well_never_turn_back.jpg 67歳の黒人女性歌手Mavis StaplesとRy Cooderとの共作アルバムである。60年代の公民権運動で歌われた曲を中心に取り上げられているが、過去の歴史に対する郷愁はみじんもない。今に激しく切り込む、メッセージ性の強いアルバムである。

 メッセージ・ソングとは何だろうか?たとえば誰にむかって、何を歌うのかが明確になっている歌と定義できるだろう。しかし、そうした対象が明確であればあるほど、メッセージは時の流れには、逆らえない。歌われている問題が解決されていないのに、歌の方が薄命にも消えていってしまうのだ。また訴え方が直情的であればあるほど、それが喚起する反応も一過的なものになってしまう。結局は、当事者たちだけが、苦しみ続け、外にいる者は日々の生活に戻っていく。取り残された者は、表現を失い、内に閉じこもっていく。それがメッセージ・ソングのあやうさであろう。

 ではどうしたらメッセージ・ソングは時の試練を経て、生き続ける、あるいは生まれ変わることができるのだろうか?その一つの答えの試みがこのアルバムである。

 まずは音の塗り替えだろう。音のバランス、音質が素晴らしい。21世紀らしく、どの音もクリアに録音されている。特にRy Cooderの乾いて張り詰めた音色のギターは、曲に立体感を与え、空間の広がりを堪能させてくれる。きわめて現代的な音響処理である。

 そして、Mavisの声が素晴らしい。といっても、それは怒りや、悲壮な訴えなどではない。歌っているうちに、自らが興奮のあまり、気を失ってしまうようなファナティックなものでもない。迫力はあっても、それは、バネのようにしなやかな伸びをもつ声だ。叫んでもつややかな、ささやいても強くひびく声だ。

 こうした素晴らしい音楽だからこそ、そこで何が歌われているのか、耳を傾けるようになるのだろう。そして、そこにとても素朴な歌詞を発見する。リフレインで繰り返される言葉が、聞く者の心に強く刻まれる。寄せてはうちかえすリズムでくりかえされるDown to Mississippiのフレーズ。繰り返されるWe shall Not be movedからは、腕を組み、その場を決して去ろうとしない抑圧された者たちの決意の姿が浮かんでくる。アルバム最後の«Call him up and tell him what you want»の、繰り返すうちに次第に高揚してくるゴスペルの醍醐味。こうしてメッセージは、時と場所を超えて、聞く者の今・ここへと届けられるのだ。そして「あなたはどうする?」と問いかけられる。真の怒りが、告発が始まるのは、ここからだ。

 この音楽にはジャンルがない。ゴスペル、ブルース、ロック、フォーク、どの要素もあるが、決して一つにおさまらない。強いていえばここには音楽がある。だからこそ、このアルバムは普遍性を獲得し、永遠のメッセージ・ソングへとどの曲も高められていく。音楽が「芸」である以上、楽しんで歌えて、踊れなくては、聞きはしない。それが真に「芸」としての音楽ならば、声をだし、体を動かしているうちに、その声と体は「行動」へと向かう。権力と差別を撃つ行動へと。

 ユダヤ系フランス人の言語学者Arsène Darmesteterの歴史的位置づけを、社会学的観点、特にブルデュー理論に依拠し、学問を社会的・歴史的制度として捉える観点から検討した研究である。

 Arsène Darmesteterは1846年に生まれ、1888年に42歳の若さで世を去っている。早くに世を去ったこともあり、その業績は忘れ去られた観がある。しかし決してDarmesteterの業績が価値のなかったものではない。その再評価を試みたのがBergouniouxの本論文の意図である。

 19世紀後半のユダヤ系フランス知識人にみられたように、Darmesteterは、ユダヤ人であることをその特殊性ではなく、フランスの中に同化させることから研究を初める。21歳から準備し始めた博士論文の研究、Les Laaz(ヘブライ語の語彙の欠如のために、古フランス語から借りてきて、ヘブライ語で表記した言葉)は、ユダヤという過去と、自分の祖国フランスという2つの文化的潮流を融和させるものであった。ここには「人種や祖先ではなく、文化への忠誠を誓う愛国主義」(p.109)がある。

