d'Olivet, Fabre

 第三章で言及されるのはホメロスである。ホメロスの意図は感情を人格化して描くことにあった。詩の完成に至るためには、精髄を豊かにする想像力とその飛躍を支配する理性を調和させることが必要であるが、ホメロスはそれをなしえた詩人である。ギリシアの詩は、音楽的リズム(rythme musical)によって計られ、長音節と短音節の混合によって構成され、韻の拘束を揺るがしてきた(p.62.)。リズムとは、詩が作られる拍の数とそれぞれの拍の長さのことである。古代ギリシアでは、筆耕法が使われていたが、これは長くは続かなかった。もしこの方式が存続したり、あるいは、韻が形式を拘束していたならば、ホメロスは叙事詩を仕上げることはなかったであろう。韻が詩の形式を支配するところでは、才能はその形式にばかり気を取られ、知的啓示(inspiration intellectuelle)を無駄にしてしまうのだ。

 第四章では、まずプラトンに言及し、詩人が天啓を伝える人として描かれる。それは最初の天啓を受けて、最初の叙事詩を創ったホメロスから、その天啓を広めたrapsodes(吟遊詩人)のように、人々に広がっていく。さらには、教育の基礎ともなる。
 この時代には二種類の詩があった。poésie eumolpiqueとpoésie épiqueである。前者はintellectuel et rationnelなものであり、後者はintellectuelでpassionnéなものである(p.74.)。
 次にFabreは、劇の起源について述べる。それはオルフェウスの秘犠の俗化したものであり、デュオニソスの収穫の祭りがその始まりである。さらにFabreはdrameの語源に触れ、サンスクリット語で、輝かしい、美しいという意味をもつRamaという名が、フェニキア語でも同じ意味をもち、そこにアラム語とシリア語に共通の指示冠詞がつくことによってdramaという単語が生まれたとする。
 最初はぶどうの収穫時の「田舎の余興」であったが、それが人々をすぐれて魅惑したことから、教養層の眼にもとまることになった。それをとりあげたのがThespisとSusarionであり、それぞれが悲劇と喜劇の起源となった。
 こうした事態に気づいた国家は、宗教と風俗に危険となる場合、厳格な規則を課した。秘儀をもとに劇を仕立てることは許したが、秘儀の意味を解き明かすことは禁じた。作品の善し悪しを判断するにあたっては、音楽と詩の知識に秀でた審査官を置き、彼らは、すべてを秩序と規則に収めなくてはならなかった。プラトンはこの法がすたれたこと、人民が演劇を支配したことが、芸術の最初の頽廃であると言っている。
アイスキュロスは、演劇の真の創造者であり、ホメロスからうけた天啓にのっとって悲劇のなかに叙事詩の文体をとりこみ、簡潔で荘厳な音楽をつけた。さらに、音楽、絵画、踊りによる総合的な演出を試み、舞台装置による効果を展開した。
 ギリシアの劇が秀でていた点は、秘儀の宗教から生まれた道徳的な意味を持っていた点である。したがって、普通の人々が舞台や音楽の華やかさに魅了されているだけなのに対して、賢者は、その中に潜む真理を受け取ることによって、より純粋で永続的な喜びを得ていたのである。
 ソフォクレスとエウリピデスは、アイスキュロスの後継者として、ともに秀でていたが、形式を完成させることに心を砕き、劇の本質、すなわちアレゴリーの精神(génie allégorique)を変質させることになったことは否めない。さらには、エウリピデスが描いた逆境において堕落した英雄、恋に狂う王妃、といった情景の魅力が、アテネの道徳の腐敗の原因、宗教の純粋性を貶める最初の原因となった事実を認めざるを得ない。弱さや罪といったものが、本来ならばその意味を探すべきアルゴリーとして示されるのではなく、単なる歴史的出来事、想像力の気まぐれな戯れとして示されてしまっているのである。
 こうして二世紀しないうちに、テスピスのもとで生まれ、アイスキュロスによって劇として高められ、ソフォクレスによって栄光につつまれた悲劇は、エウリピデスにおいてすでにかげりをみせ、アガトンの起源の思い出を失い、急速に人々の気まぐれによって頽廃を迎えてしまったのである。
 エピカルモスにはじまり、アリストファネスにつらなる喜劇も、同じような歴史をたどっている。

 第二章では、その後のトラキア信仰の拡散を語る。つまり原初の統一を失い、さまざまなセクトが誕生する。ここから半神、高名な英雄などが生まれてくる。ここでFabre d'Olivetは今度は歴史という観点で2つの考え方を区別する。まずはアレゴリーの歴史であり、こちらは、道徳のみを扱う。そして個人ではなく、集まり(masse)の動きを見つめ、そうした集まりを一般的名称(un nom générique)で指し示す。したがって、こうした集まりを統率する長というものもこの歴史の言及するところではない。それにたいして実証的歴史(histoire positive)は、個人が全てである。それらの個人と出来事の日付、経過などを記すのである。

