覚書

Roland Barthes, Écrivains et Écrivants(1960年)

 この論考「作家と著述家」でロラン・バルトは、言語活動には2つのカテゴリーがあると述べている。一つ目のカテゴリーは作家(écrivain)。作家の仕事は「いかに書くか」を問うことであり、そのために作家はことば(パロール)を加工し、ことばを彫琢する。それが作家の役割であり、そのことばは文学言語となり、やがて文学言語は社会の中で規範化され(たとえば国語の授業で文学が使われる)て保護されてきた。

それでも作家は世界と関わらないわけではない。ただその関わり方には距離があり、またその距離によって世界に対して「問い」を発することができる。バルトは作家は「世界を揺さぶる力」を持ちうるとするが、その条件は「参加しそこない」である。参加するとは世界と直接関わりをもつこと、参加しないとは、世の中とは無縁に自室に閉じこもって美的な作品を描いているような「大作家」の態度である。そのどちらでもなく、すなわち世界と距離をとりながら、世界を再現することが、作家のもつ可能性である。

 もうひとつのカテゴリーは「著述家」(écrivant)。日本語では「著述家」という訳語があてられているが、もともとはécrivant、書くという動詞の現在分詞であり、それを名詞としてバルトは使っている(英語でいえばwriter and writingで後者を「書く人」という意味で使っている)。こちらはいわばことば(パロール)を手段としてある目的を達成しようとして活動している人間である、その目的とは「証言、説明、教えること」(邦訳p. 201.)であり、それは「マルクス主義語、キリスト教語、実存主義語」と言い換えられているように、「政治/宗教/哲学」の言語である。

 近代にはいると芸術は資本の対象となり、それが買われたり、消費されることで、流通するものとなる。対して著作家は自己の思想を述べることが第一義なので、それが受け入れられるならば、「ただ」でもかまわないだろう。

 このようにバルトは、言語活動を文学と政治/宗教/哲学を対置させる。そして最後に作家と著述家の混合型として知識人という3つ目のカテゴリーを提示する。彼らは文学が要請してきた文学言語の規範から自由でり、そして著作家たちのように社会に思想を伝えようとする。しかし彼らの思想は、社会によって、うまく飼い慣らされてしまっている。つまり「政治/宗教/哲学」がラディカルに言語活動として実践されれば、それは社会革命へと繋がっていくはずだが、知識人の思想は、社会のなかに包摂されてしまっている。しかもマージナルなところに棲息させられている。これはおそらくサルトルのような知識人への批判なのだろうが、最後に示されているように、社会に制度化された場所(=大学)で、社会批判をしているような大学教授がバルトのもっとも辛辣な批判対象となっている。

Nicole Lapierre, Sauve qui peut la vie (2015)

 Sauve qui peut la vieは、社会人類学者Nicole Lapierreが自分の家族の来歴を語ったessaiである。母方の祖父母はユダヤ系で1905年ポーランドからフランスへと移民として渡ってきた。父も同じくユダヤ系で1926年に同じくポーランドから医学の勉強のためにフランスに留学し、そのままフランスの国籍を取得した。ユダヤ系移民を出自とする家族と自らを見つめながらも、家族と自分を時代と呼応させ、そして<今>を考察している。

 私を主語にして書いたとしても、私の物語とは限らない。私を主語とすることは、私の声を聞かせることではあるが、本書では私の声は、むしろ家族の声を伝えるための声でもある。
 
 1. Un kilo de plumes, un kilo de plomb
 第1章では、家族の女性たちの死の経緯が語られている。Lapierreの母方の祖母は1934年に事故で亡くなっている。姉のFrancineは1982年に自死、また母のGilberteもそれから8年後に同じく命を絶っている。

 Francineの死の後、両親はその理由、説明を求めて自問する。父親にとっては、戦争中の出来事がその根拠となる。ドイツのフランス占領が拡大し、両親はFrancineの命の安全を考えて、ある家族に預けることにする。泣き止まない彼女を置いて立ち去ったが、心配でその昼に戻ってみると、依然彼女は泣いており、結局その家族に預けることをやめた。父は、Francineが命を絶ったとき、このわずかの時間とはいえ捨てられた記憶が、後年夫が彼女に関心を向けなくなった時に、蘇ったことが理由だと考えていた。母は、Francineの夫が愛さなかったことに理由を求めた。いずれにせよ、こうした理由、説明を求めることが、彼らには必要であり、たえずその死のことを考えていたとLapierreは書いている(p. 24.)。

その一方で、両親は、嘆きや悲しみの感情を表に出すことはほぼなかった。そうしたことへの軽蔑の気持ちがあったし、そもそも両親の世代は自分の心の中のことは話さなかった。両親からの声は聞こえてはこなかったのである(p. 26.)。

 ただそれでも母が、ひょっとしたら亡くしていたかもしれないFrancineを大事に思い、2人目を望んでいなかったこと、父の方は、息子が欲しく2人目を望んでいて、結果として女の子であった自分を愛してくれていたことはLapierreに伝わっていた。また戦後生まれのLapierreの世代は、戦争後の希望と約束としての子供たちだった(p. 28.)。

 Lapierreは、父のこと、イギリスへ渡った叔母のこと、そして自分自身の家族のこと、一族の家具が集まった現在の家のことを語りながら、家族の系譜を素描する。そして最後にplomb「鉛」とplume「羽」のイメージを使いながら、自分の家族の歴史は決して、重い出来事だけがあったわけではなく、羽のように軽やかな出来事もあったのだと語っている。

 2. Familles dans la tourmente
 第2章は、父方の祖父母の話から始まる。祖父母はポーランドの比較的裕福な層に属し、家庭ではイディッシュ語ではなく、ポーランド語を話し、ショパンのワルツとアダム・ミツキェヴィチの詩を愛好していた。1926年に父親がフランスに留学できたのも家庭が裕福だったためである。

 とはいえ、祖父はロシア占領時代に軍服を手がけていたたため、ロシアとドイツの間にあるポーランドのユダヤ人としてかなり神経を使っていたと言える。1918年のポーランド独立後は家業も好転していく。故郷はLodzウッチであり、繊維業が栄えていた。1924年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの作家レイモントの『約束の地』の舞台はこのウッチであり、工業化社会の資本主義の収奪のむごさを描いている。父の弟もこの地で製糸工場を建てている。メンデルというこの叔父について知りうることは少ない。彼の経営ぶりや労働者の扱いがどうだったのか、それについて父はあまり語らなかった。

 戦争中の叔父家族の経緯は、父自身の話と、赤十字を通して父に送られてきていた手紙から復元される。妻と子供はおそらく連行され、また叔父は、手紙が途絶えたことから1944年のワルシャワ蜂起で命を落としたとされている。こうした話を語る父の口ぶりからは、スターリンの政策に対する怒りもはっきりと伝わってきた。

  1970年代に両親は、ウッチの墓を訪れる。父の両親、弟の墓碑を建てるためと、家族の消息を知っているとコンタクトしてきた人物に会うためである。だが、その人物は、それを口実にお金を騙し取ろうとした詐欺師であった。当時は家族の消息を求めるユダヤ人を騙すこうした手口は決して珍しくはなかった。その時に写された墓の写真が残っている。碑銘には、ユダヤの印もヘブライ語の文字も含まれてはいない。Lapierreは、万が一の墓荒らしを避けるためか、あるいは父がヘブライ語を彫れる職人を見つけられなかったからかと推測をしているが、理由は定かではない。

 父の家族を考えるとき、さまざまな問いが残される。なぜ彼らはポーランドを離れなかったのか。事業がうまくいっていたからか、父の留学費のためにパレスチナの土地を売ったからか、あるいは両親はもうすでにかなりの歳だったからか。それははっきりとしない。

 母方の親族は多くがフランスに移住をした。祖父母は羽毛関係の仕事で財産をなし、母たちはブルジョワの生活を送ることになる。母の姉の予期せぬ妊娠や、父からその事実を隠すための工作など、家族史がここでは綴られていく。家族の記憶を聞き取ったとったとき、Lapierreが驚いたのは、親族たちが、その時代の出来事に対してほとんど言及していないことである。Lapierreはその理由を、戦争という大きな出来事のインパクトがそれに先立つあらゆる事柄を消し去ってしまったこと、自分の質問が「家族の歴史」に限定していたこと、あるいはそもそもフランスに着いたことが政治的出来事からの解放だったことに求めている。もちろんどれが決定的な答えということはない。

 その後Lapierreはドイツ占領が進んでいく情勢の中での両親の行動を書いていくが、ここで強調されるのは、戦時における母をはじめとする女性たちの力強さ、大胆さ、巧みさである。そしてまわりの人々の協力と支えである。Lapierreは、事実としてユダヤ系の人々の物語は「逃げ出し、追い詰められ、逃亡」として語られるが、生き延びた人々の「決心し、切り抜け、大胆」に行動していく生命力については忘れられがちであると指摘している(p. 73.)。 

(3. 省略)

 4. Un goût de France et de science
 この章ではポーランドで生まれた父が、1926年留学生としてフランスにやってきた出来事を軸にして、移民の人々の姿が描かれる。両大戦間に多くのユダヤ系の若者がポーランドを離れた。この世代は、移民先の国に知り合いがいる場合が多く、そうした縁者を頼って国を移ってきた。縁者からの手紙には魅力的な話題が並び、実際の困難な状況はたびたび伏せられた。またこの時代にはまだ、今後やってくる状況など想像はできなかった。

 Lapierreの1980年の著作Le Silence de la mémoireは、この時期に国を離れた人々へのインタビューをもとにしている。当時は移民とはいっても、時間と費用が許せば、まだ行き来ができる状況であった。しかし今から当時を思い出すと、その後に実際に起きた別離、死別が、それより前の時代にも反映し、最初に国を離れたこの時期も、罪悪感をもって思い出されてしまうのである。

 そして「悔悟と忘恩」(ジャンケレヴィッチ, p. 135.)から、「以前の世界」へのノスタルジーが生まれる。こうして「失われた関係」が主題となる。

 そのLapierreは父親の語りを引用する。出発時の様子、フランスを留学先に選んだ理由、フランス語は学んだことがなかったこと、そしてその後のことを考えれば、フランスで生き延び、医者になることのできた自分は家族の運をひとりですべて奪ってしまったのではないかという気持ち。 

 父は1935年に博士論文を書き上げ、博士号を取得し、それに基づく論文も発表している。ではなぜ研究者にならなかったのか。同年にフランス国籍をとったユダヤ人にとって、研究者の道は難しかったのであろう。当時大学で教えるためには国籍取得後少なくとも5年は移住歴がなくてはならなかった。医学アカデミーからの賞も受けた父は、その後ある知人からの提案を受け入れ、クレッシュという町で「田舎医者」となることを決める。

 戦争中家族には、フランスを離れることを勧める声が届く。父の恩師からの手紙が残っており、そこにはヴェネズエラの知人が受け入れ先として紹介されている。その手紙には推薦状も添えられていた。だが家族はフランスを離れることはなかった。そして戦後はパリに移って医師を続けた。電気放射線学の資格もとり、新たな知識を身につけながら父は活動していた。

 その間に苗字もLipsztejnからドイツ的なLipsteinそして、Lapierreと変えた。ただLapierre本人は13歳のときに、ユダヤ系の歴史の教師から「ユダヤ人にとって名前を変えることは恥である」と諭されたことを覚えている(p. 161.)。後年LapierreはChanger de nom『名前を変える』という本を書き、人々が名前を変える理由を探っている。戦時中Lapierreの両親はLipotinという名前で証明書を作成していた。ヴィシー政府では1942年2月にユダヤ人の氏名変更の権利を剥奪する法令を出している。Lapierreという名は父がフランスへの愛着と、元の名前の痕跡をとどめるために選んだようだ。そしてもちろん、変更は、もし万が一歴史が繰り返されたとき、子供たちをその災厄から守るためである。

 もちろん名前を変える態度と、ユダヤの人々が亡くなった親類の記憶をとどめるために、彼らの名前を記録することにこだわったことは矛盾しない。それは死者を無名性と集団の中への埋没からすくいだすためであった(p. 169.)。また親たちは、伝統にのっとって、亡くなった親族の名を子供たちにファーストネーム、セカンドネームとして与えた。

 親たちは名前を変えてもユダヤ性を失うことはなかった。子供たちにはユダヤ人と結婚することを望んでいたし、孫たちには、ユダヤと関連がわかる名前をつけること望んでいたし、父は孫の割礼も望んでいた。父はユダヤ性とフランス性の2面を持ち続けたのである。

 現在の世代には、もとのユダヤの名前へ戻ることを希望する者たちもいる。法律的には「外国名」へ戻ることは難しいが、「ヴィシー政府の排斥に対する象徴的修復」としてこの要望を考える弁護士もいる(p. 174.)。

 ただし名前にこだわる傾向についてLapierre自身は留保をつけている。「名前を変える」こと、烙印を押されること、そして移民としてやってくる者たちは、ユダヤに限定されない。その中でナショナリズムの高まりや人種差別の執着心は名前へと集約される(p. 175.)。Lapierreにとっては、人間をこうした「アイデンティティの印」から守ることこそ重要なのである。 

 5. L'héroïsme des immigrés
 この章ではLapierreは、移民という事態には、時にさまようこと、その危険と孤独、別離、いわば「悲惨主義」で語られることが多い事実を指摘する。また彼らは、助ける対象という意味で犠牲者とみなされ、ときに差別、不公平にも遭遇する。

 だが同時に、国を離れ、異国に暮らすためには、「意志、勇気、大胆さ、ときには意識しないこと、そしていくぶんかの希望」が必要であると指摘する。移民は犠牲者であるだけではなく、「社会におけるアクターであり、自らの人生の主体」でもある(p. 182.)。したがってクリシェで語るのではなく、フランスで生きることを決めた外国人たちのより正確で価値付けられたイメージを示す必要がある。そして移民の道程における勇敢さを語る必要がある。勇敢さは単に力を持ち、栄光につつまれることではないはずだ。新しい人生を切り開くため、果敢に、我慢強く戦いを続けることにも認められるはずだ(p. 183.)。

 それらを表現するためには小説形式も有効だろう。Mathias Enard, Rue des voleursの主人公は20歳のモロッコ青年であり、彼の移動を描く。Ariane MnouchkineのLe Dernier Caravansérailはオデュッセイアの副題がつけられており、人物たちは世界各所からの旅人である。

 次にLapierreが強調するのは、比較の可能性である。かつての移民は彼女の親たちのような東ヨーロッパからの移民であり、今日は中近東、北アフリカからの移民である。Lapierreにとって「差異を抹消することではなく、多様なものと類似なものが同時に存在することを前提とする」のが比較である。

 Lapierreが批判するのは、「比較可能なもの(=近接しているもの)しか比較できない」という態度、また「何も比較できるものはない」という態度である。比較不能とは差異のみを認めることであり、それは自らの居場所を固定し、その場所を保全することである。Lapierreは自分の場所を動かないことが、ヒエラルキーを保証し、偏見を助長してきたと言う(p. 189.)。そしてこれが所有の論理、「根っこをはった」者たちだけの縄張りを作りあげてしまうのだ。

 過去の移民たちと現在の移民たちが異なるのは明らかである。それぞれの固有性もある。では共通性はないだろうか?Lapierreは次の3点を挙げる。まずは知らないところに飛び込んでいく彼らの選択と経験。次に周縁化されているという事実。最後に移動にともなう苦しみと豊かさ、特に世界や社会への異なった視線の獲得である。

 Lapierreはノルベルト・エリアスとジョン・L・スコットソンの『定着者と部外者』を引用し、お互い似ているにもかかわらず、定着者は既存権益を保持し、新たにきた者を部外者として排除する。ここには「経済危機、階級、言語、文化、宗教、出自、肌の色」の差異はないのに、軽蔑と排斥は激しく存在する(p. 197.)。問題はそれぞれのグループに固有の性質にあるのではなく、そのグループ同士の関係の編制のされ方にあるのだ。

 私たちの両親の過去を思い出せば、過去と現在の類似するところから、「理解と共感と連帯が可能になるはず」とLapierreは言う(p. 200. )。

 最後にLapierreは「移動の価値と外国人の視線」を擁護する。それは明らかなもの、確実なものから離れた視点である。Lapierreは社会科学の数多くの著者における、移動の体験と社会の批判的分析の間の親和性を、その著書Pensons ailleursで明らかにしている。社会、その社会の常識、権力、制度から距離をおくことが、その社会を理解するためには必要なのである。移動した人々は、どこかに根を張ることなく、多くの世界を知ることになり、少し外に、そして同時に少し内にいるのである。

  6. Aléas de la mémoire
 この章の始まりは1970年代にあらゆる議論で聞かれた「どこから話している?」という問いについての考察である。つまり、どんなことばも自分の社会的ヒエラルキー、権力関係に規定されているということ、つまり主体や主体の持つ省察力、行動力は考慮されていないという姿勢がこの問いからは見えると、Lapierreはいう。

 ユダヤ系といってもLapierreの世代は、フランスの文化に十分に浸っており、ユダヤの伝統からの影響はごく限られたものであった。家族でユダヤの風習、たとえばPessah過越に行ったりもしたが、子どもたちの目にはエキゾティックなものに映っていた。母はこうした風習を皮肉な目でみていた一方で、子どもたちにかける愛情のことばはイディッシュであり、それはおそらく祖母から受け取ったものである。家庭でのケーキもポーランドのユダヤ料理のものであった。こうした違いは、両親があまり伝えようとしたり語ったりしなかったと同時に、子どもの世代も特に尋ねたりしなかったことから生じている。

 70年代には、地方文化の擁護が時代の風潮となったように、アイデンティティの起源を探る傾向が生まれてくる。それと同じように自らのユダヤ性を発見することにもなるが、ただそれをどうしてよいかわからない、「使い方」がわからないのだ。ジョルジュ・ぺレックもEllis Islandで「ユダヤ人であるとはどういうことか、ユダヤ人であることが自分にどういう意味があるのかはっきりとわかってはいない。ユダヤであることは明白だが、それは平凡な明白さだ」と述べている(p. 212.)。

 こうした不安は、ぺレックの世代、すなわち戦争中に子どもだった世代をとらえている。Lapierreの戦後世代は希望が回復するなかで生まれている。ナチズムの体験を両親が話すことはあまりなかった。また戦争によって失われてしまった時代のことも。その沈黙にはさまざまな理由があるだろう。重い過去から自分を切り離したい、あるいは何よりもまず自分たちの子供をこうした過去から切り離し、未来への向かわせたいという気持ち。特にLapierreの両親にとって、未来は勉学に打ち込むことで拓けるという確信があった。

 ただ文化的なレベルでの復興はあったものの、歴史学、社会学、人類学はむしろ弱まりゆく記憶継承を課題としていた。その流れにLapierreも入っていく。実際失われていく自分の家族、そのなかで消えていく記憶の問題が、「ユダヤの記憶」という研究主題を選ばせることになった。そして父の故郷の出身者たちへのインタビューとアンケートの調査から書かれたのがLe Silence de la mémoireである。これは体験を「復元した」(p. 218.)研究となった。

 「記憶とは一度で決定されるものではない(p. 219.)。私的空間、公的空間での沈黙の時代の後に、80年代には、言葉の時代がきた。ヴィシー政府の秘密が明らかになりはじめ、歴史修正主義に対抗する言説が起こる。そのなかでさまざまなアプローチが生まれるが、そのひとつがフィンケルクロートの『想像のユダヤ人』である。ここでフィンケルクロートはユダヤ人をやめるとは、「苦しみを年金として生活する者、絶対的正義の正式の受託者」であることをやめることだと述べる。

 1978年にはテレビドラマ「ホロコースト」が大成功をおさめ、ジェノサイドの表象が世界に伝播することになる。このテレビのフィクションの対極に、クロード・ランズマンの「ショア」があり、この作品が初めて上映されるのが1985年である。文学作品では1982年のHenri RaczymowのUn cri sans voixがLapierreに強い影響を与える。

 90年代はショアの記憶が多くの国で認められるようになる。フランスでは1995年に当時のシラク大統領がユダヤ人連行についての国家責任を公に認めた。

 しかしながら、こうした過去の認識が「現在の犯罪に対する本当の警戒」(p. 225.)へとは結びついていない。「記憶の義務」も「こんなことはもう二度と」も単なる題目として消費されてしまったのである。

2000年代に入り、ショアは世界的に拡散されていく。それによってイメージも出来上がり固定化されていく。こうした現象に対して、たとえばハンガリーのノーベル文学賞作家イムレ・ケルテスは「ホロコーストの消費」を批判する。またこうした物語化は、実際に偽の自伝を生むことになり、Binjamin WilkomirskiやMisha Defonsecaの偽の作品に「騙される」ということが実際に起きている。これらの作品が大きな反響を呼んでいたのは、それだけ「ショアが、犠牲者が今後主要な社会的像となる文脈において、あらゆる苦しみの典拠となった」(p. 232.)ことを示されているのだ。

 2011年に出されたLapierreのCauses communesは苦しみから派生する「犠牲者争い」を批判する意図で書かれている。この本はユダヤ人と黒人の「20世紀の間にあった、共通点、同盟、共同の戦い、相互の考察」をまとめたものである。その目的は、共感が存在し、他者の視点を理解する能力、他者の体験、思想、感情に考えをおよばせる能力が存在すること、決してそれは同情ではないことを示すためであった。

 こうした考えには、理想だけをかたる素朴なものだという批判もあった。だが似た条件がなければ連帯は生まれないだろうかとLapierreは疑問を呈する(p. 236.)。それは自分のおかれた環境に意識を支配されているということだからだ。まさに「どこから?」という所属においてからしか人間は行為できないのだろうか?

 Lapierreが最後に考察するのは被害を受けた者の感情・同情の問題である。Lapierreはpathétique(感情への訴え)は、「歴史の悲劇を理解する鍵とはならず」、「考えることよりも、沈めること、妨げることを行う」と言う。それによって「不正、不平等に対する必要な戦いは、pathétiqueが広げる淵の中に沈み込み、失われてしまう」(p. 239.)のだ。

 実際にショアの物語はパトスの物語だけではない。たとえばDanielle BaillyのTraqués, Cachés, vivants. Des enfants juifs en France (1940 - 1950)(追われた者、隠された者、生きている者、1940-1945年のフランスにおけるユダヤの子供たち)は、「活気、知性、抵抗のモデル」を私たちに示している。

 Lapierreは、両親も姉も亡くしている今だからこそ、この本を書いたのだが、それは不幸の遺伝、言い換えれば、ユダヤの困難の歴史を引き写すためではなく、それを否定するのでもなく、「この亀裂と憂鬱の上に、連帯と参加のモラルを作り上げる」ためであると述べている。また、犠牲者であっても主体的に振る舞えることを示すため、どのような困難さにあったとしても、あらゆることに立ち向かう自由はそれぞれうちに残されていると述べる。

 Robert Boberは1931年生まれ。去年出版された本書は、90歳近くになって書かれた。Boberはテレビ番組用の文芸ドキュメンタリーを多く撮影した映像監督として知られるが、そのシナリオを担当したのがPierre Dumayetであった。二人は長らく仕事のパートナーであり、同時に強い友情関係で結ばれていた。本書は、2011年に亡くなったその友人にtuで呼びかけながら書いた長い手紙である。

 Dumayetは手紙の宛先であって、亡くなったDumayetがどんな人物かが書かれているわけではない。Boberは、あくまで親しい友への私信として、二人が手がけてきた映像作品を中心に、思い出を語っていく。手元に残された、仕事の資料、写真、Dumayet自身の文章などから、思い出すがままに語られていくので、作品には、はっきりとした構成も、章立てもない。Boberは「この無秩序に手をつけることはしない。この無秩序は、思い出の秩序に結びついているからだ」(p. 275.)と言う。あるエピソードが、間を置いて、再び語り直されもする。あたかも長年の友人と思い出話をしている様子がそのまま書き写されたかのようである。

 親しい友人と話すとき、何を話すかあらかじめ決めているわけではない。興に任せて話題は移っていく。話しているうちに別の昔の出来事を、まるで昨日のことのように思い出したりもする。再び前の話題に戻ったり、「脱線」をしながら私たちは会話の時間を楽しむ。この作品はそうした、うちとけた会話の自在さがそのまま語りとして文字に移されている。

 同時に書いている現在も作品の中に現れる。Boberは書いたものを読み直したこと、それによって思い出だされた出来事を新たに書いていくこと、その過程自体も書いている。その言葉自体も、Dumayetを宛先としており、あたかも確認作業を二人でしているかのような印象を受ける。 

 はっきりとした構成はないが、それでもこの作品には、ひとつの主題が流れている。それはイディッシュ、ハシディズム、ユダヤ性である。Boberの一家はもともとはポーランドの出身のユダヤ系である。だがポグロムが頻発するなかで、祖父はアメリカへの移住を決める。そしてアメリカ大陸まであと一歩まで近づくものの、エリス島で、トラコーマと診断されて、ヨーロッパへ戻されてしまう。そしてBoberの両親は、ナチスが台頭するドイツからフランスへと移住する。Boberは一歳半だった。両親はButte-aux-Caillesで商売を始めるが、ドイツ軍の占領下、Boberは「隠された子どもenfant caché」としてかくまわれ、命を救われる。そのBoberの戦争体験から語られるユダヤの歴史と現在が本書のひとつの特徴である。

 例えば二人が手がけた番組としてジュネーヴのラビであるアレクサンドル・サフラン、『Le Dernier des Justes最後の正しき人』のアンドレ・シュヴァルツ=バルト、マルティン・ブーバーの『汝と我』に言及される。

また、はっきりとした構成がない代わりに、想起や連想によって出来事から出来事へと文章は進んでいく。たとえば、Dumayetが自分の著作で、鳥類学者のJacques Delamainの著作Pourquoi les oiseaux chantentを番組で紹介できず後悔しているくだりでは、戦場の最中に、鳥の声を観察しているDelamainの日記に言及されている。Boberは、その鳥のモチーフから、Pierre Reverdyの詩の一節、« Un oiseau s'enfonce dans l'herbe pour mourir.»へと連想を広げ、Delamainの著作は「戦争の恐怖を克服するための鳥への関心」があったのでは、とDumayerに語る。

 そしてさらに「鳥と詩」のモチーフから、Paul Celanの詩の一節、« Nous creusons dans le ciel une tombe où l'on n'est pas serré. » が引用される。そしてすでに引かれたブーバーの『ハシディズム』から、動物の鳴き声の逸話が引用される。さらにローザ・ルクセンブルクが墓碑にはただ「zvi-zvi」とだけ掘って欲しいという逸話も。シジュウカラの啼き声をあまりにうまく真似するようになったので、鳥たちが寄ってくるようになったと、手紙に書かれた逸話である(p. 52.)。

 思い出は実際の過去だけではない。想像された過去もある。Boberはフランスが解放され、アメリカ軍のパリ入場時に黒人兵にだっこしてもらい戦車に登ったことを覚えている。そして翌日、その黒人兵は贈り物をもって家に訪ねてくる。父も母も涙しながらその兵士を迎え入れる...。しかし翌日の思い出は、前日にチューインガムをポケットに入れて家に戻って来たときの想像にすぎない。だが、Bober少年が、その翌日の両親と兵士の邂逅を想像したこと、その想像によって喜びを実感したことは事実なのだ。「もしそうだったら」という条件法過去は、他にも例えば、「曽祖父は私にこう言ったのではないか」という想像から、曽祖父の言葉が書かれている。私が勝手に曽祖父の言葉を作っているのではない。当時の場所、曽祖父の生きた歴史、そうしたものを復元していくからこそ、あるときその場所から言葉が生まれてくるのである。

 「もしこうであったら」という、実現しなかった過去は、想像によって現実に等しい強度を持つ。それは「正確な真実」ではない。だが「私たちの現存によって変容した真実」(p. 61.)である。

 この作品は、Dumayetへの呼びかけの手紙であり、Dumayetについて書かれた本ではない。だが、一人が映像を、一人がシナリオを担当して番組を、映画を作り上げてきたからこそ、「関係」という語が根本的に重要な語であることがさまざまな引用を通して強調される。「決して一人では困難をくぐり抜けることはできない」というお互いの相手への思いもそうであるし、ブーバー『汝と我』もまさに関係の書である。制作された番組が多くは作家たちへのインタビューである以上、そこには会話という場面の関係が生まれる。そして会話とは、「言葉と視線と沈黙」(p. 61.) によって作られる。例えばマルグリット・デュラスのインタビューには、多くの沈黙がある。通常ながらカットされてしまう音のない場面も、それが会話の一部だからこそしっかりと残されているのである(p. 247.)。

 カメラは本質的に映すもの映されるものの関係において成立する。そこから連想はウォーカー・エヴァンスとジェームス・エイジーの『名高き人々をいざ讃えん』へと移る。Boberが映画の仕事をしているときによく言われたことは「俳優はあたかもカメラが存在していないかのように振舞わねばならない」だった。撮影者とは無関係に、俳優は自律的にその場に存在しているということだ。その点から見れば、被写体を映す写真の手前にカメラマンの影が映ってしまっているエヴァンスの写真は、不注意でも、不器用ということになる。だがBoberはそこに被写体の女性とエヴァンスの間に生まれた関係を認めるのだ。女性はカメラマンに微笑んでいる。影はカメラマンの「その場所に私もいる」という存在証明であり、イメージの中に「共にいる」ことの証明なのだ。そしてまた女性の笑顔は、カメラマンを、自分の日常へと招待する自然な態度なのだ。カメラマンは、作品を撮ること以上に、その笑顔に強く感動する一人の人間としてその場にいることを歓ぶ。ここに関係の本質がある。

 同じことが、150ページほど離れた箇所でも言われる。それはロベール・ドアノーの写真についてである。BoberとDumayetはClochardesのルポルタージュを撮影する。その冒頭で使われているのがドアノーの写真であり、そこで用いられたDymayetのテキストが書き写される。「自分の趣向にあった写真を撮るためには、相手の協力が必要であるかのように、ドアノーはその相手に話しかける」、「やがて彼らは写真に撮られてうれしいと感じ始めるのだ」。

 さらに思い出すままに、エピソードがつながっていく。BoberはこのClochardesのの一人が「勝手に撮ればいいよ、そしたら私が捨てた娘も、テレビで私のことを見るだろうよ」と言ったとき、彼は撮影をやめる。それはドアノーも同様で、アルプスの山の中で羊飼いと一緒にいた時に、トラックによって羊の群れが轢かれるということがあった。ドアノーはその現場の写真を撮らず、羊を失った羊飼いを慰めたというジャック・プレヴェールの話をBoberは載せている。そこには撮らないことの倫理がある。

 関係は過去と現在をつなぐ。Boberはアネット・ヴィヴィオルカの著作Ils étaient juifs, résistants, communistesを引用し、レジスタンスについて語る。そしてその話はシャルリ・エブドとつながる。Edwy Plenelがシャルリ・エブドを「赤いポスター」、ナチスがレジスタンスの活動家を印刷して貼ったポスター)を揶揄したことを批判し、銃殺された彼らの名前と、シャルリ・エブドでなくなった人々の名前をともに列挙してる(pp. 140-141.)。

 同じモチーフが本書の中で、何度もヴァリエーションを変えて反復される。たとえば「沈黙」は、先ほど述べたデュラスのインタビューにおいて重要なモチーフだったが、たとえば「沈黙は私の中に入った死者の言葉である」とGérard Wajcmanの言葉が別の場所で引用される(p. 148.)。

 他にも本書にはさまざまな交流が書かれている。マックス・オフュルス、ジャン・タルデュー、エルリ・デ・ルカ、ジョゼフ・ロート、アペンフィールド、マルク・シャガール、エドモン・ジャベス、エリック・ヴュイヤール、ゼーバルト、フィリップ・ロス、フランソワーズ・マルロー、そしてジョルジュ・ペレック。

 ドキュメンタリーは時に予期せぬことを映す。予定からはみ出るという意味で断片的なエピソードではあるのだが、その断片がときに作品に大きな意味を与える。そのような場面が二つ引かれている。一つは自分の作品Réfugié provenant d'Allemagneから、Radomという父親の生まれ故郷を撮影したときのこと。まだここに暮らしていたユダヤ人の夫人を車に乗せて記念碑まで案内してもらった場面で、その夫人は道案内とかつてのユダヤの街の説明を交互にしていく。そのような場面は、決してシナリオでは準備できなかったとBoberはDumayetに語る(p. 279.)。

 もうひとつはRuth ZylbermanのLes Enfants du 209, rue Saint-Maur, Parisというドキュメンタリー映画の場面である。子ども時代にこの場所で過ごし、戦後アメリカに渡った今は老人となった人物が過去の記憶を拒否しつつも、この場所に再びやってきて、両親の痕跡を今も残る建物に探る。こうした予期せぬ場面を映す可能性があるのがドキュメンタリーである。

 Boberは、自らが撮影したEn remontant la rue Vilinについて次のように述べている。このドキュメンタリーは、道に並ぶ建物の番号を撮った写真を並べ、それを写しているのだが、写真という「断片」は「それぞれすでにひとつの完結したイマージュである」(p.216)。その意味で、それぞれの写真は他の写真から独立しているようにみえる。しかし映画としてそれぞれの生活空間を組み合わせると、そこに「道筋、物語(récit)が導入される」と言う。Boberの本書も、まさに回想という断片を、連想に任せてつないでいく。それぞれの思い出は独立して想起される。しかし読み進むにつれて、その断片がゆるやかに結びつき、一つの物語が生まれてくるのである。Boberはエドモン・ジャベスの「作品よりも、その中の一文や一節が生き延びるとしたら、それは作者ではなく、読者が(...)その特別な機会を与えるのだ」という言葉を引いている。本書もこうした一文、一節のさまざまな引用がちりばめなれ、それぞれが呼応しながら物語を生んでいる。

 冒頭で述べたように本書は、亡き友人にあてて書かれた手紙である。本人ももう90歳となる。当然ながら死を間近に意識する。終わりの方で、Boberはジャンケレヴィッチの「存在をしたものは、存在しなかったということには、もはや今後なりうることはない」という言葉を引いている。一度存在したものは、たとえなくなっても、存在しなかったことにはならない。その真実の重みをこの本から受け取った。

Pachet, Pierre, Adieu (2011)

 フランスでは、20世紀後半から、「私」を主語にしつつも、「自己の不確かさ」「他者の不確かさ」を問うテキストが現れてきた。本論では、特に、近親者の死をめぐって書かれる「喪のテキスト」の中で、このような自他の存在の問い直しが顕著になされる傾向があることに着目し、「喪の語り」の特性について考察した。具体的にはフランスの作家ピエール・パシェ(Pierre Pachet 1937 - 2006)が、亡くなった妻について、そしてその喪失体験について書き綴った作品『アデュー』(2001年)を取り上げた。

 発表では、まず第一に語りの形式特性を明らかにするため、ナラトロジー研究、記憶研究、物語論などを援用し、物語(histoire)と語り(récit)を対照し、後者に、筋立ての弱い断片的構成、発話の現在性を記述することによる、いいよどみなどの不完全の言述といった特徴があるとした。

 続いて、死者は自分について書かれた文章に目を通し、修正や批判を加えることができない以上、生者の言葉、視点によって死者を支配しないことを、パシェが書くことの倫理としていることを指摘した。

 その上で、出来事を悲愴化しないこと、解釈を決定せず、ことばの意味を考察し続けること、書く行為はたえざる「試み」であると認識していることにパシェの言述の特質があるとした。このような書き方を選択するのは、人を知るとは、ある一瞬、ある一時期、偶然聞くことのできた小さな語り、すなわちその人についての数限りない断片を通してのみ行われる行為であるとパシェが考えているからである。

 だが、この態度は不可知論や相対主義には陥らない。確かに、私たちには、他者の本質は見えず、それを具体的に名指すことは難しい。しかしそうであっても、私たちは、そのときどきの断片を通して、その本質を分有しているのだ。このような他者の本質の感受が可能なのは、パシェが、死者を書くことに高い倫理観をもち、書く形式にきわめて自覚的であることによって、「私」の言葉を通して、その言葉の向こうに、その人の存在が見え、その人の声が聞こえてくるような、語りを模索したからであると結論づけた。

第二回声の主体による文化・社会構築研究会 - 声のつながり研究会の発表「『喪失の声』と物語(histoire) / 語り(récit) - 喪失を書く現代フランス作家のいくつかの事例から (1) ピエール・パシェ『アデュー』を通して」の報告書より転載。

 「病気とは隠喩などではなく、(...)隠喩がらみの病気観を一掃すること」(p.5.)が、このエッセイの主題である。主に西洋の文学をもとに歴史を振り返り、結核、梅毒、ペストなどの病気についてまわる隠喩的表象を検証しながら、最終的には現代の癌に付着している隠喩の言語構造を批判する。

1.
 病気が隠喩に頼るには、「未知な何かがそこに潜んでいる」「恐怖心をかきたてる」からである。病気を病気として捉えるためには、病気を非神話化する必要がある(p.9.)。

 高度産業社会での死は、「死を受け止めることが耐え難い」(p.10)という意味を持つ。私たちは普段は死を考えたりしない。あるいは死を間近で体験することがさほど少ないことから、この現象が生まれるのだろう。では、ソンタグの言うようにたとえ死にたいして普段は意識が気迫であっても、それでも人は死を前にして、何らかの意味づけはするのではないだろうか。そのとき人はどのような意味に頼るのだろうか。考察すべき点である。

 ソンタグによれば、癌だけが、ことさら嘘による隠蔽の対象になるのは、「何かおぞましいものー不吉なもの、感覚的におぞましく、吐き気のするようなおのが感じられるから」(p.11.) だという。つまり癌だけが、強い意味作用をもって、感覚に働きかけるのである。

2.
 つづいてソンタグは、癌の隠喩的使用の歴史を、その歴史と重なる(ただし、19世紀のロマン主義の結核にまつわる隠喩的使用は、20世紀には癌にまつわるそれへと移る-p.21.)結核の隠喩的使用と対照させながら追っていく。そしてその表象の歴史は「捏造した神話」(p. 19.)にすぎないと断言する。

 たとえば、結核による死は安楽死であり、癌による死は苦しみによる無残な死という表象は、現実のさまざまな死に方を捨象し、イメージだけで意味を支配してしまう。結核であれ、癌であれ、こうした「空想が繁殖」(p.20.)するのは、どちらも「病気をはるかに越える何か」と考えられているからだ。それは死のことである。しかし、ソンタグにとって、「はるかに越える何か」とは、余剰の部分であろう。ソンタグは結核、癌にはりつく、死と同一視される余剰の部分を批判しているのだ。たとえば結核の場合は、それは死の美化であろう。

3.
 次にソンタグは「結核の神話」と「癌の神話」の類似点として、「情熱に縁がある」ことを挙げる。それは情熱の過剰であっても、抑圧、衰弱であっても、「生のエネルギー」に関係あるものとして表象される。

4.
 ここでソンタグはあらためて、17世紀から19世紀の文学作品から結核が「ロマンティクな連想を獲得していた」例を挙げていく。「結核こそ上品で、繊細で、感受性の細やかなことの指標」となり、「自我をイメージとして売り込む(...)最初の大がかりな例」となり、そして「ロマン的苦悩」となる。

 また結核は、悲しむという感受性の繊細さとも結びつく。芸術家とは繊細な魂の持ち主であり、憂鬱な精神の持ち主であり、こうした芸術家こそが結核にかかるのであると。それをソンタグは「結核と創造力を結びつける紋切り型の表現がすっかり根をおろしていた」と指摘する。またそれ以上に結核は、「ボヘミアンの生活の重要な範型を提供」した。そしてこの神話が終息するのは、戦後の治療法の確立によってであった。以後この結核にまつわる神話性は、狂気と癌に引き継がれた。

 この「紋切り型」という表現に注意したい。つまりこれは一般に流通するイメージに過ぎず、そこに認識の更新はないし、当然ながら現実の事象からは遊離する。紋切り型を使う人は、自らの認識を眠らせ、紋切り型の言語行為による意味を現実にかぶせ、その現実自体を見ようとはしていないのである。
 
5.
ここではソンタグは、結核とそれ以外の感染症の違いを述べる。ソンタグによれば、「過去の大きな流行病においては、各人はその災禍に見舞われた社会の一員として病気にやられた」が、結核は「個人を社会から切り離す病気」であり、「つねに個人をねらう神秘的な病気」のように見えていた。それと同様に癌も、「個人を懲罰として襲う」病気だとみなされる。だから、「癌にかかった人々の多くは、『なぜ、自分が?』」と問うのだとソンタグは言う。
 
 そしてソンタグは、近代以前と近代以後では病気と病人の性格・行動の関係が変わったと指摘する。近代以前では、病気の後で、人間の性格が破壊されていくことがトゥキディデスでも『デカメロン』でも描かれる。対して近代以後は、病気によって、人間の徳性がむしろ試されるようになる。イヴァン・イリッチも、黒澤明の「生きる」の主人公も同様である。

6.
 ここでは、病気をめぐる表象が、外的要因、内的要因の観点から考察される、『イーリアス』『オデュッセイア』の古代ギリシャでは、超自然の罰であったり、「個人の過誤、集団の違反行為、祖先の犯罪などに対する当然の報い」であったりした。19世紀にはショーペンハウアーは、「病気は意志の産物」、すなわち内面の表現として病気をとらえた。またロマン派においては、「隠された情熱こそ」が病気の原因とみなされた。

 しかし、病気が内的要因とされてしまうと、「病気の責任はすべて患者にある」ことになってしまう。病気が悪化するのも快癒するのも、個人の内面の力に還元されてしまうのである。ここから当然ながら、患者に対する侮蔑の情も生まれ、また「人生の敗者」という診断や、その逆の敗北に対しての賛美も、病者に対して向けられたりするのである。

7.
 では癌と内的要因はどのような関係にあるだろうか。「癌の情緒原因説」は多く報告され、癌と、癌患者が言う「気が滅入る」や「人生の不満」や喪失の悲しみなどの苦痛な感情の間には関係があると言われる。しかしソンタグは、こうした苦痛の感情は、癌患者だけがもつものではなく、「人生の条件」(p.55.)だとして関係を退ける。そして苦痛の感情を表す表現は、「出来合いの言葉」、多くのアメリカ人たちが使うことばだと批判するのだ。

 癌という病気に対して、患者の内面に原因があるとする思想、そしてその内面を表現することばが、紋切り型になっていること、この二点をソンタグは問題視している。

 同様の言説が結核をめぐっても流布し、治療法が見つかるまではずっと続いていた。癌についても情緒を病気の原因とする理論が最近でもはやっているが、ソンタグはそれを「筋の通らない話」と断罪する。

 17世紀のイギリスでは、「幸福な人間はペストにかからない」と言われていた。そして現代にいたっても、「病気の心理的な説明を特に偏愛し」、「病気という、ひたすらに物質的であるしかない現実さえも心理学的に説明がつく」とされてしまう。ソンタグは、現実の中に精神性を持ち込むことが現代において拡大していることを指摘する。そしてその理由として次の二点を挙げる。ひとつは「社会的逸脱は病気」と考える仮説。もうひとつは「すべての病気は心理学的に考察できる」という仮説である。この考え方は、病気の状態をひとつの悪とみなす方向へ進んでしまう。つまり病気は「自業自得」(p.61.)というわけである。

8.
 ここでは病名に生じる暗喩としての意味づけについて述べられている。癩病の事例を通してわかるのは、物理的な病因がわからず、治療法がないとき、病気は「意味また意味の波にもまれやすいものとなる」(p.62.)。まずは「恐れの対象」となり、そして病名自体が隠喩となる。この二世紀は、梅毒、結核、癌という個人の病気とされるものが、「悪の隠喩」として広まった。たとえば『わが闘争』では、「病的恐怖と政治的恐怖」がこの病気に投影されている。結核は「繊細さ・感受性・哀しみ・弱々しさの隠喩的等価物」(p.65.)であった。癌は「非情で、容赦なく、略奪を事とするように見えるもの」に例えられた。

 癌を記述する中心的な隠喩は、「戦争用語から借用」(p.68)されている。「侵す」「防衛力」「走査」「腫瘍の侵略」などの言い方である。治療法も「化学療法は毒物を使う化学戦争」、治療の目的は癌細胞を「殺す」こと、そして癌との「戦争」などと言われる。これらの言い方は、悲観的にも楽観的にも事態を捉えることになり、どちらにしてもその修辞法によって、癌治療そのものの認識が阻害されるのだ。

9.
 十九世紀を通して、病気の隠喩はますます激しいものとなっていく。「本来等しく自然の一部であると考えられる健康と病気なのに、病気のほうは『不自然な』ものいっさいの同義語」と化してしまったのだ」。そして病気は生に対立するものと見なされる。

 そして、社会的幸福が健康であるならば、それとは対照的に、病気は社会の混乱の隠喩となり、混乱は治療の対象となる。その中でラディカルなのは、やはり革命である。ソンタグは、ヴィクトル・ユゴーの『九十三年』で、革命が「嵐」であり、「ペストの魔手」に例えられている一節を引用する。またトロツキーにおいてもヒトラーにおいても、病気の隠喩は頻出する。それは、中国の四人組、パレスチナ紛争へと続いていく。

 二十世紀になり、我々は「絶対の悪」を「適切な隠喩」で表現しようとする。しかしそれを病気に例えるのは、「複雑なものを単純化する傾向を助長する」とソンタグは言う。すなわち、ソンタグは、隠喩に頼ることは、その言葉がもたらす安定化によって、私たちがもはや複雑さについて考えを巡らせ続けようとはしない、と言っているのだろう。

 隠喩は安易に使えるからこそ、プロパガンダに、戦争の、革命のプロパガンダに用いられやすい。だからこそ私たちは、政治において隠喩が使われるときこそ、不信の目を向けなくてはならない。

 今後、癌の治療法が確立すれば、やがて癌も「非神話化」(p.91.)されるだろう。ただしこの隠喩が関心を引くのは、現代の社会そのものが大きな欠陥をもっているからに違いない。現代社会の諸問題の解決と癌の隠喩の消滅とどちらが先にくるだろうか。ソンタグはそれは後者の方であると予言して、このエッセイを終わっている。

 ジャブロンカは、この章で、フィクションの意味を再定義することにより、文学と歴史の違いという古くからの問題にあらたな提案をする。作品が現実をどう参照しているかという現実世界と作品世界の関係性の問題としてのフィクションではなく、ここで展開されるのは「方法としてのフィクション」である。言い換えれば、文学であっても、歴史であっても、そこで言述される世界の現実世界への参照の問題ではなく、言述そのものに内在するフィクションの機能の問題である。その機能は、ある特別な言述行為に特有のものではなく、言述行為自体が本質的に備えている機能であり、その限りにおいて、文学であろうと歴史であろうと、およそ語られるものには、そのフィクションの機能が必ず認められる。

フィクションの地位
 ジャブロンカはまず文学理論が提唱してきたフィクションの「対象」について整理する。自動詞的、他動詞的という考え方である。自動詞的とは、フィクションが参照する現実をもたず、自律した世界を構成している、したがって、真理は「フィクションの真理」であるという考え方を指す。これにはもちろん反論があり、私たちは文学を読むことで、その舞台となる現実を理解したり、主人公を通して、人間の偽善や倒錯といったスキャンダラスな世界を実際には知ることになる。

 他動詞的とは、世界を参照系にもつフィクションのことである。フィクションはどのような形であれ、世界を写し取って成立している。参照するのは現実の物理的世界とは限らない。「社会(...)心性、時代精神について何かを述べ」、現実の人物をモデルとし、現実の作家の「心理や、教養や、心情...」などを反映する。

 だが他動詞的な読解は、困難にぶつかる。それはフィクションが現実に対して取る関係による3つの区別からうかがえる。
(1) 信じがたいもの。いわゆる見たことのないもの、空想的なフィクション。
(2) 真実らしいもの。そのフィクション世界を信じられるか/られないか、という二分法であり、これは読者の基準で変動する。
(3)「上級の真理」。これはフィクションがあまりに現実的であるので、フィクションの世界がむしろ現実世界を覆ってしまうような事態である。さらにいえば文学だからこそ暴けるものもある。

啓示としてフィクション
 ジャブロンカは自動詞的な考えは「閉鎖性」が問題となるし、また他動詞的な考え方は、小説が、現実を指向対象とする以上、「鏡としての文学」になってしまうと、その不十分さに言及する。その上で、ジャブロンカは、現実とフィクションについて、「ミメーシスには属さない」関係を指摘する。それが「啓示としてフィクション」であり、それは、「現実を読み解く」鍵となる。具体的には、「叙事詩、神話、詩、アレゴリー、シンボル」である。たとえば時に詩だけが、「言葉にならない経験を伝えることができる」。アレゴリーは、例え話によってよりよく真理を伝える。シンボルは、象徴化と言った方がわかりやすいかもしれないが、「実在はしないものの、完全に実証されたある社会的事実を体現する類型的人物」に何かが体現=象徴化されていることを指す。

 ここまでジャブロンカが主張しているのは、「フィクションをミメーシスから引き離し、知識のプロセスに組み込むこと」であり、フィクションを行為の再現ではなく、事実を解明するための論理、「世界についての知を組み立てる道具」として考えるということである。

離反
 この「事実を解明するための論理」が、「方法としてのフィクション」である。これは小説がフィクションであるというフィクションとは次の三つの点で異なる。
(1) それはフィクションとして示されている、つまり自分自身を告発している。
(2) それが現実から遠ざかるのは、より強力になってそこに戻るためである。
(3) それは遊戯的でも恣意的でもなく、論理によって操作される。
 このジャブロンカの主張は、フィクションであると明示しながら、論理構成をすることによって、現実に対する認識がより明晰になっていくということを示しているだろう。

 その「方法としてのフィクション」の機能として4つのグループが挙げられている。一つ目が「離反」である。これは、現実に対して距離を取ることであり、たとえば引用されているようにロシアフォルマリストたちの「異化」と同様のプロセスであると思われる。ジャブロンカは、加えて離反を生じさせるものとして、「拒絶」と「驚嘆」を挙げている。拒絶は、理解という前提そのものを問題視する。驚嘆は、この世界を新たな相貌のもとに受け止めるということだろう。これは文学だけではなく、「刷新としての歴史」ともなる。

信憑性
 信憑性は、文学においては、その世界に同意して、「不信を停止させて」その世界を受け止めるが、歴史の場合は、「あらゆる知識を考慮」に入れた、確かな可能性の意味となる。それはヘンペルの「蓋然性仮説」と同様にみなすことができる。また歴史は「起りえたことやおそらく起こった」ことも言明する、とジャブロンカは主張する。

概念と理論
 ジャブロンカはここで、「概念」も、「現実を概念化」する以上は、「現実のフィクションである」とみなす。また、社会科学の論理における、モデルや理念も、「現実とは無関係な構成物」であって、それは、現実とのずれを測るための存在であると主張する。また、メタファーや抽象概念も、方法としてのフィクションであるが、それによって、現実を明らかにするのに役立つ。

 ジャブロンカはこうした行為を論理操作として考えていると思われるが、視点を言述にうつせば、こうした機能は、言述行為そのものにそなわっている、私たちがより明確に理解するための言語の本質的な機能と言えないだろうか。
 ジャブロンカは、たとえば、1930年代の移民・難民に対して、「sans papier」を使って説明することも、ひとつの「知的制作」であると主張する。ここには概念とその概念適用という「方法としてのフィクション」が働いている。

叙述の手法
 叙述の手法とは、ナラティブ=語り手の地位、読み手を誘う焦点化、選択の結果としての言表などの問題である。例として引かれるのは、シンボルによる叙述である。マーカス・レディカーの『奴隷船の歴史』では、奴隷船と人間についての焦点化がなされている。また言述は、必然的に選択の結果である。「ヒトラーがポーランドに侵攻した」という、三人称的=無人称的な語りの中にも、「総統の決断を前面」に出すための選択の結果である。

 語り手については、たとえば「死語の対話」のように死者に語らせる手法がある。またアラン・コルバンの『知識欲の誕生』のように、「十九世紀の田舎教師の中に」入り込むこともある。

フィクションを活性化する
 以上見てきたように、ジャブロンカにとって、フィクションは「手法」であり、その手法によって、「知識の生産」が可能となり、「仮説を立てたり、概念を動員したり、知を伝達したりすることで、人間が実際に行うことを理解するのに役立つ。」そしてジャブロンカは、歴史は「古文書学的な想像力や、独創的な着想や、大胆な説明や、叙述における発明を必要とする知的冒険である」と言う。

 この考え方によって、フィクションはもはや文学と歴史を対立させる概念とはならない。この手法としてのフィクションは文学作品の中にも歴史の中にも多かれ少なかれ認められるのだ。
 では歴史と文学は区別がなくなってしまうのか。ジャブロンカは「歴史は文学の一形態」であると述べているが、それでも、これも本人の言うとおり、歴史は「調査によって周りを固められる」場合に、文学から少し離れるのではないだろうか。
 ジャブロンカは最後に次のように述べる。
 

一方には、断定的で、遊戯的で、惰性において面白いフィクションがある。他方には、仮説や、概念や、問題の表明や、論理の連鎖や、叙述の形式といった、方法としてのフィクションがある。

 作品の文学性、歴史性は、したがってこの2つのフィクションの傾向の度合いによるのだろう。

 ジャブロンカは、ペレックの『Wあるいは子供の頃の思い出』に言及する。この作品は、2つの物語が交互に語られる形式になっており、通常は、フィクションとしての物語と、子供時代の自分を語る現実の作者が登場する部分と考えられる。しかしこのフィクションとしての物語が、ペレックが子供の時に書いた「私の子供時代の物語」であるとわかるとき、この物語はもはや創作としてのフィクションの物語ではなく、子供時代の自分自身についてのアルシーヴへと変化する。反対に、「現実」の部分は、実は「フィクション」に満ちているのだ。『W』は、自分自身に関するアルシーヴについての調査として読むことができる限りにおいて「歴史書」なのである。

 また『ショアー』についても、この映画におけるアルシーヴの不在は、方法としてのフィクションの実践であり、それは「過去についての月並みな物語に反対するため」なのである。「現実についてのフィクション」によって、現実を明るみに出しているのが『ショアー』なのだ。

イヴァン・ジャブロンカ『歴史は現代文学である 社会科学のためのマニフェスト』(真野倫平訳 名古屋大学出版会 2018)

Duperey, Anny, Le Voile noir (1992)

両親の死とその後の生
 アニー・デュプレーは、1947年生まれのフランスの女優で、舞台、テレビ、映画などで幅広く活躍し、国内ではもっとも有名な芸能人のひとりである。また一方で著作活動にも力をそそぎ、彼女の書いた小説は高い評価を受けている。その彼女が、1992年、45歳の時に出版した『黒いヴェール』は、小説ではなく、自伝形式の作品であった。単にジャンルが異なるだけではなく、社会的な名声をもつ女優が私的な過去を明らかにするという意味で、しかもそれが子どもが体験するにはあまりにも痛ましい事故であったという意味で、特別な作品となった。

 その事故とは、彼女が8歳半の時に起きた両親の死である。自宅の浴室にいた父親と母親が同時に一酸化炭素中毒のため亡くなったのである。当時自分の部屋にいて、両親の死を目撃したデュプレーは2つの喪失を抱えることになる。ひとつは両親の喪失。もうひとつは8歳半までの記憶の喪失である。デュプレーはこの事故後、それまでの生前の両親についての記憶も、その両親に8歳半まで育てられてきた自分についての記憶も失ってしまうのである。『黒いヴェール』の意味のひとつは、ある大きな衝撃がこどもを襲ったときに、それに先立つ過去にヴェールを被せたかのように、記憶が消されてしまう心理機制を指している。

 デュプレーは、自分を襲った心理機制ゆえに、すなわち、この過去の忘却があったゆえに、生きることができたと信じている。
 

私は、自分がふたりの死んだ朝に生まれたというこの印象をもちつづけなければならない。わたしがその後を生きるためには、ふたりは私の記憶のなかでも死ぬ必要があった。そうである以上、この記憶喪失は慈愛に満ちたものであることを、私は信じないわけにはいかない。( p.36.)

 この衝撃的な両親の死を境に、自己の「存在の連続性」は断ち切られた。本来子どもはこの「存在の連続性」によって安定した自己を築いて、成長していくはずだ。だが両親の死という事実を正面から受け止めることは、子どもにはあまりに過酷で、生きることの困難にそのまま直結するものであっただろう。それでも生き続けるためには、自分のこれまでの生の時間を二つに切断することで、死んだ両親の記憶を抹消する必要があった。記憶の消失を代償にして、かろうじて生き延びるすべを手にいれることができたのである。記憶喪失は自分の生を救ってくれたという意味で、デュペレーにとってはまさに「慈愛に満ちた」ものに映った。

 以後、両親の死という事実は、残された子どもだけではなく、まわりの大人たちによっても隠されていく。だがそれは喪に沈む遺族たちのそうするほかない選択であった。
 

私たちのうしろにはすでに大勢の死者がいて、私たちが前進するためには、死者たちをいまいる場所においていかねばならない。生者は生者の務めに、死者たちは墓地に。私たちは決して死者の話をしなかった。(p.57.)

 生者と死者の場所を切り分け、死者との関係を断絶すること。それは「喪の作業」の一過程でもある。これ以上死者とつながり続ければ、生者自身も生きていけなくなる。これは、生者が、無意識の生の欲動に突き動かされ、現実を吟味し、愛する者はもうこの世界にいないと納得し、社会生活へ復帰する過程でもある。だが後述するように、書くということは、このような喪の作業には実は終りがないことを気づかせてくれる行為である。

書くことのはじまり
 デュプレーは、17歳で故郷を捨てるかのように、育ててもらった祖母たちの家を離れ、演劇を志すためにパリの演劇学校に入学する。ほどなくして、映画、舞台で活躍し、社会的成功を収めるわけだが、その人生の歩みのなかで、この子ども時代の過去を振り返ることはなかった。そのデュプレーが両親について書こうと決心をしたとき、二人の死からすでに30年もの年月が経っていた。

 書くことのきっかけは、写真家だった父親の写真とネガを家の古家具の中から見つけたことだった。無名の写真家のまま人生が終わってしまった父親のために、これらの写真を世間に発表したいと考えた。そしてそこに写された風景、人々を通して、自分の子ども時代を書いてみたいという気持ちも芽生えてきたのである。

 私たちは過去を思い出すとき、その過去をひとつの情景として描くことはごく自然なことであろう。記憶は私たちのなかでイメージとして想起される。過去が失われたデュペレーにとって、不在なのはこの過去のイメージである。ならば写真という紙に写されたイメージを手がかりに、イメージとして記憶を取り戻せるのではないか。父親の写真が、個人的記憶のイメージの不在を埋め合わせるのではないか。そうした期待があったに違いない。

 実際この作品は、父親の写真とその写真から喚起される思い出の破片を書き記した長短のテキストから構成されている。ただし実際に書かれ始めたのは、写真とネガを発見して数年経ってからのことである。父の写真を発表したい思いはあるとはいえ、それにあわせて説明となるキャプションではなく、個人的な記憶を書くことの意味がどこにあるのか。デュプレーはこのような躊躇を感じる。さらにデュプレーは、単に自分について書いても、そのまま表現になるわけではないと十分に意識をしている。

 自分に向かってひとり心情を吐露することからは、ほとんど何も生まれない。(p.17.)

 単に感情に動かされ、ことばを発しても、それは自己の内で響くだけである。それは痛みに苦しむ自分とそれを憐れむ自分との自己満足的な馴れ合いでしかない。では書くことに本当の意味を与えるためには何が必要なのか。それは宛先である。
 
 そのためにデュプレーは、この作品をまず妹へ宛てて書くことを決心する(p.6.)。両親が亡くなったとき、妹は1歳の赤ん坊に過ぎず、記憶の忘却どころか、忘却する記憶さえないのだから。さらに身内だけではなく、一般読者に読まれ、「名のない他者の感受性と分かち合う」(p.18.)ことを考える。デュプレーが求めたのは書いたものを読んでくれるかもしれない他者の存在、そしてこの他者とのゆるやかな存在の連関である。

 他者へと表現が開かれるときに必要とされるのは「明晰さ」(p.18.)であるとデュプレーは言う。自分について書きながらも、他者との間で共鳴が生まれるとするならば、むしろ感情を抑制した冷静な筆致が必要とされる。この他者に対する誠実な態度を自らに課すとき、ようやく書くことが始まる。

書く行為を書く
 しかし、書く行為を決心したとはいえ、それによって書く内容が自然に湧き出してくるわけではない。デュプレーは写真を手掛かりにして、過去、すなわち両親、親族、生まれ育った場所の風景、そして自分の子ども時代を何とか想起し、微かな記憶の破片を書きしるそうとする。

 だが、両親を喪うという、自分の存在を根こそぎにするような体験を明晰で冷静な表現に結びつけることは、いかに優れた書き手であっても困難がつきまとう。

 たとえこうした悲惨な事故でなかったとしても、一般的に子どもの頃に親を亡くした人間にとって、親を書くことは、親の真の姿を正確に描き出そうとすればするほど困難さがつきまとう。その理由のひとつは記憶の所有をめぐる問題である。たとえばその例をフランスの小説家マルグリット・ユルスナールの言葉に見出すことができよう。

 ユルスナールは、晩年『世界の迷路』と題された回想録を執筆している。自分と自分の家系を、ときに数世紀も遡りながら書いた作品であるが、最初に書かれるのは「私の誕生」である。だが、ユルスナールが生まれて程なくして、母親は産褥熱で命を落としており、その意味で私の誕生は母の死とともに始まっている。自伝とはいえ、そのはじまりで書かれるのは母の死である。

 この誕生と死を書くにあたって、ユルスナールは、「一人どころか十人もの仲介者をへて受け取った記憶の断片や、人が屑篭に投げ込むのを怠った手紙や手帳の切れ端から引き出した情報などにしがみつかなければならない」(『追悼のしおり』p.11.)と述べている。アイロニーが多分にこめられた言い方ではあるが、記憶は断片的であり、また子どもである以上、直接な記憶は不可能である。母の存在についての私の記憶は、私の記憶ではなく、他者の記憶の不確実な再構成なのである。
 デュプレーも同様に次のように言う。
 

自分の個人的な印象と、あとで語ってきかせられた事柄とをうまく区別はできない。だが本物の記憶と聞かされた記憶とが渾然一体になってしまうのは、多くの子ども時代に共通する宿命ではないだろうか。(p.24.)

 ただでさえ、子ども時代の記憶はさまざまな他者の記憶と混じり合い混成された状態となって存在する。変型されやすいのが子どもの記憶だとするならば、子ども時代の喪失の体験は、書く行為にどのような作用をもたらすだろうか。

 デュペレーは、父親が撮った祖父の写真についての章で、あくまで誠実に記憶を辿り、それを記そうとする。そして祖父の死について次のように記す。
 

私はおじいさんのことをほとんど知らない。事故のあと、ボンスクールの丘の上で暮しはじめた私は、おじいさんが喉頭癌でひどく苦しみながら死んでいくのを見守ることになった。(p.52.)

 自分の記憶の中では、両親の死後、父方の祖父母の家に引き取られ、その後まもなくして祖父の死の間際の苦しみに立ち会ったことになっている。あわせて祖父との決して多くない交流の思い出を書き進める。しかし章の終わりになって、実は祖父が亡くなったのは、両親よりも前であったことがわかるのだ。
 

記憶違い。念のため、親戚のひとりに問い合わせてみてわかったのだが、私は死者の順番を取り違えていた。だが祖父の死は、両親の死と切っても切れない関係にある。祖父はふたりの後ではなく、ふたりのほんの一、二週間前に死んだ。(p.58.)

 ここで章の最初の記述は記憶の錯誤による間違った内容であることがわかる。しかしデュペレーは書き直したりせずにそのまま残し、その上で実際の死の順序をあらためて誠実に書いているのである。記憶違いの内容を、そして記憶違いであったこと自体も書いているのは、この文章が、自分の過去の事実を明らかにし、真正の記憶を獲得するためではないことをはっきりと示している。記憶違いをそのまま書き残すのは、それが自分自身に忠実な記憶だからだ。その記憶は事実に照らし合わせれば間違いではあるが、その記憶を自分がもっていたこと、それ自体は疑い得ないひとつの事実なのだ。ではなぜこの記憶を彼女は保持していたのか。
 

私が死を本能的にとり違えたのは、私にとってずっと激しくまた身近だった両親の死の衝動が、死の苦しみのなかの祖父のイメージのあとから色をつけ、それに決定的な共鳴をあたえたからだ。(p.60.)

 子どもであったデュペレーにとって、両親の死は、死という事実を理解することは難しかったとしても、強い衝動をもったはじめての喪失の体験であった。実際にはその前に祖父の死を経験していたとはいえ、その祖父の死は、強い印象を喚起することなく、意識に刻まれることはなかった。つまりデュペレーは両親の死によって、初めて、そして圧倒的な衝撃のもとに死に立ち会い、それによってはじめて遡及的に祖父の死が意識されたのである。

 このように『黒いヴェール』における書く行為は、過去の事実をつきとめてそれを復元することではない。ここで重要なのは、書いている過程そのものを書くことである。自分の記憶をそのまま書き記し、それを読み直し、念のために親戚に尋ね、記憶違いだとわかる。こうした両親の思い出を書くにあたっての錯綜する過程そのものを書いているのである。それは何より、何を書くかではなく、書くことそのものを通して、もういちど死者と私の関係を問い直そうとしている書く人間の誠実な姿勢そのものであろう。

書くという過程
 書いている過程を書くことは、作品全体にわたる特徴でもある。デュペレーは随所で「祖母についてのこの文章を書き終えたあと、一晩が過ぎた」(p.80.)、「すでに百五十頁を超えた」(p.152)などと記している。それは書くこと、そして書かれたことを、一度立ち止まりあらためて捉え返してみる、その行為の記録と言ってもよいであろう。そしてその行為は、書き進めることの戸惑いや、理解を得ることへの自信のなさ、そして表現へと至らない不安の表現でもある。ここで、理解とはそもそも何か、そして表現とは何か、について考えたい。

 過去のある出来事を理解するには、ときとして長い時間がかかることがある。たとえばデュプレーは祖母との間に起きた一件を詳しく語っている。両親を亡くした後、彼女はみなの前で悲しい顔も見せずに振舞っていた。そんな孫娘に対して、あるとき祖母はベッドの上にわざと両親の写真を置く。それを見つけたとたん、デュプレーは激しく泣きだすのだ(p.90)。それは、今まで感情を表すそぶりさえ見せなかった孫に対する祖母の不器用すぎる振る舞いであった。しかし当時から彼女はこのような仕打ちを受けても、それを恨みに思うことはなかった。ただなぜ自分が祖母を恨んでいなかったのかわからないままに、である。彼女がその理由を初めて理解したのは、この過去の出来事を綴った30年後のこと、つまり書く行為をしながらであった。

 彼女は二つのことに思い至る。一つは自分が涙ひとつ見せない冷たい人間なのではないかと感じつつ暮してきたが、それは悲しみに押しつぶされずに生きるための本能的な防御反応によるものであったこと。そしてもう一つは、実際には自分も両親の死に果てしなく悲しみ、終わりの見えない苦しみを抱いた存在なのだと、この祖母の振る舞いを通して知ったということである。書くことによって初めてこの理解へと至ったのである。

 書く行為は、事後的な理解を可能にしてくれる。書くという行為は、この理解のための反省の契機そのものになる。そして、それは単に過去の謎が解けたということだけではない。それ以上に過去の行為に意味が与えられることによって、その過去が今現在へと包摂される。書く行為は、過去の私と現在の私の間の「存在の連続性」を修復してくれるのである。

 次に書く行為における表現の問題を考えたい。といってもどのような表現をもちいるかということではなく、表現へと至ることの困難さが、書く過程の一要素として含まれているということである。デュペレーは書けないでいることもそのまま書く。
 

うまく言えないこと、感じはするが、形をー「まだ」あるいは「永遠に」なさないことが、感情がふくれあがり、すべてをブロックし、肉体的に苦痛となるほどに満ちる。(訳210ページ)

 白紙を前にして、何時間も、何日も過ごす苦しみがそのまま書かれている。喪失の語りは、喪失の内容を書くこととは限らない。喪失体験が私たちにとって大きな苦しみであるならば、まさにこの語れない姿こそが語りの対象になる。うまく言えないと書くこと、形をなさないと書くこと、そのような形式を取らざるを得ないのが喪失の語りの形式ではないだろうか。

 書くことが、必ずしも答えを見出すためではないとするならば、私たちはいったい何のために書くのか。それは、むしろ充実した内容へと至らない、うまい表現へと至らない、その途上に佇むだけの人間の存在にも価値があることを知る、そのためである。それが喪失をかかえながら生きることの真実なのである。

 心の中にことばにならないものを抑圧し、封印し、あたかもその言えぬことの存在などないかのように生きるのではなく、それが何かはわからないが、抑圧し封印してきたものがあると素直に認め、その存在があると言うために書くのだ。小さな切れ端でもよいから、ことばにすることができたならば、そのことばはまた別のことばへと接木され、やがては大きな意味へと統合されるかもしれない。書くことはそうした跳躍さえも含んだ未然の過程なのである。

書くことと自己の変容
 デュプレーは、書くとは、自らの過去の苦しみ、現在に続く苦しみに決定的な解決を与えることではなく、決定的な解決などないからこそ、言い澱み、時に事後的に過去を理解しながら、果てしなく進めていく過程だと理解をしている。書くことは、最終的に何かを完成させることではない。デュプレーは、記憶を「白い原稿用紙の上の記号に変えることで、(...)頁の中に閉じこめる」(p.260)ことはしないと言う。記号に変えるとは一般的・普遍的な意味へと唯一の体験を還元してしまうことだろう。記号を使うとき、書かれたものは、自分からは切り離され、勝手に流通する意味となってしまうのだ。そこでは固有性をもった表現は失われてしまう。 

 両親の死の映像は今でもフラッシュバックのように突然、そして新鮮なまま現れてきてしまう。ただそれを書くことで、その映像とともにこれからも生き続ける自分の存在のありようを納得して受け入れる。

 死者を否定することでもなく、死者に対してもはや惜別の情を抱かぬことでもなく、違った形で思い出すこと、自分の中に鎮められた苦しみを持つことだとははっきりとわかっている。(p.308.)

 書く行為は、苦しみとともに思い出すことである。『黒いヴェール』はこの心と記憶の錯綜の過程を特別に整理することなく書かれている。この自伝が始まった章では、両親の死の当日のことは「知らない」(p.46)と書かれる。記憶の不在をそのまま記している。しかし執筆を数年続けているうちに、父親の写真が触媒となって、ついに「あの朝」という章が書かれる。当日の両親の姿と、自分の行動と気持ちがここでようやく詳述されるのである。この本を書きはじめた理由は、「それ以前」と「それ以後」をつなごうという心境に至るためであったと事後的に明らかになるのである(p.258.)

 「つなぐため」、それは人生に連続性を与えるために書くことを意味する。書くのは事件を終わらせるためではない。書くことは、その連続性の延長に、これからも人生が続いていくことを、確信するための行為であったのだ。だから作品として書かれたものが綴じられたとしても、書くこと自体は完結することがない。それが書くことを通してたどりついた心境である。
 小説であれば、結末を構造として備えている。だが、小説と違って、整序されていないレシである物語は、書く私たちの行為そのものに終わりはないことを示している。物語行為が、自分の人生をみつめ、過去と現在の関係を常に問い直す行為だとするならば、自分の人生が終わらない以上、物語にも終わりはない。

 人生の過程でこれからも問いは続けられる。それは時に罪責感を呼び寄せることにもなることをデュペレーは十分意識している。もし自分が浴室のドアを開けていれば、もし誰か助けを呼びいっていれば、その問いは繰り返され、やむことはない。

 ただ、人生の物語は、時の経過とともにそのたびごとに新たに編み直され、意味を変容させながら続いていく。両親がどんな人であったのか、どのような気持ちを自分に注いでくれていたのか、その理解は自分自身も年を重ねることで、すこしずつ変わっていく。だから、死者への思いは変容することさえあれ、死者を忘れることはありえない。人生はその死者との思い出と理解の、終わりのない物語の創造である。私自身の人生の最後まで。

 デュペレーは、最後のページに次のように記している。「あなたたちの死のおかげで、私はあなたたちを永遠に孕むことになった」。両親はたえず生まれ直され続ける。子どもによって。

(翻訳『黒いヴェール』(北代美和子訳 1996)

 喪失について語るさまざまな作品を読んでいると、作品の終わりが必ずしも喪の終わりではないことに気づく。

 『悲しみにある者』は老年に入った作家が、同じく作家であった夫の突然の死を体験し、その亡くなった日から一年と一日後までを綴った記録である。記録という言葉を使ったのは、この作品には、執筆の時期、出来事の多くの日時が記されているからである。夫が亡くなったのは2003年12月30日。本の執筆が始まったのは2004年10月4日の午後。そして最後の日付は2004年12月31日である。

 2004年12月31日はどんな日なのか。それは、1年前の同じ日にもはやジョンがいなかった、最初の日である。そして明日からも1年前の同じ日にもはや夫はいない。その不在の日々がずっと続いていくのだ。その意味で、作品の終わりは喪の終わりではない。

 終わりのなさは、たとえば作品のほぼ最後にある次のような作者の言葉からも伝わってくる。

 私は解決を求めるが何も見出せない。(p. 237.)
 
私にはまた、もし私たちが自分自身生きてゆこうとするならば、死者に固執するのをやめ、彼らを手放し、亡くなったままにさせねばならないときが訪れるのも、わかっている。(p. 248.)

 しかしわかっているからといって、それができる、あるいはできるようになったわけではない。1年が経った今も、一緒だった頃の思い出が浮かんでくる。この作品において思い出の想起は能動的とも受動的とも言い切れない。思い出そうと意図したからなのか、あるいは勝手に向こうからやってくるのかがあいまいである。そのあいまいさゆえに、作者と思い出は離れることなく、一体化しているかのようである。思い出の中に作者は生き、作者の中に思い出は生きている。その生の相互関係が喪の時間なのだ。

 この作品は前述したように、作者が時間を記しているので、いつから書き始め、いつ書き終えたのかはわかる。そのため、作者の書き進める時間の経過によって、作品も進んでいくという印象をいだく。作品の中には夫の死とその後の日々だけではなく、娘の病気と入院、そして転院と回復のプロセスも描かれるのだが、このプロセス自体も時間の経過に沿って書かれている。

 この直線的流れが存在する一方で、過去の思い出の想起は、時間通りではない。アルバムに並べて貼ってあったたくさんの写真が、ふとした拍子にすべて剥がれて、散り散りになってしまったかのように、脈絡なく語られる。それぞれは断片として置かれているだけで、断片と断片の間には意味の直接的な連関はない。

 だがその脈絡のなさはそのまま作者の意識上への記憶の表れを表している。作者はそれを懸命に叙述しているのだ。そしてその想起には、現在からのさまざまな感情が重ね合わせられる。それは悲しみ、悔悟、怒り、自己への憐み、条件法過去の問いかけ(もし...していたら)、無限の解釈(彼があのときにあの言葉を使ったのは死の予兆を感じたからなのか...)でもある。

 書く行為は、こうした感情によって揺れ動く自分を観察することを促す。先ほどの引用でもそうだが、作者は作品中で「〜ということはわかっている」という表現をよく使う。それは、自己観察の結果の自覚である。

 だが観察をして、自分自身の状況を理解したところで、それは喪からの回復にはつながらない。喪の状態にある自己を認識できたからといって、その喪の状態から抜け出せるわけではないのだ。そこにこの作品の深い悲しみがある。作者はときにおそろしいほど無防備である。問いかけても彼は答えてくれない。もし答えがあるとしても、それは「私の編集したかたち」(p.206)でしか聞こえてこないのだ。ただかつて夫が作家にかけた言葉が何度も反復される。また「こうすれば死を避けられたのではないか」という果てのない問いが再開される。

 この作品では断片的エピソードが幾重にも組み合わされるが、それは決して堅固な建築物としての物語にはならない。説明は理解できても何も解決しない。言葉はときに言い淀み、どうどう巡りをするばかりだ。しかし断片的な言葉でなくては伝えられないものがある。それは、愛する者の死の後でも、それでも生きている自分の存在である。その存在とは、「断片をもって」支えられた「廃墟」(p.201)に過ぎないのかもしれない。それでも「悲しみにある者」の存在とはどんな形を結ぶのか、それを断片としての言葉で作者は私たちに教えてくれる。

・写真と外界
 「芸術というと、心とか感情とか内面とかの話題が中心になることが多いけど、写真を撮っていると、どうしても内側より外側のほうが大事なことのように思えてしまうんです」(p. 18.)。

 芸術作品は、表現者の内的なものの外への表出という形で創作されたものとして捉えることも可能である。しかし写真は、この捉え方が難しい。本質的に写真が生まれるときは、画面に写された外側の存在物が前提としてあり、それを写し取るという意味では、写真家の表現行為は二次的とみなされてしまうからだ。

・写真と言葉
 この場合の「言葉」とは、ひとつはキャプションである。キャプションなしでも鑑賞が成立するかどうかが、写真のアート性のひとつの条件となる(p. 37.)。

 もうひとつは撮った本人が説明しながら写真を見る場合である。その場合「言語的な情報を与えられることによって、他愛もない写真が唯一の写真になってくる」(p. 37.)。それは「絶対的な」写真と呼ばれる(湊千尋)。絶対的とは、「個人の記憶や感情に根ざした写真」(p. 38.)という意味である。

 直接の説明でなくとも、私たちに前知識があるとき、写真は、その知識がなかったときとは同じ見方ではもはや見ることができなくなる。畠山直哉という写真家が、陸前高田で生まれ、津波で実家を流出し、母親を亡くした写真家であると知るならば、彼の陸前高田の写真は強い絶対性を帯びる。それは「特権性」とも言いうるものである。それでも展示をするのはなぜか。それは写真をめぐる意味の変化をこれほどまでに強く感じることはまれだからだ。だからこそ、畠山は「考える素材」として「自分の身を差し出した」(p. 41.)と述べている。

・「いい写真」
 写真家は、たとえ「大量の死と破壊」、「圧倒的な出来事」を前にした時でも、いやその時こそ「いい写真」を撮りたいと願う(p. 99.)。では実際には「いい写真」は何をもって「良い」と判断されるのだろうか。

 近代写真芸術の美学においては、「撮影者の個人史や背景が加味されることはまれ」(p. 104.)であった。すなわち作品の自律性こそが美を定める条件であった。しかし瓦礫を前にして、個人を捨象して「いい写真」を問うことは「空疎な響き」しか持たないと言う。

 それであってもなぜ写真を撮るのか。畠山は「僕は誰かにその写真を見せたいというより、誰かを超えた何者かに、この出来事全体を報告したくて写真を撮っている」と言う。ここにはおそらく時間が関係している。想定できない、未だ会ったことがない、このことを体験として感じることのない、写真を見て確認をするのではなく、写真を見て初めて何が起きたかを知る人々」に向けて写真を撮っているということだろう。

 「いい写真」が成立するのは、その現実の風景や人がいいとか、その風景や人がうまく撮れているではなく、そうした現実を捨象した独立した空間においてである。だが津波のあとでは、そのような問いを成立させる場がそもそも不確定にさらされている。

 だが、写真が現実の方にひっぱられるとき、それはそもそも「写真家の能力」(p. 111.)の話ではなくなってくる。あるいはそれなりの体験をした写真家ということもあるが、そのの意味では写真家としての資質ではなく、人生経験の話になってしまう。そこには写真の「公共空間」は成り立たなくなる。

 その上で「いい写真」の判断は、「美学的」なものではなく、「観客がある種の能動性を発揮する」ものを「よい仕事」(p. 124.)であると畠山は言う。
 
・表象としての写真
 写真と現実と言葉は密接な関係を持つ。とはいえ写真は言葉なしに成立しうる。写真家は「表象に対しての現前の優位」とわたりあう。バルトは「写真はコードのないメッセージである」と言う(p. 133.)。写真という表象を読みとくためのコード(暗号)は存在していないが、それでも読み取られうるものとして(=意味を派生するものとして)存在している。また出来事の「表象不可能性」ということも言われる。さらに経験・体験の優位もある(「僕は芸術とか文学とかデザインとか、(...)心を扱う表現活動というのは「体験しないやつにはわからないよ」っていうような気持ちがもっているほんとうにさびしいニュアンスを超えるための方法をつくっていくことだ」p. 212.)。こうした写真をめぐる言説は、写真が自らの表象の空間を確保することが芸術の営為となることを示している(p. 145.)。

・「写真として」
 「写真としてどうか」という問いかけは、「写っている物事や撮影行為のおもしろさとは論理のタイプを異にする」写真それ自体への問いかけである。これは写真を「分析的な態度」をもって扱うということを意味する(p. 193.)。それは「メディウム」や「形式」という言葉でも指摘できよう(p. 194.)。

 しかし、実物がもたらす感慨を決して否定すべきではない。むしろ形式と内容が一緒になっていることこそ、写真の特性でもある。つまり「具体性から逃げられないという性質」(p. 197.)を写真は持っているとされる。
 
・きれいな写真、美しいと感じる心
 被災地の写真を見て、そこに美しさを感じることは、「道徳的に何か間違いを犯した気になる」と大竹は述べ、そこに「現代人の感情の萎縮」を指摘するとともに、人間の感情の本質を認める。そもそも美しさは、感情をきわめて限定した言い方に過ぎず、そこには悲しみも混じる。そしてその心の状態をもつことが自分を平静に保つ状態にもっていこうとする動きであると言う。

 写真家自身は、写真的な美学のもとで教育を受けてきた以上、美しい写真を撮ってしまう。「美しくない写真というのは無理しないと撮れない」(p. 245.)。ただし、それが写真である以上、「美しい」は、現実を見てそう言っているのではない。美しい・美しくない写真だと思うときの美しさと、出来事が美しいかは次元が違う(p. 245.)。あくまでも写真は表象物であり、人は、「ここにこうしてある表象物の状態で見る出来事が美しい」(p. 245.)と言っているのである。とはいえもちろんそれは簡単に切り離せる話ではない。そこに「写真の問いの深さ」(p. 246.)がある。

 震災は、「現実存在が持ってしまうどうしようもないなまなましさ」(p. 255.)が写真の中にもあることを露呈した。陸前高田の写真を見せることは、「僕が持っているさざざまな背景を同時に見せている」(p. 256.)ことになる。そして写真を撮る行為も自分自身のためとは言い切れず、誰だかわからない誰かを措定することが多くなっている。こうしたことを含み込んだ意味の変形が時を経るなかで行われている。

 野口裕二「ナラティヴ・アプローチの展開」は、同著者編『ナラティヴ・アプローチ』の序章として書かれた。

1. 概念と前提
 (1) ナラティヴ・プロット・ストーリー
 ここではナラティヴの「概念の定義と用法」について述べられている。焦点になるのは「ナラティヴ」と「物語」の違いである。ナラティヴも物語も「複数の出来事が時間軸上に並べられている」「出来事の連鎖を次々に語っていく」点では同様である。では、何が違うのか。ここで参考にされるのが、「ナラティヴ」と「ストーリー」を整理したチャニオウスカの説明である。それによれば、「ストーリー」は「ナラティヴ」に「プロット」(筋立て)が加わったものとされる。「プロット」とは出来事と出来事の関係を示すものである。

 ナラティヴはただ出来事を並べただけで、「面白み」がない。それに対して、本論で例示されているように接続詞「しかし」によって出来事と出来事がむすびつけられれば、そこから新たに何らかの意味が伝えられる。その時ナラティヴはストーリーに近づく。

 ナラティヴとストーリーはしたがって2つの異なる性質をもつ形式なのではない。「語り手と聞き手の関係や、両者が置かれた場面、文脈によって」変化するものである。ナラティヴはストーリーの「上位概念」なのである。

[(覚書)ストーリーは、出来事と出来事の意味連関がはっきりしている言語形式を指すものとなる。この連関が幾重にも結びつきながら、物語が形成されるのだろう。本論ではナラティヴはそのもっとも単純な出来事と出来事の並置を指すことになる。では発話がそのような出来事と出来事の並置としてなされるのはどのような場合だろうか。そう問うてみると、たとえば発話者がある出来事の意味をはっきりと把握していない場合が考えられるだろう。またナラティヴの発話性という点に着目するならば、その発話自体が完結をしない、たとえばいいよどむ、言い直す、言葉につまるといった、言語行為が遂行できない場合は、その発話のナラティヴ性そのものが前面に出てくるのではないだろうか。このようなナラティヴ解釈も考えたい。]
 
 (2) ナラティヴ・エヴィデンス・セオリー
 ナラティヴの特徴を説明するために、次に比較検討の対象として引用されるのがブルーナーの「ナラティヴ・モード」と「論理科学モード」(パラダイム・モード)である。時間的に連鎖する出来事間の「必然的関係、因果関係を明確に述べようとする」のが論理科学モードが目指す点である。そして論理科学モードを日常会話の中に適用するため、「科学的に厳密に検証されたものではないが、それを語る本人にとってはきわめて妥当性の高い」ものにするために、「セオリー・モード」という概念が導入される。

 もうひとつ導入される形式が「エビデンス」である。「科学という営みは、(...)エビデンスを発見し、それをセオリーに高めること、あるいは逆に、あるセオリーから出発してそれを裏付けるエビデンスを示すことで成り立っている。」

 (3)ナラティヴが伝えるもの
 ナラティヴが伝えるものは、よって次のようにまとめられるだろう(エリオットの整理を参考)。
第一は「時間性」。ナラティブはプロットを得てストーリーに近づいていく。
第二は「意味性」。この意味は行為者の意図の表現であり、それゆえに聞き手によっても理解される意味は異なりうる。
第三は「社会性」。「ナラティブは語り手と聞き手の共同作業によって成立する社会的行為」とされる。

 [(覚書)私たちは日常生活の中で単独の一文だけを発することはある。ただそれは事実を伝えているだけで、その場で聞き手に了解されて終わる。しかし出来事と出来事の連関を作るとき、私たちは、事実だけではなく、私たちの意図や感想を伝えることになる。それは物語という形式をもってしか伝わりにくいものであろう。ここで優れた語り手とそうでない語り手が生まれる。とはいえ、そこには当然聞き手の積極的な助け、聞こうとする前向きな姿勢や理解しようとする努力が大きく作用するのではないか。その意味でナラティヴをより孤独な(呼びかけ的な)言語行為、物語を相互了解を志向する行為と捉え直すことも可能だろう。]

2. ナラティヴの多様性
 ここでは、ナラティヴの具体的な形式をまとめている。
 (1) 「大きな物語」と「小さな物語」
 リオタールによる「大きな物語」は、「様々な物語を背後から正当化する物語」、例えば、「解放の物語」「進歩の物語」などがあたる。「小さな物語」は、「正当化とは無関係に新しいアイデアを出すこと自体を目的にするような知のあり方がその代表例」である。

 (2) 「ドミナント・ストーリー」と「オルタナティヴ・ストーリー」
 「ドミナント・ストーリー」はもちろん、「ある状況を支配している物語」だが、それは「疑われない」ことにおいて、支配の正統性を持っている。そのため、疑いがはさまれれば、その正統性は弱められ、「代案」が登場する。それが「オルタナティヴ・ストーリー」である。

 (3) 「ファースト・オーダー」と「セコンド・オーダー」
 エリオットによる分類で、「ファースト・オーダー」は「個人が自分や自分の経験について」、「セコンド・オーダー」は、「研究者などが社会的世界を理解するために」「ある社会的カテゴリー属する人々」について語ったものである。そしてその社会的カテゴリーの物語を聞いて、それが自分の物語でもあると感じれば、それは「コレクティブ・ストーリー」となる。
 ここからいくつかの問題が提起されている。例えば専門家が当事者の声を代弁することは可能だろうか、どうしたら可能かといった問題である。

 [(覚書)代弁の問題は重要であると考える。確かに専門家は経験や事象を名指す正確な言語を有する人たちであろう。だが根本的に体験自体は共有されえない。どれだけ専門知を集積し、さまざま対象に当たることで普遍性を追求したとしても、体験の絶対的零度には決して達し得ない。とはいえ、そこに理解不能性があるわけではない。少なくとも二者の同化や、代弁という場所の占有はないとしても、その他者との間に関係性は築かれる。その関係の空間の中で、他者とわかちもたれる共有の空間自体は成立する。他者に対してことばを投げかけ、他者はそのことばによって、体験という自己の絶対内部とは位相を異にするあらたな空間で、自らの体験を再解釈する。そのような場である。]

 (4) 語り手・主題・聞き手によるナラティヴの分類
 語り手・主題・聞き手という要素で分類をすると次の4種類が可能であると述べられている。
A. 自分が自分について語る 「自己物語」。B. 自分が相手にむかって、相手について、あるいは他人について語る物語。C. 他人が自分について語る場面。D. 他人が他人について語るもの。

3. ナラティヴ・アプローチの多様性
 (1) 分析と実践
 ナラティヴ・アプローチは「これまで実践のための方法論」とみなされることが多かったが、「実践研究」「介入研究」「参与観察」のように、研究目的にも使いうる。

 (2) 構造分析と機能分析
 構造分析は「ナラティヴの内部構造」を分析するものであり、ここでは「ラボフ・ワレツキー・モデル」と「スタンザ分析」が挙げられている。ただし、ナラティヴ・アプローチは、「ナラティヴという形式がなんらかの現象に対してどのような機能を果たしているかという問いを基本にすえるナラティヴの機能分析」である。

 (3) 本質主義と構成主義
 本質主義の例として、グランデッド・セオリー・アプローチが挙げられている。これはナラティヴから何らかの本質を取り出すための方法論として理解できる。構成主義の例としては、アクティヴ・インタビューが挙げられている。確かにこれは相手の真実を取り出すというよりも、お互いの間の交渉によって構成されるものに考察の焦点があたる。

4. 対象の水準と検討すべき課題
 最後にナラティヴ・アプローチが可能とする問いが、三つの対象レベルに整理されている。
最初がミクロ・レベル。「個人をめぐるナラティヴがその対象となる。」自己物語が対象となる。
次にメゾ・レベル。「集団・組織のナラティヴ」である。個人と組織の関係、組織や家族といった領域である。
最後がマクロ・レベル。「社会全体を追うようなナラティヴ」である。

 フランスのドキュメンタリー映画作家ニコラ・フィリベールにはこれまで、耳が不自由な人々を撮った「音のない世界で」(原題:Le Pays des sourds, 1992年)、精神医療施設ラ・ボルドの人々を撮った「すべての些細な事柄」(La moindre des choses, 1997年)、そしてフランスで大ヒットになった「ぼくの好きな先生」(Être et avoir, 2002年)などがある。

 フィリベールの作品には一切ナレーションがない。映画中に解説が流れれば、その解説者の意図やねらいが多かれ少なかれ伝わってくるものだが、ここにはそれがない。私たちはただそこに映されている人、ものをあるがままに見ようと目を凝らす。

 そのためだろうか。あたかも偶然置き忘れたカメラに映ってしまったものを見ているような気分になる。また「音のない世界で」では聴覚障がい者を、「すべての些細な事柄」では精神障がい者を映していたが、私たちに見えるのは、彼らの一人ひとりの具体的で日常性に満ちた生そのものであり、それによって自分たちがあいまいに持っていた「障がい」についての固定観念がいつのまにか消えていく気がする(それは固定観念が消えていくだけで、「『障がい』などないのだ」と障がいそのものの存在を消すことではない)。

 新作「人生、ただいま修行中」(De chaque instant, 2018年)では、パリ郊外の看護学校で学ぶ生徒たちを主題にしている。そして生徒たちの姿を追うと同時に、生徒と学校の先生、患者、先輩看護師、医師など、直接画面には映らない人々もいるが、そうした人々との間に生まれる人間関係、そしてその関係を結びあわせる言葉、身体も映画の主眼になっている。

 映画は2時間に満たない。さらに学校での授業、学校・病院での実習、先生との実習の振り返りの面談の三部構成になっているので、それぞれのパートの時間は短い。その意味で、この映画は、看護教育のごくごく一部、生徒たちの24時間のごくごく一部が切り取られているにすぎない。

 それでもしかし、映されていない現実世界へと私たちが思いをはせることができるのは、この映画の中には、人物たちが話している「ことば」が絶えずあるからだ。

 第一部の授業の風景の「ことば」。先生たちは教科書やパワー・ポイントを使いながら授業を進めていく。実習に近い授業でも的確な説明で技術を伝えていく。どの先生のことばにもよどみがないことに圧倒される。それはこの先生たちが、書かれているものをただ読んでいるのではなく、知識を単に伝えているのではなく、専門家として、そのことばを確信して用いているからだろう。そして人の命にかかわる仕事である以上、技術だけではなく倫理の面においても、決して曖昧さは許されないからだろう。私たちは先生たちのことばを通して、先生たちの職業意識の高さ、そしてそれを吸収しようとする生徒たちの志に触れるのだ。

 第二部の実習での「ことば」は悩みやためらいであり、そしてことばと意味のずれである。うまくいかないという思いが、力のないことばにあわられる。どんな声を患者にかければいいのかと、ためらう。そして患者のことばは、文字どおりその意味を伝えたくて使っているとは限らない。「そっとしておいて」は、本当は「寄り添ってほしい」という気持ちの反対の表れなのかもしれない。そんな日々の葛藤が生徒たちのことば、体験を通して伝わってくる。

 そして第三部での実習とその実習の振り返りをした生徒と教師との一対一の面談こそ、この映画がことばの映画であることをより一層強く示している。何人もの生徒と教師のやりとりの場面が映しだされるのだが、そのひとつひとつの場面に、やりとりのひとつひとつのことばに私たちは胸を打たれる。

 もちろんそれは内容のせいでもある。先輩看護師の仕事振りをみて自信を失ったり、患者の死に直面して心が強く乱れたり、自分にそもそも適正があるかどうか疑ったり、ひとりひとりが自らの生き方そのものに向かい合っている。こうして吐露される若者たちの心の苦しみは、彼らだけがかかえる特殊な問題ではなく、状況が異なれば、私たちひとりひとりが体験することだろう。その意味でこの映画は普遍性をたたえた作品となっている。

 ここであえて着目したいのは、その生徒と先生との間のことばの存在である。生徒の振り返りのことばに対して、教師がかけることばは単なる返事や、知識を多く持つ者がおこなう客観的な評価ではない。教師のことばは、生徒のことばを丁寧に受け止め、そのことばに新たな意味を添えて、ふたたび生徒に送り返す。生徒は自らのことばが、教師が与えることばと重なることによって、より豊かで、確かな意味づけを持って戻ってくることを実感する。このことばの相互性の中で、生徒は成長するのだ。

 生徒だけのことばではない。教師が一方的に与えることばでもない。生徒ひとりひとりが固有の体験をし、それをことばで語る。そのことばを教師は受け止め、教師なりのことばで表現をし直し、生徒のかけがえなのない体験に先生ならではの意味を与える。そして生徒は自らの体験の意味をより深く受け止め、本当の職業人へと一歩を踏み出す。

 映画を見ながらいろんなことを思い出したり、想像をしたりした。病床で亡くなった父親の姿。入院中にケアしてくれた看護師さんたち。その看護師さんたちに心から感謝をしていた父親の表情。自分もやがて年老いて、病院のベッドの上で看護師さんたちのケアを受けるときがおそらくやってくる。そのときぼくは、少なくとも感謝を込めて、初めて注射を打つ看護師さんに、細くなっているであろう腕を差し出したいと思う。

 フランスの大学で長らく哲学を教えてきたエリザベート・ド・フォントネは、80歳になろうとする自閉症の弟について書くことを決意する。だが、通常のコミュニケーションを取ることのできない弟の何を理解し、何を語ることができるのかとフォントネは自問する。

 この困難さの中で、フォントネは、長い考察を展開するのではなく、ごく短い断章を連ねる形式を選択し、子ども時代の断片的な記憶、そのときに自分が抱いたおぼろげな印象、そして今現在からの推察を重ねていく。どれも確証のあるものではない。その意味で、フォントネに取って弟は、決して埋めることのできないひとつの「空白」である。それでもフォントネは、弟という「不在の存在」をことばによってかたどろうとする。

 弟についての記憶は、同時に家族についての記憶でもある。特にユダヤ系の母親を持つフォントネにとって、第二次世界大戦時のドイツ占領下での家族の苦難は強く記憶に残っており、それによってテキストは小さな同時代的歴史の意味も帯びる。

 作品中には、こうした弟、家族についての叙述に加えて、これまで西洋の歴史において障がいをもった者たちがどのように扱われてきたのかが論じられてる。そしてときに彼らが「何かが欠落した存在」、社会のマージナルな存在とみなされてきたことを批判する。

 それに加えて、例えばドストエフスキーの『白痴』のように、文学作品に登場する「精神的障がい」をもった人物たちについても論じられている。

 ただし、こうした歴史、文学にまつわる叙述は、客観的な考察に徹しているわけではない。それは、西洋思想を「障がい」という主題から振り返り、「人間観」をあらためて検討し直すと同時に、その文脈に、弟が受けてきた治療の意味や、弟の存在自体を位置づけ直すという二重の意味がある。

 このように本書は、記憶と考察を交え、弟・家族の歴史と障がいをめぐる人文学の歴史を交えることで、文学、歴史、哲学、精神医学の諸領域を横断していく、ひとつのジャンルにおさまらない、豊かさを湛えた作品となっている。

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 本作品は、長らく大学で哲学を教え、多くの哲学書を著してきたフォントネが、初めて私的な主題を取り上げ、一人称を用いて自閉症の弟について語った著作である。

 表題『夜のガスパール』のガスパールは、実名を伏せるためにフォントネが選んだ名だが、ここには19世紀に「野生児」として発見されたガスパー・ハウザーと弟を重ねあわせる意図も含められていた。またフォントネは、弟を理解することの困難さ、弟との意思疎通の困難さを告白しているが、「夜」はその困難さの例えである。

 だが本書は、弟についての私的記憶のみに終始しているわけではない。ガスパールの例がその一端を語るように、西洋社会の中で、ろうあ者、知的障がいをかかえる人々が、どのように扱われてきたか、また文学作品でそうした登場人物たちがどのように描かれてきたかが論じられている。

 この障がいをめぐる考察は、フォントネの哲学的思索の主題のひとつであった、動物の権利の擁護に重なる。フォントネは、動物や障がい者を、人間社会における「異質な存在」とみなし、社会から排除する姿勢を厳しく批判する。

 その姿勢は、本書の中で、フォントネが弟を病名で名指すことを極力避けていることにもつながっている。アメリカの批評家スーザン・ソンタグは『隠喩としての病い』で、エイズや癌などの病名に社会が過剰なイメージ(=隠喩)を付与していることを批判し、これらの名から付属物に過ぎない意味を剥ぎ取ることを主張した。フォントネにも、障がいについて私たちが抱いているイメージから、弟をできるだけ遠ざけ、あくまで人間として描こうとする意思がはっきりと認められる。確かに理解しあえない事実は厳然と存在する。しかし弟はここに存在している。その存在自体をかけがえのないものとするために、フォントネはこのテキストを書いたのだと言えよう。

 社会において「弱者」とみなされた存在に目を向け、その存在の尊厳の回復をはかろうとする本書は、弟の存在に対する感受性豊かな文体と、哲学者としての透徹した知性による文体が、調和し、個人性と普遍性をともに湛えた作品となっている。

 有用性や生産性の名の下で、人々が選別されてしまう社会の風潮を考えるとき、本書は、私たちがあらためて人間存在の尊厳を根本から考え、議論するための大きな示唆をあたえてくれる。

田村尚子『ソローニュの森』(2012)

ラ・ボルド診療所と『すべての些細な事柄』
 フランスの映画監督ニコラ・フィリベールが撮った『すべての些細な事柄』(原題La moindre des choses)というドキュメンタリー作品がある。パリから南に車で約2時間、ロワール地方にある精神医療施設、ラ・ボルド診療所が舞台で、この診療所の日々を、敷地内で毎夏行われる演劇上演の準備と当日の舞台を中心にして描いた記録である。ナレーションはない。カメラは何かをねらって映すというよりも、その画面の中に、あるときは風に揺らめいて木々が映り込み、あるときは散歩をしている人がカメラの前を横切って入り込んだりと、あたかもそこに偶然映ってしまったかのような趣をもつ。
 カメラに話しかける人、料理を準備している人、衣装を選ぶ人...私たちはこの場所にいる人々の生活を観ているうちに、そこがどのような場所なのか、そしてその人々が誰であるのかを次第に忘れていく。特に演劇の舞台に参加する人々をみていると、彼らが、もともと施設のスタッフだったのか、患者だったのかすっかりわからなくなっていく。映し出されるのは、舞台を演じる人々、舞台道具を準備する人々であって、彼らの舞台への関わりを通して、最終的に、私たちの注意は一人一人の個別の存在へと注がれていくのだ。
 もちろんここには監督の明確な意図がある。それは私たちが前提として多かれ少なかれ抱いている、精神病院や精神を病んだ人についてのイメージや表象の徹底的な排除である。フィリベールのドキュメンタリーが優れているのは、その作品が、私たちに何かを教え込むための、教化するための、すなわちある何がしかのメッセージを吹き込むためにあるのではなく、私たちのなかに巣食っている既成概念を揺るがし、物事に付着している一般的な思い込みをそぎ落とすためにあることだ。「患者たちを『精神障がい者』として記号化すること」(注:ドキュメンタリーマガジン『neoneo ネオネオ』no9、萩野亮の『すべての些細な事柄』の作品ガイドによる。p.73)を徹底的に拒んでいるのである。

ジャン・ウリとコレクティフ
 このラ・ボルド診療所は、1953年に精神科医ジャン・ウリによって創設された。ウリの精神医療の方法は「制度を使う精神療法」と呼ばれる。病院という制度的な枠組み、およびその制度で規定される患者とスタッフの区別さえも見直すというラディカルな方法である。この診療所の人々の集まりは「コレクティフ」(collectif)という語で表される。この語は一般には「集団・グループ」という意味であるが、ウリのセミネールの記録『コレクティフ』の翻訳者多賀茂は、ウリがこの語に込めている意味を次のように的確に説明する。
 

ウリにおいてcollectifとは、何らかの集団において、その構成員である個々人が、自分の独自性を保ちながらしかも全体にかかわっていて、全体の動きに関わっていて、全体の動きに無理に従わされているということがないという状態を意味しています。(p.8.)

