Edouard Louis, En finir avec Eddy Bellegueule (2014)

 21歳のノルマリアンEdouard Louisの小説第一作である。ピエール・ブルデューの社会学理論、例えば文化資本はあまりにも決定論的であり、それに対する反抗としてこの小説を書いたと著者は語っている。

 実際、舞台はフランス北部ピカルディー地方の貧しい炭坑の村であり、この村で生まれた少年が、中学に入り、自らのホモセクシャルな様子から、屈辱的ないじめを受けるが、アミアンの高校で演劇を学ぶことを決心し、村を離れるまで、すなわち、庶民階級を離れて、「ブルジョワ」の階層へと入ってゆくまでが、描かれている。

 それは、小説の最後で、母親がお金を出して買ってくれたAirnessのロゴが入ったベストを、街のゴミ箱に投げ捨てる場面に象徴されている。

 父親は炭坑で働いていたが、過酷な労働から、背中を痛め、今は家で一日中テレビの前にいる。母親は、老人介護の仕事(それはほとんど下の世話として描かれる)に行くようになる。しかし、家庭を支配するのは男であるべきで、男が働けず、女が働きに出ることは、父親にとってのひとつの恥辱に他ならない。

 村全体をこの野卑な男らしさが支配する。それは、大酒(パスティス)を飲むことであり、暴力と喧噪であり、女を道具として扱うことである。その空気が最も濃密に凝縮されるのは学校という場所だろう。声が高く、話すときについ手がひらひらと動いてしまう主人公は「pédéホモ」と罵られ、他の生徒から痰をはきかけられ、暴力を受ける。

 自伝的色彩が濃く、この小説は、思い出を語るように1人称で書かれている。庶民階級から、アミアンという都市への脱出の過程は、主人公エディが、自らの存在と自らの性癖を関係づけていく過程でもある。だがそれは決して直線的ではない。

 小説に描かれるのは、「意志」と「肉体の欲望」の葛藤であり、「らしさ」という仮面をつけることへの試みと嫌悪の混在であり、他者からの蔑みの視線と自分自身への視線の間にあいまいな妥協点を見つけることである。そしてこの、絶え間のない引き裂かれの状態こそが、この主人公の、ときに病的とまで言える魂の繊細さを表現している。

 今ある自分から、そうではない自分へと移っていく、移動の軽やかさを価値づけたりすることでもない。また本当の自分を発見することでの自己肯定の証明でもない。小説の主人公は、10代の前半であり、名づけることばは貧弱であり、ときに相手の暴力に自分の存在をゆだね(しかし、痛みの忘却が自己崩壊の危険からの防御であることは忘れてはならない)、ときに自分の存在の確証を得るために、「女を利用する」ことで、精神的な暴力を行使する。だが、決心へとは至らない逡巡の表現に、小説の繊細さがある。

 性は私たちの存在に深く根ざしている。それゆえに、性への違和は、存在への違和であり、それは傷つきやすさとなって現れる。性が自明であることと、性が自明でない状態は、根本的に異なる。後者は、ためらいや迷いや、決定されないことのあいまいさに苦しむ状態だ。そしてその苦しみは、所属をたえず明らかにすることを求める社会の横柄な態度によってさらに倍加する。

 作家が書こうとしたのは、そのあいまいさであり、それは意識を鋭く研ぎすませることによって初めて表現を与えられる。その表現は、限りないの苦しみと快楽の横溢という生のあり方に私たちの意識をひらく強度を備えている。

Ben Watt, Hendra (2014)

hendra.jpg 気負うところのみじんもない作品だ。アコースティックギターを手に取ると、自然にメロディが流れてくる。その旋律にあわせて、仲間たちが、他の音をあわせてくれる。意気投合した彼らと一緒に演奏しているうちに、曲が完成し、そしてひとつの作品にまとめられた。音と音の調和と距離に、ミュージシャンたちの絶妙なバランスと関係を感じる。アルバムテイクとボーナスで収められたデモの差は歴然としている。

 10曲のうち、ベン・ワット一人で演奏している、5曲目のMatthew Arnold's Fieldsを除いては、他のミュージシャンが参加している。彼らの音作りが曲の発想に、十分な具体的な形を与えている。少し歪んだエレクトリック・ギター、アコースティックな印象を支えるアップライト・ベース、そして軽くリズムを刻み、軽快さを与えてくれるコンガ。

 たとえば4曲目のGolden Ratio。最初のアコースティックギターの音色は一瞬『ノース・マリン・ドライブ』かと思わせるが、その後にエレクトリックなギターの歪み音とベース音の生な音、そしてコンガのリズムが、メロディとテンポを練り上げ、ずっと熟成し、深みのある曲に仕上げている。

 確かに全体の印象はメランコリックであるが、その雰囲気と折り重なるように、感じるのは落ち着きや穏やかさである。そこには、50を過ぎて、感情の起伏にまかせて表現しなくとも、自分の納得できる音楽を作ることができるという、現在の境地があるのではないか。

Can you name a great fighter over forty-nine ? (Young Man's Game)

 人生も半ばを過ぎて、さすがに若いとは言えなくなっている。とはいえ老いるにはまだ早すぎる。時を経て、何かを過剰に意識することなく、自分に自然に向き合う準備=距離を持って向き合う準備が始まったのではないか。そんな態度で音楽を奏でようとすると、少し憂いを帯びた、少し枯れた音になるだろう。

 でもこのアルバムにはさまざまな若さがある。

 たとえば「シングル・カット」という表現がすぐに浮かぶようなSpring。ベン・ワットのシンプルなピアノの音が美しい。ベン・ワットの落ち着いた声が優しい。

My love, it's real
My love, it's not over (Spring)

 と歌われる、始まりの歌。And you can be one who shinesの歌詞のベン・ワットの高い声でshinesをのばす歌い方、ロバート・ワイアットをも思い起こさせて本当に切なくなるほど素敵な歌だ。

 そしてラストのThe Heart Is A Mirrorは、心の逡巡を描いている歌だと思うが、それは傷つきやすさではなく、悩みを抱えながらも、今を受け止めようとする決意へ至る逡巡だ。

So, come on my heart, where do we start ? (The Heart Is A Mirror)

 こんな心への向き合い方に、ベン・ワットらしさを感じる。

「ノスタルジック」は、耳に届いてくる、全体の曲調の穏やかさや澄明さにもあるが、こうした心の躊躇いを描くことのできるベン・ワットという人の音楽表現そのものの精神性にあると言えるかもしれない。