 続いてホメーロス以前の詩人、Linus, Amphion, Thamyrisがそれぞれ、月にまつわる詩、太陽にまつわる詩、Olenの普遍的教義をそれぞれ表しているとして紹介される。次にオルフェウスについて語られる。オルフェウスが現れた時期というのは、純粋なアレゴリーと、弱められたアレゴリー、知性で把握できるもの(l'intelligible)と感覚で把握するもの(le sensible)が分かれる時期である。その意味でオルフェウスは理性の能力と想像力を折り合わせることを学んだ。このオルフェウスとともに「哲学」の基礎が生まれたのである。この時期のギリシアはすでに野蛮な状態ではなく、また詩は、人間精神の幼い時期に生まれたのではない。詩は、つねに人々の中に長く生き、進んだ文明を持ち、力強い時代の輝きを持っている。

 長い間ギリシアは政治的にも宗教的にも混乱の時代に陥っていた。様々な寺院、都市が割拠し、対立する。その直前にアジアでもインドが分裂し、混乱の状況を迎えていた。地中海と紅海の交通も途絶え、インド洋に定住していた原フェニキア人とパレスチナのフェニキア人の交流も断たれた。アラビア、ペルシアも同様である。エジプトは王権が権力を広く延ばすようになり、ギリシアもその影響下にはいる。

 そのような状況の中、トラキアに生まれ、エジプトで学を積み、詩の崇高さ、知識の深さを極めたのがオルフェウスである。Fabre d'Olivetによれば、妻エウリュディケの存在もアレゴリーに過ぎない。それはすなわち、遠ざかっていく美と真のアレゴリーである。真理は知の光の中で初めて到達する、暗闇で凝視したところで、それは決して得られない。このようにFabreはアレゴリーの解釈をしている。

 オルフェウスは、神の神秘を知るために、学校を作り、そこで知を高め、真をしるためのイニシエーションの修行を行なわせた。古代においては真理はひとつの声があるだけであり、それはこのオルフェウスに帰せられることはソクラテスの証言通りである。こうした知のあり方は、その前のモーゼ、その後のピタゴラスと同じである。

 ここで先ほどの混乱の時代に話題が戻り、Fabre d'Olivetは詩の真理の分裂は、本来の啓示を得ることのできない僧侶たちが、感情の高まりをそれと同等のものと見誤ったことを原因だとする。それによって、神がその能力、そして名前によって数多く生まれることとなった。こうしてそれぞれの都市がそれぞれの神を抱くこととなる。もちろんこれらの神々をよく検討するならば、それらは最終的に普遍的な唯一存在へと還元されるだろう。しかしそれぞれの守護神を見いだしていた民衆にとって、そのような考えをすることは不可能であった。

 オルフェウスは、モーゼと同じようにエジプトの寺院で教育を受け、神の単一性についてはヘブライ人と同じ考えを持っていた。しかしこの考えを表に出すことなく、秘儀の根本に据えるとともに、詩の中で、神の属性を人格化した。モーゼの教団が厳格なものである一方、オルフェウスのそれは、輝きがあり、精神を魅惑し、想像力の発展を促すものであった。喜びや快楽の下に、オルフェウスは役立つ教え、教義の深みを隠したのである。詩、音楽、絵画、それらにおける荘厳さ、優美さが信仰者を熱狂で包み込んだのである。オルフェウスの言う真理は、モーゼよりもさらに進んだものであり、時代を先んじていた。オルフェウスは、神の単一性を教え、その存在の計り難さを述べた。またこの唯一神を三神の表象のもとに描いた。

 また弟子に芸術がもたらす感興を信者に与え、彼らの生活が簡素で純粋であることを望んだ。こうした教えは後にピタゴラスが引用するものである。

 この教えの究極の目的は、神との交流にある。輪廻の輪を断ち切り、魂を純化し、肉体を抜け出した後に、原初の状態、光と幸福に到達するよう、魂を飛翔させることにある。

 オルフェウスについて長々と論述してきた理由は、詩が余興の芸術ではなく、それが神の言葉であり、予言者の言葉であることを言うためである。オルフェウスはこの意味で、まさに詩と音楽の創造者であり、神話、道徳、哲学の父であった。オルフェウスが源流となり、ヘシオドス、ホメロスのモデルとなり、それがピタゴラスやプラトンにとっての光明となったのだ。

 オルフェウスは、自らの教義を俗なるものと、神秘的なものに分けた上で、詩の中にも神的なものと俗なるものが混じり合っていることから、一方を神学、もう一方を自然学(la physique)にわけた。オルフェウスは、神学と哲学の数多くの詩を作った。それらの作品は残っていないが、人々の記憶には留められた。(この場合の哲学とは、コスモロジー、すなわち、自然学のことか?)。同時にオルフェウスには叙情的な詩群もある。ここからギリシアのメロペーが生まれ、それが次いで、劇を生んだ。