 集団の中にありながら、自分の独自性を保つということは、先ほど述べた「イメージ」や、「一般的な思い込み」の排除と深く通じている。なぜならば、「イメージ」や「一般」性で人を見ることは、個人を個人としてみるのではなく、ある類型の一例に還元してしまうことだからだ。「医者」ならば「医者」、「患者」なら「患者」という枠組みでしかその個人を捉えないということである。そのとき、医者と呼ばれる人々の、患者と呼ばれる人々の間の実際の差異は看過され、個人はその独自性を失っていく。
 集団の中にありながらも、独自性を保ち続ける実践として、例えば、ラ・ボルド診療所では、みながー患者・医師・看護師・事務の人など-集まって、ディスカッションをして、あらゆることを決めることになっている。毎水曜日の朝に開かれる会議には、だれもが参加することができる。会議では「日常的な些細な出来事」(田村p.108)が話し合われる。それぞれがコレクティフの構成員として参加をしているのだ。
 しかしだからといって、「医者」や「患者」の肩書きを外して活動をすれば、独自性が確保されるという安易な問題ではない。そうではなく、一人格がある属性によってのみ全的に支配されること、あるいはその属性によってしかその個人を理解しないことが問題なのだ。属性によってではなく、どこまで、そしていかにしてその人を人格において理解できるか。このコレクティフな営みにおいて投げかけられるのはこの問いである。ウリ自身、次のように主体の概念について述べている。
 
混じりあって、くっつきあっていてはいけない。言い換えれば、各人が主体として認められていなければならない。(...)均一化と呼ばれることを避ける試みが必要である。(ウリ、『コレクティフ』p.338.)

ある社会、または組織において、ある個人がその存在の特異性を失い、他の個人と区別がつかなくなってしまうような状況、その固定化されたイメージによって、人々が画一化されてしまうことに抵抗すること、これがウリの哲学であり、それが実践されているのがラ・ボルド診療所である。

田村尚子『ソローニュの森』:他者との関係の構築、コード化を拒む

 田村尚子『ソローニュの森』は、このラ・ボルド診療所と、そこに生活する患者たちをフィルムに収めた写真集である。田村は、日本でジャン・ウリに会い、その後ラ・ボルドを訪問する機会を得た。この写真集にはあわせて滞在をした折の文章が添えられている。ちなみにソローニュの森とはラ・ボルド診療所が囲まれている森の名前である。
 田村はここで患者たちと実際に接し、彼らとことばを交わし、そのやりとりの様子を綴っている。「患者」と言っても、例えばフランシスコという男性の第一印象を「本人から話しを聞くまでは、彼が患者さんだとは少しも思いもしなかった」(p.37.)と書いているように、ここで暮らす人々の相貌に「患者のイメージ」は認められない。
 ここで会うのはあくまで一人の個人なのだ。その印象の素直な表明として、田村はみなを固有名詞で呼ぶ。イブ、レミ、クレールといった名前を持つ具体的な人物たちである。そして、家族の話、日本の話など、彼らとのやりとりは、彼らが精神的な病いをわずらった人だとはほとんど感じさせない。時に支離滅裂になったり、変わった行動をとったりすることもあるが、私たちが日常交わしている会話の内容とあまり大差はない。
 単に外から眺めるのではなく、実際にこの「コレクティフ」の中に入ろうとする田村の姿勢には、「利便性を優先する『コード化』を拒み続ける」(p.108.)というウリ自身の言葉の実践が伺える。他者に対しての「利便性を優先する『コード化』」とは、一般的な概念のレッテルを他者に貼り付けて、それで他者を分かった気になっている状態であろう。運転手なら運転手、障がい者ならば障がい者という、普通名詞の一般概念を他者に貼り付け、それ以外の存在のあり方の可能性を見ないような態度である。確かに他者とある属性をコードで結びつけるカテゴリー化の作業は、機能的で、手っ取り早い理解の仕方ではあるだろう。だがそれは一方的なイメージの他者への投影であって、他者の理解とは呼べない。ラ・ボルドの患者クレールがニュース・レターに書いた、治癒にとって必要な「相手をあるがままに受け入れる」(p.62.)という契機は皆無である。
 とはいえ「患者のイメージ」を取り払うことができたとしても、それでその人のことを十全に理解したことには直結しないだろう。またその上で他者をあるがままに受け入れるという態度とは、具体的にはどのような関係をつくることなのだろうか。そもそも他者へのイメージ付与を避けるとしたら、私たちは何を糸口に他者を理解できるのだろうか。さらには他者を本当に受け入れるとき、それは多かれ少なかれ自分を他者に合わせて、自己を曲げた上での他者の受容にならないか。利便性・効率性の社会から離れたところで自己と他者の関係を考え始めるとき、そのような答えのない問いが繰り返されることになる。だがその関係の可能性と困難さを正面から受け止めようとする分、人との関係のあり方を反省する問いはますます深くなっていくのだ。
 ラ・ボルドで、ひとりの人間同士として患者たちとの関係を構築しようとすればするほど、写真家である田村にはこのような問いが浮かび、ときにはこれらの問いに苛まれることすらあったのではないだろうか。なぜならば、写真は、自己と他者との関係を考えるとき、他のいかなる芸術にもまして、他者との関係が相互的ではありえず、一方的にならざるをえない表現行為だからだ。撮るー撮られるの関係は、能動ー受動関係の典型である。写真は、写真家の眼差しによって、相手を対象化する行為である。写真はある視点から、ある瞬間を切り取る。さらに写真家の能動性が強ければ強いほど、自分の狙い通りに被写体を切り取ってしまうことも可能になる。それは自分が前提とする範囲内に他者の存在を収めることにもなりかねない。自分がいかようにも加工できる他者は、すでに他者ではない。
 このように写真が人間の能動ー受動の関係をもたらすことから、田村は写真は「凶器」(p.63.)にもなると言う。カメラを向けることは「その人の心を攻撃してしまうのではないか」(p.63.)と恐れる。写真において、他者は「被」写体となり、撮るという一つの暴力にさらされうる。
 だからこそ、写真家は、他者を手段としないよう、他者との関係によりいっそう敏感になってしまう。そして「他人の存在にもっとも敏感」(p.64.)になるとき、自己と他者との関係構築の新たなあり方の場に直面していることを強く感じる。他者がどのような人であれ、他者の言葉をそのまま正面から受けとめることは楽なものではない。併せて、その他者を受けとめる重さにおいて、自分の存在へも問いの眼差しを投げかけざるをえなくなる。「他者の存在を敏感に感じている私は、実際に何を感じているのか」と。
 そして、田村は他者が「自分のなかにも存在する」(p.64.)ことを感じる。他者との関係に対する敏感な感性は、同時に自分自身にも向かう。自分自身は安定した自己の根拠ではなく、自分の知らない自己、およそコントロールできない自己の存在に気づく。そのような自己の揺らぎが身体的にも精神的にも疲弊を招いてしまい、ある一日ラ・ボルドを離れる。ロワール川を車で1日走りながら、友人たちと話し、自由に写真をとる。そのような時間を過ごしながら、自分の心が閉じた状態であったことを振り返り、再び翌日ラ・ボルドに戻る。この短い旅は、田村にとってのセルフケアだったのではないか。
 私たちが普段の社会生活を送るなかでは、他者へのこだわりがあまりに強いと、それはほとんど拘泥という意味しか持たず、スムーズな、要は表面的なやりとりの障害となってしまう。だがラ・ボルドでの実践においては、他者を考えるとは、記号として固定された前提をどこまでも見直すことを意味した。その実践は、私たちが他者との関係が生まれるその始まりに立ち合うことでもある。他者をあるがままに受けとめ、受けとめている自分を通して、これまで知らなかった自分の中の他者を発見する。こうした未知の存在との出会いは、ときに緊張と不安を強いることであり、心をつい閉ざししまうことにもなるだろう。だが、反対に、他者との関係を生みながら、新たな自分自身をひらく可能性もそこには広がっている。
 ラ・ボルドでの実践は、「対象を固定化して物象化してしまわないための<詩的なロジック>」(p.40.)を作ることだとウリは田村に語る。物象化とは対象を物自体と捉えること、本質的に不変である存在として認めることである。物自体としての存在は、私たちの認識いかんにかからわずそこにある。物象化されたモノ、人間と、私たちの間には、どのような接触も干渉もなく、関係は不在である。
 それに対して、私たちが、自分を取り巻いている世界を物象化しないように努めて生きるとすれば、それはたえず他者と関係の構築のあり方を問うことになる。詩的なロジックとは、お互いの間で意味を力動的に生成することを意味する。詩は新たな意味の創造だからだ。この詩的創造とは技法的なレトリックの創造という意味ではない。そうではなく、既知の範囲内に他者を置く=不動の物質化をすることなく、目の前の他者にたえず新たな存在の様相を見出し、生の動きを認め、それに自分の生をも呼応させることなのだ。他者を一面的に見ることなく、その他者との関係において自己存在の揺らぎをも受けとめるとき、他者の多面性と自己の変容はその姿を現す。その交渉のなかで自己と他者の関係が生成される。この生の呼応関係による新たな生の意味こそ、<詩的なロジック>と呼べるものである。
 対話において、人間の多面性を見出していくこと。それはラ・ボルドで行われている「星座の会議」の意義でもある。ここでの星座とは次の実践を意味する。
 

ひとつの点と点を結んでいくと初めてその形が見えてくる星座のように、その人のことを知る。(p.109.)

この結ぶという行為によって、初めて相手が私たちの前に現れてくる。その人と出会い、その人を理解するとは、自分なりにその点を結んでいき、形を作ることである。この結び方は無限に存在するであろう。人間は生きている以上、たえず生のただなかにあり、そのただなかにある生同士が出会うからだ。とはいえ、それは毎日まったく違った形を見せるといったドラスティックなものではなく、日常に起きる些細なことから構成される。その毎日毎日の些細な事柄をひとつの小さな出来事として新鮮な目で見つめることである。そのとき人間関係は不断の変化として現れ、物象化を拒む可能性がひらけてくるのである。その瞬間こそ「交歓の生まれた瞬間」(p.67.)と名付けることができるだろう。

Philippe Forest, Sarinagara (2004)

 幼い娘を亡くした作家が、小林一茶、夏目漱石、山端庸介の3人の喪失体験を叙述しながら、その3人についてのテキストの合間に、自らの日本訪問(東京、京都、神戸)の叙述を加え、構成された作品である。
 フランス作家が書いた「日本論」に見えるかもしれないが、日本の独特さや異国趣味とは無縁である。反対に、フォレストは、日本について語りながら、個別の体験を越えたところにある、人間存在の普遍性に基づいて叙述する。その普遍性とは存在の有限性と虚無、そして喪失体験である。
 「さりながら」とは、喪失という事実、虚無という事実はわかっていながらも、「それでも」その事実を受け入れてしまうことを踏み切れない、抵抗の心情である。
 失われてしまったものは永遠に失われたままだ。そして時が経つにつれて、その体験は思い出と忘却の対象となる。今の現実から離れていくとき追憶のイメージは夢幻のイメージと重なっていく。
 作品の冒頭でフォレストは、大人になってからの現実は、すでに子どもの時に夢で見られたものではなかったかと書いている。こうした現実と夢の境界の消失は、「さりながら」という心情と同じく、私たちの置かれた状況の不分明さや、たえず漂い流れる私たちのよりどころのなさを示している。
 漂い流れていっても、決してどこかにたどり着くわけではない。たどり着くことで、喪失の悲しみが消えるわけではない。
 

「私は場所を変えたかった。とはいえ、それは私の苦しみから解放されるためではなく、別の場所で別な方法で、その苦しみの果てのない悲愴な深さを体験するためであった」(p.22.)

 その喪失とは子どもの死である。一茶も子どもを亡くしている。
 

「ひょっとしたら、こうした死(=子どもの死)が、時間について普段信じている考えを脱するために必要なのかもしれない。それは、時が、私たちひとりひとりを、常に更新される明日へと導いてくれ、その日々は、前日の悲しみを消し去り、朝の何にも触れられていない輝きの中で、同じ世界を新しく作り直してくれる、という考えである」(p.78.)

 この喪の永続がフォレストの一貫した文学的主題である。夏目漱石も幼い娘を亡くしている。その死後の思いをフォレストは次のようにつづる。
 

「それに続いて、いつもの普通の言葉がやってくる。生に戻り、なるべく早く、失ったものの穴埋めをするようにと誘う言葉である。ところが、別の子どもは、失われた子ども本人でない以上、何の意味もないのだ」(p.158.)

 現実と夢、忘却と想起ー私たちはそのふたつを切り分けるのではなく、そのふたつを行き来し、そしてまたそのふたつが混じり合った二重性の中を生きる。フォレストは、こうした二重性のなかでのさまよいを書く。それは、娘の喪失の後では、もはやどこにも居場所はなく、さまよい歩く自身の姿にも重なる。
 そして写真は、写された対象と写真表象の二重性の中に存在する。山端庸介は、職業カメラマンとして、長崎の原爆投下の翌日に現地に入り、その被害を写真におさめた。現場の目撃者であり、証人である。証人も、その場におり、かつ事後的にその場の体験を何らかの形で表す存在であるが、その証人という存在について、フォレストは次のようにこだわる。
 

「証人とは何か。それはつい見てしまった者、偶然にあるいはたまたま、あらゆること、特に他の場所にいたいという気持ちに反して。見てしまった以上、視線によって自分に永遠に結びつけられた、恥、悲しみ、罪悪感に耐え続けなくてはならない。」(p.230.)

 
「証人とは何か。見た者、二度見た者、自らの視線を重ね合わせ、自分が見たものを繰り返されるがままにしなくてはならないと思った者、世界を見直すことで、ついにその唯一で至高の真理に従う者。」(p.236.)

 私たちは見た場所、時間に決して戻ることは絶対にできない。と同時に起きたこと自体は決して否定できない。ここから体験と表象の二重性が生まれる。体験だけでは何も残すことはできない。体験だけでは、体験は消えるしかない。その体験を支えていくのが、表象なのだ。表象するとは、だから、その体験に生を与えると言ってもよい。表象と体験が完全に一致することはありえない。だが表象か体験かではなく、決して戻ることはできなくとも、そこに近づいていくために語り、表していく必要がある。なぜならば、その決して近づきえない地点には、その体験をした人の存在が確固としてあるからだ。

 宗教哲学を専門とするVincent Delecroixと『永遠の子ども』などの小説で知られるPhilippe Forestの喪をめぐる対談集である。対談という性格上、喪を巡ってさまざまな話題が縦横無尽に言及されている。

 西洋哲学の長い歴史の中で扱われてきた「死」は自己の死であった(キケロ、ニーチェ、ハイデガー...)。それに対して喪失、あるいは喪が主題となったのは、ナチスによる大量殺戮が起きた20世紀後半以降である。ただその例外がキルケゴールであり、Delecroixはその専門家である。またForestの小説家としての活動は幼い娘の死がその出発点となっている。

第1部第1章「単独性の体験」
 彼らにとっての喪とは根本的に「個人の代替不可能な体験」(p.21.)である。Forestは、そのため自分の作品は時に俗な文体になったとしても、具体性にこだわっていると言う。また、喪の体験とは、ジョルジュ・バタイユの言う「内的体験」「呪われた部分」、すなわち個人を正常で有用な領域から引き離す体験であるとされる。

 それを受けてDelecroixは、喪の体験が「絶対的な瞬間」(p.23.)であると同時に、拡張される時間の体験であると指摘する。喪の体験は、今後その体験とともに生き続けることを意味する。そしてその継続性の中で、喪の体験は言葉にされ、言語化することによって他者の参入が生まれ、さらには、宗教的・哲学的な表現を生んでいくとされる。

 喪の体験は根源的に個別の体験でありながら、共通の体験でもあるというパラドクスを含んでいるのである。それをキルケゴールは「主観的真実」と呼んだ。私たちが共有できると同時に私たちの間を遠ざける性質をもつ真実である(p.31.)。

 一方Forestは「代替不可能性」にこだわる。とりわけ現代社会において、ひとつはクローン技術による「複製の可能性」があること、もうひとつは社会そのものが「代替可能」なもので成り立っていることを指摘する。特に「私」へのこだわり、他者と異なる「私」へのこだわりは、実際には、異なるという意味においては差異のない「小さな私」がつながりを欠いて存在するだけであるとする(アドルノの物化への参照)(p.34.)。

第1部第2章「喪を行うーイデオロギー批判」
 この章ではフロイトの「喪とメランコリー」への批判が展開される。その出発点は「失われた存在は永遠に失われたままだ」(p.41.)という認識である。「リビドーが失われた愛する対象への固着を弱めることで、自己が生かされるようになり、やがて欲望は違う対象に向かうことになる」と要約されうる喪の作業は確かに永続する喪失とは対立する論であろう。しかしながら、フロイト自身の考えは多分にニュアンスを含んでいる。例えばここで引かれている1929年のビンスワンガーへの手紙では、息子を亡くしたビンスワンガーに対して「このつらい喪は癒されるものではないし、失ったものの代わりは決して見つかることはなく」、「その場所を占めるものがあったとしては、それは常に何か違うものです」と書いている。

 ただしForestは、喪のさなかにある人に対して、「ページをめくるべきだ」という命令がよく聞かれるとし、特にそれがボリス・シリュルニック一派の「レジリアンス」の考え方だと言う。Forestによれば、それは、「自らを死者たちから断ち切ることによって、不幸を遠ざけること」(p.44.)に他ならない。立ち直ることの要請は社会からの要請であり、レジリアンスの「解放的な効果」はまさにこの社会の要請と合致することになると批判する。

 ここからDelecroixは現代社会が「傷ついた者」を恐れていること、「常態化」を求めていること、つまりはアドルノのいう「健全なものを求めるという病」の状態にあることを指摘する。そしてこれが必ずしも現代だけの問題ではないのは、たとえばフレイザーの『金枝篇』で、喪に服す者は死者と関係を結んでいるという意味で共同体にとって脅威の対象であると言われていることからも理解できる(p.48.)。

 「喪とメランコリー」を再考するために必要なのは、Delecroixによれば、ポール・リクールの『記憶・歴史・忘却』とジャック・デリダの『マルクスの亡霊』である。両者ともに「作業」(le travail)という用語の再検討がされている。リクールについてはそれが経済論的観点から、デリダについては、「喪の作業は作業のひとつではなく、作業そのものである」ことから再検討がなされている(p.50.)。作業とは、文字どおりには「消滅させると同時に存在せしめる」(p.51.)過程である。そして喪とは「現在に存在していないが、不在でもない、存在ではないが、非ー存在でもない、失われているが失われたものとしてある」状態である(p.51.)。しかし同時に喪の作業は「亡霊を追い払う、黙らせる」作業でもある。それは父の亡霊を前にしたハムレットと同じであろう。この二重性のパラドクスの中で、喪の作業は、存在を持たないものに存在を与えることとなる。「喪とは常に存在せしめることにある」(p.51.)。このパラドクスは「他者を自己のうちにとどめるためには、喪は不可能でなくてはならない。体内化も取り込みもできないのだ」というデリダ自身の言葉に現れている。
 
第1部第3章「集団的喪と記憶の義務」
 この章の冒頭ではリクールの『記憶・歴史・忘却』について語られる。喪はこの浩瀚な作品の最後の「赦し」まで続く一貫した主題である。リクールにとって、喪は、残された者が死んだ者に「なぜ死んでしまったのか」と相手を責める気持ちを持っていることが前提となっている。そして死者と関係を結ぶ行為は、この相手の「死んでしまったこと」を赦す行為となる。そしてそれは、「記憶の過剰」でも「忘却の病理」でもない。リクールは、「過去へのおだやかな関係の条件」を集団的記憶においても(歴史的な罪の赦し)、個人の記憶においても(死んでしまった相手への赦し)探すことを思考する。

 それに対してForestは、自分が強く感じるのは「赦し」とは真逆の「罪悪感」であるという。したがって赦しがあるならば、それは「生き残ってしまった」自分に対してであるとする。

 次に扱われる問題は、「個人の喪」と「集団の喪」の関係である。これについてはForestの2つの作品SarinagaraとLe Siècle des nuagesを通して検討される。Forestにとっては、「集団的喪へと達するのは、あくまでも個人の喪を通して」である。そうでなければ、「パンテオン化」(p.60.)に見られるように、喪の行為は、単に「死者を顕彰」するだけになってしまう。Commémoration(追悼)は喪ではないのである。

 それに続いて、作家が、自らが体験したのではない出来事を語る条件について考察される。Forestは、自分が広島や長崎について語ることができたのは、特別な詩的形式を作品に導入したからであり、それによって自らは登場人物の背景へと退いているからである。また、Forestは、語り手が直接の証言者のように語ったり、登場人物や犠牲者があたかも自らを引き立てるように一人称で語る作品を批判する。作家が用いる言葉は、「自信に満ちた、傲慢な言葉」(p.65.)ではなく、自らが語る対象となる人、事柄との関係によって限定される「自信のない言葉」なのである。

第1部第4章「喪にくれる者のかたわらで」
 第4章の主題は、喪をとりまく社会の問題である。Forestにとって、メランコリーは時に人々をやさしく迎え入れる場所となる。彼にとっては、「病という状態から人を健全な場所へと社会復帰させる」ことが問題ではない。病は「恥ずかしい衰え」でも「隠すもの」でもないからだ。だが、「健全な社会」は、「病」と自らを二項対立化させながら、病者あるいは喪に苦しむ者を排除する方向へと向かう。

 そしてその行き着く先は、「病者に病気の責任を負わせよう」(p.70.)という態度である。そしてこうした態度に付随するのが「信じれば救われる」というような精神論であるとDelecroixは言葉を引き取る。それこそがまさにヴォロンタリスム(volontarisme)のイデオロギーである[これは新自由主義や自己責任論ともつながる考え方であろう]。

 では喪の状態におかれた人をどう支えるのか。Delecroixは、私たちは喪の苦しみの中にある人を支えることはできず、苦しみを和らげることはできないという。しかしそれにも関わらず、私たちは(つい)そばにいたり、何か言葉をかけたりしてしまう。そして私たちがこうした行為をするのは、その行為に「効果はなく意味しかない」(p.73.)という無力さのさなかであると言う。「意味しかない」というのは、シニフィアン「意味するもの」しかなく、それが「何を意味するのか」は知りえないということだ。たとえば、「そばにいる」というのはただ「意味するもの」であって、それが何を意味しうるのかは、まったく自明ではないのだ。

 ここでDelecroixはポール・リクールが『死まで生き生きとVivant jusqu'à la mort』で引用している緩和ケアの専門家たちの言葉に言及する。Decroixはリクールの論を次のようにまとめる。まず死の体験とは、私たちが看取る他者の死であること、とはいえ他者の死とは決して先取りされるものでないこと、専門家たちはagonisant(死に臨む)をmoribond(瀕死の人)とは決してみなしていないこと(agonisantはvivant jusqu'à la mortー死までは生きている)と、そしてagonisantによりそう私たちの視線にあるのは、compassion(共苦)であること[だが、おそらくはそれは私たちに常に訪れる体験ではなく、おそらくは奇跡のしかし一回性であっても到来する体験となりうるだろう]。

 だが共苦があったとしても、決して「苦しみ」自体は理解しえない。私たちが結びうる関係とは、本質的に「コミュニケーションの限界を決める」(p.76.)関係なのである。

 だからこそForestは、「修復不能なもの、慰めようのないもの」を排除しようとする考えに反発をする。彼にとって、死とは何らかの技法によって肯定されるものではなく、教訓を含んだり、人生に勇気をもたらすために用いられるものではない。人ができることは、慰めることでなく、喪という逃れることのできない現実にいる人の「証人」となることであると言う。

 次に、compassion, empathie, pitiéの語をめぐって二人の考えが展開される。Forestは、前述されたpitiéについては否定的ではなく、バルトの『小説への準備』では、pitiéが小説という存在の根拠であり、プルースト、トルストイ、ルソーが引用されており、「ロマネスク」の成立に、「ほとんど非個人的ともいえるpitiéの言葉」があるとバルトが指摘していることを評価する。

 Delecroixは、empathieは、語源が「内側から苦しむ」という意味で、「他者の苦しみをその地点において苦しむ」ことになり不適切であろうと述べている。「人が他者の苦しみに苦しむのは、まさにその他者の場に自分は決して立てないからであり、他者の苦しみは決して伝わらないという事実に苦しむ」(p.80.)のだ。compassionについては、cumが「同一」ではなく、「類似」を意味することから、喪の問題を考える上では適切ではないかと述べる。

 またDelecroixはForestが用いた「証人」について、証人が証し立てることは、「他者が苦しんでいることに苦しみながら、他者の苦しみと私たちの本質的な無力について証人する」(p.80.)ことだとする。

 「証人」に関してForestはプリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』を引き、本当の証人とは「溺れたもの」なのだが、彼らが証言できない以上「救われたもの」がするしかない、しかしそれは「代わり」であり、「義務はあっても権利のない」証人なのだ。Forestの小説Sarinagaraの登場人物で、長崎の原爆を写真におさめた山端庸介もそのような証人だ。彼がファインダーを通して長崎を見たのは、ひとつの「防御反応」であったとされる。ここにはアートの存在意義もかかっている。アートは、表象するという不可避の行為によって、「見せることの無力を意識した、不安で罪の意識をかかえたままの証言形式のひとつ」(p.82,)なのである。

 最後の話題は「終わりのない喪」である。二人は再び「メランコリー」を取り上げる。Delecroixは、フロイトは「喪の作業は覆うこと、あるいは忘却で終わるとは主張していない」として、過去はそのように封印されるものではないことを強調する。Forestは「メランコリー」は、自分にとって、生と現実への関係のあり方を指す語であるとしている。この場合のメランコリーとはDelecroixが言う「失われたものへの愛着」(p.90.)である。ただし過去への回帰を望むノスタルジーではなく、メランコリーはあくまでも「現在時において、失われたものとの関係」を考える心性である。一方で欝(dépression)とは、失われたものを、失われたものそのままに保存することである(p.91.)。最後にForestは、喪の状態に「絶望」という言葉が用いられないことを指摘する。そして文学の役割を、絶望がもたらす「もはや取り返しがつかないこと」を明るみに出すことであるとしている。

ロベール・アンテルム『人類』を通して、収容所の体験と文学の条件について考察をした、ジョルジュ・ペレックの『文学論』である。

 収容所体験をもとにした文学作品は数多く存在している。それでもしかし、収容所文学はほぼ時代の証言あるいは資料としてしか読まれていないことをペレックは指摘する。そのような読み方は、「戦争」とは何か、「解放」とは何か、「文明の転換点」とは何かといった一般的な問いへの答えを探すための読み方となる。

 ではペレックにとって文学の条件は何に求められるのか。彼にとって、文学は生としっかりと結ばれている。そして、その生の体験の到達点として文学はある。「体験は文学に開かれ、文学は体験に開かれている」(p.174)。体験と文学の往還は、個別で断片的なものと普遍的で全体的なものとの往還である。ペレックはその文学の真理をアンテルムの作品に見出すために考察を重ねていく。

 ペレックが最初に作品に認める特質は、話すこと、書くことへの欲求である。


 話すこと、書くことは、収容された者にとって、カルシウム、砂糖、太陽、肉、睡眠、静寂を求めるのと同じくらい差し迫った、激しい欲求なのだ。(p.175.)

 そのために思い出し、語る。だがここで問題になるのが証言に対する、非体験者の無理解である。ペレックは人々は「理解をしたり、(問題を)深めたりはしない」、あるのは「安易な同情だ」と述べる(p.175.)。証言は一瞬の感情をかき立てはする。その内容を知り、驚き、怒りもわいてこよう。だが、理解をし、さらに知ることを深めようとはしない。ここでペレックが言っているのは、知ることとわかることの乖離であろう。私たちは収容所の存在を知っている。それが恐ろしい(terrible)ものであることも知っている。だが例えば収容所の「空腹の永遠性」、「空虚」といった細部については分からない。ペレックは事実をどれだけ積み重ねたところで、その事実の「意味」をわかることはないと言う。

 ではわかることに達する可能性はあるのか。ペレックが『人類』に見出すのがその可能性であり、ペレックはアンテルムが、「収容という事実、主題、状況」を「文学固有の枠組み」に入れることで、読者の感情に訴えることを排したとする。

 アンテルムが書くのは、詳細な細部にわたる収容所での「日常」である。そして収容所での日常的な体験を、収容所の全体像として示すのではなく、ただ単に喚起するにとどめている。だが、その体験と読者の間に、アンテルムは「発見、記憶、意識」が置かれていると指摘する。

 発見とは、自分自身が見た個別的なものであり、それは全体との繋がりを欠いた断片とも言える。そして記憶も意識も「私的」なものである。そこで書かれているのは「泥、そして空腹、そして寒さ、そして殴打、また空腹、シラミ」である(p.178.)。だがその細部から徐々に収容所が浮かび上がってくる。

 『人類』には説明的な叙述はない。しかし意識が、出来事にその意味を与え、それによって「収容所という世界はより広い視野の中に」位置付けられる。そのようにして出来事はひとつの例証となっていく。

 こうしてペレックは、アンテルムの作品世界の中に、「思い出と意識、体験と例証、ある出来事の筋立てとその総合的な解釈、ある事象の描写とある構造の分析の間の往還」(p.179.)を見出す。この「個別から一般へ、一般から個別へ」の運動こそがペレックにとっての文学の特質である。そして文学的創造とは、それぞれの要素を構造化である。構造化によって収容所をめぐる慣用的な意味は剥ぎ取られ、その意味は検討し直される。その結果、ようやく収容所世界は姿を見せてくるのである。

 では、その収容所世界の具体的な構造とはどのようなものであるのか。それは端的に言って「否定」である。アンテルムにおいては、それは直接的な殺戮行為などではなく、日常世界の描写によって表される。ゴミ捨て場を漁る姿、普通犯(政治犯以外の)による統治などである。アンテルムにおいて、収容所世界の否定性とは、大量虐殺やガス室ではなく、日常の描写ー寒さ、空腹の果てしない持続といった細部によって表現される。
 
 この細部において、アンテルムは体験を言語へと変化させる。そこにペレックは、『人類』の文学の現代的意義を認める。それはどういう意味だろうか。

 ペレックによれば、現代において、文学は世界の不透明さを伝え、説明できないことに価値を置くようになっている。言葉への不信から、行間を読むことが文学的な行為になってしまっている(p.188.)。世界を把握できず、文学は、むしろ世界を統べる力を失ってしまっている。それはまさにカフカ的な世界と私たちの関係とも言える(p.189.)

 しかし『人類』はそうではない。収容所はまさに言葉にすることのできない、表象が不可能世界であり、それを描く文学はまさにその無力を明かし立ててしまっている。だが『人類』は、「どのようにこんな世界が存在しえたのか」(p.189.)と世界を否認する問いを発するのではなく、細部を描き、その細部を考察する行為によって「世界は存在した」(p.189.)ことを示すのだ。その意味で収容所の世界を理解不可能なものではなく、れっきとして存在したものと認めるのだ。それはこんなひどい世界が存在したという意味とは異なる。ここで理解すべきなのは、世界から分離されてしまうのではなく、私たちに世界は繋ぎとめられているということ、その世界が存在しているということは、その存在する世界につながる私も存在しているということだ。どのような世界であれ、その世界に私が存在するということは、それがとりもなおさず生の確証となる。このことをペレックは示そうとしたのではないか。

 私たちはその世界を逃れるのではなく、その世界を否定するのでもなく、あるいはその世界を抹消するのでもなく、むしろ存在を認めることで、その世界を不可知の世界ではなく、統治可能な世界であると認識するのである。

 ペナックは、そのように収容所世界を書いたアンテルムには「あらゆる文学を生み出す言語と書く事への無限の信頼」があるとする。アンテルムの作品は、「世界はもはや言葉が意味を失うことによって描写を不可能にするカオスではない」ことを私たちに伝えてくる。

 収容所の世界に対する「ことばにすることができない」という形容は、世界を私たちによって把握不可能な対象とみなすことになる。しかしどのような世界であっても、その世界は存在し、その世界に私たちも存在している。この存在把握こそが、アンテルムの作品が明るみに出したことであり、それゆえにアンテルムの作品はその世界の告発でも、その世界における体験の絶対化でもなく、その世界と生を文学という言語行為によって結びつけたのである。文学はどのような状況であっても、世界と私たちが<共存在>することの認識の創造である。

 言葉によって「被災」を伝えるという場所にいた人間が、誰を主語にして言葉を書くべきなのか、その主語を決めたとき、言葉は誰に向かっていくのか、この問いを真剣に考え、その答えではなく、考えることの持続性をつづったのが本書である。

 軸は「喪失」と「個の言葉」(p.14.)。「被災者」や「福島の人」という「肩書き」(p.273.)ではなく、個人として、自分の喪失の体験を語る言葉を聞き取り、文字にし、そこに自らの声を謙虚に響かせ、複数の言葉を織りなすことで本書は構成されている。

 個の言葉の反対にあるのは「大きすぎる主語」である。大きすぎる主語で語られた言葉には、「伝える側の主張が張り付いているように」(p.20.)感じられると筆者は言う。それは正義だと自らの言葉を思う人間の主張であり、他者を説得、さらには論破する魂胆のある言葉、すなわち他者に受け取り、従うことを強制する言葉となる。

このノンフィクションは、当事者の言葉だけではなく、その当事者に出会うまでの経緯も綿密に記されている。第1章1「なぜ農家は米を捨てたのか」では、農家の方に会うきっかけは友人のカメラマンだった。そのカメラマンが撮った写真の中で、決して面に出さなかった写真とは「苦悩する住民の姿」や「立ち入ることができなくなり時間が止まってしまった街の悲劇」の写真であった。つまりそのような意味がすでに張り付いてしまっている写真である。それはイメージ通りの写真であり、仮にその現場がいかに想像を絶する光景に見えたかとしても、私たちは、そこに「想像を絶する」という意味に合致したイメージを求めるだけになってしまっている。

 取材を通して、著者が戒めていることは、イメージがもたらす個別性の捨象であろう。

 大きな事故の中で、人々はときに記号として扱われ、それぞれが考えているはずの声はどこかに消えてなかったことになっていく。住民、原発作業員、農家、東電社員ーメディア上でわかりやすい記号としてまとめられる中で、「個人」の声は小さくなっていく。記号として伝えるだけがメディアの役割ではないはずなのに。(p.209.)

 「わかりやすい記号」としての理解は、合致したイメージの受容と同じく、私たちがこれ以上考えることを妨げる。もはや解決した問題として、あるいは逆に解決しえない問題として、私たちは記号によって理解する。解決した・しえないは、いずれにせよ、私たちが問題を投げ捨てたことを意味する。

 では個人の言葉であるならば、そこから具体的にどのような声が聞こえてくるのだろうか。第1章では、インタビューを受けたお二人が、自らの体験から、震災を経て、自分の「役割」をわかったと述べている。それは意味付け直れた人生という意味の役割であろう。人生の意味はその都度変わっていく。記号のように固定化されたものではない。

 もちろんそうした意味付けの行為の可能性は個人によって異なる。特に喪失体験はきわめて個的な体験、固有の体験である以上、その体験をどのように名付けていいのか、言葉の見つからない人もいる。時が経てば、意味付けができるようになるものでもない。個人の時間もやはり個的なものだからだ。

 確定的な意味を見出すことのない状態を、筆者は「揺らぎ」と呼んでいる(p.166.)。揺らぎのない状態とは正解が確定している状態である。筆者はインタビューをした相手の次の言葉を書き記している。

 「ほとんどのインタビューでは、こちらは聞きたいことを聞く、相手は話したいことを話すというところで終わってしまう。それだけで、私たちは被災した人の気持ちをしったような気になっていないだろうか」(p.167.)

 言葉が交わされたとしても、自分の中にもともとあった言葉を相手の前で話すだけ。それは「相手」が記号化されているということ。相手が誰であっても、言葉が変わらないということは、そこでは、他者の存在によって、意味が新たに生まれることはないという言葉が生を失っている状態だ。
 
 ではどうしたら言葉は生を取り戻すのか。体験が個的であればあるほど、他者との交流の中で、新たな意味が生まれてくることは難しい。そのもっと手前のところで個人は自分の体験において苦しんでいるのではないか。その苦しみとは答えの出ない問いの反芻である。その反芻からしか言葉は生まれてこないのではないか。それが思いの深さである。

 例えば書くことで、話すことで、聞くことで人は自分の思いの深さに気づいていく。あてはまる言葉が見つかることもあれば、いくら探しても自分の喪失感を表現する言葉がないことに気がつくかもしれない。(p.170.)

 深さとは持続のことだろう。考えることは時間の中で行われる。絶えずではなくてもよい。ただ時にであっても、考えを再び巡らせること。経過していく時間の中で、その時その時の死者と私との関係を捉え直していくこと。関係は変わっていくだろう、そしてそれを捉える言葉も変わっていくかもしれない。だが、その変容し続ける言葉は、どこかで誰かの元に届く。正解ではないからこそ、相手はその受け取ったことばを考え始める。そのときに筆者のいう共振の可能性が生まれるのだろう。

Paul Ricœur, La souffrance n'est pas la douleur (1992)

現在はClaire Marin, Nathalie Zaccaï-Reyners, Souffrance et douleur. Autour de Paul Riœurに収められている講演である。

 「苦しみは痛みではない」と題された講演で、リクールは臨床医学と現象学を相互補完的に用いながら、苦しみを被り、苦しみに耐える人間存在について考える。痛み(la douleur)は、体の特定の場所、あるいは全体に位置付けられる感覚である。それに対して苦しみ(la souffrance)は、「反省、言語、自己との関係、意味そして問いへの関係」(la réflexivité, le langage, le rapport à soi, le rapport à autrui, le rapport au sens, au questionnement)へと通ずる感覚である。だが実際にこの二つの感覚を峻別することは難しい。

 リクールは苦しみの現象、苦しみの表れ(記号)を論じるにあたって、二つの軸を提案する。ひとつは自己と他者の軸、もうひとつは行動と受苦の軸である。
 
1. 自己と他者の軸
 まず苦しみの事象は自己の存在を強く意識させる。「私は考える ゆえに 私はある」のような「思考と存在」の関係ではなく、「私は苦しむ - 私は存在する」の「苦しみー存在」の直接性がその特徴である。また私が苦しむとき、もはや周りの世界のことは考えられなくなる。表象の地平としての世界は消え去ってしまう。現象学的にいえば、「苦しみの中で冒されるのは、何かへと向かう志向性」(ce qui est atteint dans la souffrance, c'est l'intentionnalité visant quelque chose)である。苦しみの中で自己は自己自身の中に閉ざされるが、他方で、他者との間には否定的関係が生まれる。それは他者から離されるという関係である。1) 苦しむ人間は単独者であり、誰かと代わることはない 2)苦しみは孤独であり、他者にはわかってもらえないし、手助けもしてもらえない 3) 他者は侮辱や中傷によって私を苦しめる存在になる 4) 自分は苦しむために選ばれたという感情をもつ。

 そして苦しみは、外からやってくるだけではない。苦しむ本人が作りだすことがある。例えばフロイトが「喪とメランコリー」で述べているように、愛する対象を喪失しても、その対象を手放すことができず、主体は自己を執拗に責めることになる。

2. 行動と受苦の軸
 苦しむとき、私たちは行動することすらかなわなくなる。リクールは『他者のような自己自身』で論じた4つの動因レベルを引用する。話す、する、語る、そして道徳的帰責性である。苦しむときは、まさに、言うことができず、することができず、語ることができず、そして自分を道徳的行為者として認めることができない。

1) 言うことができない。苦しみという目に見えない感情はどのように表されるのか。体であれば、身振り、顔の表情に、そして涙や叫び声で表象される。言いたいという気持ちと言えないこととの間には亀裂が生まれ、そこに嘆きが生まれる。嘆きは自己から発され、他者に向かって、頼みのような形式で投げかけられる。

2) することができない。苦しみには行為と呼べるものはあるが、それは「耐える」行為である。その意味で、行為は苦しみの受動性を表すことになる。この「耐える」を自己と他者の軸に投影すると、行為者と受動者の関係が浮かび上がってくる。苦しみにおいては、自分とは何かの被害を被る存在と感じられる。この感情が極度に高まれば、ハーバーマスのいう「コミュニケーション活動」において、「破門」という危機に陥る。

3) 語ることができない。リクールにおいて、自己同一性の構築には、自己の生を語れることが必要であり、自己を理解するとは、自分について理解可能で受け入れることのできる物語を語れることと等しい。苦しみの状態にあると、私たちは、語りの糸から切れて、一点に集中する。この一点とは現在とは異なるものである。アウグスティヌスが言うように、現在とは記憶(過去の現在)と期待(未来の現在)と注意(現在の現在)の三重の現在を含みこんでいるが、一点はこの時の持続から切り離されてしまう。このことによって苦しみの語りは、自己同一性を保つための物語の語りから変質してしまう。

 そして他者との関係もまた同じく変質する。なぜならば、自己同一性の物語が純粋に自己だけの語りに閉塞することはありえず、自己の物語は他者の物語と絡み合っているからである。苦しみにおいて断ち切られるのは、この他者との相互的な語りの「生地」(tissu)である。

 ここでリクールはフロイトの想起と反復の問題にも触れている。想起が過去を回想し、それを物語ることで自己同一性をはかる働きだとすれば、反復は「意識の統制を失った無意識的な繰り返し」(小此木啓吾『フロイト思想のキーワード』であり、それは回想の作業と対立する。

4) 自分は苦しむために選ばれた=自己評価の不可能性。自己への敬意は、その人間の尊厳に関わる。「苦しみに適応できるようになることは尊厳の一部分をなす」とJean-Jacques Kressは述べている。

 苦しみにおいて人は、自己への敬意とは逆に自己を貶める。特に親しい人を亡くしたときの後悔と罪の意識である。臨床ではこの苦しみと罪悪感を分けることが必要となる。そしてこの状況が進めば、「解離」という症状にまで至る。

 精神分析と現象学が交差するのは、かつて「魂の情念」(les passions de l'âme)と呼ばれたパトスと病理の中間領域である。行き来という運動を示す情動(émotion)、事物に対する好悪の繁栄となる欲動(pulsion)と異なり、情念(passion)は、絶対化された対象に対する欲望を意味する。それゆえ、その対象の喪失は全喪失となり、情念を持つ者は二重に苦しむ。ひとつは手に届かぬものを求めその代償は計算できないほど高いという意味において。もうひとつは目的を失うという意味において。この意味で人は幻想にも幻想から醒めることにも苦しめられる。

 さらにリクールは妬み(l'envie)と復讐(la vengeance)というふたつの情念に言及する。ルネ・ジラールは妬みを「私は、他者が持っているものを持っていないことに苦しむ。なぜならばそれを持っているのは他者で私ではないからだ」と苦しみと関連づける。復讐は罰することと関係する。

 3. 苦しみが考えさせること
 まずリクールは苦しみは問いかけるという。苦しみの嘆きは問いかけとして表される。「いつまで?なぜ私か?なぜ私の子供が?」というように。これらの問いかけはもはや説明の枠組みにはない。これらの問いかけは正当化を求めている。

 苦しみは、苦しみの受動性に目を向けるとき、倫理的で哲学的な領域で問われる問題となる。苦しみは悪の形象のように判断される。また悪には「過失の悪」「道徳的悪」だけではなく、ライプニッツ的意味での「自然悪」もある。この場合は「被害存在」と「罪ある存在」を分けなくてはならない。ヨブ書の議論が示すように、被った悪は犯された悪には還元できないのであり、「被害者」であっても「罪はない」のだ。しかし、私たちが苦しみを悪と呼ぶ時、苦しみは過誤とともに、存在するが存在しては何かとして現れてしまうのである。「存在すること」「存在すべきこと」はまさに哲学的問いとなる。「なぜ苦しみという存在してはいけないものが存在しているのか?」。倫理的は形而上学的問いとなる。

 次にリクールは苦しみは呼びかけるという。これまで見てきたように苦しみの中の私は他者とは別離の状態にある。それにもかかわらず、嘆きは他者への呼びかけ、他者への頼みとなる。もちろん私たちはともに苦しむという呼びかけに実際上は答えることはできないであろう。苦しみとはまさにその意味で「与えるー受け取る」の限界に位置する。しかし希望として、ヤン・パトチカが呼ぶ「震撼させられた者たちの連帯」がありうるのではないだろうか。
 もう一度苦しみの最初の意味「耐える」に立ち戻れば、それは「あることの欲望」と「...であるにもかかわらず存在しようとする努力」のうちに耐えることである。この「...であるにもかかわらず」が痛みと苦しみの最後の境界である。

 物語的自己同一性(identité narative)とは「私とは何か」という存在論ではなく、「私はどのように認識できうるか」という認識論であり、認識は単にその存在を認めるだけではなく、その存在に意味を付けることである以上、解釈学の範疇に入ってくる。

精神分析
この問題がフロイトの精神分析に関わるのは、「無意識は『表象代表』によってのみ認識可能」(p.118.)だからである。すなわち、自己に存在する無意識はそれ自体としては認識ができない。その代わり、意識の上に現れた表象を解釈することで、構成されることになる。精神分析において自己はもはや主体とはなれず、それは認識できない欲望の対象に過ぎない。

 夢の作業も解釈に関わる。
 

夢の作業には、「圧縮」「置き換え」「形象化」「二次加工」の四つがある。形象化とは、言語や思考を心的イメージに置き換える作業であり、二次加工とは、前の三つの作業の結果を調整し調和させることで、これにより夢は<物語化>される。(p.123.)

 夢は顕在し、われわれには直接届かない無意識を顕在化する。夢解釈はまさにこの顕在と不在の関係づけの作業である。

 また分析プロセスは、「過去の痕跡である断片的事実を集め、つないで、一つのまとまった物語=歴史に仕上げる」という意味で、自己を物語として理解するプロセスと言える。さらに、記憶の想起には事後性があり、経験を経てきた現在からの意味付けによる可変性を備えている。

 こうした精神分析の思想を考えれば、人間の存在を認識するときに、その核をなす部分は過去と現在との関係であると推察できる。しかし、ロバート・スティールが指摘するように、精神分析は科学を志向するときに、その科学的因果性によって、未来を「予言」(p.134.)することになる。しかし、「精神分析は結果から遡って原因あるいは期限をもとめて説明する方式」である。
 
反省哲学と言語の存在論
 解釈ということで考えれば、リクールの反省哲学への関心は納得が十分できる。反省哲学の代表的な人物であるジャン・ナベールは「意識という近道での自己把握はない以上、意識の純粋な自己措定は、直接には把握されず、意識の行為が記号のなかに現れるのを通してしか把握されない」としているからだ。反省とはまさに現象として現れている記号の意味を、解釈によって探求していく試みである。

 これは言語論の枠組みでは、現象として現れている意味ではなく、その意味の意味を探っていくことになろう。この意味と意味の意味はディスクール言語学になぞらえて、前者を記号(辞書に載せられるような恒常的な意味)、後者をその記号を使って、その場で派生し、解釈によってとらえられる意味と捉えることができるだろう。

 さらにこの意味の意味をリクールの「テクスト世界」の問題になぞらえれば、言説の「指示は会話におけるように、対話者間に共通の現実を指す力はない」(p.156.)。
 

フィクションや詩による第一度の指示の廃棄は、第二度の指示が解放されるための可能性の条件である。(p.156.)。

 ただしこの第二度の指示を構築するのは読む行為においてであろう。読者が作品世界を読みつつ、字義を理解すると同時に、その字義通りの意味を通してもたらされる意味を構築していくのである。これをリクールはappropriation「自己同化」と呼ぶ。

 そしてリクールは、読者がその解釈行為を通して、そしてその行為を自分がしているという事実を通して、自己理解を果たすと考える。読む行為は、これまでの自己を放棄して、新たな自己を理解する、力動的な自己変容と言えるのだ。

 テクスト世界の問題に関しては、リクールは「説明」(自然科学の認識論的特性)と「理解」(精神科学の認識論的特性)の弁証法をはかる(p.158.)。ここでリクールが参照するのは、分析哲学者アンスコムの『意図』である。
 

自然の出来事を記述するには原因、結果、法則、事実説明などの概念を含んだ言語ゲームに属する。それに対し人間の行動は計画、意図、動機、理由、動作主などを含む言語ゲームに属する。(...)。人間の行動は因果性と動機づけ、説明と理解の二つの体制に同時に属している。動機は行動の理由であるとともに、行動を起こす力でもある。(p.158.)

 こうしてリクールは行動理論へとテクスト理論を関連づける。

物語的自己同一性
 物語的自己同一性の概念は『時間と物語III』の結論の部分で言及されている。自分が誰であるかは物語ることによって確認される、主体は人生の書き手であると同時にその物語の読み手である、その物語り、それを読む行為は人生の途上で何度も再構成される、といったところがその骨子であろう(p.179.を参照)。

 リクールは「自己」の問題と「同一性」の問題を考えるために、「同一性」(mêmeté)としての自己同一性と、「自己性」(ipséité)としての自己同一性を区別する。この自己を説明するために、リクールは「性格」と「約束」に言及する。性格とは人の安定性を保証する。約束もそれを守ることにおいて自己の維持に関係する。だが、重要なのは、性格はその人の同一性を保証するが、約束はときに「性格の同一性に反してでも約束を守る」(p.182.)。

 たとえ同一性が保たれたとしてもそれは自己の理解にはつながらないのだ。同一性には読みの可能性、解釈の余地は残されていない。では約束はどうなのか。性格の同一性に反してでも約束を守ることは、自己の確証を揺るがすことにならないのか。おそらく自己はそんなときに特に自分に驚くのではないか。予想に反して守ってしまったとき、そこに自分では理解できない自己が姿を現し、新たに理解のし直しをせまってくる。そして約束を守る時、そこでは他者への信頼に応えるという他者との関係における自己が姿を表す。

 この問題は、第三部で言及されるハイデガーの良心の問題によってより明確になるだろう。良心の呼び声は、自分の中に響くが、それは自分が自発的に生んだものではない。むしろその呼び声は、<それ>(Es)が呼ぶのだとハイデガーは言う。自我が呼ぶのではないどころか、その良心の声は、時に「期待に反して、否、意志に反して呼ぶのである」。ここでハイデガーは、この良心の声を聞いたときに生まれる「責めあり」という「有責性」を道徳的に解することを厳しく斥ける(p.213.)。それは存在論的に解さなくてはならないという。すなわち、ここでの自我は、「そうすべき」という義務の声に従っている自己ではなく、声の到来に驚きながら、義務でもなく、有責性にもとでとっさに行為してしまう自己を発見するのである。ここには自己評価と他者への心づかいが同時に存在している。こうして「自己の人生物語は他者の人生物語と絡み合う」のである(p.225.)

 主人公の悦子は、戦後間もない長崎で、ある男性と結婚し、娘をもうける。その後の経緯は語られていないが、イギリス人男性と知り合い、ともにイギリスに渡り、その地で半生を過ごす。物語は、イギリスに連れて行った娘景子が一人で暮らしていたマンチェスターで自殺をし、それからしばらく経った時点から始まる。

 娘の自殺を契機に、悦子が長崎で出会った佐知子という女とのつきあいを中心に、自分の過去を書き記すという体裁をとっている。そして時折物語は、現在、すなわち母親を心配した娘ニキがロンドンから訪ねてきて家で過ごす今へと戻ってくる。

 当時、悦子は二郎という、戦争の混乱時にお世話になった緒方家の息子と結婚し、妊娠3,4ヶ月であった。佐知子は一人娘の万里子と突然近所にやってきて、川岸の家に住んでいた。

 この頃の悦子は、「戦争の悲劇や悪夢を経験した人たち」が、「夫や子供のことに追われ」日常を慌ただしく過ごしている姿に違和感を抱いている(p.13.)。おそらく彼女自身は、作品中では言明されないが、長崎の原爆で家族を失い、現在の夫の親によくしてもらったのであろう。そしてその家の息子と結婚し、もう時期子どもが生まれる。

 普通に考えれば、戦争の悲惨さから立ち直り、幸福を手に入れようと新しい生活を始めていると言えるだろう。しかし、彼女が周囲に抱く違和感は、戦争の喪の状態を実はひきづったままで、決して戦争中の体験から立ち直ったわけではないことを示していよう。

 その状態を考えれば、小説の中で義父が語る、悦子の家族を亡くしてからの二つのエピソード ー 緒方家に来るようになって、真夜中にヴァイオリンを弾いて家中を起こしたこと(p.79.)、結婚するにあたって家の門のところにつつじを植えてくれと、しかも命令口調で言ったこと(p.192.) ー の常軌を逸したふるまいと、そのことを数年しか経っていないのに本人がまったく記憶していないことの背景がわかってくる。

 作品は、上に述べたように佐知子との会話の回想が大半を占めるのだが、悦子と佐知子の間には共通点と相違点がある。佐知子は万里子を連れて、アメリカ人と再婚し、アメリカへ渡ろうとしている。悦子はその後生まれた景子を連れて、イギリス人と再婚してイギリスへ渡る。佐知子は伯父のところに同居していたことがあり、悦子はのちの義父となる家に身を寄せていた。それ以外にも、たとえばお茶を始終飲むことなど細かいディテールが似せて書かれているのだ。

 だから私たちは作品を読みながら、悦子が佐知子との経緯を語るのは、悦子ものちに佐知子と似た境遇を過ごしたからだろうと思いがちになる。だが、万里子の猫や蜘蛛への振る舞いに対する悦子の言動、特に悦子の万里子に対する強い口調など、ひとつひとつは会話の流れに沿っているように見えて、実は、二人の関係が他人以上に踏み込んだ関係であることにじょじょに気づいていくのだ。

 その違和感は、第10章で、悦子が万里子にアメリカ行きを強い口調で諭すとき、そしてそれに続いて、万里子が、悦子に「なぜ、そんなものをもっているの?」と問いただすセリフが、第6章の「それなあに?」のセリフと重なるところまで読むと、実は佐知子とは悦子自身が作り上げた虚像であり、万里子は自分の娘景子に他ならないことを強く喚起させられるのだ。

 おそらく悦子は、いやがる景子を無理やりイギリスに連れていったに違いない。それまでも悦子は景子に虐待まがいのことをしていたに違いない。そして万里子を探しに行って彼女を見つけた時に持っていた縄は景子が自殺に使った縄と結びついていく。佐知子がとても英語を流暢に話している場面は、実は悦子がイギリスで英語ができなかったコンプレックスの裏返しであろう。それ以外にも悦子が見せる猫への殺意は、彼女が生と死の正常な意識を失っていることを想像させる。

 こうして、過去語りが実は虚実が織り合わされた自分自身の物語であると気づくとき、この語りは、戦争によって全てを失い、戦後子どもへの愛憎を抱きながらも、二人が生きていくためにイギリス行きを決意した女性が、娘の自殺後、自分の人生を創作的に意味付けるための唯一の表現だったこともわかってくるのである。そしてその物語は自己を正当化するような単純なものではなく、上記に述べたような自己像の反映としての虚像を作らないでは語れない性質のものだったのである。

 内面に狂気をはらみながらもそれでも生きなければならなかった戦後の女性、最終的に娘の自殺という結末を迎えながらも、なおその生の意味があるとしたならば、それは現実と幻想の折り重なった自己の作られた歴史に支えられるしかなかったのだろう。そして万里子がみた幻影は、実は憎しみを内面にたたえた母親の現実の姿だったのである。

柴崎友香『春の庭』(2014)

 3人称で書かれた小説を特徴づける要素のひとつは書き手と登場人物の意識の関係である。書き手がどこまで登場人物の意識の中まで入り込んで、それを叙述するかという問いである。それに続いてもうひとつの問いが生まれる。意識と振る舞いの関係、すなわち登場人物はどれほど意識して振舞っているのかという問いである。

 実はこの二つの問いは小説という仮構世界だけで投げかけられいるわけではない。この現実世界においてもこれらの問いを私たちは多かれ少なかれ自分に投げかけていないだろうか。自分の心に浮かんでくることを私たちはある程度意識することができるし、そしてその意識にしたがって行為をすることもできる。

 だがこの意識の意識化と意識に基づいた行為は、日常において徹底されることはない。それどころか私たちはたえず流れてくる意識をある程度は意識しても、それはすぐに流れていく。またたえず流れていくからこそ、私たちは自明の意識に基づいて行為するよりも、まさに「流れにまかせて」動くこともある。

 小説の方法論においてもこの二つの態度をとることができる。ひとつは心理を解析し、行為を説明づける方向性である。もうひとつは意識の流れそのものを描写する方向性である。

 『春の庭』は、一見前者に属するようでいて、後者の描写の可能性を限りなく繰り広げた作品である。そしてそれをあくまで日常の画定された生活の中で描ききるという野心的な試みでもある。それはすなわち、私たちが普段「意識しない」意識の襞を言語表現によって初めて意識に立ち昇らせるという営みである。

 「意識しない」にはさまざまなヴァリエーションがある。ひとつはクリアな像を描くところまで意識化を徹底しないこと。主人公の太郎の質(たち)は次のように描写される。
  

太郎はなにをするにも「面倒」という気持ちが先に立つ質だった。好奇心は持っているのだが、その先にある幸運やおもしろみのあるできごとを無理して得るよりも、できるだけ「面倒」の少ない生活がよいと考えていた。(pp.27-28.)

 つまり好奇心という気持ちは湧いてきてもそれを突き詰めることはしない。意識にそって行為する前に、その興味の対象から離れていってしまう。

 おぼろげな意識の流れは、たとえば朝早く目が覚めてしまうときに現れる。カラスー生ゴミーカラスの羽を黒く染めてしまい逃げ出すフクロウー保育園の教室と意識は流れていく(pp.32-33.)。

 そしてこの作品でもう一つ、意識の流れに必然的につきまとうのが想起と忘却の機能である。太郎は10年前に父親を亡くしている。10年という月日の中で、父親の死んだことさえ忘れることがある。だが忘れたことさえ忘れるところまではいかず、太郎は想起の中に時折呼びもどされる。

 この小説は太郎という自意識だけを問題にした作品ではない。登場人物同士の意識の交錯とずれがたえず描かれている。そして幾分唐突に、だが大抵は善意をもって、お互いが他者の領域に入り込んでくる。アパートの住人たち、そして近所の住人という設定であるが、そのなかで人々が自分のテリトリーに他者を招きいれるのである。そこに「家」というモチーフが生まれる。

 おすそ分けだけならばとりたてて珍しくはないが、作中の人物は他人の部屋に上がり込み、ときには庭にまで侵入をする。さらに小説の最後では太郎は空き家になった「水色の家」に上り込む。だが、登場人物たちは、一見交流をしているように見えて、実はつかの間の「交錯」をしているにすぎない。やがて壊されるアパートの住人たちは、他者との交流が本格的に生まれる手前で、その場を立ち去って行く。

 太郎と並んで主人公とも言える、同じアパートの住人「西」は、水色の家に昔から執着心を抱き、ついにはその隣のアパートに引っ越し、挙句の果てに水色の家の新たな住人と交流を持って、家に上がるようになる。だがそれもつかの間、西は母のいる千葉へと引っ越し、住人も転勤で家を離れる。

 この小説の人物たちは、どこかで少しだけ過剰で、どこかで少しだけ何かを欠落している。だから人間関係においても、少しだけ唐突にこちらの領域に踏み込んでは、かすかに触れただけで、あっけなく去っていってしまう。

 だがそれは私たち人間の意識の明晰さへの弱さを物語っていないだろうか。意識をさらに突き詰めていき、物事へのこだわりを鋭敏に持ち続ければ、おそらく私たちはその意識の強度に実は耐えられず、日常から脱落してしまう。登場人物たちにはさまざまな偶然の共通点がある。しかしそれを言明化はしない。
 

太郎は、自分の名前があの水色の家に住んでいた男と同じことも、西と同じような市営住宅の団地で育ったことも言わなかった。

 もしここで共通の体験を持ち出せば、そこに共感が生まれていくはずだろう。人間関係はより親密になっていくだろう。だが、作品中にさまざまな共通の符号がちりばめられていても、決してその符号は共有されず、意識からは遠ざかってゆく。

 私たちが正気でいられるのは、実は共感の一歩手前で意識し続けることをやめてしまうからだ。もしそのまま自分の執着心をさらけ出したり、他者との一体感に溺れたりすれば、それは結局意識を白日の狂気にさらすことになる。日常とはこの意識の働きを眠らせておくこと、意識を徹底化しない訓練によって成り立つ。生き続けることと意識の明晰さとは実は反比例しているのかもしれない。その矛盾をあくまで日常に徹して書いたのがこの作品ではないだろうか。

 アディーチェ「半分のぼった黄色い太陽」は、ナイジェリアで独立を目指したイボ人によるビアフラ戦争の始まりから終結までを主人公の「私」とその家族を基軸に描いた短編である(同名の長編もある)。ナイジェリアには、大まかに言うならイスラム教を信仰するハウサ人とキリスト教を信仰するイボ人がいる。ただ、このように書くと、あたかも民族紛争による戦闘と虐殺が起こったような印象を与えてしまうが、ここで思い出すのはツヴェタン・トドロフの指摘である。トドロフは宗教を原因とする戦争はありえず、原因となるのは資源の奪い合いであると言明している。ビアフラ戦争にもその原因に石油資源があったことは無視できない。

 この短編を読んでまず気づくのは、民族や国籍が私たちに本質的に内在するものではないという事実だ。作品冒頭で独立が宣言され、人々は「わたしたちはもうナイジェリア人ではなく、ビアフラ人になったのだ」と実感する。そして小説の最後は「わたしたちはまた、ナイジェリア人になっていた」の一文で締めくくられる。国籍とは本来的に付け替え可能なものである。しかしこのレッテルに過ぎない呼称が、いとも簡単に人を虐殺する根拠にもなってしまう。

 ナショナリズムは人々を高揚させ、一体感を醸し出す。国家の創出は感情の錬金術を演出する。主人公の恋人ニャムディは「俺たちの苦しみを大いなる国に変えるんだ。苦しみをアフリカの誇りに変えるんだよ」と強く訴える。これまでの虐殺による悲しみ、喪の感情は、栄光の喜びへと簡単に転化する。個人の消えぬ負の感情は民族の誇りと優越性のなかで、タブーとされ、かき消されてゆく。

 だが独立分離を守ろうとする民族軍は、圧倒的な軍事力に背後から支えられた連邦軍の前で劣勢に立たされてゆく。それでもメディアは民族の勇敢さしか伝えない。封鎖によって物資が不足すれば、「ココナッツオイルからブレーキ液を作る」など、普通に考えれば無理なことも、みなでいそいそと取り組むことになる。

 小説では、歴史的叙述はほとんどなく、どのような政治力がこの戦争に働いていたのかは語られない。ただ当事者として、主人公と家族が「難民化」してゆく過程が具体的に描写される。びっしりとハエがたかる黒い斑点が浮いた市場のバナナ、防空壕の中で子供たちがみつめるコオロギやミミズ、そうしたディテールから戦争の本質が浮かび上がってくるのが文学の特性であろう。

 もはや敗北がせまっていることを感じながらも、都合のよい情報だけを取捨選択し、現実を見つめない。「人はどんなものでもひどく自分本位に使うように」なる。目の前の死体は、敵の死体であり、その兵士がどのような人間であったのか、どんな家族だったのか、主人公以外はそのようなことを思ってもみはしない。現実を見つめないとは、まさに個別具体的な目の前の存在を見つめないということだ。見えているようで見ることを拒否する態度だ。

 さらに戦局は悪化していく。ビアフラでは子供たちを兵士として徴用するようになる。主人公の弟オビが死ぬ。そして終戦。「戦争に負けた、とパパが言った。そんなことはいうまでもなかった。とうにわかっていた」。私たちは知らないのではない。実はうすうす感じているのだ。いや実は心の中ではわかっているのだ。無知だからではない。わかっていることを意識にのぼらせない努力をした結果が戦争を招来するのだ。

『チェルノブイリの祈り』は、事故が起きてから10年後に、300人余りにインタビューをし、そこで聞かれた声を集めた作品である。事故の全体像の復元する意図ではなく、人々が何を思ったのか、その「気持ちを再現」(p.30.)したものである。

 チェルノブイリが記号化して世界の情報として流され、未曾有の原発事故として人類史に刻まれることになる。この歴史は世界の誰もが知りうる歴史となる。だが、この事柄の背後には、事故によって人生がまるきり変わってしまった多くの人々がいる。事故後、かれらはみな「チェルノブイリ人」と呼ばれてしまう。それは彼らの属性のひとつに過ぎないにも関わらず。

 そのレッテルに隠されてしまったその個人の生活は私たちに届くことがない。事故にあった人々がそれまでどういう生活をしていて、事故によって何が変わってしまったのか、それは歴史の語りにはのぼってこない声だ。

 アレクシェービッチが行なったのは、インタビューを受けなければ、声に出すことさえしなかったであろう人々の声を集めることであった。

 それらの声には同質性と多様性が同居する。同質なのは、それぞれが表現の困難さをかかえていることである。これまでの体験では語ることのできない出来事が起きたとき、人々は何にも例えることができない。それをアレクシェービッチは「感覚の新しい歴史がはじまった」と言う。

 多様性とは、それぞれの職業、世代、性格などの違いである。私たちは、いつだれがどこでという状況性をぬきにして語ることはできない。この本に収められているのはまさにそうした個別の状況であり、それゆえに語り口も視点も多様になる。

ではたとえばどのような声が聞こえるのだろうか。

ぼくは証言したいんです。ぼくの娘が死んだのは、チェルノブイリが原因なんだと。ところが、ぼくらに望まれているのは、このことを忘れることなんです。(p.49. )

 覚えている限りは記憶の中に娘は生きている。喪は終わることなく続く。だが、まわりは忘却という楔を打ち込み、なかったことへと責任の抹消へと動いてゆく。

何人かがいっしょだと、人が変わるんです。三人、あるいは二人ででもいたら、私は撃ち殺されたかもしれません。一対一なら、まだことばが通じたのです。(p.74.)

 タジキスタンからチェルノブイリに逃げてきて、原発事故にあった母親の話である。ここにはレヴィナスを彷彿とさせる「顔を眺める」という人間と人間の根源的な関係が語られている。

老婆が教会でお祈りをしている。「私たちのすべての罪を許したまえ」。だが、学者にも技師にも軍人にもだれひとりとして自分の罪を認めようとしません。「私には悔い改めることなどなにもない。なぜ私が悔い改めなくてはならないのかね?」。そういうことなんです。(p.79.)

 大惨事は意味付けを私たちから奪う。しかし意味を求めないでは私たちの存在は「無駄なもの」となってしまう。そのときに用いられるのが「罪」である。この意味づけによって死が救われる。しかしそれは同時に責任の不在を招く。

ぼくらはこの惨禍からいかにして意味のあるものを引きだせばいいのか、わからないでいる。能力がないんです。なぜなら、チェルノブイリはぼくらの人間の経験や、人間の時間で推しはかることができないからです。(p.100.)

 原子力の事故が、人間的な尺度をはるかに凌駕するがゆえに、どのような意味づけでも無に帰してしまう。

土地の表面を削り、地層ごところがし落とした。いいましたよね、英雄的な話はひとつもないと。(p.103.)

 危急の事態が目の前に展開するとき、人間の行為は英雄化しうる。だが、英雄化や美談は事態を制御し、コントロールできていると錯覚させる仕掛けにすぎない。

ぼくはいま、もっとも勇気をもって書かれた記事を読むときでも信じていない。いつも無意識のうちに考えている。「これもうそかもしれない。作りごとかもしれない」。悲劇を思い起こすときには陳腐な表現、はやりの決まり文句で語られ、ホラーとして語られるようになってしまったんです。(p.154.)

 私たちの体験・経験によって推しはかることのできない事態に見舞われたとき、私たちはことばを失う。しかし沈黙するわけではない。表現することが困難なときでさえ、私たちは実はことばを発する。ただそれは決まり文句、もっとも記号化された、概念の上滑りの言葉、現実と結び合うことのない言葉である。

チェルノブイリの被災者はクラスに彼ひとりでした。同級生はみな息子をこわがり、<ほたる>とあだ名をつけたのです。私は愕然としました。こんなにも早く息子の子ども時代が終わってしまうなんて。(p.169.)

 放射能という目に見えないものがもたらすパニック。そして教室という閉ざされた空間で、レッテルを貼ることでよそ者を徹底的に排除する構図が普遍的に現れる。しかも社会の縮図としての子どもたちの教室。

それ以前は、必要ないと思っていたことを、こんどは人々は考えはじめたのです。自分たちがなにを食べるか、子どもになにを食べさせるか、健康に危険なものはなにで、安全なものはなにか?他の場所に引っ越すべきか、否か?ひとりひとりが決めなくてはなりませんでした。ところが、私たちが慣れていたのはどんな生活?村単位、共同体単位、工場単位、集団農場単位の生活です。私たちはソ連的、集団的な人間だったのです。(p.185.)

 集団とはイデオロギーを吹き込まれること。自分の言葉、自分の考えだと思っていたものは、それは国家から吹き込まれたイデオロギーに過ぎなかった。惨事は、私たちに自らの頭で考え、決めることを強いる。だがそれは人間が自らの命の持ち主になるための契機にもなりうる。

僕らにとって規律とは弾圧の道具です。(p.193.)

 規律があることは責任の所在をあいまいにする。そして従う人間を育てあげてゆく。従うとはまさに個の存在を抹消して、群にすることである。

ここを離れてもよかったのですが、夫といろいろ考えたすえに止めました。こわかったんです。ここでは私たちみんながチェルノブイリの被災者です。庭や畑のりんごやキュウリをごちそうされてもお互いに驚いたりしません。もらって食べます。あとですてようと、きまり悪そうにバッグやポケットにいれたりしない。私たちは記憶をともにし、運命をともにしています。ところが、よそではどこでも私たちはのけ者にされる。<チェルノブイリの人々><チェルノブイリの子どもたち><チェルノブイリの移住者>、もうすっかりおなじみのことばです。けれども、あなた方は私たちのことをなにひとつご存知ない。私たちを恐れていらっしゃる。もし私たちがここからでちゃいけないといわれ、警察の監視所が置かれたりしたら、きっと、あなたがたの多くはほっとなさることでしょうね(話をやめる)。(p.217.)

 惨事があると、人々は表すことのできぬ不安と恐怖に冒される。そのときに私たちが自らを救うためにすることは、安易な言葉遣い、概念だけが一人歩きした(実際には空虚な概念に過ぎない)レッテルをその事態に貼り付けることである。レッテルを貼り付けられた人間は、それ以外の存在の内実を無視され、それ以外の生き方を否定されるのだ。

町は地平線上に蜃気楼のように浮かびあがる。水色や青色に染まって、ヨーロッパ風のコテッジは農家の何倍も快適です。これは既成の未来です。しかし、パラシュートで未来におりることはできない......。住民は怠惰な人間に変えられてしまった。(p.256.)

 復興の名のもとに行われたことは実は、別の場所へ収容することでしかなかった。その生活空間には実は生活がない。日常を生きているようでいて、実はそれは課せられた日常でしかない。

 これらのことばは決して全体を描くことはできない。ことばはひとつの断片に過ぎず、断片をすべて集めつくすことなど不可能だ。私たちがすべきことはここで語られたこととともに、語られえなかったこと、いまだ語られなかった他の断片を自ら探していくことだ。

 語られ書かれた世界は、現実そのものではない。現実世界から抽出され、程度の差はあれ歪められた世界である。いかに聞き手に徹しようとも、選択・編集という作者の作為があることは自明である。ここを出発点として、語られたことと語られなかったこと、選ばれたことと選ばれなかったことをみきわめる必要がある。

 それは決して不可能なことではない。なぜならば、これら個別の言葉の中には、私たちの体験したことと、かすかではあっても共有されうるものがあるからだ。もちろん安易な共感などはできない。だが、私たちが社会に生き、ときには他者に無関心でありえたり、同調圧力を圧力とも感じなかったり、自分のことばが吹き込まれたことばにすぎないことに無自覚でありえたりするとき、私たちははたとこの無名の人々のことばの中に、自分たちが言おうとして、見出しえなかった言葉を見出すのだ。そのときことばは普遍性をたたえた文学の言葉となる。

 本書には、大震災の際に、たまたま福島県新地町で電車に乗っていて被災した、作家が書いた1つの「記録文」と、その後福島を二度に渡って訪れた際の2つの「紀行文」が収められている(「終わりに」より)。「記録文」と「紀行文」である以上、これら三作品は小説家が書いたノンフィクションに分類されるかもしれない。確かに第一章「川と星」は、三月十一日、十二日と日記のように日付が記され、地震発生から津波、避難、そして混乱の中、なんとか埼玉の自宅に戻ってくるまでの数日間が克明に記録されている。

 それでもこの作品は、もちろん「小説」とは呼べないが、文学作品としての本質が備わっている。そもそもフィクションとノンフィクションの明確な区分は難しい。「小説」と「記録文」の違いは、虚構か現実かではなく、ある現実に、書くという行為を通して、どれだけの作品性を与えてゆくか、その度合いの問題である。作品性を構築するファクターはさまざまあるが、そのひとつが始まりから終わりへの統一性である。どのように始まり、どのように終わるか、その始まりから終わりにむかって一つの軸を作ることが作品の構造を支える。

 特に作品がどのように終わるか、すなわち結末の描き方はどのようか、作品が強い構造性を備えるかどうかは、その終わりの書き方が強い影響を及ぼす。およそ小説と呼ばれるものに、どのような形であれ構造があるとするならば、それはたとえあっけないものであろうと、余韻を持たせるものであろうと「終わり」が描かれ、それが作品に統一性を与えている。

 その意味で「小説」に対立するのは、「日記」だろう。日記には日付が記され、日々書いてゆくものである以上、「結末」はない。この紀行文も、前述したように、日付がうたれ、その日々が「記録」されている。その統一性がないこと、終わりがないことで「日記」は「小説」という構造性が高いジャンルには属さないことになる。その意味で、次の段落で終わる第一章の作品は、まさに記録文と言える。

 夜には計画停電で三時間ほど電力の供給が止まった。蠟燭に灯を点し、ベランダから暗闇に沈んだ町を見渡す。川の向こうは区分が変わるのか、いつも通りの繁華街のネオンが輝いていた。

 このまま続くのかと次のページをめくっても、次はない。それは、たまたまここで終わっているだけで書き続けようと思えば、翌日の日付が書き足されていっても何もおかしくはない。この作品には、ある構造、統一性を持たせるために終わりがあるのではない。何も終わりを予感させないのだ。

 だが同時に、ここまで読んできた私たちは、この唐突な作品上の終わりに、まさに日常の終わりのなさを強く意識する。もはや震災や、原発事故が起きる前へと戻ることはできない。すべてが回復することなどありえない。埼玉の自宅に戻ってきたことは終わりではない。私たちは次の日も、また次の日も、地震後、原発事故後が際限なく続いてゆく事実を突きつけられるのである。記録文でありながら、このような日常の終わりのなさというひとつの重い問いを問いかけていることは、実は、ジャンルとしては小説には属さずとも、文学の条件を備えていると言えるのではないか。

 この第一章に比較すれば、2つの「紀行文」は、「終わり」というにふさわしい結末となっている。

 出勤するミツコさんのお車を見送る。次は友人の故郷の辛い部分ではなく、明るく輝かしい、自慢の部分を見に来よう。そんな風に決めて、私は東京駅へ向う高速バスに乗った。行きと同じくたった三時間で、バスはまったく異なる意識を持つ二つの町を繋いだ。その距離の短さがかえって少し、かなしかった。

 この終わりは、福島への訪問の終わりであり、ミツコさんとのしばしの別れであり、作者の決意の表明である。それと同時に、東京と福島の物理的近さと精神的遠さのコントラストが作者の内面を通して叙情をもって語られる。

 第三章の終わりの文章。

 「本当に、近いですね」
 新幹線を降りるときにTさんが言った。私はそれに頷きながら、いわき市から戻ってきたときと同じく、それが喜ばしいことなのか、悲しいことなのか、いまだに分からなかった。

 ここでも、作品は、東京への帰還で終わり、第二章と同じく、近さと遠さのコントラストが、私たちの福島への距離感を考えさせずにはおかない。作者自身、それに対する答えを出せないでいる。しかしこのような問いかけも、文学の質を保つ上で、欠くことのできない要素である。

 確かにここに収められたのは「記録文」と「紀行文」である。それらは「小説」ほどの構造性は備えていない。だが、私たちと福島の距離の問いを投げかける方法において、強い文学性をたたえている。

 さらに、この作品が優れているのは、そうしたジャンルを無効にする文学性の高さにだけあるのではない。重要なのは作品に登場する彩瀬まるという小説家本人が、彼女が会った人々との関係を通して、自分の存在をどこに置けばよいのか、たえず誠実に問いかける、その姿勢にある。

 大きな惨事が起きたとき、人はその惨事に対して、4つの関係を取る。トラウマについて優れた論考を出している宮地尚子を参考にまとめれば、その惨事を直接体験した当時者、その惨事とは無縁の部外者、そして当事者ではないものの、近くに寄り添う共在者、そしてさらに、その体験を部外者へ届けようとする介在者である。

 彩瀬まる本人の作品上の位置は、惨事に間近で接したという意味で当事者であるが、たまたま旅をしていただけで、地震と津波の被害を直接受けた土地の者ではないという意味では部外者である。しかしその当事者でありながら、部外者でもあるというはざまに位置したことが、彼女を共在者に、さらにはものを書くことで部外者に出来事を伝えようとする介在者にもさせている。

 体験をした当事者だからと言って、誰もがその体験を伝えられるわけではないし、当事者の近くいたからといって、その当事者への理解が深いわけでもない。ここで大切なのは、この作者のパーソナリティがたたえているのであろう、他者への共感の感性の豊かさである。それが可能にしたのは、まずは当事者のもっとも近くに隣あわせた作家のその時の状況であり、その状況を部外者に伝えようとする、作家の介在者としての資質である。こうした複数の立場を自らの内に共存させることによって、作家は被災者に最も近い位置に立つことになる。

 もちろん「震災ユートピア」がもたらす人々の助け合いも当然あるだろう。しかし善意を受け取る側の人間が、その善意の元となる人間の心持ちを推し量り、素直にその人の気持ちを汲み取らなければ、善意は善意として受け取られることはないだろう。また自分が同じ体験をしたとはいえ、その土地に暮らす人間ではない以上、自分は被災者ではないことになり、それが自責の念となる。しかしその自責の念は自らを閉ざすのではなく、再び、お世話になった人に会いにゆくという、人と人の関係の構築の再生へと向う。

 避難をしなくてはならなくなった家族で、老人は「足手まとい」になることを恐れて家に残りたいと思い、子どもたちは、老人を家に残すようなことをすれば「心がもたない」と言う。彩瀬は「一番負荷がかかっているのは、ヨシコ(その家族のお年寄り:筆者注)さんの心だった」と書くが、それは家族、老人、双方の心の苦しみに共に寄り添った上での結果である。彩瀬を泊まらせてくれたショウコさんのことばから、彼女が自分を「世話すべき対象として見ていてくれた」ことを感じ取る。他者がどんな気持ちでそのことばを言っているのか、その心を推し量ること、他者が自分にどういう気持ちで接してくれているか、自分の中に他者からの自分の像をしっかり意識すること、それができるのが共在者であり、介在者となりうるこの作家の資質である。

 もうひとつの資質は、「もし」の世界を、他者に寄り添いながら、自分に当てはめてみる想像力である(p.67.)。彼女の実家は千葉であるが、自分の祖父母、亡くなった母が眠っている土地、公務員である父、そしてもし自分に幼い子どもがいたら、と作者は、自分がもしその状況に置かれたら、と想像してゆく。当然ながら、自分は福島の人間ではない、子どもはいない。だが「もし自分が同じ被災をしたならば」と、考え続けることこそ、自らを共在者として位置づけることになるのだ。

 特に、ボランティアで、津波の被害に遭った家屋の掃除に行き、家の中のものを「撤去」してゆく場面では、家の中に散らばる様々な物やメモから、そこに住んでいた家主の生活、人生そして性格までにも思いを馳せてゆく。メモから伝わる書き手の心づかい、もしかしたら親族の誰かが取りに戻ってきてくれないだろうかという切なる思い、そして「解体撤去」に承諾人の名前が記されていることから、家人が生き延びたことを知り、少しでも心安らかに家族と過ごしてほしいという祈り、こうした作者の他者との交感が節度を持って記される。

 他にも、相手の言葉から、自分への気遣いを感じたり、静かな口ぶりからも「様々な苛立ちと諦念を」読み取ったり、と様々な交感がつづられる。このように自己と他者を往還できるのは、自分の身の置き方を、前述したように状況と周りの人々の関係において、変えてゆくことができるし、また変えざるをえないからである。それをよく示すのは、作者の作品を最も読み込んでいる編集者Tが、眼前の風景を目にしてつぶやいたことばに対する作者の不機嫌さである。「震災直後はこんなものではなく、もっとひどかった、もっと辛い状態だった」と、心の中で、相手を責める気持ちと、難癖をつけているに過ぎないと反省する気持ちが入り混じり、混乱をする。それは、本人が被災の当事者であり、また現地の人とともにいた共在者であると同時に、震災から数ヶ月が過ぎ、都会に暮らしている部外者でもある。その当事性の揺らぎが、この作者の心の混乱の原因であろう。

 作品の中には、原発事故をめぐっての情報の混乱や、地元の人々の間に生まれる亀裂の深刻さなど、今だ収束からはほど遠い、原発と現在の日本社会に対する記録も見られる。だがそれでもこの本は「記録」というよりも、ひとつの「文学作品」として、今後も典拠すべき「震災文学」のひとつであると思う。なぜなら、小説の構造性は備えていなくとも、他者の存在に自らを住み込ませてゆくような、作者の他者との交感によって、文学が果たすべき「もし...であるなら」という数々の問いを私たちに投げかけるからだ。

 私たちの日常とは決して自明なものではなく、他者の現実が私自身の現実になりえてもまったくおかしくはないのが実は日常なのだ。文学がもたらすのは、他者の中に自分を見出すとともに、自己の存在をたえず変化の中で捉えるという、他者と自己の不断の生成なのである。

 2015年に出版された本のなかでもっとも感銘を受けたのは直野章子『原爆体験と戦後日本 記憶の形成と継承』(岩波書店)であった。French Bloom Netという「フランスの情報化を目指す」共同ブログのベスト本企画で、本書について次のように紹介した(当該記事「FRENCH BLOOM NET 年末企画(3) 2015年のベスト本」へのリンク)。

 被爆者とは誰か。彼らの言葉に寄り添い、学者として資料=体験談を読み込むことで、法的、社会的言説によって翻弄された原爆体験者たちの人生から、何を受け継ぐべきかを考察した論考。原爆体験記を丹念に読み込みながら、著者がすくい出したのは、歴史言説からは落ちこぼれてしまう一人一人の言葉、すなわち「お国のため」や「平和の希求」といった大義へと体験の記憶を社会化、歴史化することを拒む言葉であった。それは本当にあったのは惨苦の、悲しみの言葉であり、喪の永続である。

 被爆者とは、原爆被害者と同義ではない。被爆者は、時の言説によって、作り上げられてきたものである。被爆者はある一定の歴史的プロセス、言説の場のなかでのみその都度「画定」されるのであり、絶対的な被爆者がいるのではない。この考え方は、これから戦争を、原爆を「直接体験した」人々がいなくなる現在において、きわめて重要な考え方である。

 今回の論考は、現代思想8月号『<広島>の思想』に寄稿された、注をふくめて12ページの小論である。タイトルが示すようにここでは2つのことが問題とされている。今触れた被爆者とは誰かという問題。もう一つは謝罪が一切含まれなかったオバマの演説である。まずは後者から触れたい。

 「謝罪不要」の論調は、アメリカ国内ではもちろんであるが、日本国内においてもオバマ来訪前からすでに形成されていた。その上でのオバマ演説である。100名足らずのきわめて限られた聴衆を前にして、語ったその内容は、『「人類」という普遍的な主体性」、「『自由と民主主義』という普遍的理念」が強調されただけに終わった。このような「核の普遍主義」の強調が、責任の所在を問わない、謝罪を問わない姿勢と裏表になっているわけだが、それは自らの戦後責任を逃れたい日本にも好都合であった。それゆえの事前の謝罪不要論の高まりであった。

 また、核兵器廃絶という意思表示は、それだけで平和への希求、戦争防止に結びつきやすく、核に依りはしないが、実際に他の場所で、他の方法で行なわれている、暴力や殺戮からは関心が薄れてしまう。

 そして、前者、「被爆者という主体性」の問題である。これは上述したように、被爆者の主体は「原爆体験を形成する言説や制度によって」歴史的に変動してきたという、ひとつの過程において理解されるべきである。

 この主体の変動性を考えないかぎり、私たちは体験の絶対性というもはや触れることも、解釈することも許さないひとつの聖域を作ってしまうことになる。体験者と非体験者に境界線を引くことによって、私たちは、当事者ではなく、「当事者の声を聞くもの」として、受動的な立場に追いやられてしまう。

 だが、この論考で指摘されているように、被爆者の主体が、歴史形成的、言説形成的なものであるならば、その本質は固定化されたものではなく、今現在の社会において、たえず関係を結び直していける動的なものである。私たちが、「ふたたび被爆者をつくらない」ために行為者として立ち上がるとき、意志をともにする「体験者=被爆者」と、その人々に同伴する私たちに絶対的な際はないはずである。体験の絶対性を神話化することなく、かつ私たち自身を主体化させるとき、社会にひとつの動きが生まれ、共同と共感の行為が始まるのではないだろうか。

石内都『写真関係』(2016)

 1947年生まれの写真家、石内都のエッセイ集である。石内都は、40年にわたって、街(横須賀)、傷跡(身体に刻まれた傷の痕跡)、遺品(ひろしま、母、フリーダ・カーロ)、花(薔薇)などを撮ってきた。それらのいずれにも被写体という呼び方はなじまない。なぜなら、それらは「写されるもの」ではなく、まず自立してそこに存在しているものであり、写真家は撮影という行為を通してそれらの存在と関係をつくっていくからだ。

 そして写真に写っているものは、眠っていた自らの存在の本質を白日の元に明らかにする。そのように事物が自らを語り出すのは、まさに関係が生まれることによって、写真家、事物それぞれの生命が躍動するからである。

 石内都はこの関係が生まれる瞬間を大切にしている。たとえば広島平和記念資料館に寄贈される遺品を前にして、石内は次のように事物を感受する。

(...)衣服や日用品の数々が、気が遠くなるほどに長い時間をかけて私の目の前に現れる。「こんにちは」とあいさつをして、自然光の中でいずまいを整え、静謐な空気をひと息吸うと、かすかに語り始める一瞬を私は感知する。
 あの日の時間を刻んだ品物は硬くくすんでいるけれど、つかの間の自由を私と共に過ごすうちに、やわらかで色彩豊かな本来の姿にもどっていく。(p.51.)

