Fabre d'Olivetは、Langue d'oc retablieにおいて、トルバドゥールの詩人たちによって、アラビアの詩形式が、現代の詩にまで伝えられた、つまりトルバドゥールの詩人たちは、アラビア文化の影響を受けて詩を書いたことを述べている。本論文では、このトルバドゥールとアラビヤ文化の影響関係が自明のこととして語られることに対し、それを前提としながらも、より精緻な指摘を行なっている。

 まずはトルバドゥール芸術とはどのようなものであるか、愛について再定義を行なう。新倉のよれば、これらは「優れて精神的でありながら、最終的には肉体の合一を希求する愛を歌った作品」(p.287)であるとし、プラトニックな愛であるとするルージュモンに代表される考え方を排除する。そしてこのような女性を崇敬し賛美する文献が、すでに聖職者の手になるラテン語詩の中に存在する事実を指摘する。またさらに音楽の形式は、「西ヨーロッパの最もキリスト教的環境に生まれたとするのが、現在の通説である」とする(H.ダヴァンソン『トゥルバドゥールー幻想の愛』を参照)。

 とはいえ、アラビヤ文化の影響もれっきとして存在する。新倉が挙げるのは、9世紀バグダットの「ウズリー的愛」の観念(p.299)、そして 11世紀初頭のイスラム=スペインにおけるイブン・ハズムの『鳩の頸飾り』である。後者については、特に第4章の「噂に始まる愛』が、ジョフレ・リデルを想起させるとする。それ以外にも第12章「愛の秘匿」における「恋の相手の名を絶対に口外してはならないとするトゥルバドゥールの戒律と軌を一にする」とする(p.290.)。以上に基づき新倉は「アラビヤのエロチックが、トルバドゥール分かの形成と精錬の課程においてかなり重要な役割を果たした可能性を否定できない」とする(p.291.)。

there_goes_rhymin_simon.jpg Paul Simonのソロ作品は、ワールド・ミュージックの剽窃だなどとよく言われたせいか、自分の中でも、安易なミュージシャンというイメージがずっと残っていた。それはピーター・ガブリエルが、同じくワールド・ミュージックの文脈に依拠しながらも、それをスタジオ・ワークによって高度に再構築してみせたアルバムを出していただけに、Paul Simonのアルバムは、ろくに聞いたこともないのに、素人くさいものと思ってしまっていた。

 今回この実質ソロ2作目を初めて聞いてみて、Paul Simonの仕事の根幹には、良い意味でも悪い意味でも、「アメリカ」をどう歌い込むかという問いがあると感じた。そして、それらを飾るアレンジはまさに飾りでしかないと。

 1993年12月号の『レコード・コレクターズ』で高橋健太郎は次のように書いている。

「ただし音楽的にそのような要素を取り入れても(レゲエやゴスペルコーラスなど)、サイモンのアプローチにどこか醒めた距離感があり、ニューヨークのインテリが作り上げた文学的、あるいは映画的な作品であることを逸脱しない」
 つまりどのような他者の音楽に触れようと、結局出来上がった作品は、アメリカのポップ・エッセンスをセンスよく取り込んだものになっている。ゴスペルやカリプソがあったてもそれは、ゴスペル「風」、カリプソ「風」であって、趣味の範疇をでるものではない。そしてこのアルバムには、永遠に歌い継がれるだろうポップソングが、上質なアレンジでもっておさめられている。それは4曲目のSomething So Right、そして6曲目のAmerican tuneだ。この2曲に代表される質の高いポップスこそ、このアルバムの通底音ではないだろうか。「明日に架ける橋」ほど大げさではない。 American Tuneで歌われるアメリカは、mistaken, confusedといった言葉に象徴されるような疲弊したアメリカである。しかしそれでもTomorrow's going to be another working dayと歌われるように明日がやってくる。このささやかさがこのアルバムをつくったときのPaul Simonの気持ちではないだろうか。

