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west.jpg ルシンダ・ウィリアムスのしわがれ声は、人とハーモニーを奏でるような声にはなりえない。呼吸を合わせることはおおよそ困難な異質な声だ。それが彼女の魅力なのは明らかだが、それにしてもWhat ifでの彼女の声のかすれ具合は、尋常ではない。まるで泣いて、泣いて、声も出なくなり、それでもかろうじて絞り出しているかのようだ。hasやhouseなど[h]の呼気はほとんどかすれてしまい、聞いているこちらが苦しくなる。

 What ifは、絶望に沈んでいる人間が、それでも何か頭の中に描こうとしたときに、ふと浮かんでくるような非現実的なイメージが歌われている。娼婦が王女となり、月に雨が降り、花が石に戻り、といったイメージが次々と歌われているだけだ。それは精神的に追いつめられた人間が、唯一残している悲しい想像の自由の世界であり、その悲しみは、これほどまでにつぶれた声でなくては表現しきれないかのようだ。

 次のWrap My Headは9分にも及ぶヘヴィーな曲。捨てた元恋人に対するつぶやきが祈祷のように延々と繰り返される。それにあわせてドラム(ジム・ケルトナー)が激しくリズムを打つ。Unsuffer Meの重々しいギターもほとんど絶望的な気分にさせられる。

「別離」がテーマである。恋人との別れ、母親との死別。愛する人がいなくなってしまったとき、私たちはその愛をどこに向けてよいかわからない。行き場を失った愛は、私の内奥へと向きを変え、自分を傷つける絶望となる。もうだれも助けてはくれない、救ってはくれない、癒してはくれない。その苦しみがルシンダ・ウィリアムのしわがれた声によって伝わってくる。

 歌詞の中の「あなた」と呼びかけられる存在はもはや目の前にいない。「元気?」(Are You Alright ?) と呼びかけるその相手が、今、どこで、どんな暮らしをしているのか知ることもできない。「愛してるわ」(Mama You Sweet)と呼びかける母親はもはや決してことばを返してくれることはない。そんな行き先を失ったyouへ向けられたとてもパーソナルなアルバムだ。

 それでもwestには、不在を抱えながら歩こうとしている毅然としたルシンダの姿を見いだすことができる。不在の中から生き方を学ぶと歌うLearning How To Live。表現者として言葉を手放すことはないと信じるWordsなど、決して表現を失うことなく、むしろ喪失に言葉を与えるしたたかな試みがこのアルバムにはある。ジャケットのルシンダは屹然と見えない先を睨んでいる。

 大傑作という称号はCar Wheels On A Grave Roadにふさわしいが、Westは、どんな人生であっても感情を殺してでさえ、その人生を厳しく見つめ直し、生きることを選択しなくてはならないと強い意志を投げかけてくるという意味で、私たちが対峙しなくてはならない、心の中に石を抱かせるようなアルバムだ。

rare_and_unreleased.jpg 1966年から1974年までのアウトテイク35曲。アレサを手がけたジェリー・ウェクスラーが編んだ未発表音源集は、とにかくアレサへの愛に満ちあふれた丁寧な仕事から生まれたアルバムだ。こればかりは日本盤のウェクスラーの解説を読みながら聞きたい。実にアレサへの信頼、尊敬、愛情に満ちた最高の解説なのだ。もちろんアレサをスターダムに押し上げたのがウェクスラーだが、自慢話はいっさいない。裏方として、これらの音楽がいかに生まれたのか誠実に説明してくれる。このアウトテイクを作ったときウェクスラーは91歳。

 実に様々な曲がおさめられている。スイングしたくなるグルーブ感に満ちた曲もあれば、こちらの涙を誘うスイートなバラード、ゴスペル・ソウルの崇高な力強い曲もある。どんな曲でもアレサは歌いこなしてしまう。しかも、けっして激しくシャウトしているわけではないのに、魂からの叫びがこちらの魂も揺さぶるのだ。