 こうして写真家と品物との交感が始まる。そして品物は持ち主の存在について語り始める。写真の持つ機能の一つは、そこに写っているものが、自らの存在を通して、不在のものを存在せしめることではないだろうか。特に石内都の写真を見ていると強くそんな気持ちにさせられる。
  
小さくたたまれていたブラウスの折りじわをていねいに伸ばし、ガラス窓から差し込む太陽の光の中におく。一瞬、水玉模様や花柄が反射して、着ていた彼女が浮かびあがる。いずまいを整えてシャッターを切る。(p.50.)

 その写真を見る私たちもそこには写っていない持ち主である女性を想像する。自然光で撮られた品物は、その品物が使われていた日常を強く喚起する。その遺品は資料として保存されているにも関わらず、写真に撮られることによって、生活の一部として提示され、その品物を使っていた生活者を喚起するのだ。

 それによって「ひろしま」の人々は、被爆者というレッテルから少しずつ自由になってゆく。被爆者である限り、それは私たちとの間に体験/非体験を大きな断絶を作る。しかし被爆者も、その生全体においてまずは私たちと同じ生活者だったのである。

 この時に、原爆の圧倒的な力によって原型をほとんどとどめない形に歪められた弁当箱も、激しく汚れてしまったドレスも、美しさを回復する。なぜならば、私たちは、「悲惨さ」というあらかじめ決められた意味機能から、それらの品物が解放される瞬間に立ち会うからだ。

 だがそれはひろしまの歴史的現実を忘れ、芸術の優美さに酔いしれているような態度ではまったくない。そうではなく、私たちはひろしまについて知っている。しかし、知っているとみなすことが、それ以上に理解したり、それ以上に主体的にひろしまに関わってゆく機会を実は奪っているのであり、写真は美しさを見せながらも、私たちにいかに私たちが「知っていないか」、深く反省させる契機になっているということである。

 それを石内都は歴史と私の関係において次のように述べる。

 広島での一九四五年八月六日午前八時十五分以後の惨状は、確かに写真を見れば記録されているが、見たような気になってもすぐに忘れてしまう。それは広島に対する現実感がまったくないからだ。想像力をかき立てるイメージがそれらの写真からは立ち上がってこなかった。自分の身に降るかかったことではないので痛みが感じられない。(pp.55-56.)

 ここで大切なのは「見たような気になって」いるという私たちの態度だ。私たちは知らないのではない。むしろ知っている。しかしそれは単に「〜のような気になっている」次元なのだ。私たちは分かった気になって、結局は素通りしているだけだ。だから実は現実を本当には見ていない。

 もちろん過去の現実を、今現在の私たちが見ることなどできはしない。では何が必要なのか。想像力である。想像力によって、災厄を少しでも私たちに降りかかることとして意識し、痛みを少しでも分有するのである。

 そのために石内都は、品物のディテールにこだわる。たとえば、衣服にできた鉤先を縫い合わせた布と糸のステッチ。そのディテールから、この衣服が大切に着られていたこと、大切に着ていた人がいたこと、それが私たちと同じ生活者であったこと、そうした想像へと私たちを誘って行くのである。だから石内都は、「死者の遺物」とは決して言わず、「いまだに行方不明の少女」(p.57.)が喜んできていた衣服だと言うのだ。

 これが可能になるのは、まずは何よりも石内都という写真家が、品物を前にして対話をていねいに行なっているからである。「誰でも簡単に写真を写せる」が「誰でもちゃんと写るわけではない」(p.15.)。石内都の写真にはまさに「空気や匂いや記憶がジワリと写し込まれている」(p.19.)。

 このように写された品物はもはや、その所有者のものだけではない。「私物が公的なものに変化する」(p.49.)瞬間に私たちは居合わせる。母親の遺品も同様に「いつの間にか私の母のものから誰のものでもない、誰かのものへと変化し自立していくのを実感する」のだ。優れた芸術作品はみなパーソナルな事象から出発して、私たちが今現在いる社会性や歴史性を、そしてその社会性や歴史性において、過去とどのように関係を構築すべきかを意識させる力を持つ。

 写真はもちろんこの世の中に存在しているものを写し出す。その意味では現実を写している。しかし私たちは本当に現実が見えているだろうか。私たちは現実が見えている気になっているだけではないか。写真はまさに見ている気になっている現実は現実ではなく、認識の新たな相貌のもとに現実を発見することを促す装置である。

 「写真は実生活の中でフッと一瞬立ち止まり、足を止めて外側を見つめ考える行為」(p.6.)。しかし私たちは普段の擬制の生活のなかで、どれだけ足を止めて、ひとつのものをじっくりと見つめているだろうか。ものを見ることで、そのものの本質を見えなくしている思い込みをどれだけ払いのけ、意識し考えることで、この世界の更新をはかっているだろうか。このような激しい反省をせまってくるのが石内都の作品である。

Philippe Dagen, Le Silence des peintres(2012)

第1章 États de guerre 戦争状態
 第一次世界大戦の勃発によって画家たちのコミュニティはどう変わっただろうか。大戦が始まる前までは、画家たちの世界はひとつのコスモポリタンな世界であった。国境を越えて、画家たちが交流し、同じ芸術運動が国を問わず浸透していった。例えば、キュビスムは、ミュンヘンでは青騎士、ミラノでは未来派、パリではオルフィスム、そしてロンドンでは、ヴォーティシズムと名前を変えたが、いずれも「美的革命の一般的な動き」(p.26.)の中で呼応しあっているのであり、作品はヨーロッパは巡回した。芸術家たちは、書簡で交流をし、土地を移動し、展覧会を各所で企画した。

 戦争の最初の影響は、このコスモポリタリズムに終止符を打ったことである(p.29.)。そして芸術は、一気に国粋主義の色に染まる。この戦争はフランス側では「文明と野蛮の闘い」というイメージが作られるのだが、そこからドイツにおける芸術の存在自体が否定され、教会への爆撃が、その野蛮さの象徴して喧伝されることになる。

 このようなドイツ批判は、アポリネールによってもなされる。戦前にはドイツの現代芸術に賛美を惜しまなかったアポリネールは、戦争勃発後、手のひらを返したように、ドイツ芸術を「アカデミスムという、偽古典主義」(p.32.)と形容するとともに、キュビスムで名前を挙げられるドイツ人画家はおらず、これはすぐれてフランスの芸術運動であって、フランス芸術には文明的ミッションがある(p.33.)と主張する。

 このように第一次世界大戦は、芸術世界で、すぐに、画家たちの交流を分断し、芸術をナショナルなものと性格づける事態を到来させたのである。

 戦争時において、芸術家が「沈黙」したのは、他にも物理的理由がある。戦争勃発後、戦火を避けて疎開した者、レジェのように出兵した者、キルヒナーのように出兵後、身体的にも精神的にも強い傷を負った者たち...。こうして戦争は、画家の生自体も分断していったのである。

第2章 La guerre photogénique 写真写りのよい戦争
 第一次世界大戦が明らかにしたのは表現メディアの移り変わりである。すなわち、記録媒体としての絵画(挿絵、イラスト)は、この時期を通して、写真そして映画に取って代わられる。戦争は、週間グラビア誌を発展させ、これらの紙上では、写真が大々的に掲載されるとともに、大衆がそうした写真を求めるようになった。L'Illustration, そして開戦後創刊されたSur le vif, J'ai vuといった雑誌である。

 そして写真が雑誌を占めるようになると、そこに写し出されるのは、数多くの死体である。しかも、戦争によって傷つけられた無惨な遺体がいくつも掲載され、それと呼応して残虐な写真こそ求められるようになる。さらにはそうした「特別な写真」には高い値段がつけられ、商業的なプロセスにすぐさま組み込まれていく。「イメージの消費者」(p.59.)が生まれたのである。

 もちろん写真でも、アングルやポーズといった作為と無縁になることはない。だがそれは、手によって描かれるイラストに比べれば、限りなく軽微であり、イラストには「不正確さ」がつきまとうが、写真は「必ずそこにあった」という現場性を本質的に持っている。イラストには、兵士という証人による「本当の戦争はこんなものではない」という否定から逃れることができないのだ。

 イラストによる美化、戦意の高揚は、写真による死者が埋まる壕の写真だけで、一気に否定されてしまう。さらに写真は、たとえ不完全であっても、かえってその不完全さが迫真をもって事実を捉えていること、手が加えられていないことの証左となる。

 この大戦時に普及したもうひとつのメディアが映画である。映画によって、観る者は、たとえわずかであってもあたかも兵士たちの生活に自らも参加しているような錯覚を受ける。それも映画館という大衆が集まる場所で、共同でわかちもたれる錯覚である。しかも死者の姿がひとつのスペクタクルとして享受されてゆくのである。

第3章 La guerre invisible 見えない戦争
 前章がイラストを扱ったのに対して、この章では絵画が扱われる。フランスの絵画史を振り返れば、戦争画は、第一帝政以降、ポピュラーなテーマとなり、また20世紀初頭の画家たちは、自然主義、現実主義の教育を受けてきた。しかしながら、第一次世界大戦では、戦場をリアルに描く絵は登場しなかった(p.83.)。

 ジャック・エミール・ブランシュは「この戦争は色彩をつけて描くことはできない」と言い、絵画を制作することはなかった。アメリカの派遣画家Sargentが描いたのは、疲れて横たわる兵士など、「戦いの後」であり、戦闘そのものを描くことはなかった。

 では、自ら出兵し、レアリズムに属する画家はどうか?Jean-Louis Forainは4年間従軍した画家である。彼の描いたものは、雑誌のためのデッサンと個人的なスケッチブックの描かれたものにわけられる。前者は、敵としてのドイツ、英雄的な自国兵といった寓意の表現であり、そこにレアリズムを見出すことは難しい。後者は、このデッサンのための下書きだけである。しかもそこに描かれた馬や人物が戦場の馬や人だとは必ずしも特徴づけられないのである。結局Forainが描いたのは、廃墟のような戦いの部分的な像、あるいは上述したように寓意的なものしかないのである。

 逆に従軍画家が描いた絵はどうか。Vuillardは例えばドイツ兵の尋問の風景を描くのだが、今度は現実に近づけば、近づくほど、写真との差異がなくなってしまう。あるいは、Maurice Denisの場合なら、実際の風景とはいえ、戦闘の場面ではなく、人々が落ち着いてたたずんでいる「風景画」を描くに終わっている。Vallottonの場合は、人は画面には現れず、廃墟のみを描いている。やはり動きのない世界である。Vallottonは次のように言う。「描かれるのは、戦争ではなく、装飾、断片、観賞用の絵画だ」。

 批評家に視点を移せば、たとえばLe Rousseurは、戦争絵画の不在の理由を、画家たちの前線での本当の体験の不在と、戦争の絶対的な新しさに求めている。第一次世界大戦の新しさとは、戦争の全貌を捉えることの不可能さである。

 La Sizeranneも同じ立場だ。彼も「この戦争は、これまでのものとまったく似ていない。だからこそ、戦争のイマージュを更新しなくてはならないのだ」と言う。そして「戦場、行為、人物」の三点からこの主張を展開する。まず戦場とは、すべてのものが根こそぎ破壊される場所であり、そこには何もない。かつての意味での「戦場」の姿ではないのだ。また戦争行為もすべて隠れた場所で行なわれる。塹壕に隠れ、砲弾は目に見えない遠い場所から放たれる。兵器はカモフラージュされる。また兵士の顔も対毒ガス用マスクの下に隠れてしまっている。

 同じく、Camille Mauclairも、この戦争が「不可視の戦争」であると言う。さらにMauclairは、写真以上に私たちの感情を揺さぶるものはなく、結局新しい戦争には、新しい方法が必要であると説く。

 このように結局、第一次世界大戦という戦争がもつ、不可視という性質によって、視覚芸術にとっては主題にはならなくなってしまったのである。

天童荒太『ムーンライト・ダイバー』(2016)

 震災・被災の出来事をどのように小説にするか。いや、そもそもなぜ現実の出来事を題材に選ばなくてはならないのか。たとえ書いたところで、小説は何の役に立つのだろうか。天童荒太を読んでいると「職業としての小説家」というイメージが浮かぶが、職業であるならば、それは少なくとも社会のなかで何らかの役割をつとめ、一定の貢献を果たすということになろう。小説家の社会的意義に対して、天童荒太の謙虚さは際立つ。小説家はあらゆる社会的制約から自由だなどと悪びれもせず豪語する人間からは最もほど遠い。また、作家は本来教祖でも、革命家でもない。人々を真理に導くとか、自己の主張によって社会が変革されるとか、幻のような誇張もすることはない。

 読者に教えを垂れる、あるいはこうしたら読者は心地よいだろう、などといった思い込みは最も厳しく自己に戒めているがこそ、この小説は、社会の絆の強さを感じさせようとか、前に進んで行こうとか、スローガンのたぐいとは無縁である。もし「希望と勇気がわいてくる」としたら、それは感動の押し売りだとして、天童荒太は厳しく退けるのではないか。

 では何のために書くのか。それはひとことで言えば「寄り添う」ためであろう。「寄り添う」のは、ときにその相手が絶望の闇の中に身を投じてしまうのをかろうじて押しとどめるため、また極端に明るくふるまうことの過剰さに対して、悲しんでいてもいいことを伝えるためであろう。ややもすれば極端へと走りがちな相手に寄り添うことで、そのあわいにおいて、なんとか正気を保つことができるのだと気づいてもらうため、そのための「寄り添い」である。

 『ムーンナイト・ダイバー』とは、月の明かりだけを頼りに、立ち入り禁止になっている原発近くの海域にもぐり、遺品を回収するダイバーを指す。そのダイバーが主人公の瀬奈舟作。この遺品回収の話をもちかけたのは、文平という初老の船乗り。そして、海から遺品を探し出す計画を思いついたのは県の職員である珠井準一である。珠井は遺品の回収を文平と舟作に依頼し、遺品とひきかえに謝礼金を渡す。当初はひとりの計画が、親しい人々に知られることで、会員を募る会の形式となった。禁止海域にもぐって遺品を取ってくるということの性質上、会の運営には様々な規則がある。ダイバー本人に会うのは珠井のみ。金目のものはどんなささいなものでも回収しない、等々。

 小説の人物像は類型的である。主人公の瀬奈舟作は、漁師だったが、震災と原発事故後、千葉に家族で移り住んだ。両親と兄を亡くした罪悪感を抱きながら寡黙に生きる人物である。文平は、多額の補償金を手に入れたのち遊興にのめり込んで挙げ句の果てに蒸発した息子を持ち、この計画でシビアにお金を稼ごうとしている。珠井は公務員という職業さながら手堅く慎重な人物である。

 そしてもうひとり、時の経過を象徴する人物として、眞部透子という人物が現れる。透子は夫を震災で失くすが、今だにその死を受け入れることができない。夫が死んだという確証もない以上、死を認定することはできないと思いつつも、別の男性からプロポーズをされ、5年目を人生の節目として、新たな生を選択するべきかどうか悩む。そして舟作に夫のつけていた指輪を探さないように依頼する。その気持ちは、はっきりと割り切れるものではない。

「(...)わたしは、あの海から何を期待するのか。願っているものは何なのか、あらためて考えねばなりません。言い換えれば、彼に生きていてほしいのか...それとも」
(...)
「それとも、彼に死んでいてほしいのか」(p.173.)

 このことばからわかるのは、彼の生死の事実ではなく、自分の「~でいてほしい」という願望である。つまり自分の心との向き合い方を苦悩しながら模索しているのである。この揺らぎ、ためらい、その振幅を小説は丁寧に写しとってゆく。

 このダイバーの仕事を請け負うまで、舟作を捉えていたのは「生きている実感のなさ」である。復興のかけ声が巷にあふれても、再び漁にでる気にはなれない。なぜ生き残ったのが兄ではなく、自分だったのか、その罪悪感を心の根底に抱きつづけている。それが重い碇となり、新たな生へと歩み出すことを阻んできた。一方、その生の乏しさと両極をなすのが、この仕事を始めてからの肉を食う、女の体をもとめるという、今度は極端なまでの生の動物的衝動である。それはひとつの暴力的な発作とも言える。相手を食いつくし、自分の圧倒的な支配下に置こうとする昏く渦巻く欲望である。この死への引力と過剰な生への引力の間に引き裂かれているのが、舟作の5年間である。

 だが舟作は、シーズンの最後に潜るとき、死の衝動に突き動かされる。それは海中に浮いている、透子の夫の薬指に違いない指の骨とそれについていた指輪を見つけたときである。制限時間を知らせるアラームの音にもかかわらず、舟作は、その指輪を追い求めようとする。そのとき、彼は左肩に誰かの手を感じる。そして声を聞く。

戻れ、戻りなさい。
諭すように、左肘をつかまれ、後ろに引かれる。腰のところにも手が回される。
 何をしてる、せっかく助かった命なんだぞ、おまえを待ってる人がいるだろう。
 舟作は振り返る余裕もなく、ともかく流れから外れるために、岸側にむかって懸命にフィンを振った。やがて強い海流から外れる。わけがわからぬまま、後ろを振り返った。
 こまかい粒子が舞う潮の流れの吹雪の彼方に、遠ざかる人影があった。
 両親に似た影、兄の大亮に似た影。見知らぬ人の影もある。子どもの影、年寄りの影、男の影、女の影...。人々の影は、すぐに吹雪の奥へと消えた。(p.226.)

 死者の幻影によって、舟作は一命をとりとめる。そしてあらためて、私を支えてくれる死者たちを心に住まわせる。彼らは亡くなった。舟作は「どうか、安らかにお眠りください」と願い事をする。だが、死者たちと私の関係は死なない。たとえその人が亡くなったとしても、その人との関係は不死なのだ。この不死性こそが、舟作を生へとゆっくりと回復させるのではないだろうか。

 それを自覚したとき、舟作は、もはや死への引力と過剰な生への引力のどちらにも引き寄せられることはない。その日常は、震災以前の日常とは違うし、もはや元通りになることはない。私たちは、今後「大切な何かをあきらめて」(p.236.)生きざるをえない。私たちは喪失を抱きながら生き直す。だが死者からの支えを実感したとき、私たちは静かに自らの生を確証する。

 ムーンライトとは、光と闇のあわいにあるおぼろげな明るさの象徴ではないだろうか。私たちの日常はきっとそんなおぼろげな明るさにかろうじて照らされながら生きるものなのだろう。だがそのおぼろげなあわいにこそ、私たちは正気を保つ根拠を見つけなくてはならない。

Sorj Chalandon, Le Quatrième mur (2013)

 2013年に「高校生たちによるゴンクール賞」を受けた作品である。著者は主にLibérationで活動をしてきたジャーナリスト。この小説の大きな物語は、ユダヤ系ギリシャ人のサミュエルから、演出家であり、高校の補助教員をするジョルジュが、レバノンのベイルートで、アヌーイ作『アンチゴーヌ』を上演を託されたことにある。国内の紛争と外からの武力干渉を受けている戦火のレバノンで、演劇を上演するだけではなく、それぞれの登場人物を、宗派の違う人々に同じ舞台で演じさせるという途方もない試みなのである。

 そもそもレバノンは「民族のモザイク社会」(宮田律氏)である。イスラムの異端とされるドルーズ派、キリスト教系のマロン派、そして戦後はイスラエルを終われた難民パレスチナ人が移住する。そこに民族主義的様相も加わり、マロン派からは、武装民族派としてファランヘ党員たちが生まれる。こうした複雑な民族構成の中、小説は、80年初頭、すなわちイスラエルがレバノンに侵攻した「レバノン戦争」を背景にして話が進んでゆく。

 前半の話の中心はサミュエルとジョルジュの関係を描く。サミュエルはギリシャで軍事政権に抗議して、アテネ工科大学を占拠した学生たちの一人であり、この占拠が制圧されたのちフランスにやってくる。ジュルジュは「親パレスチナ」の学生運動に身を投じていた青年である。ともに70年代の自由と解放を求めて運動に傾斜していった若者の姿が投映される。それはたとえば結婚式で「右」の市長が若者たちの格好を見て「La République, c'est le respect des institutions共和国、それは体制の尊重」と言ったのに対して、サミュエルが「La République, c'est le respect des différences共和国、それは差異の尊重」(p.39.)と言い返す挿話などに現れる。

 このように小説は架空の人物を登場させながらも、実際の歴史的事実や時代の風俗に依拠している。その上で、現実世界の枠組に小説世界を仮構し、二つの世界を往還する構造を取っていると言ってよいであろう。

 この2人の関係についてもっとも印象深いのは、CRS(機動隊)に対して、ジョルジュたちが「CRS=SS(ナチス親衛隊)」と連呼するのを、サミュエルが厳しくやめさせる場面である。権力闘争において、スローガンと安直な比較は、事実の単純化を招き、それぞれの事実の固有性を抹消してしまう。スローガンがもたらすイメージは、ときにひとつの自己陶酔にもなって、それ以上に現実を変えるための思考を私たちに促しはしない。しかもユダヤ系のサミュエルが、SSを批判の言葉として使うことを戒めているのである。

 ここに小説の主題の一つがある。それは、イデオロギーに染まって硬直した自己をどう変容させていくか、そしてイデオロギーから少しでも抜け出して、自分を自由にするとともに、他者とどう融和するか、という問いであろう。イデオロギーとは政治、宗教、そして自分の価値観そのものを指す。

 ベイルートでの演劇の上演は、異なるコミュニティの人間が同じ舞台に立つことによって、イデオロギーから人間を解放し、人間を人間の相のもとに捉えるための可能性に他ならない。そして中盤は、サミュエルが病いに倒れ、ジョルジュがその意志を継いで、ベイルートで練習を行なう日々が中心となる。アンチゴーヌはスンニ派のパレスチナ人、その叔父クレオンはマロン派、アンチゴーヌの婚約者であり、クレオンの息子エモンはドルーズ派といった具合だが、練習を行なううちに、それぞれが少しずつ距離を近づけながら、本番の上演へと向う。

 しかし、それを打ち砕くのが、82年のイスラエル軍によるレバノンへの侵攻である。空襲によって、劇場代わりとなっていた建物は損害を受け、人々も怪我を負う。そして予定されていた上演日は10月1日。だがその前の月とは、シャティーラの惨劇と呼ばれる、大虐殺が起きた月に他ならない。レバノンに武力侵攻したイスラエルとレバノンのファランヘ民兵の結託によって、ベイルートの難民キャンプ、シャティーラの多くのパレスチナ人が虐殺された。

 この事件は、フランスではジャン・ジュネが『シャティーラの4週間』としてまとめている。この時、虐殺が続けられるよう、夜になってもイスラエル軍は照明弾(des fusées éclairantes)を打ち続けた。それが小説では、夜が昼となり、発光する真珠が落ちていったと描写される(des dizaines de perles incandescentes descendaient lentement...)。さらに作家は、ジュネの描写に倣うかのように、虐殺された死体を、ジョルジュが間近に眺めた光景として詳細に描写をする。これを期に、ジョルジュは精神のバランスを崩し、フランスに戻っても普通の生活を送ることができず、再びレバノンへ、いや戦地へと戻ってしまう。

 この小説の導線となっている『アンチゴーヌ』は悲劇の代表作であるが、単にこの作品が戦時下、占領下で書かれ、上演されたという共通性以上のものがある。悲劇とは、一言で言えば、「登場人物が私たちが見ていてもっとも自然と思える行動をとる」劇の形式であろう。例えば、オイディプスが自らの眼をつぶすという行為は、日常的にはあり得ない行為かもしれない。だが、それが父を殺し、母をめとった人間がその事実を知ったときに、どのような行動を取ることが自然か、と問えば、眼をつぶす行為は劇の中で、もっとも自然な行為として私たちにやってくる。それが悲劇だとすれば、最後、ジョルジュが兵士を撃ち殺す結末は、イデオロギーから抜け出ようとして、最終的には抜け出すことのできなかった不自由な人間が最終的に取る行為として、自然な行為と言えよう。それがまさに悲劇なのである。

 タイトルLe Quatrième mur「4つ目の壁」は、舞台の3方以外に、舞台と客席の間にある眼には見えない壁を指すとのことである。この壁があることによって、役者たちは、平静を保ち、演技に徹することができる。しかし結末にある「4つ目の壁」は生者と死者を分け隔ててしまう壁の意となる。ジョルジュはまさに悲劇的な主人公として、壁の向こう側へと移動してしまったのである。

フィル・クレイ『一時帰還』(2014, 2015)

 作者は海兵隊員としてイラク戦争に派兵された体験を持つ。短編作品を集めたのが本書だが、いずれの作品でも主人公は一人だ。体験はあっても自己充足はない。その孤独な寄る辺なさがこの戦争の大義のなさを露にしている。大義がないからこそ、軍はやっきになって勲章をつくり、兵士を表彰する。それは死が無駄死にであったことを隠すため、そして生き残った人間が罪の意識を感じないようにするためだ(p.83.)。

「一時帰還」では、戦場と帰還後のアメリカの日常の場所が交錯してしまう人物を描いている。戻ってきた日常の風景に戦場の風景がフラッシュバックして重なってしまうのだ。そして神経が張りつめれば「二十メートル先の道路に落ちている十セント硬貨にだって気づく」(p.14.)。人間の可能性がここまで広がるのは、戦闘という極限体験がもたらしたものだ。この戦場体験の侵犯は、その体験者がコントロールできないものであり、日常の生活になだれをうって流れ込んできてしまうのだ。

「戦闘報告のあとで」では、体験の分有が主題である。少年を撃ち殺した兵士とそのそばにいた兵士。だが、その出来事は、実際にはどちらが殺していてもおかしくはない、ただ偶然の出来事として、二人に覆い被さってくる。偶然である以上、本当は自分が殺したかもしれない。だからこそ、殺した兵士は口を閉ざしている一方で、殺していない兵士は自らが殺したと言う。これが誤りとして認識されないことが、戦争の実態なのである。そして殺していない兵士は、まわりに当時の状況を問われて、殺しの現場を語り始める。「語り直すたびに物語は強度を増し、ますます真実のように」(p.38.)感じられてゆく。

「アザルヤの祈り」は、兵士の心的外傷が主題である。

六週間前に友人の二人が死んで以来、気持ちの揺れや怒りの激発に苦しんでいる。壁を叩くようになり、睡眠薬を処方された最大量の四倍呑まないと眠れなくなった。眠ったら眠ったで、友人の死や自分自身の死、暴力といった悪夢を見てしまう。これは完璧なPTSDの症状の一覧表だったー激しい不安、悲しさ、息切れ、心拍数の造花、そしてもっとも激しいのは、どうしようもなく無力だという感覚に圧倒されること。(p.161.)

 事実、この小説のトーンを支配しているのは「クソみたいに無意味」だという認識だ。それは現地ではなく、むしろアメリカに帰還してからこそ頻発する。犯罪や麻薬に手を染める、さらに自殺の件数が増える。この小説の主人公は牧師であるが、この牧師の言葉は常に皮肉にしか聞こえない。それは牧師自身がわかっている。最後のセリフ「この世で神が約束するのは、私たちが一人ぼっちで苦しむわけではないってことだけです」(p.182.)は、まさに兵士たちの孤独を反対の意味で際出させる言葉なのである。

「心理作戦」の主人公はアラブ系でコプト教の家庭に育った兵士であるが、彼が帰還後、大学に入り、「復員兵」としての周囲の目に十分答えるように、証言をねつ造する。その意味で、この作品は、体験者と非体験者の関係を主題のひとつとしていると言えるだろう。

「戦争の話」もまさに、体験者の語りの分有の困難さが主題である。体験者の語りが、通じない、もしくは聞き手の都合によって勝手に解釈されていく、言い換えれば、そもそも本人がその価値を信じることができない戦争の話が、外部の人間によって、勝手に価値付けられていく絶望が主題である。帰還兵士の話を聞く相手はIVAW(戦争に反対するイラク帰還兵の会)と「コラボ」して芝居のシナリオを書こうとしている女性の役者である。この団体は「まるで彼ら[=帰還兵]を瓶にでも入れて貯蔵しているかのよう」に、自らの目的=イデオロギーのために兵士たちの証言を利用する。それはまさに事前の答えをすでに持っていて、その答えが出てくるように質問を繰りかえす欺瞞である。

 さらにこの体験者の話の核心は、まさにその核心が語れないことにあるのだ。体験者は戦場において傷を負うその瞬間については語れない。それはあまりにも壮絶な瞬間であり、認識の枠を飛びてしまう体験であったろうし、そもそも記憶が飛んでしまっているのである。つまり真の体験者であれ、その体験の中心には達することができないのである。したがって体験者は、体験者としては実際には不在なのである。

「記憶の大部分が消えてるんだ。何も残っていない。オーバーロードして、システムが動かなくなっているみたいだな。それはそれでいいんだ。俺に記憶は要らない。それに、モルヒネ、硬膜外点滴、ジラウジッドやミダゾラムの静脈注射なんかを順番にやられているからね」。(p.245.)

 このように体験者自身が記憶の保持者ではなく、その意味で核心の体験の保持者になりえないのである。またたとえ思い出したとしてもそれは「断片」(p.248.)に留まり、それらの断片をいくら集めても、一つの統合化された物語としては復元できない。

 戦争は体験者を時に特権化し、国は兵士に強い意味を付与し、それによって国民を分断しつつ、大きな物語を構成することで、分断によって負い目を追った非体験者としての国民、特別な言いを付与されない国民にその劣等感を植え付けながら、したたかに統合してゆくのだ。

 その強い物語に対して、兵士たち個人の声はあまりにもか細く、分断的だ。そして兵士自身、戦争によってずたずたにされ、死の極限に追いやられて心的外傷をおった「クソみたい」な存在をかろうじてすくうため、物語を始める。その物語が事実をすり替える。しかしその一方で、統合されないかすかな断片としてのことばもつぶやかれる。私たちはどのようにしてその声を聞き分けるべきなのか。イデオロギーを持ち込まず、体験者に寄り添うこと。そのときにようやく体験の分有の可能性が生まれるのである。なぜなら体験者は体験の真の所有者とはなりえないが、それだからこそ同時に非体験者が、謙虚に声に耳を傾け、その分断から、人間性の証しを求めていく可能性がひらかれる。

 Claude Nachinは、精神分析の理論家アブラハムとトロートに影響を受けた臨床精神分析医である。本書『愛の喪』は、二人の喪の理論をもとに、愛する者を亡くした人間の「喪の病い」についての臨床実践、文学テキスト分析、そして技法分析を集めている。そして第三章ではユダヤ人大虐殺で家族を失った子どもたちの証言を集めた2冊の本を扱っている。

 最初の本、Denise BaumannのUne famille comme les autresはアウシュヴィッツで殺された、本人の家族の手紙を集めたものである。Nachinはこの本に収められた本人の序文と後記をそのまま載せている。

 Baumannは、家族の死の詳細を知ることを拒否することで、喪の作業を自らに禁ずる。そして自分だけが生き残ったという罪悪感を抱き、夢と覚醒のはざまで、今でも彼らが生きていて、会いに行かなくてはならないと想像する。それは、自分の状態を、息子を亡くした後も、彼が生きていると信じ込み、シベリアに家族を作って暮らしていると想像して、誕生日を祝っていたというドイツ人女性のようである。

 だが、NachinはBaumannとドイツ人女性の間には差異があると言う。Baumannの場合は、困難さはあってもゆっくりとした喪の作業が行なわれているのに対し、ドイツ人女性の場合は、故者を体内化する(自分の中に、自分がコントロールできない他者を住まわせ続ける)ことの危険に対する防御の技法を示している。ここでNachinは後者の文学的な表現として、娘を失ったことを信じず、婚約者まで探そうとする両親を描いた作品、ヘンリー・ジェームスのMaud-Evelynが挙げている。

 さらに、Baumannはあくまで、思考によって(par la pensée)、失った家族の苦しみを体験し直しているのに対し、病いを抱える者は、思考することなく(sans y penser)、かつての苦しみを再体験してしまう点に差異がある。それによって前者の場合は、他者の自己内への取り込みがゆっくり進んで行くのに対して(他者の自己の中に解消していく)、後者の場合には、他者への体内化が行なわれ、体内にクリプト(地下納骨堂)が作られることによって、他者は死後もそのまま生き続けてしまうのである。

 2つ目の作品はClaudine Veghのje ne lui ai pas dit au revoirである。児童心理学者であるVeghが、子ども時代に家族をアウシュヴィッツに連行された経験をもつ人々にしたインタビューをまとめた本である。

 Nachinは彼らの体験談の中にさまざまな喪の徴候が示されていることを指摘する。家族に降りかかる災厄をさけるために出頭に応じて連行されていった父親に対する負い目、彼らの大多数に当てはまる、過去についての沈黙、現在の愉快に過ごすことへの苦痛、現在の家族が一時的にでも家を離れることへの強い不安、節目となる日付(たとえば連行された日、親が死亡した日)における体の変調、別れる直前の諍いや優しい言葉をかけられなかったことへの後悔などである。そして生き残った子どもたちは、戦後においても「間違って生きてしまった」という感情を持ち続けた。

 また、Claudine Veghが強調しているのは、戦後精神的な問題を抱える人々は、子どものときに、親が激しい恥辱を受けたことを覚えている人々であり、それによって、自分の文化の伝統、親からの伝統が十分に伝わっていない人々である点である。

 Veghの本の後書きを書いているベッテルハイムは、体験者である人々と、その体験を聞く人間たちとの距離の問題を指摘する。体験者は、たとえ相手が話を聞いて事実を知ることはできても彼らの苦しみの本質は理解できないと考える。そのため、心をひらいて話せる相手は、Veghのような同じ体験者に限られる。続いてベッテルハイムが指摘するのは、「話すことができない以上、心が鎮まることはなく、その傷は世代から世代へと引き継がれていく」という点である。子どもは、中身がわからない鉄の箱を心に持って人生を歩むことになる。
 またベッテルハイムは、子どもが親の死について嘆くことができず、親が戻ることを心の中で無意識にでも思っている以上は、喪の作業は拒否され、現在を生きることができないと指摘する。特に親が連行され強制収容所で亡くなった子どもたちは、親の死の実際の証拠も持てず、葬儀をすることもできず、喪のプロセスを辿ることが不可能である。また自分自身もたえず非難や死にさらされていた状況では、喪そのものを否定しさることが、生き残る条件であった。その意味でもインタビューを受け、語ることこそ、重要な喪の作業となったのであり、ようやく親の死を認め、現在を選択することを可能にしうるとベッテルハイムは結んでいる。

吉村昭『総員起シ』(1972, 1973)

 文庫版のあとがきに吉村昭は次のように書いている。

太平洋戦争には、世に知られぬ劇的な出来事が数多く実在した。戦域は広大であったが、ここにおさめた五つの短編は、日本領土内にいた人々が接した戦争を主題としたもので、私は正確を期するため力の及ぶ範囲内で取材をし、書き上げた。

この短編集で扱われる事件は、太平洋戦争の歴史としては書かれることはなかった出来事である。これらの出来事が戦局を左右したことはない。むしろそうした大文字の歴史の趨勢からはこぼれ落ちてしまうような出来事である。

 だから、当事者が口をつぐめば、すぐにも忘れ去られてしまっただろう。それらはしかし、戦争を語る上でのささいな出来事とは決していえない。どんなに小さな出来事でさえ、その上には当事者の生と死がはっきりと刻まれているからだ。そして彼らは戦争の主人公ではないが、ないがゆえにむしろ、戦争が国民の全てを巻き込んでいくことを如実に物語っているのだ。

 吉村昭は「力の及ぶ範囲内で」と書いているが、その範囲は極めて広く、丹念で、そして些細なこともおろそかにはない。取材によって得られた証言こそが作品執筆の出発点となる。

 また当事者の証言に加えて、吉村はさまざまな資料も丁寧に調べ上げる。行政の記録、潜水艦の設計といった技術的な情報も漏らすことはない。作品は史的記録でもある。

 だが「証言と記録」は、作品の下地とはなりえても、それだけでは文学となることがない。作品のなかで、証言者の声が直接記録されている箇所は実は少ない。それらの声は、吉村昭の文体を通して、いわば吉村の声と溶け込んで私たちのところまで届いていると言えよう。だから時に吉村は、その体験者の心の中に響く弱い声まで聴き取って、文へと結実させる。この共感者としての声がたえず証言に寄り添っている。

 そこにひとつの文学の条件がある。なぜならば、体験自体は普遍化できないからだ。その場にいて、死の淵に置かれ、苦しみを味わった体験は、まさに私たちにとって想像を絶する体験であり、当事者になり代わって、その体験をやり直してみることなど不可能だからだ。体験者のことばは時に厳しい。『総員起シ』で吉村が取材した生存者の一人小西愛明氏が自ら語ったことばがあるが、そのことばには非体験者を近づけない峻厳さが張り巡らされていた。私たちはそうした厳しいことばを読むとき、ただうなだれて聞き入るしかない。私たちに主体化の契機は閉ざされている。

 吉村昭の小説世界は「証言と記録」に基づきながらも、小説家が「私」を名乗ることはほぼ皆無でも、小説家の創意によって出来事は構成し直されて、一つの独自の世界が私たちの目の前に提出されている。

 たとえば、「海の棺」では、冒頭で兵士の死体の多くに手首の欠けているものや上膊部からうしなわれているものがあると書かれるが、その理由は最後まで伏せられている。またこの小説には一切固有名詞がなく、漁師、組合長、少尉、村人たち、兵士たちと普通名詞で書かれている。ひとつの群像として作品世界が構成されている。だからこそ、腕を切られた兵士が海に沈んでいくときに最後に言ったことば「天皇陛下万歳」は、無数の兵士たちの最期のことばであったろうと私たちは想いをはせるのだ。

 すなわち、小説として仮構された世界に入ることによって、非体験者の私たちは初めて想像力を働かせ、戦争というものの実相を形象化することが可能となるのである。ここに読者の主体的な契機がある。私たちはこうして他者の決して同一化できない体験を通して、戦争というものの本質を分ちもっていくのである。そして新たに戦争というものへ眼差しを返していくのである。

 この作品集のなかで「手首の記憶」はやや特異な作品であるが、もっとも強い印象をもたらす作品でもある。上述したように吉村昭は体験者のことばを丁寧に聞き取り、その圧倒的な情報量に基づいて書き始めるのであるが、この作品では、体験者の声を誰一人として聞くことができなかった。集団自決後、生き残って「しまった」看護婦の一人、寺井タケヨは最期まで取材を拒否し、沈黙を通した。だが私たちは、この沈黙から、戦争の傷が永続するものであることを、たとえ終戦を迎えても、ひとりひとりの体験者のなかで戦争は決して終わっていないことを、歴史的事実と心的真実の時間の決して埋めることのできない溝を私たちは体感するのである。

 注意しなくてはならないのは、これらの作品集に出てくる軍人たちが決して美化されていない点である。彼らは決して大義を振り回さない。また吉村昭自身の声も決して単独では聞こえず、たえず取材をした相手に寄り添った声でしかない。登場人物たちの声はあくまでも、歴史のある状況に置かれ、その状況の中でこそ発せられたことばである。すなわち、もし私たちが同じ状況に置かれたならば、必ずや発したであろう人間の声なのである。それは作家が言わしめたことばではない。作家が証言と記録という事実を歪めず、その事実に徹したからこそ、聞き取れたことばが作品には響いている。

江藤淳『一族再会』(1973)

 自分は必ず誰かの子である。そして父、母も必ず誰かの子である。しかしその当然の意識を三代前、四代前へと遡らせていくことは難しい。祖先とは縦につながっている以上、自分の生と直接に重ねあわせることのできる、祖先たちとの時間はそれほど多くない。自分が生まれる前にすでに死んでいた祖先、幼い頃に亡くなった親への記憶は一層乏しくなる。さらに戦前では、家を継ぐためには養子を迎えたり、早くに妻を亡くしたために再婚をするということも珍しくはなかった。であるならば、ある家とは疎遠になり、また家族の構成も腹違いの子供たちなど複雑になっていく。

 それでも、自分が誰かの子であり、父と母も誰かの子である以上、自分は誰かと血でつながっているという意識は否定しようがない。『一族再会』は、「私」の「源泉」であり、「核」である、江藤淳の一族の生き方、在り方を追った旅の書である。江藤は、若い時に会った祖父の記憶を想起する。母を知る人々に会いに行き、人々の母の記憶を集める。海軍に奉職した二人の祖父の記録を調査し、祖父の故郷を訪ねる。内面の記憶、人の声、文字資料、そうしたさまざなことばによって構成されたこの作品は、実は複雑に構造を持っている。

 だがこの複雑さの奥に、ひとつの通底したトーンがある。それが「昏さ」である。一族全体を覆い、江藤自身の中にも流れている昏さ。普段の意識と日常の光の中では、その昏さが意識されることはない。私たちの体内を流れる血の流れを、私たちが普段意識することはないが、その血流が、私たちを生かし続けているように、この昏さは私たちの意志とは無関係に、しかし同時に私たちを構成する本質として、私たちを生かす影として存在しているのだ。

 もちろんこの昏さは、江藤の一族の人々の人生そのものの昏さでもある。母親は江藤が4歳半のときに亡くなっている。江藤の意識の出発点は喪失そのものである。その母の母、江藤の祖母も25歳で亡くなっている。そして子どもの時親しくしていた、母の実家を継ぐはずの叔父の自殺。たとえ生死と結びつかずとも、日本近代の幕開けから、第二次世界大戦での敗北までの歴史が投映された二人の祖父。山本権兵衛が血気盛んで、エネルギッシュで、それでいて冷静に海軍を国防計画のなかでビューロクラティックに近代化した、したたかな人物として描かれるに対して、同じ海軍の二人の祖父は、時に時流をつかみきれず、それ以上に時代の制約の中の軛の中に放り込まれ、最終的には「栄誉か死か」という英雄観から見放された人物として描かれる。特に、「軍人には勝利と敗北があり、屈辱と栄誉と死があったが」(p.259)、母方の祖父は「名誉も奪われて死も与えられなかった」のである。

 この昏さとは、黄泉の昏さでもあり、誕生以前の昏さでもある。昏さは沈黙とも結びつき、永遠の闇の世界でもある。この世界においてはことばは不要だ。母と子が愛を確かめようと肌をよせ合い、抱きしめるとき、その愛の交流にことばは不要であろう。自分が生まれた薄明の土地に抱かれるとき、言葉は不要であろう。そのとき個は、大地に包摂される。

このときのことは少しも私の記憶にのこっていない。おそらく私は、こうして乳を吸いながら父に写真をとられていたとき、幼児がそういう場合にいつも感じるような安息と満足感にひたっていたにちがいない。つまりそこにはひとつの沈黙があり、言葉を必要としない理解というものがあったにちがいない。(p.15.)
 
それならそのようなかたちを、私の内部の暗黒のなかに切りとっている曾祖父嘉蔵は、私の「言葉」の源泉なのだろうか。それが私の「故郷」であり、私に忠誠を要求し、私という個体を否定し、「個人」という観念が虚構にすぎないことを思い出させる重苦しくうっとうしい沈黙なのだろうか。おそらくそうである。そして私のなかに嘉蔵が存在し、現在の日本の現実のなかにいまだに無数の嘉蔵が存在しているかぎり、私は決して「個人」になることはなく、したがって単なる「私」ではあり得ない。「私は...」、あるいは「私が...」と書くとき、われわれの感じる一種のうしろめたさは、実は「私」がわれわれにとって、仮構以上のものではあり得ないところから来る直感的な反射作用にほかならない。「私」が「言葉」なら、この反射作用の背後にある沈黙は「言葉」の源泉、すくなくともその重要な部分である。(p.153.)

 沈黙は時に陶酔であり甘美であり、私たちのあらゆる知的営為を無効にする世界の眠りの感覚であろう。それはまた「地の底にくるみこむような、なまあたたかく濃密な感覚」である(p.347.)。ここには私は発生しない。私は一族のなかに溶け込み、私の背後には、無数の死者が寄り添って私に口寄せをする。このときのことばは、私のことばではない。

 だが近代において私たちは、このような始源の世界が喪失してしまったことを知っている。その世界と私の間には埋められない溝がある。しかし同時にこの溝こそが契機となって、私は「個」として立ち、世界との関係づけのために「言葉」を発しようとする。亡霊の側にいる私はもはや死者と同等とするならば、この言葉を持ち得た人間は生の側、すなわち行動の側にいる。この言葉の発生、喪失の瞬間に言葉が生成されること、この誕生に最大限の意識を集中することが、同時に批評言語の誕生ともなる。

 沈黙の世界に埋没して個を消し去るのでもなく、かといって、概念だけの世界に生きるのでもない。そのどちらにも属さないぎりぎりのところで言葉を刻む鋭敏な意識を持ったとき、江藤淳という批評家が誕生したのだ。江藤はこの危うい均衡にきわめて意識的であった。

つまり血縁の感覚というものは、個体が仮構にすぎず実体はあくまでも血の持続、あの暗い淵の連続にあるという確信から成立する。だが、それにしても私たちは、あの存在の闇をみとめるかぎり血縁の実在を否定するわけにはいかないが、かといって意識の作用を認めるかぎり個体として生きないわけにもいかない。「近代」が個体の自覚を助長しようとすればするほど、私たちのなかに近親憎悪の衝動が澱むのはそのためである。それが「言葉」に転位されればいい。しかしそれはしばしば「言葉」になるひまもなく奔出しようとするのである。(p.61.)

 衝動ではなく「言葉」への「転位」すること。ここに厳しい批評家の責務がある。言葉を求めることは、個を屹立する意味で、故郷の言語と切り結ぶものであり、空虚な概念とならないよう社会の言語とも切り結ぶものである。この厳しい孤独のなかで、初めて生命感にあふれた言葉が生まれくる。そして私たちはその言葉を受け取る。この清々しさを江藤淳の作品は持っていた。

 しかし江藤淳という人はたえず母なるもの=言葉のいらない陶酔の世界に幻惑される心の闇を抱いていた。作品の最後、母方の祖父の出身地に出向いた江藤は、その土地に葛の葉稲荷という社が記されているのを見て慄然とする。葛の葉、それは子の前から消え去った、母に化けていた狐の名である。ここにきて、江藤は再び、母、死者、土地へと回帰してしまうのだ。

いったい私はなにをもとめてこんなことをしているのだろう?自分の言葉の源泉をもとめて、と考えたこともあった。そうでないことはない。だがおそらく、もっと単純ないいかたをするなら、私は還りたいのだ。どこへというなら、もっと健全で簡素な場所ーそこで生と死の循環がうごかしがたいかたちで繰り返されているような場所へ。私は還って触れたい。なににというなら、そういう場所の土に。そしてその土に、自分の不毛さを身を打ち付けて詫びたい。(p.311.)

 だが、もはや還る場所などありはしない。戻るべき土地などはなく、生きるならば言葉によって新たに世界を作りだし、その世界で行動をするしかない。江藤はことばによって成立する世界と、ことばの要らない沈黙の世界との危うい均衡の場所にたえず自己の身を置いた。それがときにきわめて鋭敏で生命感にあふれた批評を生み出し、そしてときには、イデオロギーに塗れた扇情的な文を書くことになった。

 本当に歴史を理解するためには、一度はその歴史に身をおいた個人の体験にまで私たちは降りる必要がある。一族再会で書かれる歴史には、歴史を刻印され、時代を生きなくてはならなかった、祖先一人一人の人生の体験が書かれている。そこには祖先に溶解してしまうのではなく、自らを禁欲的にその世界から切り離し、言葉だけで関係を作ろうとした江藤の精神がある。この精神のみずみずしさこそがこの作品をイデオロギーに塗れることから救っているのだ。

 ユマニチュードは、フランスで生み出された、高齢者、とりわけ認知症の人へのケアの技法である。ユマニチュードという言葉は、人間らしくある状況を指す造語で、フランス領マルチニック島出身の詩人・政治家エメ・セゼールが「黒人らしさ」を価値づけるために作ったネグリチュードに想を得ている(p.5.)。

 ユマニチュードとはケアの技法であり、同時に「人間らしくある」ための哲学的洞察である。ユマニチュードは「精神論」ではなく(p.34.)、哲学に基づいた技法の実践である。哲学と言っても、難解なものではない。その問いはきわめてシンプルであり、根本的である。それは人間とは可能性をもった存在だということにつきている。可能性とは具体的に何かができるような能力が身につくという意味ではない。私たちが生きていると確証を得られるのは、今とは別のあり方ができる、変化しうると実感できたときである。もし私たちが不動であるならば、もはや時間も流れず、永遠の不変となってしまうだろう。それは死に等しい。

 この生の可能性は、ユマニチュードの実践技法では、「立つ」ことの重視として現れる。寝たきりの高齢者の立つ能力を見極めること。立ち、歩けるようになると、「再び生きる意欲を賦活し、人間としての尊厳を保つ」ことにつながる(p.142.)。生とは動くこと=変化なのである。「生きているものは動く」「動くことが生きていることだ」を当たり前に受け止めることがケアの文化を育てると、筆者たちは言う(p.30.)。

 生、可能性、動き、これらの人間の根本条件を尊重して、ケアを行なうためには、ケア自体の評価、レベルをきちんと見定めなくてはならない。このケアの「中心に位置するのはケアを受ける人とケアをする人との『絆』」である(p.34.)。

 絆とは何か。筆者たちは、生まれてくるという生物学的な第1の誕生と、「自分が哺乳類・ヒト科に属していると認識する社会的な生」、これを第2の誕生とよび、それを以下のように説明する。

周囲から多くの視線、言葉、接触を受け、2本足で立つことで人としての尊厳を獲得し、自分が人間的存在であると認識することができます(p.36.)。

 そして、ユマニチュードのケアは、病や障害によって崩されてしまった人間の尊厳を再び取り戻すための、第3の誕生のための技法である。その技法には「見る」「話す」「触れる」「立つ」の4つの柱がある。これらの行為を貫くユマニチュードの基本理念は、強制ケア・抑制を行なわないことである。この認知症ケアが教えてくれることは、実は専門家、職業人のためだけの特殊なものではない。私たちがたとえ病を抱えていなくても、他者と人間らしく生きるための、そして他者を支配しないための根本的条件なのだ。

 「相手をみない」ことは「あなたは存在しない」というメッセージになる。たとえ相手の反応がなくても、自分が行なっているケアの様子を言葉にすることは、相手がいることの確証になり、ケアをする者も自らの中にエネルギーを蓄えることになる。触れることは、相手に優しさを伝える技術である。そのために具体的には手首をつかんだり、わきに手を入れたりしてはいけない。これらの行為は、連行に等しいからだ。そして立つことは、すでに述べたように人間の存在の確証でもある。

 こうした行為を通して、ケアをする人とケアを受けるひとが心を通い合わせるようになる。この心のプロセスについても筆者たちはあくまでも精神論ではなく技法として、細かな実践を明示している。1.出会いの準備、2.ケアの準備、3.知覚の連結(見る・話す・触れるの情報のうち2つ以上の感覚を使う)、4.感情の固定、5.再会の約束、という5つのステップにわけているが、それらはいずれも、私が存在していること、あなたが存在していること、そしてお互いの存在に気づくことを根本においている。仕事に来たのではなく、あなたに会いに来たと伝えること、ケアの行為は、心地よい体験だと実感してもらうこと、その心地よさ、気持ちよさを「感情記憶」として残すこと、そしてまた、同じ体験をしましょうと約束すること。これらはいずれも、環境の中で生まれる人と人の絆であり、お互いが人間らしくいられる、尊厳のための関わり合いなのである。

 確かにこの本を読んでいると、果してどこまで現実的にこうした技法が使えるのか疑問が浮かぶだろう。だが、効率を求めることが、時に人をモノとして扱うことになってしまうことに私たちは敏感でいなくてはならない。人が、自分が生きていることを肯定し、自分を大切にできるのは、相手が、自分を取り替えのきかない存在として、見つめ、話しかけ、そして共にあろうとしてくれるからだ。病院も会社も人間のかけがえのなさを忘れたとき、それらは工場と化する。それは手首をつかまれて、引きずられるときに心に生まれる痛みと傷の感覚を生む。

 ユマニチュードは、この現代社会において人間の尊厳を回復するための、人間らしくあるための哲学的思索と技術的実践なのだ。

 幼児時代の言語体験は、そのあとのアイデンティティ形成に大きな影響を与える。言語は切っても切ることのできない自分の一部であり、それでいて家族、社会といった自分を取り巻く外部の一事象である。その間の折り合いをつけていくことが、自らの言語観を形成するだろう。その意味でこの論文が、3人の幼年時代から青年期までの言語体験を詳述しているところが興味深い。

 フランツ・マウトナー(1849-1923)は、ハプスブルク帝国の、現在でいうチェコで生まれた。プラハから北東に90キロはなれた小さな街である。家庭はドイツに文化的に同化したユダヤブルジョワ階級であった。有力階級はドイツ語を話していたが、80%がチェコ人であるという社会環境の中で、幼児のマウトナーは、家庭ではドイツ語を強制されることになる。だが、プラハに移り、社会的な広がりに気づいてゆくなかで、マウトナーは自分が使ってきたドイツ語は「紙の上のドイツ語」、父親から強制され、学校で学んできた「父の言語」であることを痛感する。結局、マウトナーにとって、このドイツ語、そしてチェコ語やイディッシュ語も、生の実感を伴わない言語であり、「死体となった三言語を自分の言葉の中に運び込む」しかなかった。

 「オーストリアのスラブ地方に生まれたユダヤ人」が、このような環境の中で、言語の考察に向うことは自然であった。作家でありジャーナリストであったマウトナーは、事実『言語批判論』を書くことになる。

 多言語、多文化状況は個人にとってアイデンティティとの関係の上で2つの関係を結びうる。複数性は、アイデンティティを単元的に考えれば、その根拠の不在は、自己の脆弱さに結びつく。それに対して、その複数性自体を豊かさに結びつけることもできる。マウトナーが前者であったのに対して、後者の例として、Le Riderは同じプラハ出身のユダヤ系家庭で生まれたジョージ・スタイナーを挙げる(ただし、スタイナーが生まれ、育った場所はパリ)。スタイナーと比較すれば(それが可能という条件においてだが)、マウトナーがきわめてペシミスティックなのがよくわかる。プラハの民衆のドイツ語を実際には知ろうとしなかったり、彼の言語観が懐疑論に陥っていったのは、根本的に現実を回避する性向を認めざるをえない。
 
 プラハのユダヤ人の家庭に生まれたフランツ・カフカ(1883-1924)はドイツ語とチェコ語の完全なバイリンガルであった。当時のプラハでは、母語ではなく慣用として使っていることばが国籍を決定した。商業を営むユダヤ系のカフカの家が、チェコ(語、国籍)を選択したのはもっぱら商売上のことであり、その中でカフカ本人だけが後になってドイツ(語、国籍)を主張することになる。

 カフカは、ドイツ語教育のギムナジウムに進むが、その間、最終学級までチェコ語を選択し、優秀な成績を収めている。ミレナの手紙の中では、「ドイツ人の中で暮らしたことはなくても、ドイツ語が母語であるが、チェコ語は自分の心に近い」とドイツ語で、ミレナのチェコ語で書かれた手紙に返信をしている。また就職の際の履歴書はドイツ語とチェコ語の両言語で作成され、仕事上の作業言語はチェコ語であった。

 だが時代状況の中で、カフカは、ドイツ語を母語とすることに疑問を抱く。それはたとえばクラウスが示した揶揄、同化ユダヤ人の話すドイツ語がmauscheln「わけのわからないことば」とされることに象徴される。実際には言葉の間違いなどどこにもない、だが完璧さゆえに一層揶揄されるという、反合理的主張が反ユダヤ主義の台頭によってなされ始める。ここからカフカの有名が次のことばが生まれる。

書かないではいられない、ドイツ語で書くことはできない、別の書き方をすることはできない、そして4つの目の不可能性、書くことができない...

 このドイツ語を母語とみなすことの不可能さは、ユダヤ人の母をmutterとドイツ語で呼ぶことの滑稽さにも関わる。また母親自体のドイツ語は、オーストリアの風の、そしてイディッシュの単語を含んだドイツ語であった。

 そしてカフカと言語との関係で、大切になるのは、もちろんイディッシュ語との関係である。イディッシュ語にカフカが惹かれたことは1912年の「イディッシュ語についての演説」で明らかである。その内容をLe Riderは次のようにまとめている。

Selon Kafka, le yiddish est une langue de l'exil et de l'aliénation, une langue parlée, échappant au contrôle des grammairiens, libre de toute norme scolaire et culturelle, concise, simple et authentiquement populaire.
 
カフカによれば、イディッシュ語は、放擲と喪失の言葉であり、文法家たちの軛を逃れた話言葉であり、学校と文化が作るあらゆる規範から自由であり、簡明、完結で真に民衆の言語である。

 だが、カフカにとって、イディッシュ語はあくまでも想像するしかない言語であり、彼にとっては「失われてしまった母語」なのである。カフカはイディッシュ語を学ぼうとする。しかしそれは、「夢の後を追いかけている」に過ぎなかった。
 ではどうすればよいのか。カフカは、ドイツ語を出来る限り漂白して使うことを決意する。その起源、文化的要素、凝った表現などを極力排して、カフカは「貧しさの豊かさ」という言語へと至るのである。
 
 エリアス・カネッティ(1905-1994)は次のように書いている。

Toutes les langues que l'homme devrait posséder : une d'abord pour parler à sa mère, et qu'il n'utilisera plus jamais par la suite ; une exclusivement pour lire, et dans laquelle il n'ose écrire ; une dans laquelle il prie, et dont il ne comprend pas un traître mot ; une dans laquelle il fait ses comptes, réservée aux seules préoccupations financières ; une dans laquelle il écrit (sauf ses lettres) ; une qu'il parle en voyage, et dans laquelle il peut aussi écrire ses lettres.
 
人間が保有しているはずであろうあらゆる言語。一つ目は母親に話しかけるための言語。これはその後使うことはなくなる。ただ読むための言語、それを用いて書こうとはしない。祈りを捧げるための言語、それについてはこれっぽちも意味を理解していない。計算のための言語、これはもっぱら経済的な心配のために使われる。書くための言語、ただし手紙は異なる。旅行中に話すための言語、これを使って手紙を書くこともできる。

 カネッティの場合、言語の複数性は両義的である。それが個人の内面の豊かさを作ると同時に、不安をもかき立てる。またカネッティには、言語への不信もある。例えば『マラケシュの声』では、言葉では捉えられない、出来事、イメージ、音がそこには展開していたと言われる。

 では彼の幼年時代の言語状況はどのようなものであったのか。カネッティが生まれたブルガリアのルスチュクでは、カネッティによれば、7つから8つの言葉が聞かれた。その中で、彼の母語は、その出身である。ユダヤ・スペイン語、セファルディの言葉であった。とは言え、日常ではブルガリア語も話し、また両親は2人だけの間では、ドイツ語を話した。6歳のときにはマンチェスターに引っ越しをする。ここでは英語だけではなくフランス語を学ぶことになる。しかし父親の死後は、ウィーンへとまた引っ越しをする。そしていよいよドイツ語が、母親によって課せられる。いきなり強制的に母親から覚えさせられたドイツ語が、カネッティにとっての母語となるのだ。したがってその母語は、両親に独占されていた言語であり、父の死後はその穴を埋めるように母親に課せられた言語、すなわち、幸福と苦痛、愛と代理の言語だったのである。その後祖父によってヘブライ語を習わされるが、もはやカネッティにとっては、最初の母語ユダヤ・スペイン語が、母の言語ドイツ語によって消し去られて以後、ヘブライ語は「余分な言語」であったと言える。

 筆者によれば、芸術観賞には2つの態度があると言う。ひとつは主観的・現代的享受、もうひとつは客観的・同時代的理解である(p.93.)。後者は、当時の時代状況、作家の意図、様式の特徴などの知に基づいて作品にアプローチする学問的方法である。この場合、私たちは無知から出発し、私たちの外にある知を手に入れることが、作品の理解だと考えている。

 それに対して前者は、見ることから出発する。だが注意しなくてはならない。見るといったときの観賞行為とは「視覚の冒険であり、頭の体操であり、心の遍歴」である。すなわち、ここには持続があり、思索があり、見た後に体験が形成されていくということだ。その意味で、単に見て、美しいものに触れたと言って感動して、絵の前を通り過ぎることでは全くない。それは筆者に言わせれば「陶酔」に過ぎないのだ。陶酔とはことばの要らない状態である。ことばがいらないので、見ているだけで、見つめてはいない。見つめていないので、作品との対話がない。ただ主観的に満足しているだけで、他者との回路もひらかない。

 見るとは持続的な行為であり、持続のなかで、自己の体験と重ね合わせたり、自分なりに味わってみたり、あるいは想像を働かせる能動的な行為なのだ。

 正解のある知識を詰め込むのではなく、見るという能動的な行為によって、自分なりの解釈、そして言葉を生み出せるように誘うのが「観賞教育」である。この本の魅力は、観賞教育の理論的意義を、具体的な実践によって解きほぐして展開している点にある。幼稚園児から大学生まで実践例は幅広いが、モネの『睡蓮』を見た幼稚園児が「かえるがいる!」と絵を指した例は興味深い。ここで幼稚園児は描かれていない睡蓮の水の中を想像しているのである。芸術行為の条件のひとつは、見えているものを通して、不在なものを喚起することにある。なぜならば、そのような喚起こそが、意味の多様性、世界の豊かさを私たちの前に提示してくれるからである。これこそが筆者の言う思索的・能動的に見るということであり、この実践こそが観賞教育なのである。

 筆者はこうした能動的な見る行為は、映像メディアが発達した現在でこそますます重要性を帯びると指摘している。なぜならば、私たちは自ら見つめる必要なく、カメラに移されたものを見てしまえるからである。しかも問題はそのカメラの視点は、「他者に誘導された」ものであるにもかかわらず、それを意識していないところにある。私たちは誰かの目を「追認」するだけで、自ら考えようとはしない。だが「見ることは、本来、探索的であり意味構築的な行為」(p.171.)である。

 そしてこれが教育実践である以上、もう一点重要なことがある。それはこの教育実践が対話によって成り立っている、すなわち、見つめることによって主観の中に生まれた思索は、ことばによって表現され、他者の前に現れる。それが他者によって咀嚼され、表現は広がり、修正され、協働作業を通して、意味が深まってゆくのである。

 絵画鑑賞は趣味ではない、趣味の世界では自分を満足させることばさえあればよい。いや、ことばさえなくとも陶酔の体験があればよい。絵画鑑賞は知識の充足でもない。知識という言語はすでに私たちが考える前から外部に厳然と存在しており、私たちはそれを受け取るだけである。絵画鑑賞とは、「美術作品と鑑賞者が引き起こす現象」であり、「作品と鑑賞者の総合作用よって」、意味が生成されるのである(p.94.)。そして観賞教育とは、他者との相互作用の実践であり、その対話を通して意味がやはり生成される、社会構成主義的行為なのだ。その意味で観賞教育とは、ひとつの創造的営為なのである。

 Éthique et Infini『倫理と無限』は、仏ラジオ局France Cultureで放送された対談をおさめている。第1章はBible et Philosophie「聖書と哲学」である。レヴィナスにとって聖書と哲学書は対立するものではなく、実はそれらを読む行為がそのまま解釈行為になるという意味において、とても近い存在である。

 そもそもレヴィナスにとって、宗教や哲学そして本人の知的形成に寄与した文学(シェークスピア、19世紀ロシア小説)、そして研究の出発点で出会った社会学(デュルケム)に置いても、書物を読むということは、決まりきった知を、固まりきった信仰を受け取るためではない。書物とは私たちの存在の一様態であり、それは今ある現実を、今ある我々自身を越えて、「存在するのとは別の仕方」で存在することを可能にする。
 考えることはこの別の仕方の存在を生み続けることだ。レヴィナスは対談の冒頭で「考えの始まりには何があるか?」と問われ、次のように答えている。

Cela commence probablement par des traumatismes ou des tâtonnements auxquels on ne sait même pas donner une forme verbale : une séparation, une scène de violence, une brusque conscience de la monotonie du temps.
 
それはおそらくは、私たちがことばという形を与えることさえできない外傷(トラウマ)や手探りな状態から始まるのです。別離、暴力的な場面、時間の単調さに突然気づいたときに。

 ここではもちろん、ことばにできない体験があると言って、表象不能な体験を保存しているのではまったくない。これらの体験は問いかけの対象となり、思考の始まりとなるのである。むしろ既存の知識の枠内に保存してしまうのではなく、それらを取り払って、あらためて志向する、現象学的態度を問題にしているのだ。

 ただ、レヴィナスにおいて現象学とは学派の意味ではなく、おおよそ彼の思想の根本的態度を意味している。既成のものとして乾いて固まってしまった現存から離れ、忘れられた思念の地平まで遡ること。存在について問い直すことが現象学的態度であり、そこにまた問いが生まれてくるのだ。「あるものはどのようにしてあるのか?」「あることの意味は何か?」と。

 聖書にむかう態度も同様である。聖書とは解釈の対象であり、解釈にゆだねられ、意味を生んでゆく豊かな深みをたたえた書物だ。上に述べたように、おおよそ読むとは解釈をすることであり、そこに意味と思想が生まれてくる。そして偉大な哲学者の書物もそうした読みを可能にする。
 さらにこの根本的態度はベルグソンとの関係にもあてはまる。レヴィナスにとってのベルグソンの時間論は、時間がリニアで同質なものへとは還元できないことに大きな意味がある。そのような時間は、レヴィナスにとっては新しさの可能性のない、未来への可能性のない世界に身を置くことであり、それはすべてがあらかじめ決められているような、かつての決定論が支配する世界に身を置くことに等しい。

 レヴィナスの思想には常にこの生み出すこと、生み出す運動によって、自らが可能性の中で変化すること、言葉や知によって固められた客観性から自らを解き放ち、自己を創造すること、すなわち「絶えざる刷新」があるのだ。だがそれは飛躍的な信仰、神秘的な精神性によるのではない。あくまでも知性を厳密に適用し、書物との対話のなかから批判に耐える解釈を生み出すこと、それによってはじめて「新しさ」が生まれてくるのだ。新しさは、刹那的な突飛なものではない。人間をたえず新たな可能性へとひらいていく新しさとしてそれはある。

 ジョージ・スタイナー『悲劇の死』第一章では、「悲劇」の意味が定義される。スタイナーにとってそれはギリシア悲劇であり、その後の時代の作品であっても、あくまでもギリシア的なものである。

 ギリシア的なものは、たとえばユダヤ的世界観とは無縁である。『ヨブ記』で確かにヨブは、神から様々な苦難を強いられる。しかし、その結末においては、神から財産を二倍にして返され、その後も長寿を全うする。エンディングは償いと幸福なのである。スタイナーは「償いがあるところには、正義はあっても悲劇はない」と言う。ここには不条理も理解の不可能性もない。あくまでも正義と理性が貫かれた世界である、というのがスタイナーの認識である。

 マルクスは「必然は理解されない場合にのみ盲目である」と言ったが、悲劇とはまさにその逆で、人間は必然の中にいて、しかも人間はその必然の理由を見ることができない。人間は「暴虐や気まぐれ」にさらされ、トロイアの町は炎上するが、この結末は「終局的」であり、その結末は人間の理解を越えてしまっている。ギリシア悲劇において、人間が知っていることは、ただ「運命の働きを理解することも支配することもできない」という絶対的事実だけである。

 たとえばペロポンネソス戦役は、この悲劇的精神の表れである。なぜならば人間は「憎悪を伴わぬ怒りのままに互いを殺し合おうとして出て行く」からだ。ここで、スタイナーは、この戦争による荒廃は今日でも変わらないと付け加えている。戦争について、スタイナーは、技術が発達すればするほど、人間はその科学的世界の前でかえって弱体化し、その技術によってますます戦争は残酷になってきたと言いたいのであろう。

 スタイナーは、悲劇は人間を支配する「理性や正義の及ばぬ」力だけではなく、「悪魔的エネルギー」をも持っていると言う。ギリシア悲劇の登場人物たち(アイスキュロス『テーバイに向う七将』のエテオクレス、アンティゴネ、オイディプス)は、内心では自らが破滅に進んでいることを知っている。それにも関わらずその破滅に至る行動へと突き進んでいく。それをスタイナーは警句のごとく、ギリシア人にとっては「知識と行動の間には(...)アイロニカルな深淵がある」と述べる。

 ギリシア悲劇において災厄の原因は、人間のあらゆる現実的な手段ー法、精神医学、経済的措置ーを持ってしても払拭することはできない。ましてや償れることなどありえない。失われたものは決して元通りにはならないのである。その意味で、悲劇は「とりかえしのつかないものの」のことなのだ。

 人間の知りうる領域は限られており、その外には広大な「他者性」が無限に広がっている。

 最後にスタイナーはギリシアの悲劇性が具体的に要約された作品として『バッコスの信女』の終わりに言及する。具体的な引用ではなく、そのくだりの説明があるだけであるが、例えば次のようなディオニュソスとカドモスの娘アガウエーのやり取りが、スタイナーの説明箇所に該当するだろう。

アガウエーお慈悲を、ディオニューソス、私どもは非礼をはたらきました。
ディオニューソス分かるのが遅すぎた。肝腎の折に無知だった。
アガウエー今は認めます。しかしあなたも余りに厳しく我々を責められる。
ディオニューソス神にもかかわらず、侮辱を受けたのだから、当然のこと。
アガウエー神々が気性を人間と同じくするのはよくない。
ディオニューソス我が父ゼウスは、はるか昔よりそれを認めている。
アガウエーああ、決定だ。父よ、無情な追放が。
ディオニューソス不可避のことを前にして、何をぐずぐずしているのか。
(...)
コロス神の引き起こす出来事の 姿は多様であり
神々が人間の希望を裏切って 成就されることも多様である。
予期したことは かなえられず
予期せぬことに 神は道を見つけ出す。
この出来事もかくのごとく終わるのである。
『バッカイーバッコスに憑かれた女たちー』
(『ギリシア悲劇全集9 逸見喜一郎訳)

 スタイナーは、「われわれは犯した罪よりもはるかに大きな罪を受けるのである」として、悲劇の不条理さをまとめている。

 しかし、この人間の苦しみは同時に「人間の尊厳を主張できる根拠」になる。私たちは決して、元に戻ることはできない。だがこの試練を通り抜けることで、「人間は崇高になる」とスタイナーは言う。悲劇を経た後の人間精神の尊さによって、私たちの中で「悲しみと喜び」が、「歎きと歓喜」が溶け合うのである。

 スタイナーは、この悲劇の精神は、西洋の歴史において『リア王』や『フェードル』などの作品を貫いてきたと言う。第二章以降で行なわれるのは、この数千年にもおよぶ精神史を演劇作品を通して、その悲劇の死までの道のりを辿ることである。

Jean Giono, Je ne peux pas oublier (1936)

 1936年11月15日、雑誌『ヨーロッパ』特別号「1914-1934」に掲載されたジャン・ジオノのエッセイである。第二次世界大戦開戦の予感のなか、20年前に第一次世界大戦に徴兵された「生き残り」として、ジオノはこの文章を書いた。

 この文章にはジオノの3つの明確な意図が直接的な筆致で書かれている。ひとつ目は、20年たった今でも生々しくよみがえってくる戦争の記憶である。ふたつ目は、その体験に記憶によって貫かれた反戦主義の主張である。そして最後が、20年たってますます強化される戦争と資本主義の密接な結びつきに対する痛罵である。
 
 ジオノにとって戦争の記憶は、タイトルが示す通り未だに「忘れられない」生々しさの体験である。その体験の深刻さは、記憶が本人の意識とは無関係に想起されてしまう点にある。

Je passe des fois deux jours ou trois sans y [= la guerre] penser et brusquement, je la revois, je la sens, je l'entends, je la subis encore.
 
私は戦争のことを考えず、2、3日過ごすことも時々はある。しかし突然、戦争は目の前に再び現れる。私は戦争を感じる、戦争が聞こえる。こうしてまだ戦争を被っているのだ。

 戦争は過去の出来事ではなく、未だに身体感覚としてよみがえる体験なのだ。しかもそれは自分でコントロールをきかせることのできない、異物としてのトラウマ体験である。ジオノが属した中隊でも、おびただしい兵士が亡くなった。その中で生き残ったのは自分ともう一人だけであったとジオノは記している。

 自分の傍らで次々の仲間が殺されていく。それはきわめて体感的なイメージとして再現される。「死者の臭い、はち切れた腹、鳥につつかれた目玉、腐っていく死体」のイメージは固定したままで、そのまま再現されてしまうのだ。

 ジオノは、この文章の最後で、殺された仲間の兵士たちの名前を、Devedeux, Marroi, Jolivet, Veerkampと挙げ、彼らの姿を今でも思い浮かべ、また、彼らの声が聞こえるという。ジオノは20年たった今も、その死者に取り巻かれて生きているのである。

 ここで大切なのは、ジオノがこれら仲間の死を「無駄死」だったと捉えている点である。戦争が愚かなのは、それが全く無用なものであるからだ。私たちは正当な理由があるときには、ときに私たちは自らを犠牲にすることを厭わない。病に冒された人を助けようと、自らの体の状態に構わず懸命に看病する人がいる。だが戦争における犠牲としての死は、何の役にも立たないのだ。

[...] vous vous sacrifiez à la patrie (...) mais enfin, à votre prochain, à vos enfants, aux générations futures. Et ainsi de suite, de génération en génération. Qui donc mange les fruits de ce sacrifice à la fin ?
 
祖国のために犠牲となる、(...)そうだとしてもやはり、近親者のため、子供のため、そして未来の世代のために犠牲となる。そうして、さらには次の世代のために。では結局この犠牲の果実を味わうのは誰なのか?

 この問いに対してジオノはそれは資本主義であると言う。資本主義とは、人間の生命を「資本生産のための本当の第一原料(matière véritablement première de la production du capital)」として扱う体制である。ジオノにとって、戦争の本当の意味は「大惨事」ではなく、「統治の方法」であり、資本の生産のために戦争は優れた道具なのである。

 第一次世界大戦を体験し、数多くの殺戮と死者を見たジオノにとって、書くことの意味は明確である。生を死へと奉仕させないこと、生を資本収奪の道具とさせないこと、戦争に反対する理由は何ものにも利用されない生を描くことにつきている。

 とても短い文章であるが、ジオノの戦争体験、そしてこの時代ならではのマルクス主義的左翼思想、そして小説作品の根幹である生命の謳歌、これらのジオノの特徴が凝縮したテキストである。

MORTS POUR RIEN

 戦争で命を落とした兵士たちの死を、犠牲という名のもとに、栄光に満ちた尊いものとして祭り上げる。国家が巧妙に行なう、この死者の神格化の隠しえない目的は、現実のあり様を忘却に付すことである。死者を冒涜すべきではない、その死は無駄ではなかったという、一見あらがい難い論調は結局は国家による思弁であり、それに飲まれて私たちは現実を見る目を失っていく。戦場での死の現実とは、死体に刻まれた激しい暴力の痕である。

 この章でTrevisanが取り上げるのは、こうした国家が張り巡らす死者への意味付けを、さまざまな方法で無化させようとする作家達の表現である。例えば、DorgelèsのCrois de boisでは「価値の転倒」が行なわれる。「祖国のために死す」と題された章で、実際に展開されるのは、命令に背いただけでむごたらしく殺される兵士の姿であり、「勝利」と題された章で描かれるのは、勝利の代償である「死者」である。

 戦争の犠牲とは本来ならば不戦へと至るべきものであるが、そうした思いは、次の大戦の到来によって意味を失う。先の大戦の死者は、次の大戦の開始によって、自らの死が無駄死にだったのだと認めざるをえない。Guéhennoの自伝形式の物語Journal d'un homme de quarante ansは、1890年に生まれてから現在までの自己の体験が語られているが、それが語りの現在、すなわち第二次世界大戦の到来を予感させる1934年に書かれていることが重要である。すなわち語りの現在とは、語られた出来事が現実に繰り返されようとしている現在である。

Je vois ces foules qui, cet après-midi, ont défilé à Berlin devant [...]Adolphe. [...] J'entends le bruit des lourdes bottes frappant l'asphalte. [...] Les deux cadavres passent, les héros de la fête, et voilà que montre en moi, comme en cette foule aux mains levées, je ne sais quel goût de ténèbres. Peut-être n'en somme-nous que là encore ? Peut-être est-il aussi vrai qu'inconcevable que les hommes ont le goût du sang et de la mort.
 
午後、アドルフの前を行進してゆく人々の群れが見える。アスファルトを打つ思い軍靴の音が聞こえる。2つの死骸、今日の祭儀の英雄達が目の前を過ぎていく。すると自分の中にも、そして敬礼をする群衆たちの中にも、言いようもない暗闇への嗜好が生まれてくる。もしかすると我々はまだそんな場所にいるのだろうか?人間が血と死への嗜好を持っているということは、おそらくは考えられないことであると同時に十分な真実なのかもしれない。
 
La terre a bu du sang, les os deviennent cendre, le grand cimetière des nations est tout envahi par les herbes. Tout sera prêt bientôt pour une nouvelle moisson.
 
大地は血を吸い、骨は灰となる。民族の大きな墓地は草で覆われる。そしてまた新たな収穫をもうじきむかえようとしているのだ。

 Guéhennoのこの叙述に見られるように、第一次世界大戦の死者の教訓は結局どこにも生きていない。むしろ死者を栄養として、また新たな死者が生まれようとしているのだ。

 Trevisanは、この「反復効果」を語りの構造の特徴とする作品をいくつか挙げている。Claude SimonのL'Acaciaでは第一次世界大戦で戦死した父と、第二次世界大戦に動員される息子、Jean PerretのRaisons de familleでは、第一次世界大戦で戦死した叔父と、アルジェリア戦争に出兵する甥が、重ねられる。

 これらの構造からわかることは、時を経ることによって、戦死者に与えられていた当初の象徴的な意味ー犠牲と名誉ーが失われていくことだ。

 第一次世界大戦で父を失ったCamusのLe Premier hommeでは、複数の視点(Trevisanは、夫をなくした妻、父をなくし、現在は大人になった語り手、そしてCroix de boisの一節を聞かされる語り手の子ども時代の3つを指摘する)が用意される。妻は、第一次世界大戦という歴史を理解することはなく、その理解しえない戦争の中で夫を失う。語り手は、父親もふくめたズワーヴ兵(アルジェリアのアラブ人、フランス人で編制された歩兵隊)たちが、次々と殺されていく場面を描写する。そして、語り手の子ども時代、彼は、戦争を人間の肉体の破損として思い浮かべる。いずれも戦争、そして父の死は、戦場の名誉とは遠く隔たった現実として描かれているのだ。
 
LA FIN DS HÉROS : VICTIMES ET BOURREAUX

 戦死兵士の信仰を揺るがすのは、荒廃とグロテスクの表象である。たとえばGenevoixの兵士は、けだもののようであり、また自動人形の状態のように描かれる。そして兵士たちは何よりも被害を受けるvictimesとして捉えられる。例えばCéline, Voyage au bout de la nuitの主人公バルダミュは、ドイツ兵の標的であり、弾が飛び交うなかで決定的に無力な存在である。

 このvictimesを最も印象深く象徴するのは若者の死である。「早すぎる死」は、例えばPéguyによって美化された対象として描かれるが、これに対してGuéhennoは猛烈に反発をする。Guéhennoは、こうしたヴィジョンがうたわれるのは、「若くして死ぬ者は、神に愛される」という古くからの決まり文句があるが、実は暴力に威光をもたらすことに他ならないと言う。

 そもそも若者たちは、大人たちの責任を取らされて、その犠牲者になるのだ。Raynalの戯曲Le Tombeau sous l'Arc de triompheでは、父と子の役割が逆転したことが述べられる。すなわち、子に命を与えたのは父であるが、今やその父の命を守っているのは子に他ならないのである。

 特に第一次世界大戦は、強い者が勝者として生き残るというこれまでの戦争観を逆転させた。なぜならば、未来を作っていく若者こそが犠牲になっているからだ。Genevoixの言葉によれば、「戦争とは、若者が死を宣告される行為」であり、またDuhamelによれば、墓場は、老いと病の結果ではなく、「若くて頑強な人間たちの場所」となってしまった。

 次世代に属する語り手たちが大人になったとき、その前の世代の若者たちは、すでに彼らよりも歳下になり、彼らこそが「子ども」となる。例えばLe Premier hommeでは、父は29で亡くなり、その墓の前に立つ子どもは40歳である。Paul Ricœurは「墓碑は、私の父という子どもについて、歳を取り続けるもう一人別の子どもに語りかける」と語っている。

 子どもの死骸が多く描かれるのも上述のことと関係している。DorgelèsのCroix de bois, CélineのVoyage, GionoのGrand Troupeauなどでは、いずれも凄惨な子どもの死体が描写される。

 犠牲者としての兵士像は、戦争小説において、普遍的なテーマと言ってよいが、戦争が、日常生活における禁止ー殺人、暴行、窃盗ーの解除であるならば、このテーマから、もう一つ別のテーマが導かれる。TrevisanはFreudのConsidérations actuelles sur la guerre et sur la mortを引いて、戦争という例外状態で、これまで抑圧されてきた欲望が解放され、個人が暴力的な振る舞いへと至ることに、しかも文明社会においてもそうした状態が生まれることを指摘する。そして犠牲者としての兵士を描きながらも、そこには、荒々しく、暴力的で卑劣な兵士像も描き込まれることになる。bourreaux「虐待者」としての兵士像である。

 こうして精神病理として兵士の暴力が描かれる。例えばCélineは、「怪物」、「倒錯者」、「激高する人間」、「罪人」として兵士を特徴づける。

 犠牲と虐待の両義性を考える上で示唆的なのは、Blaise CendrarsのJ'ai tué (1918年)とJ'ai saigné(1938年)の2つの詩編である。前者で語られるのは、人間の技術、創意がはからずも動員されてしまう戦争という機械であり、自らが生きることを望むばかりに敵を殺す人間の行為である。一方後者で描写されるのは、「拷問、苦しみそして死の世界に引きづり込まれた、切断された肉体の痛ましい痙攣」である。

 そして最終的に、兵士を犠牲者であると同時に虐待者としてしまう戦争が行き着くのは、自己破壊である。この戦争のもたらす不条理さ、無意味さを思想的にひきとったのがダダイスムやシュルレアリスムといった戦後の芸術運動である。

 こうして戦争の犠牲と栄光の正当性はつよく疑義にふされる。これらの兵士たちの描写を通して、言えることは、戦争とは結局「集団的狂気の中での、もはや留まることのない残虐さと人間的愚かさの究極の象徴」なのである。

 パリ第七大学准教授(本書刊行時)Carine Trevisanが同大学に提出した博士学位論文が本書のもとになっている。第一次世界大戦を扱った文学作品における死者と喪の表象が考察の対象である。第一次世界大戦とは大量破壊兵器が用いられた最初の戦争であった。大量破壊兵器は、多くの兵士を殺すだけではない。その兵器によって死者の死体(corps)は時にもはや生きていたときの形をとどめることなく破壊されつくされる。同時に第一次世界大戦は、その死骸(cadavre)としての個別の現実が捨象され、死者が、一つの象徴として、抽象的な記号としての機能を社会の中で負わせられた初めての戦争でもある。

 第一章«Le culte défait : La puissance de larmes(解体された信仰、涙の力)»では、死者の社会的機能とその機能に抵抗する喪の象徴としての涙が分析の対象である。

 Louis GuillouxのLe sang noir(1935)、Roland DorgelèsのBleu horizon(1949)では、兵士の死体は原型をとどめないほどの損傷を被った死骸として描写された事実がある一方で、第一次世界大戦においては、死者はひとつの像として、「尊い犠牲」という意味を付与され、具体的な死体から離れ、抽象化される。さらには、傷ついているのは、むしろフランスという国自体とみなされ、個々の肉体を持った兵士の死は隠蔽されていく。

 このような死者の国家への回収が行なわれるに至ったのは、第一世界大戦参戦のフランスの大義のひとつが、「ドイツ文化(軍国主義的文化)に対して文明を守り、戦争をなくす」であったことに関係している。大義が目的として掲げられると、死はその手段に過ぎなくなる。すなわち、国のための、フランスのための、自由のための死と意味付けされていったのだ(p.4.)。

 それに対して涙とは悲しみの、そして永続する悲嘆の象徴である。戦死が国のために命を捧げることならば、それはむしろ喜ばしく、讃えられるべき出来事だ。反対に悲嘆の涙は死者の神格化を阻んでしまう。喪に浸り続けることは、国の意味づけを拒否することにもなる。だからこそ、例えばTrevisanが引用するPierre Drieu la Rochelleは、戦死した友人の妹に宛てて、お悔やみではなく、死者を称揚する手紙を書いたのだ。第一世界大戦とは、死者に国家の名において栄光が与えられる初めての戦争であったのだ。

 喪とは、死を受け止めらられず、理解できずに悲しみにひたる状態である。だがこの状態は、死者が国の管轄に回収されることによって、うやむやにされてしまう。代わりに全面に出てくるのが、世界の自由、あるいは民主主義を守るためという大義であり、それらが生よりも上位の価値としておかれることになる。

 さらには兵士の死は神格化を被る。Georges Duhamelが自らの証言をVie des Martyrs(殉教者の生)と名づけたように(p.6.)、兵士たちは信仰のため命を捧げる、国のための殉教者に例えられる。Teillard de Chardinが書いたように、戦場自体も聖化され、名誉の戦場と化する。

 こうして死者は象徴化されるのだが、それは同時に具体的な肉体を失い、死者が抽象化されることも意味する。1921年1月28日凱旋門下で行なわれた無名兵士の墓の儀式では、誰のものかもわからない死体が戦場から運ばれて、ここに埋められた。その死体は、肉体性を削がれた「フランス兵士」という固有名詞ではなく、普通名詞の象徴以外の何ものでもない。匿名の中に解消されることによって、国家の哀悼のなかで、死者はフランスの勇敢さの象徴として永久の命を否応なく与えられるのである。

 喪の悲しみはできる限り節制されなくてはならない。その例証としてTrevisanはプルーストの一節を引く。サン=ルーの手紙である。

Les pauvres parents ont eu la permission de venir à l'enterrement à condition de ne pas être en deuil.
 
