すぐれた人物描写とは、その人に語らせるのではなく、その人の内面によりそって、その人のことばにならなかった思いを誠実に言葉にすること。人は流れる時間の中で、立ち止まって自分の意識をいちいちことばにするわけではない。

 もっと日常的に言えば、私たちは、日々の生活で大なり小なりの決断を行っているはずだ。しかしその決断の理由をいちいち突き止めているわけではない。そしてそれほどの意識を払うことなく小さな行為と結果が積み重なっていく。

 しかしそれでも心が動いていないわけではない。それまでの体験が反映しないわけではない。そこには微細な心の動きや、過去のほんのささやかな思い出が作用することもあるだろう。ただ、私たちはそれをどこまで意識しているだろうか。

 ノンフィクションをかくとき、書き手は、その人物がかかえたはずの、細やかな意識の流れに謙虚でなくてはならない。それが内面によりそうということだ。

 その態度からはるかに遠いのが人を情報化することだろう。その最たるものが新聞の見出しである。

「文人肌、損な役回り」
「和解拒否で批判の矢面」

 あるいは週刊誌に踊った言葉。

「生まじめで家族思いで文人肌」
「文学青年の心持ち続けた官僚の自殺 優しさゆえ苦しむ」

 何と空疎な紋切り型の羅列だろうか。こうしたことばが紙面を賑わせ、やがて情報として消費され、そして忘れ去られる。

 しかしことばが始まるのはこの後からである。その人を理解可能だと思い込ませる空疎な文句が過ぎ去った後、丹念にその人の振る舞いや、ことばを表現してゆく営みが始まる。

 是枝裕和は、当時、環境庁企画調整局の局長であり、水俣病裁判の国側の責任をめぐって和解拒否の弁明を続け、そして1990年12月5日に自らの命を絶った、山内豊徳の生い立ち、文学に傾けた若いときの情熱を丁寧にすくいとる。夫婦の情景を、残された妻知子への取材から丁寧に描きだす。手紙、日記、詩作品の引用が、山内の性格や人となりを物語る。そして山内が入省したときから人生をかけて打ち込んだ、公害対策法案、福祉行政の取り組みを、引用しながら、その考えを明らかにする。

 ここには戦争で父親の亡くした日本人が、優秀なエリートとして官僚となり、戦後日本の経済発展とそれがもたらした公害という時代に誠実に向かい合った生き様が普遍性をもって浮かび上がってくる。

 是枝が引用する山内の著書の中でも次の一節は、福祉行政にかける山内の考えを凝縮していると言ってもよい。

毎日のしごとが、人間に出会い、人間のこころと生活に観察と働きかけを続ける作業である福祉のしごと、そうしたしごとに携わる職業人の心身の緊張と負担、そのことに耐えるだけの適応性は、まさに人間に対する関心と興味を土台とすることではじめて獲得できるものだからです。(p.163.)

「人間にたいする関心」を持てば持つほど、「職業は職業として割り切って自分の生活を」生きることは難しくなる。割り切ることの難しさ。それを是枝は山内の書いた詩の題名「しかし」から読み取る。

「しかし」とは現実社会に対して異を唱える抗議の言葉であり、青年期特有の潔癖さを示す言葉であり、理想主義を象徴する言葉である。(p.259.)

「しかし」は、今あるものではないもの、今あるものが「当然」であるとみなす一面的な考え方への異議申し立てである。だが山内の仕事上の人生は、この「しかし」がもたらす可能性を否定してゆくものであった。

この『しかし』という詩は知子(ー妻)が言うように、彼の人生観を凝縮させたものである。と同時に、自分の内部に対するある種の喪失感、その喪失に対する焦燥感を語っているという点においてもまた、最も山内らしいものである。(p.259.)

