2015年に出版された本のなかでもっとも感銘を受けたのは直野章子『原爆体験と戦後日本 記憶の形成と継承』(岩波書店)であった。French Bloom Netという「フランスの情報化を目指す」共同ブログのベスト本企画で、本書について次のように紹介した(当該記事「FRENCH BLOOM NET 年末企画(3) 2015年のベスト本」へのリンク)。
被爆者とは誰か。彼らの言葉に寄り添い、学者として資料=体験談を読み込むことで、法的、社会的言説によって翻弄された原爆体験者たちの人生から、何を受け継ぐべきかを考察した論考。原爆体験記を丹念に読み込みながら、著者がすくい出したのは、歴史言説からは落ちこぼれてしまう一人一人の言葉、すなわち「お国のため」や「平和の希求」といった大義へと体験の記憶を社会化、歴史化することを拒む言葉であった。それは本当にあったのは惨苦の、悲しみの言葉であり、喪の永続である。
被爆者とは、原爆被害者と同義ではない。被爆者は、時の言説によって、作り上げられてきたものである。被爆者はある一定の歴史的プロセス、言説の場のなかでのみその都度「画定」されるのであり、絶対的な被爆者がいるのではない。この考え方は、これから戦争を、原爆を「直接体験した」人々がいなくなる現在において、きわめて重要な考え方である。
今回の論考は、現代思想8月号『<広島>の思想』に寄稿された、注をふくめて12ページの小論である。タイトルが示すようにここでは2つのことが問題とされている。今触れた被爆者とは誰かという問題。もう一つは謝罪が一切含まれなかったオバマの演説である。まずは後者から触れたい。
「謝罪不要」の論調は、アメリカ国内ではもちろんであるが、日本国内においてもオバマ来訪前からすでに形成されていた。その上でのオバマ演説である。100名足らずのきわめて限られた聴衆を前にして、語ったその内容は、『「人類」という普遍的な主体性」、「『自由と民主主義』という普遍的理念」が強調されただけに終わった。このような「核の普遍主義」の強調が、責任の所在を問わない、謝罪を問わない姿勢と裏表になっているわけだが、それは自らの戦後責任を逃れたい日本にも好都合であった。それゆえの事前の謝罪不要論の高まりであった。
また、核兵器廃絶という意思表示は、それだけで平和への希求、戦争防止に結びつきやすく、核に依りはしないが、実際に他の場所で、他の方法で行なわれている、暴力や殺戮からは関心が薄れてしまう。
そして、前者、「被爆者という主体性」の問題である。これは上述したように、被爆者の主体は「原爆体験を形成する言説や制度によって」歴史的に変動してきたという、ひとつの過程において理解されるべきである。
この主体の変動性を考えないかぎり、私たちは体験の絶対性というもはや触れることも、解釈することも許さないひとつの聖域を作ってしまうことになる。体験者と非体験者に境界線を引くことによって、私たちは、当事者ではなく、「当事者の声を聞くもの」として、受動的な立場に追いやられてしまう。
だが、この論考で指摘されているように、被爆者の主体が、歴史形成的、言説形成的なものであるならば、その本質は固定化されたものではなく、今現在の社会において、たえず関係を結び直していける動的なものである。私たちが、「ふたたび被爆者をつくらない」ために行為者として立ち上がるとき、意志をともにする「体験者=被爆者」と、その人々に同伴する私たちに絶対的な際はないはずである。体験の絶対性を神話化することなく、かつ私たち自身を主体化させるとき、社会にひとつの動きが生まれ、共同と共感の行為が始まるのではないだろうか。