1803年、Fabre d'Olivetが36歳の時にパリで出されたLe Troubadour, poésies occitaniques du XVIIIe siècleの文学的な意味についての論文。この作品は作られた当初から、Fabre d'Olivetの作為によるものであることはほぼ明らかであった。そもそもFabre d'Olivetの意図は、その序文ですでに明らかなように(p.VII.)、北方のオシアンと同じ価値をもつ南方のトゥルバドゥールの広く知らしめることにあったのだ。

 このような作品を生み出すにあたって、Robert Lafontは、まずFabre d'Olivetのオキシタン語とフランス語という2重言語状況から、vocation «patriotique»を説明する。vocation patriotiqueとは、故郷を愛するがゆえに、その故郷のために自分が何をすることができるのか問いかけることを意味すると言ってよいであろう。その気持ちは、早くも1787年、20歳の時にlangue d'ocで書かれたForça d'amourとして結実している。

 ここで着目しなくてはならないことは、Lafontによれば、Fabre d'Olivetは故郷という場所の「原初的な文化の復元」(primitivité de la culture restaurée)を試みたのではなく、オキシタン文学の系譜に自らを置いたことである。

 この文学の系譜の筆頭に挙げられるのがPèire Godolinである。またpré-renaissance d'ocとしてJean-Baptiste Fabre (l'abbé Fabre)も挙げなくてはならないだろう。18世紀のこのようなラングドックの文学思潮にFabre d'Olivetは位置づけられるのである。

 もう一つ挙げなくてはならないのは中世史家の系譜である。特に1774年に出版されたl'abbé Millotによるl'Histoire littéraire des troubadoursである。これは当時から議論のあった北と南の優越性についての問題につらなるものである。またたとえばMme de Staelの北方文学と南方文学の主張にもつらなっている。しかしこれらの風潮はきわめてパリという場所で起きている風潮であった。

 このパリにおけるオクシタンの復興という歴史的状況のなかで、Fabre d'OlivetのTroubadoursは、伝統の覚醒であると同時に、きわめて近代的な事象として位置づけることができる。

 さらにこの時期に、1575年に書かれたJean de NostredameのVies des plus célèbres et anciens poètes provançauxが、当初の政治性という面は忘れられ、神話的な面だけが語られ続けることになる。その中でもっとも重要なのが«cours d'amour»であり、Fabreはこの作品から第2巻の題材すべてを借りてきている。ただし、Nostredameのようにすべての詩人をプロヴァンス化してはいない。つまりFabreは別の資料ももちいて再構築をしていたのである。

 Fabreは、騎士道的な愛とトゥルバドゥールの関係について19世紀の中世学者と同じ見識を明らかにする一方で、あまりにもキリスト教的な解釈に偏っているところがあり、アルヴィジョワ十字軍以降の詩人にのみ見られるような恋愛感情と宗教感情の関係を強調しすぎているのだ。このあたりには ChateaubriandのGénie du christianismeやCoppetなどの考えにつらなるものがある。つまりFabreのTroubadoursはNostredameの親和性と当時の風潮の混淆として考えることができるのである。

 このキリスト教的なモチーフというのは作品の中に強く見られ、たとえばmerveilleux chrétienをもちいたり、さらにはサンクレティスムのモチーフもみられるのである。つまり、最終的にはトゥルバドゥールもNostredameもひとつの機縁にすぎず、19世紀において開花する、ネルヴァル的なサンクレティスムが展開されているのである。

 したがってLafontはこの作品にみられるFabreの「恋愛と詩に関する感受性」から考えて、これは中世的なものではなく、フランスの18 世紀とヨーロッパのロマン主義の交錯点に位置するものとし、古典主義としては、作品における、トゥルバドゥールとは異なるエロティスムの展開を、そしてロマン主義としては「ウォルター・スコット」を彷彿とさせる、やはり、トゥルバドゥールからはほど遠い、登場人物の悲壮な状況における詩的感興を指摘するのだ。

