the_ballad_of_todd_rundgren.jpg 今でもあるのかわからないが、学生時代にもっとも信用のおけるレコード屋のひとつは池袋パルコの山野楽器だった。ここは銀座の山野楽器とはまったく違い、いつもぼさぼさあたまのあいその悪いお兄さんがひとりで切り盛りしていた(あるいはある売り場の一画だけだったのかも知れない)。しかし、仕入れなどはそのお兄さんが自らしていたということで(これも聞いただけだが)、とにかく品揃えが半端ではなかった。というか、山野に仕入れされる新譜をみて、ロックの勉強をしたといってもよい。とにかくそこに置かれるものだったら買って間違いはない。店の壁にはいろんなレコードのジャケが飾られ、お兄さんのロック趣味がもろに反映された店作りだった。そして、当時はそんなレコード屋のお知らせこそが重要な情報源だった。

 中でもTodd Rundgrenのライノレーベルからの再発は、ちょっとした大事件であった。とくにファースト、セカンドは当時ほとんど手にはいることはなく、そのジャケットセンスと名曲Be nice to meがはいったセカンドはかなりの値がついていた。それがすべて再発である。

 このアルバムは、Toddのメロディセンスがいかんなく発揮されたアルバムであるが、何よりも手触り感のする音の作りが素晴らしい。1曲目はドリーミィな雰囲気をただよわせた、Toddらしいポップな曲。そして2曲目はチャイムの音が美しい、バラード。いかにもToddらしい甘美でメランコリックな名曲。5曲目はワルツのリズムにのせた、わずか2分半の小曲だが、ギターの音色のせつなさが心に響く名曲。そしてアコースティックギターから始まり、Toddのヴォーカルが重なるうちに、曲が壮大に展開する6曲目は、このアルバムの一番の盛り上がりどころである。とくにThis is the ending of my songの歌詞にぐっとくる。

 Toddのアルバムのなかでこのアルバムが人気があるのも、どの曲もメロディがまとまっていて、他のアルバムにある変調や、あるいはとっぴょうしもなくヘヴィーな曲がほとんどはいっていないせいだろう。その分Toddがかなりの嗜好をみせるハードロック感はここでは抑えられ、こじんまりした感じも受けるが、それほどソウルでもなく、もちろんフォークでもなく、エンジニアとして凝りに凝ったというほどでもない・・・。それらのテイストがほどよく織り込まれ、そのあたりのアレンジの品のよさが、Toddの職人芸のなせるわざなのだと思う。ここまでのポップアルバムをつくるのは並大抵のことではないだろう。そしてここにおさめられた曲は決して古くならない、時代をこえたエヴァー・グリーンな輝きがある。

 Be nice to meはやっぱり美しい。曲の後半、nice to meの「ミ〜」の高音のところがすっとひきのばされ、ピアノと鐘の音がかさなるところなど、何度聞いても心をうたれる。

 なんだか凡庸な比喩ばかりで、「Toddらしい」という言い方に終始してしまった・・・が、とにかく時代の流れとはまったく関係のないところに存在する、ロックアルバムの古典だということは間違いないだろう。

my_friends_all_died_in_a_plane_crash.jpg 昔からフランスとロックというのは折り合いが悪く、バタ臭い音楽しか存在したためしがなない。むろん、Johnny Holidayのようなエンターテイメントに徹した潔さは、80年代以降のロッド・スチュワートのようだし、詩に限るならば、才能あふれたミュージシャンは多くいる。だが、アメリカやイギリスのような「ロック」を聞かせるバンドはほとんどいない。かつてTéléphoneというバンドが存在したが、このくらいだろうか、パンクロック風のさっそう感を感じさせたのは。

 だが、ここ数年英語でそのままロックを演奏するミュージシャンが増えてきた。先日Téléramaのpodcastを聞いていたら、トゥーレーヌ地方のバンドにはイギリスのロックの音を聞かせるものも多く、いまやトゥールはイギリスのマンチェスターに匹敵すると言っていて、おもわず微笑んでしまった。それはほめすぎだと。

 このCocoonも、フランスらしさをみじんも感じさせないデュオ・グループである。エリオット・スミスに影響を受けたということだが、確かにピアノとアコースティックギターによって織りなされる曲の進行は、もろエリオット・スミスだ。On My Wayや、Christmas songなどそっくりそのままである。

