たった一言のことばでも心がふるえることがあるように、簡素なギターの音色とつぶやくような歌だけでも、心がかきむしられることがある。『No direction home』は61年から66年までのディランの音楽活動を追った映画だが、はたしてここで歌われている歌はフォーク歌手の歌だろうか。これらの音源を耳にすると、そうした音楽ジャンルが本当に吹っ飛んでしまう。またこれが20歳に満たない人間のパフォーマンスであることにも驚く。甘さやつたなさなどみじんもない、激しさと氷つくような冷徹さが同居しているような演奏だ。
まず耳をひくのはDisc1の5, 6曲目におさめられた61年演奏の「ミネソタ・ホテル・テープ音源」。当たり前だがデビューすらしていないディランの演奏だが、ここには単純なギターの音なのに恐ろしいほど攻撃的なにおいが漂ってくる。たとえ誰かのカバーだろうと、ディランがやってしまうとディランにしか聞こえない鬼気迫るものがある。特に6曲目のタイトルI was young when I left home。この曲の圧倒的な孤独感が胸をしめつける。ほとんど自分のテーマ曲にしたいほど素晴らしいパフォーマンスだと思う。
もちろんここにおさめられたオルタナティブ・バージョンもよい。「くよくよするなよ」、「風に吹かれて」、「戦争の親玉」などもともと名曲なんだけど、別バージョンを聞いてもそのクオリティには優劣がない。というかそもそもディランはもうどの曲がいいとか悪いのレベルではないのだ。その瞬間を凝縮させるパフォーマンスこそが彼の歌であり、歌の生命であり、それだからこそ、彼が演奏しているという事実そのものが、こちらを曲に正面から向かわせる。
瞬間が凝縮されているからだろう。彼のパフォーマンスには8分を越える曲が何曲もある。「はげしい雨が降る」(8:23)、「自由の鐘」(8:04 しかし何でこんな歌い方をするのだろうか...がなっているのか、大声張り上げているのか、でもその吐き出すような歌い方にぐっとくる)、「廃墟の街」に至っては11分を越えている。しかもギターソロがあるわけではなく、ひとつのメロディだけで延々と続いていくわけだが、時間の長さというか、時そのものを感じさせないほど濃密な歌なのだ。
そしてクレジット上はやはり8分を越える「ライク・ア・ローリングストーン」。観客との緊張感張りつめたやり取りはロック史上の一事件として有名だが、その後のディランの演奏が何もなかったかのように「冷静に熱い」のが、もうほとんど狂気に近いと思わせてしまうのだ。これが今からほとんど50年も前のものだとは思えないほど、熱気が伝わってくる。冷めて保存された遺物ではない。今でも私たちに刃物をつきつけるような鋭敏さをもって、50年前のディランは歌いかけてくるのだ。