この章は5つの節から構成されている。
第1節:普遍言語を作るという欲求は、言語の多様性が人々の分裂を解消するという信念から生じる。また既存の言語は社会的慣用を作り出し、人をその意味である社会集団に属させるものであるから、この社会集団からの解放にも基づいたものである。しかしこれは、ひとつの夢に終わる、言語の文法性は決して普遍言語が望むような簡便なるものとしては構想できない。
第2節:ならば、既存の言語に関する創造としてはどのようなことが言えるであろうか?言語の歴史をみてみると、それは「改革」と「保存」であるといえる。しかもしそれは、民族意識が、文化や言語に関わる時期に現れる。具体的には、つづり方の問題、文法書、辞書の発刊、または国家が積極的に関与する新語の創作の場合などが挙げられる。
第3節:ただしこうした言語の創造は、語彙のレベル以外にはほとんどの不可能と言える。ただし、それでも、人間は自然に囲まれ、自然を加工していくように、言語に対しても同じ行為を働こうとする。こうした言語道具観の内部にあるのは、言語の機能の根本がコミュニケーションという認識である。この認識から生まれるのが、「言語計画」である。
第4節:こうした公的な形による言語の統制化に対する反論は、たとえばノディエの引用が示すように、その土地のことばの消滅に対する警鐘という形をとる。規範化は「改革」と「近代化」という意味合いを持ち、支配文化・社会と結びつき、マイナーな言語を追いやっていく。
第5節:以上、言語の改革、規範化はまさに政治と結びついている。
本書は物語的歴史理解のこれまでの論争を概観し、その上で「可能性の歴史」という、歴史の周辺に追いやられたもの、未然の形でとどまっているものの掘り起こしをめざす歴史観を考察する。その出発点は、ヘーゲル、カント、ハイデガー、それぞれの一節である。
「現に存在するこの家郷性そのもののうちに、さらにはこの家郷性の精神のうちに〔中略〕、この自由で美しい歴史性、追憶(彼ら〔ギリシア人〕が現にそうあるところのものが、追憶として彼らのもとにありもするということ)の性格のうちに、思想の自由の萌芽もまた存する」(ヘーゲル『哲学史講義』、p.99より抜粋)
「われわれは人間のやることなすことが大きな世界の舞台の上で演じられるのを眺め、そこに個々の点ではときおり知恵が現れはするけれども、全体としてはすべては結局のところ愚昧と子供っぽい虚栄によって、またしばしば子供っぽい悪意と破壊欲によって織りなされているのをみいだすとき、ある種の不快の念を禁じえない」(カント「普遍史のための理念」、p.156より抜粋)
「歴史学的対象の第一次的な主題化は、かつて現存在としてあった現存在を、そのもっとも固有な実存可能性へと向けて投企する」(ハイデガー『歴史と時間』、p.213より抜粋)
いずれも物語的歴史に言及したものであるが、ヘーゲルの例は、現在を規定する過去を起源として位置づけることにより、そこに家郷のような居心地のよさを感じるという、「起源-現在」への「共同体の来歴」の物語の特性を明かし立てている。カントの例は、普遍史のような歴史の見方(ヘルダーに代表されるような)への懐疑の念をカント自身がいだいていたことをうかがわせる。そしてやがては普遍史の断念へといたる。ただし共同体としての歴史ではなく(民族に集約されるような)、あくまでも普遍史の構想を考えたことは、啓蒙と人類という<脱=共同性>の精神をそこにうかがうことができる。ハイデガーの例は、歴史が過去の遺物ではなく、まさに「可能性」にかかわっていることを強く訴える。未然のままにとどまる過去の潜在性を現在の生において「取り戻す」という読み方である。それが本来性の次元で行われるとするのがハイデガーの歴史論である。おそらくこれだけでは語弊があるハイデガーの読みをベンヤミンと対比させることによって、歴史から忘れ触れた人々の「取り戻し」を諮ろうとしたのが筆者の意図ではないだろうか。「危機の瞬間にひらめくような想起」(p.233)を既成解釈から解き放たれた時の、人間の生の可能性ととらえ、そこに「歴史の屑ひろい」の栄光を考えるのである。