ジャン・グレーシュは、1942年ルクセンブルク生まれの宗教哲学を専門とする研究者である。この書物は、パリカトリック学院で修士課程の講義をもとにしたハイデガーの『存在と時間』の注釈書である。2007年のこの邦訳はとても丁寧に訳されており、綿密な翻訳作業がなされたのではないだろうかと推察される。
講義ということで、ハイデガーの基本概念の説明に配慮が行き届いている。第一章の最初は「気遣い」について。気遣いとは、「可能なものへと自らを企投する」ことであり、それゆえに、現存在は「開示性」を含んでいる。ここから生の未完成、「不断の未完結性」という存在論的条件が生まれるのである(p.305.)。
ここから生まれる問いが「終わり」と「全体性」の性格づけであり、「死の現象」が登場する。
まずグレーシュは死の現象を扱うにあたって、マルセルとハイデガーを対比する。マルセルにおいては他人の死によって私たちは、死が「現実的に何を意味するのか」を感じとる。ハイデガーにとって、他人の死によって死を考えるとは、他人の死を「代替主題」(Ersatzhema)として選択することになってしまう。グレーシュはレヴィナスに言及し、「他人との第一次的な関係を犠牲にして各私性に特別な地位を与えている」とハイデガーを批判する立場を紹介しつつも、慎重に検討を重ねてゆく。
グレーシュは他人の死がもつ重要性を簡潔にまとめる(p.309.)。他人の死は、有史以来、喪の儀式を受け、その関係のなかにおいては生者にとって、死者は「死人」ではなく、「故人」であった。私たち生存者が学ぶのは、親しい者を失うことの意味である。だが、ハイデガーにとっては、それは同時に、「死んでゆく者自身が《被る》喪失そのものへの通路は開かれない。れれわれは真の意味では他人たちの死ぬことを経験しないのであって、せいぜいつねにそこに《居合わせる》だけである」という論述になる。(注:だが、死んでゆく者自身は、喪失について考えているだろうか。死に逝く者は己の喪失と同時に、自らよりも生き延びる者の生について、未来について考えるのではないだろうか。喪失そのものへの通路について考えることは果たして本質的なことだろうか。)そしてグレーシュは、他人の死の経験は、心理学的、人類学的な意味では重要ではあるが、ハイデガーが行なおうとしているのは、存在論的分析であると言う。
さらに、ハイデガーは、「他人の代理として死ぬこと」=犠牲になることはできるが、「他人からその死を取り去ることはできない」と言う。この身代わりは、グレーシュのよれば、レヴィナスが倫理的な注意を向けていた概念であり、またハイデガーがそうした倫理的要請を考えていなかった点である。しかしグレーシュは、ハイデガーは倫理的分析と存在論的分析は裁断すべきであると考えていたと説明する。
「死ぬことは、それぞれの現存在がそのつど自らわが身に引き受けるべきものである。死は、それが《存在する》限り、本質的にそのつど私のものである。しかも死は、ある特有の存在可能性を意味しており、そこではそのつど自らの現存在の存在が端的に問題になるのである。死ぬことにおいて、死が存在論的には各私性と実存によって構成されていることが示されるのである。」
このテーゼが「死の実存論的現象の探究」の根本に据えられている。
もうひとつ厳密に峻別すべきなのが、医学的・生物学的な考察である。この考察で死を定義するならば、それは「終焉」であり、「死亡」である。そこに死を還元しないことが実存論的分析なのである。
次に出てくる語は「未済(Ausstand)」である。この名称は、「現存在の特徴は死によってしか終わらない不断の未完結状態」をさすために用いられる。この未完結とは、終わり=完結とは見なされないことを含意する。グレーシュはここで、人の死が、必ずしも平穏な完結とはならないことを、アルツハイマーという具体性をもって強調する。総じて、「死の実存論的現象とは、終わりへの存在」なのである。
