1960年に発表された「言語学と詩学」は、言語学者、文学研究者などを前にして、言語学と文学に裁断されていた当時の研究状況に対してやや挑発めいた批判をしながら、その両者を包括的に扱う理論的基軸を提言した講演の記録である。その姿勢は次の一言に表明されている。

詩学が第一に扱う問題は、「言語メッセージを芸術作品たらしめるものは何か」である。(p.184.)

 芸術言語と日常言語があるのではない。そうではなく私たちの用いる言語はある条件化で芸術作品となる。ならばその条件とは何かとヤコブソンは問うている。ヤコブソンにとっては詩学も言語学の一構成部門であり、その根拠は、言語芸術も、それ以外のさまざまな言語活動のすべてが、一般記号学に属することにある。言語が記号であるとは、意味するものと意味されるものがあるという単純な事実を指している。

 しかしこの論文を読むとき、この意味の問題は見過ごされがちとまでは言わないが、詩の問題を扱うためか、あまり強調されない。

 この論文が古典として読まれて続けているのは2つの有名なテーゼが展開されているからである。1つは言語の六機能(因子:機能/発信者:主情的/受信者:働きかけ/コンテクスト:指示的/接触:交話的/コード:メタ言語的/メッセージ:詩的)である。

 詩的機能とは何か。それは「メッセージそのものへの指向」である。メッセージは何かを伝えるために発せられる。しかし詩的機能は伝えられるものではなく、伝えるその言語自体を指向する。詩ではなく、詩的機能と言っているところに注意を払いたい。詩は日常的な言語活動から独立した言語形式ではなく、詩は、言語の六機能のうち、詩的機能がもっとも支配的になった言語形式に過ぎない。

 もう1つは次のテーゼである。「詩的機能は等価の原理を選択の軸から結合の軸へ投影する」(p.194.)。ある文をつくるとき、あるいは一まとまりのテキストを作るとき、私たちは等価な候補から一つを選択する。その候補を結合させることによって文、あるいはテキストを完成する。しかし詩的機能においては、ある選択が、結合の他の箇所の選択を支配してしまう。

 見逃してはならないのは、この2つのテーズの重要性を具体的に例証をするにあたって、ヤコブソンがともに「音」の現象を取り上げている点である。

 「メッセージそのものへの指向」では、口調による順番の決定(ジョーンとマージョリーの順番)、類音法へのこだわり(The horrible Harry。terribleなどさまざまな形容詞が考えられるなかで、Harryにあわせてhorribleが選択させる。あるいはI lile Ileのように韻を踏む)である。

 「等価の原理」においても、たとえば«Veni, vidi, vici»のように同一の語頭子音と同一の語末母音の語が、次にくる語の選択を支配しているのだ。

 これに続いてさらにヤコブソンは精密な「音文彩」の分析を展開してゆく。それはいわゆるversification「作詩法」である。たとえば律格体系の3つのカテゴリーなどである(音節式韻文:音節の一定数の繰り返し、強勢式韻文:アクセント、音量式韻文:音節の長さ)。

 しかし論文の後半では、ヤコブソンは周到に意味の問題を取り上げる。すなわち等価の原理は、音の選択だけではなく、意味にも影響を与える。この音と意味についてヤコブソンはポール・ヴァレリーのことばを引く。「音と意味の間でのためらい」(原文はL'hésitation prolongée entre le son et le sens。音と意味の間で続くためらい。この格言は、意味が自明であること、メッセージ=伝達されるものの自明性であることが問題となろう)。

 押韻語の間には、類似であれ相違であれ、強い関係がある。ヤコブソンは例としてホプキンズのblind-find, dove-love, light-brightなどの押韻された語における意味の関係を指摘する。つまり「音の等価性は、不可避的に意味の等価性を含み」(p.208)、比較の要素を成り立たしめるのである。具体的にはロシアの婚礼歌がひかれ、律格上および当時上でも等しい位置関係をもつ節の平行関係によって、換喩、および隠喩の関係があることが指摘される。つまり詩における意味は、音の構造によって密接に結びついた二項の間の「複雑で多義的な本質」(p.211.)として存在しているのである。さらにヤコブソンはポーの詩をひいて次のように言う。

詩にあっては音の顕著な類似はすべて、意味の類似/または相違との関係において評価される。(p.213.)

 そもそも冒頭で述べたように、ヤコブソンは詩だけではなく、あらゆる言語活動は記号の体系であるという前提から出発しており、さらに隠喩と換喩の構造は、彼の理論の支柱のひとつである以上、意味の問題へと帰着するのは当然であろう。その視点に立てば、実は論文の冒頭からすでに「意味の問題」は随所に現れている。
 たとえば六機能のひとつ、主情的機能の例として出される「チェ!」は、「怒りや皮肉を表明」しており、意味が伝達される。「今晩」という言い方には四十種類のメッセージを込めることができるという例は、私たちがその主情的機能を「読解」することができる=意味を引き出すことができるということ示している。

 あらゆる言語活動は意味をはらんでしまう。バンヴェニストは言語をそう定義した(II, p.217. «... le propre du langage est d'abord de signifier.»)。ヤコブソンのほぼあらゆる例は、意味の解読にあった。だが、ヤコブソンの意味の解読行為は、バンヴェニストのそれと異なる。ヤコブソンは音と意味の強い結びつきの構造を整理(=構造化)し、解明しつくしていく。それは記号の等式を解いているようなものである。ここにあるのは内部から構造化されたという意味での完成された作品であり、意味は一点の曇りもなく明るみに出しつくされる。すなわちそれは答えがいつでも明示されうる「文彩」の解読なのである。「文彩」は言語の創造的機能であると同時に、装飾にもなりうる。解明されうる彩とは限りなく装飾に近い。

 問うべきは、「文彩」の創造性ではないか。どれほど独創性のある「文彩」が散りばめられているか。その意味の生成に我々が立ち会うことができるかが問題である。だからこそ文学の条件=歴史性が次に問われる。すなわち文学の文彩が色あせる宿命を持っているとするならば、その言語構築物が文学の役目を終えて、日常的な俗な言語へと=装飾へと陥っていくことは十分考えられる。

 だからこそ、バンヴェニストが試みたように意味の生成を考えなくてはならない。意味の意味を問わなくてはならないのだ。文彩となる前の、ものそのものに私たちを立ち会わせるような、意味の生まれてくる場所を開示する文学こそ問わねばならない。