筆者によれば、芸術観賞には2つの態度があると言う。ひとつは主観的・現代的享受、もうひとつは客観的・同時代的理解である(p.93.)。後者は、当時の時代状況、作家の意図、様式の特徴などの知に基づいて作品にアプローチする学問的方法である。この場合、私たちは無知から出発し、私たちの外にある知を手に入れることが、作品の理解だと考えている。
それに対して前者は、見ることから出発する。だが注意しなくてはならない。見るといったときの観賞行為とは「視覚の冒険であり、頭の体操であり、心の遍歴」である。すなわち、ここには持続があり、思索があり、見た後に体験が形成されていくということだ。その意味で、単に見て、美しいものに触れたと言って感動して、絵の前を通り過ぎることでは全くない。それは筆者に言わせれば「陶酔」に過ぎないのだ。陶酔とはことばの要らない状態である。ことばがいらないので、見ているだけで、見つめてはいない。見つめていないので、作品との対話がない。ただ主観的に満足しているだけで、他者との回路もひらかない。
見るとは持続的な行為であり、持続のなかで、自己の体験と重ね合わせたり、自分なりに味わってみたり、あるいは想像を働かせる能動的な行為なのだ。
正解のある知識を詰め込むのではなく、見るという能動的な行為によって、自分なりの解釈、そして言葉を生み出せるように誘うのが「観賞教育」である。この本の魅力は、観賞教育の理論的意義を、具体的な実践によって解きほぐして展開している点にある。幼稚園児から大学生まで実践例は幅広いが、モネの『睡蓮』を見た幼稚園児が「かえるがいる!」と絵を指した例は興味深い。ここで幼稚園児は描かれていない睡蓮の水の中を想像しているのである。芸術行為の条件のひとつは、見えているものを通して、不在なものを喚起することにある。なぜならば、そのような喚起こそが、意味の多様性、世界の豊かさを私たちの前に提示してくれるからである。これこそが筆者の言う思索的・能動的に見るということであり、この実践こそが観賞教育なのである。
筆者はこうした能動的な見る行為は、映像メディアが発達した現在でこそますます重要性を帯びると指摘している。なぜならば、私たちは自ら見つめる必要なく、カメラに移されたものを見てしまえるからである。しかも問題はそのカメラの視点は、「他者に誘導された」ものであるにもかかわらず、それを意識していないところにある。私たちは誰かの目を「追認」するだけで、自ら考えようとはしない。だが「見ることは、本来、探索的であり意味構築的な行為」(p.171.)である。
そしてこれが教育実践である以上、もう一点重要なことがある。それはこの教育実践が対話によって成り立っている、すなわち、見つめることによって主観の中に生まれた思索は、ことばによって表現され、他者の前に現れる。それが他者によって咀嚼され、表現は広がり、修正され、協働作業を通して、意味が深まってゆくのである。
絵画鑑賞は趣味ではない、趣味の世界では自分を満足させることばさえあればよい。いや、ことばさえなくとも陶酔の体験があればよい。絵画鑑賞は知識の充足でもない。知識という言語はすでに私たちが考える前から外部に厳然と存在しており、私たちはそれを受け取るだけである。絵画鑑賞とは、「美術作品と鑑賞者が引き起こす現象」であり、「作品と鑑賞者の総合作用よって」、意味が生成されるのである(p.94.)。そして観賞教育とは、他者との相互作用の実践であり、その対話を通して意味がやはり生成される、社会構成主義的行為なのだ。その意味で観賞教育とは、ひとつの創造的営為なのである。
Éthique et Infini『倫理と無限』は、仏ラジオ局France Cultureで放送された対談をおさめている。第1章はBible et Philosophie「聖書と哲学」である。レヴィナスにとって聖書と哲学書は対立するものではなく、実はそれらを読む行為がそのまま解釈行為になるという意味において、とても近い存在である。
そもそもレヴィナスにとって、宗教や哲学そして本人の知的形成に寄与した文学(シェークスピア、19世紀ロシア小説)、そして研究の出発点で出会った社会学(デュルケム)に置いても、書物を読むということは、決まりきった知を、固まりきった信仰を受け取るためではない。書物とは私たちの存在の一様態であり、それは今ある現実を、今ある我々自身を越えて、「存在するのとは別の仕方」で存在することを可能にする。
考えることはこの別の仕方の存在を生み続けることだ。レヴィナスは対談の冒頭で「考えの始まりには何があるか?」と問われ、次のように答えている。
Cela commence probablement par des traumatismes ou des tâtonnements auxquels on ne sait même pas donner une forme verbale : une séparation, une scène de violence, une brusque conscience de la monotonie du temps.