 Fabre d'Olivetによるピタゴラス『黄金の詩』フランス語翻訳につけられた詩論である。論文タイトルにあるように、詩を「本質」と「形式」に分けて検討している。

 以下簡略訳をしながら要旨をまとめる。

 序文で、ピタゴラスの詩のフランス語訳が、フランス語自体にもたらす有用性に触れた後、第一章では、まずベーコンの『学問の尊厳と進歩』を引用し、詩が本質と形式に分けられていることに言及する。本質とは、想像力に属するものであり、これだけで学問の一分野を構成する。形式とは文法に属するものであり、哲学の、理解の合理的形式に包含される。この考えはプラトンに流れを発するものであり、プラトンによれば、詩はひとつに思想にそれに合致した形式をあたえる技術であり、これはたんに才能による。もうひとつは、神の啓示である。したがって、詩人とは単に詩作の才能をもった人間と指すのではない。魂を高揚させるこの神の熱狂を身にたずさえてこそ、詩人となるのである。

 この意味で、オルフェウス、ホメロス、ピンダロス、アイスキュロス、そしてソフォクレスの名声が、単に作品の構成、詩節の調和、その才能にあるのだと考えることは誤りである。これらは単に詩の形式に過ぎず、本当の詩というものは、詩人の精髄(génie)が、その高揚の状態において、知性(nature intellectuelle)によって捉える本源的な概念(idées primordiales)にあるのであり、この概念は、続いて、詩人の才能によって、自然要素(nature élémentaire)の中で明らかにされる。これは自然界の物質の似姿を、魂の啓示を受けた動きに会わせるのであって、この動きを似姿に合わせるのでは決してない。これについては、ベーコン自身が次のように言っている。

「感覚の世界は魂の世界より劣っている。詩がこの性質に、現実が拒んでいるものを与えなくてはならない。詩が新たな存在を生み出すのだ。摂理の歩み(la marche de la Providence)が、出来事に潜む最も隠された原因を明らかにするのである。」

 ベーコンにとって詩の登場人物とは仮象であって、それら登場人物の善悪、行為の中には深い意味が込められており、そこに宗教の神秘、哲学の秘密が隠されているのである。現実世界の法を離れた行為の根底には、崇高なる哲学が潜んでいるのである。それが本質と呼ばれるものであり、形式が時の流れとともに変質するのにたいして、本質は不変である。

 この本質とはアレゴリーの精神(génie allégorique)、啓示、すなわち精神の魂への流入によって直接生まれるものである。それは上に述べたように、知性(nature intellectuelle)においては潜在的に留まっていたものが、行為によって自然要素(nature élémentaire)を通過することによって顕在化するのである。詩人の詩作とはこの自然要素に感覚しうる形式をまとうことである。これが神的な啓示であって、知性(nature intellectuelle)から生まれでて、時代、民族を越えて共通である。これが精髄(génie)を作り上げる。一方、俗に啓示と呼ばれている、心の内的な動き、未完成な感情(passion)の方は、感性(nature sensible)に備わるもので、こちらは時代、風俗によって様々に変化する。こちらは精神(esprit)と呼びうるものだ。

 こうしたことは新しい発見ではなく、ヘラクレダイ一族、ストラボンが指摘していることであり、デュオニュシオス・ハリカルナッセウスが「自然の神秘、道徳の最も崇高な概念は、アレゴリーのベールによって覆われた」と言っている通りである。

 古代ギリシアの初期においては、詩とは祭壇にまつられ、人民の教化(instruction)のためにのみ、神殿から出された。つまり、詩、詩節で書かれたテキストとは、神託、教義、道徳戒律、宗教上の、あるは社会生活上の決まりなどである。その意味で詩とは神の言葉である(Fabre d'OlivetはCourt de Gébelinを引用し、語源的にもpoésieはlangue des Dieuxを意味するとする)。

 この詩の起源はThraceトラキアであり、それを聞かせた者をOlenと呼んだ。Fabre d'Olivetはそれぞれの語源をl'Espace éthéré、l'Etre universelであるとする。

 さらにこれらpoésieの歴史を考えるうえで、そこにはフェニキア人の言葉の影響がギリシアの地にれっきとして残されていることを考えなくてはならない。

 トラキアは古代ギリシアの信仰の中心であった。このトラキア人たちからギリシア全体へ神の神託が広まったのである。デルフォイの神託も同じように考えることができるであろう。この2つの信仰は、前者がバッカスとケレス、あるいはディオニソスとデメテル信仰に、後者が本来のギリシアにおける信仰、アポロンとディアナ信仰となった。

 この分裂がどうであれ、ながらくギリシアを支配したのはトラキアの信仰であり、デルフォイの信仰はほとんど知られていなかった。その近くに生まれたヘシオドスがなんの言及もしていないのがそのよい例である。ミューズ、詩の女神がうまれたピエリ(Piérie)もトラキアの山である。