Adam, Olivier

Olivier Adam, Le cœur régulier (2010)

 タイトルLe cœur régulierは日本語にするならば「心の鎮まり」だろうか。小説中の一節«Sentir battre en moi un cœur régulier»(「自分の中で心臓が正しく鼓動しているのを感じること」)からこのタイトルがとられている。正しい鼓動とは、「正常で規則的で」ということだが、この小説のテーマが「喪の作業」である以上、動揺していた心がやがて、平常へと戻っていくことを指しているのであろう。
 主人公のサラ(Sarah)は、弟ナタン(Nathan)を亡くし、それまでの完璧に見えた生活が、自らの本心ではなかったことに気づく。銀行員で高給取りの夫、私立に通う娘と息子、そして自らの仕事。そのいずれもが現代フランス社会での成功者の縮図となっている。それに対して子ども時代は双子のように仲の良かったナタンは、定職につかず、世間への憎悪をむき出しにし、アルコールのほとんど溺れつつ、小説を書いている。
 そのナタンのほとんど自殺に近い死の知らせのあと、サラは、ナタンが旅行をし、みずからの心の平安を見いだした日本のある町へと旅立つ。その海岸に面した町は自殺の名所としても知られるが(おそらく東尋坊だろうか)、そこで自殺をしようとする者に声をかけて、自殺を思いとどまらせる「夏目」という人物と出会う。この町での滞在は、サラにとって、ナタンの存在を思いださせる機会であると同時に、ナタンと自分との関係、そして自分自身の喪の作業の機会ともなる。
 喪の体験は、残された者に自らの生について問いかけをせまる。その生と死において、みずからの生活が丸裸にされるような体験だろう。今までの自らの価値、人生の歩み、人間関係そうしたものがむき出しになって、目の前に現れる。
「社会的成功」(réussite sociale)の中で暮らしていたかに思えたサラは、ナタンの死をきっかけに、その生活を離れ、ナタンとの関係において自分の存在を見つめ直してゆく。それが喪の作業なのだが、もちろん心は容易には鎮まらない。

「しかし本当には何も鎮まるものはなかった。私の中の何かがまだ抵抗している。何かが激しく泡立ち、神経がいらだつ。あの高みにのぼりたい、そして呼吸をする」
 
自分の存在とは、他者に取り巻かれた関係としての私である。しかし喪においては、そのような他者との関係性さえもが壊れてゆく。
 
「死が私たちの愛するものをとらえたとき、おたがいにどれほどなぐさめあおうとしても、それは不可能であり、堪え難くさえある」

 愛する者の死によって、私たちは生き残った者同士の関係も変わらざるをえないのだ。死を契機として、お互いが疎遠になったり、あるいは親密になったりと、人間関係に変化がもたらされるのだ。その新たな人間関係を受け入れることが生き続けるということであろう。
 この小説で描かれているサラとナタンはあまりにもfragileであり、その二人をとりまく人間たちはあまりにもindifférentである。その人物描写の深まりのなさが、時に読んでいるものに、登場人物をあまりにも幼稚な人間として伝えてしまうきらいがある。類型としての人間しか、ここでは行為していないかのようだ。約束事しか話さない人間たち。それがこの小説の弱さでもある。