 しかし、こうした作品世界は、オクシタン語の表現を近代的なものへと押しやるひとつの機会になっている。そのためにLafontはオクシタン語での「引用」部分に着目する。といっても、ここでもFabreは原典を引用するのではなく、自らの創作を載せているのである。つまりここで扱われる作品はトゥルバドゥールの仮装のもとに現れる19世紀の詩人Fabre d'Olivetの言語なのだ。そしてLafontは、偽装ではなく、自ら詩人として現れれば、当時のもっとも優れた詩人とみなされたであろうと最大限の評価をしている。 以下、そのいくつかの例が示されている。

 PhaonとSaphoの手紙における、rhétorique d'écoleによるérotique classicisant、トゥルバドゥールのジャンル、pastorèlaであり、ヴェルサイユ風のPastoura acoutidaであり、そして当時パリでも好評を博したCassanéa de MondonvilleのDaphinis et Alicimadureのようなオクシタンのジャンルでもあるpasotorale enrubanéeなどに、あたらしい「近代の」文学言語を認めることができるのだ。つまり、Lafontの洞察によれば、Troubadourは新しい近代的表現の開拓ということになる。Lafontはこの言語の完成が、フランス語からの借用ではなく、オキシタン語の内部で行なわれたことに関して Fabre d'Olivetを最大限に評価する。

 つまりFabre d'Olivetはその作品Troubadoursにおいて、文芸復興のための言語的彫琢を行なったと言える。この言語という表現手段を彫琢したからこそ、大きなジャンル、Chant royal, Sirventés、そしてフォルクロールなどの作品も創造することが可能となった。この文学作品の創造こそ、19世紀におけるrenaissance occitaneの始まりである。

 その後Fabre d'OlivetはLangue d'oc rétablieを構想する。ここでは確かに言語の神話的起源が夢見られてはいるが、それ以上に比較言語学的な枠組みをもつものであり、アルプスからピレネーにわたる地域の言語としてオック語を考えようと試みた。

(國枝付記)
ここで大切なのは、言語の復興が、文学言語の復興であるということ、言語への問いは、詩的言語の彫琢であることに、Lafontの言う18世紀的古典主義とロマンティスムの交錯が認められるということではないか。言語について問うとうことが、18世紀的なレトリックの創造になっているということは、言語そのものに対する視線が、文学へはむけられても、言語そのものの歴史性には届いていないことを意味する。それもそのはずで中世の作品を標榜しながら、ここで行なわれていることは、文献学的な探索ではなく、この時代の文芸思潮におけるオキシタン語の文学言語としての表現の拡大可能性なのである。母語を契機としながらも、その別離を越えて、表現へと立ち向かう時、Fabre d'Olivetの行なったのは、歴史的に高度な文学言語をもっていたオキシタン語の、19世紀初頭現在における彫琢であった。なぜ母語幻想が文学に結びつくのだろうか。

 まずは12世紀の南仏の愛の形式を語る前に、11世紀末に書かれた『ローランの歌』の内容を概括し、「粗野で無骨な、戦闘的なゲルマン民族の一途な騎士魂の発露というものが見られ」るが、「女性への愛や雅の精神のひとかけらも」見られないと指摘する。

 その上でトゥルバドゥールの検討にはいるが、伊東はまず、トゥルバドゥールの語源オック語のtrobarの起源を、アラビヤ語のtariba「喜びや悲しみにより心が動かされる」(p.250.)ではないかと推測する。また吟唱のために用いた学期luteもアラビア語が語源であるとする。 そしてジョフレ・リュデルやベルナール・ド・ヴァンタドゥールを取り上げて、その伝記に描かれる「命を賭ける愛」というテーマが、ギリシア、キリスト教世界にもなく、トゥルバドゥールに淵源をもつものであるとする。

 伊東は、このような「ロマンティックラブ」の出現は、「アラビアに発してスペインのカタルーニャから南仏のラングドック、プロヴァンスへと伝えられたため」(p.259.)と推定している。実際にアンダルシアからスペインの東海岸に沿って、トゥルバドゥールに近いものがすでに存在していた。

