山下達郎, SPACY (1977)

spacy.jpg 夏の午後にまどろんで、ふと目をさますとあたりはすでに薄暗くなっている。寝起きのぼんやりした頭のなかで、「もう朝になってしまった。翌朝まで眠りこんでしまった」と思っていたら、実はそれは夕暮れの薄暗さだった。薄墨色の空は、まわりの風景も同じ色で染めて時間の感覚を失わせる。「朝の様な夕暮れ」を聴くとそんな情景を思い出す。山下達郎自身自曲解説で「徹夜明けで夕方に起きて、今が朝なのか夕暮れなのか、一瞬時間感覚を喪失した時に作ったモチーフ」だと語っている。インターミッションに過ぎないような2分少々の小曲だけれども、このアルバムの憂うつな雰囲気を、ビーチボーイズの倦怠感をも取り混ぜながら、象徴的に表しているように思う。その雰囲気はつぎの「きぬずれ」へも引き継がれる。この曲も「夕闇」や「雨粒」といった、静謐感ただよう一曲だ。そして「Solid Slider」のセッションでアルバムが終わる。

 いきなりアルバムの後半の曲の話になってしまったが、この3曲はアルバム「Spacy」の内省的でありながらも、その世界が多くの人々に共感をもって受け入れられるような予兆をもった曲だと言える。「万人受け」とはまったく違うスタイルなのに、それでも、曲を耳にした人がふと「この人は誰だろう」とその世界に引き込まれるような雰囲気を持っている。

 もちろん1曲目の「Love Space」からリズム・セクションの音がまぶしく、グループではなくても、それぞれのミュージシャンが独自の音世界を作りながらも、それが結果的に1曲に仕上がる構成の素晴らしさに心をうたれる。山下達郎はこの時22歳。

 3曲目も「たそがれ ほんのわずかに」の歌詞があるように、華やかでありながらも、街路に電灯がつくような暮れなずむ空気をただよわせた曲だ。

 やはり山下達郎の解説に「音楽的好奇心」ということばがある。たとえ楽器のテクニックに詳しくなくても、またどんなミュージシャンが弾いているのか知らなくても、このアルバムには人を惹き付けてやまない魅力がある。それがこの「音楽的好奇心」ではないだろうか。クリエイトしてゆくことの颯爽とした若者の意志。東京城北地区生まれの若者が、粋を大切にしながら、ポピュラーミュージックを代表することになる他の若者たちと創りあげたこのアルバムは、山下達郎のアルバムのなかでもっとも好きなアルバムだ。