 アウトテイク集というとばらばらな曲が記録として並んでいるというものがけっこうあるが、このアルバムに関しては、そうした「とりあえず、眠っていたものを発掘してきました」という雑さがまったくないのだ。年代を追いながら、60年代から70年代にかけて、黒人のための音楽ではなく、音楽に人生の誠実な喜びを求める人すべてに向けられた音楽へと、世界が広がってゆくのを実感するのだ。

 そして最大の愛。それはウェクスラーのもとに送られた、ピアノの弾き語りのアレサのデモ・テープから始まり、やはりピアノの弾き語りで終わる、この構成だ。最後の曲はAre you leaving me...彼にとっての本当に愛は、自分のもとを離れて、さらに広い世界へと出て行くことを、心から見送ることになったのだろうか。

my_friends_all_died_in_a_plane_crash.jpg 昔からフランスとロックというのは折り合いが悪く、バタ臭い音楽しか存在したためしがなない。むろん、Johnny Holidayのようなエンターテイメントに徹した潔さは、80年代以降のロッド・スチュワートのようだし、詩に限るならば、才能あふれたミュージシャンは多くいる。だが、アメリカやイギリスのような「ロック」を聞かせるバンドはほとんどいない。かつてTéléphoneというバンドが存在したが、このくらいだろうか、パンクロック風のさっそう感を感じさせたのは。

 だが、ここ数年英語でそのままロックを演奏するミュージシャンが増えてきた。先日Téléramaのpodcastを聞いていたら、トゥーレーヌ地方のバンドにはイギリスのロックの音を聞かせるものも多く、いまやトゥールはイギリスのマンチェスターに匹敵すると言っていて、おもわず微笑んでしまった。それはほめすぎだと。

 このCocoonも、フランスらしさをみじんも感じさせないデュオ・グループである。エリオット・スミスに影響を受けたということだが、確かにピアノとアコースティックギターによって織りなされる曲の進行は、もろエリオット・スミスだ。On My Wayや、Christmas songなどそっくりそのままである。

 しかし、マンチェスターだのエリオット・スミスだの言われても、感動しないのは、彼らの音楽には、どうしても音楽にたいする「せっぱつまった」ところを感じられないからだ。これしか方法がなくて表現されている音楽には聞こえてこない。たとえばTétéのサードなどは、ビートルズとボブ・マーリーの影響から抜け出して、トラジ・コミックのようなせつなさとユーモアをうまくまぜあわせた名盤だと思う。ここにはTétéが自分のスタイルをサードにして打ち立てた充実感がある。それに対して最近の英語で歌うフランスのバンドの大半には、結局はそうした表現の必然性を感じられないのだ。内省的であること自体はそれでいいのだが、それに陶酔していても、こちらに届く音楽は生まれない。ならばHip-Hop系の音楽のほうがよっぽど今のフランスの音楽シーンでは質が高いのではないだろうか。自らの表現手段に確信を抱き、それを信頼して自己を拡大させていくような、そして他者にぶつかってくる迫力の方がよっぽど、音楽の素晴らしさを教えてくれる。

 アマチュアリズムが悪いというのではない。アマチュアであろうと、そのミュージシャンが「これしかできない」という緊迫感をもたらしてくれるのであるならば、それがそのミュージシャンへの思い入れにつながる。たとえばMy name is nobodyというNantesのSSWは、これもほとんどニール・ヤングなのだが、「おれはギター一本でこうしか歌えない」という潔さが十分伝わる好盤である。

 音数の少なさや、男女コーラスの心地よさは、彼らの一つのミニマルな美意識の表れであるとはいえるだろう。しかしそれは、しょせんおしゃれなカフェでかかるBGMなのではないか。彼らの寂寥感は、人の心を締めつけるものではなく、午後のひとときを心地よく過ごすための材料にしか過ぎないのではないか。

 これは飾りであっても、表現ではないだろう。