Donovan, Open Road (1970)

open_road.jpg カックルさんの番組でかかっていたRiki Tiki Taviがもう一度聞きたくて、探していたら見事横浜レコファンでゲット。850円也。

 冒頭ヴィレッジグリーンと間違えそうな牧歌的なイントロで始まるChanges。タイトルの印象もあってボウイをも彷彿させるロック志向の曲である。このアルバム、ドノヴァンがロックバンドを結成して制作したファーストである。そのせいかドラムの音がやたらうるさい。

 全体の印象としては、フォーキーだったドノヴァンの繊細な曲が、楽器編成によって大げさに演奏されたという感じがしないでもない。とはいえ、60年代の叙情性を保ちながらも、吹っ切れた潔さがあってなかなか聞きごたえがある。

 2曲目の牧歌性、3曲目の叙情性そして4曲目のドリーミーさなど、時代の音とドノヴァンらしいの音作りがうまくブレンドされ、十分に堪能できる仕上がりになっている。

 5曲目People used toは、タイトル通り昔の生活の回想を歌ったfolkloreな曲。そして6曲目はCeltic Rockという、こちらもタイトル通りケルティックなメロディを翻案した曲だが、ケルトについての憧憬はむしろ次作H.M.S.Donovanのほうが徹底しているだろうか。

 Season of Farewellもドノヴァンのfolkloreな色調が堪能できる曲。アコースティックギターの音色にあわせてFinallyと静かに幕を開けながら、やがて少しハードなバンドロックの音へと転調してゆく。そしてまた静へ。こうしてゆったりとうねりながら、やがて曲はサビの部分へ。

Mystery, sorcery, and guile
Used to be
What made me the lonely one
But now
I'll be the only one to plea

 ヴォーカルが入れ替わりながら歌われるこの一節が、韻の調子もあって強く印象に残る。そして「このメロディどこかで聞き覚えが...」と思って、必死に思い出していたら、そうMidlakeのBranchesという曲の郷愁ととっても似ていた。40年も開きがあるけれど、Midlakeの音が多分に70年代初頭の音っぽいのだろう。

 そして実はこのアルバムで一番気に入っているのが最後のNew Year's Resolution。iTunesでも、また再発のこのCDのクレジットもResolutionだが、オリジナルはResovolutionとなっている。RevolutionとResolutionの掛け合わせなのだが、どうもそれが現在では反映されていないようだ。

 この曲のアコースティック感、そして自分が最も弱い男性ヴォーカルの高音で声がひっくりかえる部分、そして、曲がアップテンポになっていきながら、ドラムと弦楽器の音だけが残りそこにドノヴァンのヴォーカルが重なり、最後はラーガロックのような呪文にも似た歌い方になってフェイドアウトしてゆく展開。実に完成度の高い、ドノヴァンのなかでも優れた一曲ではないだろうか。

 ある曲が聞きたくて買ったアルバムで、他の素敵な曲を発見する幸せ。フォークやロックといったジャンルに収まらない、その意味で中途半端でドノヴァンを代表するアルバムとは言えないが、曲のクオリティから考えればドノヴァンの創造性がいかんなく発揮されたアルバムと言えるだろう。

another_side.jpg このアルバムにはフォークのアルバムとして考えれば極端に長い曲が2曲収められている。1曲は「自由の鐘」。もう1曲は「Dのバラッド」。それぞれ7分、8分以上の曲である。それ以外の曲が2分〜4分ということを考え合わせれば、この2曲の例外ぶりがわかる。だが「自由の鐘」はこのアルバムのベストテイクだと思う。

「自由の鐘」は歌詞をじっくり聴いたならば、この長さが必然性を持っていることがわかる。中村とうよう氏がライナーで言っているようにこの曲は自由を求める歌だからといってプロテスト・ソングではない。もっと普遍的に人間はどのような生存の状況に置かれるときに、自由を希求するか、それを歌った曲である。

For the countless confused, accused, misused, straung-out ones an'worse
An'for every hung-up person in the whole wide universe

「自由の鐘」のほとんど最後の歌詞だが、-edで終わる単語がつながる部分の歌い方は凄まじい。殺気をはらんでディランは歌い込む。これはプロテストだろうか。これは流派を越えた、おおよそあらゆる辛酸をなめ、運命を呪わんばかりの境遇に置かれたあらゆる人間のための、祝福の祈りを込めた歌である。それは歌に運命への叛乱を仮託する人間の絞り出す歌である。

 この曲を聴くだけでもこのアルバムを聴く価値があるが、もう1曲選ぶとするならばMy Back Pagesだろうか。もうすぐロックが生まれる予感のするなかで、音楽の若さを高らかに宣言してもよいのに、この曲での若さはすでに老成した人間から語られる若さになってしまっている。

Ah, but I was so much older then,
I'm younger than that now.

