柴崎友香

柴崎友香『春の庭』(2014)

 3人称で書かれた小説を特徴づける要素のひとつは書き手と登場人物の意識の関係である。書き手がどこまで登場人物の意識の中まで入り込んで、それを叙述するかという問いである。それに続いてもうひとつの問いが生まれる。意識と振る舞いの関係、すなわち登場人物はどれほど意識して振舞っているのかという問いである。

 実はこの二つの問いは小説という仮構世界だけで投げかけられいるわけではない。この現実世界においてもこれらの問いを私たちは多かれ少なかれ自分に投げかけていないだろうか。自分の心に浮かんでくることを私たちはある程度意識することができるし、そしてその意識にしたがって行為をすることもできる。

 だがこの意識の意識化と意識に基づいた行為は、日常において徹底されることはない。それどころか私たちはたえず流れてくる意識をある程度は意識しても、それはすぐに流れていく。またたえず流れていくからこそ、私たちは自明の意識に基づいて行為するよりも、まさに「流れにまかせて」動くこともある。

 小説の方法論においてもこの二つの態度をとることができる。ひとつは心理を解析し、行為を説明づける方向性である。もうひとつは意識の流れそのものを描写する方向性である。

 『春の庭』は、一見前者に属するようでいて、後者の描写の可能性を限りなく繰り広げた作品である。そしてそれをあくまで日常の画定された生活の中で描ききるという野心的な試みでもある。それはすなわち、私たちが普段「意識しない」意識の襞を言語表現によって初めて意識に立ち昇らせるという営みである。

 「意識しない」にはさまざまなヴァリエーションがある。ひとつはクリアな像を描くところまで意識化を徹底しないこと。主人公の太郎の質(たち)は次のように描写される。
  

太郎はなにをするにも「面倒」という気持ちが先に立つ質だった。好奇心は持っているのだが、その先にある幸運やおもしろみのあるできごとを無理して得るよりも、できるだけ「面倒」の少ない生活がよいと考えていた。(pp.27-28.)

 つまり好奇心という気持ちは湧いてきてもそれを突き詰めることはしない。意識にそって行為する前に、その興味の対象から離れていってしまう。

 おぼろげな意識の流れは、たとえば朝早く目が覚めてしまうときに現れる。カラスー生ゴミーカラスの羽を黒く染めてしまい逃げ出すフクロウー保育園の教室と意識は流れていく(pp.32-33.)。

 そしてこの作品でもう一つ、意識の流れに必然的につきまとうのが想起と忘却の機能である。太郎は10年前に父親を亡くしている。10年という月日の中で、父親の死んだことさえ忘れることがある。だが忘れたことさえ忘れるところまではいかず、太郎は想起の中に時折呼びもどされる。

 この小説は太郎という自意識だけを問題にした作品ではない。登場人物同士の意識の交錯とずれがたえず描かれている。そして幾分唐突に、だが大抵は善意をもって、お互いが他者の領域に入り込んでくる。アパートの住人たち、そして近所の住人という設定であるが、そのなかで人々が自分のテリトリーに他者を招きいれるのである。そこに「家」というモチーフが生まれる。

 おすそ分けだけならばとりたてて珍しくはないが、作中の人物は他人の部屋に上がり込み、ときには庭にまで侵入をする。さらに小説の最後では太郎は空き家になった「水色の家」に上り込む。だが、登場人物たちは、一見交流をしているように見えて、実はつかの間の「交錯」をしているにすぎない。やがて壊されるアパートの住人たちは、他者との交流が本格的に生まれる手前で、その場を立ち去って行く。

 太郎と並んで主人公とも言える、同じアパートの住人「西」は、水色の家に昔から執着心を抱き、ついにはその隣のアパートに引っ越し、挙句の果てに水色の家の新たな住人と交流を持って、家に上がるようになる。だがそれもつかの間、西は母のいる千葉へと引っ越し、住人も転勤で家を離れる。

 この小説の人物たちは、どこかで少しだけ過剰で、どこかで少しだけ何かを欠落している。だから人間関係においても、少しだけ唐突にこちらの領域に踏み込んでは、かすかに触れただけで、あっけなく去っていってしまう。