 しかし、マンチェスターだのエリオット・スミスだの言われても、感動しないのは、彼らの音楽には、どうしても音楽にたいする「せっぱつまった」ところを感じられないからだ。これしか方法がなくて表現されている音楽には聞こえてこない。たとえばTétéのサードなどは、ビートルズとボブ・マーリーの影響から抜け出して、トラジ・コミックのようなせつなさとユーモアをうまくまぜあわせた名盤だと思う。ここにはTétéが自分のスタイルをサードにして打ち立てた充実感がある。それに対して最近の英語で歌うフランスのバンドの大半には、結局はそうした表現の必然性を感じられないのだ。内省的であること自体はそれでいいのだが、それに陶酔していても、こちらに届く音楽は生まれない。ならばHip-Hop系の音楽のほうがよっぽど今のフランスの音楽シーンでは質が高いのではないだろうか。自らの表現手段に確信を抱き、それを信頼して自己を拡大させていくような、そして他者にぶつかってくる迫力の方がよっぽど、音楽の素晴らしさを教えてくれる。

 アマチュアリズムが悪いというのではない。アマチュアであろうと、そのミュージシャンが「これしかできない」という緊迫感をもたらしてくれるのであるならば、それがそのミュージシャンへの思い入れにつながる。たとえばMy name is nobodyというNantesのSSWは、これもほとんどニール・ヤングなのだが、「おれはギター一本でこうしか歌えない」という潔さが十分伝わる好盤である。

 音数の少なさや、男女コーラスの心地よさは、彼らの一つのミニマルな美意識の表れであるとはいえるだろう。しかしそれは、しょせんおしゃれなカフェでかかるBGMなのではないか。彼らの寂寥感は、人の心を締めつけるものではなく、午後のひとときを心地よく過ごすための材料にしか過ぎないのではないか。

 これは飾りであっても、表現ではないだろう。

 ロマンス語言語学は、19世紀後半になって、パリの大学機関において、科学的に研究されることによって、確立される。その立役者はGaston ParisとPaul Mayerである。パリ・研究組織・学問のヘゲモニーは、19世紀前半にロマンス諸語の研究に打ち込んだRaynouardなどの「先駆者」をいわば抹消する形で成立した。本論文は、「初期ロマニスム」の先駆者と見なされるRaynouardの業績が、その後のロマンス言語学に継承されなかった理由を問うことを通して、19世紀前半と後半のフランスにおける言語学の差異を検証している。
 Baggioniは「フランス初期ロマニスム」の時期を、制度機構の成立と、ケルト語起源説の衰退の観点から、Coquebert de Montbretの方言学とRaynouardのロマンス諸語の歴史を始まりとし、モンペリエ派によるロマンス言語学研究の専門化とParis、Mayerによって代表される組織の成立までとする。
 Baggioniによれば「初期ロマニスム」が生まれたころの言語研究には二つのタイプがあった。1)Volneyや啓蒙思想の流れを汲む言語哲学的思潮。一般文法の著述といった言語研究スタイルは19世紀の半ばになって消えることになるが、Raynouardの著作にはそうした一般文法の用語の使用を認めることができる。2) patoisに対する、郷土の専門家による言語の収集である。この流れには、Nodierのようなpatois擁護者の一般的な考察も含むことができる。「民族学的言語研究と民族的過去の領域の拡大」というロマン主義的思潮である。

