Setbon, Raymond

 Setbonはその研究書Libertés d'une écriture critique, Charles Nodierの第一部の後半で、Nodierの詩の概念について整理をしている。Nodierは詩について多くの論評をしているが、その本質は、原初の言語における詩の価値と詩が果たしうる役割、すなわち理性ではなく、想像力に訴えかけるという役割であるとする。
 SetbonはChénier、Diderotに言及しながら、Nodierが「進歩と衰退」という芸術認識を引き継ぎ、芸術が洗練されるにつれて、とくに音楽と詩がその原初の力を失ってしまったといううこと、また文明化されていない無辜の民にこそ、音楽が当初もっていた魅力が残っているという認識に立ったことを指摘する。そしてこうした認識から、Nodierは擬音語辞典を編纂し、そこで、言語の起源と音の模倣によって生まれた語が、その物理的秩序を離れていかに抽象的な概念にまで達するかを検討したとする。
 つづいてSetbonはNodierのNotions〜から、詩が自然の模倣(harmonie imitative)から生まれたとする箇所を引用しているが、ここで対立するのが詩がstyleであるという考え方である。この引用文を読む限り、Nodierにとって詩の源泉はstyleではないということだが、実際にはNodierは擬音語辞典においても多数の古典主義作家を、そして彼らの詩で使われているオノマトペを評価している。これは作品そのものの評価でもあり、彼らが自然を模倣しているからとは断定できない。この点を慎重に考える必要があるだろう。
 SetbonはGenetteの論文を紹介し、「Nodierはクラチュロス主義の陣営に入る」こと、詩は詩人という天賦の才能をもった人々だけのものではなく、人間そのものに本質的な言語能力であること、そして音それ自体へのNodierの価値づけはそれまでのDe Brosse,Court de Gébelinとは違う言語論になっていること、そして、Nodierが後世のProust, Leiris, Bachelardといった「語の夢想者」につらなる、とまとめている。特に18世紀からの影響については、当時Nodierがそうした学者たちの後継者とみなされていながらも、Genetteによれば、文字システムの理解において、Nodierは彼らとはかなり違う位置に立っているとして、Nodierが単に18世紀の最後の後継者であるという考えが否定されている。
 Setbonが次に言語思想の系譜として指摘するのはRousseau, Chénier, Saint-Martinである。その『言語起源論』では、根幹となる語は、自然の音の模倣、もしくは感情の強さか、物がもたらす効果によって生まれてくるとされる。Chénierは原初の言語と衰退した現在の言語の対比から、オノマトペ豊かであった古代を憂愁をこめて懐古する。
 さらにSetbonは、JudenのTraditions orphiques et tendances mystiques dasn le Romantisme français(1800-1855)に依拠しながら神秘主義との関連性に言及する。特にSaint-Martin, LowthそしてFabre d'Olivetを引用し、詩が当初果たしていた、自然の中における真理の発現という思想と、Nodierの「イデーとイマージュの衝突を楽しむ自然の感情」という表現を連関させている。またSaint-Martinの「詩が単なる語句をひねり回すだけの芸術となってしまった」という批判も取り上げて、両者の連関性を示唆している。しかしながら、確かにNodierの引用にはイデーの文字が見受けられるが、Nodierは神秘思想的な解釈から詩を考えていたとは断定しにくいように思える。むしろ詩は、言語の発生における自然との一体性、人間の感覚は、真理の把握ではなく、あくまでもことばと物との一致における幸福感にあるとNodierは考えていたのではないか。この幸福感については論考を深めなくてはならないが、夢想とはまさにこの幸福感のことではないだろうか。
 またSetbon自身も言及しているとおり、Nodierの詩は、言語の起源に結びついている以上、観念ではなく語に焦点をあてなくてはならないだろう。La poésie est donc, à proprement parler, l'imitation du premier langage de l'homme「詩とは従って、本質的に、人間の最初の言語の模倣である」。そして注に引用されているNodierのテキスト、la parole n'est que la monnaie de la sensationの一文はことばと概念の一対一対応にNodierが否定的であったことの例証として注目に値する。
