くるり, 魂のゆくえ (2009)

tamashiinoyukue.jpg 自分がくるりに求めてきたのは何だったのだろうか。それは青春の未熟さ、そして未熟ゆえのたわいもない毒ではなかったか。そして未来へのあいかわらずあいまいな希望。「なにか悪いことやってみようかな」とか、「車の免許とってもいいかな」とか、そうした獏とした未熟さがくるりの魅力ではなかったか。せっぱつまった青さ。どうにもならないいらだちからの毒づき。そんなアンバランスさがくるりの魅力ではなかったか。

 今では新譜の発売日に即購入するミュージシャンはほとんどいない。くるりはその珍しい例外で、発売日前夜に買ってここ三日間聞き込んできた。悪くはない。だがここに並べられた曲はいったい何の表現なのだろうか。何を追求しているのだろうか。必然性とか、性急さのような素人くささはない。だが「太陽のブルース」、「夜汽車」「リルレロ」と続くところなど、もうお約束を聞かされているようで、これらの曲をだれが10年後に思い出すだろうか?

 自分が聞きたいと思うのは、たとえばたくたくで行なわれたバンド編成のライブ。これを聴いていて気持ちよいのは、そのつんのめるような、ライブハウスのテンションだ。もちろん曲自体のもつ魅力もあるけれど、それを超える音楽が発する高揚感、そしてその高揚感を下支えするくるりの技術と表現力。一言「ロックって最高!」と言ってしまえる潔さがある。これを聞いていると、そうしたライブハウスへ足を運ぼうともしない自分のほうが今度はロックをかたるだけの欺瞞に満ちた存在に思えてくる。

 じゃあアルバムに何を求めるのか。それは何らかの意図を貫徹できるはずの場所であり、曲のよさを超えて、私たちにつたえられるそのバンドの音楽へのひたむきさを求めたいと思う。そう、曲のよさについてはそれほど言うことがない。むしろそれを通してこちらに伝わってくる魂の情動こそ感じたいのだ。くるりの最近のアルバムにはそれが希薄なような気がしてならない。そう、Come togetherという感覚。その感覚がだんだん希薄になっているような気がする。

 よい曲ならいくらでもかけるだろう。しかし私たちを今いるこの場所からどこかへ連れて行ってはくれない。そんな失望をこのアルバムに感じざるをえないのだ。