「気の毒な彼の両親は葬儀に立ち会うことを許されたけれど、喪服は着用しないこと(...)というのが条件だった」(鈴木道彦訳、見出された時I, 集英社文庫版 p.133)

 プルーストは、別の箇所でも、外交官や軍人が、国家の栄光こそ重要であり、悲しみを隠す態度に言及している。それについてプルーストは、男らしさ、勇敢さの価値に染まる彼らの、悲しみに対する軽蔑の態度を「不快で、醜いこと」であり、「嘘っぽく空しいもの」であると批判する。プルーストは、政治的、公共的な言葉が押しとどめることのできない、悲しみに打ちひしがれる人間の狼狽する姿を描く。

Mais le pauvre père était dans un tel état que je t'assure que moi,[ qui ai fini par devenir tout à fait insensible, à force de prendre l'habitude de voir la tête du camarade qui est en train de me parler subitement labourée par une torpille ou même détachée du tronc,] je ne pouvais pas me contenir en voyant l'effondrement du pauvre Vaugoubert qui n'était plus qu'une espèce de loque. Le général avait beau lui dire que c'était pour la France, que son fils s'était conduit en héros, cela ne faisait que redoubler les sanglots du pauvre homme qui ne pouvait pas se détacher du corps de son fils. (p.2176. Quatro Gallimard)
 
ぼくは、自分に話しかけてくる戦友の顔がとつぜん弾丸でぐしゃぐしゃにつぶれたり、胴体から引きちぎられたりするのをあまりにたびたび見てしまったものだから、感覚がまったく鈍っていたのに、そのぼくでさえ、気の毒なヴォーグーベール氏がまるでぼろ切れか何かのように泣きくずれるのを見ると、とてもこらえていられなかったくらいだ。将軍は、これはフランスのためで、ご子息は英雄として振舞われたのです、と言ったけれども、何にもなりはしない。それは気の毒な父親をますます激しく嗚咽させるばかりで、彼は息子の遺体にとりすがってもう離れようとしないのだ。(同訳、p.133.)

 Trevisanは[...] の部分を省略して引用しているが、ここでプルーストは、セリーヌを思い出させるほどの生々しい筆致を持って、戦争の死とは、ひとつひとつの肉体の破壊に他ならないことを示す。父にとって子どもは英雄でも兵士でもなく、生身の体そのものなのだ。涙はこうして兵士の神格化の抵抗となる。

 Trevisanは他にも、André Pézardという人物の証言(1918)、Jean Guéhennoの作品(1934)を引いて、喪と苦しみの象徴である涙が、「禁欲とあきらめの呼びかけ」である死者称揚の言辞を揺るがすものであることを論じる。

 BarbusseのFeu(砲火)においても、この国による意味づけが批判される。この作品においては死の栄光化と聖化はほとんど重みを持たない。この作品で描かれるのは、庇護と慰めの神の不在である。それは塹壕で、フランス軍兵士が「神は我々と共にあり!」と気勢を上げるのと同時に、ドイツ軍兵士も同じ言葉を叫ぶ場面を通して、描かれる。

 Barbusseは宗教的な言葉遣いによる死者や戦場の表現は、実際には「嘘と不毛」以外の何ものでもないと断罪する(p.16.)。この点において、Barbusseは「戦場の死者を聖化し、祖国を神格化することを冒涜」と考えるBernanosにつながっていく。第一世界大戦とは実は、「神を追放した戦争」(Maurice Genevoix)に他ならないのだ。
 
 多くの死者を出した第一世界大戦では、「喪の共同体」が生まれる。みなが喪に服し、また戦後はそこからの復興、喪の作業の終結が語られる。しかし、いかに社会の中に多くの死者が生まれようとも、喪は運命共同体には回収されない。Brice Parrainは、若い時に体験した3人の死者は、「大きな不幸の中に解消はされず、永遠の重みを持ち続ける」と言う。

 以後、この「永遠の重み」が、多くの自伝的文学の中で、喪失というモチーフのもと、言及されるようになる。Trevisanは例としてClaude SimonのAcacia(アカシア)、L'Herbe(草)、Jean RouaudのLes Champs d'honneur(名誉の戦場)を挙げている。戦争における死は、perte sèche(何によっても埋めることのできない喪失)であり、他の意味への流用を完全に拒否するものとしてこれらの文学作品の中では表象されるのである。

 時間の流れと意識の流れはどのように浸透しあうのだろう。そもそも時間の流れは私たちには決して意識できないものではないだろうか。なぜなら時間の流れを意識するとき、時間は止まってしまうからだ。どれほど流れているように見えても、私たちの意識は、過去や未来のように区切りを差し挟み、ようやく事態を把握する。たとえ現在を意識していても、たとえば目の前に車があり、その横には人がいて、と行動に託して認識するように、行動と行動の間には、どれだけ瞬時のものであっても時間が刻まれる。区切りや刻みは、どこかで時間の流れを切ってしまうことを意味する。

 時間という人間の世界を置き去りにする流れと、意識という人間に内在する流れ。この解き難い二つの流れをどう考えるのか、十分哲学的な主題になる解き難い問いを、この作品は日常の地平で明晰に描いてみせる。主人公砂羽は、離婚し、契約社員として働いている30なかばの女性である。私たちは彼女の意識や、他者関係の生き辛さを通して、時間の流れと意識の流れの繊細な混濁に気づく。

 砂羽の意識の流れは、作品内で「脳内会議」と形容される。それは現実に係留しているはずが、いつのまにか幻想へと沈んでいくずれとして、本人に意識される。脳内会議の間、時間は流れていくが、本人は時間を意識しない、その会議を意識したときに、時間が静止する。その描写はきわめて精緻である。

 彼女は、自らの<今、ここ>に、そこはかとない居心地の悪さ、根拠のなさを感じつつ、その<今、ここ>から離れていく。ここにいながら、気持ちが遊離していく。ここにいながら、まわりとはかすかなずれがある。そのたゆたいのなかで、他者との距離を感じる。ごくわずかなのにその距離が縮まろうとしない。同じ空気に接しているのに、その透明な空気が不思議な弾力をもち、近づくことを許してくれない。

 精神のバランスがおかしくなるのではというところまで、砂羽はその距離を見つめる。都会のような多くの人々が行き交う場所では、距離だけ考えれば、「初めて会う」人と数センチの距離に接することがある。そしてその一人一人が、自らの体験を携えて<今、ここ>に現れている。そんな人間同士なのに、お互いの間にことばはない。経験の交換はない。

 この小説の魅力は、距離自体を、多分の喪失感をいただきながらも、誠実に見つめることにある。距離が生む悲しみやすれ違い、そして理解の手前で止まってしまう人間関係。他者との出会い、他者との交流は、実は希有なものなのだ。都会に出て砂羽は思う。都会とは、知らない人に日々出会う場所。言葉を交わそうと思えば、すぐにもできる距離。しかしそれは縮まろうとはしない。

(...)いい感じはしないしゃべり方だったが、もう少し、なにか話してみたかった。さっきまで存在も知らなかった人が、どんなことを考えているのか、聞きたかった。(p.195)

 砂羽は、会ったことのある人間でさえ、数センチの距離で、接することを阻まれる。

 向こうの車両でもドアが開き、大勢が降りて、降りたのより多い人々が乗り込んだ。わたしと同じように人波に押されてドアのところへ立った特徴のないグレーのスーツを着た乗客二人の、その顔を見て、あっ、と思った。
 東京に来て最初に派遣社員で勤めた会社の、営業部の人だった。斉藤さんと、もう一人は名前が出てこない。彼らは、電車の混み具合に苦笑していた。わたしが頭をくっつけているガラスと、少しに空間と、またガラスを隔て、すぐそこにいる彼らの姿はとてもくっきり見えるのに、彼らはわたしにはまったく気づかなかった。(p.151.)

 この象徴的な場面が示すように砂羽は常に、その機会を捉え損なう。この場面だけではない。ずっと「脳内会議」をしながらも、考えと、実際に発することばとは常にずれをはらんでしまい、砂羽が他者に近づくことを遠ざける。

 そこには不器用という性格には還元できない、根源的な人と人との距離、内面を推し量ることへの距離が横たわっている。その距離が最も顕在化するのが、ある体験を持っている人間と、その体験を持っていない人間の距離だろう。そして21世紀の「日本人」の私たちが、根本的な差異を感じざるをえない体験者と非体験者の距離は、戦争体験であろう。砂羽は、むさぼるように戦争体験のドキュメンタリーをテレビに映し、それを見続ける。その意味は本人もわからない。本人自身が言うように戦争などないほうがよい、人が死なないほうがよい、という思いで見るならば、その行為の意味は明らかだろう。そんな倫理的な要請ならば、体験者と非体験者の距離など意識しなくとも、正義の名において、戦争を見ることが正当化される。これらの悲惨な行為を二度と起こさないことを誓いながら見るのだ。

 だが、正義と倫理は簡単に物語化しやすい。私たちは、戦争の物語を「楽しめる」のは、実は死ぬだろうという期待(p.191.)、によって先を予期することによって、いびつな快楽をえることができる。だからこそ、砂羽の意識はそれを本能的に回避する。

母に祖父母のことをもっと尋ねてみてもいいのだが、なんとなくずっと聞く気がしないままでいた。祖母と祖父がどこで生まれて、どんな暮らしをして、たぶんそれなりにドラマ的なこともあるに違いなかったが、それを知ってしまうと、なんというか彼らの人生が一つのまとまりになってしまうのを、おそらくわたしは、まだ受け入れられずにいる。映画やテレビドラマのように納得してしまうことが恐かった。(p.143)

 まさに時間の流れを過去としてひとくくりにし、わたしと関係のある人を物語の主人公に仕立てて、過去の中に固定する。それは停止した時間の動かない永遠に死者を投げ込むことなのだ。

 だがこの小説の優れている点は、私たちの存在がある時間、ある土地に釘付けにされたものではなく、うつろいゆくがゆえに、時間と空間の限定を抜け出して、他者の時間と空間に重なりあう可能性を表現しているところだ。ある場所に立つことによって、その場所にはもはやいない人間の「眼」になることができる。

十年前、呉で、音戸大橋の前に立ったとき、帰ってきた、と思った。祖父が死ぬ前に見えると言っていた橋、祖父が帰りたかった場所に、代わりにわたしがいて、わたしの目がその赤い橋を見た。(...)祖父は帰れなかったが、わたしがそこに帰った。祖父が橋の名前を言ったのを、わたしだけが聞いていたから。(p.141)

 同じように、砂羽の知り合い、葛井の妹、夏は、同じく砂羽の友人の中井を通して、砂羽の言っていた、8月14日、空襲を受けて損壊した後の残る大阪、京橋の、ある場所に立つ。わたしのいない場所に、わたしの代わりに立つ人がいる。時と空間の隔たりをこえて、人と人が重なっていく。距離は埋まらない。しかし時間と空間のずれを内にかかえこみながら、ある人の代わりとして、その場にいる人に出会う。

 私たちは他者との距離を埋め合わすことは絶対にできない。私たちはひとりひとりが、どんなに薄いものであろうと仕切りによって他者から遠ざけられている。しかしそれは、他者を理解できないことを意味しない。なぜならば、私たちは、時間と場所に限定されている存在ではないからだ。時間の流れ、場所の移り変わりによって、所在なさという不安を抱え込むとともに、かつて人がいた場所、かつて人がいた時間に、自らを置くことができる。それは瞬間的な事かもしれない。しかし人間はその瞬間を時間の中におさめ、その瞬間によって、以後の生き方を変えることさえできるのだ。それが生の充実であり、変化こそ他者とともに生きる根拠となりうる。

 この本には、震災後すぐに書かれた、飯沢耕太郎による二つの論考、惨事とその惨事を写す写真の関係についての論考「アフターマス」、さらにその中でも重い意味を持つ死者を撮った写真をめぐる論考「死者の写真について」と、写真家、テレビ・ディレクターである菱田雄介の写真と、震災地をまわった本人の記録が収められている。

 写真に何ができるか、と問う前に、まず写真が何をしなくてはならないか、その切迫感が飯沢にこの論考を書かせたとともに、これから長く続くであろう震災「後」の私たちの社会、人生において、写真が持つ意味を精一杯考え抜いた記録が、ここに結実している。

 「アフターマス」では、まず何が起きたのかを収める、記録媒体としての写真に言及される。次に、震災前の土地の風景を収めた写真から、「かつてーそこにあった」から「失われたもの」への変質を被りながらも、写真が「記憶の代理物」として存在しつづける意味が問われている。

 そして震災の余波が一向に収まらない時期に書かれているにも関わらず、飯沢は、時間のこの先、私たちの今後を考えながら(ただ自分には、未来という言葉を使うには、希望はあまりにもまだ脆弱であるように思われる)、個人に寄り添う写真作品、写真家を紹介している。

 時間については、例えば『このまちに暮らす10年後の人々へ』のように、長いスパンと写真の存在について考察がなされる。そこに収められた「かつてあったもの」が失われ、記憶にしか残らない場所になってしまったこと、それでもしかし、その写真を見ることが希望や安らぎにつながることが語られる。次に紹介される阪神・淡路大震災の写真でも、時間の経過を丁寧に辿り、長い時間の流れが写真によって丁寧に記録される。ここでも、「復興に向けた長い、先の見えない苦闘の時期」を捉えるものとして写真の取り組みが紹介される。

 時を経ることの意味は何か?それは特定の出来事からだんだん写真の意味が遠ざかっていくこと、言い換えれば、その出来事しか意味しない写真に、いつしか、別の意味、より抽象的で普遍的な意味の読み込みが強まっていくということである。たとえばそれは、「原爆の直接的な記憶が薄らぐとともに、「人類の悲劇」というような抽象的な側面が強調されるようになる」と述べられているような経過である。それによって、たとえば、原爆ドームは、広島の人だけのものでも、日本人のものだけではなく、広く人類の遺産として、人々が気にとめ、歴史を学び、それによって今を見る目を養うことへと向かわせるのだろう。

 もうひとつは同じく時間の流れが、人物の生に焦点があてられて撮られた作品である。その例として長倉洋海の「私報道」が紹介される。これは歴史の中に埋没してしまいがちな、歴史の色に染められてしまいそうな人間に寄り添うことで、集団から、かけがえのない個をすくい出す試みである。長倉はコソボの家族、子どもに密着し、「日常化した苦難を長期に渡って撮影していく」。その作品が素晴らしいのは、出自や、それまでの境遇などをはぎ取って、一人の人間がむき出しのまま、私たちの目の前に現れることだ。それは抽象化でもある。しかしそのような抽象化を経た上で、私たちは一人の人間と人間として向かい合うことができるのだ。そこに固有名を持った個人が立ち現れると言おうか。そしてこちらも自分がまた一人の人間として彼の前に立っていることを意識する。

 こうして私たちは記憶の義務から少し自由になって、しかし、体験者を前にして、責任という感情が内奥に生まれてくることを否定できはしない。前にいる固有名を持った人間と見つめる関係において、責任を否定することはできない。記憶の義務は知るべきという受動性のもとに自己がある。しかし責任は、私が能動性のもとに、問題を引き受けることで自己がその都度生まれてくる。

 続いて、宮城県に入り、気仙沼の卒業式などを撮った菱田雄介が紹介される。ディテールを丁寧に収めた写真は、強く不在を喚起する。そこに暮らしていた人の確かな気配を喚起する。

 そして最後に、写真がドキュメンタリーだけではなく、表現対象として現場が撮られる可能性もあることを、志賀理江子の作品を通して語られる。「震災の経験を表現に転化する」行為がすでに始まっている。私たちが世界をもう一度新たな目で見つめ直し、この世界の構成をどう刷新していくか。写真の挑戦はまだ始まったばかりだ。

 補論「死者の写真について」は、あれほどおびただしい死者を出しながら、メディアには、死者の写真が一切出てこない、私たちの目に触れないようになっている事実に対して踏み込んだ考察をしている。論者は「基本的には東日本大震災の死者の写真を公表すべきである」という立場から、スーザン・ソンタグの、戦争による死者の写真についての考察『他者の苦痛へのまなざし』を援用しながら、事態の複雑さに正面から取り組んでいる。

 まず飯沢は、遺体の写真を見ないで、数字や瓦礫を見たところで、そこから死者を想像することは難しいと言う。

 ここですぐに区別しなくてはならないのは、表象と不在の問題である。写真は「そこにあった」ことを伝える。写真は現実を写しとるメディアである。その意味での遺体の写真とは、その土地の中で横たわる死者の写真となろう。しかし、論者は難しいというが、芸術の条件のひとつは、不在なものの喚起である。たとえば同書に収められた、菱田雄介によるランドセルの写真は、その持ち主の子どもを喚起する。ひしゃげてしまった車の写真はその車を運転していた人を喚起する。それは言語の換喩のように、わたしたちが普段行なっている、隣接するものを想起する活動と遠いものではない。私たちは目に見えるものだけではなく、目に見えるものを通して、目に見えないものへと想像力を用いて近づこうするが、それは私たちの認識の根本にある作用ではないだろうか。

 問題は、むしろ、現実を写し取る写真の機能の方ではないか。この時には、そこに写っているもの、すなわち被写体と見る側との距離の問題が浮上してくる。それはソンタグが論じるところで、自国の兵士の遺体の写真の公開には「思慮深さ」が要請されるが、「遠い異国の土地」の死者たちの写真が普通に使われてしまうのは、それはもはや具体的な死者ではなく、「イメージ化」されてしまった死者に過ぎないからだ。そこに写っているのは、ある固有名を持ったかけがえのない個の遺体ではなく、戦争によって被害を受けた哀れな犠牲者としてイメージ化された死体である。これが写真の機能である。

 では、なぜイメージ化された死体の写真は氾濫するのだろうか。ここでもソンタグの論が引かれる。それはソンタグによれば、禁止されたものを見てみたいという欲望、さらには、「低俗で、悪趣味で、商業主義の屍を漁るような行為」だが、私たちのその性的興味にも似た欲望を消すことはできないと言われる。

 飯沢は続いて次のような仮定をする。自分が震災の死者だと仮定したら、何を望むだろうか、と。そして自分の写真が隠蔽されず、自分が死んでいることを伝えるために、写真を公開してほしいと望むだろうと語る。おそらくそう思う人も一人ではあるまい。しかし、その前にやはり考えてみなくてはならないことがある。それは生者と死者の関係、そしてその両者の距離の問題である。

 仮に死者がそう望んだとしよう。しかし死者は一人で死ぬのではない。残された者との関係において死ぬのだ。そして残された者とは、近親者という近い距離もあれば、第三者という遠い場合もある。この第三者が出てくるのは、ある社会的出来事、社会的惨事において亡くなった場合である。

 死者と残された者との関係において、死者の望みもあれば、残された者の想いもある。その想いは、死者の望みと寄り添いながらも、望みは想いのなかに包摂される望みとなるのではないか。それを冷徹に論じたのはサルトルである。サルトルは『存在と無』(第四部第一章II(E) 私の死)において、「死せる人生の特徴は他人がそれの監視人にとなるような人生である(p.281)」、「死ぬとは、もはや他人によってしか存在しないように運命づけられることである(p.289)」、さらには「死は、この主観的なものからあらゆる主観的な意味を剥奪し、反対に他人がそれに与えたいと思う対照的な意味づけに、この主観的なものを引き渡す(p.291)」、「死の存在そのものは、われわれ自身の人生において、他者の利益のために、われわれをそっくりそのまま他者のものたらしめる。死者であるとは、生者たちの餌食となることである(p.288)」とまで述べている。ここまでの極端な死者の受動性を考える必要は確かにないかも知れない。

 ソンタグの言葉がここでも引かれる。写真や映像はあくまでも「注意を向け、考え、知り、調査する契機」である。言いかえれば契機に過ぎないのだ。それは意味をまだ十分に付与されていない完結していないイメージである。そのイメージに新たな意味を生み出していくのは、死者との関係において残された者ではないか。

 もうひとつ考えなくてはならないのは、死者と残された者との距離、近親者という近い距離と、第三者という遠い距離である。そして第三者が出てくるのは、先ほども述べたようにある社会的出来事、社会的惨事において亡くなる方が出たときである。飯沢は、東日本大震災の死者の写真を公表すべきであるという立場から、その際の規範について、撮影者の名前と所属を明らかにすること、写真がとられた時、場所の詳細な情報を付与すること、写真を作品化せず、ストレートに提示することを挙げている。

 しかしここでもまたその前に考えなくてはならないことがある。それはこのように公開されてしまう死者は、歴史化の作用を被ってしまうだろう、ということだ。すなわち、そこに写っているのは、東日本大震災で亡くなった死者として、私たちの社会的、出来事的文脈の中に落とし込まれてしまっている死者ではないか。サルトルのいう「自己の個人的な存在を喪って,他人たちとともに集団的な存在へと構成される。(p.284)」状況がまさに展開されてしまう。この完結なイメージとして凝固する意味をはぎ取ることはなかなか難しいと言わざるをえない。

 そもそも、死者は、まだ歴史へと回収されていない。まだ今は、近親者の手のもとにあって(あるいはまだ手のもとにもどってきていない近親者もいらっしゃる)、その死者の望みと生者の想いが寄り添っている最中なのではないか。

 やがては死者が社会化されるときがくる。その時私たちは責任ということばの一番重い意味を携えて、死者を意味付けることを迫られるだろう。死者を社会的存在として考えるときがくるだろう。そのとき私たち生き残りの者は、その意味付けるという行為を通して、自分がどんな人間であり、そしてどんな人間になっていくのかを決定する。その決定に責任が伴うのだ。わたしたちは自分の態度を選択し、自分の潜在的なあり方から、自分を現実化していく。いずれはこうして社会において関係を取り結ぶ時期がやってくる。それは死者を忘れないということだ。しかし、今はまだ、死者は、近親者の手元にある。その手元を離れて、やがて社会化され、私たちとの関係を結ぶまでには、まだ時間が流れる必要があるのではないだろうか。

 Réflexion faiteは、Autobiographie intellectuelleと副題がついているように、これまでの知的営みを自らのことばで語った本である。現象学から出発し、テキスト解釈論を経て、歴史と倫理の問題へと至るリクールの思想の変遷が一貫性をもって、比較的簡素なことばで語られている。

・リクールと解釈学(23ページ)
 リクールがフッサール、メルロ・ポンティを読みながら分析したこと、特に後者の『目に見えるものと見えないもの』について分析の中心対象にしたのは、「プロジェ(すべきこと)、動機(行為の理由)、情動の衝動と慣習の交代によって刻まれる動き、絶対的非意志=性格、生命、無意識への同意」であった。

・構造主義批判(32ページ, 41ページ)
 リクールによるレヴィ・ストロースの構造主義への批判点はその思想の「主体なき超越主義」であった。特にディスクール言語学に着目することで、リクールは、1)記号の客観的支配の媒介と傷ついたコギトの意識、2)対話行為において他者を認めること、3)ディスクールのレフェランス志向における世界と存在との関係と、問題系をまとめている。

・メタファーについて(45ページ)
 メタファーは「言語が持つ、今まで存在しなかった接近によって意味を生む力。接近によって、これまでの意味の妥当性は論理性を欠くことになってしまったが、そこから意味論的な妥当性が生まれてくる」と定義される。

・読書という解釈行為。(48ページ)
 読書行為とは世界の再形象化であり、読者の存在する世界そのものの書き換えである。

・メタファー論(57ページ)
 第一段階として、日常言語のレフェランス機能は停止する。第二段階において、世界は操作可能な全体ではなく、私たちの生と計画、すなわち世界内存在の地平として現れる。世界が提示され、そこに住むことで私たちの自己の可能性もためされる。それは自己から離れ、テキストの前で、自己を理解する必然性として理解される。

・soiとmoi(59ページ)
 soiとmoiは対立する。moiは自己の主人であり、soiはテキストの弟子である」記号、象徴、テキストの媒介によって私たちは自己理解するその自己がsoiである。テキストを読むとは、moiとは異なる自己の生起の条件を受け取ることである。

・解釈と世界(74ページ)
 メタファーと語りの言述は、現実を再形象化する、その意味はこれまで隠されていた人間的体験の多様な次元を発見し、私たちの世界観を変形することである。直接、世界を変えるということではなく、世界の見方を再び形作るのである。フィクションにおいては、その世界の非現実生によって読者の経験を形成し直す。歴史は、過去の残された痕跡をもとに再び過去を構築していくことで、同じように経験の再形成化に寄与する。

 2002年の夏、地下鉄メニルモンタン駅を出て、ゆるやかな坂道を登っていた。浅野素女さんのアパルトマンを訪問するためである。翌年の4月からNHKテレビで『フランス語会話』を担当することが決まっていた。そのプログラムに、日常のフランス人の生活をそのままカメラにおさめ、生活風景の一こまをスキットにそのまま使うことを考えていた。その日常を探すにあたって、最もフランス人の暮らしを知っている人として、浅野さんの名前がすぐに浮かんだ。何のつてもなかったが、NHKのディレクターに連絡を取ってもらったところ、すぐに快い返事をいただき、お会いできることになった。当時は自分もフットワークが軽かったと思う。

 浅野さんの新著は、この20区のメニルモンタンの暮らしを綴っている。この本を読み始めて、浅野さんのアパルトマンを訪問した日のことが思い出されてきた。庭先にあったプティット・サンチュールの廃線となった線路。浅野さんのお宅をお邪魔して初めて、かつて外周鉄道があったことを知った。テレビ台に置かれた鈴木道彦訳の『失われた時を求めて』。決して華やかではないが、緑に囲まれた瀟洒なアパルトマンで、この落ちついた場所で浅野さんが丁寧に文章を綴っておられる姿がすぐに想像できた。

 そして同時に、もう今はあの場所に暮らしていらっしゃらないことを知って、少し意外な気がした。僕にとって浅野さんは、もっともフランスの日常をよく知っている方であり、暮らしに根ざした文をお書きになる方だ。だから観光地から離れた、暮らしの活力が十分に感じられる、庶民的な界隈メニルモンタンはまさに浅野さんが暮らすにふさわしい場所だと感じていたからだ。だが、その疑問は、本を読み進むにつれて溶けていった。にぎわいは喧噪であり、庶民の街はまたゴミなどがあふれた街でもあった。いや自分が歳をとるにつれて、今まで気づかなかったことに気づくようになる。ほうっておいた傷が、どうしても見過ごせない致命的な欠点に見えてくる。

 そしてもうひとつ、この本を読んで驚いたことがある。ほぼ仕事上のおつきあいであった(といっても、いつも僕からのお願いばかりで、「一緒に」は不正確。まさにお世話になりっぱなし...)浅野さんは、こちらの話を丁寧に聞いて、誠実に対応し、具体的なアドバイスをくださり、そして控えめな言い方ながらも、ご自分の考えを明晰に述べる方だった。仕事はめっぽうよくできるが、それをまったく鼻にかけない知性的な女性だった。ただ、浅野さんのフランスでの暮らしは決して平坦なものではなく、多くの苦労があったことは聞いていた。それにしても、ここまで浅野さんの感情、いや激情や心の澱みが赤裸裸に書かれているとは。あの沈着冷静な雰囲気の浅野さんの心のうちに、これほどの動揺、逡巡、抑えようのない情動が渦巻いていたことに正直驚いた。

 この本はメニルモンタンの風景描写、人間描写であるとともに、その風景が映し出す心象や、浅野さんとの人間模様が描かれてる。浅野さんの筆致には、人々に対する愛情と同時に、怒りや不満もある。そしてその意外なほどに歪んだ感情に自分自身も戸惑う浅野さん自身の姿も書かれている。

 この素直さはとても浅野さんらしい。だがその戸惑いの心から漂ってくる人間的な弱さに、僕は驚くのだ。浅野さんが40歳を目前に洗礼を受けたのも、この自分に巣食う汚れとさえ映る自分自身の弱さに気づいたゆえではないだろうかと思ってしまう。

 そして、父親のいないアパルトマンで育てた長男からなかなか「子離れ」できない浅野さんの姿も意外だった。確かに、家庭のある男性との間に子をもうけ、その親権を争い、命の危険さえ感じるような戦いをしてきた浅野さんにとって、長男トマはかけがえのない心のよりどころだったのだろう。しかしそれにしても、不在の子供を想い、電話をかけ、執拗にバカンスの生活を問い糾す浅野さんの姿は、さながらアルベルチーヌを追い求めるマルセルよろしく、滑稽ですらある。だがその振る舞いこそ人間らしさではないだろうか。私たちは真剣に生きようとすればするほど、外からは滑稽に映ったりするものだ。他人がそんな振る舞いをしていれば鼻で笑うくせに、実は自分も似たり寄ったりの振る舞いをしていることに気づかない。

 浅野さんの人間描写は、すべからくこのように人間の多様性、人間の割り切れなさを微細に描いている。そこにこの本の文学的「匂い」もあるのだ。

 子供が大人になるにつれて、浅野さんの考えも成熟してゆく。メニルモンタンを離れることを決意し、猛烈に反対するトマにかけたことばには、最高の愛がある。後悔をかかえながらも、生活は流れていく。その流れに弱い棹を差しながら、不器用に、それでも家族は足取りを止めず進んでいく。一緒になり、別々になり、人生が分かれ道に差し掛かる。変化はやむことがない。さまざなな変容を見せながら、それでも母親は子に惜しみない愛情を降り注ぐ。

 「泡沫のドラマ」。でもその人生にしっかり寄り添い、そこから生きるよすがを導いてくる。それは外国人ゆえの外の眼差しではない。人は誰でも平凡であることの奥深さをたたえている。浅野さんが優しいまなざしをそそぐのは人間だれしもがもつ弱さと強さである。

 言語の分析する手法として何が有効だろうか。バンヴェニストが提案するのは、niveau「レヴェル」である。分析とは、言語要素を、それらを結びつける関係を通して、確定することである。これらの要素を分析するための実際上の作業としては、次の2つが挙げられる。ひとつは分割化(ségmentation)、もうひとつは代置(substitution)である。

 分析には、対象をこれ以上はできないところまで細かくしていく作業がまず必要となる。そのあとに分割化した要素に代置の作業を施すことによって、その要素の性質が理解できる。

 たとえば、raisonを音素に分析する。[r-e-z-o-n]。そして[r]を[s]に代置するとsaisonになる。こうした代置によって、他の記号になるということは、まさに記号は、他の記号との差異関係によって成立していることを示している。またこれらの音素はどれもが等しく配置されるという意味で、それぞれが等価値であると言える。この等しさはsyntagmatique(連辞的)にも(r, e, z...)paragmatique(範列的)にも(rezon / sezonのrとs)2重に言うことができる。

 ここで分割化と代置化の違いを音素と弁別特徴を取り上げることによって指摘することができる。代置化は分割化不可能な要素に対しても行うことができる。例えば[d]の弁別特徴である、「閉鎖」、「上前歯裏」「有声」、「帯気」と言った要素は分割化不能であるが、それぞれの要素を代置化することはできる(たとえば有声に代えて無声とすれば[t]になる)。そして分割化不能な要素はsyntagmatiqueなクラスを構成することはできない。

 したがって、分析に2つのレベルを認めることができる。分割化と代置化の両方が可能な音素レベルと、代置化だけが可能な弁別特徴レベルである。バンヴェニストはそれぞれのレベルとphonématique、mérismatiqueと呼ぶ。

 ではphonématiqueの上位レベルを見いだすことはできるだろうか。音の単位を成立させるのが意味であるのが明らかな以上(私たちは音素の連続を見て、それを単位として認めるのは、その結合したものに意味を認めるからである)、上位レベルに設けることができるのは意味である。そして意味こそ、「あらゆるレベルのあらゆる単位を満たす根本的な条件」である。そもそも音素は、それを含む上位のレベルの個別の単位に依拠しないでは存立しないのである。その単位とはmorphème(語彙素)であり、記号のレベルである。言語のレベルはかならず上位のレベルに包摂されないと存在しえない。

 記号(=語)は、下位レベルのphonématiqueに分解できるし、他の意味単位とともに上位レベルの単位に入ることもできる。その上位レベルとは文である。重要なことは「文は語によって実現されるが、語は単に文の分割要素ではない」(La phrase se réalise en mots, mais les mots n'en sont pas simplement les segments)ということである。

 簡単に言えば、語の意味の総和が文の意味とは限らない、ということだろう。独立した単位として持っている意味(=辞書的な意味)が、必ずしも文において現前化するとは限らないのだ。独立した単位で語を考えるならばそれはlexique、paradigmatique(他の単位との比較検討)となり、文として考えるならば、当然だがsyntagmatiqueとなる。

 ここで言語要素と言語レベルの関係について検討する。同じレベルでの言語要素の関係は配置関係(les relations distributionnelles)、違うレベルでの言語要素の関係は統合関係(les relations intégratives)と呼ばれる。

 そしてある単位は、上位レベルの単位の「統合的な部分」として同定されて初めて、そのレベルで 弁別的なものとして認識される。たとえば、[s]が音素としての地位を持つのは、salleにおいて[al]と、seauにおいて[o]とそれぞれ統合要素として機能するからである。また[salle]が記号となるのは、à manger, de bainとそれぞれ統合されるからである。

 そうすると上位レベルの文は、構成要素は含むが、それ以上の統合される単位というのは持たない。下位レベルのmérismeは、逆にいかなる構成要素も含まない。記号のレベルだけが、独立しており、構成要素も統合要素も含み込んでいるのである。

 ここでバンヴェニストは、形式と意味の問題に言及する。単位を構成要素としてみなすとき、その単位は「形式要素」とみなせる。たとえば文を諸単位に分割しても、現れるのは形式的構造だけである。一方それとは逆に統合化は、単位を意味的単位とする。つまり形式は、下位レベルの構成要素として分解できるものとして定義され、意味は、上位レベルの一単位に統合されるものとして定義される。

 したがってある単位が意味を持っているということは、それを「命題関数」(fonction propositionnelle)とみなすことができる。すなわち、その単位を上位レベルにはめ込むことによって=統合することによって「意味する」とみなせるのである。

 さらにバンヴェニストは意味の意味を問う。すなわち私たちが「意味」と呼んでいるものは一体何だろうか。ここでバンヴェニストは指示の有無によって意味を二層にわける。

 最初は、言語の要素がその本質(propriété)として意味を有する場合で、そは他の単位と弁別的、対立的に画定できる単位である。そしてこの意味単位はその単位が属する言語(langue)の中に、その言語の話者によって同定される。このように言語は体系をなし、この体系は閉じていると言えよう。

 しかし同時に言語(langage)は、対象世界に対して指示機能を持っている。この働きは文として現れる。文は具体的に特定できる状況に関係づけられるとともに、文が含む下位レベルの単位は、経験、もしくは「言語慣用」(convention linguistique)の中で選択された対象へと関係づけられる。文はこのように意味と指示の両方を含む。

 ここで文という最終レベルの特殊性をまとめることができる。文は分割はできるが、統合することはできない。また文の特徴の第一は「述定」(prédicat)であることだとバンヴェニストは言う。さらに主語さえも、述定の働きによって決められると指摘する。

 このレベルはcatégorématiqueと呼ばれる。だが、phonèmeやmorphèmeに対応するcatégorèmeは、同じような単位として認めることができない。述定は文の根本的本質であるが、これは文の一単位ではない。述定にはそもそも多くの種類はない。したがってcatégorèmeは、形式としては存在するが、統合のための弁別的単位は構成していないのだ。つまり、文は複数の記号を含むが、それ自体は記号ではない。

 以上のことは次のようにまとめることができる。
 phonème, morphème, lexèmeは数えることができ、有限数である。しかし文はそうではない。phonème, morphème, lexèmeは同一レベルで配置が行われるし、上位のレベルにも使用される。文には配置も使用もない。語の使われ方の一覧表を作るとすればそれは無限になる。文にはそもそも一覧表さえない。

 では文とは何か。「文とは無限の創造、限界のない多様性、そして活動している言語(langage)の生そのものである」。文を考えることは、記号の体系である言語(langue)を離れて、ディスクールを用いた、コミュニケーションの道具として言語を考えることになる。文とはディスクールの単位である。ただしこの場合の単位は、同じレベルの他の単位に対して弁別的という意味ではない。ディスクールの単位は意味と指示の両方を持っているという意味で完結した単位である。文は意味作用を携えており、またある状況に関係づけられる。

 私たちは文にこの二重の特質を認めることで分析対象とすることができるのである。これはディスクールという意味と指示の両方を含むものを言語の分析対象とするバンヴェニストの決意表明とも言える論文である。

 始めにリクールは、哲学の伝統の中で扱われてきた想像力(あるいは像)の見取り図を描く。想像力には2つの軸がある。1つは対象に関わる軸。この軸の一方には対象の現前がある。その場には存在しない対象を再現する想像力である。他方には対象は不在である。その代わりに肖像、夢、フィクションが存在する。こちらは生産的想像力である。

 もう1つの軸は主体に関わる軸である。この軸の一方には、批判意識がまったくない状態があり、この場合、像は現実と混同される。他方には、批判意識がある状態で、この場合、想像力は現実を批判する道具となる。

I. ディスクールにおける想像力

 リクールは想像力の問題を言語に結びつける。すなわち隠喩の理論を適用することによって、想像力とはすぐれて「意味の更新」(innovatoin sémantique)を促すものとして捉えられる。想像力(像)は、私たちの心に浮かぶ場面のようなものではない。リクールが依拠するのは詩的想像力であって、それは「響き」(retentissement)に例えられる。響きとは、文字通りの音律ではなく、意味の振幅、意味の力動化(=多義的な意味の生産)と考えられるだろう。

 リクールの隠喩論の重要な点は、隠喩を名詞の逸脱的用法とするのではなく(隠喩を、それぞれの名詞がもつ通常の意味からのずれと考える)、文の中における述語の逸脱的用法としたことである。隠喩において、文それ自体は不適当となる。だが文が不適当となるゆえに、そこに隠喩という新しい適切さが生まれるというのがリクールの主張である。

 久米博は、このことを『テクスト世界の解釈学』で「隠喩は述語論理によって解釈すべき」と述べている。新しい意味は文から生まれる。たとえば、「海は母である」と言った時、この文の字義的な意味は不適当である(海は母ではないから)。しかし、私たちはこの文を読んだ時に、解釈への動かされる。しかもそれは海についてではなく、「母である」こと、すなわち、母とは何か、ということの理解に向かうのだ。解釈によって意味が更新されるとするならば、それは「母でない」が「母である」という矛盾を文が実現しているからだ。

 この矛盾から意味を生むのが隠喩の働きである。アリストテレスは次のように述べている。「よい隠喩をつくることは、類似を見ることである」(bien métaphoriser, c'est apercevoir le semblable)。リクールは、この類似における力動性を重要視する。

「類似とは、それ自体、おかしな述定の用法の機能である。類似は、それまでは離れていた意味領域の間の論理的な距離を急になくしてしまう接近の中に存在する。それによって意味の衝突が生じ、続いて、隠喩の意味の輝きが作り出されるのだ。」

 想像力とはしたがって、意味領域を新たに作り直すことである。この更新の運動こそが想像力である。リクールは、ウィトゲンシュタインの言葉を引き、それを「〜として見る」(voir-comme...)とも呼んでいる。またカントの図式論を援用し、カントの生産的想像力は、「隠喩的述語付与を図式化することによって、発生する意味作用にイメージを与えることである」(久米、p.116.)とも言っている。

 このことはフィクションの問題とも深く絡んでくる。想像力は、知覚のあるいは行動の世界に対して、その中に踏み込まずとも、さまざまな可能性との「自由な遊び」(un libre jeu)を可能にするのだ。だが、それはこの世界と離れたところでの知的遊戯ではないだろう。自由な遊びは、「新たな思念や、価値や、この世界での新しいあり方」を生み出し、それがこの世界への批判へと結びつきうるからだ。

II. 理論と実践の間に位置する想像力

1. フィクションの発見術的力

 さて、想像力の問題をディスクールの領域からさらに拡大する際に、重要なのは、この想像力が「指示作用の力」を持っているという点である。

 確かに詩的言語は、現実への指示機能を持つことなく作用する。ディスクールの領域から離れるということは、ディスクールのもたらす状況内での指示機能を失うことを意味する。だが、リクールにとってこの認識は第一段階に過ぎず、その第二段階においては、詩的ディスクールは、私たちを生の世界に存在せしめ、また他の存在と存在論的関係を結ばせると言う。

 確かにフィクション世界が指し示すのは、どのような現実ともつながりを持たない「非ー場所」(non-lieu)である。だがそれゆえに、フィクションは、新たな「指示効果」によって現実を間接的に対象とすることができる。その効果とは「現実を書き直すことのできるフィクションの力(le pouvoir de la fiction de redécrire la réalité)である。これがフィクションの発見術的力であり、これによって現実の新たな多層性を私たちは創造するのである。

2. フィクションと物語(récit)

 ではこのフィクションと想像力はどのように実践されるのか。第一には人間の行為に対してである。ここでリクールはアリストテレスの『詩学』を引き、アリストテレスが詩(ポエジー、ここでは悲劇の模倣(ミメーシス)機能と物語の神話的構造を結びつけていることを指摘する。この指摘はリクールの文脈で次のように理解される。

フィクション - ミュトス(筋)- 物語の神話的構造 - 構造化されたフィクション
書き直し - ミメーシス(模倣)- 詩(悲劇)の模倣的機能 - 書き直される行為

 フィクションは、現実から独立した構造を持っている。その意味では虚構というより、仮構と言った方が、空想という意味に陥らず、独自構造の存在により明確に気づくことができるだろう。そしてこの構造の中で、人間の行為が、模倣というレベルで書き直しされる。すなわち、現実と一見同じような行為が書き込まれているようでいて、構造の中に書き込まれた行為は、現実の模写ではなく、人間行為の本質が書き直されて描かれているのである。この書き直された現実を体験して、私たちは再び、現実へと帰還してくるのである。

 だが実践はこれだけではない。フィクションが模倣の行為のレベルに限られるならば、書き直されるのは、すでにそこにある行為だけになってしまう。詩学が求めるのは、叙述的価値を持った書き直しというミメーシス機能だけではない。想像力にはもうひとつ、投映機能もある。

3. フィクションと<〜することができる>

 ここでリクールは個人的行為の現象学を援用する。想像力がない行為はないが、それは次の3つの面で言うことができる。企図、動機、行為力である。企図とは、想像で先取りし、未来へと転じる想像力であり。企図と物語は、前者が後者から構造化の力を借り受け、後者が前者から先取りする能力を借り受ける関係にある。つまり物語という過去へ志向をもつものが、未来という軸を獲得することもできることを意味している。

 動機と想像力は、後者が前者に場所を提供する。その場所で、さまざまな動機が比較・検討される。動機は、物理的な原因との差異、そして論理的な理由付けとの差異として想像力の中で実践的に位置づけられる。そして「もしのぞめば、これやあれができる」と、私の望みが動機付けの地平に形象化されるのである。

 そして3つ目が「私はできる」という可能性=力である。私たちはさまざまなヴァリエーションを想像しつつ、行為主体として自らの力を認識する。それは、、言語モードとしては条件法として表せる。

 こうして企図から、私の望むことの形象化、そして「私はできる」という想像的ヴァリエーションとして可能的実践を描くことができる。これはカントの「想像力の自由な遊戯」とも言えるだろう。

4. フィクションと間主観性

 ここまではしかし、想像力は個人的な性格に留まっていた。次に考えなくてはならないのは、社会的な想像力であり、歴史的想像力である。出発点となるのはフッサールの間主観性理論である。

「経験の歴史的領域というものがある。なぜならば、私の時間領域は、対化と呼ばれた関係によって、別の時間領域に結びつけられているからである。
 
Il y a un champ historique d'expérience parce que mon champ temporel est relié à un autre champ temporel par ce qui a été appelé un relation de «couplage» (Paarung).

 別の時間領域と言う以上、私たちは、同時代人だけではなく、過去の人とも、未来の人とも関係づけられる。そしてここに認められるのは相似的関係性(北村、p.210.)の原理である。これは、私たちのおのおのが、他の人と同様に、「私」の機能を実行することができ、自分自身の経験を自己に帰すことができるという原理である。

 ここでリクールがカントに基づいて強調するのは、これが「超越的原理」であるということだ。すなわち、議論による疑問や検証の提示を待たずして、「他者は私と似ている別の私であり、私のような私である」(l'autre est un autre moi semblable à moi, un moi comme moi)のだ。

 したがって想像力が歴史的領域を作る根本的な構成要素だというのは超越的な条件である。ここにフッサールのいう共感(intropathie, Einfühlung)を認めることができる。それは「他者の場所に立って、思考をし、感じることができうる」ということなのだ。こうして、まさに想像力によって、私たちは個人の地平ではなく、他者とともにいる場所を構築することができるのである。

 そしてこの想像力が生産的と呼ばれるのは、まさにこの関係構築を生き生きとしたものとして保つことが想像力の役目だからである。そのためには他者を「彼ら」ではなく、他者と私を「私たち」とたえず想像しなくてはならないのだ。

 (III. 社会的想像力は省略。イデオロギーとユートピアについて、別に総合的な考察が必要である。)

 リクールの思想はきわめて広大で、その分野は多岐に及び、一見すると全体像が掴みにくいかもしれない。しかし50年近くにも及ぶその活動を、ひとつの問題意識が貫いている。それはいささかもぶれることなく、リクールの思想の根幹をなしている。それは変容ということばに集約される生の躍動である。

 ただ変容といっても、まるきり別のものに変わってしまうということではない。リクールの思想は、「あれかこれか」ではなく、ある一つの要素を含みつつも、別の要素も統合していく、ひとつのコスモスのような世界観を提示する。

 人間の歴史的時間意識において、現在は過去も未来も含み込む。テキストは著者の思想を完全に消し去ることなく、読み手の新たな解釈を帯び、文化的、社会的制約を越えていく。言葉の意味が多義的であるのは、ある意味を捨て去って新しい意味を帯びるのではなく、一つの語に意味が堆積していくからだ。芸術の世界は、現実世界から離れた仮構世界を構築するとはいえ、その世界は、やがて私たちの現実世界を見る認識を変容させる。

 こうした世界の多層性こそが、リクール哲学の特質であり、この多層性を含み込みながら、変化していく存在の実相こそ、人間の生の証である。その意味でリクールの解釈学はすぐれて人間学的である。

 本論文でリクールが考察するのはテキストである。リクールはガダマーの「隔たりと帰属」という考え方の「隔たり」に着目し、テキストという問題設定によって、「隔たり」概念が生産的な機能として働くことを指摘する。久米博は『テクスト世界の解釈学』において、この意味でのテキストを次のように性格づける。

「主体と対象との間に介在するいろいろな距離(distance)は、対象を把握するのに障碍となるが、その障碍こそ解釈のための積極的な条件となる。文字言語によって固定されたテクストは典型的な疎隔の状態にある。」(p.95.)

 距離とは交流の条件であり、交流は双方向の働きかけによって意味を産出していく。通常、話す行為(ディスクール)であれば、<今・ここ>に状況が設定され、話者同士の働きかけがなされ、意味の疎通があることは理解しやすい。しかしリクールの主眼はこのディスクールの性質を、書かれたものの中にも見いだしていくことにある。すなわち、テキストとは書かれたものと同一ではなく、書かれたもののなかにパロールの特質であるディスクール性を認めたものがテキストである。

I. ディスクールとしての言語の実現化

 テキストのディスクール性を考えるため、リクールはまず言語をディスクールとして規定しなおす。ラングとしての言語学からディスクールとしての言語学へ、語としての言語学から文としての言語学への転換である。そしてディスクールの特質は「出来事」と「意味」である。それをリクールは「あらゆるディスクールは出来事として実現され、あらゆるディスクールは意味として理解される」と表現する。

 まずディスクールは次の4つの意味で出来事とみなされる。
1) ディスクールは現在時において実現される=ディスクールの現前性、
2) ディスクールとともに主体も現前する。
3) 指示する世界がある。ディスクールによって世界が言語への到来する(ラングとしての言語がその体系を内部だけで閉じているのに対して)
4)ディスクールにおいてメッセージの交換がなされる(対話者をもつ)

 次は意味の規定である。出来事が一回性の去りゆくものであるのに対して、意味は留まる性質をもつ。ではこの意味の静止は、ラングの言語学へ戻ることになるだろうか?むしろリクールはここに言語のもつ飛躍的な運動を認める。

「De même que la langue, en s'actualisant dans le discours, se dépasse comme système et se réalise comme événement, de même, en entrant dans le procès de la compréhension, le discours se dépasse, en tant qu'événement, dans la signification. Ce dépassement de l'événement dans la signification est caractéristique du discours comme tel. (p.105.)
  
ラングがディスクールにおいて現在へと姿を現し、それによって体系としての自己のあり方を越え、出来事として実現されるのと同様に、理解の過程に入ることによって、ディスクールは出来事としての自己のあり方を越え、意味の中に入ってゆく。この出来事が自らを越え出て、意味の中に入っていくことが、ディスクールそのものの特徴である。

 ディスクールとラングは対立する二項ではない。その乗り入れは動的なものであり、私たちの発話は、ラングの体系によって支えられ、またラングの体系は、発話によって柔軟にその姿を変えてゆく。理解の過程は、決してどこかに行き着き、完結するものではないことを意味している。理解とは絶えざる更新である。

 では「出来事が自らを越えて、意味の中に入っていくことが」書かれたものにおいてもどれほど可能だろうか。これについてリクールはオースティン、サールの言語行為論を援用し、行為がもつ意味が、書かれたものからも読みとれることを強調する。例えば「ドアを締めてください」というとき、発話者は次の3つの行為をしているが、それぞれの行為における意味は、程度の差はあるが、書かれたものの中にも認めることができる。

1)発語的、命題的行為:発話行為であるが、これは行為と行為者、被行為者に関係づけているわけだが、これはまさしく文として同定ができる(書いても同じ)。
2) 発語内的行為:言いながらしている行為。ここでは発話と同時に命令という行為をしている。この行為の意味も法(le mode)という形式上に認めることができる。もちろん抑揚やジェスチャーなど言語外的行為に負うことが多いとはいえ、やはり書くものの中にも反映可能であす。
3)発話媒介的行為:言うこと事実がもたらすもの。たとえば、命令行為による恐怖といったもの。これは実際にはディスクールから最も遠い。すなわち、話し手の意図ではなく、聞き手の心理に属する言語外的行為なのである。

 これらの程度の差はあったとしても、意味とは文に内包されるだけではなく、発語内的行為や発語媒介的行為からもたらされるものも意味として認めることができる。この広い意味をリクールはsignification「意味作用」と呼ぶ。

II. 作品としてのディスクール

 次にリクールは作品という書かれたものの中におけるディスクール的性質を主張するために、作品概念の3つの特徴を挙げる。

1)作品は文より長い連続体である。すなわち作品は文による構成である。
2)作品は、ジャンルを構成するコードによって成り立っている。すなわち作品はジャンルに属する。
3)作品はそれ固有の布置(configuration)をもっており、それは個人的文体と呼びうる。

 この中でディスクール的特徴と言えるのは布置と個人的文体であろう。察するに、作品が文の連続体であるとしても、文の総和は作品の意味と重ならない。ジャンルを構成するコードも、作品をカテゴリー分類するだけである。

 だが、作品にはそれ固有のconfigurationがあり、それが作品の個性を決定している。このconfigurationはstylisation「文体化」とも呼べる。文体とは比喩といった個別の一表現という意味ではない。そうではなく作品全体を個性化する、作品全体をつらぬく様式のことであろう。作品の個性を決めるもの、それは作品が唯一である限りにおいて、ひとつ出来事である。だが、それが作品と呼びうるならば、ひとつの構成を備えて、目の前に現れてくる。この生成と組織化が作品の条件なのではないか。

 文体化が個性化を伴う以上、その個性をもつ作者をも指し示すようになる。したがってテキストにおいては、常に「誰かが何かについて誰かに何かを言う」という根本的特徴は失われていないのである。

III. パロールとエクリチュールの関係

 ディスクールが話されたものから書かれたものへと映るとき、何が起きるのか?パロールと異なり、書かれたものは作者から「隔たって」生成されることがその特質である以上、テキストの意味と、作者が意味したかったことにはずれが生まれる。作者の意図を越えて、テキストが自律性を獲得することで、テキスト世界が作者の世界を壊してしまうこともありうるのである。 

 だがそれはテキストを解放することでもある。テキストはそのテキストが生まれた時代の社会や文化を越えていくことができる。読むという行為によって、テキストは、当初の文脈から引き離され、異なる状況の中に組み込まれることが可能となるのだ。

 したがって書かれたものとしてのテキストは、これらの隔たりが、その構成の条件となっているのだ。そして同時にこの特質が解釈の条件となる。隔たりの存在が解釈を可能とする。

IV. テキスト世界

 次にリクールが検討するのが、指示の問題である。パロールからエクリチュールへの以降は、指示対象を変質させることになる。すなわちパロールにおいて指示対象はその状況の枠組みの中で、共通の現実世界の中で、明示される。

 それに対して書かれた作品では、書いた人間と読む人間の間に状況の同一性を確保することはできない。それが「文学」の条件ですらある。リクールは、「大部分の文学の役割は、世界を破壊することである」とさえ言う(C'est le rôle de la plus grande partie de notre littérature de détruire le monde)。

 この文学世界においては現実への指示は廃棄される。ただリクールはここで「日常のディスクールの指示参照機能」が廃棄されると、「日常」という形容詞を足している。なぜならば、リクールはこの日常的なディスクールは第1番目の指示であり、その現実参照が廃棄されたところに、第2番目の指示参照の可能性が広がってくる。その参照は「テキスト世界」を志向する(その世界はフッサールの生活世界、ハイデガーの世界内存在と等しいとされる)。

 「テキスト世界」で参照されるのは、テキストの「背後」(derrière)にある意図ではない。なぜならば、それは私たちが求めようとする=参照しようとする世界に、隠されてはいても、すでに前もって完結した=固定化された存在を認めてしまうからだ。

 テキスト世界において、私たちが追い求める行為とは、謎解きではなく、状況に根ざした可能性を世界に投映してゆく行為なのだ。つまりテキスト世界とは、私が可能性を投映することで、提起される世界のことである。

 テキストの世界とは「日常」の言語の状況性が示す世界ではない。その意味で、テキストの世界と現実とは「隔たり」がある。だがそれが現実を再創造する契機となるのだ。

Nous l'avons dit, un récit, un conte, un poème ne sont pas sans référent. Mais ce référent est en rupture avec celui du langage quotidien ; par la fiction, par la poésie, de nouvelles possibilités d'être-au-monde sont ouvertes dans la réalité quotidienne.
 
すでに述べたように、物語、説話、詩は指示対象がないわけではない。ただ、この指示対象は日常の言語が指し示す対象とは隔絶している。フィクション、詩によって、新たな世界内存在の可能性が日常の中に開かれているのである。

 私たちはこの可能性を創造することによって、この日常の現実さえも変容することができる。可能性という想像領域、そしてその想像の力とは、現実をひとつのヴァリエーションとし、それ以外のヴァリエーションを私に提示してくれるだけではなく、この現実自体を作り替えるような、バシュラールのことばで言えば「想像力の歪形能力」と言うことができるだろう。

V. 作品を前にして自己を理解する

 そして世界の再創造は、テキストを読む私自身の再創造にもつらなる。テキストを通して、私たちは自分自身を理解することになる。これはテキストのappropriation「同化」=テキストを自分自身の中に含み込むこと、あるいはapplication du texte à la situation présente au lecteur「テキストの読者の現在状況への当てはめ」と言われる。

 ただし同化とは、作者の意図への同化ではない。書かれたものが「隔たり」である以上、同化とは、距離のあるものへの理解と考えなくてはならない。

 次にここでいう自己の理解とは、考える私という主体の発見ではない。むしろテキスト世界を経由することによって、人間性の印しに触れ、それによって自我(ego)ではなく自己(soi)としての自分を知るのである。そもそもそのような人間性に触れえないでは、人間は自分の主観の世界に留まったままである。だが私たちの存在は世界との関係、他者との関係、相互交流を含み込んで成立するものではないだろうか。それを示してくれるテキスト世界に自らが入ることによって、作品の前に立つことによって、初めて自己理解に達するのである。

 自己とはすでに完結して存在し、それがただ明かされるのを待っているようなものではない。自己とは変容し、層を幾重にも形成し、絶え間なく動いていく存在なのだ。リクールはテキストの前で自己はより広大になると言っている(soi plus vaste)。自己はこうしてテキストによって作られていくのであり、ここにテキストに身を浸す喜びがあるのではないだろうか。

 自己とはテキスト世界と同じく、可能性を含みこみ、今だ実現されず、変容する運動こそが実体である。世界の変容とは、実は自己の遊びとしての変容なのだ(La métamorphose du monde, selon le jeu, est aussi la métamorphose ludique de l'égo)。

 自己とは単体ではない。この可能性や変容と通して、自分のなかで自己と自己が、隔たるがゆえに、対話をし、自己を放棄すると同時に、新たな自己を獲得してゆく。

 このように考えれば、リクールの言語学理論は、すぐれて人間学であり、そこに変化と運動という命のあり方を認める上で、きわめて希望に満ちた人間学なのだ。

 『エスプリ』1967年5月号に掲載された論文『構造、語、出来事』は、構造主義言語学に対する批判として、状況を重視し、言葉のもつ創造性、意味の生成に着目したリクールの言語思想を明快に表明した論文である。古典的ではあるが、構造主義言語学と、主観性と状況性の言語学の、おのおのの内容を理解するのに優れたテキストである。

 「構造」は非歴史的、すなわち不動で、人間の立ち入るすきもない世界である。それに対して「出来事」とは、「一回性」の出来事であり、ある状況の中で立ち現れ、そして消えてゆく現象である。そして「語」は、普段辞書の中に死蔵されており、人間とは関係のない世界にたたずんでいると同時に、文を構成することによって現前化し、文の中でその都度意味を帯びる。こうして語は構造と出来事をつなぎあわせる働きをもつ。この構造、出来事、そして語について書かれたのが本論文である。

 構成は以下の通りである。
I. 構造分析の前提:構造主義言語学の性格についての叙述
II. ディスクールとしてのパロール:ディスクールを中心に据えた言語学の叙述
III. 構造と出来事:構造と出来事をつなぐ語の働き

 Iでは、構造主義分析による言語学について5つの特徴が挙げられる。
1)パロールの排除:パロールは個人的な発話であり、学問の観察対象にならない。
2) 通時性の排除、共時性の選択:通時性とは変化の歴史であり、変化は観察の対象として困難である。
3) 言語を形式とみなす:言語は、実体=現実世界を必要としなくても成立する閉じた体系を備える。
4) 閉じた体系に分析対象を限定する:それによって限定が可能な音韻、語彙が研究の対象となりやすい。
5)1) 〜4)において、不動であること、現実との対応が必要ではない、必要としない分析対象が抽出されるが、その条件にまさに当てはまるのがソシュールの言う「記号」である。

 IIの主眼は、構造主義分析が断ち切った現実と言語世界との関係である。リクールは、構造主義分析によって、現実だけではなく人間文化が排除されたと指摘し、さらに、構造主義分析が切り捨てた「変化」とは、創造の根拠ともなると考える。

 そもそも「言う」とはどんな行為なのか。リクールは、それは「何かについて何かを言う」ことであると規定する。言うことは、現実に何らかの影響を及ぼさないではおかない。この問題設定において、言語はメディアと規定される。言語というメディアを通して、物事が表現される。すなわち言うという行為に含まれるのは、現実世界への参照なのである。

 構造主義分析からディスクールとしての言語学へのシフトは、ラングからパロールへ、体系から行為へ、そして構造から出来事へ、と言えるだろう。
 このディスクールの言語学をリクールは次のようにまとめる。
1) 出来事:ディスクールとは行為であり、私たちの目の前に、何かを招く=現働化することである。出来事とは、今起きており、流れていき、そして消えてゆく一回性の行為である。
2)選択:ディスクールとは、ある意味作用が選択され、別の意味作用が排除されるという意味で、選択である。
3) 更新:ディスクールの選択は、新しい組み合わせを生む。選択によってできあがった文は耐えざる新しさの創造である。
4) 参照:ディスクールの現働化とは、言語が指示対象をもっていることを意味する。「何かについて」言うということは、とりもなおさず、「〜について」の指示は現実世界に対してなされる。
5)言語主体:パロールの言語活動が成り立つまえには必ず発話主体が想定されないくてはならない。そして発話主体は誰かに話しかける以上、ここには相互主観の世界が成り立つ。

 IIIでは構造と出来事を結びつけるため、まず文が定義される。ここで引用されるのがチョムスキーの「話し手は、自らのラングを使って、新たな文を作ることができるが、聞き手はその文を新しいにもかかわらず即座に理解するのだ」という主張である。日常の言語活動とは、たえざる新しさの生成であり、それは創造行為と呼ぶことができるだろう。

 次に引用されるのはギュスターヴ・ギョームで、ギョームの言語思想から、リクールは文を「記号から現実への帰還の途上にあるもの」と定義する。

 二つ目にリクールが定義するのが語である。語が意味をもつのは、文が言われるのと同時である。文が生まれる前には記号しかない。記号とは現実を必要としない差異の体系であり、辞書に死蔵されている。語は文に入るとき、辞書から外に出る。そしてその時に生まれる意味は、文が一回性であるのに対して、それを超えて生き延びていく。

 なぜならば語は多義性をもつからである。すなわち、語は新たな意味を帯びるが、だからと言って今までもっていた意味が消えてしまうのではない。意味は加算され、それが体系の中に収められていくのだ。

 この多義性という考えは、リクールの解釈学の根本を構成する。リクール解釈学において重要なのは、言語の象徴性である。象徴とは「あることを言いながら別のことを言う」。すなわち、直接的な明示ではなく、その発話を通して、別のものを指し示す能力である。

 この多義性という語の性質こそ、語が体系に位置づけられながらも、あらたな意味の生成という点で構造主義分析に収まらず、また、ディスクール、発話というその状況の中でしか生を保てない文とは異なり、意味をたえず育んでいくという意味で、まさに構造と出来事の接点と言えるのである。

Edouard Louis, En finir avec Eddy Bellegueule (2014)

 21歳のノルマリアンEdouard Louisの小説第一作である。ピエール・ブルデューの社会学理論、例えば文化資本はあまりにも決定論的であり、それに対する反抗としてこの小説を書いたと著者は語っている。

 実際、舞台はフランス北部ピカルディー地方の貧しい炭坑の村であり、この村で生まれた少年が、中学に入り、自らのホモセクシャルな様子から、屈辱的ないじめを受けるが、アミアンの高校で演劇を学ぶことを決心し、村を離れるまで、すなわち、庶民階級を離れて、「ブルジョワ」の階層へと入ってゆくまでが、描かれている。

 それは、小説の最後で、母親がお金を出して買ってくれたAirnessのロゴが入ったベストを、街のゴミ箱に投げ捨てる場面に象徴されている。

 父親は炭坑で働いていたが、過酷な労働から、背中を痛め、今は家で一日中テレビの前にいる。母親は、老人介護の仕事(それはほとんど下の世話として描かれる)に行くようになる。しかし、家庭を支配するのは男であるべきで、男が働けず、女が働きに出ることは、父親にとってのひとつの恥辱に他ならない。

 村全体をこの野卑な男らしさが支配する。それは、大酒(パスティス)を飲むことであり、暴力と喧噪であり、女を道具として扱うことである。その空気が最も濃密に凝縮されるのは学校という場所だろう。声が高く、話すときについ手がひらひらと動いてしまう主人公は「pédéホモ」と罵られ、他の生徒から痰をはきかけられ、暴力を受ける。

 自伝的色彩が濃く、この小説は、思い出を語るように1人称で書かれている。庶民階級から、アミアンという都市への脱出の過程は、主人公エディが、自らの存在と自らの性癖を関係づけていく過程でもある。だがそれは決して直線的ではない。

 小説に描かれるのは、「意志」と「肉体の欲望」の葛藤であり、「らしさ」という仮面をつけることへの試みと嫌悪の混在であり、他者からの蔑みの視線と自分自身への視線の間にあいまいな妥協点を見つけることである。そしてこの、絶え間のない引き裂かれの状態こそが、この主人公の、ときに病的とまで言える魂の繊細さを表現している。

 今ある自分から、そうではない自分へと移っていく、移動の軽やかさを価値づけたりすることでもない。また本当の自分を発見することでの自己肯定の証明でもない。小説の主人公は、10代の前半であり、名づけることばは貧弱であり、ときに相手の暴力に自分の存在をゆだね(しかし、痛みの忘却が自己崩壊の危険からの防御であることは忘れてはならない)、ときに自分の存在の確証を得るために、「女を利用する」ことで、精神的な暴力を行使する。だが、決心へとは至らない逡巡の表現に、小説の繊細さがある。

 性は私たちの存在に深く根ざしている。それゆえに、性への違和は、存在への違和であり、それは傷つきやすさとなって現れる。性が自明であることと、性が自明でない状態は、根本的に異なる。後者は、ためらいや迷いや、決定されないことのあいまいさに苦しむ状態だ。そしてその苦しみは、所属をたえず明らかにすることを求める社会の横柄な態度によってさらに倍加する。

 作家が書こうとしたのは、そのあいまいさであり、それは意識を鋭く研ぎすませることによって初めて表現を与えられる。その表現は、限りないの苦しみと快楽の横溢という生のあり方に私たちの意識をひらく強度を備えている。

 すぐれた人物描写とは、その人に語らせるのではなく、その人の内面によりそって、その人のことばにならなかった思いを誠実に言葉にすること。人は流れる時間の中で、立ち止まって自分の意識をいちいちことばにするわけではない。

 もっと日常的に言えば、私たちは、日々の生活で大なり小なりの決断を行っているはずだ。しかしその決断の理由をいちいち突き止めているわけではない。そしてそれほどの意識を払うことなく小さな行為と結果が積み重なっていく。

 しかしそれでも心が動いていないわけではない。それまでの体験が反映しないわけではない。そこには微細な心の動きや、過去のほんのささやかな思い出が作用することもあるだろう。ただ、私たちはそれをどこまで意識しているだろうか。

 ノンフィクションをかくとき、書き手は、その人物がかかえたはずの、細やかな意識の流れに謙虚でなくてはならない。それが内面によりそうということだ。

 その態度からはるかに遠いのが人を情報化することだろう。その最たるものが新聞の見出しである。

「文人肌、損な役回り」
「和解拒否で批判の矢面」

 あるいは週刊誌に踊った言葉。

「生まじめで家族思いで文人肌」
「文学青年の心持ち続けた官僚の自殺 優しさゆえ苦しむ」

 何と空疎な紋切り型の羅列だろうか。こうしたことばが紙面を賑わせ、やがて情報として消費され、そして忘れ去られる。

 しかしことばが始まるのはこの後からである。その人を理解可能だと思い込ませる空疎な文句が過ぎ去った後、丹念にその人の振る舞いや、ことばを表現してゆく営みが始まる。

 是枝裕和は、当時、環境庁企画調整局の局長であり、水俣病裁判の国側の責任をめぐって和解拒否の弁明を続け、そして1990年12月5日に自らの命を絶った、山内豊徳の生い立ち、文学に傾けた若いときの情熱を丁寧にすくいとる。夫婦の情景を、残された妻知子への取材から丁寧に描きだす。手紙、日記、詩作品の引用が、山内の性格や人となりを物語る。そして山内が入省したときから人生をかけて打ち込んだ、公害対策法案、福祉行政の取り組みを、引用しながら、その考えを明らかにする。

 ここには戦争で父親の亡くした日本人が、優秀なエリートとして官僚となり、戦後日本の経済発展とそれがもたらした公害という時代に誠実に向かい合った生き様が普遍性をもって浮かび上がってくる。

 是枝が引用する山内の著書の中でも次の一節は、福祉行政にかける山内の考えを凝縮していると言ってもよい。

毎日のしごとが、人間に出会い、人間のこころと生活に観察と働きかけを続ける作業である福祉のしごと、そうしたしごとに携わる職業人の心身の緊張と負担、そのことに耐えるだけの適応性は、まさに人間に対する関心と興味を土台とすることではじめて獲得できるものだからです。(p.163.)

「人間にたいする関心」を持てば持つほど、「職業は職業として割り切って自分の生活を」生きることは難しくなる。割り切ることの難しさ。それを是枝は山内の書いた詩の題名「しかし」から読み取る。

「しかし」とは現実社会に対して異を唱える抗議の言葉であり、青年期特有の潔癖さを示す言葉であり、理想主義を象徴する言葉である。(p.259.)

「しかし」は、今あるものではないもの、今あるものが「当然」であるとみなす一面的な考え方への異議申し立てである。だが山内の仕事上の人生は、この「しかし」がもたらす可能性を否定してゆくものであった。

この『しかし』という詩は知子(ー妻)が言うように、彼の人生観を凝縮させたものである。と同時に、自分の内部に対するある種の喪失感、その喪失に対する焦燥感を語っているという点においてもまた、最も山内らしいものである。(p.259.)

 喪われていくものは、山内にとって自らの最もかけがえのない部分だったのだろう。人は前を向いて生きるために、喪われたものを忘れようとする。喪ったことさえ忘れようとする。だがこの忘却によって成り立つ生は、仮構された生にすぎない。私たちは喪ったもの、あるいは「こうであったかもしれない」という可能性を含み込みながら、複雑な生を生きるべきなのだ。喪ったものとともに生きる。しかし社会によって課された官僚としての生き方は、そのような選択肢を山内に与えなかったのだろう。

 この山内の生き方について、是枝は「文庫版のためのあとがき」で次のように述べている。

番組を完成し、ノンフィクションを書き上げたあともずっと考えていたのは、山内豊徳という人間は、加害者だったのだろうか、被害者だったのだろうか、というひとつの問いについてだった。福祉にとっての理想主義が経済優先の現実主義に圧倒されていく、その下降線の時代を山内さんは必死で生きようとしたのだと思う。高級官僚としてその下降に立ち会ったという責任においては彼はやはり加害者側の人間だったと言わざるをえないし、又同時に時代の被害者だったと言える気がする。(pp.292-293.)

 これに続けて是枝は、「今という時代にこの日本と言う国で生きていくということは否応なくこの二重性を背負わざるを得ないということを意味している」と述べている。私たちは加害者にして被害者である。山内という一人の人間だけでも、あるいは今の日本だけでもなく、おおよそこの二重性は人間の生存の条件と言えるのではないか。生きるための条件ではなく、生きる上で必然的に抱え込まざるをえない私たちの生と引き換えの条件という意味である。

 私たちは社会で生きる以上、他者を多少なりとも傷つけ、迷惑をかけざるをえない。そして同時に他者に傷つけられ、迷惑を被らざるをえない。そのとき最も忘れてはならないのが、社会でもっとも多く傷つけられている人々のことであり、山内はそういう人々のために奔走したのではなかったか。加害と被害は程度の多少の問題だ。だが私たちは、加害性と被害性はともに私たちの中に存在しているという事実に目をつぶり、生活保護にしても社会保障にしても、あたかもこちらの被害は甚大であると言い立ててはいないか。

 生きることの複雑さ。それはこのような二重性という生の条件に求められるし、もう一つ、体験的過去と現在の自分との関係にも存在している。

 山内は50歳を過ぎて、町田に居を構える。それは自然豊かな場所であり、彼は花や土に愛着を抱くようになる。そして土への親しみをエッセイにして語ってもいる。しかしそれについて是枝はこう述べる。

彼が語る土へ親しんだ記憶とは、彼自身の手によって創られた偽りの記憶である。(p.190.)

 実際に、山内の子ども時代に「自然に身体ごと接した記憶はない」。だが、人は生きるために、過去の体験を自分なりに物語にしてゆく。物語の創造は生きるための作為である。物語が自分の人生に一貫性を与え、それによって安心を与え、人は生きられるようになる。

 山内は、父を戦争で亡くしている。母はまだ彼が小さいときに家を出ていった。その理由が何だったのか、また理由を本人が知っていたのかどうかもわからない。山内はそんな自分の子ども時代をどう捉えていたのだろう。そして家庭をかまえてから、自分自身の両親との関係は、どう自分自身の家庭に影響を落としているのだろうか。それを知ることは難しい。

 ただ一つだけ言えることがあるとしたならば、私たちの人生は決して子ども時代の記憶や体験にすべて支配されるわけではないという事実だ。あるとき、何かの態度に現れるのかもしれない。ちょっとした言い草には、過去の傷が残っているのかもしれない。しかし私たちは、生きている以上は、過去の記憶を現在に織り合わせいるはずだ。過去の体験と今が幾重にも織り重ねられ、どれがどの糸なのかはもはやわからない。だが、それが本当の体験なのか、作為による体験なのか、それを知ろうとしても意味はないだろう。本当も作為も含み込んでひとつの人生だからだ。

 この本を読んで、私たちが知ることは実は「高級官僚の生と死」ではない。ここに描かれているのは、一人の人間の生と死であると同時に、生きることの複雑さと、その複雑さを精一杯受け止めようとの誠実な生きる態度、そしてその複雑さを丁寧に綴り上げた是枝裕和の誠実さである。

 近代(モデルネ)とは歴史上の区切りというよりも、むしろ歴史において、過去の枠組みを抜け出し、新たな段階へと進みだしている、それによって自分が自己変容を遂げているという意識そのものを指す。そのためこの意識は、歴史のさまざまな時点に現れる。キリスト教の支配する現代と異教によって支配されたローマという過去、その他、カール大帝の時代、12世紀、啓蒙主義の時代にも、人々は自らのモデルネと意識した(p.8)。

 したがって芸術作品においても、モデルネの作品の特徴はその新奇さに求められる。とはいえ、真にモデルネな作品は、時代を越えて生き残り古典と呼ばれるようになる(p.9)。おそらくそれは常に新しさをその作品から汲み取ることができるということだろう。

 こうした美的モデルヌの精神は、ボードレール、E・A・ポーから、シュルレアリスムの運動に明確に現れる(p.10)。この思潮は、アヴァンギャルド(前衛ー過去を否定し、新しさに価値を求める運動と言えるだろう)ということばで指すことができるだろう。アヴァンギャルドは、連続性によって存続する伝統を、そして伝統が成り立たしめる規範性を否定する。また歴史も時間的連続性によって成り立つ以上、アヴァンギャルドは反歴史的とも言える。

 ただし、それは歴史そのものの否定ではない。ハーバーマスは、ヴァルター・ベンヤミンの「彼自身の時代が特定の過去の一時代と織りなす」星座的連関ということばに言及し、現在と、ある過去がある関係を取り結ぶことによって、過去は「今」によって充電されるとする。すなわち、今現在の新しさから眺めることによって、ある過去に初めて光りがあたり、現在から新たな意味を与えられるということだろう。それまで眠っていた過去が現在によって目覚めるのである。例えばシュルレアリスト、アンドレ・ブルトンによる幻視者ネルヴァルの評価といったことがあてはまるだろう。

 ハーバーマスは、この美的モデルネの心性が、80年代を迎える頃には衰えてきていると指摘する。その理由は、アメリカ新保守主義の論客ダニエル・ベルに言わせれば、モデルネの文化と社会の乖離にある。ベルから見れば、アヴァンギャルド芸術とは「際限なき自己実現という原理、純正な自己経験への熱望、過敏なる感性という主観主義」(p.15)に他ならない。すなわち、芸術は完結した自己表現というわけである。そしてこのモダニズムは、「経済と行政によって合理化された日常生活における約束事や道徳的価値への敵対心を煽るものだ」と主張する。その帰結は、経済や社会に問題があれば、それはこのモデルネの文化に責任があるとするのである。

 だがハーバーマスに言わせれば、このような見方はあまりに単純である。もし社会に問題があるならば、それは、「社会の近代化に対する反発に由来している」(p.19.)とハーバーマスは説く。それをハーバーマスは「社会の近代化が、経済成長や国家による組織的活動[行政や福祉]のもつ強制力に促されて、自然に生い育った生活形式の生態系に闖入してくる」、「経済的および行政的合理性にのっとった一面的な近代化が、文化的伝統の継承や社会的統合、さらには教育等の課題を芯に持つ生活領域に闖入してきている」、「対話的合理性の諸基準に依拠した生活領域に侵入してきている」(p.20)と表現する。

 続いてハーバーマスは、ここまで芸術に限定してきたモデルネの概念を拡大する。マクス・ヴェーバーによれば、文化的モデルネは、宗教的および形而上学的世界像によって表現されてきた実体的理性が、真理、規範上の正当性、そして純粋性もしくは美に分化してしまったとされる(p.22.)。これらは「科学(学問)、道徳、芸術という三つの価値領域」に相当する。この分化によって、それぞれに専門家が現れ、その文化と講習の人々との距離が広がり、「日常的実践の共有物となるとはかぎらなくなってしまった」。結果、「日常の生活実践における解釈の積み重ねで自主的に継承されていく伝統から切り離されてしまったのである」(p.25.)。

 つまり私たちのモデルネ的心性とは、不断の刷新である。過去との対話による自己革新、意味の生成であろう。しかしながら、これらの分化した諸領域は、それぞれが自律し、こうした運動が行われる日常から切り離されてしまったのである。

 次に再び芸術の問題に戻り、美の自律志向をカントから辿る。美的なものの自律とは「日常の空間・時間構造からの離脱であり、知覚上や合目的的な行動が準拠する週間的約束事からの離反」を意味する。それによって、芸術制作と芸術鑑賞が制度化される。また、芸術家と批評家にとって重要なことが「自己理解」と「解釈」になってくる。

 このように自律性が高まれば、芸術は私たちの生から遠ざかることになる。このことの一番大きな間違いをハーバーマスは次のよに

コミュニケーション的な日常実践の中では、認識次元での解釈、道徳上の期待、主観的な表現や価値評価は、相互に深く絡みあったものでなければならない。生活世界における相互理解のプロセスは、これら全領域にわたる文化的伝統を必要としている(p.32.)。

 すなわち、近代社会で分化し、専門化してしまった社会のなかで、それぞれの自律性をやぶり、相互に深く関連しあわなくてはならない。社会と芸術が呼応し、道徳と芸術が呼応し、そのなかでさまざまな意見が形成される。その意見の不断の交換が、必要とされているのではないだろうか。 ハーバーマスは「素人でありながら芸術好きの役を選んで、自己の美的経験を自身の実人生上の問題に結びつけることもできる」と言う。作品と鑑賞者の対話の中で、自己の人生に表現を与えたり、世界に対する見方を変えたりする。その自己変容の可能性を芸術は持っている。そのとき美的経験は次のようにまとめられるだろう。

(...)美的経験は、もろもろの欲求に関する解釈をーわれわれが世界を知覚する光である欲求解釈をー革新してくれるだけではない。それと同時に、われわれの認識次元での意味理解や規範に関する期待のうちにまで浸透し、認識、規範、欲求というこれら3つの要因が相互に参照しあっているその関わり方をも変えていくのである(p.37.)。

 美的経験は私たちの世界を知覚する方法に変化をもたらしてくれる。そしてあらたな解釈=新たな意味を構築してゆく契機となる。このとき「生活世界がそれ自身の中から経済的および行政的システムの自己運動を制限しうる諸制度を生み」出す可能性も生まれるのだ(p.39.)。
 
ハーバーマス「近代 未完のプロジェクト」――終わりなき近代を生きるために | Communication and Deconstructionを参照させていただいた。

 ひとつの家族がある。しかし全員と血がつながっているのは末娘ひとりだけである。長男と長女は離婚した母親の連れ子であり、次男は、妻を病気でなくした父親の連れ子である。それでも、この六人家族は、東京郊外の瀟洒な家で、幸せな生活を営んでいる。

 だが、その幸せは「抜け目なく形作られて」いる幸せだ。誰もが心をくだき、家族であることが自然であるように振る舞ってきた結果の幸せだ。その幸せは家族が住んでいる家と似ている。

窓枠のペンキは、はげているのではなく、年月ではげたように塗られているのであり、ポーチに敷き詰められたテラコッタは雨風にさらされてくすんだのではなく、わざわざ取り寄せたアンティークなのであった。(p.36).

 目の前にある幸せは、巧妙に練られた演出であり、誰もがその演技に夢中になった。家族はそれぞれ自分たちが「満ち足りていて」、家族として完成していると思いこむ。そしてその完成の証が母親にとっては長男の澄生であった。母親は「澄ちゃんがいるからこそ、このおうちが完成される気がするの」と言ってはばからない。

 この言葉がもたらす疎外感を必死に打ち消そうと、まだ幼い次男創太は、幸せな家族に入り込むための役割を必死に探す。

「じゃ、ママ、ぼくはどういう役目なの?」
う~ん、と言って、母は額を創太のそれにぴたりとつける。
「創ちゃんはねー、わいわい族の役目」(p.39.)

 充足した家族を演じるためには、おのおのが役目を果たさなくてはならない。またそれが、幸せとされる家族の中で、一体感をもって生きてゆける条件である。

 だがこの幸せは、長男の不慮の死(落雷による死)によって、突然崩れ去る。そもそも幸福が仮構であった以上、その脆弱な土台は根こそぎはぎ取られる。そしてなんとか立ち直ろうとした矢先に、今度は母親がアルコール依存症に陥る。

 生の現実は決して充足ではないのだ。私たちの生には悲しみがあり、別れがあり、喪失がある。日々やってくる欠落を、その都度その都度かかえて生きざるをえないのが生であり、その生にそもそも完成はない。だが、母親は息子の不在を受け入れることができない。欠損を無理やりふさごうとする。

母は、兄のいなくなった空間を埋めるどころか、そこに、あらゆる思い出をしまい込み続け、もう入る余地もない状態になっても、ぎゅうぎゅうに押し込んだ。大切な記憶の中に棲む彼から、ジャンクとしか呼べないものに交じった彼まで、一緒くたにして、はしから詰めて行ったのだ。

 しかし、欠損を欠損として受け止めない以上、時間はその流れを取り戻さない。過去の記憶がそのまませき止められ、行き場を失い「壊死」するだけである。

 小説は、何とか「壊死」することなく、その後を生きてゆこうとしている弟と2人の妹、3人の不器用とも思える生き方を描く。兄を亡くした子どもの頃から、恋人ができ、恋愛の問題をかかえる大人の今現在まで、回想をからめながら、心の道程が丁寧に辿られる。

 それぞれが喪の作業と格闘している。長女の真澄は、義理の父親に言われる。

「いったいどうして、きみは、死に対してそんなにも厳格なの?」(p.193.)

 人を失うことの恐さに恋愛に躊躇する娘に義父はそう言う。

 弟創太は、「母親の味を知らない不憫な子」として、「記憶を改竄」することができない(p.95.)。「その後」を生きるために、私たちは過去の意味を新たに付与し、それによって一貫性を保って、生の方向を決める。しかし、その記憶の物語化を創太は達せないでいる。

 一番下の千絵は、澄生の記憶をほとんど持っていない。その意味で死の影は薄い。それでも、彼女は、生き方を決められてしまっている。それは「あたしは、自分が、まるで皆をつなぎ止めるために生まれたような気がしてる」と言うように、気づいたときには、子を亡くした家族らしい生き方を押し付けられてしまっているのだ。 

 私たちは愛する人の死に直面したとき、激しい喪失を体感する。自分の一部がもぎとられて、「がらんどうになった部分を抱かえて行かなく」(p.195.)てはならなくなる。そのとき、人に手当をしてもらわなくては生きていけない人もいる。「自然治癒を待ち続けなきゃならない人だっている」(p.117.)。生を再び歩みだすための「軌道修正」は、人それぞれであり、そのときに人と人の関係があらためて結び直されることになる。

 それは家族の関係もそうであるが、実は社会においての関係も同様である。依存症が持ち直し、気分が上向きなった母親は、末娘千絵と外出する。ところが、自分のさしていた傘がある若い女性にあたり、舌打ちをされる。そのとき母親は言う。

「やっぱり、ママ、他人様の邪魔になっちゃうのね。迷惑をかけないでは何もできないのね」(p.146.)

 私たちはだれでも喪失を抱え込む。だが、欠損のない社会では、そうした心の傷は考慮されないどころか、充ちていることが当たり前である以上、そのまま「迷惑」とされる。しかし、社会とは、老いや、ハンディキャップや、体の不調や、心の悲しみや、さまざまな欠落をかかえた人たちが本来よりそうべきところなのだ。それぞれが欠損を自分なりに埋め合わせて生きて行けるよう、それぞれが他人に負担をかけ、そして負担をかけられながら生きている場所なのだ。充実している社会は、そうした人々の根本的な欠落としての生き方を隠蔽する。

 残された3人の子どもたちは、家族から離れて、恋人と新たな生活を始めても、家に戻ってくる。それぞれが迷惑をかけることを、ときにはいやがりながらも、それでも引き受けて生きてゆく。最後に小説は、家族が澄生の命日を受け入れることができなかったことの代わりとして、澄生の誕生日にお祝いをすることを思いつく。お祝い、それは、もはや死者への引け目でもない。そして何事につけても、死者を引き合いに出して説明をしていた、言い訳でもない。「死んだ人も年をとる」。死者でありながら、私たちとともに年を取る。そのように死者を受け入れてはじめて家族はそれぞれの今を生きるようになる。

 この作品は、第一章が「私」長女真澄、第二章が「おれ」長男創太、第三章が「あたし」次女千絵がそれぞれ一人称で語ってゆく形式になっている。しかし第四章だけが「皆」で三人称で語られている。その謎解きは最後の最後になって明かされる。そのとき読んできた私たちは、死者と共存することがどういうことか、はたと気づくのだ。

 「憎むのでもなく、許すのでもなく」。この邦題は、5歳のときにナチスに逮捕されたが、逃亡に成功し、その後、精神科医となったボリス・シリュルニクが自らの人生から引き出した教訓である。と同時に、単なる体験談、人生の知恵というだけではなく、その自らの体験を対象化、すなわち、現在の自分が距離をもって捉え返し、精神科医としての学問的知見から、導きだされた省察でもある。私の体験と、省察が折り重ねられて綴られたのがこの作品であり、それが大きな魅力になっている。

「憎むのでもなく、許すのでもない」ならば、選択肢は何か。ナチズムや人種差別について、シリュルニクは言う。

私にとっての選択肢は、罰するか、許すかではなく、ほんの少し自由になるために理解するか、隷属に幸福を見いだすために服従するかである。(p.320)

 ボルドーに生まれ、フランス人の意識しかなかった自分が「ユダヤ人」というレッテルを貼られ、ナチスに逮捕の対象となり、また戦後も「ユダヤ人」というレッテルだけで差別される。だが「ユダヤ人」とは「現実から切り離された表象」(p.319)である。隷属とは、この表象に隷属して、思考を拒否することである。共同体とは、この表象を分かち合う人々の集団と言ってもよい。そして私たちの世の中は、「答えのない疑問がいきなり現れると、(...)単純な考えが答えになる」(p.91.)。

 それに対して理解とは、私たちの知的な努力である。事態を理解することで、その事態に対する見方を変えていく態度である。憎むとは、思考の停止に等しい。なぜなら、シリュルニクが言うように、「憎むのは、過去の囚人であり続けること」だからだ。

 過去にとらわれるとは、そこで思考が停止し、その一点に固まってしまうことを意味する。しかし、生きるためには、私たちは、この過去を練り直していく必要がある。過去から離れることはできない。しかし生きる時間の中で、過去を意味付けなおし、過去から現在へと一貫性のある物語を構築しなくてはならない。そこに生きる確証が見いだされてくる。

人生を物語にするのは、一連の出来事をすべて語るのではなく、自分に起きたことの表象の中で、自分の思い出を整理して体系化することだ。(p.93.)
 
自分の心を見つめると、イメージや言葉の表象ができあがり、心の中の映画館には、記憶されたいくつかのシナリオが浮かび上がる。自分の物語を自己に語る、そうした心の中の映画は、自身のアイデンティティを構築するのに役立つ。(p.100.)

 生とは、ひとつの流れであり、その都度その都度生まれるものではないだろうか。人生を歩む分だけ、私たちは新たに自分の物語を語り直す。こうしてたえず、生を生むことが生きることになるのではないか。だから体系化とは、不動の建物を立てることではない。思い出の破片を集めて、つなぎあわせることで、映画のように流れるストーリーを作ることと等しい。

 ここで大切なことは、物語は虚構ではないという点だ。人の記憶には誤認がつきまとう。特にシリュルニクのように子どものときの記憶を遡らなくてはならばい場合は、なおさらである。その記憶には多くの欠落がつきまとうし、自らが生きるために、物語に、実際とはことなる整合性をたずさえた意味を与えたりもする。すなわち物語全体は事実ではない。それは事実の表象である。しかしだからといって、それを虚偽として捨て去っては決してならない。

「表象」という言葉は実に的確である。思い出は、現実をよみがえらせたものではない。思い出は、われわれの心の中の劇場において、真実から表象をつくるために、真実の断片を寄せ集めたものなのだ。心の中で上映される映画は、われわれの物語や人間関係の帰結である。われわれは幸福であるとき、自分たちが感じる幸せに一貫性を与えるために、真実の断片を記憶の中から探し出し、それらを組み立てる。そして不幸なときも、自分たちの苦しみに一貫性を与える真実の断片を探し出す。(p.137.)