 次にBaggioniは、Raynouardの「トゥルバドゥールの言語こそ、ロマンス諸語の祖語である」という主張を取り上げ、その主張が反駁を受けたことはもちろんとして、真の問題は、むしろ言語の変化であると言う。それは、ドイツの言語学派においては、言語の変化は、「言語形式の比較と、唯一の起源をもった、ある体系の歴史的発展」によると考えられる。それに対してフランスの言語学派では、むしろ「歴史的、文学的証拠」によって、言語の変化は考えられている。言語は貸借や民族の混淆によって変化してゆくのである。ドイツ側の歴史比較文法によれば(Schlegel, Diez)、言語それ自体の自律的な動きによって、系統樹のように枝分かれして変化をしていく。この考え方によれば(Schlegel)、フランス語の諸方言とは、もっともゲルマン化が進んだロマニアの土地から派生したと考えられる。それに対して、フランス側では、言語の変化は社会(民族)的、政治的変動によることになる。そしてRaynouard自身もこの政治的ファクターを強調しているのである。
 Baggioniはドイツの言語学が方法論を確立していく一方で、依然、フランスの言語学の思潮が存在し続けた例証として、LavelayeやFaurielを紹介している。Faurielにとって「言語の哲学的研究」とは、言語と思考の関係について考察するものであり、言語の歴史は文明の進歩の歴史を明らかにするものでなくてはならなかった。この時代の言語学とは、言語によって、人間の歴史、文化のあり方を明らかにすることが目的であり、それは何よりも、文学テキストを「文献学」的に綿密に読むことによって可能となったのである。「言語の歴史は、文学の歴史から切り離すことができない」。Faurielは外在的なファクターによって(cf. Raynouard)、ラテン語こそが、ロマンス諸語の起源であることを(cf. Schlegel)を主張する。

 次に検討されるのは、Raynouardの研究対象が「文書」であって、現在話されている「ことば」(parler)ではないという点である。言語の歴史的研究と、郷土の専門家による方言研究には接点がなく、Raynouard自身の古プロヴァンサル語と現在のロマンス諸語との比較の仕事においても、フランス語やオック語の方言はほとんど等閑されている。
 その意味で、Raynouardの仕事とは「文献学」に属するものであり、その評価はトゥルバドゥール文学の再発見にあるとされる。「トゥルバドゥールの言語こそ、そこからその他全てのロマンス諸語が生まれてきた言語」なのである。ただし、Raynouardの業績において、文学テクストは、ひとつのコーパスを形成するものであり、そのコーパスは、言語の歴史を証明するのに用いられるためのものであった。しかしながら、このことは、Raynouardの賛同者に認識されることはなかった。人々がそこに見つけたのは、「古プロヴァンス語で書かれた文学的遺産」だったのである。
 この文学的遺産という意味でのRaynouardの影響は、19世紀末により精密なテキストが編纂されるまで続いたと言える。その一方で、言語学的な観点から、Raynouardの名前がほとんど以後のぼることがなくなってしまった理由の一端は、patoisの位置づけの変化に求められる。Raynouardが活動した19世紀前半においては、patoisは、土地と過去の復興を目指すロマン主義運動の対象として注目を浴びていた。しかし、1870年のフランスの敗北は、その後のナショナリズムの高揚を高めることとなり、patois/dialecteの研究は、イデオロギー的な色彩を帯びざるをえなかったことにある。だが、それ以上に重要なことは、フランスの伝統において、「言語」といったときに対象になるのは、「体系をもった言語」ではなくて、「テクスト」であったことだ。したがって、言語研究は文献学的研究であり、言語を歴史的に研究することは、「人間精神の進歩」といった哲学的研究と同義であったのだ。このことが、言語が学問研究の対象になればなるほど、Raynouardに言及されることがなくなっていった重要な理由であるとBaggioniは指摘する。

 このようにドイツの言語学にとっては、言語の発展は言語自体に内在するものであるのに対して、フランスの言語学にとっては、その発展は外在的要因によるものであり、そのために、Fallotのような例外を除いては、Raynouardを始めとして、Fauriel, Ampère, Mandet, Mary-Lafonなどはしばしば文学や民族の歴史の中で紹介されることとなるのである。だがそれは、後の言語学の流れからみれば、遡行することのできない業績ということになるのだろう。
 Baggioniはこの時期の言語学の思潮を、啓蒙思想の影響とロマン主義の胎動の混淆としてまとめている。すなわち、1)言語、文学、文明を総体的に扱う歴史研究、2)民族の歴史における中世の再評価、3)民衆文芸への着目、4)一般文法の探究である。言語に外在する思考や、人間の歴史、文化、その表象としての文学、あるいは文体などが、言語を研究する意味だったのである。この言語の外在性は、以後(1870年以降)、「国民」の文化的アイデンティティと結びついてゆく。それは、言語研究の舞台において、方言の細分化を考えるモンペリエで活動していた言語学者たちへのParisやMeyerの批判となって具体的に顕在化するのである。

