blue_river.jpg ジャクソン・ブラウン、ジェームス・テイラー、エリック・アンダーソン。長髪の顔立ちには、内面のナイーブさ、繊細さが映し出されているかのようだ。社会に跳びかかっていくのでなく、自分を破綻に追いつめるのでもない。情熱と狂気が失われてしまった時代にあって、自分の立っている場所をもう一度見つめ返すような内省的な態度といえばいいだろうか。エリック・アンダーソンの2枚のアルバムジャケットは、どちらも本人のポートレイトである。そのまなざしは、外に向かって投げかけられた、というよりも、おそらくは自分自身の内にむかって深く沈んでいくような印象をうける。しかし、それは決して自己閉塞ではなく、控えめであっても何かを見据えた力強いまなざしだ。

 1972年に出されたこのアルバムは、もはやフォーク・シンガーのアルバムではなかった。フォークというには、あまりにも老成している。誠実ではあっても、もはや素朴ではない。いわゆるトラッドという、過去の伝承を歌い継いでいくような素朴さは、もはやここには認められない。憂愁や追慕はあっても、それはきわめて個人的なものである。この私的な音楽が、しかし、人々の心をとらえていくのだ。

 先に挙げた3人の中で、エリックの声が一番線が細い。ジャクソン・ブラウンの力強さ、ジェームス・テイラーのきらびやかな歌声に比べてと、エリックの声の特徴は、その震えだと言えないだろうか。名曲Blue Riverでは、ゆったりとしたリズムにあいまって、高音の震えがはっきり伝わってくる。感情をあらわにすることなく、たんたんと歌を紡ぎだす。もしかしたら、押し殺した感情があるのかもしれない。でももはやそれを語る時代ではないのだ。その失われたものへの憧憬をもちながらも、一歩前へ踏み出す決意、それがSSWたちの創造への意欲だったに違いない。

 この音楽はやさしい。軟弱といえばそれまでだが、あくまでも誠実な歌である。人に聞いてもらおうと、わざとおもねりはしない。彼の声はひとすじのよびかけだ。たとえどんなにかぼそくとも、よびかけは、多くの人の心に届いていく。エリック・アンダーソンを聞く者は、その音楽によって、孤独とは何か、おそらく問いかけるはずである。そうした繊細な魂に、彼はよびかけるのだ。Be true to youと。

Nico, Chelsea Girl (1967)

chelsea_girl.jpg 恋人の贈ってくれた歌を歌う時、人はどんな気持ちになるのだろう。愛し合う者同士の心は、きわめて私的なものだ。ジャクソン・ブラウンの曲を歌うときの、ニコの心情、ニコの歌を聞くジャクソン・ブラウンの心情、ふたりの想いは決して外の人間にはわからない。それなのに、私たちは、アルバムを聴きながら、ニコの声に心をうたれる。音楽の限りない魅力の秘密は、きわめて個人的なものが、多くの人々の心に共感を得て広がっていくところにあるのではないか。いつまでも手元に置いておきたい、そんな思い入れを強く感じさせるアルバムだ。

 このアルバムが出されたのが67年10月。その数ヶ月前には、ヴェルヴェットアンダーグラウンド&ニコのファーストアルバムがでている。ロックがひとつの前衛であること、トータルな芸術運動であることを、一つの作品という形におさめた類い稀なアルバムだが、ロックのコミューンとしての性格は、じつはヴェルヴェットよりニコのアルバムのほうが色濃くでているかも知れない。ヴェルヴェットがあくまでもバンドのサウンドを全面に出しているのに対して、ニコのアルバムは、ジョン・ケールとルー・リードのコラボレーションが音作りに生かされているからだ。ニコ、ケール、リードのとりあわせは、ロックが共同体の中から生まれてくる芸術であることを教えてくれる。人と人がある時、偶然出会い、お互いを触発し、強い創造性を生むこと、そこにロックの醍醐味があることを教えてくれる。

 だから、ソロアルバムでありながら、ニコと、彼女を取り巻く様々な人々のサポートによって出来上がったこのアルバムは、合作という感じが強い。しかし出来上がった音はあくまでもストレートでシンプルだ。弦楽器や吹楽器の音は美しく、ニコの声はとても生々しい。その少し鼻にかかったような、しかし芯のある歌い方は、ニコの魂の赤裸々な姿だ。

 死の直前のニコのライブは、すでに祈りにも似た、厳粛なものだった。しかしこのファーストアルバムのニコは、けだるくも、十分に瑞々しさを感じさせてくれる。実は光りにあふれたた、優しさに満ちたアルバムだ。