Ronnie Lane, Live in Austin (2000)

live_in_austin.jpg ロニー・レインの映画を観てから、彼のテキサス時代の音源をずっと聞きたかった。ようやく神保町ユニオンで「Live in Austin」をゲット。88年にテキサスのミュージシャンと録音したスタジオ・ライブである。

 ジャケットのデザインはいただけないが、CDには「Ronnie Lane The Texas Years 1984-1990」というタイトルのブックレットが付いている。ライナーノーツを書いているのは、このアルバムのプロデューサーでもあるKent. H. Benjaminという人物。テキサス時代のレインのすぐ側にいた人らしく、アメリカに渡ってからのレインの生活、そしてこのCDがリリースされたいきさつを愛情溢れる筆致で書いている。またブックレットのなかには何枚もレインの写真が収められている。ニック・ロウやイアン・マクレガンと一緒におさまっているレインの姿もある。ただ、おそらくすでに病魔に蝕まれ始めていたのだろうか。以前よりやせて、視線も少し定まらないようだ。

 しかしライブのパフォーマンスはすばらしい。レインのヴォーカルはノリがよい。バックのヴァイオリン、アコーデオン、バンジョーも、大道芸人の演奏のようなレインの曲のよさをしっかり表現している。

 弦楽器のアコースティックな響きに、ゆったりとしたテンポで演奏されるOoh La La、同じくヴァイオリンの音が全面的にフュチャーされたKuschty Ryeなど実に心和む演奏だ。

 See Meなど後期のアルバムからのテイクだけではなく(クラプトンとの共作Barcelonaなんて実に良い曲だ)、PoacherやRoll On Babeなどスリム・チャンス時代の曲も収められている。ラジオ局のスタジオライブということで、レインのおしゃべりなども入っていて、本人自身が上機嫌で収録している様子が伝わってくる。

 ロニー・レインはSmall Facesの時代から始まって、さまざまなバンドを作って演奏をしてきた。ロッド・スチュワート、スティーブ・マリオット、ロン・ウッド、そしてピート・タウンゼントのような時代を画するロック・スターと、ギャラガー&ライルのような職人肌のようなミュージシャンと。そしてこのテキサス時代には、地元の決して有名でも何でもない人々と。しかし、有名無名は関係ないだろう。今・ここで、気の合うメンバーと一緒に演奏できればそれで十分。その飾らないレインの人となりが十分に伝わってくる好盤である。

 ミハイル・バフチンとロマン・ヤコブソンはほぼ同じ時期にロシアの地に生まれた(バフチンは1895年、ヤコブソンはその翌年)。亡くなった時期もそれほど大きな違いはない(バフチンは1975年、ヤコブソンはその7年後)。しかし2人の人生、思想には大きな隔たりがある。特にロシア革命からソビエト連邦の成立、そして戦後の共産主義体制へと至る20世紀のロシアの歴史は、知識人がその流れの中でどうふるまうのかという大きな試練を与えることになる。

 ブルガリアの共産主義体制の中で、政治性を排除し、ニュートラルに文学を研究すること以外に選択肢のなかったトドロフは、1962年にフランスに留学する。そして、主に言語学理論に基づく新たな文学理論を提出し、現代フランス思想に大きく寄与することになる。その中で特に特筆されるのが、バフチンとヤコブソンの思想の紹介である。

 その意味でバフチンとヤコブソンはトドロフにとっては文学理論を作り上げる上できわめて重要な人物だったわけだが、トドロフ自身の研究の対象が変化するにつれ、この2人の位置づけも彼の中で大きく変わることになる。80年代のトドロフは、共産主義体制による人間の圧政、この体制を生んだ人間と社会のあり方そのものを問うことになる。そしてその中で知識人がどのようにふるまうのか、それが課題となる。「作品」と「生」の関係である。

 トドロフは、自らも共産主義体制に生きてきた人間であるが、その個の体験を書くわけではない。しかしトドロフが80年代以降、文学理論の研究者から、政治思想、全体主義批判へと舵を切ったこと、その遍歴そのものがトドロフの「作品と生」への姿勢を如実に語っていると言えるだろう。

