アディーチェ「半分のぼった黄色い太陽」は、ナイジェリアで独立を目指したイボ人によるビアフラ戦争の始まりから終結までを主人公の「私」とその家族を基軸に描いた短編である(同名の長編もある)。ナイジェリアには、大まかに言うならイスラム教を信仰するハウサ人とキリスト教を信仰するイボ人がいる。ただ、このように書くと、あたかも民族紛争による戦闘と虐殺が起こったような印象を与えてしまうが、ここで思い出すのはツヴェタン・トドロフの指摘である。トドロフは宗教を原因とする戦争はありえず、原因となるのは資源の奪い合いであると言明している。ビアフラ戦争にもその原因に石油資源があったことは無視できない。

 この短編を読んでまず気づくのは、民族や国籍が私たちに本質的に内在するものではないという事実だ。作品冒頭で独立が宣言され、人々は「わたしたちはもうナイジェリア人ではなく、ビアフラ人になったのだ」と実感する。そして小説の最後は「わたしたちはまた、ナイジェリア人になっていた」の一文で締めくくられる。国籍とは本来的に付け替え可能なものである。しかしこのレッテルに過ぎない呼称が、いとも簡単に人を虐殺する根拠にもなってしまう。

 ナショナリズムは人々を高揚させ、一体感を醸し出す。国家の創出は感情の錬金術を演出する。主人公の恋人ニャムディは「俺たちの苦しみを大いなる国に変えるんだ。苦しみをアフリカの誇りに変えるんだよ」と強く訴える。これまでの虐殺による悲しみ、喪の感情は、栄光の喜びへと簡単に転化する。個人の消えぬ負の感情は民族の誇りと優越性のなかで、タブーとされ、かき消されてゆく。

 だが独立分離を守ろうとする民族軍は、圧倒的な軍事力に背後から支えられた連邦軍の前で劣勢に立たされてゆく。それでもメディアは民族の勇敢さしか伝えない。封鎖によって物資が不足すれば、「ココナッツオイルからブレーキ液を作る」など、普通に考えれば無理なことも、みなでいそいそと取り組むことになる。

 小説では、歴史的叙述はほとんどなく、どのような政治力がこの戦争に働いていたのかは語られない。ただ当事者として、主人公と家族が「難民化」してゆく過程が具体的に描写される。びっしりとハエがたかる黒い斑点が浮いた市場のバナナ、防空壕の中で子供たちがみつめるコオロギやミミズ、そうしたディテールから戦争の本質が浮かび上がってくるのが文学の特性であろう。

 もはや敗北がせまっていることを感じながらも、都合のよい情報だけを取捨選択し、現実を見つめない。「人はどんなものでもひどく自分本位に使うように」なる。目の前の死体は、敵の死体であり、その兵士がどのような人間であったのか、どんな家族だったのか、主人公以外はそのようなことを思ってもみはしない。現実を見つめないとは、まさに個別具体的な目の前の存在を見つめないということだ。見えているようで見ることを拒否する態度だ。

 さらに戦局は悪化していく。ビアフラでは子供たちを兵士として徴用するようになる。主人公の弟オビが死ぬ。そして終戦。「戦争に負けた、とパパが言った。そんなことはいうまでもなかった。とうにわかっていた」。私たちは知らないのではない。実はうすうす感じているのだ。いや実は心の中ではわかっているのだ。無知だからではない。わかっていることを意識にのぼらせない努力をした結果が戦争を招来するのだ。