Sonic Youth

Sonic Youth, Sister (1987)

sister.jpg 中三のときに、いつも夕方聞いていたFM愛知の番組でパーソナリティが「今日は、今までとまったく違う音楽をおかけします」といって紹介したのが、ラフ・トレードの初期リリース5枚だった。そのほとんどを買ったのだが、そこにはポップ・グループ、キャバレー・ヴォルテールという名前が並び、5枚目は「クリア・カット」というオムニバスで、ジョゼフ・K、スクリッティ・ポリティ、ザ・フォール、オレンジ・ジュースそして、ロバート・ワイアットというごった煮状態の曲がおさめられていた。パンク以後、「オルターネイティブミュージック」のイギリスでの誕生である。ニューヨーク・パンクは詳しくないので、ポスト・パンクもふくめてきちんとしたことが書けないのだが、ノイズとはその後White Houseなどの殺戮的な実験音楽、あるいはDAFのようなインダストリアル・ロック(その後のノイバウテン)、そして日本の裸のラリーズへと自分のなかでは広がっていった。しかしこうした名前を並べただけで、ノイズといってもそれは音の表面的な印象を指すに過ぎないということは明らかだろう。ラリーズをノイズ・ロックと言ってしまっては、ラリーズの夜の闇と夜明けの曙光をまったく看過してしまうことになる。

 Sonic Youthは今まで素通りしてきたバンドである。先日Télérama musiqueで72年生まれの作家が自分のロック経歴を語るインタビューがあり、そこでこのSisterに収められているSchizophreniaを初めて聴いて、さっそくアルバムを980円(at レコファン)で購入。インディ時代の最後のアルバムとのことである。発表されたのはもう20年も前のことだが、まったく時代の流れに巻き込まれてしまうことなく、今でも一枚の完成度の高いアルバムとして聞くことができる作品だ。

 オルタナバンドによくある、衝動の垂れ流しではまったくない。とはいえ、ヘヴィメタバンドのように計算高いところもない。形式へ上昇しようとする美しさとそれを破綻へと至らしめる衝動のアンバランスさと緊張関係が素晴らしい。ノイズ・ギターの一音が、ハウリングをともなって消えてゆくとともに次の一音のために弦が鳴らされる。Dinosaur JRのギターが絶え間ないメロディの叙情性をたたえているとするならば、Sonic Youthのギターは叙情性を切り刻んでしまうカッティングギターだ。

 Sonic Youthは、Killing JokeやHappy Birthdayなどのグランジという言葉が生まれる前のノイズ・ロックの文脈に位置づけられるように思う。ひるがえってDinosaurは、これは疑うべくなくニール・ヤングのフォーク・ロックの文脈だ。前者がニューヨークのハコでセッションを繰り返しているイメージなら、後者は自分の部屋にギターとアンプをもちこんで、ヘッドホンをつけてベットの上でギターを弾きまくっているイメージだ。

 繰り返しになってしまうが、ノイズ・ロックはジャンルではない。もしそれをジャンルとするならば、White Houseのようなもはや曲や音楽とはいえない「雑音の塊」しか扱えないだろう。ノイズ・ロックはあくまでも技法であって、その技法の先に音楽が現れる。よく聴いてみると、Sonic YouthもDinosaurも、叫び、わめくようなヴォーカルは驚くほど少ない。叫ばずとも、わめかずとも、その衝動を伝える音楽を創作することはできる。この創作への意識の高さが、Sonic Youthを現在でも最高のロックバンドのひとつにしているのであり、エレクトリックという電気で生まれる音をどう音楽にするのか、そのロックの課題にジミ・ヘン以後最も誠実に答えを出したのがこのバンドではないか。聞くに耐えない音楽と、何度もターン・テーブルをまわしてしまう音楽の境目にあるこのバンドの音楽はまさに中毒になる魅力をたたえている。