天童荒太『悼む人』(2008)

 最近の役所は、市民へのサービスということが徹底されているのか、フロアに立っただけで、誘導係が「ご用件は」と御丁寧にそばまでやってくる。ある老婦人が書類を見せながら訊ねていた。「これが婚姻届で、これが死亡通知書で・・・」。おそらくご主人を亡くされ、種々の手続きのため、証書の写しを取りにやってきたのだろう。しかし化粧もみなりもきちんとしたその女性からは、ふと耳にはいってきたことばを聞かないかぎり、夫の亡くした方だとはわからなかった。似た場面がこの小説にもある。主人公の祖父が亡くなった海辺に、家族がたちつくす。しかしまわりの海水浴客は、「誰も目の前で二日前、自分たちが大切に想っていた人が死んだことを知らない様子だった」(p.326.)
 自分にとって見ず知らずの老婦人だから、当たり前といえば当たり前だろう。しかし自分の暮らしている周りには、実はこうして死が偏在している。私たちは外見だけを、さらにその外見にさえ関心をいだくことなく、人々と交差しながら生きている。しかし日常とは、たまたま今日、一瞬すれちがったその老婦人には死が訪れ、私には訪れなかっただけのことなのだ。だから、「家族そろって食事のできる状況を奇蹟とつぶやいた」主人公の反応は、じつはきわめて正気なものではないだろうか。そして、私たちは日常の惰性のなかで、この死を忘却している。
 その意味で、「死の忘却」とは、「自分の死の有限性」を忘れている生き方ではなく、「まわりに満ちあふれている死の事実」を忘れていることだと言った方が、より私たちの日常に接して死を考えることにならないだろうか。こうした死のあり方こそ生(なま)の事実ではないだろうか。
 死の偏在。主人公の4人の祖父母の死が綿密に描かれている。また、出会うことのなかった、2人の叔父の死も、たとえ生の時間が重なることはなかったとしても、主人公の死の認識に、父母を通して、流れ込んでいる。それは「自分の命が渡る」(p.162.)という表現にみることができるだろう。「私」よりも前に生まれ、そして「死のすべて」(p.172.)、それは近親者をこえて、死んだ者たち、会うことのなかった今では死んでしまった者たちも含めて「命の時間」、「命のつながり」が、私に流れ込んでいるのだ。
 会うことのなかった死者は、それだけで、実際におなじ時間を過ごしたことのある死者よりも、遠い存在となる。自分のなかにその人の生の体験が刻みこまれなかった人は、その分、自分にとって、無名の死者に近くなる。
 ならばその無名の死者へと陥らず、その人が生きた確証をどのように掬い出し、記憶にとどめればよいのか。「ぼくは、亡くなった人を、ほかの人とは代えられない唯一の存在として覚えておきたい」(p.114.)、「自分が生きているかぎり覚えて」おきたいという主人公は、問いかける。「(その人は)どういった方に愛されていたでしょう。どんな方を愛したでしょう。どんな人に感謝されたことがあったでしょうか」。それを知れば、たとえ日々ノートを開きその死者を想い起こす作業をしなくてはならないとはいえ、死者が個別の取りかえの聞かない存在として記憶にとどまられ、忘却の淵に沈むことが妨げられると言う。死者として不在となった存在であっても、他者との関係性のなかで、その関係性がどれほどはかないものであったとしても、ある一瞬に、他者と愛によって結ばれたことがあるならば、その人は無名性に落ちてはゆかない。存在の確証が他者の存在によって織り上げられることが、「悼む」ことの意味になっている。
 私たちはどれほどの死者を、その固有性のもとに覚えていることができるだろうか。近親者であっても、やがてその記憶は薄れてゆく。たとえ記憶に残っていても、私の後に生まれ、私の死後も生き残る者たちに、その記憶を語らなければ、やがてはその死者は本当に消えてゆく。
