第四章では、まずプラトンに言及し、詩人が天啓を伝える人として描かれる。それは最初の天啓を受けて、最初の叙事詩を創ったホメロスから、その天啓を広めたrapsodes(吟遊詩人)のように、人々に広がっていく。さらには、教育の基礎ともなる。
この時代には二種類の詩があった。poésie eumolpiqueとpoésie épiqueである。前者はintellectuel et rationnelなものであり、後者はintellectuelでpassionnéなものである(p.74.)。
次にFabreは、劇の起源について述べる。それはオルフェウスの秘犠の俗化したものであり、デュオニソスの収穫の祭りがその始まりである。さらにFabreはdrameの語源に触れ、サンスクリット語で、輝かしい、美しいという意味をもつRamaという名が、フェニキア語でも同じ意味をもち、そこにアラム語とシリア語に共通の指示冠詞がつくことによってdramaという単語が生まれたとする。
最初はぶどうの収穫時の「田舎の余興」であったが、それが人々をすぐれて魅惑したことから、教養層の眼にもとまることになった。それをとりあげたのがThespisとSusarionであり、それぞれが悲劇と喜劇の起源となった。
こうした事態に気づいた国家は、宗教と風俗に危険となる場合、厳格な規則を課した。秘儀をもとに劇を仕立てることは許したが、秘儀の意味を解き明かすことは禁じた。作品の善し悪しを判断するにあたっては、音楽と詩の知識に秀でた審査官を置き、彼らは、すべてを秩序と規則に収めなくてはならなかった。プラトンはこの法がすたれたこと、人民が演劇を支配したことが、芸術の最初の頽廃であると言っている。
アイスキュロスは、演劇の真の創造者であり、ホメロスからうけた天啓にのっとって悲劇のなかに叙事詩の文体をとりこみ、簡潔で荘厳な音楽をつけた。さらに、音楽、絵画、踊りによる総合的な演出を試み、舞台装置による効果を展開した。
ギリシアの劇が秀でていた点は、秘儀の宗教から生まれた道徳的な意味を持っていた点である。したがって、普通の人々が舞台や音楽の華やかさに魅了されているだけなのに対して、賢者は、その中に潜む真理を受け取ることによって、より純粋で永続的な喜びを得ていたのである。
ソフォクレスとエウリピデスは、アイスキュロスの後継者として、ともに秀でていたが、形式を完成させることに心を砕き、劇の本質、すなわちアレゴリーの精神(génie allégorique)を変質させることになったことは否めない。さらには、エウリピデスが描いた逆境において堕落した英雄、恋に狂う王妃、といった情景の魅力が、アテネの道徳の腐敗の原因、宗教の純粋性を貶める最初の原因となった事実を認めざるを得ない。弱さや罪といったものが、本来ならばその意味を探すべきアルゴリーとして示されるのではなく、単なる歴史的出来事、想像力の気まぐれな戯れとして示されてしまっているのである。
こうして二世紀しないうちに、テスピスのもとで生まれ、アイスキュロスによって劇として高められ、ソフォクレスによって栄光につつまれた悲劇は、エウリピデスにおいてすでにかげりをみせ、アガトンの起源の思い出を失い、急速に人々の気まぐれによって頽廃を迎えてしまったのである。
エピカルモスにはじまり、アリストファネスにつらなる喜劇も、同じような歴史をたどっている。