Paul Ricœur, La souffrance n'est pas la douleur (1992)

現在はClaire Marin, Nathalie Zaccaï-Reyners, Souffrance et douleur. Autour de Paul Riœurに収められている講演である。

 「苦しみは痛みではない」と題された講演で、リクールは臨床医学と現象学を相互補完的に用いながら、苦しみを被り、苦しみに耐える人間存在について考える。痛み(la douleur)は、体の特定の場所、あるいは全体に位置付けられる感覚である。それに対して苦しみ(la souffrance)は、「反省、言語、自己との関係、意味そして問いへの関係」(la réflexivité, le langage, le rapport à soi, le rapport à autrui, le rapport au sens, au questionnement)へと通ずる感覚である。だが実際にこの二つの感覚を峻別することは難しい。

 リクールは苦しみの現象、苦しみの表れ(記号)を論じるにあたって、二つの軸を提案する。ひとつは自己と他者の軸、もうひとつは行動と受苦の軸である。
 
1. 自己と他者の軸
 まず苦しみの事象は自己の存在を強く意識させる。「私は考える ゆえに 私はある」のような「思考と存在」の関係ではなく、「私は苦しむ - 私は存在する」の「苦しみー存在」の直接性がその特徴である。また私が苦しむとき、もはや周りの世界のことは考えられなくなる。表象の地平としての世界は消え去ってしまう。現象学的にいえば、「苦しみの中で冒されるのは、何かへと向かう志向性」(ce qui est atteint dans la souffrance, c'est l'intentionnalité visant quelque chose)である。苦しみの中で自己は自己自身の中に閉ざされるが、他方で、他者との間には否定的関係が生まれる。それは他者から離されるという関係である。1) 苦しむ人間は単独者であり、誰かと代わることはない 2)苦しみは孤独であり、他者にはわかってもらえないし、手助けもしてもらえない 3) 他者は侮辱や中傷によって私を苦しめる存在になる 4) 自分は苦しむために選ばれたという感情をもつ。

 そして苦しみは、外からやってくるだけではない。苦しむ本人が作りだすことがある。例えばフロイトが「喪とメランコリー」で述べているように、愛する対象を喪失しても、その対象を手放すことができず、主体は自己を執拗に責めることになる。

2. 行動と受苦の軸
 苦しむとき、私たちは行動することすらかなわなくなる。リクールは『他者のような自己自身』で論じた4つの動因レベルを引用する。話す、する、語る、そして道徳的帰責性である。苦しむときは、まさに、言うことができず、することができず、語ることができず、そして自分を道徳的行為者として認めることができない。

1) 言うことができない。苦しみという目に見えない感情はどのように表されるのか。体であれば、身振り、顔の表情に、そして涙や叫び声で表象される。言いたいという気持ちと言えないこととの間には亀裂が生まれ、そこに嘆きが生まれる。嘆きは自己から発され、他者に向かって、頼みのような形式で投げかけられる。

2) することができない。苦しみには行為と呼べるものはあるが、それは「耐える」行為である。その意味で、行為は苦しみの受動性を表すことになる。この「耐える」を自己と他者の軸に投影すると、行為者と受動者の関係が浮かび上がってくる。苦しみにおいては、自分とは何かの被害を被る存在と感じられる。この感情が極度に高まれば、ハーバーマスのいう「コミュニケーション活動」において、「破門」という危機に陥る。

3) 語ることができない。リクールにおいて、自己同一性の構築には、自己の生を語れることが必要であり、自己を理解するとは、自分について理解可能で受け入れることのできる物語を語れることと等しい。苦しみの状態にあると、私たちは、語りの糸から切れて、一点に集中する。この一点とは現在とは異なるものである。アウグスティヌスが言うように、現在とは記憶(過去の現在)と期待(未来の現在)と注意(現在の現在)の三重の現在を含みこんでいるが、一点はこの時の持続から切り離されてしまう。このことによって苦しみの語りは、自己同一性を保つための物語の語りから変質してしまう。