 その意味で、「代弁者」である母のことばは重い。「或る人物の行動をあれこれ評価するより・・・その人との出会いで、わたしは何を得たか、何が残ったのか、ということが大切だろうと思うのです」。他者への無関心とは、本当は、私の心に残されたであろう他者の痕跡に無自覚であるということなのだろう。死者をその完全性(intégrité)において覚えておくことは、不可能である。それでは、生者は死者に仕えることと同じになってしまうだろう。同情で終わってしまうだろう。同情ならばできるかもしれない。自己を死者と同一化することの方が実は簡単なのだから。そうではなく、他者が残した痕跡と対話を交わすこと、他者の痕跡によって自分のなかの血が、肉が、どんな変化をしてゆくのか、そのありようを省察することが生きることになるのだ。だから主人公の生き方はあやうく、正気すれすれのところにある。死に瀕する母の方にこそ、希望が、正気の根拠がある。
 死者の痕跡を自己にといかけることには反省の時間が必要となる。死者を忘れて今あることに生きる安易さに抗し、反省の作業を行い続け、唯一の存在であったと認識できるところまで記憶にとどめることのできる表現を見出すことは難しい。死者はやがて「どうでもいい死者として扱われてしまう」(p.296.)だろう。もしかけがえのない人間として死者を想い起こし続けようとするならば、生者は自分の全生活、全存在を主人公のように「悼む人」にしなくてはならないだろう。だから私たちは喪の作業を終えてしまう。社会的な意味での「正気」をたもって再び生きるために。日常の惰性のなかで生き直すために。
 それは死者を「質」ではなく、「(数)量」でとらえることとも関係している。「誤爆で二十人死亡、テロで百人死亡って数字だけだった死者の、名前も年齢もわかってると知ってさ。本当は当たり前のことなのにな」(p.260.)。世界の戦場を歩くジャーナリストがそう呟く。広島の原爆のこと、その約八時間前に今治で空爆があり、450人がなくなったこと、そこで身内がひとり死んでいることも重なる。原爆の死者から身内のひとりの死者へ、死に軽重がないことが語られるとき、どんな死も量ではかることができないとことがわかる。ひとりに死者から原爆の死者へと思いをはせるとき、その死者ひとりひとりに名前も年齢もあったことがわかる。
 当たり前のことを当たり前と気づかず、あるいは気づこうとせず生きてゆくこと。そこまで死に意識をはらうことなく生きてゆくこと。それが社会的な意味での「正気」だ。ただしその社会とは、死が排除された、生の背後に死者の匂いを嗅ごうとはしない無臭化された社会という意味だ。そのとき死者の遺体は、「生きている者にとっては、もうただの死体」(p.296.)となる。
 他者との接触による自己の変容。あるいは自己の内面の省察。そのために、「目撃者」や「随伴者」といった、主人公との人間関係をあらわす役割が章のタイトルとなっているのだろう。自分の知っている人間にたいして、自分に何が残されたのか真摯にといかけること。その他者との関係が、やがては自らの知らぬ他者へとつながってゆくと考えたい。火をつけられ殺された女が、社会の底辺を記事にすることを生業にしている記者を通して、まったく知らない、やくざの女へとつながり、その女が決断をするように。その関係が感謝ということばで表されるとき、「感謝の言葉は、告げた当人へ何倍ものかたちで返されるに違いない」(p.331.)。
 もうひとつの変容は、命の変容だ。祖母の死と孫の誕生という時間の重なりが、「生まれ変わる準備かしら」(p.323.)と死に逝く者に思わせる程、存在そのものの命のつながりを喚起する。
 小説の最後では、<魂の耳>にとどく、息子の声と体感と孫の泣き声が、死に逝く生者である祖母によって語られる。Paul Ricoeurのvivant jusqu'a la mortという表現がこれほど見事に表された例はないだろう。だから私たちは看取るのだ、死者ではなく、死の瞬間まで生きる生者を。