 ここで注意したいのは、シリュルニクが「真実の断片」と言っている点である。表象は現実とは異なる。しかし表象の源泉には、断片に過ぎなくとも「真実」があるのだ。私たちが証言を聞くとき、取らねばならない態度がこれではないだろうか。私たちが受け取る話は現実ではなく表象である。しかしだからといって、それは歴史的事実とは異なるとして否認できるだろうか。いいやできはしない。なぜならば、その表象としての物語には、体験者が心に刻んだ真実の欠片が散りばめられているからである。だから私たちはその表象の源泉まで降りていかなくてはならないのだ。

 聞く者にこの姿勢がないとき、体験者は沈黙へと陥る。シリュルニクの語りは、『一九四四年一月に私が逮捕された時点から出発して、「パポンが断罪された」』(p.321)ところで終わる。つまり20世紀も終わりに近づいてからである。社会に、今まで隠されてきたドイツ占領下のフランスの実態が明るみになったときに初めて、シリュルニクも語り始めるのである。この問題が封印されていた80年代までは、沈黙があるだけであり、体験は「心の中の礼拝堂」(p.187.)だけで語られていたのである。

 ではその間、例えば終戦直後の社会では何が語られていたのか。

共同体の物語では、ド・ゴール将軍やルクレール将軍、共産主義者のレジスタンス、さらには隠れて抵抗した一般庶民の功績が褒めたたえられた。(...)[映画『静かな父』では、臆病者や街のごろつきさえも、フランス人全員がナチス・ドイツに抵抗したことになっている。(p.172.)

 もちろん抵抗した人々も数多くいただろう。それは事実である。しかし問題なのは、この物語は、他の解釈の余地のない、すなわち書き換えることなどない、疑うことを許さない不変の真理として、提示されている点である。このとき、物語は神話となり、もはや再構成されることはない。この時物語はその動的生命を失い、プロパガンダの手段に堕する。嘘なのはこちらだ。

 物語は、過去と思い出の関係だけなく、語り手と聞き手との間でも変化するきわめて生成的なものである。

 それに対して、トラウマ的体験は、動かず固定されたイメージ、しかも自己のコントロールが効かず、不意に、そして何度も、時間的変容を一切被らず、人を支配する体験である。

記憶が健全であれば、明確な自己の表象によって、行動計画をスムーズに立てられる。しかし、大きな不幸に見舞われて心が引き裂かれると、習慣的な思考パターンではこの予期せぬ問題を解決できない。新たな解決策をみつける必要があるのだ。ところが、悲痛な想いがあまりにも強烈で、心がぼろぼろになり、打ちのめされた状態にあるとき、われわれは精神的苦しみによって感覚が麻痺し、呆然とした状態に陥ってしまう。(p.54)
 
トラウマ的体験は過去の記憶に残る要素を適合させることがもはやできないほど、未知の異物として、人を圧倒する。そして「お決まりの文脈に落とし込まれ」(p.308)、固定され動かなくなる。それがトラウマの苦しみ、生の枯竭ではないだろうか。
 
トラウマをともなう記憶は、絶えず繰り返す、固定された不変の思い出である。それは、物語の停止であり、死んだ記憶だ。(p.310)。

 では、私たちはトラウマから逃れることはできないのだろうか。そんなことはない。トラウマ的記憶が物語的記憶へと変化する、そのきっかけを作ってくれるのは、その体験者のことを覚えていてくれる他人の存在である。

 ところが、過去の試練についての思い出を分かち合うことができれば、記憶はよみがえる。そのとき、恐ろしい現実の表象に一貫性を施した修正に、われわれは驚愕することになる。思い出は進化するのだ。語る環境が整うと、物事がそれまでと違って見えるのである。(p.300.)

 だが、そのためにはときに長い時間を必要とする。シリュルニクを引き取ってくれた叔母ドラと、打ち解けて過去の話ができたのは、ドラが90歳を過ぎてからである。

 言語化する能力、それはまわりの人の愛情によって育まれるとシリュルニクは言う。résilience=へこたれない精神は、自分の努力でない、実は他者の愛情によって、人間が身につける、生きるための精神なのだ。

Marcel Cohen, Sur la vie intérieure (2013)

 フランスのラジオ番組をpodcastで聞いていて、この本を知り、Amazonで注文したはずだが、どの番組だったのかは思い出せない。マルセル・コーエンという名前もその番組で初めて知った。

 マルセル・コーエンは、1937年生まれ。この本が書かれたのが2013年で、76歳の時の作品となる。表紙には卵立ての写真。これはコーエンの母マリが、1939年に友人に贈ったもので、コーエン自身の手に渡ったのは、2009年のことである。この作品はコーエンの両親、父方の祖父母、叔父たち8人を回想した、8つの文章で構成されている。その最初の章が母親マリであり、この卵立てから章が始まる。

 卵立ては普段誰も気にとめることのない小さな日常品、毎日の生活に入り込んで、私たちの意識にほとんどひっかかることもないような品である。だが、そんな小さな品にも、意味が宿る。コーエンは、このとりとめもない品が70年間も残されたことに、持ち主の母親へのやさしさを感じるのだ。そして、それは同時に、母親の友人へのやさしさの証でもあるだろう。

 マルセル・コーエンの家族は父方、母方ともにトルコのユダヤ人の家系であった。マルセルの父方の叔父ジョゼフが商売で成功したことで、一族をパリに呼び寄せる。父親ジャックがマリと結婚したのが、1936年、翌年マルセルが誕生する。だがその6年後、マルセルを除く家族、親戚全員がユダヤ人狩りにあう。この作品は、その自分の家族、一族についての回想の書である。

 とはいえ、書くことは困難をともなう。家族を亡くしたとき、マルセルは6歳である。その記憶はおぼろげで、あいまいで、断片的でしかない。また当時のフランスで何が起きていたのか、そして家族がどのような最後を遂げたのか知るよしもない。76歳になった著者が持っているのは、大きな歴史の前で、やがて消散してしまうか細い記憶でしかない。

 冒頭で触れた小さな品は、この小さな記憶の象徴である。父親が作ってくれた犬のおもちゃ、父親が使っていたヘアネット、日用袋、そうしたささやかな品々が、それらが手元におかれていた頃の日常を、少しだけ復元する。手作りの犬のおもちゃは父親の器用さを物語り、ヘアネットは父親のくせっ毛と、それを直すことへの父親のちょっとした執着心を想起させる。

 だが、マルセル本人は、父親が夜ヘアネットをしていたことは何も覚えていない。品は、その存在によって情景を復元するものもあれば、その品に付随していたであろう物語がもはや復元できないこと、物語の不在を示すだけのものもある。

 もうひとつ記憶のたよりになるのが、souvenirs olfactifs (p.101.)-嗅覚にまつわる思い出である。母親の香水のにおい、父親や父親の兄弟たちがつけていた、レモンの香りのするオーデコロンのにおい。マルセル・プルーストの無意識的記憶を想起させる挿話だが、しかしこのにおいが、過去の全体的な復元に至るとは限らない。マルセル(・コーエン)は、似たようなにおいがあることによって、かえって記憶が混濁し、鏡の無限の反復のように似たような記憶だけが、その正体を明かすことなく増幅してゆくと書き留めている。

 この作品は、普通の字体の他に、イタリックの字体と2種類の字体で書かれている。イタリック体は、幼いときの記憶をたどった部分、普通の字体は、成人になってから、生き残った親戚などの証言をもとに、本人が調べて書いた部分である(ただしその証言を拒む親戚もいたことも書かれている。もはや思い出したくない、家族だけにとどめておきたいという親戚の者もいた)。

 すでに触れたように、この作品は、両親、親戚の8人を回想したものだが、その順番は母親マリ、父親ジャック、生後3ヶ月で母親とともに移送された妹モニック、父方の祖母、祖父、叔父、大叔母、そして母方の叔父である。

 この順番は時間的な時間系列ではない。マルセル本人の回想の多寡である。母親の記憶が一番多く、イタリック体で綴られる部分も一番多い。もちろんそれは断片に留まる個人的記憶である。しかし、手で触れた記憶、匂いの記憶によって、その人たちが確かに存在したと伝えてくる。だが、その個人的記憶は、人物が、祖父母や叔父になるにつれ、少なくなり、その分普通の字体で書かれる部分が多くなっていく。そしてその部分によって、ようやく時代的な枠組み、家族の歴史もはっきりしてくる。

 例えば、祖父の回想の部分で、ようやくなぜマルセルだけが助かったのかが明らかになる。祖父はパリに来て、女中をやとったが、それが15歳くらいのブルターニュからの少女だったことに怒りをあらわにする。教育熱心であった祖父は、この女中アネットも学校へと通わせたのだ。強く恩を感じたアネットは、結婚後も、夫のいるブルターニュには祭りや長い休暇のときしか帰らず、あとはずっとコーエン家で働いていたのである。rafle「一斉検挙」の日も、幼いマルセルの手を引いてモンソー公園で遊ばせていたのはアネットである。アパルトマンに帰ってきたところを、管理人の女性に制止され、マルセルを保護し、何とかブルターニュへと逃げたのである。

 ただしこの「事実」は、実は「なぜマルセルが助かったのか」その説明として大切なのではない。大切なのは、この奇跡とも言える事実を生んだのは、祖父の人となりなのである。ここで復元されるのは、当時としてはまれであった、祖父の態度なのである。こうして祖父という存在が、少しだけ浮き彫りにされる。

 私たちは、150ページに満たない作品を読みながら、ゆっくりと幼いこどもの私的な回想の断片から、当時のいきさつへと運ばれる。しかし、この回想も、大人になってからの聞き取りによる復元も、最後の大叔母、母方の叔父のところではともに不可能になる。最後の叔父ダヴィッドについては2ページあまりしか言及がない。つまり語るべきことは失われてしまっているのだ。

 こうして断片から始まった作品は、空白を残して閉じられる。家族の物語は一つの映画のように幕を降ろすことはない。それは物語未満だ。前後関係もおぼつかず、写真がちりばめられた写真のようである。そして最後のページに貼られる写真は残ってない。

是枝裕和『歩くような速さで』(2013)

 是枝裕和のエッセイ集である。エッセイと書くと軽めの読み物という印象を与えるかもしれない。事実、使われていることばは平易で、コラムと言ってもよいほどの、主に新聞に連載した、小さなテキストが収められている。でも、ここには是枝裕和という人がどんなふうに育ってきて、何に価値をおいて自らの立ち位置を定め、なぜこういう映画を作ってきたのか、が飾り気なく書かれていて、これを読んでいると、自分の子ども時代と重ねあわせたり、映画のあるシーンを思い出したり、そして今現在の社会で、自分たちがどう振る舞って生きてゆくべきなのかを深く考えさせられる。

 是枝監督は、この本の冒頭と、終わりに近い文章で一見すると矛盾に思えることを書いている。物語についてである。

 まずは、『そして父になる』について。

そして、こうも考えた。「赤ちゃん取り違え事件」というセンセーショナルな出来事をプロットに巻き込んだときに、恐らく観客の視線や意識は、夫婦がどちらのこどもを選択するだろうか? というその結論へ向かうだろう。しかし前のめりに「物語」を読み解いていくそのベクトルが強すぎると、物語の背後に息づいているはずの、彼らの失われるかも知れない「日常」がおろそかになる。それではいけない。あくまで日常の描写を豊かに、リアルにイメージしてもらうことが必要なのだ。「物語」より「人間」が大切だ。(p.4-5.)

 このように物語への留保を示す一方で、この本の終わり近くでは次のような言い方をしている。被災地を前にして。

しかし今、作品づくりを前提にあの被災地に立つことにはどうしてもためらいがあった。もし、そうしたら描くべき物語をそこに見つけるという階段を上って行かなくてはいけなくなる。たぶん僕はそれが嫌なのだ。この風景を、その風景を前に立ち尽くす人々を「物語化」して提示するのはまだ少し早いのではないかと思っている。かたくなに物語化を拒んでいるようなあの圧倒的な崩壊の前で、もうしばらく立ち尽くすべきだと思っているのだ。

 震災後の光景を前に立ち尽くしながら、作品にすることをためらっている自分の心境を綴った一文である。圧倒的な現実を前にして、拒否されているのはその現実を題材にした物語化である。作品づくりとは、本質的に物語を作ることである。物語を作ること、それは世界を描くことだろう。構成を定め、彩色を施すことだ。こうして描かれた世界は世界であって、もはや世界ではない。それは構成化され、彩色化された世界だから。この作品化の大前提となる物語化へのためらいが、是枝監督の創作意識の根本にあるように思う。

 そのように考えれば実は矛盾がとけてくる。作品は絶対に物語から逃れられない。それを前提とした上で、本人自ら言っているように、物語を読み解く時に用いられるベクトルの極端化に注意すること。それも「物語へのためらい」であり、是枝監督が自らにずっと課し続けてきた節制の効いた態度である。

 では物語とは何か。作品には出来事がある。そして出来事があれば、その結論がある。つまり物語とは、出来事に始まりと終わりを与える作業であり、さらに物語内部に入れば起承転結を与えることである。また物語には読み解きの作業が付随する。出来事が示され、その意味を読み解いていくときに物語度が高かまると言えよう。もちろん出来事だけではなく、人物の言動や心理を読み解くのも物語の機能だ。観客は物語の枠組みを与えられ、その中で、読み解きをたえず行いながら、始まりから終わりへと運ばれていく。ところが、被災地を前にして、是枝監督は、その物語の枠組みさえ、見い出せないと言っているのだ。

 だが、たとえ物語化によって作品が生まれたとしても、是枝監督はあくまでも物語へのためらいの態度を崩さない。それどころか、このためらいこそが作品を生む条件となる。

 是枝監督は、マイケル・ムーアの『華氏911』について、自分とはかなり隔たりがあるとして、次のように述べている。

実は『華氏911』は僕にとってドキュメンタリーではない。それがどんなに崇高な志に支えられていようと、撮る前から結論が先に存在するものはドキュメンタリーとは呼ぶまい。撮ること自体が発見である。プロパガンダと決別した取材者のそんな態度こそが、ドキュメンタリーという方法とジャンルの豊かさを生む源泉だからである。(p.150)

 結論が先に存在し、その結論に観客を運んで行く。ドキュメンタリーについて述べられてはいるが、作品を作ることが物語化である以上、濃淡はあっても、ドキュメンタリーも映画も本質的に違いはないだろう。事実、いかに多くの「芸術作品」が、戦意発揚を結論として人々を陥れ、プロパガンダとして効果的に用いられたことか。

 2014年2月15日付け朝日新聞のインタビューで是枝監督は次のように言っている。

昨年公開した「そして父になる」の上映会では、観客から「ラストで彼らはどういう選択をしたのですか?」という質問が多く出ます。はっきりとことばでは説明せず、ラストシーンを描いているから、みんなもやもやしているんですね。表では描かれない部分を自分で想像し、あの家族たちのこれからを考えるよりも、監督と「答えあわせ」してすっきりしたいんでしょう。

 作品を物語とすることにいかに慎重かがわかる。結論へと観客を導くのではなく、観客に映画の後の登場人物たちの生を想像させる。なぜなら是枝監督にとって大切なのは「物語」より「人間」だからだ。これから先も彼らは日常を生きていく。それはまた多くの物語を生み出すことになるだろう。逆に、単一の物語へと人々を誘導すること、それこそが現在の日本の政治状況だと是枝は主張する。だがその誘惑の力は強い。是枝監督は、福島の高校生たちが作った作品にさえ、それを見逃さない。彼らの作った作品が「絆」や「笑顔」を強調して締めくくられていたことに、「テレビで放送されているプロの大人たちの番組の悪影響」、すなわち「画一化されたルーティンな手法」を見て取るのだ(p.214.)。明快な紋切り型が、作品を支配するとき、作品は意味の単一化という貧しさへと陥る。

 では、こうした物語へのためらいによって、映画はどのような作風を持つのだろうか。ひとつは「不在なものの存在」、もうひとつは「日常のディテール」とまとめられるだろう。

・不在なものの存在

「そして父になる」は、前述したように、彼らが最終的に決めた選択は描かれていない。その意味ではラストが不在と言えなくはない。しかしだからこそ、私たちは、不在の「その後」を想像しはじめる。つまりは、不在であるもののありうる姿を作り上げてゆくのだ。

 是枝作品には不在なものの存在の感覚がよく描かれる。たとえば、家屋のなくなった庭一面の秋桜をみて、今は不在の「家族のこれまで」という過去、そして「もしかしたら引っ越す前とは違う形で続いたのかも知れないこれから」という不在の未来。私たちは確かに今に生きている。しかし「現在進行形の今以外のその時間」に思いをはせる、すなわち時間的に不在なるものの存在に思いをはせることが、このシーンでは重要になっている(p.72.)。

 例えば、カニがこちらに立ち向かってくる姿をみて、そこにもう一匹のカニの亡骸を必死に守るという「ありえないもの」を感じる体験(p.77.)。

 例えば、写真家川内倫子の作品集『Cui Cui』での、亡くなったはずの祖父の存在。

中盤を過ぎた頃、唐突に物語の中心にいた祖父が亡くなる。夫の死に戸惑い、立ち尽くす祖母の姿が印象的だ。葬儀が終わり、祖母はひとりになるが、しばらくして川内家には新しい生命が授けられ、また家の中に(写真に)光が満ち始める。その時、それまでの時間軸を壊してなくなったはずの祖父が登場するのだ。作者はファインダーを覗きながらふと生前の祖父を思い出したのか。赤ん坊の傍に祖父の存在(不在)をかんじたのだろうか。(p.202)

「赤ん坊の傍に祖父の存在(不在)」と是枝監督は言う。祖父は亡くなって不在だ。しかし赤ん坊という存在が生まれることで、目には見えない祖父の存在も見えてくるのだ。

 そもそも私たちの日常の生とはこのような存在と不在が交錯する複雑なものなのではないだろうか。ところが私たちは今を優先して、徹底的に物理的に目に見えるものの世界だけで生きようとする。不在なものは本来あいまいだ。私たちが耳をすましたり、目をこらしたりしないと触知しえないものだ。ところが物語は、ときにあいまいさを排除し、明確な意味を与えてしまうことで、ひとつの暴力として私たちの生を支配する。

・日常のディテール

 日常のディテールでも同じことが言える。冒頭の引用をもう一度繰り返そう。

しかし前のめりに「物語」を読み解いていくそのベクトルが強すぎると、物語の背後に息づいているはずの、彼らの失われるかも知れない「日常」がおろそかになる。

 日常のディテールとは、はっきりとは意味を持たない、物語の明示的な起承転結にはからめとられない、破片のようなささいなものである。だが、物語に回収されないがゆえに、私たちは映像を見ながら、そこに生まれつつある意味に驚くのだ。たとえば是枝監督は自らの好きな映画『自転車泥棒』のラスト、こどもが父親の手を握るシーンについて、こどもの時に見た時の記憶、大学時代の印象、そして三度目に見た時の印象がそれぞれ違っていたことを挙げ、この場面の複雑さについて述べている。

この映画は複雑だ。それは稚拙であるからではもちろんなく、人生や世界の複雑さを正確に反映していることによって生じる複雑さである。

 映像とその意味の関係が必ずしも自明ではなく、幾重にも解釈が重なる。人生や世界もそうだろう。私たちは多様性のなかに生きている。その多様性が担保されることで、さまざまな意味が生まれてくるのだ。そのために丁寧にディテールを追う必要が出てくる。

 手の描写ではっとするのは、『そして父になる』でのディテールとしての手だ。娘を慰める母親の手、親子で寝るときの母と子がお互いに差し伸べる手。そのひとりひとりの手を丁寧に描くことで、私たちは、そのさりげないしぐさのなかに、初めて出会ったかのような、新鮮で豊かな愛の意味を発見する。

 なぜこのような手法が可能なのだろう。そしてなぜこのような世界がぶれなく何作品にもわたって描かれうるのだろうか。こうした作品世界の根本に何があるかといえば、それは「作品は自己表現ではない」という創造意識である。是枝監督は先のインタビューの中で詩人谷川俊太郎の次のことばを引く。

詩は自己表現ではない。詩は、自分の内側にあるものを表現するのではなく、世界の側にある、世界の豊かさや人間の複雑さに出会った驚きを詩として記述するのだ。

 これをうけて、是枝監督は「ドキュメンタリーは、社会変革の前に自己変革があるべき」と続ける。ここに芸術の根本があるように思う。芸術は自己表現ではない。もしそうであるならば、芸術は単なる自己完結の結果になってしまう。たとえ表現者がいるとしても、「そこ(映像)に描かれた感情は、僕の『何か』に対しての感情なの」(p.25)であって、作品は、表現者のメッセージの伝達ではなく、あえて言うならば、世界の私たちに対する呼びかけを届けるのだ。この呼びかけられている私たちとは表現者であり、観客であり、読者でもある。

 この思想には、是枝監督の人間観が強く反映している。人間はリア充といった自己充足しているような、自己完結できる存在ではなく、たえず欠如を抱え込んでいる存在だという深い認識がある。人間は完結せず、たえず欠如を抱えている、すなわちその空白の部分があるからこそ、その空白を埋めようと、自己変革していくのである。そして欠如を根本的にかかえているからこそ、他者と寄り添おうとするのだ。

 是枝監督は、自作『空気人形』と呼応する吉野弘の詩をひく。

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
生命は
その中に欠如をいだき
それを他者から満たしてもらうのだ

 人間は決して自分一人でその欠如を埋めることができない。だから、「つい他者を求めてしまう弱さ」を持っている。だが、是枝監督は言う、この「欠如は欠点ではない。可能性なのだ」(p.55)と。

 是枝監督の作品を通底するのは「死」ではない。それは喪であって、さらに言うなら、喪失という決定的な欠如をかかえ、弱いままで生きる人間の生の可能性である。

 私の祖母はとても信心深い人であった。その祖母がたびたび聞きに通ったのが祖父江省念師の節談説教であった。節談説教は、浄土真宗の寺で信者に対して講談のような形式で仏教の教えをわかりやすく伝えるものである。さまざまな冗談や軽口を交えながら、最後には功徳を説き、信者の老人たちを泣かせるひとつの技芸である。父親が祖母を連れていったときにしたのだろう、祖母はカセットテープに録音されたその説教を家でもよく聞いていた。

 後年、口頭伝承に興味を持っていた関係で、小沢昭一の『日本の放浪芸』のCDボックスを買ったときに「あっ!」と驚いた。そのボックスの1つは節談説教にあてられており、さらにその5枚目には祖父江省念師の説教が、6枚目には師を囲んだ座談会が収められていたのである。

 この論文を読んで初めて知ったのは、「原爆の図」で知られる丸木位里・俊夫妻の俊が「北海道の浄土真宗の娘だった」ことである。「原爆の図」は、1950年2月から翌年11月まで巡回展で全国51カ所で公開された(p.50.)。そのとき夫妻は、会場に立って、原爆の惨状を聴衆に説明した。そのときに役立ったのは、俊の語りである。講談説教の語り口を体得していたその語りは、聴衆を魅了し、引き込んだに違いない。

 この論文の著者、上間かな恵は丸木夫妻の「沖縄戦の図」が展示された沖縄宜野湾市にある佐喜眞美術館の学芸員で、本人自ら、訪問者にこの絵の説明をなさっている方である。非体験者が圧倒的になってしまった現在において、「何を伝えるべきなのか」、「どうしたらこの問題を考え続けてもらえるのか」という問いは、それゆえ切実で具体的である。

 語りのうまさは、人々にその語られる世界の存在を信じさせ、感動を生むかもしれない。だが、それは知らぬうちに、聴衆を誘導し、ことばがもたらす快感に酔わせることにならないだろうか。それが「語りの危うさと難しさ」(p.61.)である。上間は、俊のことばをひきながら次のように言う。

例えば「原爆の図」の巡回展で多くの聴衆を引き込んでいった自らの語りについて俊は、「絵で感じられない感動を言葉で伝えようとする」うちに、「言葉だけはだんだん激しくなって」「まるで漫画家の漫談、なにわ節、ここが聞かせどころというような」自らの語りに空しさを感じ、そのマンネリズムに自己嫌悪に陥ることもあったという。(p.61.上間による俊の発言の引用は、小沢節子『「原爆の図」ー描かれた<記憶>、語られた<絵画>』による)

 この「語りの危うさと難しさ」の一番の問題は、語りが結局は聴衆から、聴衆自身が想像力を駆使し、語りが終わった地点から、自らが考えを深めてゆく主体性を奪ってしまうことにあるのだろう。

 それでも俊は、自ら体験者でなくとも、体験者の声を、その面前で聞いた体験を持つ。「位里の母、妹、弟など身近な家族や親戚」という、「生き残った者たちの生々しい語り」(p.50.)を聞き、「死者の記憶」をその絵に残そうとした「介在者」である。

 しかし体験者でもなく、体験者からの直接の声を聞くことも難しくなってきた今現在に生きる者は、どのように記憶を継承したらよいのだろうか。

 上間は、重要なのは「当事者性」であるという。それは、今を生きる私たち自身が「再び戦争を起こしかねない当事者である」(p.56.)という意識である。ではどのようにして私たちはこの当事者性を獲得できるのか。上間は屋嘉比収の著書『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす 記憶をいかに継承するか』で述べられている3つの手だてを引用する。

1. 沖縄戦の体験談を<共有し分かち合う>という視点の必要性
2. 沖縄人に<なる>という視点
3. 沖縄戦や米軍占領下という<大きな物語>に対して、家族史や個人史的な視点という<小さな物語>から考えてみること

 上間は、続いて、自らの修学旅行生に対する実際の説明を述べているが、そこで大切になるのは、「兄弟」、「姉妹」、「友人」、そして「学校」、「教育」、「家族」という語であると言う。

 私たちは自分の中にいくつもの小さい<私>の物語を持っている。それは兄としての<私>であったり、妹としての<私>であったりする。そして私たちはいくつもの小さな社会の中で生きている。それは家族であったり、学校であったりする。そしてその社会は時に私たちに制約を課す。私たちをとりまくさまざまな社会問題から出発し(いじめ、格差社会、原発事故)、日本の閉塞感を批判的に認識し、やがてはそこから、戦争当時の社会の構図、沖縄戦の恐怖へ接続すること、そのための想像力の大切さを上間は訴える。

「沖縄戦の図」の中央から斜め下には何も描かれていない空白があり、上間はその空白について、次のように説明するそうである。

丸木夫妻は六年間をかけて沖縄戦のことを描きましたがこれがすべてではありません。一番重要なところはまだ空白の部分に沈み込んでいます。この空白はヒロシマやナガサキやオキナワだけにあるものではなく、皆さんの住んでいる街にもあるかもしれません。戦争の跡がないところでは大変見えにくいかもしれませんが、帰ってからも自分の街で目を凝らして探してみてください。

 当事者性を考え続けるとはまさにこのことだ。私たちの今いる場所をしっかりと見つめ、頭を働かせ、想像力を駆使すること。それはときに疲れることであろう。しかしその疲れを超えて、考え続けよと、強い緊張を持って私たちに呼びかけてくるのが芸術作品なのだろう。上間はこの絵画の空白が「常に私たちに切り込んでくる」として論を終えている。小さな物語から大きな物語に接続するために芸術に求められるのは甘美なことばではなく、私たち自身が主体性をもって新たなことばを探し出していくための意識の刷新である。

 美しく、そして誠実な表現で語られている。ことばに携わるさまざまな人の表現をひきながら、そこに深い考察を加えている。表現も内容も優れた講義録である。

 著者の林みどりはラテンアメリカ思想文化史の研究者。問いの中心は「震災とことばがどう切り結んでいるか」。

 震災があったとき、まず訪れるのはことばの無力化である。林は大地震に遭ったメキシコの小説家パチェコのことばをひき、それまで繰り返し使ってきた「塵、灰、惨禍、死」といったことばが、大惨事を前にしてその機能を失ってしまったという体験を紹介する。続いて、辺見庸、佐々木幹郎のことばから、二人がことばを失う体験をしたことに触れる。

 その一方で、ことばの喪失とは逆に、「饒舌なまでにことばを発信する」、詩人和合亮一の作品を引用する。その作品で多用される「!」の意味を、林は「ことばがことばになろうとする瞬間に、その閾の領域で凍りついてしまった呼吸そのものだ」と形容する。

 続いて林は、喪の作業をめぐるジュディス・バトラーの考察へと移る。バトラーによれば、喪失の経験とは「相手の不在を経験するだけでなく、自分自身のなかの何かが決定的に変わってしまう事態を経験する」ことだと言う。バトラーはそれを波の比喩を用い、「ひとは波に襲われるhit by waves」と表現する。私たちは、波に襲われることによって、過去から未来へと延長線をひきながら、日常を生きることがもはやできなくなってしまう。

 この経験を、林は心理学用語の「ベーシック・トラスト」(基本的信頼)が根源的に破壊されてしまった事態だと説明する。このベーシック・トラストの毀損から、私たちがこれからどうやってあらたな思考やことばを獲得できるか、それが私たちの責務であると、林は声高ではなく、一貫性を持って主張する。

 トラウマのことば。それはどのようなものであるか。トラウマは「声なき声」(宮地尚子)であり、その意味では「トラウマはことばにならない」。しかし林は、この原則が侵されることがままあると言う。

なぜなら、ひとは、ことばにならない経験を他者に伝えたいと願うからです。苦しみを、恐怖を、悲しみを、憤りを他者に手渡すことによって、他者とつながりたいと絶望的に願うからです。

 こうして「うめき声の断片が結晶」(宮地)になり、詩が生まれる。パウル・ツェラン、そしてアルゼンチンの詩人フアン・ヘルマンの詩が紹介される。ヘルマンは、アルゼンチンの軍事独裁政権化で息子夫婦の強制失踪に遭い、その喪失を詩にした。その詩は、今ここにいないー非在の者へに向けられたことばであり、その意味で詩は対話的である。対話をする以上、その行為は追悼や鎮魂ではない。あくまでも相手は対話者なのだ。喪の作業にはならない、林の言う「宙づりの感覚」、「幽きものたちの強度」に満ちているのがトラウマのことばである。
 
 最後に林はチリ地震の証言者のことばをひきながら、その語りの外にある事実と、語りの内容のギャップではなく、大切なのは証言者が生きた「リアリティの重み」であると言う。このリアリティは悪夢であり、恐怖であり、それから引き起こされる、「叫びや行動」である。これらは整然としたことばにはなりえない。だがこの「詩学の証言」こそが、私たちを共感へとつなごうとする。

自分と同じ経験を生きのびたひとたちと恐怖や怯えの思いを共有すること。恐怖の経験を語りあい、ことばにならない部分をふくめて抱きとめあうこと。苦しんでいるのは自分だけではない。だれもこの辛さをわかってくれないわけではない。たがいに悲惨な出来事の生き残りであることを認めあい、たがいの証言の証人になることを受け入れること。

 これらのことばは、叫びや断片にしか過ぎない。物語のような体系ももたない。しかしその欠片に耳をすまして聞き入り、他者と経験を共有すること。その時、この声を聞く者は必ずしも体験者である必要はない。証言を前にして、その声をきちんと受けとめ、別の他者へとそのことばを伝えることが大切なのだ。ことばが完全である必要はない。むしろ、その不完全さ、壊れやすさに自らの感受性を発揮することが求められるのではないか。
 
 この文章は、南アフリカ出身の作家クッツェーの『フォー』の引用で終わる。登場人物の元奴隷フライデイは舌が切られたためことばを発することができない。沈黙といういわばことばの不在の極限である。しかしこの小説の最後、フライデイの口が開く。さて、そこでことばは聞かれるだろうか。おそらく私たちは、ことばがなくても、その存在の傍らにいることで、対話を始めることだろう。通常の伝えるための、意味に満ちたことばではない。しかし、私たちは共感を持って他者(失踪者や死者もふくめて)によりそうとき、そこにはやはりことばが流れるに違いない。そのことばこそが、詩である。

 芸術作品がそこに在るとき、その作品を作り出した芸術家と呼ばれる人間がいる。芸術=アートが自然ではない以上、芸術が人間の創造によることは自明である。ただなぜ芸術家は創造へ向かうのか。あるいは何が芸術家を創造へと向かわせるのだろうか。そこには個人的な表現欲求があることは確かだとしても、果してその欲求は、どこまで純粋に個人的なものだろうか。

 世の中に歴史として捉えられるような大きな出来事が起きるとき、それを機に実に多くの作品が生み出され始める。東日本大震災の後、多くの小説や詩が書かれ、写真や絵画作品が作られている。この展覧会の主題である戦争という事象も、また実に多くの作品を生み出した。歴史的出来事をきっかけとする作品は、創作者たちが生きる同時代において地震や戦争といった惨事がなければ、おそらく生み出されえなかったであろう。その意味で、これらの作品は、その生きている時代に呼応して生み出された作品だと言えるだろう。

 もちろん、時代と作家の関係は、それほど単純ではない。特に戦争の時代は、単なる呼応だけではなく、国民総動員体制のもとで、全国民が戦争へと引きずられていった中で、芸術家たちも制作によって奉仕することになる。戦争下における、画家の主体性の問題は、一筋縄ではゆかない問題である。国家の体制に反抗する画家たちがいる。従軍してルポルタージュのように戦地から絵画を送る画家たちがいる。そして戦後、戦争の惨事を告発しつづける画家たちがいる。どのような立場をとっていようとも、そこに芸術作品が生み出されたことことは確かだ。平時ではないからこそ、戦争という時代の切迫感のもとだったからこそ、画家たちは何かに取り憑かれたかのように、実におびただしい作品を生み出していった。

 <戦争/美術1940-1950 モダニズムの連鎖と変容>展(神奈川県立近代美術館 葉山)は、1940年から1950年を中心としながら、前後それぞれ5年間をあわせ、35年から55年までの20年間に制作された絵画を紹介している。展示された絵画は実に多様である。日本画や水墨画の系譜をひく作品もあれば、西洋絵画、特にシュルレアリスムに影響を受けた作品もある。南方へ従軍し、エキゾチックなモチーフを描いた作品もあれば、戦中・戦後の日本の風景をスケッチした作品もある。

 この展覧会では、戦火を直接描いたり、兵士の姿を具象的にとらえた作品は少ない。戦地を描いたものも具体的な戦いを主題とはしていない。たとえば、山崎隆『続戦地の印象(其五)』(42年)で描かれるのは、荒涼とした土地だけである。そこには死者はいない。しかし掘り起こされたかのような黒ずんだ泥が、墨を飛び散らかしたかのような跳ねたタッチで描かれる。風景のはるか奥には、黴のようにくすんだ緑青色がそれほど荒らされることのなかった大地を覆っている。この陰鬱な土地とは対照的に、画面の上3分の1を占める白い雲が立ち上る空は眩しいほどに美しい。荒々しい筆遣いが描くのは、やはりそれとは対照的な沈黙の世界である。

 山口蓬春『南嶋薄暮』(40年)が描くのは、赤い屋根、南洋植物、木につながれたずんぐりした牛、そして頭にかごを乗せて食べ物を運ぶ薄褐色の肌をした女たちである。日本軍が出兵したはずの南方地方であるが、ここに描かれるのは、きわめて日常的な風景であり、空の青、壁の白、そして屋根の赤の透明さは、この世界の健康さを映し出しているかのようだ。

 もちろん敵国を貶める国威発揚のための絵画もある。その代表が藤田嗣治『ソロモン海域に於ける米兵の末路』(43年)である。藤田は「戦後は画家の戦争協力に対する批判の矢面に立ち、49年に日本を去」っている(図録、p.69)。ここでは何匹ものサメが姿をのぞかせる荒海に浮かぶ小舟と、その小舟で最期を迎えようとする米兵たちが描かれている。しかし、この絵をどのように観ようとも、おおよそ米兵に対する蔑みは感じられない。まず構図はジェリコの『メデューズ号の筏』のように力動感にあふれている。狂った海は崇高さをたたえている。そしてある者は疲弊しきり、ある者は瀕死の有様であるにもかかわらず、一人の兵士だけは小舟の上に立って、前方を厳しい表情でしっかりと見据えている。その肉体はたくましく、肌は薄光りしている。そのたくましさゆえ、海やサメへの恐怖はみじんも感じられない。この米兵の肉体と立ち姿から伝わるのは、ただただ宿命に対峙する強靭な意思である。

 展覧会の戦後の章を代表するのは、丸木位里・俊の『原爆の図』である。この作品群はもちろん強く原爆を告発するメッセージ性の強い作品であるが、だがメッセージに奉仕するというには、あまりにもこの絵画作品自体の存在感は圧倒的だ。この作品が原爆の悲惨さを描いていると頭で理解する前に、まず私たちを打つのは作品全体にあふれる生命感である。ただしその生命は人間のものではない。その人間を焼き尽くそうとする火の生命感である。業火の赤と白は鮮烈で美しい生き物で、ヘビのように人間に絡みつく。そして、焼かれる人間は薄黒く煤けた炭である。その人間たちは意外なほど、身体の姿をとどめている。まだそこには顔があり、腕があり、尻がある。いくら火に焼かれようとも、体が炭のようになろうとも、その人間性からどこまでも逃れられないというかのように。

 今回の展覧会のなかでとても心を揺すぶられたのは松本竣介という画家の『立てる像』という絵である。図録によれば(p.63.) 、松本竣介は1912年生まれ。子ども時代に聴覚を失い、戦争中は兵役の免除を受ける。41年に「生きていゐる画家」と題する文章を発表し、戦争協力に反対した。『立てる像』はその翌年に描かれた画家の自画像である。画面の中央に立つ青年。その顔はおだやかだ。しかし動じるところはない。静かな自分の信念が、その落ち着いた表情に宿っている。今までにこれほどまで、これ見よがしではなく、しかし自分を恃む意思をたたえた表情に出会ったことはない。空には雲がどんよりと漂っている。道にはゴミが落ちている。しかしその中央に、画家は「立っている」。立っているとは、生きている、生き続けるという強い決意である。この自画像には画家の溢れ出す生命の充実がそのまま清らかに描かれているのである。戦争という危急にありながらも、自分に忠実であり続けた画家の姿がここにはある。

戦争/美術 1940‑1950 モダニズムの連鎖と変容 - 神奈川県立近代美術館 葉山

小林秀雄「信ずることと知ること」(1974)

 若松英輔『魂にふれる』で言及されていた小林秀雄「信ずることと知ること」は、小林の晩年、昭和49年72歳のときに行われた講演記録である(この講演を読んだ翌日に、神保町でこの講演のLPレコードが売られているのを偶然発見したときには驚いた)。

 『魂にふれる』を貫いているのは「体験」であろう。そう言ってしまうともともこもないかもしれないが、しかし、体験こそが「哲学」と「思想」を分ち、無意味な知識の集積に終わる知性と、個性や感情と共振する人間精神を分つ。

 「信ずることと知ること」で俎上に乗せられるのが、超自然現象に対する知識人の冷笑的な態度である。知識人そして学者も、こうした問題を「正しいか正しくないか」の判断の基準だけで扱い、個別、具体的体験を、抽象化、合理化してしまうと、小林は言う。
 小林は近代科学の発展を、「日常尋常な経験」を「合理的経験」(p.181.)へと転化させた、経験の変質にあるとした。

 合理的経験とは、経験を観察や実験によって、計量可能とみなす考え方である。しかし人間の精神の働きは、計量には決してゆだねることができない。小林は、ベルグソンの記憶研究を引きながら、「精神というものは、いつでも僕等の意識を越えている」(p.183.)と説く。

 人間の意識は脳に、脳の運動に還元されがちである。しかしベルグソンは、失語症の研究から「人間は、記憶が傷つけられるのではなくて、記憶を思い出そうとするメカニスム」が傷つけられたと結論づける。人間が現実的な生活をおくれるよう、脳髄が場面に応じて、必要とされる記憶を引っ張りだしてきてくれる。例えば死の間際に、生活への注意力を失うとき、子どもの頃からの記憶が一気に溢れ出してくるのは、このような脳髄の働きの喪失による。

 ここから小林は「脳髄が解体したって、僕の精神はそのままでいるかもしれない。人間が死ねば魂もなくなると考える、そのたった一つの根拠は、肉体が滅びるという事実にしかない」と言い、物質を優位とする近代科学の狭隘さを批判する。

 魂をどう考えるか。小林は柳田国男の「故郷七十年」、「山の人生」そして「遠野物語」をひきながら、柳田の生活人の具体的な経験への尊重の態度、そしてそこから自然に導かれる魂への態度を語る。

 柳田の話とはいわゆる神秘体験だが、小林は素直に感動したと言う。柳田のたぐいまれな感受性、体験を体験として自然に受け止める柳田の態度に感動したのである。体験と学問を切り離さないことが、柳田国男の他に引き継ぐ人のいなかった最も重要な態度であるとする。

 柳田は、山に暮らす人々の話を書きとめるわけだが、彼らが実話として語る物語に柳田は具体的にどう接したのか。実はそれはとても単純なことである。心から感動する、すなわち感受すること、そして、山人たちの心の奥底に、古人の心との永続性を見いだし、「己れの意識を越えた心の、限度の知れぬ拡がりを、そのまま素直に受け入れる」(p.193)ことをしたのである。

 小林は、「遠野物語」から、白い鹿に逢った猟人の話をひき、この猟人のなかに「想像力と結んだ彼の自然感情」があると言う。そして語りへと誘われた、猟人の心の赴きを次のように説明する。

言葉にならぬ自然という実在に面しているのだが、その直接な経験が、言葉に成らぬというその事が、彼に表現を求めて止まないのです。(p.197)

 この一文は、猟人の心だけではなく、柳田の学問の根本姿勢を表し、そしてさらにはこの講演をひいた若松英輔『魂のふるえ」の基底にも等しく流れている思想ではないだろうか。井筒俊彦の思想においても同じことが言えるからだ。

 神秘とは、この世界とは異なる世界に出会うことではない。むしろ、この世界への合理的、すなわち制限された意識から離れ、世界と直接出会い、言葉を喪失する体験である。しかしこの言葉が抜け落ちた体験から、さらに回帰してくるとき、それまでの言葉とはまるきり異なる「コトバ」で、この体験世界の様相を語ることになる。いってみれば、それが詩だ。言葉の脱落体験こそが、私たちに、刷新された「コトバ」で、その体験を語ることを迫る。それを表現しえたとき、体験に裏打ちされた思想が生まれてくるのだろう。

 小林は、柳田のお化けの話を最後に引いて、こうした話を切って捨ててしまう歴史家たちを批判する。彼らがこうした話を切り捨てるとき、同時に捨てられてしまうのが、「昔の通常人の人生観」である。歴史家だけではなく、現代人一般が、この具体的経験を切り捨ててしまっているのである。しかしこの具体的経験から出発しない以上、人間の人生、人間の精神の何がわかると言うのか。人間の魂の生を考えることが、思想として語られるためには、この体験の強度を尊重する態度から始めなくてはならないのである。それを小林秀雄が学生たちに伝えたのだ。

「芸術作品は、どこに成立するのだろう」。論考はこの問いから始まる。芸術作品は永遠不変に存在しているのではない。ヤコブソンの問い「何が言語を芸術作品たらしめるか」と同じく、作品はある時、ある状況、作品と相対するある相手との関係において成立する。

 本論で能が対象となるのは、まさに演劇一般は、舞台で演じられるという意味において、具体的な時間のなかで成立するからである。また演劇は、音楽と同じく、脚本という、大げさな言い回しになるが、不変の物質的存在をもとにするが、それが芸術なのではもちろんない。実践そのものこそ芸術の対象となるのだ。

 この「生きて動く不思議さ」(p.41.)を知悉していた人物として持田は世阿弥を挙げる。世阿弥の能楽論に頻出する「花」の比喩を、「能芸の演技ないし舞台全体が観客に与える効果、授ける感動」と捉えた上で、持田は、世阿弥のことばを丁寧に解きほぐし、解釈を加えながら、芸術作品の成立の問題を考察する。

 世阿弥が用いる花の意味とは何か。花とは「観客が心に新鮮だ、意外だ」と感じることの比喩である。役者はそのために、演技を固定することなく、「変化と多様性」を目指すことが強調される。

 持田はここから世阿弥が花から簡単に連想される美に「ひとつの独立した特定の性質」(p.44.)を与えたり「絶対的な美的価値」を認めることはなかったと指摘する。すなわち、美がどこかに所与のものとして存在し、後はそれをいかに表現するかという美の普遍的存在論ではなく、美はそのつど生成されるものだと極めて動的に考えていたと持田は考察を加える。

 したがって「重要なのは(...)見る人との関係」(p.46.)であるが、だからといってそれは観客におもねることではない。持田は、世阿弥が芸術の成立には作者、作品の二項だけではなく、鑑賞者というさらなる一項が必要であると意識していたと説く。

 花の次に持田が取り上げるのが「成就」である。成就は「対立する二つのものの融和」(p.51.)であるが、この言葉は、晩年に至るまでたえず精緻化され、「序破急成就」としてひとつの思想に結実する。

 持田が論の中心に据えるのがこの「序破急」概念の思索の過程である。序破急とは能楽の構成上の「普遍的な文法」である。

序は導入部で、拍子にとらわれず自由でゆっくりした速度、破ではしだいに拍子がこまかになり舞も音楽も速度が早くなってゆく。急は結末の部分で、急速な拍子で演奏され、舞も音楽もクライマックスになって終わる。(p.54.)

 この序破急が、『花伝』、『花鏡』、『三道』、『拾玉得花』の中で、一日の催しの流れを決めることから、一曲のうちの構成、「一舞一音、一挙手一投足の瞬間」に至るまで、重要な概念となる。

 ここで重要なのは、序破急は能を書くための文法と言える一方で、『拾玉得花』では、その序破急が、上演の個々の瞬間に生成される極めて動的なものとして提唱されていることである。

 持田はこの序破急を「外的な時間の統一性」と「時間的展開の統一性」の二つの面から分析してゆく。

 序破急の「外的な時間の統一」とは、作品に統一をもたらすための構成のことである。持田は連歌と比較しながら、序破急に「収束と拡散の運動」(p.60.)を認め、また物語の進行において構成の頂点を終結部に配置したこと、作品の換喩的イメージに「作品全体を統一する」役割があることを指摘しながら、世阿弥の「統一への運動」とそこから生まれる「緊迫した時間の創出」(p.63.)を例示する。

 一方、「時間的展開の統一性」については、持田は「演能がたとえば生物の成長のように有機的、持続的な流れをなして生成し終結に至るということである」(p.64.)と説明している。つまり静態的な形ではなく、切れ目を入れることはできない、流れの首尾一貫性が統一と捉えられる。それを持田は世阿弥の言葉を解釈し、「物事がしかるべき順序をたどり、本来的な経過をへて落着する」(p.65.)ことだと言う。この「時間・展開・統一」が能楽における芸術の根拠となる。

 つまり能楽では、時間の長短にかかわらず、ある必然的な生成の過程を踏んだ上での全体としての完結性というべきものが重視されていると考えられる。

 したがってある一部分だけを観ることはありえない。前半にいくら退屈な部分があったとしても、それは全体の欠くことのできない一部であり、それがあってこそ、後半の早舞の終結の効果が得られるのである。

 さらに持田は、序破急が能役者の一生の稽古のあり方についても使われていることに言及し、序破急は最後に至るまでの質的変化の過程であり、「全体の正否を決するものは、最終段階の急の部分だ」と指摘する。人間は老いる。それは老醜とも言えよう。芸の新たな道を拓こうとすることは、自らを初心=未熟者とみなすことである。老に至って醜を自覚し、同時に未熟であることに自らの身を恥じること。この究極な「危機」こそ芸術家の真実だと持田は言う。

 また芸術家の一生が長い序破急だとすれば、音曲の謡いはごく一瞬の序破急である。しかしひと声の中にも成就があり、謡の止め方に全体が完成するかどうかがかかっている。

 能の演技も同様である。世阿弥は「先ず聞かせて後に見せよ」と言う。まずは言葉、一刹那ずれて舞台上の所作振る舞いへと移る。この一刹那の流れが重要であり、流れ=生成、すなわち「持続する時間のなかで生物のように生きて動く完結性」こそ、世阿弥能楽論の本質なのである。

 持田は世阿弥の序破急を通して、そこに芸術作品一般の成立条件、さらには人間の制作行為の根本を見いだす。序破急は過程を踏まえた目的へと成就する一連の流れ=生成である。世阿弥は、序破急を日常生活にまで応用し、たとえば人への返事にもこの流れでなくてはならないと説く。しかるべき過程を通して、相手に返事を届けることが目的成就である。さらには動物についても「動物の形態は、目的へ向けて必然的に落着したかたちの理想として引き合いに出されているのである」(p.80.)。

 世阿弥には芸術から世界へと広く一般に「一切の成功した形態には序破急が先立っている」と考えた。持田は、世阿弥においては「ある」ことと「つくる」ことの一致に世阿弥の芸術構成の原理があったと結論づける。

 能は確かに型の芸術である。だがそれは固定された約束事の反復ではない。型は普遍ではなく、その場において一回限りの生成の成就として型が生まれ続けているのである。持田は、「型から少しはずれたところ」に「言語化し得ない実体」が生じると言う。それが創造的行為と呼びうるものなのだろう。型を踏襲しながら、その型を忠実に反復するのではなく、何かが生まれている/成っていると私たちに思わせるとき、芸術制作は創造となるのだろう。

 小説は長らく思想と政治評論を開陳する「伝達手段」(p.13.)と考えられ、文体はもっぱら詩の領域に属すものとされた(p.12.)。また、たとえ文体論と言えるものがあったとしてもそれは「技巧」や「構成」の考察に過ぎず、小説の芸術的散文性のための真の考察はなされていないとバフチンは言う(p.13.)。

 バフチンにとっての小説の文体とは、小説家独自の文体ではなく、小説というジャンルの文体である。それは次のように定義される。

小説の文体は、諸文体の結合の中に存在するのであり、小説の言語とは<諸言語>の体系なのである(p.15.)。

 バフチンの言語論の特徴は諸言語、すなわちさまざまな言語、さらにはさまざまな声の響き合いにある。ここで具体的に列挙される要素は、1)作者の文学・芸術的叙述、2)口頭での語りの様式、 3)書き言葉による叙述(書簡、日記など)、4)文学とは異なる様式の発話(道徳的・哲学的・科学的議論、民俗学的記述、議事報告など) 5)主人公の個に根ざした言葉、である。

 こうしたさまざまな言葉が高次に統一されるとき、この全体をバフチンは「文体論的統一体」と呼ぶ。

 この言語の多様性は、「言葉遣いの社会的多様性」としても考えられる。人間社会はひとつの言語(ラング)によって構成される。ある社会の小説はその社会のひとつのラングによって書かれているし、私たちはそのラングを理解することで社会に参与する。
 しかしそれでは社会的な躍動は生まれない。生の活動は、共同体の内部に多様性を開かせることにある。

社会的諸言語、集団の言葉遣い、職業的な隠語、ジャンルの言語、世代や年齢に固有の諸言語、諸潮流の言語、権威者の言語、サークルの言語や短命な流行語、社会・政治的に一定の日やさらには一定の時刻にさえ用いられる諸言語(p.16.)。

 これらの言語、声が結合し、関係し、矛盾を生みながら「対話化」される場所が小説であり、小説の文体の基本的特徴だとバフチンは言う。「言語的に多様で、多声的・多文体的な、またしばしば多言語的な諸要素からなる構成」(p.19.)が小説の構成なのである。これまでの文体論は、小説家の言語か、小説内のある一個人の言語活動だけが取り出されてきた、すなわちいずれも個の言語を取り上げるに過ぎなかったのだ。

 バフチンにとってはこの多と個が、小説と詩をわける基準となる。大方の詩の成立には「詩人が直接自己を表現している」ことが前提条件となる(p.19.)。また小説は叙事詩とも異なる。叙事詩は従来の意味での「文体」の単一性にその特徴がある(叙事詩独自の語り方がある。小説はむしろ単一の語りではなく、他ジャンルの輻輳的語りである)。おおよそ小説以外は「単一言語・単文体ジャンル、狭義の詩的ジャンルに定位されて」(p.21.)しまっているのだ。

 このバフチンの考えによれば「芸術」の考え方も大きく方向転換しなくてはならない。バフチンはまずこれまでの小説と芸術の関係について二つの見解を紹介する(p.23.)。
 ひとりはシペートであり、彼によれば、小説は修辞学的構成物=道徳的宣伝のための形態であって、芸術的ではない。もうひとりはヴィノグラードフ。彼は、小説を修辞的要素と詩的な要素の混合形態であるとする。バフチンは確かに修辞的形式の導入は、小説の言語を考える上で有益であるとするが、それはあくまで詩的形式だけを唯一の芸術様式とする考え方を相対化するだけに過ぎないとする。

 批判はさらに言語哲学、言語学に向けられる。これらの学問が今まで対象としてきたのは、バフチンによれば「単一の言語体系とこの言語を話す個人のみ」(p.26.)であり、その基底にあったのは「言語・イデオロギー的世界を統一し中心化する力である」(p.27.)。これまでのヨーロッパ(ここでは当然バフチンのロシアを特に指しているのだろう)では、この単一言語が人々に「課せられる」ことで、画定が行われ、相互理解が保証され、現実の統一を可能にしてきたのである。そしてその土地には公認の規範である標準語が創造されたのである。

 この単一言語思想は、言語に留まるものではない。これがひとつのイデオロギーである以上、社会・政治・文化と不可分である。この単一言語の求心力は、実際にヨーロッパにおいて「ある支配的言語(方言)の他の諸方言に対する勝利」、「他の諸言語の排斥・奴隷化」、「文化と真理の唯一の言語への未開人や社会的下層の吸収」(p.28.)など、唯一の規範の元への強力な統一の力として働いてきたのである。

 だがバフチンは言語の持つ力は求心力だけではないと言う。現実の言語の実践において、言語は社会集団や世代、ジャンルなどさまざまに分化している。言語は、この分裂し、拡大していこうとする遠心力を持っている。詩的ジャンルが求心力に沿って発展するのに対し、小説とそれを指向する芸術的散文は遠心力の方向に沿って形成されてきた(p.30.)、とバフチンは小説と詩を対比する。

 そして下層のジャンルこそ、言語的多様性を担保し、常に公認された標準語に意識的に対立し、「パロディ的かつ論争的な」な位置に置かれ、対話に挑んできたとして、重要視するのだ。対話とは従って、遠心力が確保する言語的多様性において実践される行為と考えられるだろう。

 言語の存在、言語の生は、この求心力と遠心力の絶えざる交錯、矛盾と緊張にある。バフチンに従えば、これまでの言語学、文学研究はみな「作者の自足的な、閉じられたモノローグ」であった。

 バフチンにとって、散文的芸術性があるかどうかは、今までの言語哲学や言語学が無視してきた、「言葉の対話的定位の多様な形式」を検討することにかかっている。

 これまでの伝統的文体論で問題になっていたのは発話者と対象との関係のみであった。すなわち「対象そのものの抵抗」(p.39.)に対して、どこまで言葉で言い尽くすことができるかが問題となっていた。だがバフチンは発話者と対象の間にはすでに、他者の言葉という「媒体がひそかに介在している」と指摘する。

その対象は、一般的な思考や視点、他者の評価やアクセントに束縛され、貫かれている。自己の、対象に向かう言葉は、他者の言葉、評価、アクセントが対話的にうずまいている緊張した関係に入ってゆき、その複雑な相互関係の中に織り込まれ、ある言葉とは合流し、ある言葉には反発し、またある言葉とは交差する(p.40.)。

 つまり言葉はすでに発話しようとしたときには他人の手に塗れているのだ。誰も自分だけの言語を使うことはできず、発話はその瞬間に否が応でも他者との対話に入ってしまうのである。ここでバフチンが用いる「応答」は示唆的である。なぜならば、私たちが話し始めたとき、すでにその発話は「問いかけ」ではなく、対象への接近でもなく、他者との「応答」の結果であるからだ。

 言語の対象指向性は、従って詩と小説とは異なる。対象への接近において、詩の光は、言葉のイメージ=比喩によって屈折し、対象との間に多様性を作る。一方、小説は、「他者の言葉、評価、アクセントなどの媒体」(p.41.)によって屈折するために、そこにある多様性は社会的意識のそれとなる。小説の芸術性はいかにこの対話的多声を作品内に響かせるかにかかっている。

 そもそもこの対話性とは、日常の言葉自体の性質であり、「具体的な歴史的人間の言葉」には常に対話性が宿る。しかしこれまでの研究は、文字通り発話構造の対話しか対象にしてこなかった。問題にすべきは言語をあまねく覆っている内的対話性なのである。

 もちろん対話は生きた会話にも見られる。修辞学の対象は聞き手に対する考慮と言える。だがこれまでの修辞学は「聞き手を、積極的に応答し反駁する者としてではなく、ただ受動的な理解者としてのみ考慮」するに過ぎなかった。これでは言葉は絶えず一方的、伝達的なものに留まり、言葉を豊かにする契機は奪われてしまっている。単なる複製、複写であり(p.48.)、そこで出される要請は「よりはっきりと、より説得的に」であって、これはモノローグ的な領域に留まることを意味している。

 言葉は、聞き手の心の中で「矛盾しあう見解や視点、評価を背景」(p.47.)として理解されて、豊かさを持ち、積極性を獲得する。そこに生まれるのは相互関係である以上、話者も同じく積極性を獲得する。

このことによって異なるコンテキスト、異なる視点、異なる視野、異なる表現的アクセントの体系、異なる社会的<言語>の相互作用が生まれるからである。(...)話者は異なる他者の視野の中に入りこみ、自己の言表を他者の領域で、その聞き手の統覚的な背景の上に構成するのである(p.49.)。

 この他者との対話は、対象への指向と異なり、人間の主観や真理を問題にすることになる。そして言葉は「自己のコンテキストと他者のそれとの境界に生きている」(p.51.)ことになる。

 このように対話性は、言語そのものの本質である。しかし小説が芸術的散文と言われるとき、作品内部では、意味とシンタックスの構造を変容させることによって、対話が対象の概念理解を刺し貫いているのだ。この生成こそが小説を芸術的散文と言わしめるのではないだろうか。私たちは社会的コードをずらし、言語的世界観を更新する。その動性こそが小説の持つ芸術性ではないだろうか。

 それに対して詩の芸術性は「自己の意図の純粋な直接的表現として」(p.54.)言語を用いることに存する。そこにあるのは純粋にして単一の、統一的な言語である。自らの表現のための言語が見当たらなければ、他者の言葉を受け入れるのではなく、あくまで人工的に言葉を創造することさえ厭わないだろう。ここに他者は存在しない。

 バフチンにとって単一の言語は生を枯らしてゆく言語であり、社会が「単一の国民語の枠内に、数多くの具体的な世界や閉じられた言語・イデオロギー的な、また社会的視野を作り出」(p.59.)すことで生を得る以上、言語も、これらの視野の内部において、多様な意味的あるいは価値的な内容に満たされたることで生を獲得する。

 ではその多様性は具体的にはどのように現れるのか。ひとつはジャンル(演説、新聞、大衆小説、等)である。ふたつめに職業的な分化(政治家、医者、教師、等)、そして最後にこの2つと重なり合う部分も持つ社会的分化(自らの社会的参与ー社会階層、教育施設、家庭、等そして時代)である。この社会的分化は、日々変動する。、バフチンの言葉で言い直せば、歴史的生成、歴史的変動と捉えられる。

 こうした多様性は、その異なり具合から、もはや言語の同一平面では扱えないかもしれない。しかしバフチンは、異なりがあったとしても、それぞれの言葉は「世界に対する固有の視点であり、言葉による世界の意味づけの形式であり、独自の対象的意味および価値評価の視野である」(p.64.)という点で同一の平面に置かれるとする。そしてこれらの多様性を統一できるのが、小説作品なのである。

 言語が世界に対する固有の視点であるならば、誰の視点も持たない言語は存在しない。

これら分化を促すすべての諸力の活動の結果、言語の中にはいかなる中性の、<誰のものでもない>言葉も形式も残されない(p.67.)。

 私たちは歴史的に生成された人間である。「職業、ジャンル、潮流、党派、一定の作品、一定の人間、世代、年齢、一定の日付、時刻」によって私たちは社会的に構成されているのだ。言葉はそれを反映しないではいられない。とはいえ、バフチンは私たちが、社会の複合的な要素によって作られた受動的な存在だとは考えていない。むしろ私たちは他者に塗れた言葉を乗っ取り、自己の志向とアクセントを言葉に住まわせなくてはならないと言う。他者の言葉を自分の唇に滑らせるのではなく、自分のものとしなくてはならないのだ。他者の言葉を借りてしまえばそこには対話的闘争はない。あるのは馴致だけである。

 それは標準語と方言の関係についても言える。方言は、標準語に吸収され、方言としての規定を失うこともあるが、逆に標準語を変形させることもありうる。したがって一つの言語にさえ絶えず多言語の対話性が確保されているとバフチンは言う。

 人間は誰であっても複数の言語に関係している。しかしその言語間で常に接触や対話があるとは限らない。バフチンはロシアの農民の例を挙げ、教会スラヴ語で祈り、家庭では別の言語を話し、読み書きのできる者に、官庁用語で申請を書いてくれるように頼む。しかしこの農民の多言語的生活において、それぞれの言語間の交渉はない。文学的な言語意識は、むしろ諸言語の矛盾、対話を明るみに出すことにある。こうした諸言語の共存のさせ方が小説家の文体を形成するのである。

 だからこそ小説家の志向は、作品において屈折させられる。小説は自己表現ではなく、言語の分化を提示する場であり、小説家の志向は、諸々の言語、諸々の声を響かせるオーケストラとして体系づけられるのだ。

散文作家は既に他者の社会的志向が住みついている言葉たちを利用し、それらを自己の新しい志向に、第二の主人に奉仕させる(p.77.)。

 この他者の諸言語が小説の中に体系化されたとき、作品は芸術となる。「小説の発展とは、すなわち対話性の深化、対話性の拡大と洗練である」(p.79.)。

 社会の変動を如実に反映させながら、しかしイデオロギー的な統一化は決してなされない。ひとつのイデオロギーがあれば、すぐにそれに対立する、あるいはその価値を引きずり降ろす、対話性を持ったイデオロギーが対置される。そうした分化を繰り返しながら、多様な意味の生成の場となることこそ小説の希望だと、バフチンはソビエト連邦の片田舎で静かに息をひそめながら、体制を批判し続けていたのである。

Jean Echenoz, 14 (2012)

 2012年10月に出版された120ページあまりの小品。ヴァンデ地方のある村から5人の若者が第一次世界大戦に動員されてゆく。小説の始まりは極めて静かだ。5人のうちの1人、工場の会計係をしているAnthimeは、8月のある土曜日、自転車を走らせる。風がそよぐ森の中で読書でもしようと。時刻は午後4時。Anthimeは到着した丘の上で風に運ばれてくる警鐘の音に気づく。

 その後は、もはや誰にも止められない狂った歯車のように出来事が流れてゆく。出兵、入隊、戦闘、負傷、死そして戦争の終わりへ。5人の若者のうち3人は戦死。1人はガス弾で失明して復員。そしてAnthimeは右腕を失って復員。

 心理描写は極力排され、行為と眼差しだけが描かれる。

 行為。開戦後、若者たちは戦争へと駆り出されてゆく。故郷のヴァンデ地方から、アルデッシュでの入隊を経て、ロレーヌ地方へと。途方もない移動距離である。焼き討ちにあった村に入り、戦場で塹壕を掘る。偶然で敵に撃たれ、偶然で敵を殺す。たまたま宿営地を離れてしまい、官憲に捕まり見せしめに処刑される男も。

 行為には普通その行為を行う主体が存在する。戦争においては兵士だ。しかし若い兵士たちで自分の行動の意味や意図、結果を推し量れる者は一人としていない。

 戦争は、一度ねじを巻かれたら、ばねが伸び切るか、断ち切れてしまうまで止まることのない歯車のようなもの。歯車に巻き込まれた兵士たちは、自らの行動の意味が掴めないまま死へと運ばれて行く。自分が死ぬと思える時間さえなく、体を断ち切られ、絶命する。

 その小説の進行を特徴づけるのが、作品中に何度も出てくるplus tard「後になってから」の二語だ。その時点では、ある行為へと突き動かされてはいるものの、それは自らの意志とはまったく無関係である。その意味がわかるのは「後になってから」である。

Tout cela, Anthime ne l'a reconstitué que plus tard, après qu'on le lui a expliqué, sur le moment il n'y a rien compris comme c'est l'usage.
 
こうしたことはすべて、アンティムが後になってから、人々の話を聞いてからようやく再現できたものだ。当時は何一つ理解できなかったが、それが普通なのだ。

 結局歴史において意味が明らかにされるのは、常に出来事が過去に押し込められてからなのである。

 中でもAnthimeの兄、Charlesの死は象徴的である。第一次世界大戦は、当時の最先端の技術を総動員した兵器によって大量虐殺が可能になった歴史的事件であると言われる。Charlesの趣味は写真。おそらく当時としては珍しくカメラを持っていた。そのCharlesを戦死させないように、Charlesの恋人Blancheがかかりつけとしている医師が手をまわす。

 当時飛行機は戦争に使われて始めていたものの、それはもっぱら偵察用であった。航空写真を取り、状況を分析するために飛行機は使われていた。空爆に使われるのは«plus tard»(p。54.)である。カメラを得意とするCharlesを偵察班にしてもらうことで、おそらくは地上戦よりも数段命の助かる見込みが高いと踏んでそのように手をまわしたのだ。

 しかし戦争はこうした意志とは無関係に行為が進行させる。Charlesは、後に本格化する飛行機による戦闘のごく最初にあっさりと撃ち落とされて死んでゆく。誰もそんなことは予期していなかった。予期することはまったく無駄であり、それどころかこのエピソードでは全く逆の結果を生んでしまっている。

 この不可逆的な歴史の時間、人が、歴史の意味を理解しないまま、抹消されてゆく歴史の時間を唯一止めるのが眼差しである。この小説では前述したように心理の描写がほとんどない。その中で描かれるのが、ある人がある人を見る眼差しである。この眼差しを投げる瞬間だけ、歴史の流れが停止する。

 Anthimeは出兵の際、Blancheにただ視線だけを送る。その視線の意味はあいまいなまま説かれることはない。しかし出兵という不可避の行進が続けられる中、この視線だけが、一瞬行進を停止させるかのようだ。兵営地へと向かう汽車の中、AnthimeはCharlesを探し、別の車両にその姿を見つける(p.30)。ここで視線がCharlesへと注がれ、汽車が一瞬停止する。だがやはり視線の意味は問われない。AnthimeはCharlesに声をかけることなく、すぐに車両を離れてゆく。

 眼差しだけが、歴史の流れを止め、一人の人間と一人の人間の間に密やかな関係を作ろうとする。その意味で眼差しは作品にあって人間の唯一の主体的根拠となる。だがあくまでも戦争を前にしてこの主体的眼差しは無力なままである。

 それでも復員後、Anthimeは新しい生活を始める。それは過去を断ち切ることではない。Anthimeは、何度も失った右腕があるような幻覚を覚える。戦争神経症のひとつの症状である。医師は言う。この幻覚は時間とともに消えていくものだが、時に25年はかかることがあると。本人の意志とは無関係に呼び覚まされる喪失をかかえながら、AnthimeはやがてBlancheとの間に子どもを作り、新しい生活へと向かうのである。

 私たちはどれだけ主体的な生を生きることができるのだろうか。Echenozの心理を排した小説は、その限界と可能性を私たちに示してくれる。そしてその生の極限は戦争において私たちに最も強く訴えかけてくる。

 芸術作品は<生>をもつか。もし芸術作品が生きていると言えるならば、それはどのような条件においてか。芸術と生をめぐるこの問いが第一章「開かれた作品の詩学」のテーマである。

 作者は作品を生む。作品には形が与えられ、受容者のもとへと届く。作品という形式の中に作者はメッセージを込め、受容者はそのメッセージを解読する。こうした単純なコミュニケーションモデルが仮に成り立つとするならば、そこから導き出されるのは、それ自体で完結した作品の姿である。またこのモデルによって意味が伝達されるならば、それは単に解読の対象としての表現でしかない。作品は完結すると同時に、単なる「慣習的記号」(p.36.)と化し、「単一の意味において一義的に看取され」(p.37.)る「道路標識」に過ぎなくなってしまう。

 このような記号はいつでも、どのような状況においても意味の再現がなされることで、優れた記号であると言われるようになる。時と場所を問わず、記号がその機能を十全に発揮するならば、そこに歴史を規定する重要な要素である変化はもはやない。仮に作品が完結しうるとことがあるするならば、それは作品が記号となるということであり、そこにはもはや歴史が不在である。

 しかし私たちの生命の根拠はどこに求められるか。それは間違いなく私たちがたえまなく活動をしながら、変化をしていることではないだろうか。毎日同じように繰り返される生活、他者に言葉を投げかけても、たえず同じことばしか返ってこないとき、そこにあるのは「複製」でしかない。生の根拠は認められない。

 その意味で歴史と生は分ち難く結びついているのである。

 では作品において生があるとはどういう状況か。それは、解釈者が作品の生に作書とともに参与するときである。解釈者の歴史性が作品へと投影されるときである。解釈者の歴史性は「ある実存的な具体的状況、特殊な制約を受けた感受性、一定の文化、趣味、性向、個人的先入見」によって明らかにされる。

 もちろん作品は作者によって形を与えられている以上完結している。しかし作品が単なる記号でないならば、そこには様々な意味の読み込みが可能であり、その意味で作品は「開かれている」と言える。

 ではそもそも芸術作品が、受容者の解釈を許すというならば、およそあらゆる芸術作品は、そのような性質を共通に持っているのではないか。確かにそうとも言える。しかしエーコは、この「解釈関係」が十分成熟して、「批判的自覚」に到達したのは、現代美学に至ってからであるとし、また開かれた作品という概念には「歴史的展開」や「文化的諸要因」があると強調する。

 解釈者の主体の価値と解釈の唯一性の関係について、エーコは歴史的に例証する。例えば中世の寓意解釈理論。聖書は確かに書かれている内容を解読する作業が必要とされる。しかしその「読む可能性」は「あらかじめ規定されている」。寓意的、道徳的、天上的にあわせて行う解釈には意味の一義性の規則しか適用されない。

 この中世の「典則の慣例を抜け出て」、現代的意味での「開かれ」に近づくのは、バロックの造形である。エーコの規定するバロックとは「運動」、「<本質的>永遠性」に対立する、動的な特性である(p.42.)。

 さらにこの開かれた作品が詩学において展開したのが19世紀後半の象徴主義である。ヴェルレーヌやマラルメの詩論が主張するのは、暗示である。神秘、世界の深み、そのような比喩に象徴されるように、詩的言語は明確な名指しではなく、意味を確定することなく、「無数の多様な暗示」(p.45.)をはらんでいるのである。

 そして現代世界の到来。不定であり、不確実であり、曖昧である。そうした世界に私たちは生きており、その具現としてジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』があり、現代音楽があり、そしてコールダーの『モビール』がある。エーコはこうした作品を動的作品、「絶えず新たなものとして享受者の眼に万華鏡のように姿を帰る可能性のようなもの」と呼んでもいる。

 芸術作品が「開かれ」において、世界を認識方法だとは主張できない。科学的な論理的認識によらず世界を認識することが真であるというのはあまりに危険だからだ。しかしそれでも芸術作品を「認識論的隠喩」とみなし、概念を作品という形象にとけ込ませることは可能であるとエーコは言う。

 この芸術的認識と世界認識の相関性で引用されるのがフッサールである。それをエーコは次のように言う。

今日では、心理学や現象学は知覚の曖昧性についても、習慣的認識の慣習性を超えたところに身を置き、慣例や習慣に由来するあらゆる安定化に先立つ可能性のみずみずしさの中で、世界を把握する可能性として語るのである。(p.59.)

 慣例や習慣とは繰り返されることである。さらに言うなら複製されることである。時と場所そして主体を問わず、事柄が繰り返されるとき、そこに生命はない。慣例や習慣が過去から来ているとしても、それが現在においてそして未来において不断に繰り返されるなれば、時間意識は消える。可能性も消える。世界に生があるとは、潜在的な可能性があるという意味である。エーコはフッサールを引用する。

それぞれの体験は、その体験の属する意識連関の変化、およびその体験自身の流れの局面の変化に応じて変化する地平を持つ。

 ここにあるのは「絶えず変化する主体」であり、「未来予持」であり、それが世界にみずみずしさをもたらすのである。世界はある。しかし未完結である。作品はある。しかし未完成である。完結することなく、完成することなく、受容者は多様な意味を生まれ、更新され続ける。そこに世界の、私たちの生の根拠があるのだ。

 残るのは、何が作品たらしめるのかという問いである。エーコは、動的作品がもつ不確定性や未完結性は、カオスではないと強調する(p.63.)。受容者は参与するが、それは無定形ではなく、「諸関係の組織化を可能にする規則」があるとする。完成はされていないとも、その作品が作者のものであることには変わりない。『モビール』は絶えず違う姿で現れるが、ある姿が作品そのものを離脱することはない。あくまでも作品の中に収まっているのである。

 では何がこの作品の形を根拠づけるのだろうか。エーコは「辞書は(...)作品ではない」と断言する。語が無数に集まり、その意味で開かれきっている辞書は作品ではない。語は作者のもとで構造化されていなくてはならない。そしてその構造という方向性がなければ、私たちは解釈の前提そのものを失っているということになる。辞書を解釈するというのはそもそも無意味である。辞書に死蔵された語から、ある構造をもった形象をつくりあげてゆくこと、それによって初めて作品は成立し、その作品に対して私たちは解釈行為を初めてゆく。この行為に生命がやどるのだ。

 最後にエーコはここまでの論を次のようにまとめる。
 1)動的なものとしての<開かれた>作品は、作者とともに作品を作ることへの誘いによって特徴づけられる
 2)(<動作作品>という種に対する類のような)より広いレベルで、すでに物理的に完結していながらも、刺激の総体を知覚する行為において享受者が発見し、選択するべき内的諸関係の絶えざる胚胎へと<開かれて>いる作品が存在する
 3)あらゆる芸術作品は、たとえそれが明示的であれ暗黙のものであれ、必然性の詩学に従って生産されたとしても、実質的には一連の可能な読みの潜在的に無限な系列へと開かれており、その読みのそれぞれは、ある展望、ある趣味、ある個人的演奏=上演に応じて作品を蘇らせる

 残る問題は、解釈者(受容者)の資質であろう。開かれた作品において、作者、作品、受容者のどれひとつとして優位にたつものはない。むしろそれぞれが関係を作り上げるなかで、作品自体の生が生まれてゆく。ならば解釈者となりうる条件は何なのか。これをあらためて問わねばならず、そのための考察は、以後『物語のなかの読者』で発展してゆくことになる。

内田樹『街場の文体論』(2012)

 『街場の文体論』は誤解を生むタイトルである。文体論と言えば一つ目に文章技術を指す。「言いたいこと」をより効果的に伝達するために、比喩などの技巧を駆使して文を彩る。美麗文と言ってもよい。見栄えのする飾りを散りばめて、人に心地よさを、その快楽が美なのだと思わせる文章効果を狙う。

 二つ目は「クセ」と言ってよい。たとえば村上春樹の新作を、その名前を伏せて読み始めたとしても、4、5ページすると、その文章が村上春樹のものだと気づく。村上春樹の文体の「クセ」にすぐに気づく。これが作家の独自の文体であり、私たちはときに物語以上に、この文体のクセに惹かれる。

 三つ目は内田が引用しているロラン・バルトの言うstyleである。日本語にすれば文体であり、上述の「クセ」に多少似ているが、内田の指摘によればもっと身体化されている言語表現である。「個人的な好悪」、ある音やある文字に対する「パーソナルな好み」であって、これは「自分でもどうにもならない」(p.120.)。血液の流れや心臓の鼓動といった身体活動を、いくら自分の体だと言っても何の制御もできない。それと同じ意味で「自由意思」でどうにもできないものが「文体」である。

 内田によるバルトの言語理論の概説はきわめて明快に切れ渡っている。バルトによれば言語は3層にわかれる。スティル(style)、ラング(langue)、エクリチュール(écriture)である。ラングも気づいたときには話しているという意味で、私たちの自由意思では選択不可能なものである。「ラングは外的な規制、スティルは内的な規制」と整理した上で、内田は「エクリチュールはこの二つの規制の中間に位置する」とする(p.121.)。

 大事なことは、エクリチュールは「局所的に形成された方言」のようなもので、これには選択の自由があるということだ。しかし、それでも一度選択すると、私たちはエクリチュールの檻に閉じ込められ、社会的なふるまいを規定されてしまう。どんなイデオロギー、どんな主観性をも排除したエクリチュールが「零度」の地点だが、そのようなエクリチュールが現実に達成されることはまずありえない。

 私たちはことばは、選択してはいるが、その選択が、社会身分や、嗜好や、他者への態度など、あらゆることを私たちの意図いかんによらず反映してしまう。そしてその網から抜け出して、新しいエクリチュールを獲得することは、きわめて困難である。

 実は『街場の文体論』で問われているのは、こうした文体、および文体によって規定される言語使用とは対極的な言葉のあり方である。問いはひとつ。「生成的な言葉とは何か」。

 確かに「思いついたことをだらだら話して」はいるが、最初から最後まで生成的な言葉をめぐって考えが述べられているという点では一貫している。例えばエクリチュールの零度は、社会的な規制から逃れること、自由になること。その意味で生成的な言葉が生まれる可能性への問いであり、同時にそうした言葉でさえ再びエクリチュールに回収されることのあきらめでもある。内田は次のバルトの言葉を引用する。

作家が仮に自由な話法を創造したとしても、それは既製品という形で彼のところに差し戻されてくる(p.148.)。

 たとえ自由な話法がみずみずしい生命をもたらしたとしても、それはすぐに枯れてしまう。新たなメタファーを創造したときから、すでにそのメタファーが紋切り型となり、流通してしまうことと等しい。生命とは私たち個の存在の根拠にも関わらず、言葉はすぐにこの個の固有性を抹消してしまう。

 生成とは何か。生成とは単に私たちが生きているという事実ではない。単に生きていることは、既成のコードに従って言葉を発し、世界を惰性で眺め、そして他者を「こんなものだろう」となめてかかることに過ぎない。

 生成的な言葉が生まれるときは、私たちが他者に懇願するときだ。

「届く言葉」には発信者の「届かせたい」という切迫がある(p.285.)。

 この他者への敬意が生成的な言葉の根本にあるという主張は、この講義の最初から一貫している。これこそが「言語における創造性の実質」(p.16.)であると内田は言う。

 この切迫は、もはや言葉の内容を問わないことがある。それは異語や、レヴィナスのテキストによって示される。何を言っているのかわからない。しかし彼方から、あるいはそでを引っ張られるように私たちは懇願を受ける。「どうか聞いてほしい」と呼びかけられて話される言葉は、私たちに<今・ここで>投げかけられているという意味で生成的なのだ。

 生成的な言葉はまた私たちの生の根源に深く根ざしている。そもそも生成とは、私たちの存在を活動へと促す力だ。ただあるだけではない。私たちは言葉にならないものを感じ、その困難さとたえず体を接している。何かが言葉として生まれようとしているという予感。私たちも認識することのできない、魂の力動。言葉の生成には、言葉として浮かんでくる表層面のさらに奥底に広大な世界が広がっていることを予期させる。その例証として内田が引くのがソシュールのアナグラム研究である。

 この言葉の生成について考えることこそ、内田は「生き延びるリテラシー」だという。サヴァイブするということ。それはまさに「単に生きる」のではない。荒海で舵を必死に切りながら、その都度、その都度、困難を乗り越えることだ。「生き延びる」時間は、生に楔を打ち込まれ、生の流れを押しとどめられそうになりながらも、さらに生きるとき、初めて「生き延びる」と言えるようになる。

荒川洋治『詩とことば』(2004, 2012)

この本を読み終わって、ふと書名は『詩といのち』ではないかと勘違いした。

まず選ばれた詩に生と死にまつわるものが多い。石垣りんの詩「くらし」。

食わずには生きてゆけない
(...)
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。

食は他のものの死によって自己の生を確保するための営み。

ヨシフ・ブロツキー「ジョン・ダンにささげる悲歌」

ジョン・ダンが眠った 彼のまわりのものがみな眠った

 詩人のいのちが絶えるとき、それに応えるかのように身の回りのものもみな自らのいのちを終える。詩人の死が、詩人を取り囲む物々のいのちをも消してゆく。

草野心平「婆さん蛙ミミミの挨拶」

地球さま。
永いことお世話さまでした。
 
さやうならで御座います。
 
ありがたう御座いました。
さやうならで御座います。
 
さやうなら

 充足した生と、その生を生き切ったことへの素直な感謝の念。本書のテーマとして「いのち」は標題に掲げられていない。しかし多くの詩作品の内容はいのち、生と死に踏み込んでいる。あたかも詩の存在理由のひとつは、いのちあるものの生き死にをうたうことであるかのように。 

 詩はまた個人のいのちの確証でもある。詩のことばは「符号」ではない。そこに「個人の息づかい」(p.12.)を感じるからこちらを不安にさせる。だがそれはよりいのちに近いことばとの出会いである。散文と詩の違いをごく簡単に言えば、わかりやすさの違いだ。詩はわかりにくい。散文はあたまに入りやすい。と同時にすぐにあたまをすり抜ける。それは情報を伝えるためにことばを使うためのルールでもある。情報は内容さえ頭の中にとどければ、それがどんなことばで伝えられたのか、ことばは頭に残らない。

 しかしそのような散文には個人の痕跡がない。

だが人はいつも「白い屋根の家が、何軒か、並んでいる」という順序で知覚するものだろうか。実は「何軒かの家だ。屋根、白い」あるいは「家だ。白い!」との知覚をしたのに、散文を書くために、多くの人に伝わりやすい順序に組み替えていることもあるはずだ。
 
詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこともある。「白い家の屋根が...」の順序で知覚したひとが、どこにもいないこともある。いなくても、いるように書くのが散文なのだ。それが習慣であり決まりなのだ。(p.44)

 散文はことばを無名性へと追いやってゆく。そこにだれも存在しなければいのちはない。反対に詩は、世界との出会いそのものの表明となる。詩には個があり、個と世界の出会いがある。出会いによって生まれるいのち脈打つ表現は、読み手にとって理解しずらい。詩は個の表現だからだ。だが、もし詩人の個と私の個が出会えたならば、ことばといのちが結びつきに出会えたならば、それまでの世界の色は一変し、世界の更新運動の瑞々しい場に身を置くことが可能となるだろう。
 詩はいのちであるからこそ、私たちの日常と化した自動的な認識を変えてしまうような、圧倒的な力をふるうことがある。

でもそれだけではない。ぼくはこの詩を読んでから、正確にいうと、思い浮かべるようになってから、自分が少し変わったように思う。
 
これまで読まなかったもの、たとえばプラトンの本とか、平安期の公卿の日記とか、いまの自分がこのままつづいたら、興味をもたないはずのものが、突然目の前に飛び出したのだ。光り輝いて見えてきたのだ。(p.143.)

「自分がこのままつづいたら」、自分は不動のままだろう。なにも動かず、動かされず、いのちの鼓動も消えてゆくだろう。だが詩のことばは死へと向かう自分の存在を活性化する。世界の更新によって、これまでの自分はもはや続かず、新たな認識のもと、私と世界の関係が結び直される。人間は移ろぎ、変わってゆく。同じ場所には二度と立てない。だがそれこそが生の確証ではないだろうか。それは新鮮であり同時に不安である。詩のことばは、新鮮で不安、本文に引用された堀川正美の詩の題にあるように、「新鮮で苦しみ多い日々」を私たちに与えるのだ。

 詩とは形式なのか。確かにそうだろう。本書の第一章は「詩のかたち」であり、行分け、くりかえし、リズムといった、一見詩の技法っぽいものが標題に並ぶ。しかし、技法があれば詩が生まれるわけでは決してない。技法は生とへ直結しないならば、単に形骸化した飾りに過ぎなくなる。本書にあるのは無味乾燥な技法分析ではない。たとえば「くりかえし」。

ことばはくりかえされることによって、同じ世界をつくるのではない。まったくちがう世界に迷い込む、そんな印象を読む人にあたえることもある。(p.26.)

 ことばが符号であるとき、その符号は、いついかなるときでも、相手が誰であっても、解読が揺るいではならない。赤が「止まれ」ならばそれが誰に対してであっても、いつであっても不変でなければならない。そこに人が、個が介入する余地はない。何万回繰り返されようとも、常に結果は同じでなくてはならない。動きもなく、静謐で、永遠の世界。

 だがことばが符号をやめるとき、詩におけるくりかえしは、「同じ」なのに「違う」という、新たな意味を生むための動力として機能する。先ほどの「婆さん蛙ミミミの挨拶」は次のように解釈される。

そしてもう一度、最後に「さやうなら」。これには「御座います」がつかないので、まるで自分でいうように、静かに。(p.77.)

 同じさやうならでも違う。最初は仲間への感謝のあいさつとして。最後は自分自身に言い聞かせるように。本書での詩の解釈はいずれも見事だが、その白眉だと思う。日常的で単純なことばのくりかえしでも、言っている相手が違う。言っている相手が違えば意味が違う。違いがあるからその都度意味が生まれる。意味の生成こそが詩という場なのだ。

 同じことばが連ねられても、その意味が異なるとき、時間が生まれる。時間によっていのちが生まれる場所に私たちはいることを意識する。同じであるとは永遠であること。それはもはや生ではない。異なりとは更新と言い換えてもよいだろう。そんなことばはないが、再新と言いたいくらいだ。<再>と<新>は「再生」と親和性をもつからだ。更新ー再新ー再生。詩のことばがもたらしうる不断の新しさこそが私たちの生そのものである。

 1960年に発表された「言語学と詩学」は、言語学者、文学研究者などを前にして、言語学と文学に裁断されていた当時の研究状況に対してやや挑発めいた批判をしながら、その両者を包括的に扱う理論的基軸を提言した講演の記録である。その姿勢は次の一言に表明されている。

詩学が第一に扱う問題は、「言語メッセージを芸術作品たらしめるものは何か」である。(p.184.)

 芸術言語と日常言語があるのではない。そうではなく私たちの用いる言語はある条件化で芸術作品となる。ならばその条件とは何かとヤコブソンは問うている。ヤコブソンにとっては詩学も言語学の一構成部門であり、その根拠は、言語芸術も、それ以外のさまざまな言語活動のすべてが、一般記号学に属することにある。言語が記号であるとは、意味するものと意味されるものがあるという単純な事実を指している。

 しかしこの論文を読むとき、この意味の問題は見過ごされがちとまでは言わないが、詩の問題を扱うためか、あまり強調されない。

 この論文が古典として読まれて続けているのは2つの有名なテーゼが展開されているからである。1つは言語の六機能(因子:機能/発信者:主情的/受信者:働きかけ/コンテクスト:指示的/接触:交話的/コード:メタ言語的/メッセージ:詩的)である。

 詩的機能とは何か。それは「メッセージそのものへの指向」である。メッセージは何かを伝えるために発せられる。しかし詩的機能は伝えられるものではなく、伝えるその言語自体を指向する。詩ではなく、詩的機能と言っているところに注意を払いたい。詩は日常的な言語活動から独立した言語形式ではなく、詩は、言語の六機能のうち、詩的機能がもっとも支配的になった言語形式に過ぎない。

 もう1つは次のテーゼである。「詩的機能は等価の原理を選択の軸から結合の軸へ投影する」(p.194.)。ある文をつくるとき、あるいは一まとまりのテキストを作るとき、私たちは等価な候補から一つを選択する。その候補を結合させることによって文、あるいはテキストを完成する。しかし詩的機能においては、ある選択が、結合の他の箇所の選択を支配してしまう。

 見逃してはならないのは、この2つのテーズの重要性を具体的に例証をするにあたって、ヤコブソンがともに「音」の現象を取り上げている点である。

 「メッセージそのものへの指向」では、口調による順番の決定(ジョーンとマージョリーの順番)、類音法へのこだわり(The horrible Harry。terribleなどさまざまな形容詞が考えられるなかで、Harryにあわせてhorribleが選択させる。あるいはI lile Ileのように韻を踏む)である。

 「等価の原理」においても、たとえば«Veni, vidi, vici»のように同一の語頭子音と同一の語末母音の語が、次にくる語の選択を支配しているのだ。

 これに続いてさらにヤコブソンは精密な「音文彩」の分析を展開してゆく。それはいわゆるversification「作詩法」である。たとえば律格体系の3つのカテゴリーなどである(音節式韻文:音節の一定数の繰り返し、強勢式韻文:アクセント、音量式韻文:音節の長さ)。

 しかし論文の後半では、ヤコブソンは周到に意味の問題を取り上げる。すなわち等価の原理は、音の選択だけではなく、意味にも影響を与える。この音と意味についてヤコブソンはポール・ヴァレリーのことばを引く。「音と意味の間でのためらい」(原文はL'hésitation prolongée entre le son et le sens。音と意味の間で続くためらい。この格言は、意味が自明であること、メッセージ=伝達されるものの自明性であることが問題となろう)。

 押韻語の間には、類似であれ相違であれ、強い関係がある。ヤコブソンは例としてホプキンズのblind-find, dove-love, light-brightなどの押韻された語における意味の関係を指摘する。つまり「音の等価性は、不可避的に意味の等価性を含み」(p.208)、比較の要素を成り立たしめるのである。具体的にはロシアの婚礼歌がひかれ、律格上および当時上でも等しい位置関係をもつ節の平行関係によって、換喩、および隠喩の関係があることが指摘される。つまり詩における意味は、音の構造によって密接に結びついた二項の間の「複雑で多義的な本質」(p.211.)として存在しているのである。さらにヤコブソンはポーの詩をひいて次のように言う。

詩にあっては音の顕著な類似はすべて、意味の類似/または相違との関係において評価される。(p.213.)

