Paul Riœur, La mémoire, l'histoire, l'oubli (2000) エピローグ

la_memoire_lhistoire_loubli.jpg リクールがエピローグで扱うのは「赦し」(pardon)の問題である。90年代にフランスで「赦し」の問題がどのように議論されたかは、その歴史的状況をふまえ、訳者久米博の「記憶と歴史、忘却と赦し」に詳しい。その論文に言い尽くされている観があるが、多少本文に寄り添って内容を詳しくみていきたい。
 「第一節 赦しの方程式」で提出されるのは「過ちの深さ」と「赦しの高さ」である。そして久米が明晰にまとめているように、過ちと赦しを考える上で、リクールが依拠するのが「行為者」と「行為」の関係である。過ちとは、行為を行為者へと結びつける構造を持っている。私たちがある行為者を責めることができるのは、その行為者に行為の責任を帰することができる場合のみである(imputabilité帰責性)。
 自己への帰責性の形式が「告白」である。そして告白において行われるのが想起の作用である。リクールは「想起自体は無実である」という。そこから告白においては、無実と有罪の区別のし難さが生まれてくる。ここでリクールが問題にしているのは、mémoire-souvenirとmémoire-réfléchieの区別であろう。前者は回想を散逸させる方に向かい、後者は罪悪感の中心を自己の記憶力の中に置く。
 次に問題とされるのが行為の中にある悪と因果性の中にある悪の区別である。ここには人間の「存在」を考える上での本質的な議論があるように思われる。すなわちリクールは、存在を「実態、属性、偶有性」ではなく、むしろ「可能態と現実態」(puissance et acte)として捉えていると思われる。
 最後に問題となれるのが、アダムの神話におけるイノセンスの喪失である。ここでの悪は、経験の中にありながらも、その悪が本質的に偶然的な悪であることから、リクールは、行為者と行為の間に距離がひかれることを指摘する。
 このリクールの考えは、悪がたとえ永遠のものであっても、主体(行為者)自身は可能性に置かれていることを意味しないだろうか。もし罪と人が本質的に切り離しえないものであるならば、極端に言えばそれら罪人をすべて排除してしまえば、悪のない世界が到来するはずである。しかし現実に悪のない世界などありえないとすれば、悪は人間に内在するものではなく、むしろ人間という行為者からは離れたところに存在するものではないだろうか。
 「赦しの高さ」では赦しは愛として語られる。「コリント信徒への第一の手紙」を引用しつつ、リクールは愛がもっとも大いなるものであるのは、それが「高さそのもの」であるからとする。そしてデリダにおける赦し、すなわち、「愛がすべてを赦すというなら、そのすべてには赦しえないものも含まれる」という言明に歩を合わせる。そしてやはりデリダと同じく、赦しを政治性と切り離すことを強調する。なぜならば、政治的舞台における赦しとは、計算や猿芝居であり、何らかの意図をもってなされるという意味で、赦しの概念が「汚染されてしまっている」からである。
 「第二節 許しの精神のオデュッセイアー諸制度横断」では赦しと法と道徳の問題が扱われる。「犯罪的有罪性と時効なし」では、まず時効(prescription)と特赦(amnistie)の違いが述べられる。後者は心的痕跡も社会的痕跡も消してしまう「消滅」という傾向を持つのに対して、前者は時間の不可逆性、すなわち時間を遡ることの禁止を意味する。時効は結局社会の中で調整を果たす機能を有するわけだが、この点が赦しとは異なっている。なぜならば赦しは、「共通の平和への思い」を持った社会的機能だからである。
 このように時効の意味を考察したあと、人道に反する罪において、時効がないことと赦しえないことの混同を批判する。時効がないことの対象は罪に対してであるが、罰はその罪をなした当人に及ぶ。このときリクールはその当人に対してなされることがあると言う。それは「考慮」(considération)である。この「考慮」とは、法的なレベルと道徳的なレベルの二つのレベルにわたってなされると考えられる。法的なレベルとは、訴訟によって、暴力が言説に、殺人が議論によってとってかわられるということ。その上で、道徳が法に対する裁きを行う。それによって「法の前の平等の具体的条件」に対してよりいっそうの配慮が働くのだ。
 「政治的有罪性」では、ヤスパースの『責罪論』(『戦争の罪を問う』)にそいながら、「侵略者と被侵略者のそれぞれの位置を校正な距離関係に指定する」正義の言葉が重要とされる。
 「道徳的有罪性」では、政治的な性質の集合的有罪性から、個人的責任へと移る。ここで問題になるのが民族、文化、宗教などの要求によって行われる植民地戦争のような歴史的事件における、公的なものと私的なものの絡み合いである。これに関してリクールは、コダーレの「諸国民の和解についての言説は、敬虔な願望にとどまる」ということばを引用する。
 「第三節 赦しの精神のオデュッセイア - 交換の仲介」では、贈与との関連において赦しの問題が扱われる。赦し(pardon)と贈与(don)は言語的にも関連性があるが、ここでモースの『贈与論』を引用し、贈与と対立するのは交換ではなく、利益であること、贈与には「お返しを与えること」という双方性があることを指摘する。
 この贈与に類似する赦しの双方向性の対極に置かれるのが「見返りなしに敵を愛すること」である。だがそこにも「敵を味方に変える」という愛が期待していることがある。この相互性に対してリクールは、高さと深さで検討した垂直的という非対称性を導入し、それを赦しの方程式とするのである。ここでリクールは南アフリカの「真実と和解」委員会の活動に言及する。この活動の中にリクールが見るのは政治的な和解とは異なる赦しのあり方である。それをリクールは「赦しの<ひそかな行為>」と呼ぶ。
 「第四節 自己への回帰」の「赦しと約束」ではアレントの「活動」(action)に基づく、赦しと約束の相関性が検討される。活動の不確定さはひとつは過去、すなわち、過ぎ去ったものは制御できないという不可逆性であり、それに赦しが対応する。もうひとつは未来に対する予見不可能性であり、これに約束が対応する。そしてアレントが着目するのはふの二つの行為が複数存在に依存しているという点である。この複数性は、政治的と呼ばれ、アレントは福音書を解釈しながら、「神から赦されるのは人々が赦し合えるかいなかにかかっている」とする。しかしリクールは、このような赦しが政治性に近づいていくことに留保を示す。アレントが政治的友愛、尊敬という「社会的生活の人格化」(『人間の条件』p.380.)の根底をなす人間の複数存在で行使される力に対して、リクールはあくまで愛を置くのである。
 この政治的解釈に対してリクールはあくまでも「行為者を行為から解放すること」(délier l'agent de son acte)を考え通す。そのために再び人間存在を「現実態と可能態」としての存在を強調する。行動の哲学、可能としての人間の存在である。リクールは言う:

「物語形式は、出来事の発生については取り返しがつかないが、けっして運命的ではない出来事の歴史的地位の根本的偶然性を保存している。人間の被造物としての地位からのこの逸脱は、もう一つの歴史の可能性をとっておく。それは悔い改めの行為によってそのつど開始され、時の経過のなかで善意とイノセンスが不意に出現するたびに区切られる歴史である」

 人間の善としての根本存在への確信とともに、私たち人間の行為は歴史を生んでゆくのだ。運命ではない人間の可能性のもとに赦しの可能性も開かれてゆくのではないか。「有罪者は行為する能力を取り戻し、行為は継続する能力を取り戻す」とリクールは言う。