 この小説で扱われる死者たちはニュースで知りうる死者たちである。しかし、主人公がある時に出会った老人は次のように言う。「うちの女房のことも、せっかくだから悼んでもらえるかな」。平板な死も特別な人の死だ。次は日常の死をどのようなことばに表せるだろうか。そのことばに出会いたいと思う。

the_basement_tapes.jpg アルバムというものにはタイトルがつけられ、プロデューサーがいて、どんなものであれ、それはひとつの作品と呼ばれうる。もちろん、曲の間にバランス感がなく寄せ集めと評されるアルバムも多い。しかしそれはあくまでアルバムはまず何よりも作品であり、そのトータル感の濃度ということが評価の基準となっているから、そういう批評がでるのだ。

 さて、このアルバムのタイトルはBasement tapes。「地下室」でのセッションを「寄せ集めた」アルバムである。セッションの記録である以上、ここにはアルバムのトータル感=作品としての完成度はもちろんない。しかし、そうした作品性とは別の次元で、アルバムを通した強い意志がすべての曲を覆っている。それは真摯に音楽と対峙し、「私にとっての」音楽とは何か?「今この場で生まれる」音楽とは何か?そうした問いを正面から受け取って、曲をつくり出しているそのエネルギーだ。A面4曲目のYazoo Street ScandalやD面2曲目Don't ya tell henryのロックンロールのヴォーカルと演奏の激しさが物語るエネルギーだ。

 とにかく力強さが充満している。いわゆるリハーサル音源なのだが、練習も本番もない。バンドとしての音の強さが、今それぞれの楽器とヴォーカルを合わせようとする緊張感が、アルバム全体を支配している。

 トラディショナルなのに新しい。「ロックにはもう何も新しいものはない」といったディランだが、その過去の音楽を自らの手に入れ、そこにロックにしかありえない切迫感をもって演奏しているところが、それまでの音楽にはなかったのではないだろうか。この古い新しさがディランの汲めども尽きせぬ魅力だ。私と伝統の妥協のないぶつかり合い、アメリカの懐の深さを感じさせる。

 音質やアレンジではなく、演奏している「人」を感じさせるのが、このセッションだ。The Bandのセカンドだったろうか。全員がやさしく目を閉じて写っている写真があった。うっとりと音楽を聞いているのか、あるいは眠りにつこうとしているのか。そこには死を想わせるほどの静謐があった。20歳そこそこにして人生の悲しみを表現しうるほどの演奏に達してしまった、The Bandの面々そしてディランには、彼らにしか出せない、老成した個性がある。

 ところでこのアルバムはディランが素晴らしいのは言うまでもないのだが、実は心につきささるのは、メンバー同士のヴォーカルのかけあいだろうか。A面3曲目Million Dollar Bashの「ウー、ベイビー」というコーラスのはもり、6曲目Katie's been goneはリチャード・マニュエルのリードヴォーカルがまずもって泣ける。そしてB面2曲目Bessie Smithはセカンドあたりにはいっていてもおかしくない。オルガンの音にこれまた泣けるけれど、この曲もハモリが高揚感を募らせる。決定打はやはり「怒りの涙」か、最後の「火の車」か・・・いや、D面1曲目You ain't goin'nowhereのサビの部分だろうか。

 ロックはこうして生まれたといっても過言ではない、アメリカン・ロックの礎としてのアルバムだ。

 で、ジャケも最高。隠遁しながらも、たえず創造へと向かう、男たちの群れを描いた傑作。

Paul Ricœur, Vivant jusqu'à la mort (2007)