 ただし、Setbonは続いて、Charles BruneauのHugoとNodierの言語観の共通性に言及しながら、Nodierにおいて言語の起源は創世記の「創造神話」と当然ながら関連づけられていることを指摘する。そしてもう一点、言語は最初発声だけの(vocal)、分節化が十分なされていないものであったことが付け加えられる。こうした指摘は、Bruneau, Judenに沿うものだが、あまりにも神秘主義、神知学にNodierを近づけすぎているきらいがある。
 さらにSetbonはBonald, Ballancheのテキストを引きながら、アダムの言語、およびバベル以後の言語とNodierの言語観の親和性を主張する。しかしながらたとえばBallancheの思想の根幹には、引用文に依拠するかぎり、物の本質を知ることと結びついているが、Nodierにこうした「語を通しての本質の発見」という考え方はあったであろうか。この点については疑義を呈さざるをえない。Nodierの考えはそれほどメタフィジックなものではない。Setbonはアダムの言語観への留保としてGenetteを引きながら、Nodierが「言語の多様性が原初から存在していた」ことに価値づけをしていたことを指摘して、単なる神話的な言語論に陥っていないことを示している。その意味では、言語は民族への還元されうる。だが、Genetteが言うようにここで強調しなくてはならないのは、それぞれの風土の機械的な影響というよりは、それぞれの風土がもたらす自然との直接的な触知こそが、民族の言語の創造の根底にあるのだという点だ。
 ではその始源のことばにいかに近づくのか。それは語源を探ることによってである。Ballancheの引用は示唆に富む。「語源学とは真理の言述であり、まず語同士の真のつながりを見出し、そして起源における語と物との関係を見出すのだ」。確かにBallancheは言語の神的起源という考えから離れてはいない。しかし同時に言語と詩と社会がそれぞれ同時に生まれたことを指摘する。その意味で、言語思想においても神の撤退はもうすぐだったと判断できるのではないか。肝心なのは詩ではないのか。詩こそが原初への回帰を可能にするのではないか。では詩とはなにか。それは単なる名付けではない。それはメタファーである。
 次にSetbonはNodierの原初の言語への考えは、決して過去への郷愁に結びつかないことを指摘する。詩には創造という営みがあるからだ。そしてその詩とはシンプルでナイーブなものである。このあとにNodierによる詩人たちへの評価が続く。トゥルバドゥールの否定、マロの評価、そして詩だけではなく、argotに対する一定の評価、そしてpatoisの評価である。
 次に設けられる項目が「詩と想像力」であるが、そこでの引用で重要なのが、Malheur au poéme où il n'y aurait que des vérités mathématiques.「数学的真実しかない詩に不幸あれ」。数学的真実とは言語と観念が一対一対応をみせる完全言語のことであろう。ここでのSetbonの主眼はJudenにならって、詩のもつ魔術的魅力ー知覚対象の自然を詩にうたうことを通して、始源へと記憶を遡るー、それは想起の力と言えるだろうが(magie évocatoire)、それは秘教的体験とする必要はないだろう。むしろ言語をそなえた人間の普遍的な触知能力と言えるだろう(むしろGenette, p.252「代数学ではけっして計算以外のことはできないだろう」という引用への注を参照すべし)。Judenのいう詩のもつ「想起の役割」(le rôle mnémonique), 「絶えざる違和感」(perpétuel dépaysement)については、Nodierにそれほどのノスタルジーを認めなくてはならないかどうか、あらためて検討する必要があると思われる。もちろんNodierのpoésie descriptiveに対する批判、affectationやornements superflusへの嫌悪は妥当であるとしても。したがって、Setbonの指摘のなかで重要であると思われるのは、ce contact physique avec la natureということだ。この自然という物(対象)世界と物理的に接触をすること、これがNodierの体験の根幹にあるのだと考えられる。それが幻想の否定に結びつくかどうかは、あまり重要ではなく、この物理の世界から離れて、言語の自律構造を描くことがNodierには不可能であったことが、「夾雑物としての文学」ということにつながると主張したい。
 結局ここにあるのは音楽や創造と結びついた始源の詩と、18世紀における人為にはしった詩の失墜の対立だ。18世紀の詩とは、mesureやrimeによって詩が出来上がるという態度であり、Nodierはversificationの不毛さを徹底的に批判する。こうした批判はすでにSchlegelやMme de Staëlにもみられるものであった。これらの批判者は詩における魂との結びつきを強調した。さらにLamartineは「語の律動による感覚への訴え」と「思想の上昇による魂への訴え」の両方を満たすものだという立場を表明する。それに対してNodierは「詩は思想の総体であって、高貴で輝かしいフィギュールをもちいるもの」という理解にとどまっていたとSetbonは結論づけている。