続いてグレーシュは、ハイデガーが死の実存論的分析と実存的解釈のために準備作業を入念に施していることを指摘する。それが境界画定である。1)生物学および医学との境界画定、2)心理学、歴史学、人間学一般との境界画定、3)キリスト教神学との境界画定(これは死の此岸性と彼岸性の問題である)、4)形而上学との境界画定、これらの境界によって囲まれた空間が実存論的分析の活動領域である。
次の語は「切迫(Bevorstand)」である。終わりへの存在であるわれわれが、死がまだ起こってはいないし、どんな形をとるのかも分からないが、それでもわれわれは死に「あらゆる瞬間において関わってしまっている」ことを意味する(p.316.)。この「切迫」は、さらに「もっとも固有な、もっとも没交渉的な、追い越し不可能な可能性」と説明されている。そして、「気遣いという構造的契機は、死への存在においてもっとも根源的に具体化される」として、気遣いという性格がここで関連づけられる。またここでうまれるのが「不安」である。その意味で死とは、「知りうる」対象ではないとされる。
では日常における死とはなにか。それは、「われわれの周りで『人は死ぬ』」という出来事である。グレーシュはこの<ひと>について、ハイデガーが、「死ぬことは、本質的にそして代理不可能な形で私のものであるのに、<ひと>に起こることとして、公開的に目前へと現れる出来事へと転倒されてしまう」と説明する。(注:しかしここで考えてみなくてはならないのは、やはり死を私へと還元するのではなく、<ひと>という匿名性におかれている他者とはいったいだれであるのかを問うてみることが重要なのではないか。ここには<ひと>への圧倒的な無関心を指摘せざるをえない。ここにつづいて「<ひと>は死に直面する不安の勇気を台頭させないようにする」と引用されるが、グレーシュが例としてひくように、死に逝く人を前にしてその死を否定する近親者の回避の態度は、他者への無関心に他ならない。死に逝く人間が、いま生き残りとなる人間を前にして、どのような気遣いをみせるのか、そこにこそ、他者との本質的な関係性が描かれているのではないか。)
さらに、死の日常的な確実性についてさらに問わなくてはならない。その意味は「死はあらゆる瞬間に可能である」という確実性である(p.320.)。では、そのような死に対する本来的な態度とはどのようなものであろうか。
グレーシュは、「死への存在を可能性への存在」として規定することの意味を次のようにまとめる。まず第一は、企投の実現を目指すこと。これは自殺という形でのみ可能である。第二は、死のことをたえず念頭に置くこと。だが、ハイデガーは、このようにたえず死を考えることは、かえって、死への存在という可能性が可能性であることが逆に弱まってしまうと考える。第三は予期の態度である。そして予期は「可能性の内への先駆」という別の構造にとって代わられるとされる。
「可能性の先駆」とは次の5つの特徴にまとめられる。1)現存在のもっとも固有な可能性、2)没交渉性ー関係の不在による絶対的分離とグレーシュは解釈する、3)追い越し不可能性ー有限な自由とグレーシュは解釈する、4)確実性ー「我死ニツツ在リ」という実存論的確実性、5)無規定性ー死への本質的不安。
そして本来的な死への可能的存在の規定として、次の一節が引用される。
「先駆は現存在に対して、ひとー自己への喪失を露にし、現存在を、配慮的な顧慮に第一次的には頼らずに自己自身であるという可能性へと直面させる。しかもこの自己は、情熱的な、ひとの諸々の幻想から解き放たれた、事実的な、その可能性自身を確信して不安になっている死への自由において自己自身であるという可能性である」
この章を終えるにあたってグレーシュは次の二点を指摘する。
1)「情熱的」とはいかなる意味であるのか解釈を考える必要がある。
2)この規定はまだ本来的な死への存在の単なる可能性でしかない。
したがって、「証言」、「証し」、「要求」という三つの概念が以後の分析の核となるとして締めくくっている。
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