 あの若いときのほうが老けていた。そしておそらく歳を経たであろう今の方があの頃よりも若いとディランは歌う。すでにロックという若者の音楽は、最初から歳をとってしまっているかのように。

 ところでこのアルバムの1曲目All I Really Want To Doの最後、そして9曲目のI Don't Believe Youではディランが笑いながら歌っている箇所がある。それもきわめてシニカルな、社会を、私たちを冷徹に見下すような笑いである。同時に「歌はばか正直に歌うものではない」という、歌いながらもその歌う自分を冷徹に見透かすディランの姿が浮かんでくる。

 そしていよいよ最終曲でディランは私たちを決定的に突き放す。

No, no, no, it ain't me, babe It ain't me you're lookin' for, babe

 こうしてディランは自らの虚像を否定し、表現者へ、時代の真の批判者へと歩みを進めて行くことになるのだ。

 感性や夢想ということばは誤解を生みやすい。感性や夢想は、知性の道具であることばを介在とせず、あるいはことばによって狭められてしまう私たちの認識を限りなく広げうるためにあると思いがちである。詩的な快楽とは、ことばを用いながらも、ことばには達しえない世界の存在の暗示がもたらす倒錯的な快楽、あるいは幸福であると思いがちである。

 だが注意しよう。それは、熟思を求めない安楽さを与えることで、人間の精神の可能性を貶めてしまう安易な知性/反知性の二元論に基づいている。詩とはあくまで「コトバ」である。私たちは「コトバ」によって、この世界を再認識する。認識とは、在ることの承認に過ぎない。再認識とは、在るはずである世界のあり方とは異なる相貌のもとで、世界を認識し直すことである。

 このような観点から、バシュラールの詩学の一端を整理しておきたい。

『空間の詩学』第8章«L'immensité intime(内心の広大さ)»は、一見相反するものが、詩的行為によって、調和を得て、綜合することを論じている。

 冒頭バシュラールは広大さとは眺める対象のそれであると言う。確かに私たちは、海や平原を眺めて、無限に続くかと思われるような広さの感覚をいだく。おそらくこのような対象を前にした感動ならば、ことばは要らないであろう。しかし、バシュラールは次のように続ける。

Par le simple souvenir, loin des immensités de la mer et de la plaine, nous pouvons, dans la méditation, renouveler en nous-mêmes les résonances de cette contemplation de la grandeur. (p.169. 邦訳p.314)
 
単なる思い出だけでも、海や平原の広大さから遠く離れて、私たちは、長く、深い熟思をしながら、この大きさを眺めたことの反響を私たちの中で、新たにすることができる。

 私たちは対象に対して受動的な立場にいるのではない。広大さとは対象に固有の性質ではない。それを眺める私たちのなかで、同時に想像力が作用する。作用では十分ではないかもしれない。それは私たちの能動的な「働き」と言ってもよいだろう。

 この想像力によって、イマージュは拡大されてゆく。イマージュとは固定化されるものではない。イマージュとは、«le flux de production des images イマージュが生まれゆく流れ»(p.169. 邦訳p.314)、とあるようにたえざる運動なのだ。その意味で詩的想像力とは、世界を、世界の美しさを受け入れる受動性から離れ、その世界を刷新し、新たなイマージュを生んでゆく運動なのであり、これが詩作品という言語芸術の条件となる。

 この能動性は、自らのなかにも「広大さ」を意識するように私たちを誘っててやまない。«L'immensité est en nous. 広大さは私たちのなかにある»(p.169. 邦訳p.314)とバシュラールは言う。世界を刷新する動きは、私たち自身を刷新する動きである。それは主体と客体という二元論に立つことはなく、バシュラールは「私たちは世界に投げ出されているのではない」とも表現する。世界との対決ではなく、世界との交感的運動のなかに詩的存在としての我々は存在しているのだ。

