文学を多義性や自立性ではない形で画定することを考えている。多義性とは文学の中に一つの心理ではなく、多様であるがゆえの意味の豊かさを見い出す考え方である。しかしそこにはややもすると文学言語の特殊性、日常の言語とは異なる言語使用の独自性という傾向が見える。さらに自立性は、日常の世界から乖離した文学独自の世界を想像させる。日常では決して体験することのないようなフィクションの愉しみを求めることは、やはり文学独自の世界が、<今・ここ>ではないところに設定される傾向が見える。

 日常言語と詩的言語。現実世界と空想世界。確かにそこに位相の違いがあるとしても、それを相反するものとして文学理論を考えることは、ややもすると日常は貧しく、文学は豊かであるとする、倒立した考えを招くのではないだろうか。私たちがこの世界に生き、この世界を眺め、この世界にいだかれ、この世界で死ぬ以上、この世界を貧しいというならば、そこから生まれてくる文学も実は貧しいものに過ぎないのではないか。文学は世界へのまなざしを曇らせるものではなく、むしろ私たちが、普段は気づくことなく通り過ぎている、世界の現実をしっかりと見据えるように迫る表現形式なのではないか。

 言語について理論的に問うことは、文学言語の特殊性、独自性を画定するためではない。そうではなくヤコブソンが問うた「何が言語表現を芸術作品とするのか?」を考えるためである。この問いの主題にあるのはあくまで「言語表現」である。私たちが日常の中でたえず行っている言語による表現活動そのものを指している。その表現活動の中から、「文学言語が立ち上ってくるとするならば、そのきっかけ、そのメカニスムは何か」、「何が文学言語と呼ばしめるのか」とヤコブソンは問うている。その意味で日常の言語活動と文学における言語活動は対立するものではない。

 そうであるからこそ、同時に文学における言語活動は、この私たちの生活世界と決して切り離されたものではない。文学における言語活動は、その独自の世界を作るためではなく、もしそこに芸術が認められるならば、この世界と深く関わりながら、この世界を「刷新する」ものとして立ち上ってくると考える。だから表象の世界を作るのではなく、この世界の表象の仕方を刷新させるのである。

 文学を考えることは、私たちを日常から遠ざけるのためではなく、むしろこの世界をありのままに受け取ることなく(そのまま世界を受け入れて惰性で生きるのではなく)、私たちに日常を批判的なまなざしで見つめられるような言語意識をもつよう鍛錬をせまるのである。批判的とは何かが目の前に出されたときに、それはいったい何であるのか、と立ち止まって問いを投げかけることである。

 このような問題意識からバンヴェニストを読むことができると考えるのは、バンヴェニストが、sémiotiqueとsémantiqueを区別し、後者に、言語と世界のつながりとして、«référent»の存在をその特徴として認めているからである。またバンヴェニストは、詩的言語には独自の法則と機能があり、日常言語とは別途に考えなくてはならないと言いながらも、「日常言語の研究は、詩的言語の理解に寄与するはずである」と、たとえ示唆にとどまるとはいえ、言明しているからである(p.217.)。

 論文(もとは講演であるが)のタイトルは「言語における形式と意味」であるが、比重は意味に置かれている。それはとりもなおさずブルームフィールド学派が意味の問題を「心理主義」として言語研究から排除しているからであり、論理学者(カルナップ、クーン)たちが、厳密さを志向するがゆえに、やはり心理主義に陥らないよう、signification(「意味生成作用」と訳しておく)に代えて、acceptabilité(許容性)を分析に用いているからである。

 しかしバンヴェニストにとっては、«le langage signifie»「言語は意味する」こそが、根本的な命題である。「意味する」からこそ、私たちは「語り、考え、行為する」。「言語は伝えるのに役立つより先に、生きるのに役立つ」のだ。では言語が意味するとはどういうことなのか。その問いへの答えとしてバンヴェニストはsémiotiqueとsémantiqueを区別する。

 まずバンヴェニストはソシュールのいう「言語(la langue)は記号(le signe)の体系である」という定義から出発し、«le signe est l'unité sémiotique»「記号は記号論の単位である」とする。単位とは限られた数からなる基礎要素であり、意味(signification)の下限であり、この単位の下では意味は生成されえない。さらにバンヴェニストはsigneを構成するsignifiantとsignifiéについて、signifiant(ここでは音声形式)は、structure formelle「形式的構造」を持っていることにより成立するとされ、signifiéについては記号が意味しうるかどうかによって成立するとされる。つまり音声形式の上であっても、意味の上であっても、記号は、外界の事物の世界とは関係なく成立するのである。また記号は普遍的、概念的に成立しているのであって、個人的、特殊的なものは排除される(p.223)。

 こうしてsigneとsémiotiqueの関係を整理したあと、バンヴェニストは文(phrase)の問題に移る。phraseとsémantiqueを結びつけ、言語についての二つの領域を区別し、一方をmodalité de signifier、他方をmodalité de communiquerとした。communiquerは「伝達する」という意味ではなく、「人間と人間、人間と世界、精神と事物を仲介する機能」と定義される。すなわち現実世界で何かと何かの間に関係を生じさせるという意味である。後者は前者を実際に「用い」、それによって「行為」する(p.224.つまりsigneは辞書的な、書物の中に眠っている、だれの目にも触れない、整然と並んでいる単位であり、phraseは、それを用いて、何らかの行動を起こす。だがそのとき辞書的意味を足しても、phraseで伝える内容とは一致しない。正しい外国語を話していても、相手に何らかの違和感を与えるのと似ているかもしれない)。

