Urbain Domergueが1791年から1811年までに設立した言語学の団体についてその詳細を検討するとともに、団体の組織が何にモデルにして構成されたのかを明らかにした論文。4つの団体について言えることは、そのどれもがフランス語の普及と完成を目指していることである。会誌を発行しながら(Le Journal de la langue française)、フランス語の具体的な問題を解決していくことを目的としている。
これらの団体は、いずれも同時代の政治的状況と密接な関係を持っている。Domergueは、時の革命思想を指示した、熱烈な革命主義者であったが、彼の団体はその言語的活動における実践である。délibéranteやlibreという言葉、また«La langue française est devenue un besoin pour tous»というSociété libre des amateurs de la langue françaiseの標語に示されているように、国民みなにむけたフランス語のモデルの具現化という使命を持っている。
国家とフランス語という問題に解決をもたらすという団体の活動は、当然ながらAcadémie françaiseの活動をかさなってくる部分がある。Domergue自身、Académie françaiseの改革案を何度か提案している。40人に限定するのではなく、広く才能ある作家に席を用意し、衆人の目の前で言語の完成のための方策をはかっていくこと(Prospectus de la société des amateurs de la langue française 1791)、言語は3つの方法で完成されることー天分をもつ作家の作品、書く方法についての考察、文法についての洞察ーそして、それだけでなく、一般の言語の愛好者も含めること(le 15 mars, 1788)を提案する。実際1795年にアカデミー入りしたDomergueはAcadémieと自らの団体を橋渡しする役目を担った。
では、このようにAcadémieとは異なる実際的な役割をもった団体は、どのようなモデルにそって構成されたのだろうか?これは疑いようもなく、Républiqueのモデルである。Domergueは言語を完成へ導くという目的の具体的イメージを「憲法の高みまで我々の言語を近づける」と表現している。
団体の組織と機能は、Assemblée législativeをモデルにしている。各種のcomité(委員会)で個別の問題が討議される。メンバーはどの委員会に、いくつ加入しても自由である。またAssemblée nationaleが政治の問題を議論するように、団体のAssemblée généraleも言語にまつわる種々の問題を取り扱うことになる。このようにDomergueにおいては、政治がまさに言語のモデルとなっていたのである。以後こうした団体は1837年のSociété linguistiqueまで続くこととなる。
以上が論文の概要であるが、ここで留意したいことはDomergueがCondillacと同じく、言語の完成には、grands écrivainsの存在だけでは不十分であると考えていること、同様にgrands écrivainsのフランス語はフランス語の完成ではなく、規則も明確で、だれにも等しく手に届く言語になってこそ、完成であると考えていたことである。もちろんDomergueはLe Jounalで言語をexacteとornéeにわけて、grands écrivainsを排除してはいない。しかしその影響力はきわめて相対的なものへ低く見積もられている。Académieの改革案で4つの社会カテゴリーが提案されているということは、裏を返せばGrands écrivainsは言語を完成するためのその一部にしか過ぎないのである。革命期にあっては、Grands écrivainsだけがAcadémieを支配することは、貴族階級の特権にひとしく、社会を抑圧することにしか働かない。愛国主義者Domergue はアカデミシャンもふくめ、国民が広く参加する「文芸の共和国」を構想するのである。Domergueのjaconbin派としてのDeviseはまさに régénération des languesである。その意味からも、新たな言語の完成を考えることは必然であったろう。そして新たな言語、すなわち明晰な言語とはidéologue の考えにそった、一言で言えば「語ともの」の一致をめざす言語である。そして、ならば、どのようにフランス語の規則を明確にしていくかがその課題となってくるのである。
ギターを弾くのが大好きな青年が、その自己満足的な音楽生活を捨てて精一杯攻撃的なレコードを作った。それが思いもせず90年代のアメリカを代表とするアルバムとなった。