 こうした詩的状況をバシュラールは«L'immensité intime(内心の広大さ)»と名づけているが、それをもっともよく体現したのがIVで扱われるボードレールである。

 バシュラールは、広大さを表す、ボードレールらしい語としてvasteを取り上げる。«vastes loisirs», «vastes silences de la campagne», «vastes perspectives»など、この語が頻用されていることを詩的した上で、バシュラールはボードレールを扱う理由を、『日記』の一節を引きながら、次のようにまとめる。

Le spectacle extérieur vient aider à déplier une grandeur intime.
 
外の光景が、内心の大きさを伸べ広げてゆくのを助けてくれる。

 この外と内が綜合されること、その綜合がvasteという単語でなされることをバシュラールは指摘する。たとえば«Correspondance»のなかの一節。

Vaste comme la nuit et comme la clarté
 
夜のように、そして明るさのように広大な

 こうしてvasteは「対立物を統一する」(«Le mot vaste réunit les contraires»)。語の詩的機能は、このような対立をイマージュとして私たちに実現可能なものとして差し出しくれる。この実現された世界が「精神的な自然 nature «morale»なのである。

(バンヴェニストは詩における言語の機能が、このような統一/反響が、連辞関係を越えて行われることを草稿12, f3/f55で書き留めている。それによればnuitというsigne iconique-イコン=イマージュとしての記号-はiconisantとしてluitと呼応し、iconiséとしては、こちらは連辞関係としてvasteと呼応すると述べている。バンヴェニストの文学論は多分にバシュラールの影響のもとで出発している印象がある。このあたり実証すべき事柄である。)

 繰り返すが、この「対立物の統一」は詩的言語によって可能となる。普通ならば矛盾するものが統一されるのは非ー言語的、すなわちロジックを越えた世界でのみ可能ということはない。そもそもボードレールの詩的言語は非ーロジックな言語ではない。通常の連辞と範列の関係ではなくとも、有機的な関係を作りうるという意味では十分ロジックな言語である。そしてこれを可能にしているのはボードレールの霊感ではなく、あくまでもméditation(長く、深い熟思)である。

La méditation baudelairienne, véritable type de méditation poétique, trouve une unité profonde et ténébreuse dans la puissance même de la synthèse par laquelle les diverses impressions des sens seront mises en correspondance.
 
ボードレールの熟思は、詩的熟思の真のタイプであり、深くて暗い統一を、さまざまな感覚の印象が交感しあう綜合のもつ力強さのなかに見いだすのだ。

 バシュラールも言うように交感は「単なる感性の事実」ではない。そこには「詩的熟思」が必要となる。バシュラールがそれによって言わんとすることは、この熟思によって可能となる「世界の広大さの内密の広大さへの変容」である。だが、バンヴェニストの残した草稿を読んだ今、これらすべてー刷新、統一、変換ーは、語と語の有機的関係化によって可能となることをさらに強調するべきであろう。

 次にバシュラールが言及するのは「運動」である。上にも述べたように詩的言語とは固定したイマージュの叙述ではない。それは(vasteという単語のもとに存在する)«un complexe d'images イマージュの複合体»である。

 さらにバシュラールはボードレールの音楽評論(ヴァーグナー、リスト)を引きながら、immensitéとintimeの関係について論証を試みる。広大さの運動は、内的な世界の深まりに呼応して進んでゆく。だからこそバシュラールは言うのだ。

La rêverie de Baudelaire ne s'est pas formée devant un univers contemplé.
 
ボードレールの夢想は、眺められた宇宙を前にして形成されたものではない。

 そのためにボードレールは、「あまりにも安易な隠喩」(de si trop simples métaphores)から離れる必要があった。それはすなわち、外部の広大さと内部の広大さの運動を生むことのない、固定されたイマージュの集積に過ぎないからだ。こうしたことばを棄てて、真に詩的な言語を求めることによって、ボードレールは、人間が深部にわたって自らの存在を意識することの可能性を私たちに、「あくまでも言語を通して」、見せてくれたのである。