 そして他者との関係もまた同じく変質する。なぜならば、自己同一性の物語が純粋に自己だけの語りに閉塞することはありえず、自己の物語は他者の物語と絡み合っているからである。苦しみにおいて断ち切られるのは、この他者との相互的な語りの「生地」(tissu)である。

 ここでリクールはフロイトの想起と反復の問題にも触れている。想起が過去を回想し、それを物語ることで自己同一性をはかる働きだとすれば、反復は「意識の統制を失った無意識的な繰り返し」(小此木啓吾『フロイト思想のキーワード』であり、それは回想の作業と対立する。

4) 自分は苦しむために選ばれた=自己評価の不可能性。自己への敬意は、その人間の尊厳に関わる。「苦しみに適応できるようになることは尊厳の一部分をなす」とJean-Jacques Kressは述べている。

 苦しみにおいて人は、自己への敬意とは逆に自己を貶める。特に親しい人を亡くしたときの後悔と罪の意識である。臨床ではこの苦しみと罪悪感を分けることが必要となる。そしてこの状況が進めば、「解離」という症状にまで至る。

 精神分析と現象学が交差するのは、かつて「魂の情念」(les passions de l'âme)と呼ばれたパトスと病理の中間領域である。行き来という運動を示す情動(émotion)、事物に対する好悪の繁栄となる欲動(pulsion)と異なり、情念(passion)は、絶対化された対象に対する欲望を意味する。それゆえ、その対象の喪失は全喪失となり、情念を持つ者は二重に苦しむ。ひとつは手に届かぬものを求めその代償は計算できないほど高いという意味において。もうひとつは目的を失うという意味において。この意味で人は幻想にも幻想から醒めることにも苦しめられる。

 さらにリクールは妬み(l'envie)と復讐(la vengeance)というふたつの情念に言及する。ルネ・ジラールは妬みを「私は、他者が持っているものを持っていないことに苦しむ。なぜならばそれを持っているのは他者で私ではないからだ」と苦しみと関連づける。復讐は罰することと関係する。

 3. 苦しみが考えさせること
 まずリクールは苦しみは問いかけるという。苦しみの嘆きは問いかけとして表される。「いつまで?なぜ私か?なぜ私の子供が?」というように。これらの問いかけはもはや説明の枠組みにはない。これらの問いかけは正当化を求めている。

 苦しみは、苦しみの受動性に目を向けるとき、倫理的で哲学的な領域で問われる問題となる。苦しみは悪の形象のように判断される。また悪には「過失の悪」「道徳的悪」だけではなく、ライプニッツ的意味での「自然悪」もある。この場合は「被害存在」と「罪ある存在」を分けなくてはならない。ヨブ書の議論が示すように、被った悪は犯された悪には還元できないのであり、「被害者」であっても「罪はない」のだ。しかし、私たちが苦しみを悪と呼ぶ時、苦しみは過誤とともに、存在するが存在しては何かとして現れてしまうのである。「存在すること」「存在すべきこと」はまさに哲学的問いとなる。「なぜ苦しみという存在してはいけないものが存在しているのか?」。倫理的は形而上学的問いとなる。

 次にリクールは苦しみは呼びかけるという。これまで見てきたように苦しみの中の私は他者とは別離の状態にある。それにもかかわらず、嘆きは他者への呼びかけ、他者への頼みとなる。もちろん私たちはともに苦しむという呼びかけに実際上は答えることはできないであろう。苦しみとはまさにその意味で「与えるー受け取る」の限界に位置する。しかし希望として、ヤン・パトチカが呼ぶ「震撼させられた者たちの連帯」がありうるのではないだろうか。
 もう一度苦しみの最初の意味「耐える」に立ち戻れば、それは「あることの欲望」と「...であるにもかかわらず存在しようとする努力」のうちに耐えることである。この「...であるにもかかわらず」が痛みと苦しみの最後の境界である。