 だからこのアルバムは奔放な音楽探究の旅とは到底言い難く、たとえば自分の子供のためにつくった子守唄、St Judy's Cometが、Paul Simonのプライベートな心情をつづっているように、パーソナルな小品をまさにアルバムジャケットの様々なオブジェのように集めたイメージが強い。 Something〜も、パートナーにあてた感謝の気持ちをこめたラブソングだ。このように自分の生活に向き合っている姿を素直に眺めれば、様々な音の意匠はまさに飾りで、そこには音楽を丹念に生み続けるひとりの才能あるアメリカの音楽家の姿が浮かび上がってくるのではないか。イギリスにPaul McCartneyがいるように、アメリカにはこのPaul Simonがいる。そして何よりもこの2人のポールの曲は思わず口ずさみたくなるほど、親しみがあり、それでいてきらめくほど美しい。

 ところで、06年の紙ジャケにはボーナストラックがはいっているが、これが最高によい。あらゆる意匠をとりさった、原曲だけが歌われている。

where_you_live.jpg まず耳をうつのは、何年にもわたって使い込まれたと感じさせる、素朴だけれども味わいの深い楽器の音色だろうか。日本盤ライナーにあるように、プロデューサーのチャド・ブレイク、そしてレコーディングに参加しているミッチェル・フレームのコンビといえば、ロン・セクススミスでの仕事が思い浮かぶ。たとえば 5曲目、Never Yoursのアコースティック・ギターのエコー処理、同じリフが浮遊感をもってくりかえされるところなど、同じ空気を共有しているといってよいだろう。弦楽器の弦がゆっくり指ではじかれる響きや、パーカッションの鉢が太鼓の表面をかすめる響きが、丁寧に掬い取られて、やがて少しずつ消えていく、そんな一音のはかなさにまで気を使った音作りである。

 なかでも一番好きな曲は3曲目の3,000 milesだ。パーカッションの懐かしい響きから始まり、そこにトレーシー・チャップマンの声が重なる。さびのI'm 3,000 miles awayの誠実な歌い方が心をうつ。次のGoing Backもよい。とても淡々とした曲なのだが、そのゆっくりとしたリズムが、心を落ち着かせる。

 トレーシー・チャップマンは88年にデビューしているので、今年で20年になる。こうしたミュージシャンが20年にわたって活動をし、7枚のレコードを出していることを考えるとき、アメリカの音楽の奥深さを感じないではいられない。もちろん、彼女が優秀なシンガーソングライターであることは間違いない。しかしそれでも、彼女の作品は、けっしてコマーシャルではないし、派手な社会的メッセージを全面に出す訳でもない。彼女にあるのは歌だけだ。しかしその歌には確信がある。ことばがひとを揺り動かす、そのフォークロックのスピリットがまだ、彼女には生き続けているようだ。そんな存在が、きちんと評価されて、コンスタントにアルバムを出せるアメリカとは、やはり文化の度量が広いと言わねばならない。

フランス文法の非ラテン語化

1. 形容詞の独立

 ラテン語文法において、adjectifはsubstantifと同じ語形変化をすることから、品詞の一分類とは見なされていなかった。 substantifもadjectifも「名詞」のカテゴリーであった。フランス文法もこれを踏襲していたが、adjectifを初めて独立させたのは、l'abbé Gabriel Girardであった(Les vrais principes de la langue française, 1747)。以後、この方式がBeauzé, Court de Gébelin, Domergue, Lhomondによって継承される。

2. 語形変化の放棄

 16、17世紀のフランス文法の伝統では、フランス語の名詞は、ラテン語同様、格変化をすると教えられていた。フランス語とラテン語を並列に扱うことによって、フランス語をラテン語の学習をするための、準備段階としていたのである。もちろん、教師も文法家も、フランス語から格変化は消滅していることは知っていたが、ラテン語の衰退を先延ばしにするためにこのような策を講じたのである。たとえばRestautは、先達と同じく、「nominatif(主格)はle Prince, génitif(属格)はdu Prince、accusatif(奪格)はle Prince」と記述している。 Restaut自身、フランス語の格は存在しないことは自明であり、「語尾は、単数と複数、男性形と女性形を区別するためにあり、ある名詞と別の語の関係を明示するものではありえない」と述べているにも関わらずである。