 Vivant jusqu'à la mortは、Ricoeurの死後草稿のまま残されていた未完成の原稿を発表したものである。実際には1995年頃に書かれ始め、そのままにされたということであるが、死をimminent(切迫した)ものであると意識していたRicoeurの思考の姿がうかんでくる。ときに、覚書にとどまり、十分な展開はなされていない部分もあるし、言いよどみ、繰り返しも多いが、それゆえに、Ricoeurの思考の筋道を丁寧に追って私たちはこのテキストを読むことができる。
 骨子のひとつは「生き残り」(survivant)ということだ。しかしそれは、最後の審判におけるrésurrectionではない。Ricoeurは物体として肉体そのものが最後の審判において復活するという「想像」は否定する。Préfaceを書いたOlivier Abelによれば、それは神話の解体であり、「報い、償い、罰という概念」の否定である。しかしそれは、ひとつの宗教の否定であって、宗教性そのものの否定ではない。死を生き残りとして問うことは、他者との関係を問うことであり(生き残るとは、私の死を超えて生き残る他者、他者の死を超えて生き残る私という本質的関係を定義する)、その他者とのつながりを考えるとき、そこには愛と倫理が生まれ、必然的に宗教的なるものへと近づいてくる。「想像」を否定するとは、宗教を否定することであっても、宗教性を否定することではない。
 死は知りえないものであるからこそ、私たちの「想像的なるもの」が働き、死者の運命を問いかけざるをえない。また、死後のイメージは、あらゆる文化によって形成されてきた。私たちはこうして「死後」を先取りして、想像をするのだが、Ricoeurが批判するのが、この想像である。その批判の根拠は、私たちが人生の終わりまで生きる喜び、gaietéと呼ばれる生きることの欲求への配慮のためである。
 次に考察されるのが、moribondという概念である。moribondとは人間をagonie(死への衰退)の状態として、すなわち直に死ぬ者として扱うことである。しかし重要なのは、encore vivant(まだ生きている)と、生の面をとらえることである。つまり、死後に存在するものへの配慮ではなく、生の最も深い源(les ressources les plus profondes de la vie)をとらえることである。Ricoeurによれば、grâce intérieure(精神的な恵み?どのように訳すべきか宗教的な含意がどこまで反映しているのか?)は、終末において、本質が浮かび上がることにある。これは告白を行なう宗教とは異なる、religieux commun(共通の宗教性?)であると言う。ここは難解なところだが、宗教であれば、それは歴史的、文化的事象として本質が限定されてしまう。そうした限定性から解放された真に深い場所にあるところの「本質」ということだろうか?死という現象が文化に限定されないこともあるが、ここには、告解という死にゆく者として、他者をとらえることに対するRicoeurの批判があるのだろうか。そして死に逝く者によりそいながら、その死に逝く者を、死者として先取りしてしまう(il sera mort)想像のあり方が批判されているのだろう。
 では死に逝く者への視線とは、どのような視線なのか、Ricoeurは次のように言う。

C'est le regard de la compassion et non du spectateur devançant le déjà mort.
 
