荒川洋治『詩とことば』(2004, 2012)

この本を読み終わって、ふと書名は『詩といのち』ではないかと勘違いした。

まず選ばれた詩に生と死にまつわるものが多い。石垣りんの詩「くらし」。

食わずには生きてゆけない
(...)
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。

食は他のものの死によって自己の生を確保するための営み。

ヨシフ・ブロツキー「ジョン・ダンにささげる悲歌」

ジョン・ダンが眠った 彼のまわりのものがみな眠った

 詩人のいのちが絶えるとき、それに応えるかのように身の回りのものもみな自らのいのちを終える。詩人の死が、詩人を取り囲む物々のいのちをも消してゆく。

草野心平「婆さん蛙ミミミの挨拶」

地球さま。
永いことお世話さまでした。
 
さやうならで御座います。
 
ありがたう御座いました。
さやうならで御座います。
 
さやうなら

 充足した生と、その生を生き切ったことへの素直な感謝の念。本書のテーマとして「いのち」は標題に掲げられていない。しかし多くの詩作品の内容はいのち、生と死に踏み込んでいる。あたかも詩の存在理由のひとつは、いのちあるものの生き死にをうたうことであるかのように。 

 詩はまた個人のいのちの確証でもある。詩のことばは「符号」ではない。そこに「個人の息づかい」(p.12.)を感じるからこちらを不安にさせる。だがそれはよりいのちに近いことばとの出会いである。散文と詩の違いをごく簡単に言えば、わかりやすさの違いだ。詩はわかりにくい。散文はあたまに入りやすい。と同時にすぐにあたまをすり抜ける。それは情報を伝えるためにことばを使うためのルールでもある。情報は内容さえ頭の中にとどければ、それがどんなことばで伝えられたのか、ことばは頭に残らない。

 しかしそのような散文には個人の痕跡がない。

だが人はいつも「白い屋根の家が、何軒か、並んでいる」という順序で知覚するものだろうか。実は「何軒かの家だ。屋根、白い」あるいは「家だ。白い!」との知覚をしたのに、散文を書くために、多くの人に伝わりやすい順序に組み替えていることもあるはずだ。
 
詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこともある。「白い家の屋根が...」の順序で知覚したひとが、どこにもいないこともある。いなくても、いるように書くのが散文なのだ。それが習慣であり決まりなのだ。(p.44)

 散文はことばを無名性へと追いやってゆく。そこにだれも存在しなければいのちはない。反対に詩は、世界との出会いそのものの表明となる。詩には個があり、個と世界の出会いがある。出会いによって生まれるいのち脈打つ表現は、読み手にとって理解しずらい。詩は個の表現だからだ。だが、もし詩人の個と私の個が出会えたならば、ことばといのちが結びつきに出会えたならば、それまでの世界の色は一変し、世界の更新運動の瑞々しい場に身を置くことが可能となるだろう。
 詩はいのちであるからこそ、私たちの日常と化した自動的な認識を変えてしまうような、圧倒的な力をふるうことがある。

でもそれだけではない。ぼくはこの詩を読んでから、正確にいうと、思い浮かべるようになってから、自分が少し変わったように思う。
 
これまで読まなかったもの、たとえばプラトンの本とか、平安期の公卿の日記とか、いまの自分がこのままつづいたら、興味をもたないはずのものが、突然目の前に飛び出したのだ。光り輝いて見えてきたのだ。(p.143.)

「自分がこのままつづいたら」、自分は不動のままだろう。なにも動かず、動かされず、いのちの鼓動も消えてゆくだろう。だが詩のことばは死へと向かう自分の存在を活性化する。世界の更新によって、これまでの自分はもはや続かず、新たな認識のもと、私と世界の関係が結び直される。人間は移ろぎ、変わってゆく。同じ場所には二度と立てない。だがそれこそが生の確証ではないだろうか。それは新鮮であり同時に不安である。詩のことばは、新鮮で不安、本文に引用された堀川正美の詩の題にあるように、「新鮮で苦しみ多い日々」を私たちに与えるのだ。

 詩とは形式なのか。確かにそうだろう。本書の第一章は「詩のかたち」であり、行分け、くりかえし、リズムといった、一見詩の技法っぽいものが標題に並ぶ。しかし、技法があれば詩が生まれるわけでは決してない。技法は生とへ直結しないならば、単に形骸化した飾りに過ぎなくなる。本書にあるのは無味乾燥な技法分析ではない。たとえば「くりかえし」。

ことばはくりかえされることによって、同じ世界をつくるのではない。まったくちがう世界に迷い込む、そんな印象を読む人にあたえることもある。(p.26.)

 ことばが符号であるとき、その符号は、いついかなるときでも、相手が誰であっても、解読が揺るいではならない。赤が「止まれ」ならばそれが誰に対してであっても、いつであっても不変でなければならない。そこに人が、個が介入する余地はない。何万回繰り返されようとも、常に結果は同じでなくてはならない。動きもなく、静謐で、永遠の世界。

 だがことばが符号をやめるとき、詩におけるくりかえしは、「同じ」なのに「違う」という、新たな意味を生むための動力として機能する。先ほどの「婆さん蛙ミミミの挨拶」は次のように解釈される。

そしてもう一度、最後に「さやうなら」。これには「御座います」がつかないので、まるで自分でいうように、静かに。(p.77.)

 同じさやうならでも違う。最初は仲間への感謝のあいさつとして。最後は自分自身に言い聞かせるように。本書での詩の解釈はいずれも見事だが、その白眉だと思う。日常的で単純なことばのくりかえしでも、言っている相手が違う。言っている相手が違えば意味が違う。違いがあるからその都度意味が生まれる。意味の生成こそが詩という場なのだ。

 同じことばが連ねられても、その意味が異なるとき、時間が生まれる。時間によっていのちが生まれる場所に私たちはいることを意識する。同じであるとは永遠であること。それはもはや生ではない。異なりとは更新と言い換えてもよいだろう。そんなことばはないが、再新と言いたいくらいだ。<再>と<新>は「再生」と親和性をもつからだ。更新ー再新ー再生。詩のことばがもたらしうる不断の新しさこそが私たちの生そのものである。