自分のまわりで死が頻繁に起こる。友人たちが短期間に次々と死んでゆく。それは「殺戮」と表現されている。しかし「死は死でしかない」とは、誰がどのように死のうが、その差異を抹消してしまうほど、死は圧倒的な一つの事実であるということだ。あらゆる差異を消し去り、人を無名性に押しやるほど、死の力は強い。
友人が次々と死んでゆくとは、同時に自分が歳をとってゆく過程でもある。それは青春の終焉でもあり、そしてまだいつかは見えないものの、やがて来る自分自身の死の準備となるだろう。ただし、「いつかは見えない」、「やがて」というあいまいなときは、今来てもまったく不思議ではないあいまいなときだ。いつかはわからないとは、いま来てもおかしくはない。やがてとはすぐ先の未来であってもおかしくはない。
死者へと意識的なあるいは無意識的な思いは常に残る。「夜中にものを考え過ぎる」というとき、それは、生者の死者に対する一つの喪の作業となるだのだろう。その喪に直面するのを避けるためには身体を動かすしかない。「掃除機をかけたり、窓を磨いたり」とは、きわめて日常的な社会性であろう。もうひとつの方法はテレビだ。「好きなときに消せる」とは、つながりうる関係を、突然断ち切ってしまうことを意味する。その可能性、私と他者とのつながりの可能性そのものを断ち切ることになるのだ。死があらゆる無名性へと人を落とし込むならば、友人の死も、テレビの中の死も何も変わりはない。それは「匂いのない死」だ。「あなたは私が殺した人に似ている」ならば、「あなた」の方が死んでいてもなんの違和感もないのだ。生者と死者を分つものなどなにもない。
しかし、もし無名性から死者を救うために、「夜中に物事を考え始める」ならば、それはテレビの世界にもやがてつながることになる。それは息をひそめて待っている人を、助けに地下へ降りてゆくことになる。テレビの向こう側に、地下奥深くに、沈黙して待っている人がいる。もし私たちが、向こう側に渡れるならば、地下に降りてゆけるならば、私たちは、その人にしかない匂いをかぎながら、救助へと向かうことができるのだろうか。
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