 ひとつの具体例として、13世紀前半の『オーカッサンとニコレット』が挙げられ、主人公の設定、名前にアラビアとヨーロッパの混淆がみられること、形式の上で、韻文と散文が交互に現れることがアラビアの韻文の形式に似ているなどのことから、「アラビア的色彩がきわめて強い作品において、典型的なロマンティック・ラブの物語が現れてきた」ことが指摘される。

 実際に重要なことはアラビア文化のヨーロッパへの影響は、「十字軍と同一視」(p.264.)できるものではなく、上述のロマンス語圏がひとつながりとなって、文化を形成しており、「騎士道とか婦人に対する礼儀の理想は、イスラム教下のスペインで、一足先に作られていた」という事実である (p.264.)。

 ではイスラムの騎士道とはどのようなものであったのか。イスラムにおいては、すでに「道徳・倫理上の準則があり、武術や馬術も立派な芸術」となっていた。11世紀から12世紀にかけてのスペインでは、すでに華麗な宮廷生活がなされており、貴族はすでに詩歌を評価していた。より具体的には、コルドバ生まれの詩人イブン・クズマーンが、アンダルシアで目覚ましい発展を遂げた叙情詩の形式の名手として知られ、女性をたたえた愛の歌は、その韻の踏み方においてトゥルバドゥールに影響を与えたと言われている(p.267.)。

 また形式だけではなく、両者には、内容の上でも共通する点があった。「官能的な恋愛」、「恋人を守るために自分の身を犠牲にする男性の心情を歌うこと」、「女性への尊敬と奉仕」である(p.267.)。そして、このトゥルバドゥールは、スペインで発祥し、アラビア楽器のリュートとともに北上していったのである。一方武勲詩においては、ロマンティックな要素もなく、またオウディウスのラテン詩の伝統においては、「恋の手練手管」を語るものであり、トゥルバドゥールとは大きく異なっている。つまりは、アラビア世界に早くから存在していた伝統につらなっているのである。

 そもそもアラビア世界には、ロマンティックな愛の観念の伝統があり、リュデルの歌った「遥かなる愛」は、『アラビアン・ナイト』680話にも見いだすことができ、さらに古くは、ウズラ族には、純潔の恋を歌う伝統がある。それをイブン・ダーウードは『花の書』にまとめている(p.272.)。

 こうしたイスラムの愛の伝統を11世紀において受け継ぐのがイブン・ハズムの『鳩の頸飾り』である。第4章「噂に始まる愛」では、「噂を聞いただけでその女性が好きになり、熱烈な恋に陥るタイプの愛」を取り上げ、また第12章「愛の秘匿」では、恋愛の相手の名前は言ってはいけないというトゥルバドゥールと同じ戒律を述べている。伊東は、この書を「11世紀のスペインのハティバで書かれた、このアラビアの指南書が、その後のヨーロッパの同種の書の起源となると同時に、12世紀のトゥルバドゥールの思想に、何らかの仕方で少なからぬ影響を与えた」と結論づける。

 さらに13世紀のはじめにはスーフィー神秘主義者の一人であるイブヌル・アラビーの愛の叙情詩集『渇望の解釈者』では、愛の象徴と宗教思想をつなぐものとして女性が描かれている。ダンテのベアトリーチェへの愛は、トゥルバドゥール的愛にこの形而上学的愛が重なったものとして解釈される。こうして最終的に、ダンテとペトラルアによってトゥルバドゥールの愛の形式は完成をみる。

 最後にまとめとして、次の4点が「イスラムにおける愛の伝統がトゥルバドゥールの発生を刺激した」として述べられている。

1. 時代的地理的関係
2. 詩には歌がともなったが、それはリュートによって奏でられた。
3. 詩の形式が、スペインで盛んであった詩の形式の似ている(ロマンス語の混入したザジャル体の詩)
4. 詩の内容