Paul Ricœur, Réflexion faite. Autobiographie intellectuelle (1995)

 Réflexion faiteは、Autobiographie intellectuelleと副題がついているように、これまでの知的営みを自らのことばで語った本である。現象学から出発し、テキスト解釈論を経て、歴史と倫理の問題へと至るリクールの思想の変遷が一貫性をもって、比較的簡素なことばで語られている。

・リクールと解釈学(23ページ)
 リクールがフッサール、メルロ・ポンティを読みながら分析したこと、特に後者の『目に見えるものと見えないもの』について分析の中心対象にしたのは、「プロジェ(すべきこと)、動機(行為の理由)、情動の衝動と慣習の交代によって刻まれる動き、絶対的非意志=性格、生命、無意識への同意」であった。

・構造主義批判(32ページ, 41ページ)
 リクールによるレヴィ・ストロースの構造主義への批判点はその思想の「主体なき超越主義」であった。特にディスクール言語学に着目することで、リクールは、1)記号の客観的支配の媒介と傷ついたコギトの意識、2)対話行為において他者を認めること、3)ディスクールのレフェランス志向における世界と存在との関係と、問題系をまとめている。

・メタファーについて(45ページ)
 メタファーは「言語が持つ、今まで存在しなかった接近によって意味を生む力。接近によって、これまでの意味の妥当性は論理性を欠くことになってしまったが、そこから意味論的な妥当性が生まれてくる」と定義される。

・読書という解釈行為。(48ページ)
 読書行為とは世界の再形象化であり、読者の存在する世界そのものの書き換えである。

・メタファー論(57ページ)
 第一段階として、日常言語のレフェランス機能は停止する。第二段階において、世界は操作可能な全体ではなく、私たちの生と計画、すなわち世界内存在の地平として現れる。世界が提示され、そこに住むことで私たちの自己の可能性もためされる。それは自己から離れ、テキストの前で、自己を理解する必然性として理解される。

・soiとmoi(59ページ)
 soiとmoiは対立する。moiは自己の主人であり、soiはテキストの弟子である」記号、象徴、テキストの媒介によって私たちは自己理解するその自己がsoiである。テキストを読むとは、moiとは異なる自己の生起の条件を受け取ることである。

・解釈と世界(74ページ)
 メタファーと語りの言述は、現実を再形象化する、その意味はこれまで隠されていた人間的体験の多様な次元を発見し、私たちの世界観を変形することである。直接、世界を変えるということではなく、世界の見方を再び形作るのである。フィクションにおいては、その世界の非現実生によって読者の経験を形成し直す。歴史は、過去の残された痕跡をもとに再び過去を構築していくことで、同じように経験の再形成化に寄与する。