Elliott Smith, New Moon (2007)

new_moon.jpg 本人は、どんなジャケットで、どの曲が、CDになって発売されたか知る由もない。しかし、この作品をみたら、きっと本人は満足するに違いない。ミュージシャンの死後、周りの人間がその仕事をきちんと外にだしてくれる。そうした作品に触れるたびに、そのミュージシャンがいかに愛されていたのかがわかる。そして私たちファンもそんな愛をともにする。

 From a Basement of the Hillは、制作途上のアルバムであり、そのせいか、アレンジのバランスが悪かったり、曲の展開が散漫だったり、やはり途中の仕事という事実は否めなかった。それに対して、アウトテイクを集めたNew Moonは、アウトテイクとはいえ、完成された曲ばかりだ。95年から97年ごろの曲が中心に集められており、Another Either/Orという雰囲気の曲が多い。これ自体が、アルバムとして発表されてまったくおかしくない。10年のブランクを経て私たちに贈られたアルバムと言ってもよいだろう。

 なかでもうれしいのはDisk1の13曲目、Thirteen。Big Starのファースト、No.1 Recordの4曲目に収められた曲のカバーだ。クリス・ベルとアレックス・チルトンの2人によるBig Starのラフさや、叙情的なメロディ、枯れた雰囲気は、エリオット・スミスに大きな影響を与えたに違いない(Big Starについては、そのアルバムもそうだが、クリス・ベルのソロ作品I Am the Cosmosもおさえておきたい)。そう、エリオット・スミスを語る際にニック・ドレイクの名前が出されることに今一歩しっくりこなかった理由は、ここにある。クリス・ベルやアレックス・チルトンの名前をむしろ出すべきだろう。彼らの音楽の質感のほうがずっとエリオット・スミスの曲の質感に近いからだ。ニック・ドレイクの叙情性は、けっこう華美だし、ウエット感がある。しかしエリオット・スミスの叙情性は、ずっと乾いた感じがする。言ってみれば大げさではないのだ。この乾いた感じがエリオット・スミスをBig Starにひきつける。

 このアウトテイク集を聞いて、様々なバリエーションの中から、アルバムテイクが生まれていったことがわかる。しかし、あらためてくりかえすが、ここに収められているのは、制作の途中のスケッチではない。セッションでギターをかなでる姿は、きっと幸福感にあふれていたのではないか。そうした自分の曲への愛情という点では、アウトテイクもアルバムテイクも何も変わりはしない。

Bob Dylan, Hard Rain (1976)

hard_rain.jpg アメリカ建国200周年を機に行なわれたライブツアー「ローリング・サンダー・レビュー」。旅芸人のように街から街を巡りながら、その日その日の音楽を奏でていく。同じ演奏は2度とできない。その瞬間、その場所で音楽が生まれていく。そんな音を切り取って収められたのがこのライブ・アルバム「Hard Rain」だ。このタイトル通り、とても激しい音楽である。といってもディストーションでひずんでいるとか、大音量で圧倒されるというわけではない。むしろそれぞれの楽器の音はひかえめでさえある。ギターはつまびかれ、ヴァイオリンの音は、哀愁を感じさせる。それでも激しいのは、ディランの魂の圧倒的な存在感、これにつきる。

 ディランの歌声は、本能的な感情の叫びではない。それは、確信をもった魂のうなりだ。単なるその場だけの感情の爆発ではない、表現をしようとする魂の激しい動きが、そのまま声にのりうつる。

 ディランの本質は、よく言われるようにアルバムではなく、ライブにあるのだが、それはこのレコードでも実感する。一曲目のギターのチューニングのような音を聞いているうちに、いきなり演奏が始まる。この唐突な始まり方に、鳥肌がたつ。そして例のごとく、原曲をとどめないアレンジに、この曲が Maggies' Farmだとはなかなか気づかない。この曲、ブレイクの仕方が最高にかっこいい。そして二曲目One Too Many Morningsは感傷的なようでいて、バンドの高揚感が激しいエネルギーを感じさせてくれる。そして三曲目The Memphis Blues Againは、サビの部分、ディランの声が虚空に響き、ゆっくり消えていく終わり方が最高です。四曲目はOh, sister.『欲望』収録の曲だが、張り詰めた空気の圧倒感で、こちらのライブバージョンのほうが断然いい、B面一曲目のShelter From The Stormはギターのかけ合いが最高、こんな生き生きしたナンバーを耳にしたら、踊り狂ってしまう・・・と、きりがないのだが、どの曲もその演奏のテンションの高さに驚かされる。『血の轍』と交互に聞きたいアルバム。そうでないと、こちらの緊張感がもたない。しかもどちらもLPで。