 このエッセーで、トドロフはあらためてバフチンとヤコブソンの「作品と生」を描く。まず2人の初期の論文に焦点をあて、「世界の表象」を巡って2人の相違を指摘する。
 ヤコブソンの「未来主義」では、トドロフは3つの特徴を取り上げる。第1に現代芸術においては「世界を表象」するのではなく、「知覚対象」から、「知覚」そのもののへと注意が向けられる点(たとえば抽象絵画は知覚対象である世界を描くのではなく、線と面を描く)。第2に、芸術と科学の接近。絵画における3次元や動きの表象の試みがたとえば挙げられる。第3に、一致の概念が挙げられる。それは、モデルニテが芸術、科学、政治、哲学など分野を越えて現れ、古い概念を壊そうとしている現実に現れている。

 一方バフチンの「芸術と責任」において、一致の概念は芸術と生の一致として示される。この一致を成り立たせるのは責任(と罪悪感)であるとバフチンは言う。
 この2人の論考の対立点をトドロフは次のようにまとめる。

ヤコブソンは創造された世界、思考によって生まれる世界を非人称的な対象として描く。バフチンは人称的次元が還元されえぬものとして現れる視野を選択する。

 こうしてヤコブソンは科学へ、バフチンはモラルへと進んでゆく。

 次にトドロフが2人を対照させるのは、モノローグとディアローグの観点からである。モノローグの文芸様式は詩である。ヤコブソンは一歳年上の詩人フレーブニコフに大きな影響を受ける(この交友関係、フレーブニコフの詩論については山中桂一『ヤコブソンの言語哲学1 詩とことば』に触れられている)。詩は、世界を表象するものではなく、自立的な価値を持つとする。そのとき詩は当然ながら意味を派生する言語ではなく、音的価値としての言語によって構成されるものとなる。

 ヤコブソンに影響を与えたもうひとつの思想が現象学である。心理と事物を切り離すという現象学の考え方から、ヤコブソンは主体の心理の反映としての言語ではなく、言語そのものを構造としてとらえる考え方を学んでゆく。そして普遍文法、そして言語機能へと関心をむけてゆく。

 このような言語自体を対象とするヤコブソンの考え方は、彼が自然科学的発想に一貫した関心を抱いていたからだとトドロフは指摘する。

 ではこのような影響のもと、ヤコブソンはどのように詩を定義しているだろうか。トドロフは次のことばを引用する。

詩は言語芸術のなかで唯一普遍的なジャンルである。なぜか? なぜならば、芸術的散文は、弱められたポエジー、日常の言語へと歩を進めるポエジーだからである。

 これについてトドロフは詩の特性を、形式上の制約に従わなくてはならないこと、語の取り替えが簡単ではないこと、そして詩における言語は話者の相互性を欠いていること、すなわち詩のモノローグ性にあるとまとめている。

 モノローグ性、それは言語を発話状況から切り離すことである。それによって、トドロフは、ヤコブソンが未来派たちと同じく、無限の未来を志向したとする。

 一方バフチンもフレーブニコフへの敬意を表明している。しかし、それはフレーブニコフが現実の世界を打ち捨てようとしたのではなく、その世界と新たな関係を切り結ぼうとしたからである。マレーヴィチについても同様のことがいえ、トドロフはそれを「身近な、慣用的な人間の世界を離れて、普遍的なパースペクティを求める」試みであるとまとめている。

 バフチンが影響を受けた人物としてマルティン・ブーバーが挙げられる。バフチンがドイツ哲学から受け取ったのは「相互主観性」の考え方である。人間は、個として時間の中に生き、世界には決して回収されえない単独性をもつ。そしてバフチンはこの単独性においてモラルを引き受けなくてはならないと言う。理性を働かせること自体、知識を得ること自体には、その対象に善も悪もない。だからこそ、我々は理性と知を司る科学性に人間をゆだねるべきではない。人間は自然の事物へと解消されないものだからだ。

 バフチンにとって、言語もしたがって「行為」であるとトドロフは言う。言語を行為としてみればそれは、バンヴェニストのように「一回性の出来事」であると言える。そしてその出来事には共話者(言語を用いて交渉を行う複数の話者)がいる。トドロフはこの点において、ヤコブソンの言う「接触」(contact)と、それに対応する交話機能(phatique)こそ、バフチンの思想と対立するものはないという。バフチンにとって「接触」とは、機能ではなく、言語をコード以外へと変換させるものであるからだ(前掲、山中、pp.150-151参照のこと)。バフチンは次のように言う。