 そもそも冒頭で述べたように、ヤコブソンは詩だけではなく、あらゆる言語活動は記号の体系であるという前提から出発しており、さらに隠喩と換喩の構造は、彼の理論の支柱のひとつである以上、意味の問題へと帰着するのは当然であろう。その視点に立てば、実は論文の冒頭からすでに「意味の問題」は随所に現れている。
 たとえば六機能のひとつ、主情的機能の例として出される「チェ!」は、「怒りや皮肉を表明」しており、意味が伝達される。「今晩」という言い方には四十種類のメッセージを込めることができるという例は、私たちがその主情的機能を「読解」することができる=意味を引き出すことができるということ示している。

 あらゆる言語活動は意味をはらんでしまう。バンヴェニストは言語をそう定義した(II, p.217. «... le propre du langage est d'abord de signifier.»)。ヤコブソンのほぼあらゆる例は、意味の解読にあった。だが、ヤコブソンの意味の解読行為は、バンヴェニストのそれと異なる。ヤコブソンは音と意味の強い結びつきの構造を整理(=構造化)し、解明しつくしていく。それは記号の等式を解いているようなものである。ここにあるのは内部から構造化されたという意味での完成された作品であり、意味は一点の曇りもなく明るみに出しつくされる。すなわちそれは答えがいつでも明示されうる「文彩」の解読なのである。「文彩」は言語の創造的機能であると同時に、装飾にもなりうる。解明されうる彩とは限りなく装飾に近い。

 問うべきは、「文彩」の創造性ではないか。どれほど独創性のある「文彩」が散りばめられているか。その意味の生成に我々が立ち会うことができるかが問題である。だからこそ文学の条件=歴史性が次に問われる。すなわち文学の文彩が色あせる宿命を持っているとするならば、その言語構築物が文学の役目を終えて、日常的な俗な言語へと=装飾へと陥っていくことは十分考えられる。

 だからこそ、バンヴェニストが試みたように意味の生成を考えなくてはならない。意味の意味を問わなくてはならないのだ。文彩となる前の、ものそのものに私たちを立ち会わせるような、意味の生まれてくる場所を開示する文学こそ問わねばならない。

 本論文「思考の範疇と言語の範疇」の目的は、広く行き渡っている「思考と言語は本質的に区別される2つの活動である」(邦訳p.70)という認識を批判することにある。言いかえれば「言語形式は単に伝達可能の条件であるばかりでなく、まず、思考の具体化の条件である」(p.71.)という事実を論証することに論文の趣旨がある。

 バンヴェニストの論理はほとんど問いの連続であると言ってよい。書物のタイトルが『一般言語学の諸問題』であるように、たえず問題となる問いが立てられる。「言語においてしか具体化しない」思考と「意味する以外の機能をもたない」言語はどのように関連しあっているのか。続いて「言語において形成され、現働化されないかぎり、思考は把握できないことを認めながら、しかも思考に固有のものであり、言語表現に何ひとつ負うことのない諸性格を思考に認める手段はあるか」(p.72.)と問われる。

 この問題を考えるためにバンヴェニストが挙げたのがアリストテレスの範疇論とギリシャ語の関係である。この範疇は全部で10個ある。

1) substance
2) combien - quantité
3) quel - qualité
4) relativement à - relation
5) où - lieu
6) quand - temps
7) être en posture
8) être en état
9) faire
10) subir

 バンヴェニストは、この範疇が実は言語の範疇であると指摘する。まずは1)〜6)については

1) substantif
2) adjectif
3) adjectif
4) comparatif
5) adverbe
6) adverbe

 とし、この6つが名詞の形に関係していることを指摘する。

 続いて7)〜10)は動詞の範疇である。

7) moyen(中動態)
8) parfait
9) actif
10) passif

 バンヴェニストは「これらの観念は言語上の根拠を持ち」(p.76)、「10個の範疇リストは、言語の用語に書きかえる」ことができるとする。

[Les catégories d'Aristote] se révèlent comme la transposition des catégories de langue. C'est ce qu'on peut dire qui délimite et organise ce qu'on peut penser.
 
アリストテレスの範疇は、言語の諸範疇の置き換えという姿で現れる。人が考える事柄を画定し組織するのは、人が言うことのできる事柄である。

 こうしてバンヴェニストは、思考の範疇は、特定の一言語の分類形式を私たちに教えている、つまり「ある一定の言語状態の概念的投影」こそがアリストテレスが私たちに見せたものだとする。

 しかし、ここまでではバンヴェニストの論文の半分を説明したに過ぎない。

 このあとにもうひとつ別の問いが続く。それは明示化されてはいないが、思考の範疇と言語の範疇が区別されない活動であるならば、思考はその言語によってなされる以上、その言語特有のものなのか、という思考と言語の必然的、排他的結びつきについての問いかけだと考えられる。

 それに答えるためにギリシャ語とエウェ語が比較される。バンヴェニストはギリシャの思考の特殊性としてêtreの機能を挙げ、この動詞が、名詞的観念となって物として扱うことができたり、現在分詞になりえたり、さらにはさまざまな格の形や前置詞を介して多様な構文を作ることを示し、古代ギリシャで存在の学が展開されたのは、êtreの機能があったからだとする。事実エウェ語であれば、êtreの機能に対応させた場合、5つの動詞が必要となる。さらにこの5つの動詞には共通性もない。

 だが、バンヴェニストは「ギリシア語の言語構造が<ある>の観念を哲学的使命に向かわせる素因をなしていた」(p.81)と言ってはいるが、これは「存在をめぐる哲学的考察はギリシア語の言語構造に本質的である」という意味ではない。事実、エウェ語の場合であれば、「êtreの観念が全く別のやり方で分析されることは間違いない」と述べられているのである。この一文の力点は「全く別の」ではなく、「分析される」にある。言語構造が異なる以上、エウェ語のêtreに相当する一語が同じ概念を投影することはない。しかし、「全く別の方法で」分析されるはずなのである。

 つまり、ある言語構造がある思考に投影されるとしても、その思考はその言語構造に従属しているのではない。言語が違うならば、また違う構造で分析されるということではないだろうか。

[La pensée] devient indépendante, non de la langue, mais des structures linguistiques particulières.
 
思考は、言語からではなく、個々の言語構造から独立するようになる。

 思考は言語構造に従属していない。もし従属していれば、その思考は言語構造を離れては思考しえないものとなる。構造に従属していないからこそ、別の言語がもつその言語独自の別の構造によって分析可能となるのだ。だからバンヴェニストは次のように言っているのではないだろうか。

Il est plus fructueux de concevoir l'esprit comme virtualité que comme cadre, comme dynamisme que comme structure.
 
精神は、枠としてよりも可能態として、構造としてよりも力動性として考える方が実り多い。

 精神には言語構造が投影されている。その意味で精神が枠、構造というのは、言語が枠であり、構造であると言っても差し支えない。また同時に、思考はその枠によって運ばれると考えられ、言語は思考の道具として、つまりは構造的と考えられる。これは静態的な死蔵としての言語観であろう。これに対してバンヴェニストは、言語は可能態であり、力動性を持っている、と考えるのだ。

 最後の一段落の書き方は実に曖昧である。しかしつきつめて言えば、こうした考え方があるからこそ、思考の翻訳は可能となる。構造ではなく力動性であるという考えは、バンヴェニストの反ー構造主義者としての思想を最もよく示している。思考が言語構造に本質的に従属しないと考えることによって、この論文をバンヴェニストの思考の一貫性を示す適切な例証として読むことが可能になるのではないだろうか。

 この書は、ソンタグの思索の書というよりも、判断と行動の書と言ったほうがふさわしい。ここに収められているのはワールドトレードセンター爆破、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争などの状況に呼応して書かれ、あるいは語られた記録である。さらにこれらの一連の出来事に対して、ソンタグは武力行使に容認の姿勢を示していることで大きな話題にもなった。

 作家はメディアの中でも果たしうる役割がある。ソンタグ、村上春樹がエルサレム賞を受賞し、スピーチの中でイスラエルを批判することは、その内容がメディアによって運ばれ、世の中に波及するという意味で一定の価値がある。村上春樹と同じく、ソンタグのスピーチでもイスラエル批判は辛辣である。

一般市民への均衡を欠いた火力兵器攻撃、彼らの家の解体、彼らの果樹園や農地の破壊、彼らの生活手段と雇用、就学、医療、近隣市街・居住区との自由な往来の剥奪(...)。(p.211)

 ソンタグは、作家がこうした批判的な自己の判断をメディアを用いて伝えることを否定しない。ただしそこには条件がある。それは自らが現地に実際に行き、その現実に自らの身をさらしている限りにおいてである。メディアによって伝えられることだけが現実ではない。だからこそソンタグは、グリュックスマンの「戦争は今やメディア・イヴェントだ」ということばを否定する(p.96.)。確かにメディアによって現実が伝えられることが、出来事の成り行きを左右することもあるだろう。しかしそれによって現実が矮小化される場合もあるのだ。

 ただ、確かに作家が政治的な立場を持ち、自らの意志によって行動することは一個人として自由である。しかし同時に作家は「言葉に心を砕く」存在である。作家は「オピニオン・マシーン」(p.208)ではなく、「単純化された声に対抗する、ニュアンスと矛盾の住処」としての文学を創造する者である。20世紀は自らが正義と判断して意見を表明してきた作家たちが実は多くの誤りを犯してきた時代である。単純化とは妄信と同意である。その意味で作家は真実を追い求める存在である。

 ニュアンスと矛盾のある言葉を創造しながら、真実を追い求めるとはどういうことか。それはソンタグ自身が、ニューマン枢機卿の言葉を引いて次のように答えている。

「高いところの世界ではそうではないが、この下界では、生きることは変化することであり、ここで言う完璧とは、相次ぐ変化の経緯である」。

 真実とは、永遠不動のものではない。その都度刷新されるものであり、変化という運動こそが人間が生きている証拠であり、作家は「人間の生命・生活のありうる姿を見据えること」(p.202.)が使命となる。不断の刷新、ソンタグが引く、ヘンリー・ジェイムスの言葉「何に関しても、最終的な言葉など、私にはない」。

 およそ芸術を創造する人間とは、この人間の生命を見据える人間であり、世界を更新していく人間である。芸術家とは「自己固定化」の作用を持たない人間であり、それゆえにソンタグにとっては、芸術は他者へと向かう契機となる。

作家がすべきことは、人を自由に放つこと、揺さぶることだ。共感と新しい関心事へと向かって道を開くことだ。(p.215.)

 ここでソンタグの行動と思索が一致する。芸術が不断の刷新であるならば、そしてそれが生の表現であるならば、今その同じ生を虐げられ、苦痛に歪む人々のところへ、なぜ赴かないのかという厳しい問いつめが、私たちに投げかけられる。

 本書に収められている「サラエヴォでゴドーを待ちながら」はまさにこの優れた実践の記録である。1993年7月半ば、ソンタグはサラエヴォに行き、現地の俳優たちを使って『ゴドーを待ちながら』の上演を行う。砲撃にさらされている最中のサラエヴォである。物資もほとんど行き渡らないなか、ソンタグたちは上演を試みる。

 それは深刻な現実においても、芸術がひとときの喜びやあるいは勇気をもたらすからだろうか。そうではない。『ゴドーを待ちながら』の状況と、サラエヴォの置かれている「待つ」という状況が呼応するからだ。『ゴドー』を芸術と呼べるならば、この作品の上演が、現実の意味を増幅させ、今サラエヴォが置かれている状況を明るみにさらけ出すからだ。芸術とはまさに現実との接触のうちに、状況のなかで生まれてくる。この刷新の力をもつ芸術を用いて、ソンタグは、現地から世界に、サラエヴォの現実を知らしめようとしたのである。

 ソンタグは言う。ここにあるのは「宗教問題ではない。現実問題だ」。

 スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』は戦争写真論として書かれた。綿密に論理を積み重ねた論証というよりも、さまざまな写真、そして写真と隣接する絵画、映画などの具体的な作品によりそって、ポートレイト風に写真の表現世界と私たちの生きる現実世界の関係を考察した論考である。9章に分かれてはいるものの、むしろアフォリスムを集めたものに近いと言ったほうが正確である。

1.
 戦争写真に写された破壊と殺戮の光景を見れば、普通は戦争への嫌悪、平和への希求が私たちの中に生まれるはずである。しかし実際には写真家の政治的立場がどうであれ、意味が一元的に決定されるとは限らない。なぜならば戦争写真は、虐げられている人々を守るためによりいっそうの戦意をかき立てることもあるからだ(p.7.)。

 だから戦争の破壊性を示しても戦争の抑止に向かうとは限らず、また暴力は、その暴力を受ける人間を殉教者や英雄に祭り上げることもある(p.12)。ソンタグは対立する反応が生まれる理由を、戦争に反対する場合は「誰がいつ、どこで、という情報に依存」しないのに対し、新たな戦意をかき立てる場合は「誰によって誰が殺されるか」という特殊性に求めている。

2.
 写真は、間近から現実を撮る。その意味で写真は、絵画よりも過去を保存することに優れ、またどんなことばにも及ばない「直接性と権威」を獲得した。しかしそれでも写真は、現実の証人ではあるが、その現実がある一部を切り取ったその瞬間でしかない以上、切り取りをした個人の証言である。そしてそれが一部である以上、解釈の余地が生まれる(p.25.)。

 写真がある現実の証拠であるということを強調する立場から見れば、制作者の主観性を排さなくてはならず(この立場では、写真を撮るさいの偶然性が評価される)、また芸術が意匠であり仕掛けである以上は、芸術性も極力排除しなくてはならない。

 また私たちが被写体から物理的、時間的に距離の離れた写真に向かう場合、その写真の説明は幾様にも加えられる。赤ん坊を抱いて空を見上げている女性の写真がある。その眼差しは空襲への不安をたたえていると解釈されている。しかしその写真を見ると太陽がまぶしく目を細めているようにも見える。このような解釈に実は写真はたえずさらされるのだ。

 写真への意味付与。それはその写真そのものの生命にも関わる。チャコ戦争はボリビアとパラグアイの間で起きた戦争で、ドイツ人写真家によって記録されたが、その戦争も、写真も忘れられている。一方、スペイン内戦、イスラエル・パレスチナ紛争については「深刻な闘争という意味が付与」されているがために、注目され続けている。

3.
 写真がいくら現実を忠実に再現すると言われているとはいえ、主観性を排除することはできない。それは「常に誰かが選びとった映像」(p.44)である。そもそも被写体を加工することはいくらでもできる。クリミア戦争を撮った、「世界初の戦争写真家と称されているロジャー・フェントン」はまずは兵士たちにポーズをとってもらい、静止した状態で撮影をしていた。

 ソンタグは写真がこのように主観性や演出を免れることはできないのに、私たちが報道写真に対して、それらが「演出されたものであるように見えることではなく、そうであると知ってわれわれが驚き、常に失望する」ことの奇妙さを指摘している。ソンタグによれば、写真が演出によらずに私たちに届くようになるのはヴェトナム戦争以降のことである。

4.
 次にソンタグは被写体とそれを見る私たちの関係を考える。

遠い異国的な土地であればあるほど、われわれは死者や死の間際にある人々をあますところなく真正面から捉える傾向がある。(p.69.)

 だからこそ西洋において「一般的に、むごたらしく傷つけられた死体の公開写真は、アジアまたアフリカから来る」(p.70.)として、植民地の人間を展示する慣習から今だに抜け出ていないことを批判する。

5.
 写真には二重の力がある。それは「記録を作ること」と「視覚芸術の作品を生み出すこと」である。この場合の芸術とは被写体を変貌させることにある。

 写真は教訓となるだろうか。ソンタグはショックと慣れについてさまざまな事例を語る。カナダのタバコの箱に印刷した癌などの写真ーそれらはショッキングではあるかも知れないが、だんだん慣れるか、そもそもそれらを見ないことによって自己を防御することができるー。十字架像や『忠臣蔵』は、それらに慣れるということがない。むしろその普遍的表象を人々はもとめ、その度に強い感動を受ける。そしてけっして私たちを慣れへとは導かない写真。それは「廃墟のように崩れた顔」、「原子爆弾のために溶けて、かさぶたで厚く覆われた被災者たちの顔」、「ナタの一撃で割られたツチ族の生存者の顔」である。(p.82.)

 写真は証拠ではあるが、それは瞬間の証拠であって、ときに事後の瞬間でしかない。また写真は「例証」でもある。この瞬間の証拠、例証という写真の性質は、出来事を全体性、総合性において語ることができないという限界を示している。「物語はわれわれに理解させる」が、写真は「われわれにつきまとう」(p.88.)。

 写真が流布されると、その写真に写されている出来事が、ひとつの社会的問題として「記憶」の対象となるとされるが、ソンタグはその記憶は究極的にフィクションであるとし、集団的記憶を否定する。

集団的記憶は集団的罪と同様に、一連の虚偽の概念を構成している。だが集団的教訓は存在する。
あらゆる記憶は個人的なもので複製不可能であり、個人とともに死ぬ。集団的記憶と呼ばれるものは、記憶することではなく規定することである。これが大事なのだ、それはこういうふうにして起こったのだ、というふうに。(p.84.)

 ソンタグが言おうとしているのは、社会とは歴史的な存在であり、そうである以上、保存される記憶、生き残る記憶、そして忘れられる記憶が規定されるということであろう。アメリカにはホロコースト博物館はあるが、奴隷制の全貌を伝えるような博物館はない。その理由をソンタグは「思うにこれは社会の安定にとって、活性化し、創造するには危険すぎる記憶なのである」と述べる。

 虚偽のなかに私たちは生きている。規定する以上、それは誰かが規定するのだ。その規定された記憶を私たちは自らの記憶の領域に流し込んで生きている。

6.
 写真は私たちにどのような態度をとらせるか。残虐な行為の写真は必ずしも、生と死に直面させ、そこから人間の尊厳へ思いを至らせるとは限らない。私たちには恐ろしいものを見たいという欲求がある。ソンタグはプラトンの『国家』第四巻を引き、人間にはこうした「軽蔑すべき衝動」があることを指摘する。

 次にソンタグは同情という気持ちについて考える。同情は確かに苦しんでいる人間のことを考え、そしてときに怒りにかられながらその事態を見つめる。しかしソンタグは次のように同情を批判する。

同情を感じているかぎりにおいて、われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。(p.101.)

 被写体の人々の苦しみに対して私たちは果たして無関係なのだろうか。私たちが見るという立場にある以上、それはひとつの特権であり、この特権的な私たちの立場が、被写体の人々の苦しみに連関しているかもしれないと洞察を働かすことこそ、私たちの課題ではないかとソンタグは言う。

7.
 ソンタグの写真についての考察、ひいては芸術表現と現実世界をめぐる考察をひとことでまとめるとするならば、「新鮮な感情と適切な倫理」ではないか。芸術はこの世界から切り離されて存在するのではない。むしろこの世界を刷新する新鮮さをもつ。そしてこの世界と関係する以上、そこには私たちの他者への一定の責任が倫理という形で要請される。決して野放図に作品を鑑賞してよいわけではないのだ。

 だからこそソンタグは、世界をスペクタクルという一元的な見方しかしない、フランスのドゥボール、ボードリヤール、グリュックスマンらを批判する。こうした見方は現実の苦しみを存在しないものとして片付けてしまう。ソンタグはこうした人々は「戦争の近くに身を置いたことのない斜に構えた人々」であると切り捨てる。

Alexis Jenni, L'art français de la guerre (2011)

 L'art français de la guerreは2011年ゴンクール受賞作品である。作者のAlexis Jenniはリヨンで生物を教えている高校の教師で、この小説が第一作。第一作にしてゴンクールを取ったのは、632ページにわたってフランスの現代史を濃密にあぶり出したことが理由だろう。

 ここで扱われる現代史とは第二次世界大戦、インドシナ戦争、アルジェリア戦争と続く戦争の歴史である。それを2011年において書くことは、レジスタンス神話が崩壊し、植民地支配の負の遺産を抱え続けるフランスを書くことでもある。この分厚い小説には随所にアフォリズムめいた短い一言が散りばめられているのだが、たとえばフランス語は«la langue internationale de l'interrogatoire»(尋問のための国際語)と表される。

 過去の歴史と今現在の両方を書き、その過去と今現在の一貫性を構成上でも示すために、作品には、Roman I, II, ..., Commentaires I, II...とタイトルがつけられた二つの軸が用意され、それぞれの章が交互に配置されている。Commenairesは「私」と一人称で呼ばれる主人公の現在の叙述であり、Romanはその「私」が出会ったかつての兵士、Victorien Salagnonの戦争体験を三人称で語る形式となっている。

 Romanはドイツ占領下の1943年のフランスから始まり、1962年のpieds-noirs(アルジェリア生まれのフランス人)のフランス本土帰還で終わる。この2つの年が作品中ではっきりと何度も記されるのは20年という区切られた期間を明示するためである。そしてこの20年間は、叙述としては3つの戦争が描かれているが、戦争の意味自体は、3つに区切られてはない。

− Le vieux type que je vois, il m'apprend à peindre. En échange, il me parle de la guerre.
− Laquelle ?
− Celle qui a duré vingt ans ?

 「どの戦争?」「20年間続いたやつさ」。この作品の中の20年間はたったひとつの戦争が行われたひとつの単位として提示される。すなわち、3つの戦争の差異は消され、20年の均質な時間の流れがこの小説を支配する。

 このように差異を抹消し、ひとつの単位を作ることは、言語そのものの果たすひとつの役割と言えるだろう。無限に流れる時間と、その時間を刻む無数の個別の出来事を前にして、人間がその流れに楔を打ち、時間を画定できるのは、言語という能力を持っているからだ。なぜなら言語によって初めて人間は、その無限の時間と無数の出来事に意味を与えることができるからだ。その意味で、言語化とは時間の統合化だと言ってもよい。この言語化によって初めて有意味な世界が立ち現れてくる。

 この統合化の作用は歴史叙述に比して小説の方がはるかに自由度が高い。とはいえ、このことは歴史と小説が別物ではなく、むしろ度合の差異によって違いがあるに過ぎないことを意味している。歴史は現実世界の暦的時間の上に刻まれる個別の出来事の事実性の制約が高いゆえに、統合化のさせ方にも一定の制約がかかりそれゆえに小説にはなれないだけある。逆に小説は、どれほど突拍子もない統合化をしようとも、出来事をまったく無視して書くことはできず、その意味で歴史性を捨てることはできない(もしそれができてしまったらそれは永遠を書くということになってしまうだろう)。

 この自由の度合が違うとはいえ、すぐれた歴史とすぐれた小説が私たちに与えてくれるものは共通している。それは人間的経験である。凡庸な歴史が教えてくれるのは歴史的事実であり、凡庸な小説が教えてくれるのは私的体験である。歴史的事実には人称性がなく、私的体験には他者への呼びかけを欠く一人称しかない。

 Jenniがフランスの歴史を20年に区切り、ひとつの戦争のもとに統合化することで、小説作品として私たちに与えてくれる人間的経験は、わずか二語で集約できる。

En gros, nous simplifiions : eux et nous. (p.600.)

 eux et nous. 敵と味方。虐待者と被害者。アラブとヨーロッパ。白人と黒人。まさに単純化されたカテゴリーである。人間であるとは、敵や虐待者や白人であることではない。私たちは被害者でありながら、虐待者にもなりうる。それはSalagnonの伯父が、第二次世界大戦ではドイツ占領下で戦ったレジスタンスの英雄であり、アルジェリア戦争では、地元民を虐待し、最後には逮捕され死刑にされるという人生にたとえば集約されている。 私たちが民族を意識するのは、何らかの差別が顕在化するときである。たとえばSalagnonが出会うギリシア系フランス人でpied-noirの医師のもとで働く看護助手を、その医師以外だれもprénomで呼ばない。prénomで呼ぶ医師と、それに気づくSalagnonだけがこの助手と人間的関係を作り、看護助手としか見ていない人間たちは、その人間を黒人としかみなしていない。すなわち名前を呼ぼうとしない無意識的な行為のうちに、差別の構造が小説内では意識的に明らかになり、そのとき白人と黒人の間に壁が現れるのだ。

 これらはきわめて単純で浅薄なカテゴリーに過ぎない。しかしなぜこれほどまでに単純で浅薄なカテゴリーに突き動かされ、人間は夥しい暴力を働き、人をいたぶり、殺すことができるのか。これがこの小説が私たちにつきつける人間的体験である。

 悪を書けるのは文学の特権的領域であるとは思うが、それ以上に、文学は、善と悪へ色分けされる以前の、倫理的地平の手前に横たわる混沌とした世界を私たちの前にさらけ出す力を備えている。

 暴力は今も日常に遍在している。主人公はリヨン駅で職務質問される一人の黒人の若者をみかける。その若者は逃げ出そうとするが、警官が追いかけてすぐに捉える。その現場を囲んだ若者たちが揶揄のしょうもないことばを警官に投げる。警官が反応をし、その若者たちに近づく。小競り合いが始まる。そのうちだれかが投石をする。警察隊が出動する。駅の混乱が町に広がり、商店街に放火が起きる。そのようなエピソードがCommentairesの中に挿入される。それは正義の問題でも権力の問題でもあるだろう。小説は解決をもたらさない。ただ私たちにそうした問題を人間的経験としてつきつけるだけだ。

 小説にはいくつもの短い美しいエピソードが挿入されている。占領下時代に、子どもだったSalagnonがいたずらでドイツ兵にあかんべーをする。それを見た母親は、恐怖で子どもをビンタする。近寄ってきたドイツ兵は母親に言う−「子どもをぶってはいけない」と。

 オデュッセウスの最後には実はまだ続きがある。ようやくペネロペーとの再会を果たしたオデュッセウスだが、再び舟の櫂を肩に担ぎ、長い旅に出る。旅先で「その肩に担いでいるものは何だい?」と尋ねられた時、つまり舟の櫂を誰も知らない世界になったとき、初めてオデュッセウスの旅と物語は終わる。将来武器を見た人間が「これは一体何に使うものか?」と物の正体を尋ねるようになったとき、ようやく兵士は安らかに目を閉じるのだ。

 エドワード・サピア(1884年〜1939年)はアメリカの言語学者であるが、自らも詩を作り、言語芸術に強い関心を持ち、クローチェの美学に深い敬意を抱いていた。芸術言語への考察の一端が収められたのが、生前唯一の著書『言語』(1921年)の最終章「言語と文学」である。

 ここでサピアは二つの異なるレベルの芸術を措定する。ひとつは「異質の言語的媒体に移しても失われることのない、一般化された非言語的な芸術」であり、もうひとつは「移すことのできない、とりわけ言語的な芸術」である。(p.383.)

 それぞれの言語(個別言語)は独自の形式を持つ。音声体系、語の順序そしてリズムなどはそれぞれの言語固有のものである。サピアは、機能(何か言うべきことを持っている)と形式(それを何らかの形で言う)では、形式こそが言語学の対象である(ムーナン『二十世紀の言語学』p.105)と考えていたが、その意味で、文学とはまさに「形式の上で言語に依存している」からこそ、その関心の対象となったのであろう。

 実際にこの章では、ギリシア語の詩の韻律、英語、フランス語、中国語などを例にあげ、それぞれの言語の詩形式の特徴を述べている。この考え方によれば、それぞれが固有のものである以上、その諸言語間に表現の優劣を持ち込むことは無意味である。そして、こうした固有の形式がもたらす「効果は、翻訳されるならば、必ず失われるか、変容されずにおかない」のも当然である。

 形式の重きを置く考え方の道筋は、諸言語の多様性とその通約不可能性へと至る。しかし、この章を読んでいると、サピアの力点がこの形式に基づいた芸術表現という考え方により強く置かれているとは単純には言いきれない。サピアは、翻訳がほぼ不可能であるという認識が正しいにも関わらず、「文学作品は現に翻訳されているし、ときには驚くほど適切に翻訳されていることさえある」(p.383)と言明する。ここでサピアは注をつけバッハのフーガを出し、その「審美的意義」はピアノの言語ではなくても展開されるとする。上に述べたように、サピアにとって、この媒体に左右されない「非言語的芸術」もまた重要視されるべきものなのである。

 ここでサピアが持ち出すのが、言語化に先行する、芸術家の「直観」である。ただ、これは本当に「非言語的芸術」なのだろうか。言語に先行する機能こそが、芸術の普遍的特質であると言っているのだろうか。サピアの次の言い方に着目したい。

芸術家のなかで、精神が主として非言語的な(より適切には、一般化された言語的な)層で働いている人たちは、おのれの思想を一般に受け入れられた慣用法の、硬直したきまり文句で表現することに、多少の困難をおぼえさえするのである。かれらは無意識のうちに、一般化された芸術の言語、すなわち、文学的代数を得ようと努めているのだという印象をうける。(p.387.)

 芸術的表現は文学的代数である。すなわち、どのような個別言語であってもその代数に当てはめて表現することが可能な表現である。ではなぜ芸術家はその文学的代数を求めようと努めるのか。それは、芸術的表現は、慣用やきまり文句、すなわち、記号として流通することばでは実現できないからだ。つまり、非言語的なもの、芸術家の直観によって形成されるものというときに、その阻害を形成するのが、慣用や決まり文句だと言われているだけであって、芸術は「一般的な芸術言語」と名指される言語によってもたらされることに違いはない。非言語的な芸術とは非個別言語的な芸術と言い換えられる必要があるだろう。

 芸術表現とは、非言語的表現ではなく、一般化された言語による表現である。しかも、その言語は、あいかわらず個別の形式をもったある任意の一言語ではある。それはどう解き明かせばよいのか。サピアは次のように言う。

言語は、それ自体、集合的な表現芸術であり、何千何万という個人の直観の要約である。個人は集合的な創造のなかに埋没してしまうけれども、個人の個性的表現は、人間精神の集合的作品全体に内在する順応性や柔軟性のなかになにがしかの痕跡をとどめている。(p.398.)

 サピアの言語観は、ここではきわめて生成的、活動的である。個人の直観とは、「経験、思考、感情」によってそのつど刷新される人間の有り様であると思われる。そしてそれは言語そのものの本質でもある(=順応性、柔軟性)。言語は個別の言語であり、記号である以上、それは集合的である。しかしその集合的という形容詞は「創造」、「作品」にかかる以上、言語という社会の生産物はたえず運動するという本質を持っている。その運動に個性の痕跡をとどめることのできるもの、それが芸術家と呼ばれる人間であり、その芸術家が創造する新たな刷新をもたらすも言語こそ、一般的な芸術言語と言えるのではないだろうか。

François Bizot, Le silence du bourreau (2011)

 フランスの民族学者であったフランソワ・ビゾは、1971年カンボジア仏教の調査中にクメール・ルージュによって捕らえられる。CIAのスパイの容疑をかけられるが、3ヶ月後に無実であるとして奇跡的に釈放される。捕らえられていた3ヶ月の間に、ビゾと収容所の長であったクメール・ルージュの革命兵士との間に、拷問者と被害者という関係を越えて、人間としての関係が生まれてくる。
 ただしそれだけであったなら、ビゾの一研究者としてそのまま人生を送ったことだろう。しかしその後、彼の個人的な人生が、大きな歴史の流れに投げ込まれ、彼はそのなかで人間とは果たしていかなる存在なのか自問を重ねざるをえない状況へと追い込まれてゆく。
 そのきっかけとなったのは1988年、カンボジアのクメール・ルージュの残虐さを伝えるために作られた資料館で目にした1枚の写真である。それはかつて自分を釈放した革命兵士の写真であり、その兵士こそ、その後40000人もの虐殺に関わったドゥイチである。さらに1999年そのドゥイチが逮捕される。しかも彼は当時キリスト教に改宗しており、難民の保護を行うNGOの団体で働いていた。これを機にビゾは、71年の経験を書き記し、Le portailという題名で本を出版する(日本でも『カンボジア 運命の門』として翻訳が出ている)。
 さらに2003年にはビゾはドゥイチと再会を果たし、2009年には人道に反する罪の対象となったドゥイチの法廷で証人として立つ。2011年に出た本書は、これまでの経緯を振り返るとともに、ドゥイチから届いたLe portailの感想、そして法廷での証言を採録したものである。この法的な場でされたビゾのことばは、きわめて明晰である。
 ドゥイチとの関係を通してビゾが至った実存的考察とは次のとおりである。

Le pire serait certainement de faire de ces montres des gens à part.(p. 192.)
 
確実に最悪なのは、こうした怪物たちを、別の人間とみなすことであろう。

 ここでいうmontresとは大量虐殺を行ったbourreau(死刑執行者)たちである。ビゾの省察とは、悪に染まった人間とは、私たちとは性質を異にする人間であり、そうした人間たちは生まれたときから悪人として生まれるのだという考え方を決定的に捨てることである。ビゾの前にいる人間は、「マルクス主義者であり、国のために命を捧げようとする共産主義者」であり、彼が目指していたのは「カンボジアの人々の幸福であり、不正義への戦い」であると確信するのである。
 しかしこの確信は決して格言のように理解されるものではない。本文はこの法廷でのことばのようにわかりやすく書かれてはいない。ビゾは、この確信に至ると同時に、この実存的問いを自らのこれまでの人生そのものへ投げかける。
 第1章は1963年から始まる。この年、父親を亡くしたビゾは、母親一人では育てきれなくなったペットの子ギツネを駅の通路の片隅で殺して棄てる。おそらくは首を絞めて...本書はこうした過去の出来事の想起とそれに対する現在からの考察の往来によって編まれている。たとえば動物も生きる条件として、「恐れ、乱暴さ、住む場所を求めることは」(p.14.)人間と同じではないかと。
 さらに記憶は戦争中へと遡る。おそらくドイツ占領下であろう。子供であったビゾはあるとき駐留していたドイツ兵にあかんべえをする。それを見た母親は恐怖でビゾ少年のほおをビンタした。そのときにドイツ兵は次のように言った。「なぜあなたは息子さんをたたくのですか?私があなたの立場だったら、むしろ誇りに思うことでしょう」(p.18.)。ビゾはこの体験に省察の出発点を認める。どれほど心持ちの優しい人間であっても、犯罪的な行為に巻き込まれてゆくのであると。さらには奴隷の問題、食肉のための動物を殺すことの問題へと、先の確信に至るまでの、自身の人生を回想してゆく。
 第2章は71年に捕らえられた時の経緯を語るともに、現在からの考察が述べられる。ドゥイチとはどういう人物なのか。ビゾは当時交わした議論、会話からその人物を復元する。彼の革命家としての議論は、フランスの共産主義者たちの大差ないものであり、現実には「全世界的な社会的大惨事が起きるのだという観念が彼の精神を支配し、現実にある貧困の問題よりもこちらの観念が彼を脅かしていた」(p.51.)。そして捕虜の虐待とは、この「偉大な革命的企図のための現実的行動に過ぎない」とも。だが、ここでビゾは後のドゥイチの証言を挿入する。

最初に殴ったときには、あまりにもその行為をするのに覚悟が要ったので、思わず吐き気がして殴るのをやめなくてはならなかった。

 こうしたドゥイチの状況、思想、内面をも推し量りながら、このテキストは構成されているが、それはビゾ自身に関しても同様のことが言える。それを表す最も象徴的な例が脱走を考えた場面である(pp.58-59)。ビゾは想像する。「自分が武器を持って脱走し、もし途中で誰かに見つかれば、その人間を殺そうとしたのではないだろうか。たとえそれが子どもであっても」。
 こうして、ビゾは自らとドゥイチを重ね合わせる。たとえば恐れ。ビゾは動物を殺したことで、他人が自分のことをそうしたことが出来る人間なのだと考えることを恐れる。ドゥイチは虐待をすることで、いつか自分のことを心のない人間だと思ってしまうことを恐れる。ビゾの実存的な省察は常にこうした具体的な状況から出発しているのだ。

[...] comprendre la façon dont ce mal qui nous arrive vient en nous, par nous, de nous... Seul cet aspect de l'Individu, de notre prochain, peut nous ouvrir nos yeux sur la souffrance du monde. (p.130.)

 我々のもとに届けられる悪は、私たちの中に、私たちによって、私たちの中からやってくる。個人への、私たちの隣人へのこの見方だけが、私たちの目を世界の苦しみへと開かせる。

 ミハイル・バフチンとロマン・ヤコブソンはほぼ同じ時期にロシアの地に生まれた(バフチンは1895年、ヤコブソンはその翌年)。亡くなった時期もそれほど大きな違いはない(バフチンは1975年、ヤコブソンはその7年後)。しかし2人の人生、思想には大きな隔たりがある。特にロシア革命からソビエト連邦の成立、そして戦後の共産主義体制へと至る20世紀のロシアの歴史は、知識人がその流れの中でどうふるまうのかという大きな試練を与えることになる。

 ブルガリアの共産主義体制の中で、政治性を排除し、ニュートラルに文学を研究すること以外に選択肢のなかったトドロフは、1962年にフランスに留学する。そして、主に言語学理論に基づく新たな文学理論を提出し、現代フランス思想に大きく寄与することになる。その中で特に特筆されるのが、バフチンとヤコブソンの思想の紹介である。

 その意味でバフチンとヤコブソンはトドロフにとっては文学理論を作り上げる上できわめて重要な人物だったわけだが、トドロフ自身の研究の対象が変化するにつれ、この2人の位置づけも彼の中で大きく変わることになる。80年代のトドロフは、共産主義体制による人間の圧政、この体制を生んだ人間と社会のあり方そのものを問うことになる。そしてその中で知識人がどのようにふるまうのか、それが課題となる。「作品」と「生」の関係である。

 トドロフは、自らも共産主義体制に生きてきた人間であるが、その個の体験を書くわけではない。しかしトドロフが80年代以降、文学理論の研究者から、政治思想、全体主義批判へと舵を切ったこと、その遍歴そのものがトドロフの「作品と生」への姿勢を如実に語っていると言えるだろう。

 このエッセーで、トドロフはあらためてバフチンとヤコブソンの「作品と生」を描く。まず2人の初期の論文に焦点をあて、「世界の表象」を巡って2人の相違を指摘する。
 ヤコブソンの「未来主義」では、トドロフは3つの特徴を取り上げる。第1に現代芸術においては「世界を表象」するのではなく、「知覚対象」から、「知覚」そのもののへと注意が向けられる点(たとえば抽象絵画は知覚対象である世界を描くのではなく、線と面を描く)。第2に、芸術と科学の接近。絵画における3次元や動きの表象の試みがたとえば挙げられる。第3に、一致の概念が挙げられる。それは、モデルニテが芸術、科学、政治、哲学など分野を越えて現れ、古い概念を壊そうとしている現実に現れている。

 一方バフチンの「芸術と責任」において、一致の概念は芸術と生の一致として示される。この一致を成り立たせるのは責任(と罪悪感)であるとバフチンは言う。
 この2人の論考の対立点をトドロフは次のようにまとめる。

ヤコブソンは創造された世界、思考によって生まれる世界を非人称的な対象として描く。バフチンは人称的次元が還元されえぬものとして現れる視野を選択する。

 こうしてヤコブソンは科学へ、バフチンはモラルへと進んでゆく。

 次にトドロフが2人を対照させるのは、モノローグとディアローグの観点からである。モノローグの文芸様式は詩である。ヤコブソンは一歳年上の詩人フレーブニコフに大きな影響を受ける(この交友関係、フレーブニコフの詩論については山中桂一『ヤコブソンの言語哲学1 詩とことば』に触れられている)。詩は、世界を表象するものではなく、自立的な価値を持つとする。そのとき詩は当然ながら意味を派生する言語ではなく、音的価値としての言語によって構成されるものとなる。

 ヤコブソンに影響を与えたもうひとつの思想が現象学である。心理と事物を切り離すという現象学の考え方から、ヤコブソンは主体の心理の反映としての言語ではなく、言語そのものを構造としてとらえる考え方を学んでゆく。そして普遍文法、そして言語機能へと関心をむけてゆく。

 このような言語自体を対象とするヤコブソンの考え方は、彼が自然科学的発想に一貫した関心を抱いていたからだとトドロフは指摘する。

 ではこのような影響のもと、ヤコブソンはどのように詩を定義しているだろうか。トドロフは次のことばを引用する。

詩は言語芸術のなかで唯一普遍的なジャンルである。なぜか? なぜならば、芸術的散文は、弱められたポエジー、日常の言語へと歩を進めるポエジーだからである。

 これについてトドロフは詩の特性を、形式上の制約に従わなくてはならないこと、語の取り替えが簡単ではないこと、そして詩における言語は話者の相互性を欠いていること、すなわち詩のモノローグ性にあるとまとめている。

 モノローグ性、それは言語を発話状況から切り離すことである。それによって、トドロフは、ヤコブソンが未来派たちと同じく、無限の未来を志向したとする。

 一方バフチンもフレーブニコフへの敬意を表明している。しかし、それはフレーブニコフが現実の世界を打ち捨てようとしたのではなく、その世界と新たな関係を切り結ぼうとしたからである。マレーヴィチについても同様のことがいえ、トドロフはそれを「身近な、慣用的な人間の世界を離れて、普遍的なパースペクティを求める」試みであるとまとめている。

 バフチンが影響を受けた人物としてマルティン・ブーバーが挙げられる。バフチンがドイツ哲学から受け取ったのは「相互主観性」の考え方である。人間は、個として時間の中に生き、世界には決して回収されえない単独性をもつ。そしてバフチンはこの単独性においてモラルを引き受けなくてはならないと言う。理性を働かせること自体、知識を得ること自体には、その対象に善も悪もない。だからこそ、我々は理性と知を司る科学性に人間をゆだねるべきではない。人間は自然の事物へと解消されないものだからだ。

 バフチンにとって、言語もしたがって「行為」であるとトドロフは言う。言語を行為としてみればそれは、バンヴェニストのように「一回性の出来事」であると言える。そしてその出来事には共話者(言語を用いて交渉を行う複数の話者)がいる。トドロフはこの点において、ヤコブソンの言う「接触」(contact)と、それに対応する交話機能(phatique)こそ、バフチンの思想と対立するものはないという。バフチンにとって「接触」とは、機能ではなく、言語をコード以外へと変換させるものであるからだ(前掲、山中、pp.150-151参照のこと)。バフチンは次のように言う。

記号論は既成のコードによって、既成のメッセージを伝達するということを好んで来た。しかしながら、生きていることばでは、メッセージは、厳密に言えば、伝達の過程において初めて創造されるのであり、根本的にはコードは存在しないのだ。

 バフチンにとってフォルマリストたちの考えが不十分だったのは、この個人同士の相互行為という面を無視していたからである。対話こそが言語を言語たらしめる条件であり、ここからバフチンの小説に対する思考も生まれるのだ。

 バフチンにおける対話とはどういう意味なのか。トドロフは個と他者の間における言語を通じた交渉は、「お互いに対する信頼、参与する自律、もろさをはらむ合意」を困難であっても求める行為であると言う。そしてここにあるのは未来への信仰ではなく、現在への情熱であると付け加える。「本当の芸術とは現在を生きることを可能にするものだ」ともトドロフは言う。

 対話は、バフチンのもうひとつの重要な概念カーニヴァルと一見対立するかのようにみえる。対話は私とあなたという人称を浮かび上がらせる。しかしカーニヴァルにおいては人称は集団の中にとけ込んでゆく。対話は選択と自由だが、カーニヴァルは集団への従属である。それ以外にも対立点を挙げながらも、トドロフはバフチンの「私」は決してひとりの「あなた」との関係で閉じるのではなく、さまざまな「あなた」と、そして私も所属する「私たち」とも関係を結ぶのだ。しかし、バフチンはその「私たち」のあり方を示していないとトドロフは指摘する。ソヴィエと連邦にあって、共産主義体制以外の「私たち」のあり方の可能性を提出することは、すぐさま危険を意味するからだ。

 科学的精神と詩を求めたヤコブソン、対話と小説を求めたバフチン。ではその2人のソヴィエトに対する関係とはどのようなものだったのか。

 ロシア革命当時のヤコブソンは、他の詩人、芸術家とともに、革命は政治だけれはなくあらゆる分野におよぶと考えていた。20年代ヤコブソンはプラハのソヴィエト大使館で働く。その後第二次世界大戦をむかえ、コペンハーゲン、オスロ、そしてアメリカへと渡っていく。しかしこのような変動の時代、ユダヤを出自とするその家庭環境、そしてソヴィエトの政治体制についてヤコブソンが発言することはほとんどなかった。

 一方バフチンも当時の政治状況にほとんど興味をいだいていなかった。革命が起きるとサンクト・ペテルブルクを離れ、小村を渡り歩き、やがてレニングラードと名前を変えた町に戻ってくるが、非常につつましい生活であった。理論上は対話を標榜していたバフチンは、実生活においては、結婚をし、友人に恵まれてはいたものの、社会的にはずっと孤独な生活をしていたようである。サランスクというごく小さな町に暮らし始めても、教職につき、めだった活動もなかったし、政治的な発言をすることもなかったのだ。トドロフはそれでもバフチンの思想は、教条主義でも相対主義でもなく、困難な「一致」(あるいはsoglasie, sym-phonie)を求めて、様々な話者が、そして様々な意見が存在する世界を目指していたことを強調している。

 2人の作品と生を辿ってみると、実は両者とも、作品と生が一致していないことが明らかになってくる。バフチンはきわめて孤独な生活を送っていたし、その思想を形成する過程で、他の思想家と議論をしたり、さらには自分自身の思想を広めたりという交渉にも興味を抱かなかった。その実人生は対話的ではなかったのである。ましてはカーニヴァル的な生活とは対照的な人生であった。

 それに対してヤコブソンは、さまざまサークルで活動をしたし、他人との対話を好んだ。レヴィ・ストロースとの共作もあるように、他者と研究活動を繰り広げていった。そもそもヤコブソンはほとんど知られていなかったバフチンの著作を評価し、学生たちに読むことを進めた数少ない人物の一人だったのである。

 対話に富む人生を送ったヤコブソン、孤独な生活を送ったバフチン。両者の生はそれぞれの思想/作品ときわめて対照的である。しかしその対照が、20世紀のソヴィエト連邦の成立という歴史的出来事の中で、知的に生きる、その生の具体的なあり方はどのようなものであったのか、私たちにはっきりと教えてくれるのである。

 感性や夢想ということばは誤解を生みやすい。感性や夢想は、知性の道具であることばを介在とせず、あるいはことばによって狭められてしまう私たちの認識を限りなく広げうるためにあると思いがちである。詩的な快楽とは、ことばを用いながらも、ことばには達しえない世界の存在の暗示がもたらす倒錯的な快楽、あるいは幸福であると思いがちである。

 だが注意しよう。それは、熟思を求めない安楽さを与えることで、人間の精神の可能性を貶めてしまう安易な知性/反知性の二元論に基づいている。詩とはあくまで「コトバ」である。私たちは「コトバ」によって、この世界を再認識する。認識とは、在ることの承認に過ぎない。再認識とは、在るはずである世界のあり方とは異なる相貌のもとで、世界を認識し直すことである。

 このような観点から、バシュラールの詩学の一端を整理しておきたい。

『空間の詩学』第8章«L'immensité intime(内心の広大さ)»は、一見相反するものが、詩的行為によって、調和を得て、綜合することを論じている。

 冒頭バシュラールは広大さとは眺める対象のそれであると言う。確かに私たちは、海や平原を眺めて、無限に続くかと思われるような広さの感覚をいだく。おそらくこのような対象を前にした感動ならば、ことばは要らないであろう。しかし、バシュラールは次のように続ける。

Par le simple souvenir, loin des immensités de la mer et de la plaine, nous pouvons, dans la méditation, renouveler en nous-mêmes les résonances de cette contemplation de la grandeur. (p.169. 邦訳p.314)
 
単なる思い出だけでも、海や平原の広大さから遠く離れて、私たちは、長く、深い熟思をしながら、この大きさを眺めたことの反響を私たちの中で、新たにすることができる。

 私たちは対象に対して受動的な立場にいるのではない。広大さとは対象に固有の性質ではない。それを眺める私たちのなかで、同時に想像力が作用する。作用では十分ではないかもしれない。それは私たちの能動的な「働き」と言ってもよいだろう。

 この想像力によって、イマージュは拡大されてゆく。イマージュとは固定化されるものではない。イマージュとは、«le flux de production des images イマージュが生まれゆく流れ»(p.169. 邦訳p.314)、とあるようにたえざる運動なのだ。その意味で詩的想像力とは、世界を、世界の美しさを受け入れる受動性から離れ、その世界を刷新し、新たなイマージュを生んでゆく運動なのであり、これが詩作品という言語芸術の条件となる。

 この能動性は、自らのなかにも「広大さ」を意識するように私たちを誘っててやまない。«L'immensité est en nous. 広大さは私たちのなかにある»(p.169. 邦訳p.314)とバシュラールは言う。世界を刷新する動きは、私たち自身を刷新する動きである。それは主体と客体という二元論に立つことはなく、バシュラールは「私たちは世界に投げ出されているのではない」とも表現する。世界との対決ではなく、世界との交感的運動のなかに詩的存在としての我々は存在しているのだ。

 こうした詩的状況をバシュラールは«L'immensité intime(内心の広大さ)»と名づけているが、それをもっともよく体現したのがIVで扱われるボードレールである。

 バシュラールは、広大さを表す、ボードレールらしい語としてvasteを取り上げる。«vastes loisirs», «vastes silences de la campagne», «vastes perspectives»など、この語が頻用されていることを詩的した上で、バシュラールはボードレールを扱う理由を、『日記』の一節を引きながら、次のようにまとめる。

Le spectacle extérieur vient aider à déplier une grandeur intime.
 
外の光景が、内心の大きさを伸べ広げてゆくのを助けてくれる。

 この外と内が綜合されること、その綜合がvasteという単語でなされることをバシュラールは指摘する。たとえば«Correspondance»のなかの一節。

Vaste comme la nuit et comme la clarté
 
夜のように、そして明るさのように広大な

 こうしてvasteは「対立物を統一する」(«Le mot vaste réunit les contraires»)。語の詩的機能は、このような対立をイマージュとして私たちに実現可能なものとして差し出しくれる。この実現された世界が「精神的な自然 nature «morale»なのである。

(バンヴェニストは詩における言語の機能が、このような統一/反響が、連辞関係を越えて行われることを草稿12, f3/f55で書き留めている。それによればnuitというsigne iconique-イコン=イマージュとしての記号-はiconisantとしてluitと呼応し、iconiséとしては、こちらは連辞関係としてvasteと呼応すると述べている。バンヴェニストの文学論は多分にバシュラールの影響のもとで出発している印象がある。このあたり実証すべき事柄である。)

 繰り返すが、この「対立物の統一」は詩的言語によって可能となる。普通ならば矛盾するものが統一されるのは非ー言語的、すなわちロジックを越えた世界でのみ可能ということはない。そもそもボードレールの詩的言語は非ーロジックな言語ではない。通常の連辞と範列の関係ではなくとも、有機的な関係を作りうるという意味では十分ロジックな言語である。そしてこれを可能にしているのはボードレールの霊感ではなく、あくまでもméditation(長く、深い熟思)である。

La méditation baudelairienne, véritable type de méditation poétique, trouve une unité profonde et ténébreuse dans la puissance même de la synthèse par laquelle les diverses impressions des sens seront mises en correspondance.
 
ボードレールの熟思は、詩的熟思の真のタイプであり、深くて暗い統一を、さまざまな感覚の印象が交感しあう綜合のもつ力強さのなかに見いだすのだ。

 バシュラールも言うように交感は「単なる感性の事実」ではない。そこには「詩的熟思」が必要となる。バシュラールがそれによって言わんとすることは、この熟思によって可能となる「世界の広大さの内密の広大さへの変容」である。だが、バンヴェニストの残した草稿を読んだ今、これらすべてー刷新、統一、変換ーは、語と語の有機的関係化によって可能となることをさらに強調するべきであろう。

 次にバシュラールが言及するのは「運動」である。上にも述べたように詩的言語とは固定したイマージュの叙述ではない。それは(vasteという単語のもとに存在する)«un complexe d'images イマージュの複合体»である。

 さらにバシュラールはボードレールの音楽評論(ヴァーグナー、リスト)を引きながら、immensitéとintimeの関係について論証を試みる。広大さの運動は、内的な世界の深まりに呼応して進んでゆく。だからこそバシュラールは言うのだ。

La rêverie de Baudelaire ne s'est pas formée devant un univers contemplé.
 
ボードレールの夢想は、眺められた宇宙を前にして形成されたものではない。

 そのためにボードレールは、「あまりにも安易な隠喩」(de si trop simples métaphores)から離れる必要があった。それはすなわち、外部の広大さと内部の広大さの運動を生むことのない、固定されたイマージュの集積に過ぎないからだ。こうしたことばを棄てて、真に詩的な言語を求めることによって、ボードレールは、人間が深部にわたって自らの存在を意識することの可能性を私たちに、「あくまでも言語を通して」、見せてくれたのである。

 権力とディスクール。フーコーは「収監誓願承認文書」を渉猟しながら、本来ならば語られることのなかった個人の生が文書として残されることで、その言説から個人の生への権力の浸透を明らかにする。流麗な文体と巧みに選択された形容詞を用いながら、「ディスクール、権力、日常の生、そして真理の諸関係」(p.333)が、17世紀から18世紀にかけて新たな様態で結び合われたことを明らかにしてゆく。

 ここで語られる対象は、語られるに足る偉大さー「血統、財産、聖性、英雄性、あるいは才能」(p.319)ーをもった人間ではない。まったく逆で、世に埋もれて忘れ去られていった無名の人間たちである。その人間たちは憎悪、暴力、姦淫、犯罪など「恥辱塗れ」になった人間たちである。ところがそうした本来ならば歴史にのぼらず、消されてゆくばかりであった人間たちの生が、権力に一瞬触れたことで、すなわち、「告発、苦情、嘆願」(p.319)の対象として権力に訴えられたがために、光を帯びることになったのである。

 ここにはひとつの矛盾がある。まわりからのけ者にされ、権力に訴えられた人間たちは、彼らの罪状のゆえに「人間の記憶に銘記されるには値しないもの」とされる。彼らの生は卑小な生である。しかしその値しないという判定が、たとえわずかな語であっても、言明されていることによって存在してしまうのである。

 これらのディスクールの特徴とは何か。訴えられる人間たちは、暴力をふるう夫、正体不明の女星占い師、好色な極道息子など、「卑小な生」の持ち主たちである。しかしこうしたささいな生が、権力のディスクールによって、荘重な文体で、いかにも異例な事件であるかのように書き立てられ、日常的な生が「演劇性」を帯びることになる。「語られていることとその語り方の不調和」(p.331.)が特徴である。

 フーコーにとってこうした人間の醜聞はとるにたらぬ卑小さであるが、この卑小なる過ち、過誤、欲望などをめぐる罪深の言明が17世紀末に変わったのだとフーコーは指摘する。その変化とは宗教的配置から行政的配置への変化である(p.326.)。告解という、すべての罪を微細に至るまで告白し、その告白によって同時にあらゆる罪を消し去ってゆく、キリスト教的権力。この微細な日常は、行政組織において今度は文書としてすべて記載され集積されることになる。

 そのための道具である「王の命令書」。しばしば「専制君主の絶対権力のあり様を喚起する」この命令書の性質は、実は「公的なサーヴィスの結果」なのだとフーコーは言う。すなわち、王の怒りの行使ではなく、ごく日常的な諍いのために、下々の人間たちが王にわざわざ懇願して、書をしたためてくれることを願った結果なのである。この実体をフーコーは次のように言う。「あらゆる者たちが絶対権力の巨大さを、各自固有の目的において他の者たちに対して自分用に使うことが出来た」。こうして権力は《欲望》の対象となり、政治空間は家族空間にまで浸透してゆく。個人的な品行(親族や子供同士の不和、家族の軋轢、暴飲や姦淫、喧嘩)などがすべて言説化され、権力によって捉えられてゆくことになるのだ(p.329.)。

 だが王権に直接結びついたこれら日常のささいな生、ろくでなしや貧しき者たちの生という不調和は、やがて「司法、警察、医学、精神科学」といった多様な制度のなかに引き取られてゆく。それによってディスクールが持っていた演劇性は消え去ってゆくとフーコーは指摘する。

 さらにフーコーは封印状のディスクールの到来に語りの変容を見いだす。これまでにディスクールの対象となってきたものは、ありえないもの、fabuleuxなものである。「英雄性や武勲、思いがけない冒険、神意の顕現や恩寵、あるいは異例の大罪」(p.333.)といったものである。これこそが物語として、教訓や説得性を持ちながら語られてきたのだ。

 だが、17世紀西洋は次第に日常的な生を語り出す。ありそうにないものではなく、いままで「可視化できぬかされてはならないとされた来たものを可視化する」(p.334)ことが始まったのである。そしてこの《恥辱の生》こそが、文学の「内在的倫理」を構築していったのである。文学の始まりの場所、それをフーコーは「秘められた生のもっとも共通する様相を語らねばならぬという義務」であると言う。

古典主義の自然らしさと模倣→fabuleux(寓話性)/伝奇なるもの→小説/フィクション=日常的なるものについてのディスクール(隠匿された秘密の暴きだし)

 文学が語る対象はそれゆえ、「秘匿されたもの、呵責なきもの、もっとも恥ずべきもの」である。

 こうしてフーコーは言説の変容を、権力と日常の生の関係のもとに描きだし、文学という制度の発生が、まずもってその関係を照らし出すディスクールの次元に求められることを明らかにしたのである。

 ハーヴァード大学で1967年から翌年にかけて行われた詩をめぐる講義である。ボルヘス自ら言うようにこの講義の特色は、ボルヘスが膨大に蓄積された記憶の中から毎回引き出してくる「具体例」(p.84.)にある。しかも書かれたものに頼るのではなく、本当にその場で頭の中から取り出だして述べていたとのことである。
 この講義のタイトルはThe craft of Verse。craftであるが、この講義の中にcraftという単語が出てくるそれはギリシア語から訳されたラテン語のことば「芸術は長し、生は短し」の、ジェフリー・チョーサー訳である(p.89.)。

The life is so short, the craft so long to learn.

 ボルヘス自身はこのsoの挿入に着目し、翻訳が詩人の実感としてなされていることに注目しているが、詩とはまさに創られるもの、ポエーシスなのである。そしてそのポエーシスの作業が翻訳にもあてはまる。「翻訳は再=創造である」。翻訳という営為は詩人の仕事とも言えるのである(p.102.)。
 とはいえ、ボルヘスはそのポエーシスの構造を理論家として説明しているのではない。詩作品、文学とはボルヘスにとってその成立の条件を問うことのない自明なものとして現れる。
 このような態度から詩についての考えを出発させるとき、当然ながら、詩は美として、そして感動として反省なく措定される。
 詩がもたらす美と感動。それはひとつの魔術性である。その魔術とは、詩において「言語はまた音楽であり情熱であり得る」(p.144.)という点である。ボルヘスにとって詩は「美しさ」と「深い感情」をたたえている。その美しさは、ボルヘスの古英語への偏愛となって語られる。ではその美とは何であるのか。それは語と対象の一致である。「lightという単語が光り輝くように感じられ」(p.116.)た魔術性である。言葉が「記号の代数学」(p.131.)ではない以上、辞書のように単語の意味の取り替えは詩においては不可能である。
 そのような詩に用いられる言語とは「抽象的なものとしてではなく、むしろ具体的なものとして始まった」(p.114.)とされる。ボルヘスはその例として、「もの寂しい」という抽象的な意味をもつdrearyが「血まみれの」という具体的な意味を持っていたとする。そしてこの始まりにおいては、言葉が抽象・具象の対立なく、多様な意味を持っていたことをボルヘスは強調する。
 だが、そうしたボルヘスの詩への考え方は、魔術的な自然へと流されていく。具体的とは意味の起源へと立ち返ったときにあった意味であり、そこでは物と言葉が緊密に結びついている。言語は「野原から、海から、河から、夜から、明け方から生まれたもの」であるとされる。つまり言葉は物と必然的な意味関係を取り結ぶのだ。ボルヘスにおいても、詩は結局motivation(動機)の問題へと還元される。このことばの渉猟とことばを無化する美と神秘の体験の微妙なバランスをもって講義は進められる。
 こうした具体例に則った説明はときに軽やかではあるが、何が言語をして詩としうるのか、理論的根拠は薄い。とはいえ、豊富な具体例の中で、こうした理論的根拠とみなしうる例もいくつかある。
 例えばボルヘスは«A rose-red city, half as old as Time»のhalfに着目し、この単語があることによって私たちは精確さを印象づけられるという。また«I will love you forever and a day»の a dayも同様である。こうした単語のおかげで、表現は抽象さをまぬがれ人間は想像力を働かせることができるとする(p.56)。
 それは同時に、halfやa dayがこれらの文脈においてのみ意味を生成すると言えるだろう。普段は意識せず使われる日常語が、この文脈において、私たちの意識がその語そのものへと向かってゆくのだ。
 『千夜一夜物語』というタイトルも同じである。それをthouand nights and a nightと言ったとき、この1日は精確な単位として私たちに与えられる。これは「ある日」ではない。1000日という抽象・あいまいさと1日という精確さが、併置されることによって、それぞれのあいまいさと精確さが「精確」に意味づけられ、私たちの意識はこのa nightへと向けられるのである。
 さらに文単位としても、解釈がまったく違う意味で生成されることがある(p.49, 155)。

But I have promises to keep
And miles to go before I sleep
And miles to go before I sleep

 同じ詩行なのに意味は異なる。最初は物理的な意味だけである。しかし、2つ目は時間的な意味、すなわち人生の道程と死を意味する。この具体例はそっと出てくるだけであるが、見事である。こうした意味の生成こそ、詩的なるものではないだろうか。ボルヘスはこれを暗示であるという。しかしこれは詩を読む人間にとってはそれ以外の解釈は生みようがない。ボルヘスは含意を感じとるというが、この含意自体はきわめて明らかである。記号的な意味ではなく、この場で生成される意味であっても、その生成された意味は決して多義的ではなく、必然であるのだ。「意味生成の必然性」こそ、言語を詩と成り立たせるひとつの根本となる条件ではないだろうか。

 これ以外に小説についてのボルヘスの考え。
 ある単純ないくつかのプロットのみを用いていた物語的幸福が終わり、さまざまなプロットが生み出されるようになる。そのプロットもやがて収束してくると小説の時代が終わり、再び物語の時代へと戻ることになる。しかしそれは物語の幸福の時代に戻ることは意味しないのではないか。たとえ物語の時代に戻るとしても、それは悪夢としての物語しかないのではないか。

 「私とは何者か」についてのボルヘスの考え。
 人間の身体はゆるやかに成長し、成熟し、そしてゆるやかに老いが始まり、枯れ、涸欠し、衰滅する。時間を経て変化してゆくにもかかわらずアイデンティティの根拠となる。だがそうした長い道程の人生は、「自分が何者であるか」を悟った瞬間に「つづめ得る」。それは逆に「〜として生きる」ことであり、その生き方にもはや変動はない。

 ジョージ・スタイナーは本論がおさめられている『言語と沈黙』のはしがきで人間にとっての言語を次のように定義している。

言語的信号コードの決定論的性格から、分節表現不能の諸状態から、より大きな存在の部分に住みついている沈黙から、人間を切り離してくれるもの、それは言語である。(p.11.)

 まずは記号論的世界。取り決めによって意味するものと意味されるものが画定され、自動化作用によって認識される世界にことばは不要である。次に、言語によって分節のされていない混沌としたカオスの世界。そこには歴史も文化も存在しない。そして私たちの人間存在を圧倒的な力で無化するような大きな存在、たとえば神の存在に自己を融合させるような世界。これらの世界からの切り離しを可能としてくれるのが言語である。

 ここにはスタイナーの言語に対する信頼、いやむしろ賭けが表明されている。だがしかし、スタイナーを読むとき、その圧倒的な博識と西洋的知性の奥底に、しばしば沈黙の誘惑、沈黙を救いとする至福が潜んでいること、いくら拒否をしようとも、のっそりとその沈黙が姿を現すことを感じざるをえない。

 本論はカフカのユダヤ性と作品における幻想と現実の混淆の親和性、そしてそのユダヤ性から生じるカフカがかかえたユダヤ的多言語的状況の考察である。

 特にスタイナーがカフカの特質として強調してやまないのが、虚構や幻想の世界を予言として現出させる<トランス・リアリズム>の機能である。そしてそこに予言される現実とは、スタイナーがやはりはしがきで「わたしの生涯を形造ってきた理性的人間的期待、わたしがもっとも直接の関心の対象としている理性的人間的期待」を破壊してしまったナチズムとスターリニズムである。「恐怖国家」、「犠牲者と拷問者のあいだに介在する微妙で淫猥な協力関係」などを挙げながらスタイナーは、カフカを「黙示の重荷を背負って大声でよばわる旧約聖書の予言者たち」になぞらえる。
 つづいて、スタイナーはカフカ自らがそれによって苦しんでいた「書くことの不可能性」について言及し、その不可能性がもたらすであろう「沈黙」を、次の二つの事柄に結びつける。ひとつはアウシュヴィッツ。もうひとつはユダヤ精神である。
 アウシュヴィッツについてはスタイナーは次のように言う。

沈黙の誘惑、ある種の現実感が眼の前にあるときには芸術がつまらない見当ちがいのものになってしまうという信念が、見えてきたのだ。アウシュヴィッツの世界は、理性をはみでているのはもちろん、言いようもないところにある。

 人間が想像を超えた苦しみや暴虐に無力にもさらされた体験をしているのに、人間性の根拠である「言葉で語る」ことが果たして可能なのか、とスタイナーは問いかけているのだ。

 二つめのユダヤ精神については、スタイナーは「東欧ユダヤの共同体にみられる心情の結合」にカフカが憧憬を抱いていたとして、次のカフカのことばを引用する。

ぼくは、ゲットーに住んでいるそうした惨めなユダヤ人たちのもとに駆けつけて、そのひとたちの裳裾のふちに接吻し、一言も言わずにいたい。彼らが黙ったまま、ぼくが傍らにいることを我慢してくれたら、ぼくは完全に幸福だと言えるでしょう。

 こうした心性をスタイナーが「心情の結合」と言っていることに留意したい。言語を用いないときとは、こうした共同体へと自らの存在を包摂させる、他者の中に自己を溶け込ませ、共同体の中に自己存在を融解させてゆくときである。この共同体への思慕は、人間がことばを持たなかった時代、他者と理解をはかるのにことばにする苦しみなどなかった時代、すなわち、人間が幸福の状態にあった始源への、決して回帰することはできず、それゆえに一層強く私たちに降りかかる誘惑と考えてよいのではないか。

 最後に、スタイナーはカフカの置かれていた言語状況を述べる。まずはプラハにいてドイツ語をしゃべるユダヤ人というマイノリティの状況。次に「ヘブライ語を手放して、イディッシュ語を通過してヨーロッパ各地の国語を使用するにいたった」ヨーロッパのユダヤ人という歴史的状況。最後にそうした言語状況におかれた人間が創造することになる文学言語としてのドイツ語。

 スタイナーはこうしたユダヤ性という歴史と、20世紀の予言という過去と未来の交錯する場所に特異な存在としてカフカを位置づけるのである。

 さて、カフカをめぐるスタイナーの両義性―言語と沈黙―を考えるとき、無視できない問題がある。それはスタイナーは何を文学(言語)と考えているかという問題である。この観点からスタイナーを激しく非難しているのが、同じ1929年生まれの批評家ローレンス・ランガーである。ランガーはその著『ホロコーストの文学』で次のスタイナーのことばをひく。

アウシュヴィッツの世界は、理性の外側にあるように言葉の外側に横たわっている(前掲の「アウシュヴィッツの世界は、理性をはみでているのはもちろん、言いようもないところにある」と同文)

 なぜアウシュヴィッツの世界はことばにしえないのか。それはロゴスの保証であることばが表現をつくせないほど、非理性的、非人間的な出来事であったからなのか? そうではない。言語にできない=沈黙に陥ってしまうのではない。そうではなく芸術というときにスタイナーが無反省に措定している文学言語そのものの規定が問題なのである。
 まずランガーの根本的な言語は次のようである。

ホロコースト経験の「形式と意味を言語的にわからせる」ということは芸術家の言語の用法を問う挑戦であって、言語そのものを問うものではない。

 言語そのものが無力化しているのではない。そうではなくホロコースト経験を表象しうるだけの言語を芸術家たちが未だ持ち合わせていない、その無力感との葛藤が芸術家たちに課せられているのである。だから沈黙とは言語そのものの表象不可能性にあるのではなく、芸術家たちの無力さに求めなければならないのだ。たとえばそのことがランガーの次の非難口調の言い回しにはっきりと見て取れる。

時間と視点の不充分さ、生存者のなかの野心的な作家の若さと文学的経験不足こそ、生き残ったことの傷痕がはぐくむ口の重さとともに、残虐の芸術の漸進的成長を困難にしている真の原因なのである。

 このランガーの言葉は犠牲者へむけられたことばとしてはきわめて手厳しい。だが表現者へとむけられたことばとしてならば、そこに一縷の希望が、つまり「新しい現実の知覚―そして理解―への基礎」が、現実を再構成するほどの芸術の想像的喚起力が見えては来ないだろうか。ここからランガーはスタイナーが古典文学や十九世紀文学を文学の概念とすることで、文学がホロコーストを表象不能としていることを批判するのである。

彼(=スタイナー)が言っていることは、類推的にいえば、心臓切開手術が前世紀の時代遅れの器具を使ってなされること(限られた目的のためにはまだ効果的だが)を期待することはできないということにすぎないのではないだろうか? たしかに十九世紀文学の慣習や修辞法は、一生存者であるダヴィド・ルーセが見事に「強制収容所的世界」と名づけた一現実の肉体的・倫理的・あるいは心理的混沌を描出し喚起するには不充分である。

 ここで文学とは常に芸術作品なのかと問わざるをえない。わたしたちの時代が、その時代を表象する言語を必要とし、それは新たに文学=芸術によってもたらされるものだとするならば、芸術はこの世界の認識と強いつながりをもつ。「現実を明確にし、現実を浮き彫りにするような」言語表現を求め、その表現に出会ったときに、私たちはこの世界の真実を能動的に探求するようになり、やがては認識から行動へと、世界と私のあり方を変容させていく。その意味で芸術作品はアクチュアルなのではなく、アクチュアルなものこそ(私たちを同時代性に目覚めさせるもの)芸術であると呼びうるのである。

 このとき十九世紀的作品は決して死ぬわけではない。それは慣習や修辞法の辞書として倉庫に保存はされる。しかしそれはあくまでも文献学的対象=分析(=手術対象)の対象であって、芸術としての機能は喪失している。保存の対象として文化の水準を示すものではあるだろう。しかしそれは古典的な水準であって、決して芸術としての文学の水準を示すものではない。こうして文学は歴史の中で芸術としての役割を終えて、文献学的な対象へと変質していくのである。

 ランガーの考えを延長させるならば次のように言えるのではないか。スタイナーの中には普遍的な文学像が消し去り難く残ってしまっている。だからホロコースト体験者は苦悩の沈黙に覆われ、ホロコースト自体は歴史の終局のように黙示=予言されたものとしてしか表象しえず、それがカフカに託されたのだと。

 だがランガーはそのような予言的言語は認めない。ランガーはきっぱりと言う。「カフカの世界には非人間化されて絶滅されるという具体的脅威は欠けていたのである」。すなわち、ホロコーストについて未だそれを表現することばは現れていない。それをを表しうることばはこれまでの文学には見いだすことができない。

 それは体験者たちが今現在試みようとしている賭けなのだ。だからこそランガーは『ホロコーストの文学』を書き、その中でホロコーストの文学者たちの提示する文体と形式を洞察しているのである。ここには決して沈黙へと陥る至福はない。あるのは言語化の苦悩とその苦悩からかいま見られるかすかな希望なのだ。そしてその希望とは私たち読者にかろうじて呼びかけられる喚起力をともなった想像力のことである。

 沈黙はひとつになる結合力を持つ。それは体験者に寄り添う場合にきわめて重要なそして繊細な営為である。しかし表現者は体験者と異なる位相に立たなくてはならない。真に共にあるためには(つながるのではなく共にあるためには)、表現者はアクチュアリティをたたえた表現を刻まなくてはならないのだ。そしてさらに体験者と表現者の間に横たる乖離をそのことばでもって少しずつ埋めてゆかなくてはならないのだ。

 バンヴェニストは自明とされている「言語はコミュニケーションの道具」という前提から出発する。道具とは何か。それは自己の目的に奉仕してくれるものであろう。その視点に立てば、バンヴェニストが素描するコミュニケーションの道具としてのあり方は、ここで展開しようとする主体概念と根本から対立すると考えられる。

 言語は、命令、質問、知らせといった、私が言語にゆだねるものを伝えようとし、相手にそのつど適したふるまいを起こさせる。

 バンヴェニストはこのようにコミュニケーションの道具としての言語の役割を説明し、行動主義的観点からすればそれは「刺激と反応」のプロセスであるとする。つまり発話者は刺激を与え、聞いている相手はそれに反応するということである。
 このモデルがバンヴェニストの主体性の概念にどのような意味で相反するのか。言語を道具とみなすことは、言語を発話者の意図の実現をみなすことである。そして聞いている相手という他者は、その自己の意図遂行の対象という扱い方をされる。この場合あくまでも主体にとっての他者は、言語が道具化されるのと同時に、目的遂行のための道具に過ぎなくなるのだ。
 「刺激と反応」という生理的なモデルが示すように、ここには人間性の契機はない。バンヴェニストがそのすぐ後に述べる「ディスクールは当然ながら対話者間のものである」ならば、実はバンヴェニストは「ディスクールとことばを取り違えているのでは」と書いているが、たとえ言語使用の状況のプロセスを問題にしているとはいえ、上述のモデルは言語のディスクールとしての機能とは対極的に位置するものである。
 続いてバンヴェニストは「コミュニケーションの道具」には、非言語的なものもあるし、またこの考えによって言語と、言語よりもあとにできたもの(たとえば信号の体系)との混同が起きていると指摘する。
 その上でバンヴェニストは言語道具観を否定する。道具とは人間が制作するものであるが、言語はそうではない。言語は「人間の本質(自然)の中にあって、人間が制作したものではない」。ここでバンヴェニストは言語起源論、すなわちどうやって人間は言語を話し始めたのか=言語を作ったのかという問題の設定自体を否定する。バンヴェニストは人間とは「話している人間」であり、人間と言語を切り離すことはできないとする。
 おそらく言語の起源はたとえば人間という生き物の発声器官の進歩といった生物的な観点から考えるならば、問いとして成立しうるであろう。しかしバンヴェニストにとって人間の主体という問題を導入したとき、言語に対する人間存在の先行性という考えは成り立たない。
 バンヴェニストは日常の中でやり取りされるのはparoleであるとし、その上でparoleがことばのやり取りという役割をもつにはlangageによって保証されなくてはならず、それは「paroleはlangageの現働化にすぎない」からだと言う。この発話の状況、現働化という状況に注意を払いながら、バンヴェニストは次のように言う。

 人間が主体として構成されるのはlangageのなかで、そしてlangageによってである。なぜならば、langageだけが、現実において、存在の現実でもあるlangageの現実において、「自我」の概念を打ち立てるからだ。

 人間が主体として確立するのは、言語によってであり、どちらかがどちらかに先行するものではない。私たちはlangageに「よって」この現実世界へと現れる。その世界とはlangageの「なか」の世界である。langageによって自らを主体として位置づけるーこの能力をバンヴェニストは「主体性」と定義し、その主体性の根拠を「人称」(personne)に置く。
 現働化ということばは使われていないが、jeとtuの共起も現働化と言うことができるのではないか。バンヴェニストは「自我の意識は、対比によってそれが体験されてはじめて可能となる」(みすず訳)という。対比とは相互性によって可能になるということであるが、この訳に使われている「はじめて」に着目したい。はじめて体験されるいうことは、それ以前は未然な状態であるということだ。jeとtuはそれぞれもう一方がなければその存在は考えられない(ne se conçoit pas)。私たちは<非ー存在>であると言ってもよい。
 主体性とはしたがってindividuelなものではない。私たちは共起することによって、現働化によって生の世界を現出する。その根本にあるのはjeを用いて「話す人間」であり、それはtuなしでは構想されえない。
 だから自己と他者、個人と社会という二項対立はない。バンヴェニストはそれらは相互関係にあり、この相互関係に、主体性の言語的根拠を置いている。
 次にバンヴェニストは代名詞の特殊性を述べる。たとえば「木」であるならば、あらゆる個別の木をひとつにまとめうるような木の概念(concept)が存在する。しかし「私」にはすべての「私」をひとつにまとめうる概念は存在しない。「私」は語彙的実体(entité lexicale)ではない。この「語彙的実体ではない」という言い方に着目したい。語彙的実体とは、辞書におさめられた意味のごとく、いわばどこかに死蔵された非ー存在である。「私」はそのような語彙的な実体ではない。では何か?

(...) je se réfère à l'acte de discours individuel où il est prononcé, et il en désigne le locuteur. C'est un terme qui ne peut être identifié que dans ce que nous avons appelé une instance de discours, et qui n'a de référence qu'actuelle.
 
「私」は、それが言表せられる各個人のディスクールの行為を指向し、あわせてその話し手を指し示すのである。これは我々が「ディスクールの現存」(今ここに立ち現れる)と名づけたところの、つまりは臨場的指向(話している今現在を指向する)しかもたないもののなかでしか同定されえない語詞なのだ。

 このinstance、日本語で現存と訳された単語、そしてactuelle、今現在という単語、この二語によって、jeとは現働化された場において初めて存在するとされていることがわかる。その場とは、一人の話す人間が、他者とともに現れる場であり、ことばが生まれている場である。だから「主体性の根拠は言語の行使の中にある」(le fondement de la subjectivité est dans l'exercice de la langue)。
 これに続いてバンヴェニストは、<これ>、<ここ>、<今>のようなデイクシス(deixis)がディスクールの現存との関係のおいてのみ定義されること、さらに時間性の表現が現在と関係づけられていることを指摘する。そしてこの現在とは、「話している現在」である。これは話すことによって現在も話者も現働化されるという意味である。反対に言語(langue)が現働化されない以上は、すなわち「話し手がディスクールの行使」をしない以上は、langageは「虚の形式」を提出するだけである。そこには存在も生もない。前述した死蔵されたことばしかないのだ。
 しかしこの論文は、行為遂行の動詞の説明へと移ってしまう。それはたとえばje jure「私は誓う」という言表行為は、私が遂行している行為の描写ではなく、私を拘束する行為そのものであるという言い方が示すように、バンヴェニストは言表行為そのものの現在性を訴えようとしたのであろう。Je promets「私は約束する」、je garantis「私は請け負う」などの動詞を挙げながら、バンヴェニストは「言表行為は行為そのものと一体をなしているのである」という。je jureは誓約行為であるが、il jureは描写に過ぎない。これが主体性がディスクールの現存であることから生ずる結果である。
 しかしこの行為遂行の例を出すことで、バンヴェニストの論は最初に述べられていた「刺激と反応」のプロセスに戻ってしまっている。ディスクールの現存にとらわれるあまり、論文の最後に「間主体性」intersubjectivitéがとってつけたように現れるが、主体のモデルが、主体の意図遂行へと還元されてしまっている。「間主体性」が示すように、言表行為と行為そのものといったとき、むしろその「行為そのもの」によって生起する相手、社会、言語、もっと言えば世界の出現こそを強調すべきであったのではないだろうか。
 それは、現働化ということを存在の次元まで広げて考えることはできないだろうかとう関心からである。私たちはただそのまま存在していてもそれはただ「モノ」として存在しているだけである。そこに生が生まれるためには現働化という「働きかけ」が必要とされる。それがなされるまでは私たちは無に等しい。だから言語の起源を問うことも人間による現働化がない以上、それは存在しないに等しい。
 「私」、「あなた」、そしてそこに生まれている社会、その関係において現働化されるディスクールとしての言語、これらが同時に生の様相を帯びて、はじめて存在の明るみへと姿を表す。バンヴェニストがいう「言語とは生である」とはここまで広げることができるのではないか。

大江健三郎『小説の方法』(1978)

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 大江健三郎には、多くの優れた文学評論がある。たとえば岩波新書赤版の第1号として出された『新しい文学のために』は、新書サイズでまとめられてはいるが、大江健三郎の小説作法(さくほう=作品を創造する方法)とからめながら、文学理論を実践的に解説した良書である。

 『小説の方法』は1978年の刊行。こちらも岩波現代選書の1冊目である。文学理論を本格的に扱ったほぼ最初の作品ではないだろうか。とはいえ、この作品は文学理論の研究書ではない。理論の妥当性を検証するのではなく、来るべき作品を創造するために、いかなる論理が小説の創作に必要なのか、それを作家的な確信から客観的に展開している作品である。

 最初に、そして最も重要な文学理論として扱われているのがシクロフスキーの「異化の理論」である。その作用とは「日常・実用の言葉が『異化』されることによって、文学表現の言葉となる」(p.2.)というものである。私たちの普段の生活とは、自動化・反射化された世界である。私たちは目の前のものを知覚はしても、それをいちいち意識化したりはしない。目の前にさまざまな「もの」が映っても、それはすぐに視界から逃げてゆき、私たちの意識の中に痕跡を残すことはない。これが自動化の作用と考えてよいであろう。

 芸術の目的とは、大江の引くシクロフスキーの定義によれば、「認知、すなわちそれと認め知ることとしてではなく、明視することとしてものを感じさせること」である。すなわち私たちの既存の知識をいかに動員して目の前のものをそれと認識したとしてもそれは芸術の領域には属しない。そうではなく目の前のものをものとして眺めること、そしてものを自動化の状態からひきだすのが異化の手法であるとすれば、そのものがいったい何であるのか、私たちをそのものの前で立ち止まらせるのが芸術の作用と言えるだろう。大江はこの態度を小林秀雄の本居宣長の言語観に引き寄せる。意識とものが出会い、そのものをつくづくと眺める体験である。

 大江健三郎は、普通ならば「論理の飛躍」があると言われそうだが、作家としての確信、すなわちそれがなければ文学の意味がなくなるという確信をこめて「異化」からの飛躍をはかる。それが「小説は人間をその全体にわたって活性化させるための、言葉による仕掛けである」(p.9.)という一文である。

 「何が言語表現を芸術作品たらしめるのか」という問いに対して、言語理論の適用可能性を作品の内部だけで検証するだけでは、私たちはその問いに答えられない。作品の世界を通過して、私たちはこの現実世界へと、しかも「明視の対象」としてこの現実世界を体験しないかぎりは(さらにその現実世界を活性化、あるいは刷新と読みかえたい)、この問いには答えられないだろう。だからこそ大江は、「異化」という文学理論を一気に飛び越えて、「人間の活性化」へと向かおうとするのだ。

 もうひとつ大江が用いる理論用語が「構造」である。これはいわゆる人間の意識下に潜む、整然とした構築物の体系という意味合いではない。そうではなく、「構造を持っている」とは、意味を伝えるだけの記号化された言葉ではなく、ある「構造」において「それらの言葉、文章が独自の意味づけをあたえられ、特徴づけられて、そこにそれ固有の伝達をおこなう」(p.14.)という特殊性を持っているということだろう。これは、引用されているケネス・バークの引用から考えるならば、ある状況下において、書き手のその状況に対する態度を表現するために、なんらかの独自の「名前を与える」という意味で、ひとつの意味生成をするための独自構造と考えて差し支えないだろう(バークの引用文における状況とは、発話状況を指しているに等しい。その状況の中で、表現はが独自の「ものとしての手応え」を発揮するとき、それは「詩的」となる)。

 そしてここでも大江は、状況を、文学世界に内閉した状況ではなく、広く私たち人間の歴史、同時代性を含みこんだものであるとし、文学表現の言葉をその状況に対する反響であるとする。表現の「構造的ななりたちを方法的に考え」、状況や同時代を把握すること、それによって個を解放し、全体性を獲得することに大江は文学の根拠を置く。

 「異化」理論は最終章「方法としての小説」で再び取り上げられる。この章で大江は、他人の言葉と個としての自分の言葉を対立させる。私たちそれぞれの個の言葉が、決して一人きりの言葉ではなく、常に他者と対峙し、他者との交渉の上で、紡がれていくとするならば、この大江の表現には違和感を覚える。しかしここで大江が言いたいことは、出自が不明となり、記号化された、単なるムードとして世間をただよう実態のない、しかしそれだからこそ私たちの意識を飲み込んでしまう言葉ということであろう。大江はそれをコンピュータとマス・コミュニケーションによって「大規模に組織化」(p.223.)された言葉であるとする(この比喩の妥当性については、この30年前に書かれたテキストであることに留意をすべきであろう)。

 大江はこの個の言葉と他者の言葉を定義したあと、「異化」の方法論を再び取り上げ、「異化」は「他人の言葉の総体から、個としての自分の言葉を、奪い返す行為である」(p.224.)と述べる。この意味が重要なのは、そのすぐあとで大江が、この行為を「本当に生きる経験を取り戻す芸術の役割」と述べている点だ。「異化」という文学理論を通して、「生きる経験」へと飛躍すること、これがここまで述べてきた大江の小説家としての確信である。

 私たちは規格化された生活を送るなかで、他人の言葉によって支配され、「自動化作用」を強制されているとする大江は、同時代におけるもっとも切実な例として原子力発電をめぐるキャンペーンを挙げる。原子力発電について私たちが何を知っているか。これまで私たちはほとんど何も知らされずに、あるいは知ることなしに生活の「自動化作用」にまかせて電気を使ってきた。それは「安全性」や「資源枯渇」という支配構造からの他人の言葉を、「自動的」に受け入れ、意識上にのぼらせてこなかったことを意味する。私たちが自らの生死という根において考えることを奪い、さらに現代世界の全体性というヴィジョンを抱くことを奪う他人の言葉。大江はこの自動化から自らを切り離す根拠として、放射性廃棄物および温排水を「もの」として手応えのある自分の経験とすることを主張する(p.227.)。

 私たちは、原子力発電に携わる専門性と官僚機構性に対しては外部者にとどまる。だが私たち自らの生死に関わるという局面において、私たちは他人の言葉によって自己放棄するのではなく、あくまで自己固有の経験とすべきであると大江は主張する。

 ここで大江がさらに問題視することは、「職業としての表現者」の言葉までもが、他人の言葉にすり替わることである。次段落に述べるように大江自身は小説家としての個の言葉について考えを展開させていくが、私たちにとって「職業としての表現者」としてどのようなことばを発するかは、もっと広い意味を持つだろう。高度に専門化された原子力発電についての表現に対して、「職業として関わる」科学技術者たちの言葉は、どこまで私たちに、それを聞いた上で、私たちなりの「個の言葉」を(ここでは自らの振る舞いを決定することばとして)生み出すように促す言葉として響いてくるのか。そこには「科学の言葉」の客観性と倫理性(どのような裏付けを持って自分の主張をし、その主張に沿って、どのような振る舞いを他者に呼びかけるべきかの判断)が当然求められるし、私たち自身がそれを個の言葉とするには、能動的に彼らの言葉を受け止め、できる限り検証しようと努め、その上で自分がどう振る舞うのか、その態度決定を迫られるだろう。それこそが自己固有の経験とするということだろう。逆にそれほどの努力をしなければ、個の言葉にはならないほどの時代へと私たちは入ってしまったのだ。

 大江自身は、小説家として、個の言葉を生き延びさせる小説の方法を模索する。そのためにヤウスの「期待の地平」の概念を導入する。期待の地平とは、受容者が、今までの経験や歴史的所産、伝統によって、作品の展開において「こうであろう」という予測によってテキストを読むときの、その一歩先に存在するものである。しかし、私たちが芸術作品と呼べるものに出会うときは、それを受け入れ、解釈する過程において「馴れ親しんでいる経験の否定」や「初めて明白になった経験が意識化されて地平の変化」がひきおこされるのである。

 そして大江がヤウスの本質として重要視するのが、「文学の期待の地平が歴史的な生の実践よりすぐれているのは、それが実際の経験を保存するばかりか、実現されなかった可能性を予見し、社会的行動の限定された活動範囲を、新たな願望、要求、目標に向かって押し拡げ、それによって未来の経験の道を開く」という一節だ。さらに大江は、文学のことばが「かたち」であることを再び喚起し、この「かたち」があることが、文学においては、書き手の個を超えて、集団的な想像力にも結びつくような表現を獲得すると言う。

 「実現されなかった可能性」だけではなく、「未来の経験」のモデルをも提出すること。これこそが事実に不足している世界であり、この未来の体験像を描くことのできる小説は、私たちに個の言葉を、すなわち、「この時代に生き死に」(p.235.)するなかで、この世界を活性化するためのことばを与えてくれるはずである。このとき私たちは、文学を虚構ではなく、自動化作用から離れた目でこの世界を批判的にとらえ、自らの言葉でもって表現し、そしてやがては世界を刷新=変革することへと、言葉から行為へと歩み始めるはずである。そのための想像力、事実を超えて、「生き死に」を根に据えて考えるためのことばを生み出す構造を持っているもの、これこそが文学なのだ。

 大江が引用するバシュラールのことば。「いまでも人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。ところが想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、それはわけても基本的イメージからわれわれを解放し、イメージを変える能力なのだ」(p.82.)。

 この論文が発表されたのは1939年、バンヴェニストが37歳のときである。わずか6ページ半の小論だが、ソシュール思想の根幹をなす恣意性の問題を正面切って取り上げ、以後大きな論争を巻き起こした(加賀野井秀一『ソシュール』pp.91-111.)。

 ソシュールが一般言語学として探究したことは「記号の体系」の構築であり、それはとりもなおさず、シニフィアンとシニフィエとの絆とは「音声形象」と「概念」の絆のことであって、「ことば」と「もの」との関係ではないということであった。シニフィアンとシニフィエとの絆は、あくまでもラング内部のものであり、ラング内部の事実である(加賀野井, p.106.)。この外部の事物(言語外的世界)を捨象し、記号の体系として独立した構造を提起したことで一般言語学の輪郭がはっきりとする。

 メショニックは、signe「記号」とsymbole「象徴」を比較し、前者は「事物の不在」であり、象徴は言語と事物との聖なる合一であるとして、事物と関わりに記号と象徴の対立点を求める。(Henri Meschonnic, «Le signe-absence dans le discours du mythe», in. Le signe et le poème)。メショニックはバンヴェニストを引用しながら(「外の現実が『座標軸』である」)、言語学者がこの座標軸を外の現実に求めなかったことで、学を形成してきたとする。

 バンヴェニストが取り上げるのも、本来ならば記号の体系の中から事物を放擲したはずであるにもかかわらず、ソシュールが不用意にも、事物と名づけの問題に記号の問題を還元してしまっているという点である([ブフ]というシニフィアンをもつシニフィエ「牛」は、国境を越えると[オクス]をもつ)。バンヴェニストはそこからそもそも記号の恣意性が言えるのは、記号と現実の関係のみであるとする。つまり、外的現実をどのように名づけるかという問題においてのみ恣意性が成り立ちうると問題を集約させる。バンヴェニストにとっては、「恣意性は(...)記号の構成そのものの中には入り込んでこない」(p.53.)のであり、また、ソシュールの不用意さは、プラトン以来続けられてきた「自然か人為か」という問題から抜け出せていないと映るのだろう。バンヴェニストは、言語学者は「当面」この問題に関わらないほうがよいと言う。

