ホルヘ・ルイス・ボルヘス『詩という仕事について』(2000, 2011)

 ハーヴァード大学で1967年から翌年にかけて行われた詩をめぐる講義である。ボルヘス自ら言うようにこの講義の特色は、ボルヘスが膨大に蓄積された記憶の中から毎回引き出してくる「具体例」(p.84.)にある。しかも書かれたものに頼るのではなく、本当にその場で頭の中から取り出だして述べていたとのことである。
 この講義のタイトルはThe craft of Verse。craftであるが、この講義の中にcraftという単語が出てくるそれはギリシア語から訳されたラテン語のことば「芸術は長し、生は短し」の、ジェフリー・チョーサー訳である(p.89.)。

The life is so short, the craft so long to learn.

 ボルヘス自身はこのsoの挿入に着目し、翻訳が詩人の実感としてなされていることに注目しているが、詩とはまさに創られるもの、ポエーシスなのである。そしてそのポエーシスの作業が翻訳にもあてはまる。「翻訳は再=創造である」。翻訳という営為は詩人の仕事とも言えるのである(p.102.)。
 とはいえ、ボルヘスはそのポエーシスの構造を理論家として説明しているのではない。詩作品、文学とはボルヘスにとってその成立の条件を問うことのない自明なものとして現れる。
 このような態度から詩についての考えを出発させるとき、当然ながら、詩は美として、そして感動として反省なく措定される。
 詩がもたらす美と感動。それはひとつの魔術性である。その魔術とは、詩において「言語はまた音楽であり情熱であり得る」(p.144.)という点である。ボルヘスにとって詩は「美しさ」と「深い感情」をたたえている。その美しさは、ボルヘスの古英語への偏愛となって語られる。ではその美とは何であるのか。それは語と対象の一致である。「lightという単語が光り輝くように感じられ」(p.116.)た魔術性である。言葉が「記号の代数学」(p.131.)ではない以上、辞書のように単語の意味の取り替えは詩においては不可能である。
 そのような詩に用いられる言語とは「抽象的なものとしてではなく、むしろ具体的なものとして始まった」(p.114.)とされる。ボルヘスはその例として、「もの寂しい」という抽象的な意味をもつdrearyが「血まみれの」という具体的な意味を持っていたとする。そしてこの始まりにおいては、言葉が抽象・具象の対立なく、多様な意味を持っていたことをボルヘスは強調する。
 だが、そうしたボルヘスの詩への考え方は、魔術的な自然へと流されていく。具体的とは意味の起源へと立ち返ったときにあった意味であり、そこでは物と言葉が緊密に結びついている。言語は「野原から、海から、河から、夜から、明け方から生まれたもの」であるとされる。つまり言葉は物と必然的な意味関係を取り結ぶのだ。ボルヘスにおいても、詩は結局motivation(動機)の問題へと還元される。このことばの渉猟とことばを無化する美と神秘の体験の微妙なバランスをもって講義は進められる。
 こうした具体例に則った説明はときに軽やかではあるが、何が言語をして詩としうるのか、理論的根拠は薄い。とはいえ、豊富な具体例の中で、こうした理論的根拠とみなしうる例もいくつかある。
 例えばボルヘスは«A rose-red city, half as old as Time»のhalfに着目し、この単語があることによって私たちは精確さを印象づけられるという。また«I will love you forever and a day»の a dayも同様である。こうした単語のおかげで、表現は抽象さをまぬがれ人間は想像力を働かせることができるとする(p.56)。
 それは同時に、halfやa dayがこれらの文脈においてのみ意味を生成すると言えるだろう。普段は意識せず使われる日常語が、この文脈において、私たちの意識がその語そのものへと向かってゆくのだ。
 『千夜一夜物語』というタイトルも同じである。それをthouand nights and a nightと言ったとき、この1日は精確な単位として私たちに与えられる。これは「ある日」ではない。1000日という抽象・あいまいさと1日という精確さが、併置されることによって、それぞれのあいまいさと精確さが「精確」に意味づけられ、私たちの意識はこのa nightへと向けられるのである。
 さらに文単位としても、解釈がまったく違う意味で生成されることがある(p.49, 155)。

But I have promises to keep
And miles to go before I sleep
And miles to go before I sleep

 同じ詩行なのに意味は異なる。最初は物理的な意味だけである。しかし、2つ目は時間的な意味、すなわち人生の道程と死を意味する。この具体例はそっと出てくるだけであるが、見事である。こうした意味の生成こそ、詩的なるものではないだろうか。ボルヘスはこれを暗示であるという。しかしこれは詩を読む人間にとってはそれ以外の解釈は生みようがない。ボルヘスは含意を感じとるというが、この含意自体はきわめて明らかである。記号的な意味ではなく、この場で生成される意味であっても、その生成された意味は決して多義的ではなく、必然であるのだ。「意味生成の必然性」こそ、言語を詩と成り立たせるひとつの根本となる条件ではないだろうか。

 これ以外に小説についてのボルヘスの考え。
 ある単純ないくつかのプロットのみを用いていた物語的幸福が終わり、さまざまなプロットが生み出されるようになる。そのプロットもやがて収束してくると小説の時代が終わり、再び物語の時代へと戻ることになる。しかしそれは物語の幸福の時代に戻ることは意味しないのではないか。たとえ物語の時代に戻るとしても、それは悪夢としての物語しかないのではないか。

 「私とは何者か」についてのボルヘスの考え。
 人間の身体はゆるやかに成長し、成熟し、そしてゆるやかに老いが始まり、枯れ、涸欠し、衰滅する。時間を経て変化してゆくにもかかわらずアイデンティティの根拠となる。だがそうした長い道程の人生は、「自分が何者であるか」を悟った瞬間に「つづめ得る」。それは逆に「〜として生きる」ことであり、その生き方にもはや変動はない。