 1670年から1750年にかけて、学校のフランス語文法の教科書は、格体系のフランス化を、統辞のレベルで考えることにより、格を nominatif, datif(与格), génitifの3つにまとめるようになる。しかしそれは、ラテン語の体系に模してフランス語を叙述するだけであり、たとえば、àに先立たれる名詞はすべてdatifとみなされた。こうしたラテン語とフランス語の間に起こる齟齬があったにも関わらず、ラテン語格体系のフランス化は18世紀なかごろまで続く。こうした格変化の放棄は、1794年のNoël-François de WaillyのGrammaire française, ou la manière dont les personnes polies et les bons auteurs ont coutume de parler et d'écrire (1763年の再版時にPrincipes généraux et particuliers de la langue françaiseと名前を改称)になってようやくなされたのである。

 18世紀を通じて、Restautの著作とDe Waillyの著作は競合関係にあったが、徐々にDe Waillyが優勢となる。これはつづり字の教育が、基本文法の教育よりも重要視されるようになった流れと期を同じくしている。しかしながら1810年まで、フランス語の名詞の格変化は数々の文法テキストに残っていたのである。

3. 主格、«un cas particulier»

 nominatifという用語は、フランス語文法の中でも使われ、その後sujetという用語が使われるようになるのだが、両者は同義語ではない。sujetとは「話題」であり、論理哲学では、「文の主辞」である。一方nominatifは格変化とは関係がなく、「動詞と一致をする語」という意味である。このように文法用語として、フランス文法においては、長らくこの「nominatif du verbe 動詞の主語」という言い方がなされた。

 Propositionという概念の導入によって、sujetとcomplémentというコンセプトが広まったが、nomnatifと長い間共存することになる。sujetが広く優勢になるのは、1780年代のことである。

4. «particule»の消滅

 Parciculeという用語の定義は、明確になされることはなく、たとえばイエズス会の教育者たちは、この中に、ラテン語学習を単純化するために、学習者にとって学習上の難問をこのカテゴリーに入れていた。

 基本的にはparticuleは前置詞、接続詞、代名詞、冠詞を指す。18世紀のフランス語文法の発展にあわせて、particuleという概念もあらためて厳密さをもって文法理論の中に取り込まれるようになる。Pariculeが、完全にひとつの品詞として確立できるかどうかということをめぐり、Dangeau, Girardがそれぞれの著作(1717, 1747)でparticuleという章をさくが、実際には後継者はあらわれず、Restaut, Beauzée, Domergue, Lhomondもparticuleについては言及をしてない。また一般文法でも、純粋に便宜的に役に立つだけのこのカテゴリを認めていない。この一般文法と文法分析の勝利とともに、particuleは、他の品詞分類に改称されていく。しかしそれは1830年代に入ってからのことである。というのも、 particuleに何らかの意味を与えようとした教師や学校機関の長がいたからである。ある者は、たとえばpréfixeのような語をさすことで、他の品詞とは分類を分けたり、不変化語をここにまとめたり、と様々な見解が出されたが、対象が「小辞」であることを除いては、統一したものはなかった。

5. いくつかの痕跡

 フランス語文法の非ラテン語化は、いくつもの跡をのこしている。たとえばrégimeはラテン語文法から生まれた概念だが、19世紀半ばまでフランス語の学校文法の中に残っていた。substantifはadjectifが品詞として認知されたときに、nomにとって代わるはずであったが、 Lhomond(1780)、Chapsal(1823)は依然としてsubstantifを使っていた。«nom ou substantif»という表記は実に20世紀初頭まで続くこととなる。

 «Degré de signification»は、フランス語文法に定着しているが、それにも関わらずcomparatif, superlatifは教科書に留められ使われ続けている。

 動詞の活用分類は、ラテン語の動詞が4つに分類されていたことから、それにならってフランス語も-er, -ir, -oir, -reの4つに分類されていた。最終的に3つのグループにまとめる分類方法が大勢を占めるのは19世紀末になってからである。言語学者たちは、4つのカテゴリーのうち、2つだけが現在も「生きていて」、新しい動詞を造ることができる、それに対して、他の2つはそうしたさまざまな活用をする、古い動詞が入れられているという根底的な違いがあるとしたのである。