それは共苦の視線であり、すでに死者となっている者と先回りをして見つめる者の視線ではない。

 Compassionーともにといっても同一化するわけではない。そこには友情という距離があるのだ。
 それでは生者とともにいる(accompagner)者はどのような態度であればよいのか。ここで引用されるのがホルヘ・センプルンの『ブーヘンヴァルトの日曜日』(原題L'écriture ou la vie)である。センプルンがモーリス・アルブヴァクスをみとったときの証言である。Ricoeurは、Ricoeurはアルブヴァクスがセンプルンの手を握り返す場面に、「与えるー受け取る、まだここで」と注をつけている。人と人がお互いの生を確証する。生の根拠が他者によって与えられること、私は死んではいないことは他者との生の交感によって確証されることをRicoeurは指摘しているのではないか。
 Ricoeurはさらにセンプルンが、死期のせまった友人によりそって、医学的でも、告解でも、詩の言葉をつぶやくことに着目する。「彼(アルブヴァクス)は微笑む、死にながらも、私を見つめて、友愛の」。Ricoeurはここに「本質」があるという。
 この死と対照となる死が、カディッシュをとなえる「死」の苦悶の声である。Ricoeurは、センプルンが「死が歌っている」というのは比喩でもなんでもないという。なぜなら「みとる者なしに死に逝くことは、死者(moribond)と、人物となった死(mort)の区別をつけないことである」からだ。イディッシュ(死者の祈り)のことばが自分自身に向けられたものであるならば、そこにはユダや民族の歴史全体が集約されているとする。そして、「自分自身」にむけられたということは「与えるー受け取る」という行為を可能とする外部が(レヴィナス)不在であるということだ。
 Moribondとmortの区別がつかなくなった状況、それはmasse indistinctな状況である。ここでRicoeurはセンプルンの選択を問題にする「書くことか?生きることか?」生きるとは忘れることであり、思い出すとは書くこと、語ることであるが、それは生きることを阻害する。なぜならば、死こそが現実であり、生は幻影に過ぎないからだ。この状況を生み出すのは、死というものが、絶対悪のしるしのもとに置かれたときである。友愛と絶対悪の二項対立、これがマルローに言わせれば、最も古いキリスト教の対話である。ならば悪がなければmoribondとmortの混濁はないのか?悪の問題で看過しえないことは悪とは体系化できないということである。どちらがより悪か、といった比較はできないし、個別の事象から総体を作り上げることもできない。だが、神学においてはあらゆる死が、暴力的な死として同一視されているのではないか。罪を背負って死ぬということである。これがRicoeurが、1)死後、2)死に続いて、批判の対象としてとりあげる3)絶対的悪による集団としての死である。
 Ricoeurはここから「いったい、普通の死は、どのような状況下で、極限の死=恐怖の死に汚染されるのだろうか?」。ここで「恐怖を悪魔払い」するものとして出てくるのが、「記憶の作業」、「喪の作業」である。ここで再びセンプルンの書くこと=思い出すことに焦点があてられる。死から生還したもの、すなわち証人となった幽霊である。
 だがここでRicoeurが引用しながら、言及していない点を考えなくてはならない。それはこの書くことというのが、センプルンによれば、「文学的エクリチュール」として可能だと言われており、またその意味が«Avec un peu d'artifice»と言われていることの意味だ。文学的エクリチュールでなくては、たとえば宗教的な祈りのことばという内部化された「与えるー受け取り」のないエクリチュールになってしまうだろう。しかし文学がartificeであるならば、それは、物語の留め具として、つまり、物語を理解可能とするための留め具として使われてしまう危険を意味しないだろうか。誰もが想像しうる物語とは、artificeというわかりやすい虚構仕立てをするということではないだろうか。
 もちろん書くことが、死者についての記憶を回復することであり、忘却から生き延びることが、実は自分の生を危うくするというこの悪がもたらす矛盾に書く者をさらし続ける。Ricoeurが引用するように「収容所を<現在>として語ること」ができないならば、なおのこそ、文学的エクリチュールの孕む「物語」のあやうさを、もっと緻密に分析するべきではないのか。
 しかしRicoeurの本論での意図は、死後という問題を、宗教によらず、また宗教がもたらす死後の想像的形象によらず扱うことにある。その意図から、この表象の難しさを、死の瞬間の形象の難しさへと転用する。だからこそ、Ricoeurは死から生還してきたrevenants(死から戻ってきた者=亡霊)という名のsurvivants(生き残り)に、集団としての死の先取りを読み取るのだ。
 Ricoeurは自問する。センプルンは生きることと書くことを両立することができた。レーヴィにはなぜ不可能だったのか。ここでティリッヒのThe courage to beへの言及があるが、書き込みだけで終わってしまっている。
 最後に、先ほど述べたartificeについて言及がなされる。

Si l'écriture a quelque chance de se réconcilier avec la vie, lorsqu'elle est au service de la «mémoire de la mort», tout n'est pas attendu de la technique du récit, de l'artifice.
 
もし書くことが、現実の生と和解できるなにかを有するとしても、そして、書くことが「死の記憶」に役立つとしても、すべてを物語の作法、技巧に期待することはできない。

 Ricoeurは「記憶が記憶の作業と喪の作業をひとつにあわせなくてはならない」という。Ricoeurにとって、それは集団の中に消滅してしまう死から(これは、自己の消滅の問題ではなく、死後の生という人間の想像を問題にしていると思われる。これは文化的事象とはいえ、こうした死の捉え方をするのは、自己の死を想像する自己の問題になるのだろう)、死を救い出すのは、この死の記憶でしかないという。ここも解釈に慎重になるところだが、喪の作業とあわせるということは、自分の死との関係において生き残る他者に自己の死後の生をゆだねるということだろうか。それが悪から解放された死の位置づけということになる。ならば、悪そのものとはどのような対峙をすべきなのだろうか。ここについてはRicoeurの「悪」として洞察を深める必要があるだろう。
 他者という問題。最後に触れられるのが他者という問題である。それは「書くことが自己を抑えながら自己からの離脱する方法であり、それはつまり人が常にそうである他者の存在をみとめ、その存在を生み出すことで自己自身であるということだ」。書くことがどれほどの困難であっても、non-dit「言うことのできないもの」=沈黙でないという一点で、希望を持ちうる。記憶の作業、喪の作業は、この希望のことばでならなくてはならないとRicoeurは言う。つまり書くことへと至らせる根拠はfraternité(友愛)なのだ。