Matthew Sweetはカリスマ的なロッカーでも、超絶なテクニックをもつミュージシャンでもない。それでもキャッチーなメロディがかける大学生、ただプロとしてもそこそこは売っていけるミュージシャンとして、Girlfriendの前に2枚のアルバムを出している。2ndのジャケットをみれば分かるように、内省的な青年が自宅録音をしたような、ナイーブなアルバムである。
ところがGirlfriendとの別離を契機にして、どん底の生活から、なんとか音楽を作ってみるという、これまたナイーブな場所から届けられたこのアルバムは、ギターの音も生々しく、すべてをぎりぎりまでそぎおとした、きわめてストイックな作品として完成をみる。どんな加工もせず、そのまま感情を投げ出し、その感情をギターのひずんだ音色に反映させた時、Matthew Sweetは、他の誰にもまねのしようがない、ストレートな世界を作り上げることに成功する。ふだんは恥ずかしくて絶対に言えないようなこと、たとえば I'm alone in the worldのような歌詞を平気で歌う。しかも叙情的なギターのフレーズつきで。しかしそのいさぎよさ、時代の音など何も意識しない、虚飾のない音楽こそが、聞く者も、おそらく味わったことのあるつらい体験をやさしく包み込んでくれるのだ。
川崎チッタで、Matthew Sweetが姿を現した時、会場がどよめいた。その理由は、アルバムの裏ジャケットの写真とは似ても似つかない、普通のアメリカ人並みに太ったおにいちゃんがステージに現れたからだ。本人はその観客の反応の意味はつかみかねていただろう。せつないほど、センシティブで神経質な青年を予期していた客の前には、ぜい肉のだらしなさがTシャツから透けて見えるアメリカ人が、脳天気にギターをひきまくっているのだ。
その後、Matthew SweetはGirlfriend以上のアルバムは作れていない。というか作りようがないだろう。この密度ある時間はもう決して戻ってこない。それは青春時代に誰にも訪れる一瞬だけの才能だったのだ。だがその一瞬が、このアルバムに結晶として収められている。
CDで2枚組、原盤は18曲入りのアルバムである。といっても散漫な作りの曲は1曲もない。Ry CooderやJohn Hiattあたりの作品に敬意をはらいながらも、しかしそうした完成度の高さとは無縁でありたい、いつまでも未熟でありたいというロック的な激しい欲求が「オルタナ・カントリー」というような安易な呼称を斥けている。親しみのある思わず口ずさみたくなるメロディでありながら、しかしけっしてBGM的な心地よさへとリスナーを誘いはしない、正面切った叫びがこの作品をまさにロックのアルバムにしている。
曲はどれも、ひとひねり効いていて、単純な展開を許さない。たとえばCherry Laneは、ガレージバンド風な始まり方をするが、途中でささやかれるI can never get close enoughのリフレインはほとんど後期のフリードウッド・マックといってもよいセンチメンタルな曲調だ。しかしそんな展開もまったく無理なく聴かせてしまう曲作りの才能が彼にはある。
Goldはまさに青くて、胸がひりひりさせられるが、Cold Rosesはもう少し、自分に対する距離感が生まれているようだ。また演奏そのものも、バンドに対する信頼が、安定感を生んでいるのか、余裕が感じられる。もちろんGoldもよいアルバムなのだが、多少型にはまりすぎた曲もあるのに対して、Cold Rosesは、アルバムのトータルなイメージがきちんと作り込まれている。どの歌詞にもroseがちりばめられいて、ちょっときざなのも、かれの羞恥心の現れのような感じがしてとてもよい。
Ryan Adamsのヴォーカルは、Stan RidgwayやChris Isaakなど、憂愁を帯びた感じなのだが、センチメンタルな叙情には流されない激しさを持っている。それが彼のどのアルバムも生々しい感情を感じさせる理由だ。
60年代にBob Dylanの音楽が生まれ、70年代にはそれをBruce Springsteenが受け継いだ。どの時代にもその時代と対峙するボブ・ディランが必要ならば、00年代のディランはこのRyan Adamsだ。ファースト・ソロアルバムHeart Breakerの2曲目To be Youngの始まりは、完全にSubterranean Homesick Blues Farm、あるいはMaggie's Farmのそっくりコピーだが、これは単にディランへの憧憬ではない。ディラン程度のことなら、こんなに簡単にコピーしてしまえるという、Ryan Adamsの若々しい、不敵な決意の宣言だ。しかしその決意は、まさにHeart Breakerという言葉が表すように、傷を隠しきれないナイーブさと同居している。Dyranは70年代にはいってThe Bandと組む。Ryanも同じようにCardinalsというバックバンドとくんで、Cold Rosesなどのアルバムを作りあげることになる。それによって、たくましい土着のアメリカン・ロックをこの時代に謳いあげることに成功した。その骨太さがいかんなく発揮されたのがこのアルバムだと言える。