 故郷のLorraineを離れたDarmesteterはEcole pratique des Hautes Etudesのロマニスト、オリエンタリストたちに迎え入れられることになる。ここに集った面々の特色は1)ラテン・ギリシア研究を行なうソルボンヌに大公して、中世のフランス語テキストを典拠とすること、2)大教室での授業ではなく、少人数でのセミナー形式であること、3)言語そのものを研究対象とすること、であった。ノルマリアンでもなく、また反ユダヤ主義からも守られた場所として、DarmesteterはGaston Parisによってこの場所に迎えられることになる。ここでLaazの研究を押し進めるわけだが、しかし、父の死などもあり、経済的に困窮した DarmesteterはHatzfeldの辞書の編纂に関わることとなる。

 1872年DarmesterはE.P.H.E.で自習監督となる。この時期提出した論文De la formation des noms composés en françaisでは、これまでゲルマン系の言語にしかなく、それがこの言語の優位の根拠となっていた、名詞の複合をロマン語系のフランス語に認める内容であった。

 当時の言語学を巡る社会学的状況を考察すると、文学のヘゲモニーにたいする言語からの対抗と言えるであろう。「趣味と感受性」、「文芸の創造的特質」、「Lénientの中世の愛国的な詩についての講義」にたいして、「ドイツの批判学派」、「文献学の不毛さ」、「Parisによる聖アレクシスの講義」という対立である(p.112)。もうひとつ重要なのはロマニストたちが、フランス語のmanuscritsを対象とする過程において、ロマン語同士に生まれるのは、civilisationを基軸とした共同性であり、これはスラブ、ゲルマン系のraceに基軸をおく考え方とは根本的に対立している。

 DasmesteterがE.P.H.E.で直面した研究課題は、phonétiqueとsémantiqueである。Phonétiqueに関しては、文学よりの研究者たちに、音の価値を認めさせることが課題となった。この分野では«La protonique, non initiale, non en position»(1876)という論文で、accent toniqueの問題を扱っている。Sémantiqueに関しては、«Sur quelques bizarres transformations de sens des mots»(1876)で、言語の変化における意味の問題を扱っている。

 1877年Darmesteterはソルボンヌにおいて二つの博士論文を提出する。ひとつはラテン語で書かれた文学論で、ここで Darmesteterは、国民的な伝説が、トゥルヴェールによって詩形式におかれ、ヨーロッパ全般に広まったとする。この見解は、ドイツの学会のゲルマン系の神話学に西洋叙事詩の伝統を置く考え方と対立し、また文学部の、叙事詩の起源はラテン語であり、僧侶たちによって伝えられたものだという考え方とも対立する(p.115)。この見解は、民衆のなかから創作者が生まれたとするロマン主義の考えと共通するが、これを契機として、Mistralと接近することとなる(1883年には«Félibrées de Languedoc»をMistralとともに主催する)。

 フランス語の博士論文は、De la création actuelle de mots nouveaux dans la langue française et des lois qui les réagissentという題名で、まさに文学言語ではない言語を扱うという意味で、ソルボンヌの教授陣にとっては、ほとんど承服し難いものであった。Saint-René Taillandierの助けのもと論文は受理され、Darmesteterはソルボンヌの教授となる。

 Romaniaがあまりにも文学的であったためDarmesteterはRevue Pédagogiqueに投稿するようになる。この雑誌は高級官僚による教育改革を目指して作られたものであり、Darmesteter自身 E.N.S.de Sèvresの女子学校でフランス語文法を教えることとなる。この時に編まれたのがCours de grammaire historique de la langue françaiseである。また綴り字改革の提案にも賛成の立場を表明する。

 70年代暮れから、DarmesteterはRevue des Etudes Juivesに関わることになる。ここでも彼が目指したのは「賞賛もロビーの精神もない」歴史研究である。1886年にはLa vies des mots étudiée dans leurs significationsを書くが、これは最初の意味論のテキストであると言ってよい。

 しかし、1888年に42歳の若さで亡くなる。この早すぎる死によって、辞書における功績はLittréの影に隠れてしまい、意味論の研究は Bréalの華々しい活躍によって忘れられてしまった。また音声学における功績も、文字中心の研究の中では、かき消されてしまった。また彼を継承する弟子もいなかったことがDarmesteterを忘れられた言語学としてしまったのである。