 76年11月にはThe Bandのラスト・ワルツが行なわれている。このコンサートは、ロックの終焉とよく言われるが、このディランのツアーと重ね合わせれば、確かにロック・コンサートのもたらしてくれるユートピア幻想に決定的な終止符がうたれたのがこの時期であるというもうなづける。ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンなど、ロックの伝説が死んでいくなか、残されたミュージシャンたちの苦しい模索が今後始まることになる。

 再生ということばは、革命以前に遡るが、しかし現実味を帯びたのはルソー以降である。その意味で、再生は革命による断絶がきっかけになっているといってよい。またこの再生は、あらゆる領域に関わる再生である。

 たとえば、子ども、若者、老人に関わる肉体自身の再生。また宗教的な意味に捉えられれば、新たな生(洗礼による生まれ変わり)、原初社会の再生という意味にもなる。たとえキリスト教という宗教的文脈に頼らなくとも、革命の思想の中に、法から慣習までのすべてを含み込んだ「回心」を認めることは誰もが受け入れる考えであったろう。

 そして「再生」ということばは、「改革」という言葉を追いやった。なぜならば、「改革」には、まだ過去の痕跡が残っているからである。それは「専制、教権、封建制」の残滓といってよく、革命は、それらの過去を「腐敗と頽廃」とみなす。こうした過去を裁断し、あらたな人民(peuple)を到来させるために「再生」を必要とするのだ。

 この再生の具体的方法としては2つの方法が示される。一方は未曾有の出来事をした人間は、「自然と」、「突然奇跡のごとく」新しく生まれ変わるという考え方である。他方は、「再生」を遂げるためには、まだ過去の残滓があり、これを抹殺しなくてはならないという人々の考え方である。現実の変化と魂の変化の間にはまだ差が存在している。これを考えていかなくてはならない。そのためにはまず内心の中にある過去の残滓を強制的であっても解体しなくてはならない。しかしこの考え方は、疑わしき成員を、再生された共同体から排除していくことも意味する。

 そして重要なのは、この自由・自律の再生と制約・他律の再生とは、異なる政党、異なる時期、異なる人物にきれいにわけることができないという点である。

 再生において最も重要になるのが教育の再生であり、子どもをより有益な国民にするために、学校は課題の中心を占める。そしてやはり自由か規律かということで方針はたえず揺れ動くこととなる。たとえば革命初期におけるコンドルセの公教育案は自律と自由にまかせたものであり(無償で、義務ではない教育を提案)、一方ジャコバン期の教育とは、制約である。この案では、再生の道具は、寄宿舎と義務である。

 しかしこの2つの再生には共通点がある。それは第一に「時間」がもたらす限界である。実際に精神や魂の育成には時間が必要となるが、「突然奇跡のごとく」再生が果たされると思っている革命家たちにはこの遅さは致命的である。また、体系的に新しい人間を創り上げていこうと考える革命家にとっては、時間の存在は、いくら法令を布告しても、時間の経過によってこそやりとげられる現実もあるということを思い知らせる存在なのである。

 第二に、新しいものの誕生に古い世界を使うことはできないということである。前者にとってはすでにそれは存在しないものであり、後者にとってはそれは消えるべきものである。

 最後は、感覚論である。この問題は、前者に、個人が変わるのは、たとえば革命の光景といった外在的なものであり、その意味で人間個人の自発性とは言い難い。他方、後者にとっては、制約を課す教育も、人間が変わりやすい存在である以上、その制約は逆の教育によって解体されてしまうという危機意識である。そして、この統制主義が優位にたっていく。

 革命の難しさは、個人にそのまったき権利を与えた後に、その個人を集団へとつなぎ止めなくてはならない点にある。革命が混乱の事態に陥るにつれ、個人の精神を従わせることのできるほど強力な集団精神が必要となった。そして集団精神により大きな統制力をもたせるために、権力はあらゆる方法を用いるのである。