 だがそれは私たち人間の意識の明晰さへの弱さを物語っていないだろうか。意識をさらに突き詰めていき、物事へのこだわりを鋭敏に持ち続ければ、おそらく私たちはその意識の強度に実は耐えられず、日常から脱落してしまう。登場人物たちにはさまざまな偶然の共通点がある。しかしそれを言明化はしない。
 

太郎は、自分の名前があの水色の家に住んでいた男と同じことも、西と同じような市営住宅の団地で育ったことも言わなかった。

 もしここで共通の体験を持ち出せば、そこに共感が生まれていくはずだろう。人間関係はより親密になっていくだろう。だが、作品中にさまざまな共通の符号がちりばめられていても、決してその符号は共有されず、意識からは遠ざかってゆく。

 私たちが正気でいられるのは、実は共感の一歩手前で意識し続けることをやめてしまうからだ。もしそのまま自分の執着心をさらけ出したり、他者との一体感に溺れたりすれば、それは結局意識を白日の狂気にさらすことになる。日常とはこの意識の働きを眠らせておくこと、意識を徹底化しない訓練によって成り立つ。生き続けることと意識の明晰さとは実は反比例しているのかもしれない。その矛盾をあくまで日常に徹して書いたのがこの作品ではないだろうか。

 時間の流れと意識の流れはどのように浸透しあうのだろう。そもそも時間の流れは私たちには決して意識できないものではないだろうか。なぜなら時間の流れを意識するとき、時間は止まってしまうからだ。どれほど流れているように見えても、私たちの意識は、過去や未来のように区切りを差し挟み、ようやく事態を把握する。たとえ現在を意識していても、たとえば目の前に車があり、その横には人がいて、と行動に託して認識するように、行動と行動の間には、どれだけ瞬時のものであっても時間が刻まれる。区切りや刻みは、どこかで時間の流れを切ってしまうことを意味する。

 時間という人間の世界を置き去りにする流れと、意識という人間に内在する流れ。この解き難い二つの流れをどう考えるのか、十分哲学的な主題になる解き難い問いを、この作品は日常の地平で明晰に描いてみせる。主人公砂羽は、離婚し、契約社員として働いている30なかばの女性である。私たちは彼女の意識や、他者関係の生き辛さを通して、時間の流れと意識の流れの繊細な混濁に気づく。

 砂羽の意識の流れは、作品内で「脳内会議」と形容される。それは現実に係留しているはずが、いつのまにか幻想へと沈んでいくずれとして、本人に意識される。脳内会議の間、時間は流れていくが、本人は時間を意識しない、その会議を意識したときに、時間が静止する。その描写はきわめて精緻である。

 彼女は、自らの<今、ここ>に、そこはかとない居心地の悪さ、根拠のなさを感じつつ、その<今、ここ>から離れていく。ここにいながら、気持ちが遊離していく。ここにいながら、まわりとはかすかなずれがある。そのたゆたいのなかで、他者との距離を感じる。ごくわずかなのにその距離が縮まろうとしない。同じ空気に接しているのに、その透明な空気が不思議な弾力をもち、近づくことを許してくれない。

 精神のバランスがおかしくなるのではというところまで、砂羽はその距離を見つめる。都会のような多くの人々が行き交う場所では、距離だけ考えれば、「初めて会う」人と数センチの距離に接することがある。そしてその一人一人が、自らの体験を携えて<今、ここ>に現れている。そんな人間同士なのに、お互いの間にことばはない。経験の交換はない。

 この小説の魅力は、距離自体を、多分の喪失感をいただきながらも、誠実に見つめることにある。距離が生む悲しみやすれ違い、そして理解の手前で止まってしまう人間関係。他者との出会い、他者との交流は、実は希有なものなのだ。都会に出て砂羽は思う。都会とは、知らない人に日々出会う場所。言葉を交わそうと思えば、すぐにもできる距離。しかしそれは縮まろうとはしない。

(...)いい感じはしないしゃべり方だったが、もう少し、なにか話してみたかった。さっきまで存在も知らなかった人が、どんなことを考えているのか、聞きたかった。(p.195)

 砂羽は、会ったことのある人間でさえ、数センチの距離で、接することを阻まれる。

 向こうの車両でもドアが開き、大勢が降りて、降りたのより多い人々が乗り込んだ。わたしと同じように人波に押されてドアのところへ立った特徴のないグレーのスーツを着た乗客二人の、その顔を見て、あっ、と思った。
 東京に来て最初に派遣社員で勤めた会社の、営業部の人だった。斉藤さんと、もう一人は名前が出てこない。彼らは、電車の混み具合に苦笑していた。わたしが頭をくっつけているガラスと、少しに空間と、またガラスを隔て、すぐそこにいる彼らの姿はとてもくっきり見えるのに、彼らはわたしにはまったく気づかなかった。(p.151.)

