近代(モデルネ)とは歴史上の区切りというよりも、むしろ歴史において、過去の枠組みを抜け出し、新たな段階へと進みだしている、それによって自分が自己変容を遂げているという意識そのものを指す。そのためこの意識は、歴史のさまざまな時点に現れる。キリスト教の支配する現代と異教によって支配されたローマという過去、その他、カール大帝の時代、12世紀、啓蒙主義の時代にも、人々は自らのモデルネと意識した(p.8)。
したがって芸術作品においても、モデルネの作品の特徴はその新奇さに求められる。とはいえ、真にモデルネな作品は、時代を越えて生き残り古典と呼ばれるようになる(p.9)。おそらくそれは常に新しさをその作品から汲み取ることができるということだろう。
こうした美的モデルヌの精神は、ボードレール、E・A・ポーから、シュルレアリスムの運動に明確に現れる(p.10)。この思潮は、アヴァンギャルド(前衛ー過去を否定し、新しさに価値を求める運動と言えるだろう)ということばで指すことができるだろう。アヴァンギャルドは、連続性によって存続する伝統を、そして伝統が成り立たしめる規範性を否定する。また歴史も時間的連続性によって成り立つ以上、アヴァンギャルドは反歴史的とも言える。
ただし、それは歴史そのものの否定ではない。ハーバーマスは、ヴァルター・ベンヤミンの「彼自身の時代が特定の過去の一時代と織りなす」星座的連関ということばに言及し、現在と、ある過去がある関係を取り結ぶことによって、過去は「今」によって充電されるとする。すなわち、今現在の新しさから眺めることによって、ある過去に初めて光りがあたり、現在から新たな意味を与えられるということだろう。それまで眠っていた過去が現在によって目覚めるのである。例えばシュルレアリスト、アンドレ・ブルトンによる幻視者ネルヴァルの評価といったことがあてはまるだろう。
ハーバーマスは、この美的モデルネの心性が、80年代を迎える頃には衰えてきていると指摘する。その理由は、アメリカ新保守主義の論客ダニエル・ベルに言わせれば、モデルネの文化と社会の乖離にある。ベルから見れば、アヴァンギャルド芸術とは「際限なき自己実現という原理、純正な自己経験への熱望、過敏なる感性という主観主義」(p.15)に他ならない。すなわち、芸術は完結した自己表現というわけである。そしてこのモダニズムは、「経済と行政によって合理化された日常生活における約束事や道徳的価値への敵対心を煽るものだ」と主張する。その帰結は、経済や社会に問題があれば、それはこのモデルネの文化に責任があるとするのである。
だがハーバーマスに言わせれば、このような見方はあまりに単純である。もし社会に問題があるならば、それは、「社会の近代化に対する反発に由来している」(p.19.)とハーバーマスは説く。それをハーバーマスは「社会の近代化が、経済成長や国家による組織的活動[行政や福祉]のもつ強制力に促されて、自然に生い育った生活形式の生態系に闖入してくる」、「経済的および行政的合理性にのっとった一面的な近代化が、文化的伝統の継承や社会的統合、さらには教育等の課題を芯に持つ生活領域に闖入してきている」、「対話的合理性の諸基準に依拠した生活領域に侵入してきている」(p.20)と表現する。
続いてハーバーマスは、ここまで芸術に限定してきたモデルネの概念を拡大する。マクス・ヴェーバーによれば、文化的モデルネは、宗教的および形而上学的世界像によって表現されてきた実体的理性が、真理、規範上の正当性、そして純粋性もしくは美に分化してしまったとされる(p.22.)。これらは「科学(学問)、道徳、芸術という三つの価値領域」に相当する。この分化によって、それぞれに専門家が現れ、その文化と講習の人々との距離が広がり、「日常的実践の共有物となるとはかぎらなくなってしまった」。結果、「日常の生活実践における解釈の積み重ねで自主的に継承されていく伝統から切り離されてしまったのである」(p.25.)。
つまり私たちのモデルネ的心性とは、不断の刷新である。過去との対話による自己革新、意味の生成であろう。しかしながら、これらの分化した諸領域は、それぞれが自律し、こうした運動が行われる日常から切り離されてしまったのである。
次に再び芸術の問題に戻り、美の自律志向をカントから辿る。美的なものの自律とは「日常の空間・時間構造からの離脱であり、知覚上や合目的的な行動が準拠する週間的約束事からの離反」を意味する。それによって、芸術制作と芸術鑑賞が制度化される。また、芸術家と批評家にとって重要なことが「自己理解」と「解釈」になってくる。
このように自律性が高まれば、芸術は私たちの生から遠ざかることになる。このことの一番大きな間違いをハーバーマスは次のよに
コミュニケーション的な日常実践の中では、認識次元での解釈、道徳上の期待、主観的な表現や価値評価は、相互に深く絡みあったものでなければならない。生活世界における相互理解のプロセスは、これら全領域にわたる文化的伝統を必要としている(p.32.)。
すなわち、近代社会で分化し、専門化してしまった社会のなかで、それぞれの自律性をやぶり、相互に深く関連しあわなくてはならない。社会と芸術が呼応し、道徳と芸術が呼応し、そのなかでさまざまな意見が形成される。その意見の不断の交換が、必要とされているのではないだろうか。 ハーバーマスは「素人でありながら芸術好きの役を選んで、自己の美的経験を自身の実人生上の問題に結びつけることもできる」と言う。作品と鑑賞者の対話の中で、自己の人生に表現を与えたり、世界に対する見方を変えたりする。その自己変容の可能性を芸術は持っている。そのとき美的経験は次のようにまとめられるだろう。
(...)美的経験は、もろもろの欲求に関する解釈をーわれわれが世界を知覚する光である欲求解釈をー革新してくれるだけではない。それと同時に、われわれの認識次元での意味理解や規範に関する期待のうちにまで浸透し、認識、規範、欲求というこれら3つの要因が相互に参照しあっているその関わり方をも変えていくのである(p.37.)。
美的経験は私たちの世界を知覚する方法に変化をもたらしてくれる。そしてあらたな解釈=新たな意味を構築してゆく契機となる。このとき「生活世界がそれ自身の中から経済的および行政的システムの自己運動を制限しうる諸制度を生み」出す可能性も生まれるのだ(p.39.)。
ハーバーマス「近代 未完のプロジェクト」――終わりなき近代を生きるために | Communication and Deconstructionを参照させていただいた。