 バンヴェニストは記号の体系の根拠をもう一度、「シニフィアンとは音響心像、シニフィエとは概念である」と確認したあとで、その両者の関係は「必然的nécessaireである」と説く(p.51.)。シニフィアンとシニフィエは、「同じ観念の2つの面」であり、またまさにソシュールが紙の裏表で例えたように、言語記号は「ひとつにまとまって構成されていること」を強調する。

 バンヴェニストは、このソシュールが提出した原理から派生する2つの問題に言及する。1つは記号の不可変性と可変性の問題である。バンヴェニストは、これは記号の、すなわちシニフィアンとシニフィエの関係における問題ではなく(なぜなら、記号においてはシニフィアンとシニフィエは話者にとって常に同時に立ち現れてしまうから)、記号と事物の関係における問題であるとする。つまりは名づけ、意味作用の問題である。
 2つめに挙げるのは「価値」の問題である。ここでもバンヴェニストは重ねて、ある分たれた音とある概念の選択は恣意的ではないと強調する。ソシュールの「価値の観念は、外部から課された要素を含んでしまう」ということばを取り上げ、ソシュールの推論が「座標軸」として「客観的現実」を選択していると指摘する。

 バンヴェニストは、「言語に内在する偶発的な部分とは、現実の音的象徴としての名づけに関わる部分であるが、記号とは共存するシニフィエとシニフィエを内包する言語体系の根源的要素である」と結論づける。

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 この議論で問題になるのは、本質的には恣意性か必然性かどちらかを選択することではない。むしろこの対立軸を示すことで、恣意性を切り捨て、それによってバンヴェニストは、言語の問題から対象世界を完璧に放擲することを考えたのだ。何のためか。それは一般言語学の対象を画定するためである。

 ただし、それによって現れる記号の体系は、必然性の=反省のともなわない、取り決められていることによって主体が介在しない静態的なものとなるだろう。この問題への解決がsémantique、およびそこに現れる主体に言語の動態化だったのではないか。

 だが、ここで文学言語へと問題をずらすならば、当然ながら対象世界と言語の問題を扱わざるをえない。しかも文学においては、その対象世界とは、私たちが生きるという意味での生活世界と、作品が構築するフィクショナルな世界(作り事、うそという意味ではなく、作品内部に構築される世界)の相互性を考察せざるをえない。これも当然のことだが意味と対象世界の関係には真偽の関係がついてまわるが、文学世界は真偽の関係では解きえないからだ。だから、この整然とした記号の体系を越えて、言語と関わる必要がある。

 バンヴェニストはsémanitiqueによって主体と意味生成を、言語の領域にとどまりながらすくいあげることを考えた。意味を生み出すことは、おそらくすぐれた文学作品の条件のひとつであろう。ならば、現実世界に関わりつつも、意味を生み出し、しかしあくまでも言語によって構成される世界を内包する文学作品(しかもときにその世界は、現実世界を穿ち、更新させうる力を持つ)の言語的特質をどう引き出せばよいのか。問いの照準をここにあわせなくてはならない。

 文学を多義性や自立性ではない形で画定することを考えている。多義性とは文学の中に一つの心理ではなく、多様であるがゆえの意味の豊かさを見い出す考え方である。しかしそこにはややもすると文学言語の特殊性、日常の言語とは異なる言語使用の独自性という傾向が見える。さらに自立性は、日常の世界から乖離した文学独自の世界を想像させる。日常では決して体験することのないようなフィクションの愉しみを求めることは、やはり文学独自の世界が、<今・ここ>ではないところに設定される傾向が見える。

 日常言語と詩的言語。現実世界と空想世界。確かにそこに位相の違いがあるとしても、それを相反するものとして文学理論を考えることは、ややもすると日常は貧しく、文学は豊かであるとする、倒立した考えを招くのではないだろうか。私たちがこの世界に生き、この世界を眺め、この世界にいだかれ、この世界で死ぬ以上、この世界を貧しいというならば、そこから生まれてくる文学も実は貧しいものに過ぎないのではないか。文学は世界へのまなざしを曇らせるものではなく、むしろ私たちが、普段は気づくことなく通り過ぎている、世界の現実をしっかりと見据えるように迫る表現形式なのではないか。

 言語について理論的に問うことは、文学言語の特殊性、独自性を画定するためではない。そうではなくヤコブソンが問うた「何が言語表現を芸術作品とするのか?」を考えるためである。この問いの主題にあるのはあくまで「言語表現」である。私たちが日常の中でたえず行っている言語による表現活動そのものを指している。その表現活動の中から、「文学言語が立ち上ってくるとするならば、そのきっかけ、そのメカニスムは何か」、「何が文学言語と呼ばしめるのか」とヤコブソンは問うている。その意味で日常の言語活動と文学における言語活動は対立するものではない。

 そうであるからこそ、同時に文学における言語活動は、この私たちの生活世界と決して切り離されたものではない。文学における言語活動は、その独自の世界を作るためではなく、もしそこに芸術が認められるならば、この世界と深く関わりながら、この世界を「刷新する」ものとして立ち上ってくると考える。だから表象の世界を作るのではなく、この世界の表象の仕方を刷新させるのである。

 文学を考えることは、私たちを日常から遠ざけるのためではなく、むしろこの世界をありのままに受け取ることなく(そのまま世界を受け入れて惰性で生きるのではなく)、私たちに日常を批判的なまなざしで見つめられるような言語意識をもつよう鍛錬をせまるのである。批判的とは何かが目の前に出されたときに、それはいったい何であるのか、と立ち止まって問いを投げかけることである。

 このような問題意識からバンヴェニストを読むことができると考えるのは、バンヴェニストが、sémiotiqueとsémantiqueを区別し、後者に、言語と世界のつながりとして、«référent»の存在をその特徴として認めているからである。またバンヴェニストは、詩的言語には独自の法則と機能があり、日常言語とは別途に考えなくてはならないと言いながらも、「日常言語の研究は、詩的言語の理解に寄与するはずである」と、たとえ示唆にとどまるとはいえ、言明しているからである(p.217.)。

 論文(もとは講演であるが)のタイトルは「言語における形式と意味」であるが、比重は意味に置かれている。それはとりもなおさずブルームフィールド学派が意味の問題を「心理主義」として言語研究から排除しているからであり、論理学者(カルナップ、クーン)たちが、厳密さを志向するがゆえに、やはり心理主義に陥らないよう、signification(「意味生成作用」と訳しておく)に代えて、acceptabilité(許容性)を分析に用いているからである。

 しかしバンヴェニストにとっては、«le langage signifie»「言語は意味する」こそが、根本的な命題である。「意味する」からこそ、私たちは「語り、考え、行為する」。「言語は伝えるのに役立つより先に、生きるのに役立つ」のだ。では言語が意味するとはどういうことなのか。その問いへの答えとしてバンヴェニストはsémiotiqueとsémantiqueを区別する。

 まずバンヴェニストはソシュールのいう「言語(la langue)は記号(le signe)の体系である」という定義から出発し、«le signe est l'unité sémiotique»「記号は記号論の単位である」とする。単位とは限られた数からなる基礎要素であり、意味(signification)の下限であり、この単位の下では意味は生成されえない。さらにバンヴェニストはsigneを構成するsignifiantとsignifiéについて、signifiant(ここでは音声形式)は、structure formelle「形式的構造」を持っていることにより成立するとされ、signifiéについては記号が意味しうるかどうかによって成立するとされる。つまり音声形式の上であっても、意味の上であっても、記号は、外界の事物の世界とは関係なく成立するのである。また記号は普遍的、概念的に成立しているのであって、個人的、特殊的なものは排除される(p.223)。

 こうしてsigneとsémiotiqueの関係を整理したあと、バンヴェニストは文(phrase)の問題に移る。phraseとsémantiqueを結びつけ、言語についての二つの領域を区別し、一方をmodalité de signifier、他方をmodalité de communiquerとした。communiquerは「伝達する」という意味ではなく、「人間と人間、人間と世界、精神と事物を仲介する機能」と定義される。すなわち現実世界で何かと何かの間に関係を生じさせるという意味である。後者は前者を実際に「用い」、それによって「行為」する(p.224.つまりsigneは辞書的な、書物の中に眠っている、だれの目にも触れない、整然と並んでいる単位であり、phraseは、それを用いて、何らかの行動を起こす。だがそのとき辞書的意味を足しても、phraseで伝える内容とは一致しない。正しい外国語を話していても、相手に何らかの違和感を与えるのと似ているかもしれない)。

 だからsémantiqueにおいてはディスクール、すなわち思考の現実化としての言語が問題となる。ここでバンヴェニストの言っていることは、発話状況における言語活動を問題にしているという意味で、「ここー今」(p.226.)が問題となり、語用論的な立場を想起させる。現実化とは、潜在的な意味にとどまっている言語を、発話者が具体的な状況のなかで、現実化して用いると解せるだろう。だからバンヴェニストは「文に意味はその文を構成する複数の語の意味とは別である」(p.226.)と言う。語は文の統辞構造上で用いられて現実化する意味だが、文はイデー「概念」を表す。ただし、バンヴェニストを語用論で語ることはできないだろう。ひとつの根拠は、バンヴェニストの主眼が、言語の性質を考えるとき言語の内部/外部の画定に置かれている点である。「記号とは言語の内在的現実であり」、記号の意味はその記号に内在している。それに対して「文は言語外の事物に結びつけられ」、「ディスクールの状況」、「発話者の態度に依拠している」とバンヴェニストは説く。

 そこでバンヴェニストは«référent»を用語として導入する。«référent»は、意味からは独立し、「具体的な状況、用法において、語との対応が生まれる個別対象である」と定義される。こうしてバンヴェニストは記号の世界と、référent(言語によって参照されうる現実世界の事物)の世界を切り離す。逆にいえば、sémantiqueの世界は常にこの世界ー発話者が住み、発話者が働きかける世界とつながりを持っているということだ。これをバンヴェニストは「ディスクールの状況」と呼ぶ。それは「一回限りの出来事」である。

 このsémiotiqueとsémantiqueという言語の2つの性質があることで、私たちは同じイデーを表すのに様々な表現を使う自由を持つ一方で、語の結合の法則に拘束されることになる(p.227.)。ディスクールにおいて、概念的、一般的「記号」が、個別的、状況的「語」に転化される。またこの働きがあることで、言語間の翻訳が成り立つとされる。つまり記号体系はあるlangueに独自なものであり、それをそのまま他のlangueにうつしかえることはできない。しかしイデーを現実化させるsémantiqueにおいては、「だいたい同じ」ことが言えるのだ。

 私たちが有限の語(記号)から、無限の文を生み出すことができる理由がこの2つの性質に求められるのである。

 メショニックの本論文は、バンヴェニストが考察したsémiotiqueとsémantiqueに関連して、言語の本質をどのように規定すべきかを再検討したものである。メショニックが問題にするのは、バンヴェニストが言語の特質の画定を考えるあまり、言語と芸術作品とが峻別されるものとして提案されている点である。

 バンヴェニストは言語とはsémiotiqueとsémantiqueの二重の体系(système)をもつものであるとし、芸術はsémantique sans sémiotiqueが本質であるとして、その芸術作品解釈の無限性を強調する。

 それに対してメショニックは、sémiotiqueとsémantiqueの区別が実際には難しいこと(それは何よりもバンヴェニスト自身がdiscoursという概念を導入し、意味生成のダイナミズムに言及していることに伺える)、また言語をlangueではなく、langageととらえるとき、その意味生成のメカニズムは、実は芸術作品だけではなく、ポエティックとしてのlangageにも十分に認められることを述べ、バンヴェニストの理論の展開をはかる。この言語と芸術作品の垣根を越えるところにメショニックの本論文における主眼がある。

 メショニックがバンヴェニストの新しさとして指摘する要素のひとつがunitéとsigneの違いである。作品はその全体でひとつの「統一体」を形成するが、この「統一体」は記号ではないし、記号で構成されているわけではない。もしそうならばバンヴェニストもいうように、記号の累算が作品ということになってしまうだろう。だからメショニックも「語が作品を作り上げるのではなく、作品こそが語に付与されるものを作りだすのだ」(p.395.)と指摘する。

 だがメショニックはsémiotiqueそのものの定義を、閉じられた有限の記号体系ではなく、「他の記号へ、他のディスクールへと一般化可能な、そして一般化されうる記号体系」であるとする。そしてこの意味生成のメカニズムにディスクールが深く関与する。ただし、メショニックの提示するディスクールとは、複数の人間(社会)の間で了解される、その場に生起してくる意味というものではない。

 メショニックにとっては、その意味生成のメカニズムには、ポエティック、そしてリズムが関わってくる。そのために、メショニックは続いて、バンヴェニストが例示したsémiotique sans sémantiqueの例(礼儀にまつわる所作振る舞い、仏教における手の位置)を批判する。メショニックは実際にはsémiotique sans sémantiqueの事例は、「純粋にステレオタイプ化された信号」(p.401.)に限定されると述べる。

 そしてメショニックはsémantique sans sémiotiqueとしての「作品」の性質を、バンヴェニストの言う、1)芸術家がみずからのsémiotiqueを作ること、2)このsémiotiqueとsémantiqueの関係は作品そのものに内在していること、3)作品における意味の生成は、決して、両者の間で共通に受け取られている取り決めへとは参照されない(Benveniste, p.59, Meschonnic, p.404.)としてまとめる。 

 (付記:この3)の定義によって、宗教表象は作品から除外される。そこには、宗教的な取り決めがあり、その解読のみが機能として取り上げられるからだ)。

 そしてこの「作品」の性質は、メショニックにとっては、芸術と文学だけではなく、langageの理論そのもの(signeの批判として)となる。

 このような観点に立って、メショニックはバンヴェニストの理論の問題点を取り上げる。

 一つ目は言語は、解釈の体系であり、言語はそのためparler de「何かについて話す」という機能をもつとしている点である。それについてのメショニックの論証をまとめるならば以下のように考えられる。

 「何か」についての「何か」とは、作品の外部にあるものとの関係を措定する。これは記号の機能であり、作品はむしろdire「何かを言う」ものである。何かを言っている以上、その何かというsémantiqueなもの=意味の生成こそが、解釈の対象となるのではないか。

 二つ目はバンヴェニストが「langueは、ある共同体のすべての構成員のもとで、レフェランスの価値が同じままで、生産され、受け取られる」(Benveniste, p.62, Meschonnic, p.409.)としている点である。これは、バンヴェニストによって、芸術の意味生成と対比させるという意図のもとなされたlangueの定義である。

 この対比とは、メショニックに言わせれば、芸術における意味の無限、新たな読み、多様性、他者性と、言語のsémiotiqueな全体性、同一性の対比である。

 その上で、メショニックは、言語の解釈作用という機能においても、かならずそこから抜け落ちるものがあり、それが未来において価値の意味を生んでゆくのだとする(p.410.)。

 ここからメショニックの主眼はディスクールへと移る。メショニックは「langageがディスクールの秩序の中で考慮されるならば、そこで観察されるものは、記号が隠している、継続continuitéの機能である」とし、さらにその継続とは、エクリチュールとオラリテの両方に存在するパロールの運動組織としてのリズムであるとする(p.411.)。ポエティックとは、不断のこのsémanitqueとsémiotiqueの対立なのである。ポエティックの対象とは、「これまで名前のなかったもの」である。

 このようにMeschonnicは、言語と芸術の差異というバンヴェニストの対立的な考え方を解きほぐしながら、言語(langage)に内在するポエティックを、バンヴェニストのディスクールに参照させつつ、sémantiqueな領域=意味生成の領域へと引き寄せるのである。

 Benvenisteの論文«Sémiologie de la langue»(Problèmes de linguistique générale, tome 2, pp.43-46)は、記号論の領域において、言語が、他の様々な記号体系に比して、それらとは区別されうる特質を持っていることを考察したもので、記号と言語の問題を考える上での古典的な規範となる論文である。

 論文は、「icones, index, symboles」という記号の分類を提案したパースが、言語の記号の特殊性については特段の言及をしていないのに対して、ソシュールが問題にしたのは言語(学)の対象についての考察であったという差異から出発する。そしてバンヴェニストはソシュールの新しさを「言語学が、未だ存在していないが、人間的事象にまつわる他のあらゆる体系にも関与しうる学問の一部を構成している」(p.47.)と指摘した点にもとめる。その学問とはsémiologieである。ソシュールはそれを「社会生活において記号に基づく生活を研究する学問」と定義し、1)言語学はその一部をなすということ、2)sémilogieの正確な位置づけは心理学者の仕事であり、言語学者がすべきことはこのsémiologieにおいて、言語を特別ならしめるものとは何であるのか画定することである、と述べる。

 言語は記号体系である。しかし何が言語を他の記号体系と分別するのか? バンヴェニストは、ソシュールにおいて言語学とsémiologieの関係はあいまいなままに終わったとする。ただ、この2つの学をつなぐものとして提出されている概念がある。それが「記号の恣意性」(p.49.)であり、これが記号体系としての言語がもっともsémiologieの特質を表す理由であるとする。

 バンヴェニストの本論文での目的は、この「記号の恣意性」にとどまった言語のsémiologieとしての特殊性を画定し直すことにある。

 バンヴェニストはまず私たちの社会生活が記号の体系から成り立っていることを確認する。

「私たちの生活全体が様々な記号の網の中に埋め込まれている。そしてその記号の網は、どれかひとつでも欠けるならば、社会と個人の均衡が崩れるほどに、私たちの生活を条件づけているのである」

 つまりバンヴェニストがここでいう記号とは、私たちが他者と社会生活を営む上で、その秩序を構成するものであると言ってよいであろう。

 これに続いてバンヴェニストはsémiologieの体系を特徴づける4つの要素を挙げる(p.52.)。

1. le mode opératoire : 記号が作用する様式
2. le domaine de validité : この体系が認められる領域
3. la nature et le nombre des signes : 上記の条件における記号の機能
4. le type de fonctionnement : 上記の機能の類型

 さらにバンヴェニストはsémioligieの体系における2つの原則を挙げる。

1. 体系間の非-冗長性の原則:たとえばことばと音楽のように、たとえ「聞く」という共通の特性をもっていようとも、異なる記号体系間では、それぞれの機能を交換することはできない。だから冗長性は生まれない。しかしアルファベットと点字のような同じ記号体系では交換が可能である。

2. 二つの記号体系は同じ記号を持つことできる。しかしその記号はそれぞれの体系で異なった機能を帯びる。たとえば信号機の赤と三色旗の赤である。したがってある記号の価値は、その記号が含まれる体系の中でのみ有効である。
 
 バンヴェニストはこのようにsémioloigieの体系間の関係の原則を述べたうえで、その体系には「解釈を行う」体系と「解釈を行われる」体系があるとする。そして前者こそが言語の記号体系であるとして、sémioligieにおける言語の特性を主張する。そしてこの体系間の比較をするための条件として、sémiotiqueな体系と呼べるものは次の3つの要素を備えていなくてはならないとする(p.56.)。

1. un répertoire fini de signes : 記号の一覧が完結していること

2. des règles d'arrangement qui en gouvernent les figures : 記号から派生するフィギュールを統制する配置の規則があること

3. indépendamment de la nature et du nombre des discours que le système permet de produire : 記号、およびフィギュールは、その体系が生み出すディスクールの性質、数とは独立していること

 バンヴェニストはこの条件を出すことによって造形芸術のような芸術は、ある決まった記号の統一体を形成できず、sémiotiqueな体系のモデルを提出することはできず、言語体系ともほど遠いととする。つまりバンヴェニストは意味の体系の成立には、その体系が閉じていることが重要であると考えているのだ。それがunitéである。そしてそのunitéは、芸術の世界にはないものとして考えられる。言い換えれば前述した秩序の構成とは異なる次元に、芸術の世界は不定型のまま成立しているのではないだろうか(この辺りがMeschonnicが主張していることではないか)。ある一定の記号的拘束を持ちながらも、意味の生成にそのつど立ち会うのが芸術の世界と言えるのではないだろうか。

 それに対して「言語は統一体からなるla langue est faite d'unités」とバンヴェニストは述べる。一方、例えば音楽の要素である「音」は、記号ではない。なぜならば、バンヴェニストによれば「いかなる音も意味を生む要素を持っていないaucun n'est doté de signifiance」からだ。ここにバンヴェニストは言語と音楽の差異を認める。意味するものの統一体をもつ体系としての言語と意味しないものの統一体をもつ体系としての音楽の差異である(p.58.)。

 しかし、本当に音は意味を生む要素を持っていないのだろうか。ここにはバンヴェニストはソシュールと同じく言語の領域から心理を排除する傾向を認めることもできるのではないだろうか。それは音表徴の問題だけではない。この音のもたらす表徴は個人の問題だけではなく、おそらく他者とも共有されるはずのものである。つまり記号性がお互いの間で必ずしもやり取りなされていなくても、音という物質世界との間での交感が生まれるのが芸術世界ではないだろうか。これが不定型の世界=芸術の世界である。

 あくまでも言語の特殊性の確立を目指すバンヴェニストは、芸術とは芸術家がそのつどみずからのsémiotiqueを創造してゆくことで生まれると考えている。色(=記号を形成する要素)は意味をもたらすのではなく、むしろ芸術家に奉仕する存在である。すなわち、芸術家が色を選択し、それによって絵画を構成することによって「意味が生み出されてくる」のだ。だからこそ、絵画においては記号の一覧は完結しない。あるのは「表現すべきヴィジョン」(une vision à exprimer)である。

 したがって芸術作品と言語ではその体系は意味の生成(signifiance)という点で異なっている。前者は意味の生成は、その作品世界を構成する諸関係から生まれ、それはそのつど見いだされるものであるのに対して、言語における意味生成は記号そのものにすでに内在しているのだ。記号そのものに内在しているがゆえに、だからこそあらゆる交換、あらゆるコミュニケーションが成立する(p.60.)。

 そしてバンヴェニストの主眼は、「音、色、イメージ」といった非−言語的体系のsémiologieは、言語のsémiologieによって初めて成り立つということにある。すなわち、これこそが言語のsémiologieの特質なのである。他の記号体系は、それがsémologieとなるためには、「言語の介在le truchement de la langue」が必要なのだ(p.60.)。言語こそが他のすべての体系を解釈づけるーこれが本論文の目的である。

 ここでバンヴェニストは、sémiotiqueな体系の関係を次のように分類する。

1. ある体系が別の体系を生む:アルファベが点字を作り出す。同じ性質と異なる機能を持つ。

2. 類似の関係:ゴチック建築とスコラ哲学の類似性のように何らかの関連づけがなされる。

3. 解釈の関係:「言語はすべてのsémiotiqueな体系の解釈を行う」という意味での関係である。

 この意味で言語は社会をすら包み込む。そしてバンヴェニストは、言語におけるsémiotiqueな体系を次のようにまとめる。

1. 言語は、énonciationすなわち、話すこと=何かについて話すという事実によってその機能を明らかにする(話す行為には何らかの解読されるべき意味が携えられている)。

2. 言語は、区別されうる単位=記号からなる。

3. 言語は、共同体すべての成員によって参照される価値の中で生まれる。

4. 言語は、間主観的なコミュニケーションを顕在化させる。

 こうして記号の機能が明示される。ここにあるモデルはまさにコミュニケーションの了解からみればきわめて静的なモデルである。つまり言語と芸術の間には根本的な体系の差異があるとするのがバンヴェニストの立場である。

 ではこの言語の特質はどこから来るのか、バンヴェニストによれば、それは言語がsignifiance<意味生成>の二つの様式を兼ね備えているところから来る。その二つの様式とはsémiothiqueとsémantiqueである。

 sémiotiqueとは単位として構成される記号のもつsignifianceの様式である。これはmarques distinctives「差異の標章」によって成立している。この記号は閉鎖された体系によって成り立っているものであり、だからこそ、言語共同体の全員によって認識された「signifiant」なのである。したがってそれは認められるものである<再認>。

 それに対してsémantiqueとはディスクールによって生まれるものである。ディスクールのメッセージとは、記号の積算に還元されるものではない。それは全体で構成された意味なのだ。こちらは理解されるものである<新たな意味の了解>。

 言語はこの二つの領域ーsignifiance des signes et la signifiance de l'énonciation-を持っていることがその特質なのだ(たとえば礼儀作法は、sémantiqueなきsémiotiqueであり、芸術はsémiotiqueなきsémantiqueである)。

 こうしてバンヴェニストはソシュールの「言語のsémiologie」を、sémiologieを排除することなく、sémantiqueを導入することによって、閉じられた記号の体系を前提としながらも、意味の生成という主体の発話を導入することによって、あらたな意味の場を構築しようとしたのである。

Florence Aubenas, Le quai de Ouistreham (2010)

 2010年にフランスで話題になったルポルタージュである。Libération, Nouvel ObservateurのジャーナリストであったFlorence Aubenasが、自らの身分をいつわり、Caenで職探しをして、パートタイマーの清掃人として働きながら、やがて半年後に定職を見つけるまでの記録である。「大不況」と言われたフランスの状況の現実を知るために、彼女は、「diplômeはbaccalauréatだけ、20数年専業主婦をあとに離婚したため、職歴もない」女性として、人材登録をする。

 Métierとは何か。それは社会によって認められるだけの技術と信頼を持って人間が営んでいる職のことではないだろうか。必要とされるという意味において、その人の存在にかけがえのない価値が与えられる。Métierはその人の存在の証であり、その人の人格を表すと言ってもよい。

 しかしAubenasが自ら就いた清掃人の仕事は、社会の最下層において、誰とでも「取り替えのきく」仕事として繰り返し描かれる。それゆえに彼らは無名性におかれ、極端にいえば道具として扱われる。「単なる掃除機の延長」のように、あるいは「透明な」存在とみなされるのだ。

 この本を読んでいて唖然とするのは、雇い主側の、あるいは掃除をさせている側の、徹底的に人を見下した態度である。社会の底辺にいる人間から、搾り取れるだけ搾りとろうとするあさましい実態である。そうした社会のシステムに欠けているのは人に対するrespect「敬意」とdignité「尊厳」である。

 Aubenasの視線は、もちろん同僚たちへと注がれ、彼らの具体的な日常がこと細やかに書き込まれてゆく。しかしそれがあまりにもこなれているためか、ずいぶん類型的な印象を受けてしまう。あるいは本当の人間とはこのように類型の中で生きているものなのだろうか。

 あるいは事実はあまりにも矛盾に満ちているためだろうか。いわゆるハローワークでアポイントをとるためにはまずは電話で予約することが必要である。しかし電話をとめられたある男が直接オフィスへと乗り込んでくる。職員が言う。「電話でないとアポイントはとれません。あちらに電話がありますから、そこから電話してアポイントをとってください」...虫歯の痛みに耐えている同僚がいる。しかし彼女は歯医者にはいかない。一本の治療ならばお金がかかるが、全部の歯がやられてしまえば、手術で歯を抜いて総入れ歯にできる。そしたら保険が効くからだ。

 こうしたエピソードをちりばめるAubenasの手腕が見事すぎるゆえに、フィクションを読んでいる気になるのだ。もしこれが本当に事実であるとするならば、そこには荒廃しきったフランスの風景と、労働に疲れきった小市民の姿だけが浮かんでくる。暴動も、デモも、組合も、政府も自分たちとは関係がない。格安の冷凍品を買い、知り合いから果物をわけてもらい、市場の後に道路に落ちた野菜の切れ端をひろい集めて食いつないでいる日常、こうした日常を送る人々がいかに多いことか。だがそこにもかけがえのない生活がある。

 イスマイル・カダレは現在はフランスで活動するアルバニア出身の作家である。

 敵国で亡くなった兵士の遺骨を、20数年の後に、ある将軍と司祭が拾い集めるという任務がこの小説のモチーフである。死者の骨を拾うことは、人間にとって、おそらく太古の昔から続いてきたであろう尊い弔いの儀式のはずである。しかし戦争の犠牲者たちという特殊な状況において、二人の登場人物の任務の遂行は、追悼という純粋で厳粛な雰囲気からいつのまにかずれてゆき、奇妙なそして不可思議とさえ言える様相を帯び始める。

 すでに出発前にその兆候はあった。将軍のもとには、多くの遺族が陳情に来ていた。かならず遺骨を持って帰ってきてほしいと、死者の情報を持って将軍のところをみなが訪れていた。その列はつきることがなく、将軍はそうした情報をノートに書き留めてゆく。しかしここにあるのは一人一人の死の厳粛さではない。遺族の「身内に起こったことは余りにもよく似ていて、毎日がまるで昨日の繰り返しで、夢を見ているように将軍には思われた」(p.44.)。戦争において兵士の死は平板化、陳腐化される。

 平板化、陳腐化は死者を無名性の束と見なすことにもつながってゆく。20数年経っても、死者の割り出しができるのは、兵士たちにつけられたメダルのおかげである。戦場で亡くなっても、どの兵士の遺体かわかるように、兵士は首から小さなメダルをさげている。そこには聖母マリア像とともに番号が彫られており、すべての死者の識別が可能となる。識別を可能にすることによって一見ひとりひとりの死を無名性から救い出せるかのようで、実は全ての死者は、一単位としてあまねく管理の対象となっているにすぎない。本来ならばかけがえのない死者の遺体は、国家によって軍隊に配属されることで、かえって無名性が強調されるのだ。

 無名性による管理から抜け出すために、脱走兵はそのメダルを捨てる。メダルを捨てることは、兵士としての存在理由を消すことだ。それは戦時中においては、人間そのものの存在価値を消すことに等しい。だがそれはひとりのかけがえのない人間として帰還することでもある。しかしそのかけがえのなさを否定するのが戦争である。脱走兵は、粉ひき小屋で働きながらその身を隠す。その間につけていた日記を読んだ将軍と司祭は次のように言う。将軍「センチな弱虫が書いたシロモノさ」。司祭「普通の日記ですね」(pp.134-135.)。日記に刻まれた脱走兵の極限の非日常は、戦争においてはごく「普通」のことで、かけがえのなさでもなんでもない。

 だが、くる日もくる日も死者を墓から掘り起こしてゆくうちに、崇高であるはずの行為が、やがて将軍の精神をすり減らしてゆく。将軍は幻影におびえ、奇妙な夢にうなされ、睡眠を奪われてゆく。業務のもつ意味そのものの自明性がくずれてゆく。将軍は、自らが掘り起こした死んでいる兵士たちの将軍であるかのような幻覚のなかで、兵士たちを指揮する欲望に憑かれる。また、アルバニアの地を掘り返す将軍は自問する。「『一つの軍隊全体(死んだ兵士から編成される将軍の想念の軍隊)の、大いなる眠りを破りにやってきた』のではないか、『彼らを覆う大地を打つためにやってきた』のではないか」と。そしてまたしても悪夢が彼を襲う。これらの遺骨を再びひとつひとつ大地に戻すべきではないかという悪夢である(p.207.)。

 ようやく業務も最期に近づき、死者から解放されるかにみえたある夜、決定的な出来事が起きる。将軍がある村で夜まで続く婚礼の式に訪れたときに起きる。その祭りにいた一人の老婆は次のようにつぶやく。「母親の呪いは消え去りはしない」と。そしていったん外へ出て行った老婆は、再び袋を抱えてもどってくる。その袋の中にあるのは、かつて自分の夫を殺し、娘をなぶりものにしたがゆえに、自らが殺したある大佐の遺体である。

 将軍は決して戦争と墓地から逃れることはできない(p.274.)。カダレはアルバニアという現実の土地を舞台にしながらも、人間性の剥奪を、遺骨の収集という行為を通して寓話化する。将軍の幻覚と夢を通して、現実の世界は奇妙にゆがめられ寓話性を高めてゆく。死者を弔うために遺骨を拾う尊い行為は、生前の彼らに略奪され、占領された土地に生き残った者にとってみれば、敵の死者の墓を掘り返す行為は、墓を暴いて死者を眠りからさます冒涜の行為でもある。だからこそ呪いを抱き続けた者にとっては、気味の良い復讐に他ならない。「戦争になれば、悲劇とグロテスク、英雄的なものと悲惨なものを見分けるのは難しい」(p.136.)。カダレは、生と死の境界を消し去り、崇高と恥辱にまみれる戦後の世界を、その奇妙に歪んだ現実の世界をこの小説に描いているのだ。

 言語について研究を深めてゆくと、やがて「言語に憑かれて」しまい、科学の領域を悠にはみ出してしまう。そうした狂気と紙一重の言語学者には強い興味を感じてきた。ウンベルト・エーコやジュネットが扱った人工言語や普遍言語を夢想した人々だけではなく、たとえば、フランス語史を著したFerdinand Brunaud、文法学者のLeBidoisなどの著作は、それぞれ歴史的、文法的な言語現象を網羅し尽くしたいという強い意志に貫かれている。過剰とも、狂おしいとも言えるまでの蒐集癖がある。
 ことばを探究し、その言語の体系を明らかにするために、特別な言辞を創造する学者もこれまた多い。Guillaumeの冠詞論、同じく冠詞論を書いた鷲尾猛、Damourette et Pichonのフランス語文法論など、言語を叙述するために、まるであらたな言語を創造するかのようである。その創造のあり方は、ときにきわめて独特であり、現実世界とつながりながらも、それとは別次元で作品世界を創造してしまうような文学的な営為にさえ近い。
 言語研究者には、研究ということばが喚起する学問的客観性とはほとんど無関係に考究する(せざるをえなくなる)人々がいかに多いことか。
 情熱ということばではおおよそ言いあらわせない、「言語に憑かれた」言語学者のひとりが関口存男である。関口一郎先生のお爺様であり、お二人の共著になっているドイツ語入門は、そのユーモラスな語り口で読者を引き込むが、なによりも関口存男を知ったのは、慶應図書館におさめられた全集をみたときだ。その著作集は一般の印刷物ではなく、まさにガリ版で刷ったような紙を綴じ合わせたものであり、きわめて分厚い本が何十冊と書架を占めているのを目にしたとき、そこには書くことに存在をかけた人物の生き霊のようなものを感じた。そしてそれらの大著を貫くのは、関口文法とも言うべき独自の文法大系である。言語はすでに存在しているのに、その言語に構造を見いだすことは、新たに言語を存在させることにも等しい。
 この関口存男についての初めての本格的評伝が本書である。関口のドイツ語学者としての生涯だけではなく、退役した軍人候補生として、演劇人としての、バロック文学や寓話などに深い関心を持っていた文学者としての、そして何よりも「社会教育の実践家」としての関口の存在がここでは語られている。それは、疎開先の嬬恋での彼の活動だけではなく、高田外国語学校、慶應義塾外国語学校などの社会人を対象とした教育機関で教鞭をとり、NHKのラジオ講師をつとめ、『月刊ドイツ語』の編集に自らたずさわり、ドイツ語の普及に貢献した教師としての姿である。関口に学んだ者は、真に博識な人間が与える安心感を受け取り、教えることに全人生、全存在を捧げている姿勢から、学ぶことの尊さを実感したのではないか。それこそが関口の魅力だったのではないか。
 この評伝では、池内紀は、ヴィトゲンシュタインを補助線としながら、関口の言語論が、言語と論理と哲学にまたがるものであることを指摘する。ここでは本格的な関口文法についての検討は行われていない。ただ「意味形態」ということばが何度も現れる。また『冠詞論』についてはやや詳しく紹介されている。既成の文法用語に頼らず、膨大な文例からつむぎだされることばとは、たとえば次のようなものである。「"どんな...?"という考え方が基礎にある時は不定冠詞を用い、"どの...?"という見地からは定冠詞を用いる」(p.166.)。こうした対象を真に理解することばを自らが紡ぎだすとき、言語は閃光のごとくその体系を人間にかいまみせるに違いない。

Olivier Adam, Le cœur régulier (2010)

 タイトルLe cœur régulierは日本語にするならば「心の鎮まり」だろうか。小説中の一節«Sentir battre en moi un cœur régulier»(「自分の中で心臓が正しく鼓動しているのを感じること」)からこのタイトルがとられている。正しい鼓動とは、「正常で規則的で」ということだが、この小説のテーマが「喪の作業」である以上、動揺していた心がやがて、平常へと戻っていくことを指しているのであろう。
 主人公のサラ(Sarah)は、弟ナタン(Nathan)を亡くし、それまでの完璧に見えた生活が、自らの本心ではなかったことに気づく。銀行員で高給取りの夫、私立に通う娘と息子、そして自らの仕事。そのいずれもが現代フランス社会での成功者の縮図となっている。それに対して子ども時代は双子のように仲の良かったナタンは、定職につかず、世間への憎悪をむき出しにし、アルコールのほとんど溺れつつ、小説を書いている。
 そのナタンのほとんど自殺に近い死の知らせのあと、サラは、ナタンが旅行をし、みずからの心の平安を見いだした日本のある町へと旅立つ。その海岸に面した町は自殺の名所としても知られるが(おそらく東尋坊だろうか)、そこで自殺をしようとする者に声をかけて、自殺を思いとどまらせる「夏目」という人物と出会う。この町での滞在は、サラにとって、ナタンの存在を思いださせる機会であると同時に、ナタンと自分との関係、そして自分自身の喪の作業の機会ともなる。
 喪の体験は、残された者に自らの生について問いかけをせまる。その生と死において、みずからの生活が丸裸にされるような体験だろう。今までの自らの価値、人生の歩み、人間関係そうしたものがむき出しになって、目の前に現れる。
「社会的成功」(réussite sociale)の中で暮らしていたかに思えたサラは、ナタンの死をきっかけに、その生活を離れ、ナタンとの関係において自分の存在を見つめ直してゆく。それが喪の作業なのだが、もちろん心は容易には鎮まらない。

「しかし本当には何も鎮まるものはなかった。私の中の何かがまだ抵抗している。何かが激しく泡立ち、神経がいらだつ。あの高みにのぼりたい、そして呼吸をする」
 
自分の存在とは、他者に取り巻かれた関係としての私である。しかし喪においては、そのような他者との関係性さえもが壊れてゆく。
 
「死が私たちの愛するものをとらえたとき、おたがいにどれほどなぐさめあおうとしても、それは不可能であり、堪え難くさえある」

 愛する者の死によって、私たちは生き残った者同士の関係も変わらざるをえないのだ。死を契機として、お互いが疎遠になったり、あるいは親密になったりと、人間関係に変化がもたらされるのだ。その新たな人間関係を受け入れることが生き続けるということであろう。
 この小説で描かれているサラとナタンはあまりにもfragileであり、その二人をとりまく人間たちはあまりにもindifférentである。その人物描写の深まりのなさが、時に読んでいるものに、登場人物をあまりにも幼稚な人間として伝えてしまうきらいがある。類型としての人間しか、ここでは行為していないかのようだ。約束事しか話さない人間たち。それがこの小説の弱さでもある。

jaspers.jpg カール・ヤスパースの『戦争の罪を問う(責罪論)』は、ドイツの敗戦間もない45年から46年にかけて行われた講義をもとにして、刊行された小著である。この時期と平行してニュルベルク裁判が行われている。この裁判は、ヤスパースいわく「戦勝国が裁判所を構成している」という意味で「世界史上まったく新たな」裁判である(p.78.)。
 ヤスパースは、敗戦国ドイツの中でこの裁判を「侮辱」と受け取る風潮があることを認識した上で、この裁判に積極的な評価を表明している。裁判は「刑事裁判」であり、それはとりもなおさず、特定の個人を罰するのであり、集団的に民族を弾劾するわけではないからである。またドイツにふりそそぐ災厄は「当然の報い」なのでもない(p.73.)。この裁判では戦争が「正義と真理」のもとで、罪として裁けるかが課題であり、法が実現され、その法を敗戦国もふくめて、世界が承認できるかどうかの可能性がこの裁判にかかっているとする。この点こそヤスパースが信をかけて裁判を評価する理由である。ただその最も大きな価値は、実は「指導者たちの特定の犯罪の間に区別を立てて、決して集団的に民族を断罪するのではない」という点にある。後述するように、ここにはヤスパースの中に「指導者たち」と「私たち」の峻別があることがうかがえる。
 ニュルンベルク裁判での罪は「刑法上の罪」であるが、ヤスパースはこの「罪の問題」の議論が感情的なものではなく、認識と思考に訴えるものとして、思考の対象として捉えられるものになるように、「罪」を分類する。
 「刑法上の罪」の次のカテゴリーが「政治上の罪」である。すべての国民が刑法上の対象となって裁判を受けるわけではない。刑事責任はあくまでも個人を処罰の対象とする。それにたいして政治上の罪は、「国家の行為から生ずる結果に対してすべての公民が責任を負うこと」になる(p.50.)。この場合審判者は戦勝国であり(p.65.)、政治的に問われる責任とは、具体的に言うならば「戦勝国に対してわれわれの労働と給付能力とをもって責めを負い、敗戦国に課せられた通りの償い」(p.122.)をすることである。そしてヤスパースは「政治上の罪がヒットラーの刑事犯罪と同列のものではない」(p.141.)と強調している。
 三つ目は「道徳上の罪」である。これは内心における罪の意識であり、審判者は「自己の良心」(p.49.)である。それは他者との関わりにおいて、自分の振る舞いにおける無関心、「怠慢、安易な順応」(p.52.)に対する責めである。四つ目は「形而上的な罪」である。
 この罪の区別の主眼は、罪と「民族全体」との関係にある。たとえば刑事上の罪は、個人が負うものであり、「民族」が負うものではない。また道徳上の罪も個人が負うものであり、「民族」が負うことはそもそもが不合理である。
 民族というくくり方に対する反論の根拠は、個人というものを民族へと還元して、あるいはあらゆる「類」(若者、年寄り、男、女)に還元して考えること、つまり類を実体とみなすことの不合理さにある。ヤスパースの議論では、罪は「民族」が背負うものではなく、「集団を有罪と断言」(p.64.)することは不可能であり、ドイツ国民が背負うのはあくまでも敗戦国の国民としてであって、民族としての存在そのものが弾劾されることは、むしろナチスの民族大虐殺と同じ考え方に立つものでありおおよそ受け入れられないとする。ヤスパースはこの弾劾の声を「お前らは民族として劣等、下劣であり、犯罪性をもち、人間の屑で、他のすべての民族とは別種のものだぞ」という表現に集約させる。確かにこのような、個人を集団に従属させる考え方は、ヤスパースの言うように「非人間的な行き方」(p.76.)であろう。
 だが、ナチスそのものがドイツ民族国家のなかで生まれてきたことはどう解きうるのか。ナチスのような民族主義と全体主義が結びついたイデオロギーは、世界のどこであっても、そしていつの時代であっても<生まれうる>ことと、20世紀前半のドイツで<生まれた>という歴史的特殊性は区別して考えなくてはならないのではないか。
 その意味で、ヤスパースの議論のなかで腑に落ちないのは、ナチスとナチスに加担した「彼ら」と、自らの妻がユダヤ系であったために公職を追われ苦難に道を歩まざるをえなかったヤスパース、そしてヤスパースと同じような境遇に貶められた人々の「私たち」とのあまりにもはっきりとした峻別である。刑事的な罪は確かに個人が負う。その意味で、ナチスの「犯罪」は、あくまでも「個人」が負う。しかしその「個人」と、私たち他者とは政治的な罪以外何の共通性もないのだろうか。
 たとえば次のような辛辣な文章がある。

かれら(ヒットラーとその共犯者たち)は悔悟したり生まれ変わったりする能力がないらしい。かれらは要するにあれだけの人間なのだ。そういう人間はみずからも暴力によってのみ生きるのだから、かれらに対しては暴力を用いる以外に道がない。(p.97.)

 ここでのヤスパースの言い回しは、自らが感情ではなく認識を、と説いた慎重な姿勢からははるかに遠い荒々しい憤懣に満ちている。彼らには道徳上の罪という意識がない、道徳の限界を超えてしまっているとヤスパースは言う。しかし彼の振る舞いは本当に少数の例外的な犯罪者の特殊な振る舞いなのだろうか。  またヤスパースは戦争の残虐行為、ユダヤ人の排斥は、「ドイツ人独特の残虐行為である」という弾劾を受けて、次のように言う。
 他の諸国にあると認められる罪、ないしは他の諸国自身が自己の罪と認める罪は、すべて、ヒットラー・ドイツがおかしたたぐいの刑事犯罪たる罪ではなかった。かれらの罪は当時、事態を黙認して中途半端の態度をとったことであり、すなわち政治的な過誤であった。(p.150.)

 ここでもヤスパースは、我々だけに(民族という単位としての我々)に罪があることを断固として否定し、罪が民族、ここでは人種に還元されることに反論する。
 確かにヤスパースの民族と個人に対する考え方は正しい。私たちは集団に解消されえないことが、私たちを人間たらしめる存在の根源なのだ。しかしヤスパースが「われわれが劣等人種なのではない。どこでも人間は同じような属性をもっている。機会があれば政権を握って残忍なふるまいをする暴力的、犯罪的で、野蛮な才能をもつ少数者はどこにでもいるのだ」(p.154.)というとき、その少数者から「われわれ」は除外されていないだろうか。除外されているならば、その除外されうる根拠は何なのか。とくにヤスパースが民族に回収されない人間としての個の尊厳を解く時、この普遍性の希望を抱くとき、ともに普遍的な人間存在でありながら、どのようにして少数の犯罪者と、私たちが峻別されるのか。
 ヤスパースは言う。「私はまず人間である。私は特殊的に見ればフリースラント人であり、大学教授であり、ドイツ人であり、他の集団と深い繋がりを、また深い浅いの差はあるにしても、私と接触するに至ったあらゆる団体との繋がりを持っている」(p.125.)。私は人間であるからこそ様々な属性を持っている多層的な存在である。だからこそ、関係の深さは異なっても、その多層性において、私たちは他者と繋がりうる。しかしその「私」を形成する多様な層のどこかに「ナチス性」はないのだろうか。その他の集団、すなわち、隣人にナチスはいないのだろうか。私が人間であり、人間だからこそ多層であり、だからこそ普遍的に他者とつながりうるとするならば、ナチスも「我が隣人」なはずである。その意味において「ナチス」と「私」による「私たち」において、罪について再考する必要があるのではないか。さらにこの「私たち」を措定したところに生まれてくる、「彼ら」すなわち、「被害者」についての関係性を問いつめていかなくてはならないのではないか。 

la_memoire_lhistoire_loubli.jpg リクールがエピローグで扱うのは「赦し」(pardon)の問題である。90年代にフランスで「赦し」の問題がどのように議論されたかは、その歴史的状況をふまえ、訳者久米博の「記憶と歴史、忘却と赦し」に詳しい。その論文に言い尽くされている観があるが、多少本文に寄り添って内容を詳しくみていきたい。
 「第一節 赦しの方程式」で提出されるのは「過ちの深さ」と「赦しの高さ」である。そして久米が明晰にまとめているように、過ちと赦しを考える上で、リクールが依拠するのが「行為者」と「行為」の関係である。過ちとは、行為を行為者へと結びつける構造を持っている。私たちがある行為者を責めることができるのは、その行為者に行為の責任を帰することができる場合のみである(imputabilité帰責性)。
 自己への帰責性の形式が「告白」である。そして告白において行われるのが想起の作用である。リクールは「想起自体は無実である」という。そこから告白においては、無実と有罪の区別のし難さが生まれてくる。ここでリクールが問題にしているのは、mémoire-souvenirとmémoire-réfléchieの区別であろう。前者は回想を散逸させる方に向かい、後者は罪悪感の中心を自己の記憶力の中に置く。
 次に問題とされるのが行為の中にある悪と因果性の中にある悪の区別である。ここには人間の「存在」を考える上での本質的な議論があるように思われる。すなわちリクールは、存在を「実態、属性、偶有性」ではなく、むしろ「可能態と現実態」(puissance et acte)として捉えていると思われる。
 最後に問題となれるのが、アダムの神話におけるイノセンスの喪失である。ここでの悪は、経験の中にありながらも、その悪が本質的に偶然的な悪であることから、リクールは、行為者と行為の間に距離がひかれることを指摘する。
 このリクールの考えは、悪がたとえ永遠のものであっても、主体(行為者)自身は可能性に置かれていることを意味しないだろうか。もし罪と人が本質的に切り離しえないものであるならば、極端に言えばそれら罪人をすべて排除してしまえば、悪のない世界が到来するはずである。しかし現実に悪のない世界などありえないとすれば、悪は人間に内在するものではなく、むしろ人間という行為者からは離れたところに存在するものではないだろうか。
 「赦しの高さ」では赦しは愛として語られる。「コリント信徒への第一の手紙」を引用しつつ、リクールは愛がもっとも大いなるものであるのは、それが「高さそのもの」であるからとする。そしてデリダにおける赦し、すなわち、「愛がすべてを赦すというなら、そのすべてには赦しえないものも含まれる」という言明に歩を合わせる。そしてやはりデリダと同じく、赦しを政治性と切り離すことを強調する。なぜならば、政治的舞台における赦しとは、計算や猿芝居であり、何らかの意図をもってなされるという意味で、赦しの概念が「汚染されてしまっている」からである。
 「第二節 許しの精神のオデュッセイアー諸制度横断」では赦しと法と道徳の問題が扱われる。「犯罪的有罪性と時効なし」では、まず時効(prescription)と特赦(amnistie)の違いが述べられる。後者は心的痕跡も社会的痕跡も消してしまう「消滅」という傾向を持つのに対して、前者は時間の不可逆性、すなわち時間を遡ることの禁止を意味する。時効は結局社会の中で調整を果たす機能を有するわけだが、この点が赦しとは異なっている。なぜならば赦しは、「共通の平和への思い」を持った社会的機能だからである。
 このように時効の意味を考察したあと、人道に反する罪において、時効がないことと赦しえないことの混同を批判する。時効がないことの対象は罪に対してであるが、罰はその罪をなした当人に及ぶ。このときリクールはその当人に対してなされることがあると言う。それは「考慮」(considération)である。この「考慮」とは、法的なレベルと道徳的なレベルの二つのレベルにわたってなされると考えられる。法的なレベルとは、訴訟によって、暴力が言説に、殺人が議論によってとってかわられるということ。その上で、道徳が法に対する裁きを行う。それによって「法の前の平等の具体的条件」に対してよりいっそうの配慮が働くのだ。
 「政治的有罪性」では、ヤスパースの『責罪論』(『戦争の罪を問う』)にそいながら、「侵略者と被侵略者のそれぞれの位置を校正な距離関係に指定する」正義の言葉が重要とされる。
 「道徳的有罪性」では、政治的な性質の集合的有罪性から、個人的責任へと移る。ここで問題になるのが民族、文化、宗教などの要求によって行われる植民地戦争のような歴史的事件における、公的なものと私的なものの絡み合いである。これに関してリクールは、コダーレの「諸国民の和解についての言説は、敬虔な願望にとどまる」ということばを引用する。
 「第三節 赦しの精神のオデュッセイア - 交換の仲介」では、贈与との関連において赦しの問題が扱われる。赦し(pardon)と贈与(don)は言語的にも関連性があるが、ここでモースの『贈与論』を引用し、贈与と対立するのは交換ではなく、利益であること、贈与には「お返しを与えること」という双方性があることを指摘する。
 この贈与に類似する赦しの双方向性の対極に置かれるのが「見返りなしに敵を愛すること」である。だがそこにも「敵を味方に変える」という愛が期待していることがある。この相互性に対してリクールは、高さと深さで検討した垂直的という非対称性を導入し、それを赦しの方程式とするのである。ここでリクールは南アフリカの「真実と和解」委員会の活動に言及する。この活動の中にリクールが見るのは政治的な和解とは異なる赦しのあり方である。それをリクールは「赦しの<ひそかな行為>」と呼ぶ。
 「第四節 自己への回帰」の「赦しと約束」ではアレントの「活動」(action)に基づく、赦しと約束の相関性が検討される。活動の不確定さはひとつは過去、すなわち、過ぎ去ったものは制御できないという不可逆性であり、それに赦しが対応する。もうひとつは未来に対する予見不可能性であり、これに約束が対応する。そしてアレントが着目するのはふの二つの行為が複数存在に依存しているという点である。この複数性は、政治的と呼ばれ、アレントは福音書を解釈しながら、「神から赦されるのは人々が赦し合えるかいなかにかかっている」とする。しかしリクールは、このような赦しが政治性に近づいていくことに留保を示す。アレントが政治的友愛、尊敬という「社会的生活の人格化」(『人間の条件』p.380.)の根底をなす人間の複数存在で行使される力に対して、リクールはあくまで愛を置くのである。
 この政治的解釈に対してリクールはあくまでも「行為者を行為から解放すること」(délier l'agent de son acte)を考え通す。そのために再び人間存在を「現実態と可能態」としての存在を強調する。行動の哲学、可能としての人間の存在である。リクールは言う:

「物語形式は、出来事の発生については取り返しがつかないが、けっして運命的ではない出来事の歴史的地位の根本的偶然性を保存している。人間の被造物としての地位からのこの逸脱は、もう一つの歴史の可能性をとっておく。それは悔い改めの行為によってそのつど開始され、時の経過のなかで善意とイノセンスが不意に出現するたびに区切られる歴史である」

 人間の善としての根本存在への確信とともに、私たち人間の行為は歴史を生んでゆくのだ。運命ではない人間の可能性のもとに赦しの可能性も開かれてゆくのではないか。「有罪者は行為する能力を取り戻し、行為は継続する能力を取り戻す」とリクールは言う。

 喪の作業において赦しはどのように作用するのか。この問題を設定することは、加害者と犠牲者の関係を考えることである。ただし犠牲者とは、被害を受けた当事者の場合もあれば、その当事者の近親者の場合もある。犠牲者が亡くなっている場合、近親者が深く傷ついている場合があるからこそ、赦しは、誰が誰をどのような状況で赦すのかということがたえず問われることになる。
 デリダのここでの発言は、ヨーロッパの戦後の戦争責任、南アフリカの真実と和解委員会、コソヴォ紛争など、赦しを巡る歴史的、政治的傾向を踏まえてのものである。しかしその上で、赦しは根源的に「法律=政治的なものが近づくことのできない」、その限界を超えるものとして、あらゆる制約をはずれたものとして本質的に規定される。
 この問題はたとえば次の英語のタームを考えてみるとわかりやすいだろう。

赦し(forgiveness):犠牲者が復讐権を放棄する。
赦免(pardon):加害者が一切の罰から解放される。権限は加害者への懲罰権を持っている人物や制度(司法制度など)に限られている。
和解(reconciliation):被害者と加害者の関係を修復、ないし、関係を新たに創造することを言う。

(グレイビル他『アーミッシュの赦し』亜紀書房、2008, p.8)

 政治的な発言の意図は、おうおうにしてこの和解にある。しかし当然ながら和解とは赦しではない。それは「償い」である。赦免とはまさに法的な領域に属するものであって、私たちが決して赦さなくても、加害者が赦免されることはあり、反対に私たちが赦しているとしても、加害者が赦免されないこともある以上、赦しと赦免は根本的に異なる概念である。
 デリダは赦しの根源性を考える上で、ジャンケレヴィッチとアレントの赦しについての考察を次のように批判する。ジャンケレヴィッチの論点は二つある。ひとつは「人道に反する罪を、(...)人間を人間にするものーすなわち、赦す力そのものに対する罪を赦すことは問題になりえない」と明言した点。つまり人間を人間たらしめるもの=人間性そのものに対する罪は、赦しえないものである=時効になりえないとする点。そして赦しの本質を考える上でより重要な論点は、「罪人が赦しを求めなかったのだから、赦すことはなおさら問題になりえない」と主張したことである。これはデリダに言わせれば、過ちや改悛によって赦しが始まるとすることであり、赦しに条件がついてしまうことになる。さらにジャンケレヴィッチと同様の考えとして、アレントの『人間の条件』から「罰は、介入がなければいつまでも続いてしまいかねない何ごとかに終止符を打とうとする点で赦しと共通している」という一節を挙げ、罰することと赦すことの対称性において、「購いえないもの」、「償いえないもの」は、「赦しえないもの」であると等価に語ってしまっていることを指摘する。
 しかしデリダにとって赦しの根源性が露になる地点とは、赦しえないものを赦すというアポリアの地点である。そのそも罪人が改悛したならば赦しの可能性が出てくるといったのでは、それは改悛した罪人を赦すことではあっても、罪人そのものを赦すことにはならない。こうしてデリダはジャンケレヴィッチが「救済、和解、贖罪、購い、償い」を意味するものとして赦しを考えていると批判し、赦しを次のように規定する。

「無条件の、非エコノミー的な、交換を超えた、贖罪や和解の地平さえ超えた赦し」

 しかし、現実には、たとえば赦しと和解とがはっきりと区別されることは難しい。国家元首が求める赦しは実際には和解のプロセス、セラピーとほとんど混同されているとデリダは言う。しかも現実においては、人道に反する罪を罰することによって、何らかの制裁が発動され、主権国家の主権が制限されていく。そしてそれは具体的に強い国が弱い国に、物理的、軍事的、経済的に可能な場合に限って、主権の制限を行使するのである。
 それでもデリダはあくまでも赦しと和解を峻別するべきであると説く。デリダは、「合目的化された赦し」は赦しではないとして、そして和解のプロセスは「健忘や喪の作業等々を経て行われる健康あるいは正常性のあの再構成」であり、赦しとは区別するべきと言うのだ。
 では、政治戦略を超えて、そして「心理療法上のエコノミー」も超えて、さらには、「正常性」という意味での喪からの回復も超えて、赦しを考えるならば、赦しはどこに求められるのだろうか。デリダは次のように言う。

「一切の制度、一切の権力、一切の法律=政治的審級を超過する何ごとかが、心情に、あるいは理性に到来することを、(...)受け入れるべきではないでしょうか」

 この心情とは何だろうか。デリダの本論の中心課題ではないが、この政治性から離れて、個人の心情へと移行することは、喪の作業と赦しとの関係について考えるための示唆を与えてくれるように思われる。ひとつが忘却である。法律=政治的審級においての赦しは、赦しによる喪の作業のプロセスの正常化は、忘却と等価で語られてしまうことが多い。これは赦しに名を借りた赦免に他ならない。赦しに名を借りて法的なプロセスを放棄していることに他ならない。
 対して個人の心情における赦しとは決して忘却と等価ではない。そもそも加害者を赦すことと、その行為を忘れることにはいかなる相関性もないのだ。喪の状況にいる本人に「忘れなさい」と忘却を促すことは、正常化のプロセスとは関係がないどころか、むしろ逆の効果しか生まないのではないか。個人の心情のなかでは忘れることなく、赦すことが可能である。忘れることなく、過去を再構成してゆくことも可能である。そもそも赦すことは喪の作業に終止符を打つことではない。そして根本的に赦しは、法律=政治的審級のように、「尺度によって測りうる」ものではないのだ。
 無条件の赦しは、だからこそ、政治的制約を超えて考えるべき主題となる。最後にデリダは困難な問いとして「無条件だが主権なき赦し」を思考すべきとする。主権的権力を超えた赦しは、おそらくは個のレベルと共同性のレベルの差異を消し去る地点において、措定された概念であり、それをデリダは「来るべき民主主義」と呼んでいる。はたしてそのような赦しを思考しうるのか。この問題は、おそらくは時間の推移の中で何を記憶し、何を忘却とするのか、喪失したものをいかに再構成してゆくのかという課題を抜きにして、考えることは不可能であろう。

(ジャック・デリダ「世紀と赦し」現代思想2000年11月号、鵜飼哲訳)

 C'est maintenant du passé. 『今昔物語』の「今は昔」のフランス語訳がこの作品のタイトルである。過去は遠いようで近く、近いかと思えばやはり遠い。私たちの生きられる時間は伸縮する時間である。ある遠い過去が突然目の前に思い出されてくる。かと思えばつい一週間前のことがすでに遠く過ぎ去ったかのように感じる。私たちの生きられた時間はそのような伸縮する性質を持っているのだ。
 ユダヤ系の父親を持つ筆者は、ナチスによる連行の果てに命を落とした父方の祖父母の痕跡を辿ろうとする。筆者は1966年生まれ。父親は1935年生まれである。過去もひとつの生きられる時間である以上、父親にとっては、父母の体験は、今と自分と直接につながる時間であり、その過去についての父の最初の態度は「沈黙」であった。それに対して、戦後生まれの筆者にとっての祖父母の過去とは、直接的には知りえぬ過去であり、父を介してかろうじてつながる過去である。なぜそれを語りの対象とするのか。
 当事者が両親であるところの父は、沈黙を選択する。筆者はその沈黙は「他者の不信や無関心」から「思い出」を守るための沈黙であると言う(pp.80-81.)。この沈黙がse taireであるならば、筆者自身が求めるのはsilenceである。この沈黙は、何かを言い終わったあとに心に生まれてくる「平穏の空間」(un espace paisible en soi)である。何かを封印するのではなく、「言うべきことをそのしかるべき形式で言うこと」を作者は模索する。
 当初の計画では、«saga familiale»を書くつもりであった。「サガ」とは幾世代にも渡る一族の歴史を物語る文芸形式である。あらゆる日常の出来事、そのときの人々の感情、ショアーによって打ち消されてしまったものすべてを復元すること。しかしながら筆者の手元にあるのは、過去の切れ端だけであり、それをサガにするには、内容を書き加え、補足し、脚色をしなくはならないだろう(p.40.)。だが、ショアーの<歴史>の中で死んでいった家族の<体験>について語るためには、まさにこの切れ端を掬い取るしかないのだ。なぜなら彼らの人生は、壊れやすく、満たされることがなくとも、かけらとして今ここに残されてあるものだからだ。それは「彼らの存在の痕跡」(des traces de leur existence, p.149.)であり、「生の切れ端」(des lambeaux de vie, p.150.)である。
 だからこそ、この作品には、大きな構成はない。断片を集める過程と、その断片の繋がり、そして同時に、繋がりを欠いたままただそこに置かれるだけの切れ端がある。
 物語として成立しえないエクリチュールを作者に可能ならしめたものが、作品の中に折をみて挿入される日本の古典文学である。俳句、清少納言の随筆。それらは最小限のことばで、機敏な、そしてときに刹那的な感情の起伏を描く。それらを助けとして、筆者は過去の日常を語ろうとする。
 過去を過去として復元する語り(物語)が復元できないならば、どのような書き方になるのか。それは過去を語る人を、過去を語る事物(手紙、資料)を語るしかない。私がどのように過去を求め、どのような手だてを使って探求をするのかを書くしかない。
 したがってこの作品の「今は昔」は、最終的には今に重きが置かれる。私が知りえた過去ではなく、過去を知ろうとする現在の私について書くしかないのだ。だからこそ、私が知っている過去を語ろうとはしない父と激しい対立を生むのだ。父親は言う。「私の中で何かが、もうずっと前から、決定的に死んでしまっているのだ」。
 証言者ではない筆者はこの父親の場所に立つことはできない。筆者は親類たちのことばを記録としてとどめる。筆者はみずからが書く理由、書く方法をめぐって、日本の古典文学を引用し、2007年にメディシス外国文学賞をとったMendelsohnのLes Disparusに、そして断片として記憶を語るPerecのW, ou le souvenir d'enfanceに依拠し、Annie Ernauxとの世代の違いに言及し、そして最後にAppelfeldのことばを引く。「完全であることは虚偽である。(...)想像力とは、人を特異なもの、例外的なもの、仮のもの、そしてもっと悪いことには、異常なものへと導いてしまうのだ」。
 この作品に想像力で書かれた一節はどこにもない。ここにあるのはMarianne Rubinsteinという一人の女性のune vieである。この«une vie»が、このエクリチュールの実践によって祖父母の«vie»とつながりうるのだろうか。そして、私たち読者の生とつながりうるのだろうか。少なくとも本作品がユダヤ民族の救済という信仰を免れているのは、日本古典文学への憧憬のおかげであると言える。繊細なもの、断片的なもの、しかし、確固として存在するもの。そうした存在の普遍性を、この作品から受け取ることができるのだ。
 わたしたちの時代は第二次世界大戦の過去をそのまま引き継ぐことができない時代に来ている。記録を保存することはできよう。しかしその保存された記録にどのような態度で対峙すべきなのだろうか。『今は昔』はすでに教訓性を失っている。ここにあるのは、先ほども述べたように「私」の生のあり方であり、過去に対する自分の自らよって立つ場所の探求である。その私の態度は、少なくとも記録を改竄することはない。しかし記録を解釈することもない。サガとしての物語を拒否したこの作品には、断片がパズルのピースを欠いたまま置かれているだけだ。現代の『今は昔』は、私たちを物語世界へとは誘わない。物語の訴求力のもつ虚偽を拒否し、断片の痕跡を文学の対象としたときに、私たちと過去の関係はきわめてあいまいなものにならざるをえない。この挑戦をしているのが現在のフランスの「私小説」なのだ。

Jacques Prévert, Enfance (1972)

 本当は単純に割り切ることはできないのだが、職人と芸術家に区別をつけるならば、前者はいわば注文をうけて作品をつくる人間であり、後者は自らの天性によって作品を創造する人間である。プレヴェールは明らかに前者である。そもそも彼は自らの芸術的な創造性の発露や、自らの体験からの作品の創出ということをおおよそ表明したことはない。
 しかしそのほとんど唯一の例外と言ってもよいエッセイがChoses et autresにおさめられたEnfanceである。子ども時代の描写がおもしろいのは、子どもであるプレヴェールが、本能的な愛情と本能的な嫌悪によって周りの世界を、そして大人たちを分類しているからだ。彼が愛したのは家族、ヌイイの街。彼が嫌悪したナショナリストの群れ、厳格なカトリック家庭であった祖父母。
 彼が愛を傾ける人々は無名の市井の貧しい人々ー職人と芸人である。オリーヴを売り歩く行商人、煙突掃除夫、錫メッキ職人、イスの張替職人、食器修繕職人、廃品回収業者、下水清掃夫。そして祭りの興奮と哀愁を体現する道化師、大道芸人、歌手、曲芸師たち。そして何ももたない物乞い、酔っぱらい、道ばたに立つ病人。プレヴェール少年の視線は常に社会の辺境にいる人間たちに向かう。職人と芸人、そして社会の境界に立つ存在。プレヴェールは自分の詩人という仕事もその人々の中にはいるとずっと考えていたはずである。
 その中でも、とくに社会からだんだん追いやられ、貧困と病に陥っていく人物がプレヴェールの父親である。プレヴェールの幼い心に消しがたい痕跡を残したのは父親の存在である。父親からの愛、父親への愛、それは疑うべくもない。子どものプレヴェールは父親と二人で、ヌイイの街を、パリの中を、そして南仏移住時には浜辺を、再びパリに戻ってからは、父親の仕事の訪問先を一緒にまわる。彼は父親をもっともそばから見ている、愛にあふれた視点をもった観察者である。しかし、父子の愛の現実の具体的な姿は、十分な金もないのに酒を飲み、子どもを自転車の荷台に載せて家路に着く哀切の姿であろう。父親は、自分のしたいこともわからず、たとえあったとしても才能がないことを認めざるをえず、時代の流れに翻弄され、だんだんと精神を蝕ばまれていく存在でもあった。沈鬱な病に侵されてゆく愛する存在が、プレヴェールの創作に影を落とさないことはないだろう。もちろん常に作品に直接その屈折が反映しているとうことではない。むしろその屈折を否定する表現として作品が生まれることもありうるだろう。社会で成功しないどころか、社会の辺境へと追いやられていく、失意の父親への惜しみない愛である。
 そして仕事中の父親を外で待っている子どものプレヴェールは、まわりを観察する。「窓辺の花、壁に描かれた落書き、ネコ、鳥、鳥のさえずりを聞く赤ん坊」。この風景は、プレヴェールの詩のモチーフだ。
 日常に誰からも注目されず、むしろ社会の視線から排除されているけれども、しかし確かに存在するもの。その確かさこそプレヴェールの詩の原初である。

Françoise Sagan, Un chagrin d'amour, 1994

 Un chagrin de passageは、サガンの晩年の作品である。主人公の男は40歳になる建築家であり、ラグビーで鍛えた肉体の持ち主である。作品は医者に肺がんを告げられた朝から、その診察が誤りであったことを知る夜までを描いている。その間が「つかの間の悲しみ」である。しかし、この作品の残酷さは、悲しみはこの一日ではなく、実は彼の人生のそのものが愚かなものでしかないことを、この誤診があばきたててしまったところにある。
 主人公が«le prototype du Français médiocre»(p.53)というとき、その凡庸さとは何だろうか。あさはかな友情、心のかよわない、自らのmacho(優位)ぶりを示すだけの愛人との関係、過去の愛を求める幼稚な精神。それらがすべて主人公の凡庸さを物語る。しかも、彼はそれらの他人を訪ねながら、ひとつの喜劇をあくまでも演じているのである。愛人や昔の10年前に別れた女と最後の6ヶ月を過ごすことを望み、愛のない妻の介護をかたくなに拒否する姿には凡庸を通りすぎてもはや哀れみしかない。
 サガンのこのような構成を通して、私たちが感じるのは、「俗っぽく、群れをなし、ありふれたもの」(p.149.)であればあるほど、成功するこの社会の欺瞞である。社会が求める価値は、所詮は凡庸であり、その凡庸さを疑いもしない、主人公を典型とする人間たちは、実際にはそうした生の裏にある虚無に気づいていないのだ。
 お決まりの筋の展開、人間の行動、想定内の出来事の集積は、物語の凡庸さを私たちに印象づける。生も死もドラマティックなものではなく、生きることはただ凡庸でしかないという強烈な厭世観。そのサガンの諦念を感じざるをえないのだ。

 宗教対立の原因は単純なことである。それは自らが真理(正しさ)の所有者であり、それに対する内発的な反省をもたないとき、すなわち懐疑をもたないとき、他者は異端となる。しかしながら、こうした宗教対立の原因が宗教の内部にのみとどまる場合はいったいどれほどあるだろうか。
『信仰の運命ーフランス・プロテスタントの歴史』は、フランスにおけるプロテスタント迫害の歴史を辿っているが、教義ではなく歴史的観点から宗教をみるとき、そこに政治的な理由が絡んでいることは自明である。TodorovはLa peur des barbaresでハンチントンの文明の衝突を批判し、国と国の対立は宗教対立ではなく、政治的な利益をねらった対立であるとし、宗教対立は国内の内戦でしかありえないと述べている。しかしながら、フランス国内においてはカトリックが国王の宗教である以上、プロテスタントとの対立、プロテスタントへの迫害は政治的な理由を強く帯びる。
 歴史的観点から事件を考察するとは、年表のような出来事史ではなく、その事件を時間の継起のなかの一点としてとらえるということである。フランスにおけるプロテスタントの事件としては、ナントの勅令とナントの勅令の廃止が出来事として浮かぶ。出来事史で考えれば、ナント勅令を起点、ナントの勅令の廃止を終点とし、「プロテスタント信者に与えられた権利が、ルイ十四世によって廃止された」という物語文が生まれる。しかしこれを歴史として考えるとは、勅令以前、勅令が有効であった期間も含めて、ひとつの時間軸において考えることを意味する。そのときに、物語文によって形成された神話は疑義に付される。
 この著作の軸となっているのは、宗教とは公的礼拝と私的信仰の両面をもち、近代化の歴史とは、公的礼拝というものが政治権力が国家を独立して治める過程において弱体化し、私的信仰という個人の内面に自由をあたえる過程であるという認識である。また著者にとって、信仰の原理とは、「生命を賭して守るべき信念」(p.195)である。そのためにたとえば殉教は宗教的にきわめて純粋な行為としてみなされるのだ。著者は言う。ガレー船の上で鉄鎖につながれて苦役に従事しても信仰を堅固し続けたプロテスタントの姿こそ「地の塩」であり、「キリスト者の本源的姿である」(p.148)と。また別のところでも外国に亡命した信徒とフランス国内に残った信徒の対立にふれ、「殉教こそがキリスト教における至高の行為である」(p.192)と述べている。
 本書の詳細に入ろう。まず前述したように第一章では、1598年のナントの勅令の前後について歴史的経緯を振り返りながら、「勅令」の意味を検討する。ここで注目すべきなのは、「プロテスタントの政治集会」に「フランス国内にもう一つの国家を樹立しよう」とする意図があったことである(p.34)。実際勅令にはプロテスタントのための安全地帯が保証されている。これは政治集会が許され、独自の軍隊が維持され、裁判権さえ与えられていたということである。ただし、これは一種の囲い込みであり、これ以外の地域での活動は禁じられていることを意味する。このような両義性のもとにナントの勅令を読みこまなくてはならないというのが著者の見解である。
 先ほどの物語文によればプロテスタントの信仰が認められたように受け取られるが事実はそうではない。ナントの勅令はむしろカトリックとプロテスタントのつかの間の休戦協定に過ぎず、17世紀を通して、プロテスタントを封じ込める様々な政策が展開される。それが第二章から第四章である。職の制限(官職へ就くことの禁止、同業組合の親方になることの禁止)、例礼拝場所の制限、ドラゴナード(竜騎兵の襲撃)による暴力行為などである。
 筆者はこうした迫害のイデオロギーの宗教的側面として「寛容」の問題を取り上げる(文献としては野沢協のピエール・ベール著作集に付された「『寛容論集』訳者解説が挙げられている)。まず本来キリスト教は宗教的寛容と相容れないという前提がある。真理は神によって啓示されているのであり、人間とはこの真理を受容するのみである。したがってこの真理が見えない異端者には強いて見せる必要があるのだ。もちろん著者はこうした信仰の絶対性がすでに揺らぎ始めていると指摘する。しかし部分的懐疑が少しでもあれば信仰全体の解体をまねく。したがってプロテスタントを「強いて入らしめる」のは絶対の命令となるのだ(p.73.)。
 第五章はこうした長い歴史的な迫害の帰結としての「ナントの勅令の廃止にかかる勅令」通称「フォンテーヌブロー勅令」の内容が検討される。この特徴として挙げられるのは、信仰の一切の外的表現の禁止である(p.130)。たとえ外的表現が禁止されたとしても内的信仰は保全されるかもしれない(これまでも禁止しようとしたのが踏み絵であると言及される)。だが、南フランスの農民階層の信徒たちにとっては、「信仰とは、相集まって祈り、説教を聞き、聖歌とともに合唱することであった」(p.131.)。そこから著者は、政府も外的表現を禁止すれば、内的な信仰を窒息させるには十分であったと指摘する。
 第六章は十八世紀におけるプロテスタントの再起について述べられる。「荒野の教会」の存在、カミザール戦争、そしてアントワーヌ・クールによる再建運動、カラス事件、ラボー・サン=テチエンヌ(国民議会議員に選ばれ信仰自由演説を行なう)が紹介される。ここで注目に値するのは、信徒たちの社会の上層と下層に位置する人々の内部対立である。上層プロテスタントは、信仰心を内面化したというよりも、むしろ啓蒙思想の人間主義を受け入れることによって、信仰心そのものが脆弱化したとされる。それに対して下層の農民たちは上に述べたように外的表出こそが信仰の在りかだったのである。
 第七章では1787年の「寛容令」が扱われる。この寛容令の最大の意義はプロテスタントにも戸籍を認めたことであろう。つまりそれによって結婚が合法化され、所有権や相続権が保障される。上層プロテスタントにしか関与しないこの法令はまさに、信仰生活ではなく、市民生活の側面だけをとりあげているのであり、それは宗教と市民の分離、戸籍と秘蹟の分離である。結婚の問題は大きく、これによって結婚は世俗化、すなわち市民化され、戸籍は教会から国家へ属することになるのである。さらに著者はここに「絶対主義国家における国王の絶対性の否認の内包と個人の絶対性の確立の含意」を認めている。
 こうして近代においては、個人の良心の自由の領域を拡大していき、宗教と国家の切り離しが始まる。第八章は国民議会の論議を取り上げ、「人権宣言」第十条の意味が検討される。未だに信仰の自由は明言されていない。しかしここでは宗教問題がすでに思想の自由に関する個人の問題であって、国家の問題ではない、すなわち国家と宗教の分離の原則が表明されているのだ。実際には決議文にはおおきな曖昧さが横たわっている。しかし、信仰の問題はすでに近代へと大きく踏み出している。国家とカトリック教会の分離の第一歩が印されているのだ。

 先日ボーヴォワールの最初の小説『招かれた女』を読むために、河出書房版の『世界文学全集』を手に取った。そこに挟まれていた「月報」に白井浩司による紹介文が載っていたのだが、これが文学全集の案内にあるような入門的な解説文からはほど遠い、辛辣な批判的文章であったのに少々驚いた。白井は『招かれた女』こそボーヴォワールの小説のなかで第一等の作品だと見なしているが、それはこの作品以外には、たとえばゴンクール賞をとった『レ・マンダラン』もふくめて、きわめて底の浅い作品しかないと言っているに等しい。その『招かれた女』でさえ、白井は様々な欠陥を指摘し、評価しているのは登場人物グザヴィエールの人物造型だけである。だがそれさえも結局は女性しか描けない女性作家の限界であるとして、ボーヴォワールの小説家的な価値をほとんど認めていない。
 白井が評価するのは『第二の性』であり、確かにこの紹介文が書かれてから半世紀が過ぎた現在であっても、ボーヴォワールの著作として読まれ続けているのはほぼこの作品に限られるかもしれない。
 しかし、ここで読み返したいのはボーヴォワールの自伝的な作品である。もちろん文字通りの自伝と言える『娘時代』(Mémoires d'une fille rangée)、『女ざかり』(La Force de l'âge)もあるが、「私」が主人公でなくとも、語り手として近親者について、とくに近親者の死について綴った著作がある。母の死について書かれた『おだやかな死』、そしてサルトルの死について書かれた『別れの儀式』である。この二作を特徴づけるのは、ボーヴォワールの書くというよりは記録をしようとする観察眼である。前者ではたとえば「母はもはや生命の抜けがらであり、しばしの猶予をあたえられた死骸でしかない」と、母ではなくあたかも物と化した肉体を冷徹に描写する眼である。そして後者では、ボーヴォワールは自らを証人と位置づける。すなわち、この書はサルトルについて情報を求める人のための証言として書かれたのであり、そのためにサルトルを見つめる眼は、出来事の外側に置かれている。
 この書物はボーヴォワールが十年にわたってつけていた日記をもとにしている。日記とはまずは備忘録であり、日々の記録を集積したとしても、それがひとつの建物のように統一された構築物になるわけではない。むしろここにあるのは観察記録として残されたサルトルの日々の動静である。その動静は社会的な活動と老いと病に侵され意識さえ朦朧とする姿の対比である。そのサルトルの姿が日付とともに克明に記されている。
 この観察眼が象徴するように、サルトルとボーヴォワールのカップルの間には距離がある。実際二人はお互いをvousで呼んでもいる。もちろんボーヴォワールはサルトルの死への接近に絶望をする。またサルトルの「ぼくのカストールに辛い思いはさせたくないな、ほんのわずかでも」(Je ne veux faire à mon Castor nulle peine même légère)という言葉を書き留めてもいる。死の間際には、サルトルとの最後のキスが次のように描かれる。

四月十四日、私が着いた時、彼は眠っていた。彼は目をさまして、目を開かないまま私に何か言った。それから唇で私を求めた。私は彼の唇と、頬に接吻した。彼は再び眠った。

 それでもこのカップルは、共に生の時間を過ごし、また強く結びついてたとしても、決して「ひとつになる」ことはなかった。この主体のあり方をあいまいにするような恋人同士の融合という考えを、ボーヴォワールは決してとらなかった。それは『女ざかり』でも述べられていた。
 二人の間に厳然と存在する距離ーそれは、ボーヴォワールの死生観の反映でもある。ボーヴォワールにとっての死とは、人間の最終到達点ではなく、事故である。人間の存在には決定的な意味づけや価値づけはない。意味や価値の不在こそが人間の生きる確証であるとするならば、死はこうした人間の不断の意味づけを決定的に奪ってしまう暴力に他ならない。だから、わざわざボーヴォワールは最後に「彼の死は私たちを引離す。私の死は私たちを再び結びつけはしないだろう」(Sa mort nous sépare. Ma mort ne nous réunira pas)と書くのだ。死後を甘く彩ることなどボーヴォワールにはありえなかったろう。それほど死の事実は歴然としている。
 だが、このあとにボーヴォワールは最後のことばを書き記す。「こんなにも長い間共鳴し合えたこと、それだけですでにすばらしいことなのだ」(il est déjà beau que nos vies aient pu si longtemps s'accorder)。この日本語訳の「共鳴」に注目したい。共鳴とは決して一緒になることではない。そもそも共鳴とは二つのものが離れていなくては起きない現象なのだ。融合したものは決して響き合わない。主体の存在を前提としたnousであるからこそ、accordするのだ。「共鳴」こそ、このカップルの本質であったことを教えてくれる締めくくりである。

 ジャン・グレーシュは、1942年ルクセンブルク生まれの宗教哲学を専門とする研究者である。この書物は、パリカトリック学院で修士課程の講義をもとにしたハイデガーの『存在と時間』の注釈書である。2007年のこの邦訳はとても丁寧に訳されており、綿密な翻訳作業がなされたのではないだろうかと推察される。

 講義ということで、ハイデガーの基本概念の説明に配慮が行き届いている。第一章の最初は「気遣い」について。気遣いとは、「可能なものへと自らを企投する」ことであり、それゆえに、現存在は「開示性」を含んでいる。ここから生の未完成、「不断の未完結性」という存在論的条件が生まれるのである(p.305.)。

 ここから生まれる問いが「終わり」と「全体性」の性格づけであり、「死の現象」が登場する。
 まずグレーシュは死の現象を扱うにあたって、マルセルとハイデガーを対比する。マルセルにおいては他人の死によって私たちは、死が「現実的に何を意味するのか」を感じとる。ハイデガーにとって、他人の死によって死を考えるとは、他人の死を「代替主題」(Ersatzhema)として選択することになってしまう。グレーシュはレヴィナスに言及し、「他人との第一次的な関係を犠牲にして各私性に特別な地位を与えている」とハイデガーを批判する立場を紹介しつつも、慎重に検討を重ねてゆく。

 グレーシュは他人の死がもつ重要性を簡潔にまとめる(p.309.)。他人の死は、有史以来、喪の儀式を受け、その関係のなかにおいては生者にとって、死者は「死人」ではなく、「故人」であった。私たち生存者が学ぶのは、親しい者を失うことの意味である。だが、ハイデガーにとっては、それは同時に、「死んでゆく者自身が《被る》喪失そのものへの通路は開かれない。れれわれは真の意味では他人たちの死ぬことを経験しないのであって、せいぜいつねにそこに《居合わせる》だけである」という論述になる。(注:だが、死んでゆく者自身は、喪失について考えているだろうか。死に逝く者は己の喪失と同時に、自らよりも生き延びる者の生について、未来について考えるのではないだろうか。喪失そのものへの通路について考えることは果たして本質的なことだろうか。)そしてグレーシュは、他人の死の経験は、心理学的、人類学的な意味では重要ではあるが、ハイデガーが行なおうとしているのは、存在論的分析であると言う。

 さらに、ハイデガーは、「他人の代理として死ぬこと」=犠牲になることはできるが、「他人からその死を取り去ることはできない」と言う。この身代わりは、グレーシュのよれば、レヴィナスが倫理的な注意を向けていた概念であり、またハイデガーがそうした倫理的要請を考えていなかった点である。しかしグレーシュは、ハイデガーは倫理的分析と存在論的分析は裁断すべきであると考えていたと説明する。

「死ぬことは、それぞれの現存在がそのつど自らわが身に引き受けるべきものである。死は、それが《存在する》限り、本質的にそのつど私のものである。しかも死は、ある特有の存在可能性を意味しており、そこではそのつど自らの現存在の存在が端的に問題になるのである。死ぬことにおいて、死が存在論的には各私性と実存によって構成されていることが示されるのである。」

 このテーゼが「死の実存論的現象の探究」の根本に据えられている。
 もうひとつ厳密に峻別すべきなのが、医学的・生物学的な考察である。この考察で死を定義するならば、それは「終焉」であり、「死亡」である。そこに死を還元しないことが実存論的分析なのである。
 
 次に出てくる語は「未済(Ausstand)」である。この名称は、「現存在の特徴は死によってしか終わらない不断の未完結状態」をさすために用いられる。この未完結とは、終わり=完結とは見なされないことを含意する。グレーシュはここで、人の死が、必ずしも平穏な完結とはならないことを、アルツハイマーという具体性をもって強調する。総じて、「死の実存論的現象とは、終わりへの存在」なのである。

 続いてグレーシュは、ハイデガーが死の実存論的分析と実存的解釈のために準備作業を入念に施していることを指摘する。それが境界画定である。1)生物学および医学との境界画定、2)心理学、歴史学、人間学一般との境界画定、3)キリスト教神学との境界画定(これは死の此岸性と彼岸性の問題である)、4)形而上学との境界画定、これらの境界によって囲まれた空間が実存論的分析の活動領域である。

 次の語は「切迫(Bevorstand)」である。終わりへの存在であるわれわれが、死がまだ起こってはいないし、どんな形をとるのかも分からないが、それでもわれわれは死に「あらゆる瞬間において関わってしまっている」ことを意味する(p.316.)。この「切迫」は、さらに「もっとも固有な、もっとも没交渉的な、追い越し不可能な可能性」と説明されている。そして、「気遣いという構造的契機は、死への存在においてもっとも根源的に具体化される」として、気遣いという性格がここで関連づけられる。またここでうまれるのが「不安」である。その意味で死とは、「知りうる」対象ではないとされる。

 では日常における死とはなにか。それは、「われわれの周りで『人は死ぬ』」という出来事である。グレーシュはこの<ひと>について、ハイデガーが、「死ぬことは、本質的にそして代理不可能な形で私のものであるのに、<ひと>に起こることとして、公開的に目前へと現れる出来事へと転倒されてしまう」と説明する。(注:しかしここで考えてみなくてはならないのは、やはり死を私へと還元するのではなく、<ひと>という匿名性におかれている他者とはいったいだれであるのかを問うてみることが重要なのではないか。ここには<ひと>への圧倒的な無関心を指摘せざるをえない。ここにつづいて「<ひと>は死に直面する不安の勇気を台頭させないようにする」と引用されるが、グレーシュが例としてひくように、死に逝く人を前にしてその死を否定する近親者の回避の態度は、他者への無関心に他ならない。死に逝く人間が、いま生き残りとなる人間を前にして、どのような気遣いをみせるのか、そこにこそ、他者との本質的な関係性が描かれているのではないか。)

 さらに、死の日常的な確実性についてさらに問わなくてはならない。その意味は「死はあらゆる瞬間に可能である」という確実性である(p.320.)。では、そのような死に対する本来的な態度とはどのようなものであろうか。
 グレーシュは、「死への存在を可能性への存在」として規定することの意味を次のようにまとめる。まず第一は、企投の実現を目指すこと。これは自殺という形でのみ可能である。第二は、死のことをたえず念頭に置くこと。だが、ハイデガーは、このようにたえず死を考えることは、かえって、死への存在という可能性が可能性であることが逆に弱まってしまうと考える。第三は予期の態度である。そして予期は「可能性の内への先駆」という別の構造にとって代わられるとされる。
 「可能性の先駆」とは次の5つの特徴にまとめられる。1)現存在のもっとも固有な可能性、2)没交渉性ー関係の不在による絶対的分離とグレーシュは解釈する、3)追い越し不可能性ー有限な自由とグレーシュは解釈する、4)確実性ー「我死ニツツ在リ」という実存論的確実性、5)無規定性ー死への本質的不安。
 
 そして本来的な死への可能的存在の規定として、次の一節が引用される。

 「先駆は現存在に対して、ひとー自己への喪失を露にし、現存在を、配慮的な顧慮に第一次的には頼らずに自己自身であるという可能性へと直面させる。しかもこの自己は、情熱的な、ひとの諸々の幻想から解き放たれた、事実的な、その可能性自身を確信して不安になっている死への自由において自己自身であるという可能性である」

 この章を終えるにあたってグレーシュは次の二点を指摘する。

1)「情熱的」とはいかなる意味であるのか解釈を考える必要がある。
2)この規定はまだ本来的な死への存在の単なる可能性でしかない。

 したがって、「証言」、「証し」、「要求」という三つの概念が以後の分析の核となるとして締めくくっている。

 言語について考えることは実は文学について考えることである。この言語と文学の混同は長い歴史を持っている。まずはデュ・ベレーの『フランス語の擁護と顕彰』においては、「フランス語がギリシア語、ラテン語と比肩しうるためには、ホメーロス、デモステネス、ヴェルギリウス、キケロの作品と同じものを生み出さねばならない」、「詩人と散文家は、フランス語の殿堂を支えるふたつの柱である」といった主張が見られる。
 次に言語について語ることが、作家の名において語る、すなわち文学について語っている事象を取り上げる。ヴォージュラは正しい話し方は、「その時代の作家の最も正しい書き方にしたがって話すことである」といい、ブウールは、「優れた作家の文体には調和があり、その点においてフランス語はギリシア語、ラテン語に匹敵する」と言う。ヴォルテールの百科全書における「フランス語」の項目は、実際には作家について語ることに終始している(モンテーニュ、ロンサール、マレルブ・・・)。それは言語学者も同様である。メイエは、言語を豊かにするためには、作家の創意工夫によって、語が十全の価値を持つ事が重要であると考えていたし、バイイは、一見言語と文学の混同を厳しく断じているが、メショニックはたとえば次のような一節に、やはり混同の影を見つける。「間違った考えの源泉は、固有言語と、その固有言語が乗せて運んでいる文学作品の絶えざる混同にある」(une source intarissable d'idées fausse découle de la confusion perpétuelle entre un idiome et les oeuvres littéraires dont il est le véhicule)。このvéhiculeという語にメショニックは混同の根拠をみる。
 言語の領域から文学を除いているようでいながら、文学が顔をのぞかせる矛盾はアカデミー・フランセーズの辞書にも見られる。その第一版には、辞書の中に引用を載せていない理由は、「散文家や詩人がすでにこの辞書のために十分働いたからだ」と言う。文学言語はないが、言語そのものの定義が文学者によって作られているのだ。
 ある言語の優等性は、文学によって支えられる。特に18世紀にはその傾向が顕著で、デュボス、ヴォルテール、ディドロ、ボーゼなどフランス語の優等性は、完成された文学を持っていることによって保たれるとする。またフュルティエールやコンディヤックは、優れた作家によって言語ははっきりとした形をとるとする。だがこうした考え方は当然ながら文学を伝統の象徴とし、保守主義の動きと一体化するのだ。
 続いてメショニックはコンディヤックにおける言語の精髄と作家の果たす役割について言及する。すなわち言語とは民族の精神を表出するものであるが、その言語を進歩させて完成に近づけるのは作家の役目である。と同時に、作家はつねに新たな表現を紡ぎ出す存在でもある。
 こうして文学と言語を混同する考えは、文学に最高の規範を見出すことになり、そこに言語ヒエラルキーが形成されることになる。

 Setbonはその研究書Libertés d'une écriture critique, Charles Nodierの第一部の後半で、Nodierの詩の概念について整理をしている。Nodierは詩について多くの論評をしているが、その本質は、原初の言語における詩の価値と詩が果たしうる役割、すなわち理性ではなく、想像力に訴えかけるという役割であるとする。
 SetbonはChénier、Diderotに言及しながら、Nodierが「進歩と衰退」という芸術認識を引き継ぎ、芸術が洗練されるにつれて、とくに音楽と詩がその原初の力を失ってしまったといううこと、また文明化されていない無辜の民にこそ、音楽が当初もっていた魅力が残っているという認識に立ったことを指摘する。そしてこうした認識から、Nodierは擬音語辞典を編纂し、そこで、言語の起源と音の模倣によって生まれた語が、その物理的秩序を離れていかに抽象的な概念にまで達するかを検討したとする。
 つづいてSetbonはNodierのNotions〜から、詩が自然の模倣(harmonie imitative)から生まれたとする箇所を引用しているが、ここで対立するのが詩がstyleであるという考え方である。この引用文を読む限り、Nodierにとって詩の源泉はstyleではないということだが、実際にはNodierは擬音語辞典においても多数の古典主義作家を、そして彼らの詩で使われているオノマトペを評価している。これは作品そのものの評価でもあり、彼らが自然を模倣しているからとは断定できない。この点を慎重に考える必要があるだろう。
 SetbonはGenetteの論文を紹介し、「Nodierはクラチュロス主義の陣営に入る」こと、詩は詩人という天賦の才能をもった人々だけのものではなく、人間そのものに本質的な言語能力であること、そして音それ自体へのNodierの価値づけはそれまでのDe Brosse,Court de Gébelinとは違う言語論になっていること、そして、Nodierが後世のProust, Leiris, Bachelardといった「語の夢想者」につらなる、とまとめている。特に18世紀からの影響については、当時Nodierがそうした学者たちの後継者とみなされていながらも、Genetteによれば、文字システムの理解において、Nodierは彼らとはかなり違う位置に立っているとして、Nodierが単に18世紀の最後の後継者であるという考えが否定されている。
 Setbonが次に言語思想の系譜として指摘するのはRousseau, Chénier, Saint-Martinである。その『言語起源論』では、根幹となる語は、自然の音の模倣、もしくは感情の強さか、物がもたらす効果によって生まれてくるとされる。Chénierは原初の言語と衰退した現在の言語の対比から、オノマトペ豊かであった古代を憂愁をこめて懐古する。
 さらにSetbonは、JudenのTraditions orphiques et tendances mystiques dasn le Romantisme français(1800-1855)に依拠しながら神秘主義との関連性に言及する。特にSaint-Martin, LowthそしてFabre d'Olivetを引用し、詩が当初果たしていた、自然の中における真理の発現という思想と、Nodierの「イデーとイマージュの衝突を楽しむ自然の感情」という表現を連関させている。またSaint-Martinの「詩が単なる語句をひねり回すだけの芸術となってしまった」という批判も取り上げて、両者の連関性を示唆している。しかしながら、確かにNodierの引用にはイデーの文字が見受けられるが、Nodierは神秘思想的な解釈から詩を考えていたとは断定しにくいように思える。むしろ詩は、言語の発生における自然との一体性、人間の感覚は、真理の把握ではなく、あくまでもことばと物との一致における幸福感にあるとNodierは考えていたのではないか。この幸福感については論考を深めなくてはならないが、夢想とはまさにこの幸福感のことではないだろうか。
 またSetbon自身も言及しているとおり、Nodierの詩は、言語の起源に結びついている以上、観念ではなく語に焦点をあてなくてはならないだろう。La poésie est donc, à proprement parler, l'imitation du premier langage de l'homme「詩とは従って、本質的に、人間の最初の言語の模倣である」。そして注に引用されているNodierのテキスト、la parole n'est que la monnaie de la sensationの一文はことばと概念の一対一対応にNodierが否定的であったことの例証として注目に値する。
 ただし、Setbonは続いて、Charles BruneauのHugoとNodierの言語観の共通性に言及しながら、Nodierにおいて言語の起源は創世記の「創造神話」と当然ながら関連づけられていることを指摘する。そしてもう一点、言語は最初発声だけの(vocal)、分節化が十分なされていないものであったことが付け加えられる。こうした指摘は、Bruneau, Judenに沿うものだが、あまりにも神秘主義、神知学にNodierを近づけすぎているきらいがある。
 さらにSetbonはBonald, Ballancheのテキストを引きながら、アダムの言語、およびバベル以後の言語とNodierの言語観の親和性を主張する。しかしながらたとえばBallancheの思想の根幹には、引用文に依拠するかぎり、物の本質を知ることと結びついているが、Nodierにこうした「語を通しての本質の発見」という考え方はあったであろうか。この点については疑義を呈さざるをえない。Nodierの考えはそれほどメタフィジックなものではない。Setbonはアダムの言語観への留保としてGenetteを引きながら、Nodierが「言語の多様性が原初から存在していた」ことに価値づけをしていたことを指摘して、単なる神話的な言語論に陥っていないことを示している。その意味では、言語は民族への還元されうる。だが、Genetteが言うようにここで強調しなくてはならないのは、それぞれの風土の機械的な影響というよりは、それぞれの風土がもたらす自然との直接的な触知こそが、民族の言語の創造の根底にあるのだという点だ。
 ではその始源のことばにいかに近づくのか。それは語源を探ることによってである。Ballancheの引用は示唆に富む。「語源学とは真理の言述であり、まず語同士の真のつながりを見出し、そして起源における語と物との関係を見出すのだ」。確かにBallancheは言語の神的起源という考えから離れてはいない。しかし同時に言語と詩と社会がそれぞれ同時に生まれたことを指摘する。その意味で、言語思想においても神の撤退はもうすぐだったと判断できるのではないか。肝心なのは詩ではないのか。詩こそが原初への回帰を可能にするのではないか。では詩とはなにか。それは単なる名付けではない。それはメタファーである。
 次にSetbonはNodierの原初の言語への考えは、決して過去への郷愁に結びつかないことを指摘する。詩には創造という営みがあるからだ。そしてその詩とはシンプルでナイーブなものである。このあとにNodierによる詩人たちへの評価が続く。トゥルバドゥールの否定、マロの評価、そして詩だけではなく、argotに対する一定の評価、そしてpatoisの評価である。
 次に設けられる項目が「詩と想像力」であるが、そこでの引用で重要なのが、Malheur au poéme où il n'y aurait que des vérités mathématiques.「数学的真実しかない詩に不幸あれ」。数学的真実とは言語と観念が一対一対応をみせる完全言語のことであろう。ここでのSetbonの主眼はJudenにならって、詩のもつ魔術的魅力ー知覚対象の自然を詩にうたうことを通して、始源へと記憶を遡るー、それは想起の力と言えるだろうが(magie évocatoire)、それは秘教的体験とする必要はないだろう。むしろ言語をそなえた人間の普遍的な触知能力と言えるだろう(むしろGenette, p.252「代数学ではけっして計算以外のことはできないだろう」という引用への注を参照すべし)。Judenのいう詩のもつ「想起の役割」(le rôle mnémonique), 「絶えざる違和感」(perpétuel dépaysement)については、Nodierにそれほどのノスタルジーを認めなくてはならないかどうか、あらためて検討する必要があると思われる。もちろんNodierのpoésie descriptiveに対する批判、affectationやornements superflusへの嫌悪は妥当であるとしても。したがって、Setbonの指摘のなかで重要であると思われるのは、ce contact physique avec la natureということだ。この自然という物(対象)世界と物理的に接触をすること、これがNodierの体験の根幹にあるのだと考えられる。それが幻想の否定に結びつくかどうかは、あまり重要ではなく、この物理の世界から離れて、言語の自律構造を描くことがNodierには不可能であったことが、「夾雑物としての文学」ということにつながると主張したい。
 結局ここにあるのは音楽や創造と結びついた始源の詩と、18世紀における人為にはしった詩の失墜の対立だ。18世紀の詩とは、mesureやrimeによって詩が出来上がるという態度であり、Nodierはversificationの不毛さを徹底的に批判する。こうした批判はすでにSchlegelやMme de Staëlにもみられるものであった。これらの批判者は詩における魂との結びつきを強調した。さらにLamartineは「語の律動による感覚への訴え」と「思想の上昇による魂への訴え」の両方を満たすものだという立場を表明する。それに対してNodierは「詩は思想の総体であって、高貴で輝かしいフィギュールをもちいるもの」という理解にとどまっていたとSetbonは結論づけている。

Mona Ozouf, Jules Ferry (2005)

 本書は歴史家Mona Ozoufが一般向けに行なった講演を冊子にしたものである。この短い講演の趣旨は、Jules Ferry(1832-1893)の再評価である。
 Jules Ferryといえば、第三共和制において義務教育の拡充をはかった人物であり、また同時に植民地拡張政策を推進した人物である。後者については、たとえばTodorovはその著書『われわれと他者』(nous et les autres)のなかで、わずかなページではあるが、全国民の文化水準を上げるための無償義務教育の政策と、教育と文明化の使命を帯びた植民地政策に連続性をみて、痛烈な批判をしている。
 しかしながら、この小著では、当時、左右両派から非難を受け続けた政治家に潜む偉大さを掬いとる試みがなされている。
 まず最初にFerryの生まれてからの政治家になるまでの足跡が簡単に述べられているが、この中で取り上げたいのは次のニ点であろう。第一点は、Ferryが旅行するなかで、イギリスの現実主義的な気質に触れたこと(p.13.)、第二点は、若いときに二月革命から第二帝政、すなわち「共和制の敗北」(p.16)に遭遇した世代であるということである。
 こうしたFerryの若い時の時代を素描した後で、Ozoufは、Ferryには解くべき3つの謎が科せられたとする。1)中央集権化。ここでOzoufは、FerryがToquevilleにならって、政治的な中央集権と行政的な中央集権を区別し、国家に対して社会が自律して、「自由な議論と会合ができる体制」を重視していたことを指摘する。2)共和主義体制の不安定さ。3)フランスが孕む対立項。この対立項とは、フランス革命を肯定するのか、否定するのかという対立である。
 この2), 3)の解決としてFerryが持ち出したのが、フランス革命と共和主義を切り離して考えるという視点である。そしてここでもOzoufが強調するのは、Ferryが、フランス革命における国民の単一性は結局専制主義的な形でなされてしまったのに対し、この単一性は、あくまでも自由において、たとえば出版の自由、地方自治や組合(p.31.)のような中間団体の設立さえも可能とする自由において、うち立てられなくてはならないと考えていたことを強調する。
 この自由の確立において、教育の問題も考えられる。Ozoufの後半の主題はこの教育における自由の問題である。それは次のようにまとめられよう。
 学校制度においては共同体の精神原理として、神という絶対的価値基準、すなわち宗教的な価値基準ではなく、フランスの歴史という過去の共同性を置くことが、フェリーの関心の中心となる。共和国においては、フランス革命によって根こそぎにされた近代ではなく、それ以前から脈々とつながる「フランス国民の魂」こそが統合の原理となる。したがってフランス革命時の共和主義移行によって否定された王や臣下たちが、歴史的な対象として学ばれる。すなわち、フランス革命による断絶を修復し、歴史による過去の共同性によって統合原理を構成するのがフェリーの目的である。教育こそ、19世紀以来なんども倒されてきた共和国を安定させる鍵であると、フェリーは考えていたのである。
 この共同性さえ学校という公的な空間で構成できれば、宗教は、18世紀の啓蒙主義のように無知蒙昧の迷信、国家の敵とはならない。それどころか、フランスという国はキリスト教による安寧のもとに成立していることをフェリーは進んで肯定する。フランス人の心性がキリスト教にあることを認めているのである。フェリーはナポレオンによるコンコルダートさえ否定することはなかったのである(その破棄は1905年の政教分離法である)。このあたり、Ozoufは、Ferryの現実主義的な考え方を例証している。

 では自由とは何だろうか。OzoufはFerryが女子教育にも力を入れたことを述べているが、その理由を次のようにまとめている。

Il s'agissait bien de former des femmes capables de partager avec leurs époux le goût de la discussion politique et le souci de l'éducation civique des enfants.
 