 喪われていくものは、山内にとって自らの最もかけがえのない部分だったのだろう。人は前を向いて生きるために、喪われたものを忘れようとする。喪ったことさえ忘れようとする。だがこの忘却によって成り立つ生は、仮構された生にすぎない。私たちは喪ったもの、あるいは「こうであったかもしれない」という可能性を含み込みながら、複雑な生を生きるべきなのだ。喪ったものとともに生きる。しかし社会によって課された官僚としての生き方は、そのような選択肢を山内に与えなかったのだろう。

 この山内の生き方について、是枝は「文庫版のためのあとがき」で次のように述べている。

番組を完成し、ノンフィクションを書き上げたあともずっと考えていたのは、山内豊徳という人間は、加害者だったのだろうか、被害者だったのだろうか、というひとつの問いについてだった。福祉にとっての理想主義が経済優先の現実主義に圧倒されていく、その下降線の時代を山内さんは必死で生きようとしたのだと思う。高級官僚としてその下降に立ち会ったという責任においては彼はやはり加害者側の人間だったと言わざるをえないし、又同時に時代の被害者だったと言える気がする。(pp.292-293.)

 これに続けて是枝は、「今という時代にこの日本と言う国で生きていくということは否応なくこの二重性を背負わざるを得ないということを意味している」と述べている。私たちは加害者にして被害者である。山内という一人の人間だけでも、あるいは今の日本だけでもなく、おおよそこの二重性は人間の生存の条件と言えるのではないか。生きるための条件ではなく、生きる上で必然的に抱え込まざるをえない私たちの生と引き換えの条件という意味である。

 私たちは社会で生きる以上、他者を多少なりとも傷つけ、迷惑をかけざるをえない。そして同時に他者に傷つけられ、迷惑を被らざるをえない。そのとき最も忘れてはならないのが、社会でもっとも多く傷つけられている人々のことであり、山内はそういう人々のために奔走したのではなかったか。加害と被害は程度の多少の問題だ。だが私たちは、加害性と被害性はともに私たちの中に存在しているという事実に目をつぶり、生活保護にしても社会保障にしても、あたかもこちらの被害は甚大であると言い立ててはいないか。

 生きることの複雑さ。それはこのような二重性という生の条件に求められるし、もう一つ、体験的過去と現在の自分との関係にも存在している。

 山内は50歳を過ぎて、町田に居を構える。それは自然豊かな場所であり、彼は花や土に愛着を抱くようになる。そして土への親しみをエッセイにして語ってもいる。しかしそれについて是枝はこう述べる。

彼が語る土へ親しんだ記憶とは、彼自身の手によって創られた偽りの記憶である。(p.190.)

 実際に、山内の子ども時代に「自然に身体ごと接した記憶はない」。だが、人は生きるために、過去の体験を自分なりに物語にしてゆく。物語の創造は生きるための作為である。物語が自分の人生に一貫性を与え、それによって安心を与え、人は生きられるようになる。

 山内は、父を戦争で亡くしている。母はまだ彼が小さいときに家を出ていった。その理由が何だったのか、また理由を本人が知っていたのかどうかもわからない。山内はそんな自分の子ども時代をどう捉えていたのだろう。そして家庭をかまえてから、自分自身の両親との関係は、どう自分自身の家庭に影響を落としているのだろうか。それを知ることは難しい。

 ただ一つだけ言えることがあるとしたならば、私たちの人生は決して子ども時代の記憶や体験にすべて支配されるわけではないという事実だ。あるとき、何かの態度に現れるのかもしれない。ちょっとした言い草には、過去の傷が残っているのかもしれない。しかし私たちは、生きている以上は、過去の記憶を現在に織り合わせいるはずだ。過去の体験と今が幾重にも織り重ねられ、どれがどの糸なのかはもはやわからない。だが、それが本当の体験なのか、作為による体験なのか、それを知ろうとしても意味はないだろう。本当も作為も含み込んでひとつの人生だからだ。

 この本を読んで、私たちが知ることは実は「高級官僚の生と死」ではない。ここに描かれているのは、一人の人間の生と死であると同時に、生きることの複雑さと、その複雑さを精一杯受け止めようとの誠実な生きる態度、そしてその複雑さを丁寧に綴り上げた是枝裕和の誠実さである。