エドワード・サピア(1884年〜1939年)はアメリカの言語学者であるが、自らも詩を作り、言語芸術に強い関心を持ち、クローチェの美学に深い敬意を抱いていた。芸術言語への考察の一端が収められたのが、生前唯一の著書『言語』(1921年)の最終章「言語と文学」である。
ここでサピアは二つの異なるレベルの芸術を措定する。ひとつは「異質の言語的媒体に移しても失われることのない、一般化された非言語的な芸術」であり、もうひとつは「移すことのできない、とりわけ言語的な芸術」である。(p.383.)
それぞれの言語(個別言語)は独自の形式を持つ。音声体系、語の順序そしてリズムなどはそれぞれの言語固有のものである。サピアは、機能(何か言うべきことを持っている)と形式(それを何らかの形で言う)では、形式こそが言語学の対象である(ムーナン『二十世紀の言語学』p.105)と考えていたが、その意味で、文学とはまさに「形式の上で言語に依存している」からこそ、その関心の対象となったのであろう。
実際にこの章では、ギリシア語の詩の韻律、英語、フランス語、中国語などを例にあげ、それぞれの言語の詩形式の特徴を述べている。この考え方によれば、それぞれが固有のものである以上、その諸言語間に表現の優劣を持ち込むことは無意味である。そして、こうした固有の形式がもたらす「効果は、翻訳されるならば、必ず失われるか、変容されずにおかない」のも当然である。
形式の重きを置く考え方の道筋は、諸言語の多様性とその通約不可能性へと至る。しかし、この章を読んでいると、サピアの力点がこの形式に基づいた芸術表現という考え方により強く置かれているとは単純には言いきれない。サピアは、翻訳がほぼ不可能であるという認識が正しいにも関わらず、「文学作品は現に翻訳されているし、ときには驚くほど適切に翻訳されていることさえある」(p.383)と言明する。ここでサピアは注をつけバッハのフーガを出し、その「審美的意義」はピアノの言語ではなくても展開されるとする。上に述べたように、サピアにとって、この媒体に左右されない「非言語的芸術」もまた重要視されるべきものなのである。
ここでサピアが持ち出すのが、言語化に先行する、芸術家の「直観」である。ただ、これは本当に「非言語的芸術」なのだろうか。言語に先行する機能こそが、芸術の普遍的特質であると言っているのだろうか。サピアの次の言い方に着目したい。
芸術家のなかで、精神が主として非言語的な(より適切には、一般化された言語的な)層で働いている人たちは、おのれの思想を一般に受け入れられた慣用法の、硬直したきまり文句で表現することに、多少の困難をおぼえさえするのである。かれらは無意識のうちに、一般化された芸術の言語、すなわち、文学的代数を得ようと努めているのだという印象をうける。(p.387.)
芸術的表現は文学的代数である。すなわち、どのような個別言語であってもその代数に当てはめて表現することが可能な表現である。ではなぜ芸術家はその文学的代数を求めようと努めるのか。それは、芸術的表現は、慣用やきまり文句、すなわち、記号として流通することばでは実現できないからだ。つまり、非言語的なもの、芸術家の直観によって形成されるものというときに、その阻害を形成するのが、慣用や決まり文句だと言われているだけであって、芸術は「一般的な芸術言語」と名指される言語によってもたらされることに違いはない。非言語的な芸術とは非個別言語的な芸術と言い換えられる必要があるだろう。
芸術表現とは、非言語的表現ではなく、一般化された言語による表現である。しかも、その言語は、あいかわらず個別の形式をもったある任意の一言語ではある。それはどう解き明かせばよいのか。サピアは次のように言う。
言語は、それ自体、集合的な表現芸術であり、何千何万という個人の直観の要約である。個人は集合的な創造のなかに埋没してしまうけれども、個人の個性的表現は、人間精神の集合的作品全体に内在する順応性や柔軟性のなかになにがしかの痕跡をとどめている。(p.398.)
サピアの言語観は、ここではきわめて生成的、活動的である。個人の直観とは、「経験、思考、感情」によってそのつど刷新される人間の有り様であると思われる。そしてそれは言語そのものの本質でもある(=順応性、柔軟性)。言語は個別の言語であり、記号である以上、それは集合的である。しかしその集合的という形容詞は「創造」、「作品」にかかる以上、言語という社会の生産物はたえず運動するという本質を持っている。その運動に個性の痕跡をとどめることのできるもの、それが芸術家と呼ばれる人間であり、その芸術家が創造する新たな刷新をもたらすも言語こそ、一般的な芸術言語と言えるのではないだろうか。
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