 この象徴的な場面が示すように砂羽は常に、その機会を捉え損なう。この場面だけではない。ずっと「脳内会議」をしながらも、考えと、実際に発することばとは常にずれをはらんでしまい、砂羽が他者に近づくことを遠ざける。

 そこには不器用という性格には還元できない、根源的な人と人との距離、内面を推し量ることへの距離が横たわっている。その距離が最も顕在化するのが、ある体験を持っている人間と、その体験を持っていない人間の距離だろう。そして21世紀の「日本人」の私たちが、根本的な差異を感じざるをえない体験者と非体験者の距離は、戦争体験であろう。砂羽は、むさぼるように戦争体験のドキュメンタリーをテレビに映し、それを見続ける。その意味は本人もわからない。本人自身が言うように戦争などないほうがよい、人が死なないほうがよい、という思いで見るならば、その行為の意味は明らかだろう。そんな倫理的な要請ならば、体験者と非体験者の距離など意識しなくとも、正義の名において、戦争を見ることが正当化される。これらの悲惨な行為を二度と起こさないことを誓いながら見るのだ。

 だが、正義と倫理は簡単に物語化しやすい。私たちは、戦争の物語を「楽しめる」のは、実は死ぬだろうという期待(p.191.)、によって先を予期することによって、いびつな快楽をえることができる。だからこそ、砂羽の意識はそれを本能的に回避する。

母に祖父母のことをもっと尋ねてみてもいいのだが、なんとなくずっと聞く気がしないままでいた。祖母と祖父がどこで生まれて、どんな暮らしをして、たぶんそれなりにドラマ的なこともあるに違いなかったが、それを知ってしまうと、なんというか彼らの人生が一つのまとまりになってしまうのを、おそらくわたしは、まだ受け入れられずにいる。映画やテレビドラマのように納得してしまうことが恐かった。(p.143)

 まさに時間の流れを過去としてひとくくりにし、わたしと関係のある人を物語の主人公に仕立てて、過去の中に固定する。それは停止した時間の動かない永遠に死者を投げ込むことなのだ。

 だがこの小説の優れている点は、私たちの存在がある時間、ある土地に釘付けにされたものではなく、うつろいゆくがゆえに、時間と空間の限定を抜け出して、他者の時間と空間に重なりあう可能性を表現しているところだ。ある場所に立つことによって、その場所にはもはやいない人間の「眼」になることができる。

十年前、呉で、音戸大橋の前に立ったとき、帰ってきた、と思った。祖父が死ぬ前に見えると言っていた橋、祖父が帰りたかった場所に、代わりにわたしがいて、わたしの目がその赤い橋を見た。(...)祖父は帰れなかったが、わたしがそこに帰った。祖父が橋の名前を言ったのを、わたしだけが聞いていたから。(p.141)

 同じように、砂羽の知り合い、葛井の妹、夏は、同じく砂羽の友人の中井を通して、砂羽の言っていた、8月14日、空襲を受けて損壊した後の残る大阪、京橋の、ある場所に立つ。わたしのいない場所に、わたしの代わりに立つ人がいる。時と空間の隔たりをこえて、人と人が重なっていく。距離は埋まらない。しかし時間と空間のずれを内にかかえこみながら、ある人の代わりとして、その場にいる人に出会う。

 私たちは他者との距離を埋め合わすことは絶対にできない。私たちはひとりひとりが、どんなに薄いものであろうと仕切りによって他者から遠ざけられている。しかしそれは、他者を理解できないことを意味しない。なぜならば、私たちは、時間と場所に限定されている存在ではないからだ。時間の流れ、場所の移り変わりによって、所在なさという不安を抱え込むとともに、かつて人がいた場所、かつて人がいた時間に、自らを置くことができる。それは瞬間的な事かもしれない。しかし人間はその瞬間を時間の中におさめ、その瞬間によって、以後の生き方を変えることさえできるのだ。それが生の充実であり、変化こそ他者とともに生きる根拠となりうる。