言葉によって「被災」を伝えるという場所にいた人間が、誰を主語にして言葉を書くべきなのか、その主語を決めたとき、言葉は誰に向かっていくのか、この問いを真剣に考え、その答えではなく、考えることの持続性をつづったのが本書である。

 軸は「喪失」と「個の言葉」(p.14.)。「被災者」や「福島の人」という「肩書き」(p.273.)ではなく、個人として、自分の喪失の体験を語る言葉を聞き取り、文字にし、そこに自らの声を謙虚に響かせ、複数の言葉を織りなすことで本書は構成されている。

 個の言葉の反対にあるのは「大きすぎる主語」である。大きすぎる主語で語られた言葉には、「伝える側の主張が張り付いているように」(p.20.)感じられると筆者は言う。それは正義だと自らの言葉を思う人間の主張であり、他者を説得、さらには論破する魂胆のある言葉、すなわち他者に受け取り、従うことを強制する言葉となる。

このノンフィクションは、当事者の言葉だけではなく、その当事者に出会うまでの経緯も綿密に記されている。第1章1「なぜ農家は米を捨てたのか」では、農家の方に会うきっかけは友人のカメラマンだった。そのカメラマンが撮った写真の中で、決して面に出さなかった写真とは「苦悩する住民の姿」や「立ち入ることができなくなり時間が止まってしまった街の悲劇」の写真であった。つまりそのような意味がすでに張り付いてしまっている写真である。それはイメージ通りの写真であり、仮にその現場がいかに想像を絶する光景に見えたかとしても、私たちは、そこに「想像を絶する」という意味に合致したイメージを求めるだけになってしまっている。

 取材を通して、著者が戒めていることは、イメージがもたらす個別性の捨象であろう。

 大きな事故の中で、人々はときに記号として扱われ、それぞれが考えているはずの声はどこかに消えてなかったことになっていく。住民、原発作業員、農家、東電社員ーメディア上でわかりやすい記号としてまとめられる中で、「個人」の声は小さくなっていく。記号として伝えるだけがメディアの役割ではないはずなのに。(p.209.)

 「わかりやすい記号」としての理解は、合致したイメージの受容と同じく、私たちがこれ以上考えることを妨げる。もはや解決した問題として、あるいは逆に解決しえない問題として、私たちは記号によって理解する。解決した・しえないは、いずれにせよ、私たちが問題を投げ捨てたことを意味する。

 では個人の言葉であるならば、そこから具体的にどのような声が聞こえてくるのだろうか。第1章では、インタビューを受けたお二人が、自らの体験から、震災を経て、自分の「役割」をわかったと述べている。それは意味付け直れた人生という意味の役割であろう。人生の意味はその都度変わっていく。記号のように固定化されたものではない。

 もちろんそうした意味付けの行為の可能性は個人によって異なる。特に喪失体験はきわめて個的な体験、固有の体験である以上、その体験をどのように名付けていいのか、言葉の見つからない人もいる。時が経てば、意味付けができるようになるものでもない。個人の時間もやはり個的なものだからだ。

 確定的な意味を見出すことのない状態を、筆者は「揺らぎ」と呼んでいる(p.166.)。揺らぎのない状態とは正解が確定している状態である。筆者はインタビューをした相手の次の言葉を書き記している。

 「ほとんどのインタビューでは、こちらは聞きたいことを聞く、相手は話したいことを話すというところで終わってしまう。それだけで、私たちは被災した人の気持ちをしったような気になっていないだろうか」(p.167.)

 言葉が交わされたとしても、自分の中にもともとあった言葉を相手の前で話すだけ。それは「相手」が記号化されているということ。相手が誰であっても、言葉が変わらないということは、そこでは、他者の存在によって、意味が新たに生まれることはないという言葉が生を失っている状態だ。
 
 ではどうしたら言葉は生を取り戻すのか。体験が個的であればあるほど、他者との交流の中で、新たな意味が生まれてくることは難しい。そのもっと手前のところで個人は自分の体験において苦しんでいるのではないか。その苦しみとは答えの出ない問いの反芻である。その反芻からしか言葉は生まれてこないのではないか。それが思いの深さである。

 例えば書くことで、話すことで、聞くことで人は自分の思いの深さに気づいていく。あてはまる言葉が見つかることもあれば、いくら探しても自分の喪失感を表現する言葉がないことに気がつくかもしれない。(p.170.)

 深さとは持続のことだろう。考えることは時間の中で行われる。絶えずではなくてもよい。ただ時にであっても、考えを再び巡らせること。経過していく時間の中で、その時その時の死者と私との関係を捉え直していくこと。関係は変わっていくだろう、そしてそれを捉える言葉も変わっていくかもしれない。だが、その変容し続ける言葉は、どこかで誰かの元に届く。正解ではないからこそ、相手はその受け取ったことばを考え始める。そのときに筆者のいう共振の可能性が生まれるのだろう。