それはおそらくは、私たちがことばという形を与えることさえできない外傷(トラウマ)や手探りな状態から始まるのです。別離、暴力的な場面、時間の単調さに突然気づいたときに。
ここではもちろん、ことばにできない体験があると言って、表象不能な体験を保存しているのではまったくない。これらの体験は問いかけの対象となり、思考の始まりとなるのである。むしろ既存の知識の枠内に保存してしまうのではなく、それらを取り払って、あらためて志向する、現象学的態度を問題にしているのだ。
ただ、レヴィナスにおいて現象学とは学派の意味ではなく、おおよそ彼の思想の根本的態度を意味している。既成のものとして乾いて固まってしまった現存から離れ、忘れられた思念の地平まで遡ること。存在について問い直すことが現象学的態度であり、そこにまた問いが生まれてくるのだ。「あるものはどのようにしてあるのか?」「あることの意味は何か?」と。
聖書にむかう態度も同様である。聖書とは解釈の対象であり、解釈にゆだねられ、意味を生んでゆく豊かな深みをたたえた書物だ。上に述べたように、おおよそ読むとは解釈をすることであり、そこに意味と思想が生まれてくる。そして偉大な哲学者の書物もそうした読みを可能にする。
さらにこの根本的態度はベルグソンとの関係にもあてはまる。レヴィナスにとってのベルグソンの時間論は、時間がリニアで同質なものへとは還元できないことに大きな意味がある。そのような時間は、レヴィナスにとっては新しさの可能性のない、未来への可能性のない世界に身を置くことであり、それはすべてがあらかじめ決められているような、かつての決定論が支配する世界に身を置くことに等しい。
レヴィナスの思想には常にこの生み出すこと、生み出す運動によって、自らが可能性の中で変化すること、言葉や知によって固められた客観性から自らを解き放ち、自己を創造すること、すなわち「絶えざる刷新」があるのだ。だがそれは飛躍的な信仰、神秘的な精神性によるのではない。あくまでも知性を厳密に適用し、書物との対話のなかから批判に耐える解釈を生み出すこと、それによってはじめて「新しさ」が生まれてくるのだ。新しさは、刹那的な突飛なものではない。人間をたえず新たな可能性へとひらいていく新しさとしてそれはある。
ロックに惹かれる理由は、結局のところロックというジャンルが曖昧で、雑食であることにつきている。クラシックでもジャズでも民族音楽でも、ロックっぽく演奏することができる。その意味でさまざまなジャンルの音楽を浸食してしまうのがロック。でも何でもありだからといってそれでよい音楽ができるわけではない。ロックミュージシャンの優れた人は多かれ少なかれ、優れた探究者でもあった。
今のロックの世界でその探究を最もどん欲に進めているのがデレク・トラックスではないだろうか。そしてそのロックの探究を頭でっかちではなく、あくまでも心地よい喜びの生まれる音楽として実現したのがこのSonglinesである。このアルバムではジャズ、ソウル、宗教音楽、民謡、さまざまな伝統を持つ音楽が、デレクによって解釈され、演奏されている。他人の曲でありながら、そしてライブでもないのに、とても生き生き感じられるのは、まさにかれらがジャム・バンドであり、メンバーのやり取りを通して音楽が今ここで生まれているからだろう。
1曲目はローランド・カークの曲だが、まずタンバリンから入り、パーカッションが重ねられた後、デレクのスライドが切り込んでくる。そしてかなり黒いコーラスがアルバムの開始を告げる。そして、ドラムの一打で次の曲へと移る流れが心地よい。この2曲目はデレクとプロデューサーとの共作。曲の間で、ドラムがリズムを刻みながら、キーボードが全面に出て、ワンクッションあいた後にギターのソロが始まるところなど、バンドの一体感を生き生きと感じる。
3曲目はブルースナンバー。4曲目はイスラム宗教音楽のヌスラット・ファテ・アリカーンの曲のメドレー。10分近く続くインストゥルメンタルの曲なのだが、この曲こそ、アルバムの中でもっとも挑戦的で志の高いデレクの演奏が堪能できる。最初のシタールようなギターの演奏から始まり、1つのフレーズが、変奏されながら、バックのドラム、コンガと呼応する。フルートの音色もまざり、演奏が次第に熱を帯びてくる。そして最後は熱狂的なリズムへと変調し、ゴスペルにも似た密度の高い演奏へと、ハンドクラップとともに一気に上り詰めていく。この曲は実際にはロックには聞こえないかもしれない。しかしイスラムやインドという地域に限定された音楽ではなく、音楽そのものが普遍的にもつ高揚感を実現しているところにロックのスピリットをひしひしと感じるのだ。この解釈はアルバムの一つの到達点と考えてよい。
5曲目は、スライドギターによるディープなブルースナンバー。タジ・マハールが演奏する同曲のファンキーなブルースの熱気をここにも感じるが、こちらはずっとアコースティックな演奏。6曲目は、レゲエを下敷きにした軽快な曲で少しここでリラックスできる。そしてタイトな演奏のオリジナルの7曲目へと続く。8曲目はソウル歌手O.V.ライトの曲だが、ワウワウとエコーを効かせた面白い処理をしている。9曲目はオリジナルの楽曲。10曲目もオリジナルで、モロッコの民族音楽を意識したインストゥルメンタルだが、その音調をギターでしっかりと再現しているところが面白い。11曲目はグリーンスリーヴスの解釈だが、デレクの超絶ギターテクニックが堪能できる。12曲目はソロモン・バークのカバーだが、軽快な乗りで、デレク・トラックスがライブバンドであることを強く印象づける。とりわけマイク・マッチソンのヴォーカルが素晴らしい。そしてアルバムの最後はそのマイク・マッチソンの曲This Sky。やはり中近東風のギターフレーズが繰り返されながら、fly fly awayと歌われるように、だんだん空へと上がっていく開放感のある曲。
デレクがこのアルバムを制作したとき、まだ27歳であった。すでに十分なキャリアを持ちながら、さらに自分のギターの表現の可能性をとことんまで突き詰めた意欲的な作品である。この創造へのどん欲さこそロックだと呼びたい。