Brett Dennen, So Much More (2006)

so_much_more.jpg シンガーソングライター。自分で作詩、作曲をして、自分で歌う。とてもパーソナルな行為とはいえ、そうしたシンガーソングライターが生まれたのは、70年以降のバンドスタイルとは異なる、内省的な表現形態を求めていた時代の要請があったからだ。どれだけ個人的にふるまおうとも、そうしたふるまい方自体を社会が求めていた。だからこそシンガーソングライターは、自分を歌いながらも社会的な求心力を持ち得た。ニール・ヤングの『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』は、たとえばそうした力が、さらに時代を超えて普遍性を持ちうる代表的なロックアルバムだ。

 では今現在シンガーソングライターであるとはどんな意味を持つのだろうか。たとえばすでにキャリア十分のRon Sexsmithがいる。あるいはJack Johnsonのようなひとつのムーブメントを作れるミュージシャンもいる。だが彼らの音楽には時代と切り結ぶ緊張感はない。社会自体が音楽にそれほど強い切迫感を要求しないからだろうか。そうするとシンガーソングライターの善し悪しは、まずはその曲の雰囲気、特にパーソナルな表現としての憂いのようなもの、そして声質で決まってしまうところが大きいだろう。そうした資質のよって音楽の価値が決まってしまうのが、今のシンガーソングライターだろうか。もちろん彼らの音楽は胸をうち、人々に愛される。だが、どれほど多くの人に彼らの声は届くだろうか。結局はある趣味を同じくする人々にとっては愛される、しかし、そのコミューンに属さない人には素通りするだけのイージーリスニングに終わってしまうのではないだろうか。Jack Johnsonは優れたミュージシャンだとは思うが、そのムーブメントは単なるムードと言い換えてしまってもよいような希薄さがどうしてもつきまとう。たとえばふだんブラックソウルを聞かなくても、ウィルソン・ピケットを聞いて感動したり、そうしたジャンルを越えて届いてくるような波及力をどれだけ持ちうるのだろうか。

 Brett Dennonは、まさにその声質が魅力的なミュ−ジシャンだ。かすれた、線の細い声は、他のだれにもまねしようのない天賦のものだ。一瞬男性なのか女性なのか分からない中性的な声は、一度聞いたら彼だと分かる。そして曲全体をおおう憂いとその声質はみごとにマッチしている。曲調は、ただ自分が歌いたいことを歌ってしまったようで、何らかの影響を感じさせることなく、自由だ。だがそれは同時に、曲自体の必然性、「こう歌わざるをえない」とか、「こういうメロディ、アレンジにせざるをえない」というような必然性が希薄だということにもなっている。それはニール・ヤングとは究極的に反対の世界だ。だから曲の美しさが、単に耳に心地よいことの同義になってしまっている。こちらの気分にあわせてどうとでもなる音楽といおうか。ニール・ヤングには、こちらの気分を変えてしまうほどの強い求心力がある。だから誰にでも聞かせられる音楽ではないだろう。でもBrett Dennonならば、そんな心配はない。

 アメリカのインターネットラジオで聞くと、ぐっと印象に残るが、アルバムを通して聞くと、結局さらっと流れていってしまう。声のよさ、曲のよさに聞き惚れるならば一曲だけで十分なのだ。そうしたミュージシャンはアメリカに数多くいる。それがアメリカの豊かさなのだけれど。でも、そこからアルバムで聞かせてくれるミュージシャンはどのくらい生まれてくるのだろうか。こちらを振り向かせ、日常を違った空気で染めてくれるミュージシャンはどのくらいいるだろうか。