「芸術作品は、どこに成立するのだろう」。論考はこの問いから始まる。芸術作品は永遠不変に存在しているのではない。ヤコブソンの問い「何が言語を芸術作品たらしめるか」と同じく、作品はある時、ある状況、作品と相対するある相手との関係において成立する。

 本論で能が対象となるのは、まさに演劇一般は、舞台で演じられるという意味において、具体的な時間のなかで成立するからである。また演劇は、音楽と同じく、脚本という、大げさな言い回しになるが、不変の物質的存在をもとにするが、それが芸術なのではもちろんない。実践そのものこそ芸術の対象となるのだ。

 この「生きて動く不思議さ」(p.41.)を知悉していた人物として持田は世阿弥を挙げる。世阿弥の能楽論に頻出する「花」の比喩を、「能芸の演技ないし舞台全体が観客に与える効果、授ける感動」と捉えた上で、持田は、世阿弥のことばを丁寧に解きほぐし、解釈を加えながら、芸術作品の成立の問題を考察する。

 世阿弥が用いる花の意味とは何か。花とは「観客が心に新鮮だ、意外だ」と感じることの比喩である。役者はそのために、演技を固定することなく、「変化と多様性」を目指すことが強調される。

 持田はここから世阿弥が花から簡単に連想される美に「ひとつの独立した特定の性質」(p.44.)を与えたり「絶対的な美的価値」を認めることはなかったと指摘する。すなわち、美がどこかに所与のものとして存在し、後はそれをいかに表現するかという美の普遍的存在論ではなく、美はそのつど生成されるものだと極めて動的に考えていたと持田は考察を加える。

 したがって「重要なのは(...)見る人との関係」(p.46.)であるが、だからといってそれは観客におもねることではない。持田は、世阿弥が芸術の成立には作者、作品の二項だけではなく、鑑賞者というさらなる一項が必要であると意識していたと説く。

 花の次に持田が取り上げるのが「成就」である。成就は「対立する二つのものの融和」(p.51.)であるが、この言葉は、晩年に至るまでたえず精緻化され、「序破急成就」としてひとつの思想に結実する。

 持田が論の中心に据えるのがこの「序破急」概念の思索の過程である。序破急とは能楽の構成上の「普遍的な文法」である。

序は導入部で、拍子にとらわれず自由でゆっくりした速度、破ではしだいに拍子がこまかになり舞も音楽も速度が早くなってゆく。急は結末の部分で、急速な拍子で演奏され、舞も音楽もクライマックスになって終わる。(p.54.)

 この序破急が、『花伝』、『花鏡』、『三道』、『拾玉得花』の中で、一日の催しの流れを決めることから、一曲のうちの構成、「一舞一音、一挙手一投足の瞬間」に至るまで、重要な概念となる。

 ここで重要なのは、序破急は能を書くための文法と言える一方で、『拾玉得花』では、その序破急が、上演の個々の瞬間に生成される極めて動的なものとして提唱されていることである。

 持田はこの序破急を「外的な時間の統一性」と「時間的展開の統一性」の二つの面から分析してゆく。

 序破急の「外的な時間の統一」とは、作品に統一をもたらすための構成のことである。持田は連歌と比較しながら、序破急に「収束と拡散の運動」(p.60.)を認め、また物語の進行において構成の頂点を終結部に配置したこと、作品の換喩的イメージに「作品全体を統一する」役割があることを指摘しながら、世阿弥の「統一への運動」とそこから生まれる「緊迫した時間の創出」(p.63.)を例示する。

 一方、「時間的展開の統一性」については、持田は「演能がたとえば生物の成長のように有機的、持続的な流れをなして生成し終結に至るということである」(p.64.)と説明している。つまり静態的な形ではなく、切れ目を入れることはできない、流れの首尾一貫性が統一と捉えられる。それを持田は世阿弥の言葉を解釈し、「物事がしかるべき順序をたどり、本来的な経過をへて落着する」(p.65.)ことだと言う。この「時間・展開・統一」が能楽における芸術の根拠となる。

 つまり能楽では、時間の長短にかかわらず、ある必然的な生成の過程を踏んだ上での全体としての完結性というべきものが重視されていると考えられる。

 したがってある一部分だけを観ることはありえない。前半にいくら退屈な部分があったとしても、それは全体の欠くことのできない一部であり、それがあってこそ、後半の早舞の終結の効果が得られるのである。

 さらに持田は、序破急が能役者の一生の稽古のあり方についても使われていることに言及し、序破急は最後に至るまでの質的変化の過程であり、「全体の正否を決するものは、最終段階の急の部分だ」と指摘する。人間は老いる。それは老醜とも言えよう。芸の新たな道を拓こうとすることは、自らを初心=未熟者とみなすことである。老に至って醜を自覚し、同時に未熟であることに自らの身を恥じること。この究極な「危機」こそ芸術家の真実だと持田は言う。

 また芸術家の一生が長い序破急だとすれば、音曲の謡いはごく一瞬の序破急である。しかしひと声の中にも成就があり、謡の止め方に全体が完成するかどうかがかかっている。

 能の演技も同様である。世阿弥は「先ず聞かせて後に見せよ」と言う。まずは言葉、一刹那ずれて舞台上の所作振る舞いへと移る。この一刹那の流れが重要であり、流れ=生成、すなわち「持続する時間のなかで生物のように生きて動く完結性」こそ、世阿弥能楽論の本質なのである。

 持田は世阿弥の序破急を通して、そこに芸術作品一般の成立条件、さらには人間の制作行為の根本を見いだす。序破急は過程を踏まえた目的へと成就する一連の流れ=生成である。世阿弥は、序破急を日常生活にまで応用し、たとえば人への返事にもこの流れでなくてはならないと説く。しかるべき過程を通して、相手に返事を届けることが目的成就である。さらには動物についても「動物の形態は、目的へ向けて必然的に落着したかたちの理想として引き合いに出されているのである」(p.80.)。

 世阿弥には芸術から世界へと広く一般に「一切の成功した形態には序破急が先立っている」と考えた。持田は、世阿弥においては「ある」ことと「つくる」ことの一致に世阿弥の芸術構成の原理があったと結論づける。

 能は確かに型の芸術である。だがそれは固定された約束事の反復ではない。型は普遍ではなく、その場において一回限りの生成の成就として型が生まれ続けているのである。持田は、「型から少しはずれたところ」に「言語化し得ない実体」が生じると言う。それが創造的行為と呼びうるものなのだろう。型を踏襲しながら、その型を忠実に反復するのではなく、何かが生まれている/成っていると私たちに思わせるとき、芸術制作は創造となるのだろう。