自分が哺乳類・ヒト科に属していると認識する社会的な生」、これを第2の誕生とよび、それを以下のように説明する。

周囲から多くの視線、言葉、接触を受け、2本足で立つことで人としての尊厳を獲得し、自分が人間的存在であると認識することができます(p.36.)。

 そして、ユマニチュードのケアは、病や障害によって崩されてしまった人間の尊厳を再び取り戻すための、第3の誕生のための技法である。その技法には「見る」「話す」「触れる」「立つ」の4つの柱がある。これらの行為を貫くユマニチュードの基本理念は、強制ケア・抑制を行なわないことである。この認知症ケアが教えてくれることは、実は専門家、職業人のためだけの特殊なものではない。私たちがたとえ病を抱えていなくても、他者と人間らしく生きるための、そして他者を支配しないための根本的条件なのだ。

 「相手をみない」ことは「あなたは存在しない」というメッセージになる。たとえ相手の反応がなくても、自分が行なっているケアの様子を言葉にすることは、相手がいることの確証になり、ケアをする者も自らの中にエネルギーを蓄えることになる。触れることは、相手に優しさを伝える技術である。そのために具体的には手首をつかんだり、わきに手を入れたりしてはいけない。これらの行為は、連行に等しいからだ。そして立つことは、すでに述べたように人間の存在の確証でもある。

 こうした行為を通して、ケアをする人とケアを受けるひとが心を通い合わせるようになる。この心のプロセスについても筆者たちはあくまでも精神論ではなく技法として、細かな実践を明示している。1.出会いの準備、2.ケアの準備、3.知覚の連結(見る・話す・触れるの情報のうち2つ以上の感覚を使う)、4.感情の固定、5.再会の約束、という5つのステップにわけているが、それらはいずれも、私が存在していること、あなたが存在していること、そしてお互いの存在に気づくことを根本においている。仕事に来たのではなく、あなたに会いに来たと伝えること、ケアの行為は、心地よい体験だと実感してもらうこと、その心地よさ、気持ちよさを「感情記憶」として残すこと、そしてまた、同じ体験をしましょうと約束すること。これらはいずれも、環境の中で生まれる人と人の絆であり、お互いが人間らしくいられる、尊厳のための関わり合いなのである。

 確かにこの本を読んでいると、果してどこまで現実的にこうした技法が使えるのか疑問が浮かぶだろう。だが、効率を求めることが、時に人をモノとして扱うことになってしまうことに私たちは敏感でいなくてはならない。人が、自分が生きていることを肯定し、自分を大切にできるのは、相手が、自分を取り替えのきかない存在として、見つめ、話しかけ、そして共にあろうとしてくれるからだ。病院も会社も人間のかけがえのなさを忘れたとき、それらは工場と化する。それは手首をつかまれて、引きずられるときに心に生まれる痛みと傷の感覚を生む。

 ユマニチュードは、この現代社会において人間の尊厳を回復するための、人間らしくあるための哲学的思索と技術的実践なのだ。