 だからsémantiqueにおいてはディスクール、すなわち思考の現実化としての言語が問題となる。ここでバンヴェニストの言っていることは、発話状況における言語活動を問題にしているという意味で、「ここー今」(p.226.)が問題となり、語用論的な立場を想起させる。現実化とは、潜在的な意味にとどまっている言語を、発話者が具体的な状況のなかで、現実化して用いると解せるだろう。だからバンヴェニストは「文に意味はその文を構成する複数の語の意味とは別である」(p.226.)と言う。語は文の統辞構造上で用いられて現実化する意味だが、文はイデー「概念」を表す。ただし、バンヴェニストを語用論で語ることはできないだろう。ひとつの根拠は、バンヴェニストの主眼が、言語の性質を考えるとき言語の内部/外部の画定に置かれている点である。「記号とは言語の内在的現実であり」、記号の意味はその記号に内在している。それに対して「文は言語外の事物に結びつけられ」、「ディスクールの状況」、「発話者の態度に依拠している」とバンヴェニストは説く。

 そこでバンヴェニストは«référent»を用語として導入する。«référent»は、意味からは独立し、「具体的な状況、用法において、語との対応が生まれる個別対象である」と定義される。こうしてバンヴェニストは記号の世界と、référent(言語によって参照されうる現実世界の事物)の世界を切り離す。逆にいえば、sémantiqueの世界は常にこの世界ー発話者が住み、発話者が働きかける世界とつながりを持っているということだ。これをバンヴェニストは「ディスクールの状況」と呼ぶ。それは「一回限りの出来事」である。

 このsémiotiqueとsémantiqueという言語の2つの性質があることで、私たちは同じイデーを表すのに様々な表現を使う自由を持つ一方で、語の結合の法則に拘束されることになる(p.227.)。ディスクールにおいて、概念的、一般的「記号」が、個別的、状況的「語」に転化される。またこの働きがあることで、言語間の翻訳が成り立つとされる。つまり記号体系はあるlangueに独自なものであり、それをそのまま他のlangueにうつしかえることはできない。しかしイデーを現実化させるsémantiqueにおいては、「だいたい同じ」ことが言えるのだ。

 私たちが有限の語(記号)から、無限の文を生み出すことができる理由がこの2つの性質に求められるのである。

Magga, Caravane du désert (2008)

caravane_du_desert.jpg 歌はどのように生まれるのか。ことばはまず声であり、声は何よりもひとつの音である。だから単にハミングしたり、あるいは叫んだりしても、それは当然音楽とみなされる。ときには声そのものが楽器のように聞こえてくることもあるだろう。

 しかし歌には多く歌詞がある。声は音でありながらも、それはことばとして同時に意味を伝える。朗読と歌は違うと直感的にわかるように、歌にはそれを歌だと私たちに思わさせる規則が、言い換えれば制限がある。それが抑揚やリズムだ。したがって、そのような歌に課せられる制約が、同じことばであっても、歌詞に独自の特徴を与える。フランスのミュージシャンの場合、この歌詞のオリジナリティによって評価されることが多い。それは定型詩にも見られる韻や、言い回しに乗せたことば遊びの妙でもある。

 そしてまた歌は、ロマン主義の時代に言われた民族の覚醒という概念から見れば、古来からの魂の継続性の表象とみなされる。たとえばブルターニュにおいてケルト文化の復興および伝承に携わる人々にとって、民族楽器を用いて、ブルトン(ブレーズ)語で歌を歌うことは、彼らの精神的支柱となる活動であると言っても差し支えないのではないか。

 だが文化は決して単層ではありえない。文化はたえず浸食しあい、多層的な表象を作り上げる。かつてアラビア詩を触媒としてトゥルバドゥールが生まれたように、現在でもフランスでは、とくにラップやエレクトロなどの音楽が、国籍を無化する形で生まれ続けている。

 Maggaというミュージシャンについて調べてみてもほとんど詳しいことはわからない。10年ほどグループで活動した後、ソロに転向したらしい。その顔立ちから北アフリカ系のフランス人であろう。以前FNACでファーストを試聴して購入。その音楽は英米ロックの影響を受けたアコースティックフォークで、その外見が伺わせる民族的な背景はほとんど皆無だった。

 しかし今回やはりFNACで見つけたセカンド(だと思う)には、イスラム的な意匠がかなり色濃く施されている。ジャケットしかり。タイトル曲Caravane du désertではサハラ砂漠の遊牧民トゥアレグ族が使うとされる楽器を奏でる女性が歌われる。また1曲目、2曲目はアラビア音楽の旋律がそのまま使われている。そして歌詞の主人公の男は「王妃たちの心を盗む男」として描かれる。

 なぜここまで彼の作る音楽に民族性が反映しているのかはわからない。ファーストと同じアコースティックギターを基調としながらも、歌詞はずっと寓話性が高く、その哀愁はアラビア音楽に似た哀愁だ。エキゾティックな情景、女を前にして、夢幻の世界に浸る男、野生の熱、動物の息。音楽も歌詞も素直なまでに、アラビア音楽の表象をそのままなぞるようなアルバムになっている。

 ようやく見つけたビデオの本人は、背が高く、細長い顔立ちで、アルバムの印象よりずっと内省的な青年であった。これほどまでに民族性を意図づけながらも、実は彼のピッキングによるギターの音はBen Wattを思いださせる。特にラストの、少しエコーがかかったギターの音色、憂いのあるヴォーカルは、Ben Wattの『ノース・マリン・ドライブ』だ。海辺の波にも似て、ギターの音色がせつなく近づいては、遠ざかってゆく。

 音楽には定型がつきまとう。それらの定型の混ぜ合わせの妙がひとつのオリジナリティとなる。しかしこのアルバムではまださまざまな要素が分離している印象を受ける。それでもやはりBen Wattに似て、彼の声、ギターにはきわめてまれな透明感をたたえている。繊細で素直なこの音世界こそ、彼のオリジナリティなのだろう。