記号論は既成のコードによって、既成のメッセージを伝達するということを好んで来た。しかしながら、生きていることばでは、メッセージは、厳密に言えば、伝達の過程において初めて創造されるのであり、根本的にはコードは存在しないのだ。

 バフチンにとってフォルマリストたちの考えが不十分だったのは、この個人同士の相互行為という面を無視していたからである。対話こそが言語を言語たらしめる条件であり、ここからバフチンの小説に対する思考も生まれるのだ。

 バフチンにおける対話とはどういう意味なのか。トドロフは個と他者の間における言語を通じた交渉は、「お互いに対する信頼、参与する自律、もろさをはらむ合意」を困難であっても求める行為であると言う。そしてここにあるのは未来への信仰ではなく、現在への情熱であると付け加える。「本当の芸術とは現在を生きることを可能にするものだ」ともトドロフは言う。

 対話は、バフチンのもうひとつの重要な概念カーニヴァルと一見対立するかのようにみえる。対話は私とあなたという人称を浮かび上がらせる。しかしカーニヴァルにおいては人称は集団の中にとけ込んでゆく。対話は選択と自由だが、カーニヴァルは集団への従属である。それ以外にも対立点を挙げながらも、トドロフはバフチンの「私」は決してひとりの「あなた」との関係で閉じるのではなく、さまざまな「あなた」と、そして私も所属する「私たち」とも関係を結ぶのだ。しかし、バフチンはその「私たち」のあり方を示していないとトドロフは指摘する。ソヴィエと連邦にあって、共産主義体制以外の「私たち」のあり方の可能性を提出することは、すぐさま危険を意味するからだ。

 科学的精神と詩を求めたヤコブソン、対話と小説を求めたバフチン。ではその2人のソヴィエトに対する関係とはどのようなものだったのか。

 ロシア革命当時のヤコブソンは、他の詩人、芸術家とともに、革命は政治だけれはなくあらゆる分野におよぶと考えていた。20年代ヤコブソンはプラハのソヴィエト大使館で働く。その後第二次世界大戦をむかえ、コペンハーゲン、オスロ、そしてアメリカへと渡っていく。しかしこのような変動の時代、ユダヤを出自とするその家庭環境、そしてソヴィエトの政治体制についてヤコブソンが発言することはほとんどなかった。

 一方バフチンも当時の政治状況にほとんど興味をいだいていなかった。革命が起きるとサンクト・ペテルブルクを離れ、小村を渡り歩き、やがてレニングラードと名前を変えた町に戻ってくるが、非常につつましい生活であった。理論上は対話を標榜していたバフチンは、実生活においては、結婚をし、友人に恵まれてはいたものの、社会的にはずっと孤独な生活をしていたようである。サランスクというごく小さな町に暮らし始めても、教職につき、めだった活動もなかったし、政治的な発言をすることもなかったのだ。トドロフはそれでもバフチンの思想は、教条主義でも相対主義でもなく、困難な「一致」(あるいはsoglasie, sym-phonie)を求めて、様々な話者が、そして様々な意見が存在する世界を目指していたことを強調している。

 2人の作品と生を辿ってみると、実は両者とも、作品と生が一致していないことが明らかになってくる。バフチンはきわめて孤独な生活を送っていたし、その思想を形成する過程で、他の思想家と議論をしたり、さらには自分自身の思想を広めたりという交渉にも興味を抱かなかった。その実人生は対話的ではなかったのである。ましてはカーニヴァル的な生活とは対照的な人生であった。

 それに対してヤコブソンは、さまざまサークルで活動をしたし、他人との対話を好んだ。レヴィ・ストロースとの共作もあるように、他者と研究活動を繰り広げていった。そもそもヤコブソンはほとんど知られていなかったバフチンの著作を評価し、学生たちに読むことを進めた数少ない人物の一人だったのである。

 対話に富む人生を送ったヤコブソン、孤独な生活を送ったバフチン。両者の生はそれぞれの思想/作品ときわめて対照的である。しかしその対照が、20世紀のソヴィエト連邦の成立という歴史的出来事の中で、知的に生きる、その生の具体的なあり方はどのようなものであったのか、私たちにはっきりと教えてくれるのである。