女性を、政治的な話題への興味や子どもの市民教育への配慮を夫とともに分かち合えるよう、教育することが主眼であった。

 つまり女性にplus de lumières「より多くの知性」とmoyens critiques「批判的方法」を与えることがその目的であったとOzoufは指摘する。

 Ozoufは、Ferryのなかに自由と批判的精神が堅固に結びついていることをこの講演の主題としているのだろう。自由とは批判の精神である。ではcritiqueとは何だろうか。それは、このFerryの思想に従うならば、自ら思考し、相手にその思考を伝える言語化の技術であり、ある価値を鵜呑みにせずみずから検証する作業であり、そしてそうごにその意見を交わして議論するための知的活動である。そしてわれわれには、われわれの意見を書き、話し、議論する自由があるということ。Ozoufはこの自由の保証こそが、共和国を永続化させるための根本であるとフェリーが考えていたとする。そしてフランスという国家の単一性を自由の上にうち立てようとしたことに(p.61.)ことにFerryの独自性をみているのである。

 Mona Ozoufは、1931年生まれ、今年78歳になるフランス革命、および近代フランス学校教育制度を専門とする歴史家である。しかし本人のインタビューによれば、彼女は自らを«demi-historienne»「半歴史家」と呼んでいる。その理由は彼女が歴史学の専門教育を受けたことがないということ、もともとの専門は哲学であったことに由来している。だがこの肩書きは新著Composition Françaiseの著者としてのMona Ozoufにこそふさわしい。この作品でのOzoufのエクリチュールは、歴史と自伝のあわいを縫って、ブルターニュの過去をよみがえらせる。半歴史、半自伝の書である。
 'universelとle particulier。普遍と特殊。前半のブルターニュでの生い立ちも、後半のフランス革命以降における、共和主義とその批判も、この普遍と特殊を軸として描かれている。
 前半は、家庭(ブルターニュ)、学校(フランス)そして教会(信仰)の相反する関係を描く。そしてその3者を行き来する主人公が他でもない「私」である、「私」を形成してくれた大人たちである。その意味では自伝に近いのだが、この少女の「私」はもう一人の「私」、すなわち、現在の歴史家としての、78歳となった老齢の「私」によって、洞察を加えられ、その周囲の歴史的状況に置き直されて語られてゆく。
 そのため、私たちの前に描かれるブルターニュの日々は、一人物の想起だけで織られている私的な物語ではなく、また乾いた出来事の羅列でもない。人々の生は、決してその時代、社会、共同体に還元されてしまうものではない。ブルターニュのアイデンティティといっても、そのアイデンティティを何に、さらにはどのような行動に求めるかは、ひとりひとり異なる。その個人の選択、とまどい、思い込み、錯誤を、祖母、父、母、そして私という家族の肖像を通して叙述したのがこの作品の前半である。そしてこの個と普遍を巡る問いは、作品の後半、Ozoufはこれまでの研究を振り返りながら、フランスの共和主義批判においても一貫している。
 個はたしかに、言語、宗教、土地といった所属なしに生きることはできない。そうした属性を剥いでしまうのは幻想であり、それは幻想としての共和主義である。しかし同時にこれらの所属は、個を支配する属性ではない。個人がそこに従属してしまうならば、共同体主義は一つの信仰、ヒエラルキーとなってしまう。この共和主義でもなく、共同体主義でもない位置にMona Ozoufは立つ。しかしそれは折衷主義ではない。Ozoufの立場は、革命以前の過去を含みこんだ共和主義を立案したとOzouf自らが分析するFerryに近いように思える。フランスの過去や、地域と特性は、フランスの要素として構成しなおされる。この第3共和制における教育の体制化と歴史観に立ち、しかしその歴史に束縛されるのではなく、むしろそこから離れる自由をもった個人によって構成される共和制こそ、Ozoufの描く共和主義である(ただし第3共和制においても言語の問題だけは特殊なものとして取り残されてしまう)。
 私たちは歴史、社会の中で生きている。そのため必然的に自分が自分の生を決定しているようにみえて、実はイデオロギー、風習、伝統に絡めとられて生きていると言わざるをえない。しかしそのような制限を受けながらも、私たちは自分の生においてそのつど小さな決定をしてゆく。この生の具体性を歴史の客観性のなかに埋没させないこと、それが文学をもっとも愛しているOzoufが試みたことである。
 Ozoufはあるインタビューに答えて、「雑誌のなかにはこの本はOzoufの遺言だという評があるが、かならずしも気分のよいものではない」とユーモアをたたえて答えているが、しかし父の死から、はじまり、パリでの教育をうけ、共産党員としての活動、そしてやがて歴史家へといたる道筋は、たしかに晩年に想い描く自分の存在史に近い。だがOzoufはあくまでこの書を「私」の物語としては描いていない。ここにあるのはやはりひとりの歴史家の、透徹した時代観察による記録であり、フランス革命の歴史家としての思索の歩みなのである。

Roland Barthes, Journal de deuil (2009)

 『喪の日記』と題されたRoland Barthesの遺稿は、母の死の翌日から書き留められた日々の断章からなる。これらの断章は、330枚のカードに書かれて残されていた。Barthesの著作には頻繁に断章形式が用いられるとはいえ、この日記はそうした作品群に属するものですらなく、日記というよりも、むしろ「覚書」と言った方がよいだろう。いずれはこの断片から、喪についての作品が生まれるはずであったのだろうか。

 日々の覚書は、ときに文ですらなく、単語が並べられただけの脈絡のない時もある。それらの単語は、自らの意味を見出すことなく、ただ母の永遠の不在のまわりにただようだけだ。ことばを「言う」ことはできる。しかし「表現」することはできない。それが実は喪の証しとなる。表現できるならば、それは「文学をする」こと、母を文学として語ることになってしまう。それはBarthesにとってはこの上ない恐れである(p.33.)。そもそも言葉にすることは不毛なのだ(l'insignifiance de notre verbalisation, p.260.)。
 しかし、それでも記憶をとどめるものとしてBarthesは日記を書く。

 Barthesはdeuilをnévroseという病理の状態と峻別する。フロイト自身はdeuilとmélancolieを分け、むしろ後者を病理的な症状とみなしているわけだが、それにもかかわらずBarthesは、フロイトを念頭においたうえで、deuilという言い方はあまりにも精神分析的だと言う(p.83.)。すでに『恋愛のディスクール』において、«Cette tristesse n'est pas une mélancolie»「この悲しみは鬱ではない」という文章に出会うが、日記の中でも喪の病理性は否定される。「母が生きていたときのほうが、母を失うおそれのあまり精神症にかかっていた」。そして「むしろ喪は、それゆえに神経症ではないのだ。むしろ母の死は、そうした病理を遠くへと追いやってしまったのだ」(p.140.)と。つまり喪は精神分析の対象にはなりえない、それがフロイトへの違和感の表明となって現れているのだ。
 だが同時に喪が病でないということは、それは治癒できる対象ではないということだ。やはり『恋愛のディスクール』において、喪は「治癒」という進歩的なものではないと言われている。喪とは回復するものではないのだ(p.18.)。もし人間存在、人間の生の根拠が、可変可能性であるならば(人間は変わってゆく存在である)、喪の苦しみがやまないということは、「変わりはしない」という意味で、その人間が死んでいるというのに等しい。
 他者の死は、自己の生を無化していまう。Barthesは言う。「愛していた人が死んだあとも生き続けるとは、思っていたほどその人のことを愛していなかったということだろうか」(p.78)。喪とは死者への後悔の念でもある。もしかしたら自分が思っていたほど愛していなかったかも知れないとは、それは死者への取り返しのつかない後悔となる。

 先ほど述べたようにBarthesにとっては喪ということばは、自己の内面を「表現」することばとはならない。彼が何度も用いることばはchagrin「悲しみ」である。Chagrinと対立することばとして、やはり何度も現れるのがémotionである。
 Chagrinとémotionはどう異なるのか。Émotionとは、自らの身体における動きであり、反応である以上、身体は受け身の状態にある。またそれは刺激である以上、ある緊張を強いたあとは、鎮まってゆき、また私たちを襲うような現象であろう。しかしchagrinは鎮まりはしない。「悲しみはすり減らない」のだ(P.81.)
 
 その喪とは他者には見えないものだ。その人がどのような悲しみの淵にいるとしても、その悲しみを抑えて人は生きる。Barthesはいう「もっとヒステリックになって、沈鬱な表情を見せて、みなを追い返し、社会のなかで生きるのをやめてしまえば、私はそれほど不幸ではなかっただろう」(p.139.)それでも喪は内に秘められれば、それを示す外的な指標はない。

Au deuil intériorisé, il n'y a guère de signes. C'est l'accomplissement de l'intériorité absolue. Toutes les sociétés sages, cependant, ont prescrit et codifié l'extériorisation du deuil. Malaise de la nôtre en ce qu'elle nie le deuil.

 社会は人々にその喪を外の表現することを、一定の儀式にのっとって喪を外に表現することで、喪の作業を遂行し、そこから回復することを強いるのだ。だから社会は喪を否定する。

 ここに集められた断片は「覚書」に近い。だが、やはり覚書ではなく日記であるのは、これが日々の記録、その日のうちに書き留められたであろう記録であることだ。その集積の意味は、喪は決して終わらないということである。昨日と今日は違う一日だ。しかしそれでも今日も悲しみに浸される。日記とは終わらない喪である。

 心に石を抱いて歩いてゆく。だがときに目にみえぬその石の重みに耐えられず、体がよろめきくずおれる。そうした比喩を思い出す。言葉はそのやせ細った体の杖となれるのだろうか。

 「終わらない戦後」。石原吉郎は1953年、シベリアからの引き揚げ船に乗った811人のうちのひとりとして舞鶴に降り立つ。8年という時間の流れは日本で暮らす人々にとっては、戦争を過去へと流すに十分な時間であった。確か『東京物語』が同じく昭和28年ではないだろうか。わずか8年であるが、戦前と戦後の切れ目を意識するには十分な時間であったようだ。

 一方復員兵にとっては、その8年は麻痺した時間に等しい。極限を生きた体を背負って帰ってきた者は、まさに「浦島太郎」(p.22)のような状況に置かれたのだろう。端的に言えば、「忘れられた」(p.84.)存在である。戦争に動員され、シベリアでの強制労働を体験し、そして日本に戻ってくれば、故郷でさえ歓迎されることはない。生と死を彷徨いながら、それでも生きているとするならば、その生はどこによってたつものを求めたのだろうか。もはや「兵士として」、「抑留者として」、「日本人として」生きる可能性はすべて絶たれている。それらがすべて裁ち切られたあとに残ったのが、筆者のいう「人間として立とうする」(p.69)意志ではないだろうか。そして人間として立とうとするとき、石原の眼前にはおびただしい死者という人間が浮かびあがってきたのではないだろうか。

 では、強制収容所における人間と人間のつながりとは何か?それは「共生・連帯・民主主義」である。だがその意味は、「お互いがお互いの侵犯者」であることがわかったうえで、自らの延命のために、成立する約束である。二人一組にスープが、毛布が支給される。自分の命を維持するためのつながりでしかない他者は、用がすめば圧倒的な無関心の対象である。すぐそばに人間がいる。しかしその人間にはまったく関心が注がれることはない。そして最終的に至る地点は、自己への無関心である。自己の単独性をはぎ取られ、数として、つまり無名の他者として自分自身も死んでいくあり方、しかもそうした自己の死へも無関心である状態である。

 そうした「猿のような」状態を反転させうることができるとしたならば、それは、死をみとる者がいることではないだろうか。「死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、一人一人その名を呼ばれなければならないものなのだ」(p.99. 「確認されない死のなかで」)。だから私は生き残りなのだ。無数の死者の名前を、その限りにおいて固有の死者を覚えている者として。だがそれは自己の正当化ではない。むしろ、自分が他者を凌いで生き残ったことを問い続けることでもあるのだ。ここに体験の特殊性、死と他者の結びつきの特異な体験がある。他者を押しのけて生きてきた、「加害と被害」の特異な体験である。あるいは、それは実は私たちの、薄められているが日常に偏在している「他者を押しのけて生きる」、犠牲にして生きることの、もっとも壮絶な形なのだろうか。

 第4章には、石原と同じようにシベリア抑留を体験した人々、あるいはその家族の話がおさめられている。そこには60年を経てようやく語り始める人、最後まで固く口を閉ざしたまま亡くなっていった人、その家族の話がおさめられている。ここからは筆者の死者の固有性を書くことで残そうとする強い意志が、ひかえめな筆致から浮かんでくる。私たちの日常のなかで、人々が歴史にならぬ証言、証言ともならぬ体験を抱えて生きていること。その人間たちが今も死に逝こうとしている。その人たちの固有の人格を少なくとも名前としてでも記録すること。それが今を生きる生者の私たちの記憶になるのだろう。

 リクールは、この著書の第一部第三章で個人の記憶と集団の記憶の関係を扱っている。個人の記憶を語るにあたってリクールが援用するのがregard intérieur「内省のまなざし」である。そして「誰が」想い出すのか、という点に留意をすることのなかった古代ギリシアの思想家たちに対して、「内省のまなざし」の伝統の端緒に位置づけられるのがアウグスティヌスである。リクールは『告白』の第十巻、第十一巻を検討しながら、記憶と時間の問題が、個人の内面、において展開されることを述べる。

«C'est moi qui me souviens, moi l'esprit»(Ego sum, qui memini, ego animus. 山田訳は「記憶するのはこの私、すなわち心としての私です」。第十巻第十七章25)

 アウグスティヌスの内面とは「苦しみの探究」に他ならない(une quête douloureux de l'intériorité, p.118.)。なぜなら告白の時とは、悔悛の時であり、その悔悛は、記憶と自己への現前における苦悩(「記憶なしには、私は私ということばすら発することができないはずなのに、その自分の記憶の力を、私自身完全にとらえることができないのです」山田訳p.352.)と結びつけられているからである。

 リクールはアウグスティヌスの個人的記憶を語るにあたって、記憶の3つの特徴をまとめている。
1) 記憶は、体験と同じように共有不可能な単独のものである。
2) 記憶は人格の時間的同一性を保証する。ここでリクールはsouvenirとmémoireを区別する。前者は複数形で、それらが意味合いによって並べられたり、断絶がありうる。それに対してmémoireは単数形であり、時間を切れ目なく遡ることを可能にする。したがって、記憶は、souvenirが断続的であったとしても、そして現在の自己が、切り離されたsouvenirに現在の自己との異質性を認めるとしても、その異質な自己も自己であることを保証するのだ。
3) 時間の流れの方向性(過去から未来へ、未来から過去へ)を定めるのは記憶の働きである。
 この3つの特徴によって、「内省のまなざし」の伝統がうち立てられる。そしてアウグスティヌスがこの伝統の最初に位置づけられるのは、キリスト教への改宗という内面的な出来事ゆえである。リクールは、「内省のまなざし」がその頂点に達するのはフッサールであるとし、ロックによって扱われるアイデンティティやカントによる「主体」といった問題は、アウグスティヌスには現れてはいないが、アウグスティヌスの重要性を記憶の分析と時間の分析を結びつけた点に認めている。

 アウグスティヌスにおいては、「わが神は、わが内なる人間にとっての光であり、声であり、香りであり、食物であり、抱擁なのです」(第六章8)と言われる通り、神が求められるのはわが内面である。そして自己の内面とは、記憶の「宏大な広間」(第八章12)である。記憶は、宏大であり、かつ対象を想い出すとき、私はその時の私自身も想い出している。
 とはいえ、記憶には忘却がつきまとう。記憶は「広間」であると同時に、思い出の「墓地」にもなりうる。この忘却を超えて、記憶の偉大な力を確信するも、アウグスティヌスは、神に達するためには、記憶すらも超えてゆくという。ここにも大きなアポリアがある。

«Si c'est en dehors de ma mémoire que je te trouve, c'est que je suis sans mémoire de toi ; et comment dès lors te trouverai-je si je n'ai pas mémoire de toi ?» (山田訳「もしも私の記憶の外にあなたを見出すのだとすれば、私はあなたを記憶していないはずです。けれども、もし私があなたを記憶していないとすれば、どうしていまあなたを見出すことができるのでしょうか」第十七章26)。

 第十一巻で問題になるのは「時間の計測」である。時間とは流れてゆくものであるが、実際に計測可能なのは過去と未来である。ここでリクールはdistentioという概念によって現在を3つにわける。過去の現在=記憶、未来の現在=期待、現在の現在=注意である。アウグスティヌスも同じように言う。「それにしても現在の時は、測られるとき、どこから来たり、どこをとおって、どこに過ぎ去っていくのでしょうか。どこからーもちろん未来から。どこをとおってーもちろん現在をとおって。どこへーもちろん過去へです」(第十一巻第二十一章27)。

 個人の内面における記憶と時間の関係。これを基礎として、リクールは共同の記憶へと考察を進める。

 キリスト教について考え始めるとき、常に頭をよぎるのは、ユダヤの民から発生し、現在の中近東のあたりの一地域における教えであり、さらに2000年前の歴史的事象でありながら、民族、地域、時を問わず信仰を持ち続ける人々が依然存在しているという不思議である。なぜ民族、地域、時を超えて、ひとつの普遍宗教であり続けるのか。あまりにも大きな問いに、答えるすべを見つけることは自分には到底手に余る。
 ユダヤ教は、その発生においては民俗宗教的な色彩が濃かったはずである。というよりもむしろ、ユダヤの社会の中に人々の行動指標として根付いていたものではなかっただろうか。その意味で、ユダヤ教という宗教は、きわめて選別的ではなかったか。そして、その社会の中に生まれたイエス・キリストの教えは、その社会的規範に背くような、大きな社会的運動であったのではないか。すなわち、漫然と社会生活を送るその態度そのものに、きわめて鋭く切り込む思想がイエスの教えだったのではないか。
 宗教について考えると、それが社会とどういう関わりをもつのか考えざるをえない。社会生活を普通に送りながら、宗教的に生きることは欺瞞でなくして果たして可能なのか。宗教の教えを実践していけばそれは社会的規範とぶつかってしまう、あるいは社会に生きることは漫然と生きることに見えてしまう、そのような思いにとらわれないだろうか。ならばむしろ社会における生き方自体を宗教の教えで染めてゆく方が、宗教的に生きるための最良の方策となるのではないか。あるいは、自分を社会的には消してしまい、いわゆる隠遁のように生きるべきか。おおよそ、社会のなかで正気をたもって生きてゆくことは難しい。宗教を考えなくとも、ふと自分の生活を意識し直すとき、そのような思いにかられることは決して不思議ではない。

 宗教の教義をもし文字通りにとらえ、さらに押し進めていくならば、通常の社会に生きる人間にとって、宗教的な実践は困難をもたらすものであり、ときに、その教義は、およそ尋常な人間の生業を超えたものを要求することもある。罪という考えひとつとっても、まったく罪なく人生を終えることなど、できはしない。日常を生きる身にとって、教えのままに生きることはきわめて困難な道である。
 そうした思いから次の山田晶の解説の一節を読んでみる。

しかしそれは(人間が生の悲惨さから逃れ、救済されるということ)、普通の人間にはできない。えらばれた聖者が、清浄無垢の生活により、即身に救済を成就する。信者は、聖者の説教を聞き、聖者の行なう秘儀にあずかり、これに生活の資を供養することにより、聖者を通して救われる。(p.25)

 マニ教が、キリストを自分の教理のうちにうまく取り入れた例証としての解説文であるが、このように「普通」の人間と「聖者」を区別することは、まさに普通の生活をしていても救済はされないという事実を如実に物語っている。
 山田晶の解説によると、『告白』は懺悔録であり、賛美録でもあるが、実はどちらも『告白』の意味としては不十分であるとする。なぜならば懺悔の告白をし、今自分が許されているという感謝の気持ちが表明されてはいるが、その罪の告白は自らの力ではなく、告白せしめる者、すなわち神によるのであり、それゆえの感謝の気持ちだからである。この一連のアウグスティヌスの道程を考えるならば、『告白』以外の題はありえないだろう。

 この救済という考え。そして社会において普通に生きるという人間の状態。こうした宗教と社会の距離がもっとも広がるのは死の考えではないだろうか。社会という現実世界の中で死ぬとは肉体的な死である。それに対して、救済とは、精神に関わる生死を問題にする。アウグスティヌスが引用する、死の性とは「原罪によって神の恵みを失った状態」であり、その状態にとどまる限り人間の生は死の性を帯びているとされる(p.59.の注より)。
 また「地上の人生」とは試練に他ならない(p.366.)。注に言われるように、ここにはアウグスティヌスの「悲痛の感情」がある。この現世を生きるかぎり、私たちは悲しみにうたれ続けるのだ。そしてアウグスティヌスにとって最も深い悲しみとは母の死ではないだろうか。
 石川美子『自伝の時間』が、『告白』におけるアウグスティヌスの喪の苦悩について語っている通り、母の臨終は、大きな悲しみと癒されることのない喪の体験である。しかし母は、故郷の夫のそばに葬ってくれなくともよい、ここに葬ってくれればよいという。この地上のどこでもよい。ただ「主の祭壇のもとで私を想い出して」くれるならば。現世に執着する必要なない。なぜならば、人は完全に死ぬのではないから。「テサロニケ人への手紙 第一」からの引用による注にあるとおり、「ほんとうの死とは、神にそむいて罪のうちにとどまること、つまり霊魂の死である。義人は、たとえその霊魂が肉体からはなれても、復活の希望のうちに眠っているのであるから、完全に死んでしまったわけではない。そえゆえ信者の死をかなしむべきではない」。これが宗教的な死の考えである。だが、これは私たちの普通の生とはかけはなれてはいないだろうか。
 アウグスティヌスは、はっきりと言う。「母はみじめに死んだのでもなく、完全に死んでしまったのでもありません」(p.318.)。ではなぜ心にひどい苦痛が生まれるのか。それは「私の生と母の生とからできていた一つの生は、いわばずたずたにひきさかれてしまった」からである。この一節には、信仰者でなくても、あるいは死に逝く者が母でなくとも、喪の状態にある人間の、ひとつの普遍的な心情が語られているように思う。私たちにとっての死とはなによりもまず死に逝く者の死であり、その死によって、他者との関係で成り立っていた私の中の何かの死である。この喪失の意識こそが、私たちの癒すことのできない悲しみの意識ではないのか。
 アウグスティヌスは、彼の喪の感情を告白する。「けれども私は終日、心の奥底においては、重い悲しみに沈んでいました」。悲しみを癒すために「入浴はしてみたけれども、する以前と少しも変わりませんでした」。心の奥底の、決して弱まることのない悲しみーこれが喪の素直な状態ではないか。アウグスティヌスは続ける。眠ってすこしは和らいでいた心の悲しみが、「あなたのアンブロシウスのあの真実にあふれる詩句を想い出し」、母を奪われたという思いによって、ふたたび強まり、「涙をもって心の床」としたと。しかし最後の段落は私をとまどわせる。アウグスティヌスは続ける。母のために泣いたことを罪であると認める者があるならば、その人こそ、神に向かってわたしの罪のために泣いてほしいと。信者の死を悲しむべきではないーその意味で他者の死に涙することは罪なのだろう。しかし、その罪を指摘する者に泣いてほしいというときのその涙は、はたして人間の罪深さに対する涙なのだろうか。それは、他者の死において涙を流すことしかできない、人間の性について泣いているということでにはなりえないのだろうか。私たちは他者の死を、愛する者の死を嘆くようにしか生きざるをえない。その生き方自体への涙ではないのか。もしそのように解釈することが許されるのならば、アウグスティヌスの言葉は宗教の地平から私たちの生の具体的在りかの地平へと降りてくるのではないか。

 イェルペルセンは、その著書『言語』の冒頭で、「言語の科学」の始まりは、言語が複数存在していること、言語の起源、言葉と物の関係などの問いが生まれたときであると述べている。この部分が、古代の、科学未満にとどまる言語考察の書き出しであるとはいえ、言語について考えを押し進めてゆくと、この始まりと有契(縁)性(motivation)をどうしても考えざるをえないのではないか。『言語』の第二部が子ども、第三部の第一章が外国人であるのは、最初は驚くが、子どもは言語を話し始めてゆく起源の問題、外国人は言葉と言葉が接触によって生まれる「誕生」と「歴史的変化」についての考えの反映なのではないだろうか。
 西洋の18世紀は、まさに「言語の起源についての試論の時代」である(Droixhe, linguistique..., cité par Berbounioux, «L'origine du langage : mythe et thérie», p.20)。そして言語の起源をintrospection(感覚表現による言語の形成)と、interation(人間同士の伝達の必要性からの言語の誕生)の大きく二つに分類すれば(Cf.Bergounioux)、コンディヤックの言語起源論は前者の代表的著作と言えるだろう。1746年に刊行された『人間認識起源論』である。第二部第一章「言語の起源と進歩について」は、表題通り、言語の起源とその言語の変化を追っている。この言語の考察における感覚論をもっともよく表しているのは、コンディヤックが引用するロックの『人間知性論』の次の一節だろう。

「もし全ての単語をその源まで遡ることができるとすれば、どの言語の場合でも、感官にとらえられないような事物を表すために使われる単語が、その起源においては感覚的な観念から引き出されてきたということが、疑いもなく分かるであろう。そしてそれが分かれば、初めてこういう言語を話した人々がどのような類いの概念をもっていたのか、それらの概念はどこから彼らの精神にやってきたのか、そして彼らがそれらの事物に付けた名前そのものが、いかに雄弁に人間のあらゆる知識の起源や原理を問わず語りに示唆しているか、といったことがらについて、我々は推測を巡らせることができるのである」(p.133)。

 これはコンディヤックが魂の運動を物体の運動の間に、人間が連関を見出していった過程について述べた箇所につけた注に載せられたテキストである。

まず物体の運動を受容し、認識する人間の感覚の働きがある。しかし人間の感覚の対象となるものは、外界の具体物だけではない。人間は、その外界の物体の運動と魂の運動とのアナロジーによって、分節音からなる抽象的な言葉を生み出していった。したがって、「もっとも抽象的な言葉といえども、それは感覚的な対象につけられた最初の名前に由来する」(p.132.)のだ。  このようにあらゆる名前が、起源においては具体的な形象をもっていたとするのが、コンディヤックの感覚論における言語発生論の基盤となる考えである。そして自己の魂の中でうまれているものにたいし、人間が名前をつけるのは、身体と深く結びついた「欲求」(besoin)による。

「感覚論」に根幹を置くコンディヤックの言語起源論であるが、しかし、よく読んでみると、そうとも言い切れない、様々なニュアンスを含んだ言語論であることがわかる。たとえば、冒頭第一章の言語の起源では、「情念の叫び声といくつかの知覚とが結びつく」ようになり、叫び声が、知覚の自然な記号となったと言うが、そのように魂が働くためには、二人の子どもが「相互に交渉しあう」(p.17.)ことが前提となっている。確かに、他者の苦しみを見るという知覚の働きから苦しみを感じ、その欲求から叫び声や身振りの言語が生まれてくるというとき、そこには感覚の受容があることは間違いがない。また、何かを伝えるという主体の意志がその動因となっているわけではない。しかし言葉の生まれる現場に他者が介在しているということは、言葉を生む人間は孤独な詩人のように単に外界のオブジェを、それへの反応としてのことばと結びつけるだけではないだろう。
 進歩とは、叫びと身振りという、状況や対象と密接に結びついた言語から、恣意的な言語の発生への変化である(p.20.)。そして最初は叫びであった音は、抑揚をもった声へと進歩し、それが感情を素朴ではありながら表現することになる。そしてこの素朴な段階とは、模倣の段階である。
「様々な動物に付けられた最初の名前はおそらくその鳴き声を模倣したものであっただろうと付け加えることができよう。そしてこのことは、風や川、そして物音を立てる全てのものに付けられた名前についても等しく言えるであろう。こういう[物音の]模倣をするためには、非情にはっきりした音程差でもって音声が語られたであろうということは明らかである」
 つまりここには自然を模倣し、その音そのものが言語となるというオノマトペとの親縁性を認めることができるのだ。
 コンディヤックの言語論は言語一般についての考察だけではない。「風土」や「国民性」の問題も扱われている。たとえば、「北方に住む冷淡で粘液質の人々がこのようなアクセントや音節の長短を保持し続けることは、その気候[風土]が許さなかった」(p.83.)は、風土の違いによる言語の特質の違いという関係を前提としているし、第十五節は「諸言語のそれぞれの特質について」と題され、風土と政体による気質の決定について、モンテスキューの『法の精神』よりも2年前に説いていることは特筆に値する。またこの節では、その国民の国語の特質が、偉大な作家の助けを借りることなくしては、開花するに至らないとして文学言語の言語一般への影響を問うていることにも注目しなくてはならないだろう。メショニックが指摘するように、ここには典型的な「言語を問うことは文学言語を問うことと等しい」という命題の具体例を認めることができる。
 最後に指摘しておきたいのが、言語と物の関係の進展である。まず身振りの言語の段階では、表現とは模倣でしかなく、細かい部分にわたって表現することは無理であった。したがって、人々は「貧しい言語」を使って、比喩にたよるしかなかった。冗語法は、適切な言語がないことから人々がたよった欠陥であったが、それは「粗雑の精神」には他に頼るものがなかったのである。つまりコンディヤックの描く言語の進歩とは音節言語の進展にともない言葉が豊となり、語彙が増え、観念と言語の一致が果たされることを意味するのだ。「必要な観念にそれぞれぴったりと合う単語が十分に整い」(p.96.)は、そうしたコンディヤックの言語観を集約した表現であると言える。そしてその意味でも言語の起源には詩と音楽が、社会的伝達の手段として人々の間に存在していたということが言える。文字の誕生は、そうした音楽や詩の機能を実用から喜びへと変化させる役割を担ったのである。

 ロマンス語言語学は、19世紀後半になって、パリの大学機関において、科学的に研究されることによって、確立される。その立役者はGaston ParisとPaul Mayerである。パリ・研究組織・学問のヘゲモニーは、19世紀前半にロマンス諸語の研究に打ち込んだRaynouardなどの「先駆者」をいわば抹消する形で成立した。本論文は、「初期ロマニスム」の先駆者と見なされるRaynouardの業績が、その後のロマンス言語学に継承されなかった理由を問うことを通して、19世紀前半と後半のフランスにおける言語学の差異を検証している。
 Baggioniは「フランス初期ロマニスム」の時期を、制度機構の成立と、ケルト語起源説の衰退の観点から、Coquebert de Montbretの方言学とRaynouardのロマンス諸語の歴史を始まりとし、モンペリエ派によるロマンス言語学研究の専門化とParis、Mayerによって代表される組織の成立までとする。
 Baggioniによれば「初期ロマニスム」が生まれたころの言語研究には二つのタイプがあった。1)Volneyや啓蒙思想の流れを汲む言語哲学的思潮。一般文法の著述といった言語研究スタイルは19世紀の半ばになって消えることになるが、Raynouardの著作にはそうした一般文法の用語の使用を認めることができる。2) patoisに対する、郷土の専門家による言語の収集である。この流れには、Nodierのようなpatois擁護者の一般的な考察も含むことができる。「民族学的言語研究と民族的過去の領域の拡大」というロマン主義的思潮である。

 次にBaggioniは、Raynouardの「トゥルバドゥールの言語こそ、ロマンス諸語の祖語である」という主張を取り上げ、その主張が反駁を受けたことはもちろんとして、真の問題は、むしろ言語の変化であると言う。それは、ドイツの言語学派においては、言語の変化は、「言語形式の比較と、唯一の起源をもった、ある体系の歴史的発展」によると考えられる。それに対してフランスの言語学派では、むしろ「歴史的、文学的証拠」によって、言語の変化は考えられている。言語は貸借や民族の混淆によって変化してゆくのである。ドイツ側の歴史比較文法によれば(Schlegel, Diez)、言語それ自体の自律的な動きによって、系統樹のように枝分かれして変化をしていく。この考え方によれば(Schlegel)、フランス語の諸方言とは、もっともゲルマン化が進んだロマニアの土地から派生したと考えられる。それに対して、フランス側では、言語の変化は社会(民族)的、政治的変動によることになる。そしてRaynouard自身もこの政治的ファクターを強調しているのである。
 Baggioniはドイツの言語学が方法論を確立していく一方で、依然、フランスの言語学の思潮が存在し続けた例証として、LavelayeやFaurielを紹介している。Faurielにとって「言語の哲学的研究」とは、言語と思考の関係について考察するものであり、言語の歴史は文明の進歩の歴史を明らかにするものでなくてはならなかった。この時代の言語学とは、言語によって、人間の歴史、文化のあり方を明らかにすることが目的であり、それは何よりも、文学テキストを「文献学」的に綿密に読むことによって可能となったのである。「言語の歴史は、文学の歴史から切り離すことができない」。Faurielは外在的なファクターによって(cf. Raynouard)、ラテン語こそが、ロマンス諸語の起源であることを(cf. Schlegel)を主張する。

 次に検討されるのは、Raynouardの研究対象が「文書」であって、現在話されている「ことば」(parler)ではないという点である。言語の歴史的研究と、郷土の専門家による方言研究には接点がなく、Raynouard自身の古プロヴァンサル語と現在のロマンス諸語との比較の仕事においても、フランス語やオック語の方言はほとんど等閑されている。
 その意味で、Raynouardの仕事とは「文献学」に属するものであり、その評価はトゥルバドゥール文学の再発見にあるとされる。「トゥルバドゥールの言語こそ、そこからその他全てのロマンス諸語が生まれてきた言語」なのである。ただし、Raynouardの業績において、文学テクストは、ひとつのコーパスを形成するものであり、そのコーパスは、言語の歴史を証明するのに用いられるためのものであった。しかしながら、このことは、Raynouardの賛同者に認識されることはなかった。人々がそこに見つけたのは、「古プロヴァンス語で書かれた文学的遺産」だったのである。
 この文学的遺産という意味でのRaynouardの影響は、19世紀末により精密なテキストが編纂されるまで続いたと言える。その一方で、言語学的な観点から、Raynouardの名前がほとんど以後のぼることがなくなってしまった理由の一端は、patoisの位置づけの変化に求められる。Raynouardが活動した19世紀前半においては、patoisは、土地と過去の復興を目指すロマン主義運動の対象として注目を浴びていた。しかし、1870年のフランスの敗北は、その後のナショナリズムの高揚を高めることとなり、patois/dialecteの研究は、イデオロギー的な色彩を帯びざるをえなかったことにある。だが、それ以上に重要なことは、フランスの伝統において、「言語」といったときに対象になるのは、「体系をもった言語」ではなくて、「テクスト」であったことだ。したがって、言語研究は文献学的研究であり、言語を歴史的に研究することは、「人間精神の進歩」といった哲学的研究と同義であったのだ。このことが、言語が学問研究の対象になればなるほど、Raynouardに言及されることがなくなっていった重要な理由であるとBaggioniは指摘する。

 このようにドイツの言語学にとっては、言語の発展は言語自体に内在するものであるのに対して、フランスの言語学にとっては、その発展は外在的要因によるものであり、そのために、Fallotのような例外を除いては、Raynouardを始めとして、Fauriel, Ampère, Mandet, Mary-Lafonなどはしばしば文学や民族の歴史の中で紹介されることとなるのである。だがそれは、後の言語学の流れからみれば、遡行することのできない業績ということになるのだろう。
 Baggioniはこの時期の言語学の思潮を、啓蒙思想の影響とロマン主義の胎動の混淆としてまとめている。すなわち、1)言語、文学、文明を総体的に扱う歴史研究、2)民族の歴史における中世の再評価、3)民衆文芸への着目、4)一般文法の探究である。言語に外在する思考や、人間の歴史、文化、その表象としての文学、あるいは文体などが、言語を研究する意味だったのである。この言語の外在性は、以後(1870年以降)、「国民」の文化的アイデンティティと結びついてゆく。それは、言語研究の舞台において、方言の細分化を考えるモンペリエで活動していた言語学者たちへのParisやMeyerの批判となって具体的に顕在化するのである。

天童荒太『悼む人』(2008)

 最近の役所は、市民へのサービスということが徹底されているのか、フロアに立っただけで、誘導係が「ご用件は」と御丁寧にそばまでやってくる。ある老婦人が書類を見せながら訊ねていた。「これが婚姻届で、これが死亡通知書で・・・」。おそらくご主人を亡くされ、種々の手続きのため、証書の写しを取りにやってきたのだろう。しかし化粧もみなりもきちんとしたその女性からは、ふと耳にはいってきたことばを聞かないかぎり、夫の亡くした方だとはわからなかった。似た場面がこの小説にもある。主人公の祖父が亡くなった海辺に、家族がたちつくす。しかしまわりの海水浴客は、「誰も目の前で二日前、自分たちが大切に想っていた人が死んだことを知らない様子だった」(p.326.)
 自分にとって見ず知らずの老婦人だから、当たり前といえば当たり前だろう。しかし自分の暮らしている周りには、実はこうして死が偏在している。私たちは外見だけを、さらにその外見にさえ関心をいだくことなく、人々と交差しながら生きている。しかし日常とは、たまたま今日、一瞬すれちがったその老婦人には死が訪れ、私には訪れなかっただけのことなのだ。だから、「家族そろって食事のできる状況を奇蹟とつぶやいた」主人公の反応は、じつはきわめて正気なものではないだろうか。そして、私たちは日常の惰性のなかで、この死を忘却している。
 その意味で、「死の忘却」とは、「自分の死の有限性」を忘れている生き方ではなく、「まわりに満ちあふれている死の事実」を忘れていることだと言った方が、より私たちの日常に接して死を考えることにならないだろうか。こうした死のあり方こそ生(なま)の事実ではないだろうか。
 死の偏在。主人公の4人の祖父母の死が綿密に描かれている。また、出会うことのなかった、2人の叔父の死も、たとえ生の時間が重なることはなかったとしても、主人公の死の認識に、父母を通して、流れ込んでいる。それは「自分の命が渡る」(p.162.)という表現にみることができるだろう。「私」よりも前に生まれ、そして「死のすべて」(p.172.)、それは近親者をこえて、死んだ者たち、会うことのなかった今では死んでしまった者たちも含めて「命の時間」、「命のつながり」が、私に流れ込んでいるのだ。
 会うことのなかった死者は、それだけで、実際におなじ時間を過ごしたことのある死者よりも、遠い存在となる。自分のなかにその人の生の体験が刻みこまれなかった人は、その分、自分にとって、無名の死者に近くなる。
 ならばその無名の死者へと陥らず、その人が生きた確証をどのように掬い出し、記憶にとどめればよいのか。「ぼくは、亡くなった人を、ほかの人とは代えられない唯一の存在として覚えておきたい」(p.114.)、「自分が生きているかぎり覚えて」おきたいという主人公は、問いかける。「(その人は)どういった方に愛されていたでしょう。どんな方を愛したでしょう。どんな人に感謝されたことがあったでしょうか」。それを知れば、たとえ日々ノートを開きその死者を想い起こす作業をしなくてはならないとはいえ、死者が個別の取りかえの聞かない存在として記憶にとどまられ、忘却の淵に沈むことが妨げられると言う。死者として不在となった存在であっても、他者との関係性のなかで、その関係性がどれほどはかないものであったとしても、ある一瞬に、他者と愛によって結ばれたことがあるならば、その人は無名性に落ちてはゆかない。存在の確証が他者の存在によって織り上げられることが、「悼む」ことの意味になっている。
 私たちはどれほどの死者を、その固有性のもとに覚えていることができるだろうか。近親者であっても、やがてその記憶は薄れてゆく。たとえ記憶に残っていても、私の後に生まれ、私の死後も生き残る者たちに、その記憶を語らなければ、やがてはその死者は本当に消えてゆく。
 その意味で、「代弁者」である母のことばは重い。「或る人物の行動をあれこれ評価するより・・・その人との出会いで、わたしは何を得たか、何が残ったのか、ということが大切だろうと思うのです」。他者への無関心とは、本当は、私の心に残されたであろう他者の痕跡に無自覚であるということなのだろう。死者をその完全性(intégrité)において覚えておくことは、不可能である。それでは、生者は死者に仕えることと同じになってしまうだろう。同情で終わってしまうだろう。同情ならばできるかもしれない。自己を死者と同一化することの方が実は簡単なのだから。そうではなく、他者が残した痕跡と対話を交わすこと、他者の痕跡によって自分のなかの血が、肉が、どんな変化をしてゆくのか、そのありようを省察することが生きることになるのだ。だから主人公の生き方はあやうく、正気すれすれのところにある。死に瀕する母の方にこそ、希望が、正気の根拠がある。
 死者の痕跡を自己にといかけることには反省の時間が必要となる。死者を忘れて今あることに生きる安易さに抗し、反省の作業を行い続け、唯一の存在であったと認識できるところまで記憶にとどめることのできる表現を見出すことは難しい。死者はやがて「どうでもいい死者として扱われてしまう」(p.296.)だろう。もしかけがえのない人間として死者を想い起こし続けようとするならば、生者は自分の全生活、全存在を主人公のように「悼む人」にしなくてはならないだろう。だから私たちは喪の作業を終えてしまう。社会的な意味での「正気」をたもって再び生きるために。日常の惰性のなかで生き直すために。
 それは死者を「質」ではなく、「(数)量」でとらえることとも関係している。「誤爆で二十人死亡、テロで百人死亡って数字だけだった死者の、名前も年齢もわかってると知ってさ。本当は当たり前のことなのにな」(p.260.)。世界の戦場を歩くジャーナリストがそう呟く。広島の原爆のこと、その約八時間前に今治で空爆があり、450人がなくなったこと、そこで身内がひとり死んでいることも重なる。原爆の死者から身内のひとりの死者へ、死に軽重がないことが語られるとき、どんな死も量ではかることができないとことがわかる。ひとりに死者から原爆の死者へと思いをはせるとき、その死者ひとりひとりに名前も年齢もあったことがわかる。
 当たり前のことを当たり前と気づかず、あるいは気づこうとせず生きてゆくこと。そこまで死に意識をはらうことなく生きてゆくこと。それが社会的な意味での「正気」だ。ただしその社会とは、死が排除された、生の背後に死者の匂いを嗅ごうとはしない無臭化された社会という意味だ。そのとき死者の遺体は、「生きている者にとっては、もうただの死体」(p.296.)となる。
 他者との接触による自己の変容。あるいは自己の内面の省察。そのために、「目撃者」や「随伴者」といった、主人公との人間関係をあらわす役割が章のタイトルとなっているのだろう。自分の知っている人間にたいして、自分に何が残されたのか真摯にといかけること。その他者との関係が、やがては自らの知らぬ他者へとつながってゆくと考えたい。火をつけられ殺された女が、社会の底辺を記事にすることを生業にしている記者を通して、まったく知らない、やくざの女へとつながり、その女が決断をするように。その関係が感謝ということばで表されるとき、「感謝の言葉は、告げた当人へ何倍ものかたちで返されるに違いない」(p.331.)。
 もうひとつの変容は、命の変容だ。祖母の死と孫の誕生という時間の重なりが、「生まれ変わる準備かしら」(p.323.)と死に逝く者に思わせる程、存在そのものの命のつながりを喚起する。
 小説の最後では、<魂の耳>にとどく、息子の声と体感と孫の泣き声が、死に逝く生者である祖母によって語られる。Paul Ricoeurのvivant jusqu'a la mortという表現がこれほど見事に表された例はないだろう。だから私たちは看取るのだ、死者ではなく、死の瞬間まで生きる生者を。

 この小説で扱われる死者たちはニュースで知りうる死者たちである。しかし、主人公がある時に出会った老人は次のように言う。「うちの女房のことも、せっかくだから悼んでもらえるかな」。平板な死も特別な人の死だ。次は日常の死をどのようなことばに表せるだろうか。そのことばに出会いたいと思う。

Paul Ricœur, Vivant jusqu'à la mort (2007)

 Vivant jusqu'à la mortは、Ricoeurの死後草稿のまま残されていた未完成の原稿を発表したものである。実際には1995年頃に書かれ始め、そのままにされたということであるが、死をimminent(切迫した)ものであると意識していたRicoeurの思考の姿がうかんでくる。ときに、覚書にとどまり、十分な展開はなされていない部分もあるし、言いよどみ、繰り返しも多いが、それゆえに、Ricoeurの思考の筋道を丁寧に追って私たちはこのテキストを読むことができる。
 骨子のひとつは「生き残り」(survivant)ということだ。しかしそれは、最後の審判におけるrésurrectionではない。Ricoeurは物体として肉体そのものが最後の審判において復活するという「想像」は否定する。Préfaceを書いたOlivier Abelによれば、それは神話の解体であり、「報い、償い、罰という概念」の否定である。しかしそれは、ひとつの宗教の否定であって、宗教性そのものの否定ではない。死を生き残りとして問うことは、他者との関係を問うことであり(生き残るとは、私の死を超えて生き残る他者、他者の死を超えて生き残る私という本質的関係を定義する)、その他者とのつながりを考えるとき、そこには愛と倫理が生まれ、必然的に宗教的なるものへと近づいてくる。「想像」を否定するとは、宗教を否定することであっても、宗教性を否定することではない。
 死は知りえないものであるからこそ、私たちの「想像的なるもの」が働き、死者の運命を問いかけざるをえない。また、死後のイメージは、あらゆる文化によって形成されてきた。私たちはこうして「死後」を先取りして、想像をするのだが、Ricoeurが批判するのが、この想像である。その批判の根拠は、私たちが人生の終わりまで生きる喜び、gaietéと呼ばれる生きることの欲求への配慮のためである。
 次に考察されるのが、moribondという概念である。moribondとは人間をagonie(死への衰退)の状態として、すなわち直に死ぬ者として扱うことである。しかし重要なのは、encore vivant(まだ生きている)と、生の面をとらえることである。つまり、死後に存在するものへの配慮ではなく、生の最も深い源(les ressources les plus profondes de la vie)をとらえることである。Ricoeurによれば、grâce intérieure(精神的な恵み?どのように訳すべきか宗教的な含意がどこまで反映しているのか?)は、終末において、本質が浮かび上がることにある。これは告白を行なう宗教とは異なる、religieux commun(共通の宗教性?)であると言う。ここは難解なところだが、宗教であれば、それは歴史的、文化的事象として本質が限定されてしまう。そうした限定性から解放された真に深い場所にあるところの「本質」ということだろうか?死という現象が文化に限定されないこともあるが、ここには、告解という死にゆく者として、他者をとらえることに対するRicoeurの批判があるのだろうか。そして死に逝く者によりそいながら、その死に逝く者を、死者として先取りしてしまう(il sera mort)想像のあり方が批判されているのだろう。
 では死に逝く者への視線とは、どのような視線なのか、Ricoeurは次のように言う。

C'est le regard de la compassion et non du spectateur devançant le déjà mort.
 
それは共苦の視線であり、すでに死者となっている者と先回りをして見つめる者の視線ではない。

 Compassionーともにといっても同一化するわけではない。そこには友情という距離があるのだ。
 それでは生者とともにいる(accompagner)者はどのような態度であればよいのか。ここで引用されるのがホルヘ・センプルンの『ブーヘンヴァルトの日曜日』(原題L'écriture ou la vie)である。センプルンがモーリス・アルブヴァクスをみとったときの証言である。Ricoeurは、Ricoeurはアルブヴァクスがセンプルンの手を握り返す場面に、「与えるー受け取る、まだここで」と注をつけている。人と人がお互いの生を確証する。生の根拠が他者によって与えられること、私は死んではいないことは他者との生の交感によって確証されることをRicoeurは指摘しているのではないか。
 Ricoeurはさらにセンプルンが、死期のせまった友人によりそって、医学的でも、告解でも、詩の言葉をつぶやくことに着目する。「彼(アルブヴァクス)は微笑む、死にながらも、私を見つめて、友愛の」。Ricoeurはここに「本質」があるという。
 この死と対照となる死が、カディッシュをとなえる「死」の苦悶の声である。Ricoeurは、センプルンが「死が歌っている」というのは比喩でもなんでもないという。なぜなら「みとる者なしに死に逝くことは、死者(moribond)と、人物となった死(mort)の区別をつけないことである」からだ。イディッシュ(死者の祈り)のことばが自分自身に向けられたものであるならば、そこにはユダや民族の歴史全体が集約されているとする。そして、「自分自身」にむけられたということは「与えるー受け取る」という行為を可能とする外部が(レヴィナス)不在であるということだ。
 Moribondとmortの区別がつかなくなった状況、それはmasse indistinctな状況である。ここでRicoeurはセンプルンの選択を問題にする「書くことか?生きることか?」生きるとは忘れることであり、思い出すとは書くこと、語ることであるが、それは生きることを阻害する。なぜならば、死こそが現実であり、生は幻影に過ぎないからだ。この状況を生み出すのは、死というものが、絶対悪のしるしのもとに置かれたときである。友愛と絶対悪の二項対立、これがマルローに言わせれば、最も古いキリスト教の対話である。ならば悪がなければmoribondとmortの混濁はないのか?悪の問題で看過しえないことは悪とは体系化できないということである。どちらがより悪か、といった比較はできないし、個別の事象から総体を作り上げることもできない。だが、神学においてはあらゆる死が、暴力的な死として同一視されているのではないか。罪を背負って死ぬということである。これがRicoeurが、1)死後、2)死に続いて、批判の対象としてとりあげる3)絶対的悪による集団としての死である。
 Ricoeurはここから「いったい、普通の死は、どのような状況下で、極限の死=恐怖の死に汚染されるのだろうか?」。ここで「恐怖を悪魔払い」するものとして出てくるのが、「記憶の作業」、「喪の作業」である。ここで再びセンプルンの書くこと=思い出すことに焦点があてられる。死から生還したもの、すなわち証人となった幽霊である。
 だがここでRicoeurが引用しながら、言及していない点を考えなくてはならない。それはこの書くことというのが、センプルンによれば、「文学的エクリチュール」として可能だと言われており、またその意味が«Avec un peu d'artifice»と言われていることの意味だ。文学的エクリチュールでなくては、たとえば宗教的な祈りのことばという内部化された「与えるー受け取り」のないエクリチュールになってしまうだろう。しかし文学がartificeであるならば、それは、物語の留め具として、つまり、物語を理解可能とするための留め具として使われてしまう危険を意味しないだろうか。誰もが想像しうる物語とは、artificeというわかりやすい虚構仕立てをするということではないだろうか。
 もちろん書くことが、死者についての記憶を回復することであり、忘却から生き延びることが、実は自分の生を危うくするというこの悪がもたらす矛盾に書く者をさらし続ける。Ricoeurが引用するように「収容所を<現在>として語ること」ができないならば、なおのこそ、文学的エクリチュールの孕む「物語」のあやうさを、もっと緻密に分析するべきではないのか。
 しかしRicoeurの本論での意図は、死後という問題を、宗教によらず、また宗教がもたらす死後の想像的形象によらず扱うことにある。その意図から、この表象の難しさを、死の瞬間の形象の難しさへと転用する。だからこそ、Ricoeurは死から生還してきたrevenants(死から戻ってきた者=亡霊)という名のsurvivants(生き残り)に、集団としての死の先取りを読み取るのだ。
 Ricoeurは自問する。センプルンは生きることと書くことを両立することができた。レーヴィにはなぜ不可能だったのか。ここでティリッヒのThe courage to beへの言及があるが、書き込みだけで終わってしまっている。
 最後に、先ほど述べたartificeについて言及がなされる。

Si l'écriture a quelque chance de se réconcilier avec la vie, lorsqu'elle est au service de la «mémoire de la mort», tout n'est pas attendu de la technique du récit, de l'artifice.
 
もし書くことが、現実の生と和解できるなにかを有するとしても、そして、書くことが「死の記憶」に役立つとしても、すべてを物語の作法、技巧に期待することはできない。

 Ricoeurは「記憶が記憶の作業と喪の作業をひとつにあわせなくてはならない」という。Ricoeurにとって、それは集団の中に消滅してしまう死から(これは、自己の消滅の問題ではなく、死後の生という人間の想像を問題にしていると思われる。これは文化的事象とはいえ、こうした死の捉え方をするのは、自己の死を想像する自己の問題になるのだろう)、死を救い出すのは、この死の記憶でしかないという。ここも解釈に慎重になるところだが、喪の作業とあわせるということは、自分の死との関係において生き残る他者に自己の死後の生をゆだねるということだろうか。それが悪から解放された死の位置づけということになる。ならば、悪そのものとはどのような対峙をすべきなのだろうか。ここについてはRicoeurの「悪」として洞察を深める必要があるだろう。
 他者という問題。最後に触れられるのが他者という問題である。それは「書くことが自己を抑えながら自己からの離脱する方法であり、それはつまり人が常にそうである他者の存在をみとめ、その存在を生み出すことで自己自身であるということだ」。書くことがどれほどの困難であっても、non-dit「言うことのできないもの」=沈黙でないという一点で、希望を持ちうる。記憶の作業、喪の作業は、この希望のことばでならなくてはならないとRicoeurは言う。つまり書くことへと至らせる根拠はfraternité(友愛)なのだ。

 子供時代の読書の回想から始まり、私たちは、その記憶の風景に瑞々しい感覚の充溢を感じる。しかしこのエセーが読書論である限り、この作品の中心は知性の働き、思想の創造的な構築にあるのではないだろうか。
 プルーストは、ラスキンの講演に同意するかにみえて、実は会話にも比せられるラスキンの教養としての読書とは異なる、読書の観念について語っている。それは、読書とは会話とは異なり、「他の一つの思想からコミュニケーションを受ける」ことであり、そのためには読者は、強靭な知性を持っていなくてはならない。それは、単に自己の精神を深めるということではなく、他者から思想を受け取った上で、それを知性によって深めながら、自らも思想を創造してゆくーそこに至ってはじめて読書の価値があるということではないだろうか。
 読書とはしたがって読んで終わりではなく、あくまでも出発点である。書物とは読者にとってあくまでも「うながし」なのだ。「われわれの叡智は、著者のそれの終わるところで始まる」とプルーストは言う。思想を創造してゆくとは、自らの知性の営為であり、だからこそ、書物に回答はなく、私たちには、読書の後に、回答を求める欲望が生まれてくるのである。「読書は精神的生活の入り口にある」のだ。自分で考え、独創的活動をしない以上、読書とは結局無駄ではないのか。書物には真理があるのではなく、真理の予告があるだけで、真理は、読者の「生人の個人的な創造」によって生まれるのである。知識で頭を虚しくするという表現が浮かんでくる。それは知性の頽廃と言ってもよいだろう。
 最後にプルーストは古典の意味に触れている。そこには「もう二度と作られることのない美しいもの」があると。過去の名残、廃棄されたことば。失われた美に私たちは読書を通じて出会うのである。
 プルーストのテキストはいつも格言で満ちているが、この作品にも次のような言葉があった。「われわれ生者はみな、まだ職務についていない死者にすぎない」。

Anne Godard, L'Inconsolable (2006)

 「ニオベの病」ー子どもの死を嘆き悲しみ、石となる母。この小説における、子を失い、永遠の喪に服そうとする母も、その思いの強さのあまり石となり死んでゆく。
 L'Inconsolable「慰めようのない」と題されたこの小説の主題はしかし、喪からの回復の困難さ、死を憧憬する母の存在、あるいは悲しみの永遠性といったものではない。母の感情はもっと激しい起伏をもち、その激情で他者を切りつけ、自己をも苛む。息子の死という出来事以降、その死を軽んじる近親者を責め続け、またその死によって、他者とのつながりがすべて欺瞞であったことが暴き出された自己の卑小な存在も責め続けること、この鎮められぬ母親の感情こそが、tuで最初から最後まで語られる物語りを支配している。そしてその感情の強度と、tuという冷徹な呼びかけのコントラストが、喪に服すことは母親の美しい感情の現れであるとか、思い続けることの切なさであるとか、そうした道徳的な語りをすべて排除し、喪という出来事自体の非情さを強く訴えてくる。
 息子の死を想起することがひとつの「強迫」となる。だが、このtuによる語りで、「強迫」の凄まじさは、母親の想念がどこまでも果てしなく続いてしまうことにあるように思われる。息子の命日に、誰の電話もかかってこないが、母は想念をどこまでも続ける「誰かが、今日がその日だと思いもよらずに電話をしてきたとしよう。こちらもそんな相手にあわせてくだらない会話を続ける。震える喜びを感じながら。相手は電話を切ってから、ひょっとして今日は、と考え始める。だが、電話での会話でそんなそぶりを見せなかった以上、相手は困惑するだろう。だが、いや今日だったのだとわかってくる。とはいえ、もう一度電話をかけたりはしないだろう。いったい電話をして、忘れていた、思い出したなどといえるものか。だから相手はこう考えるだろう。いやその話をしなかったのは単に直接切り出すのが、ぶしつけだからだと」(p.15.)こうした想念が果てしなくずっと続いてゆくのだ。あたかも死を想うことが、自己の生の根拠をつくり出すかのように。
 想念の羅列は随所に現れる。たとえば家族のアルバムを取り出して、写真に語りかける。「ほら、この人のこと覚えている?子どもに本当にやさしかったわ。(...)」この語りも際限なく続けられる。この反復が底知れぬ「強迫」を作り上げてゆく。
 反復は死の原因をめぐっても母を襲ってくる。死はいかに自分が息子のことに無知であったかを知らせ、その原因は、「なぜそれを知らなかったのか」という決して取り返すことのできない、無限の出来事の集積から、後悔となって現れる。いじめ、音楽、家族。そうしたモチーフが連鎖して語られ、やがては結局、自分自身の存在そのもの、とくに自分の無理解に息子の死が結びつけられるのだ。さらに瀕死の息子をそのまま死なせたことがひとつの後悔となって何度でも戻ってくる。
 そしてもうひとつの反復が、息子の死を忘れ日常を平然と生きている、他の子どもたちへの攻撃である。死の間際において、自分の死後もひとつの圧迫になるよう、書くことによって言葉を残そうとする。
 やがては喪に服す者にも死が訪れる。その死は最終的な忘却だ。「ある日いつも通り、それほど疲れているでもなく、目が覚める。しかし、なにかちょっとしたことを忘れているような気がする。だがそれが何であるかはわからないだろう。ただ、何かとてもはっきりしたもの、それまで他人や自分を判断するのにそんなものを持ち合わせていたなどと気づいてもいなかったものを失った気がする」だが、そのときでも「慰めようもない」ことにずっとよりそっていようと思うだろう。人間の生の欲望は、回復の欲望ではなく、回復しないことのパッションから生まれてくると思わせる結末である。

 死についての考察で、最初に考えられているのは、死が非人間的なものか、それとも人間化されうるものかという点である。従来、死は「人間存在の無」に向かって開かれたひとつの扉であると考えられ、無は「存在の絶対的停止」であった。
 この死の非人間的あり方が、人間化へと向かう契機は、死が内面化され、個別化され、私の「個人的な人生の現象」とみなされるときからである。死の個別化は、私のこの人生はかけがえのないものであり、二度とくりかえされることのない唯一のものだという考えをもたらすことになる。
 この死の人間化に哲学的形態を与えたのが、ハイデガーであるとされる。ハイデガーにとって死とは「現存在の本来の可能性」であり、それによって、自己は全体として構成される。すなわち死の人間化は、人間を個別の、他とは取りかえのきかないものとしてとらえさせ、さらには、死によって、人生全体が個人に閉じられたものとしてとらえられるということである。そしてその個人が個人の人生を、全的に所有できていることが自由と呼ばれていると解釈される。
 サルトルは、その上で死の問題の再検討を開始する。
 死は非人間的な概念ではないとし、死を人間存在から切り離すことを否定する。しかしそれは死が人間存在にア・プリオリに属することを意味しない。
 サルトルのいう死の個別性の可能性はあくまでも体験のレベルであれば、ということではないだろうか。死ぬ体験を最終的にするのはあくまでも私であり、この自明性は、感動を体験することが私固有であることと同じである。だれも私に代わって、愛することの感動を体験することはできない。
 そしてサルトルは、死の個別性に、「世界のなかにおける私の諸行為を、それらの機能、それらの効果、それらの結果という観点から」考察することを対置する。ある女を幸福にするという「目的のため」ならば、誰かが私に「代わって」することができる。死についても同様で、祖国のために/代わって死ぬことは私の代わりの誰かでもできるのだ。したがって、死が私の死になるのは、あくまでも主観性のパースペクティブの中に限られるとする。
 次の批判点は、死は期待できないということである。私の死の可能性は、「つねに考慮にいれられなければならないが」、「期待するわけにはいかない」。なぜならば、私の死の可能性は、生物的にのみ言いうることであり、この可能性はむしろ「empêchement inattendu」の側にある。ここには死は予見されえないという前提がある。生物的には一刻一刻と私たちは死に近づいているだろう。しかし死が予見されえない、死は突然襲ってくる、という立場に立てば、死が遠のく(たとえば国際会議によって平和を延長される手段が見出された)こともある。
 意味づけという点から言えば、こうした死は、すべてを未決定に陥れるのであり(処女作を書いた後に死に襲われた作家が、書くべき書物としていたのはこの一作だけだったとは言えないし、彼は多くの書物を書いたとも言えない)、行為の価値が「宙ぶらりん」である以上、「死は原理的に人生からあらゆる意味を除き去るところのものである」とする。すなわち死がある以上、私たちのあらゆる行為が持ちうる価値、意味というのは、本質的に決定できないということであろう。
 サルトルは、死が私の諸可能を無化するだけではなく、「死は、私が私自身についてそれであるところの観点に対する、他者の観点の勝利である」とする。つまり、人が死ぬということは、人生が中止され未決定のままになるのであるが、過去の生が相対的な意味付与を受けるのは、「他人の記憶」の中だけだということである。
 サルトルに従えば、我々生者は、本質的に全ての死者と関係を持っている。その死者たちを「広い無名の集団」として把握することもあれば、「はっきりした個人」として把握することもある。この個と全体を、近親者と世界中の人間を、生者と死者との関係としてとらえることによって、隔たりを設けないこと、ここに個と共同性、他者と私の関係を考える大きな示唆があるように思う。たとえ、距離や関心に大きな違いがあるとしても、それは度合いの異なりであって、個と社会が断ち切れていないことが重要なのである。
 生者は「対象的な意味づけ」を死者にほどこしていくが、それは同時に生者の人格の規定でもある。サルトルは言う。「それゆえ、対自は、自己の事実性そのものによって、死者たちに対する全《責任》の内に、投げこまれている。対自は、死者たちの運命を自由に決定することを強いられている」。また、死者とは私たち生者が生きている以上、たえず意味を更新される対自的な存在となる。
 それでは生と死の差異はなにか。「生は、自己自身の意味を決定する。(...)生は、本質的に自己批判の能力、自己変身の能力をもっており、この能力によって、生は自己をひとつの《いまだーない》としてして規定する」。一方、「死は、一つの全面的な所有権剥奪をあらわすものである。(...)死の存在そのものは、われわれ自身の人生において、他者の利益のために、われわれをそっくりそのまま他者のものたらしめる」。すなわち、私たちの死後の存在は、そのまま生者たちの価値判断にゆだねられ、かつ、その価値は決定されることなく、そのつど、生者の責任において、意味を付与され続けるのだ。したがって、「私が生きているかぎり、私は、他人が私について発見するところのものを、否認することができる」のに対して、「死ぬとは、もはや他人によってしか存在しないように運命づけられること」となる。
 こうしてサルトルは、死と有限性を根本的に切り離す。私たちが有限であるのは死ぬからであるという結びつきを引き離し、そうではなく、「有限であるとは、自己を選ぶことである」と定義しなおす。すなわち、私たちは、あるひとつの可能性を選択し、それにむかって自分を投企するが、それは、他の諸可能性を廃棄することであり、それによって自分とは何者かを限定するのだ。ここで、自由の行為とは、この有限性を引き受ける、ということになる。したがって、死とは、必然性でも、有限性でもなく、反対に私たちの有限性を奪いにくる偶然の事実なのだ。

 アメリカの心理学者ジョン・H・ハーヴェイの『悲しみに言葉を』は、喪の作業において、体験の言語化が、どのようにその悲しみから人を立ち直らせるのか、幅広く検証した研究書である。その意義のひとつは、悲しみから立ち直ることは、その人を成長させるといった、体験を踏み台にし、喪失を自明のものとする考え方ではなく、「喪失を意味づけることによって、何か肯定的な事柄を他者に伝えること」に重きをおいている点である。
 喪において成長は必要不可欠ではない。それよりもむしろ他者とのつながり、ある場所を共有すること、そしてさらにはそれが何らかの共感(理解ではなく)へと至ることが、喪を避けることのできない必然として生きる人間にとって重要なことなのだろう。
 こうした喪の意味づけが、たとえば精神療法において、その人間の生の尊厳を回復するという意味においてなされる限り、意味づけは、慎重にそして最大限の思慮をはらってなされるべき営みであろう。
 ハーヴェイは様々な喪失体験を挙げているが、ここで考えたいのがホロコーストと戦争における喪失体験である。この喪失体験は、いかにこうした惨禍が起きないようにするのか、すなわち個人の回復の次元を超えて、私たち人間全体の課題としてここでは挙げられている。
 戦争においては個人の体験と、歴史的意味がときに激しく緊張関係を持って切り結ぶことになる。心的外傷が明るみに出されたのも、戦争に狩り出された兵士たちの戦争体験からである。ハーヴェイは戦争体験者たちの証言を取り上げながら、喪にことばを与える彼らの言動に大きな尊厳を与えている。たとえばつぎのような具合に。

恐ろしかったのは確かです。でも、崇高な大義のために戦っていることがわかっていたので、恐怖に打ち克つことができたのです。
 
自分自身よりもほかの人間のことを思いやる。誰かのために自分の命を捨てることができるーこれが勇気というものでしょう。

 これはノルマンディー上陸作戦に参加した兵士の証言であり、50周年の記念式典に際して、ハーヴェイ自身が立ち会って聞いた声である。この声にたいしてハーヴェイは「こうした記念行事は、(...)新しい人生、意味、希望を含み込むことになるのである」と述べている。(以上、引用も含め、『悲しみに言葉を』p.190-191.)
 記念するとは、喪の行為に対する50年たってからの「新しい意味が付け加えられた」ということだ。ハーヴェイは続けて、この新たな慰霊碑は、人々の「集合的な記憶のイメージそのものだ」と付け加えている。
 だがここでさらに付け加えて言わなくてはならなかっただろう。「集合的な記憶は、歴史とは異なる」と。「集合的な記憶は、体験の正当化には役立ち、それがひいては個人に希望をもたらすかもしれないが、それは、あらゆる正当化は歴史の営みとは本質的に異なり、無反省な混同をときにはもたらしてしまう」のだと。
 私たちは歴史と記憶とを混同してはならないと思う。歴史とは出来事を人間の共同性の次元でとらえたものだと、おおまかに言ってしまうならば、歴史とは、記憶に依拠することが、個人がその体験の記憶を想起することが、そのまま他者の記憶と接触し、交渉することが必然となる場所である。この他者とどのような形であれ関係性を成立させてしまうのが、歴史という共同性の必然ではないか。そうでなければそれは歴史という名では語れないだろう。
 戦争体験においては、個人の自らの体験の意味づけが、歴史という共同性の確立において否定されるということがおきる。それは、戦争が、死者の死を蹂躙し、生者の生をも否定する、その意味で人間性を破壊する出来事であることを訴えている。だからこそ戦争の記憶は時に隠蔽され、だからこそ、個人の証言が大きな意味をもつ。この個と共同性の記憶と意味づけをめぐる矛盾こそが、戦争の歴史の難しさだ。死の問題を避けない以上は、この矛盾は必ず私たちの前に立ち表れてくるのではないか。
 この論議を、アイマンの記憶についての考察を助けにして考えてみたい。
 第6章では、それまでのロックやワーズワースを引用しながら想起とアイデンティティの連関を探究したあと、この同じ連関を社会学、歴史学において検討している。ニーチェ、アルヴァックス、そしてノラの名前を挙げたうえで、かれらの記憶理論に、「想起の構成主義的で、アイデンティティを確保する性格」が強調されているとする。
 想起・構成・アイデンティティと個人と共同性の歴史意識をめぐる問題がこの三語によってかなり明らかになると思われる。
 想起とは、フロイトの事後性によって説明されている。事後性とは、「知覚された対象は、想起の行為において初めて、つまり、場合によっては数年後あるいは数十年後になって初めて解釈される」という意味である。「フロイトは、記憶の痕跡(注:これは全体を持たない破片、意味づけを欠いたイメージとして理解できるだろう)を活性化することを書き換え」と呼んだが、体験の50年を経ての意味づけはまさにこの書き換えであり、戦争の知覚は、50周年の記念行事によって、解釈され直されるのだ。
 構成とは、下記にみる機能的説明で整理されているように、「ある部分を想い起こし、ある部分を忘れる」という「選択的」な振る舞いによって、想起が成立することを意味する。
 そしてアイデンティティとはまさに、この想起の構成主義は、アイデンティティを保証する重要な作用だということだ。戦争体験者は、みずからの体験をまさに構成主義的に想起することによって、みずからの生を意味づけ、人生を肯定する姿勢が生まれてくる。
 さらに、この想起の構成主義は、個人の想起のメカニスムだけではなく、この著書の中心的課題である文化的記憶についてもおなじ作用が働くことが指摘される。
 今ここで、アスマンがモデルとして提出している記憶の二つの作用、機能的記憶と蓄積的記憶を整理しておこう。ただし、アスマンの力点はこの二つの記憶の間でたえず流通が行なわれているとするパースペクティブに置かれていることに注意すべきである。
 機能的記憶とは、住まわれた記憶とも言われているもので、i)集団、機関、個人であれ、何らかの担い手と結びつき、ii)過去、現在、未来を橋渡しし、iii)選択的な作用をもち、iv)アイデンティティの輪郭を描き、行為に価値を与えるとされる。個人の記憶として考えれば、「思い出や経験を一つの構造につなぎ合わせ」、「形成的な自己像として生を規定し、行為に方向性を与える」。したがってある主体(個人であれ、共同体であれ)は、機能的な記憶によって、過去を取捨選択し、ひとつの時間性を描けるよう出来事を再構成し、それを人生の価値基準としてゆくのだ。
 一方蓄積的記憶とは、i)特定の担い手とは切り離され、ii) 過去、現在、未来は切り離され、iii)価値付けの序列はなく、iv)真実を志向するがゆえに、価値や規範が保留されている。つまり、この記憶にとって過去とは、「無定形な集塊」であり、「使用されず融合されていない思い出の暈」とされる。ただし、重要ななのはこの記憶は機能的な記憶と対立するのではなく、一部は無意識のままとどまるように、いわば背景として沈潜しているということだ。いまだ意味づけられることなく、使用価値が与えられることなく、しかし消え去ってはいないアーカイブなのだ。これは<人類の記憶>と呼ばれているが、むしろ記録と呼んだほうがよいかもしれない。
 では機能的な記憶の役割とは何か。ここで取り上げたいのが、「正当化」である。「正当化は、公的あるいは政治的な記憶の最優先の関心事」だとされる。体験者の想起による、過去の意味づけは必ずこの正当化をはらんでしまうのだ。ハーヴェイの上にみた指摘は、まさに意味づけによる喪からの回復の物語に、個人の生の肯定を見るゆえに、この記憶が果たしている、過去の体験者の自己への、そしてその体験者が参与した戦争行為の、正当化をまったく看過してしまっているのだ。
 そしてもう一点、なぜ機能的な記憶の役割が歴史を形成しないのか。これについてはアスマンが引いているアルヴァックスの考察が役立つだろう。それは、集合的な記憶が、出来事のシンボル化に過ぎないからだ。シンボル化に過ぎない以上、まさにアルヴァックスが言うように、「集合的記憶は、それが結びついている集団と同様に常に複数形で存在する」のである。これは、歴史の記憶、すなわち「単数形で存在」することと対立する。歴史が純粋に単数形で存在することは、もちろん前提とはできない。ただ、ここで確認したいのは、集合的記憶とは、もしそれが歴史とされるとならば、その歴史は、集団の利害、行為の正当化、相対主義的な歴史観を必ず孕んでしまうということだ。もっと単純に言ってしまうならば、集合的記憶はシンボル化=この戦争は何だったのかという問いへの、事後的に構成された答えなのだ。
 それに対して、蓄積的記憶は歴史に何らかの寄与をしうるのだろうか。アスマンは蓄積的記憶は、「文化の知識を更新するための基本的資源」であるとする。この二つの記憶が間の境界が「高度に透過的」でなくてはならないという。しかしそれがいかに可能で、どのようにその透過性が保証されるのか。そこには「検証」が必要となるだろう。この検証こそが歴史的事実と呼ばれるものではないだろうか。それがシンボルや選択といういわば言語化において避けることのできない作用を認識しながらも、それを絶えず修正していく歴史的な理性の謂いとなるのではないだろうか。
 だが、これだけでも十分ではない。こうした考察を深めた後にもう一度証言者のディスクールに戻ってこないといけない。利害をもたない証言者の記憶の物語について、それが検証に耐えうるかどうかということも含めて、さらに考えなくてはならない。そこには倫理が最終的に要請されるのだろうか。

 ゼーバルトは言う。「歴史的ないし文学的描写によって、空襲の恐怖を公共の意識にもたらすことに私たちは成功していないのではないか」と。この講演では、歴史的な事象にたいして、文学はどのような表現をもちうるのか、そして文学的な表現をいままで戦後ドイツはもちえなかったのはなぜなのか、が主題となっている。
 ゼーバルトは、戦後、ドイツが戦時下において、ほとんど正当化される理由もなく無差別な空襲を受けたこと、それも徹底的な絨毯爆弾によって、市民も巻き添えにした潰滅的な破壊が国土においてなされたことが、これまでほとんど書かれなかった事実を指摘する。それはあたかも健忘症にかかったかのような症状とでも言える。しかしゼーバルトが語るのは次のようなことではない。「空襲について語ろうとするのは、戦争の加害者は同時に被害者でもあった、ところが加害者としてのナチスの行為があまりにもひどいものであったため長らくドイツは自らが被害者でもあり、それを主張する権利をもっていない、被害を訴えることはタブーであるために長らく沈黙してきた」云々...したがって、次のような主張とは全くもって異なっている。
「もうそろそろ我々も被害者であったのだ、連合軍から悲惨な目にあわされたのだ、ということを主張してよいのではないか」。
 ゼーバルトが「告発」といってもよいほど強く、かつ執拗に訴えるのは、それら沈黙は自重や遠慮ではなく、むしろ自らその過去を封印することで、戦後の復興を成し遂げ、また自信を回復してきたのだ、という点である。それはすなわち、心理の巧妙なすりかえがあったのだということだ。たとえば戦後すぐドイツではオペラが上演され、三島憲一『戦後ドイツ』によれば、「ベルリンで毎晩200個所以上で芝居が上演され、毎日最低六つの演奏会があり、そして、オペラハウスも休演することがめったになかった」とのことである。こうした戦後のドイツの風景にたいしてゼーバルトは、「人類の歴史において、このような演奏をおこなうのはドイツ人のみであり、これほどの苦難を耐え抜いたのもドイツ人のみであるといういびつな誇りに、彼らの胸はふくらみはしなかったか」と。いびつな誇り、その心持ちが戦後の荒廃したなかでドイツ人に新しい生を歩ませることになる。三島憲一はそのあたりの事情を「このあたりの変わり身の早さは、ドイツ人全体にも共通している」と、辛辣な表現で指摘している。ゼーバルトは「当時のドイツほど、知りたくないことを忘れる人間の能力、眼前のものを見ずにすます能力が端的に確かめられた例は希有であったろう」と述べている。そしてその実体は「抑圧のメカニズム」の働きなのである。
 では文学は何をしてきたのか。あるいは言語は何を表象してきたのだろうか。いや問いとしては、なぜ文学はその描写をもちえなかったのか。言語はどんな表現に逃げをうったのか、と問うほうがより的確だろう。
 まずそもそもは、上記で言われた「変わり身の早さ」によって、そもそも描写の対象にしなかったということが挙げられる。そしてもうひとつは言語の表象の困難さという問題である。
 空襲とはひとつの言語に絶する出来事である。それは「生の形では描写を拒む現実」である。人が「思考や感覚の許容量」を超える体験をしたとき、その表現は、思考や感覚が麻痺しているゆえに、ほとんどが紋切り型の表現になってしまう。それによって、現実と言語の間には大きな齟齬が生まれてしまうのである。それは同時に、理解を絶する体験を本当に表象するところまでいかず、「蓋をして毒消し」をしてしまうことになる。
 だが、最大の問題は、表象が不可能だったのではなく、もちろんきわめて難しいとはいえ、それがタブーだった点にある。空襲を表象しようとする試みは、戦後復興のなかで誇りを取り戻そうとしてきたドイツ国民に対して、その誇りによって戦後、精神衛生を保ってきたドイツ国民に対して、じつは壁の裏側には、おびただしい死者、死臭、残骸、荒廃、血と汚物、そうした我々の精神に混乱をもたらす事実が、いたるところに転がっていることに言及せざるをえないからである。ゼーバルトはレーディヒという忘れ去られた作家を持ち出し、かれの「嫌悪と嘔吐を催させる」文体が、戦後に忘却の上に成り立つ戦後の文化的記憶から締め出されたのは、「防疫ラインを破るおそれがあったからだ」と述べている。空襲について語ることは、それが我々を忘却へと葬ってしまうほど、紋切り型でしか表現できないほど、我々の経験を超えた出来事である。しかしもしそれについて語りうるならば、それが同時に戦後ドイツという過去の忘却の上に今まで成り立ってきた文化が実は幻想であることを、それゆえに書くことがその幻想から覚まし、時間の寸断(戦前と戦後)というまやかしを暴き出すことになること、これこそが恐怖であり、ドイツの理性はその恐怖を今まで封印にしてきたことを、ゼーバルトは告発するのだ。
 しかしでは、どのような表象ならば語ることが可能なのか。ゼーバルトが挙げる数少ない成功例がノサックである。ノサックは「非人間性と紙一重の、倫理的感覚の欠如」を書き残す。  
 文学が歴史と異なってできることはこの点だ。文学は、歴史と異なり、ひとつの断片、物語化されえないひとつの断片でさえ、言語として表象する可能性を持っている。それが個人の視野におさめられたものでもかまわない。ただし、それが個人にとどまってしまえば、それは文学とならず、日記や覚書となろう。また装飾を交えてしまっては神話となってしまうだろう。文学とは、あくまでも「虚飾をまじえぬ客観性に裏打ちされた真実」を語らねばならないのだ。それでこそ、ひとつの断片であっても、他者とつながる契機が生まれるのである。歴史であれば、個の断片は、普遍性へと回収され、歴史的意味を帯びる。文学はこの大きな意味とはことなる、個でありながら、他者と了解可能な表象を探る言語の実践なのではないだろうか。
 だからこそゼーバルトは「私の人生と、空襲の歴史とが交錯する点」をいくつも述べてきたのではなないだろうか。

on_slow_boat_to_china.jpg 自分のまわりで死が頻繁に起こる。友人たちが短期間に次々と死んでゆく。それは「殺戮」と表現されている。しかし「死は死でしかない」とは、誰がどのように死のうが、その差異を抹消してしまうほど、死は圧倒的な一つの事実であるということだ。あらゆる差異を消し去り、人を無名性に押しやるほど、死の力は強い。

 友人が次々と死んでゆくとは、同時に自分が歳をとってゆく過程でもある。それは青春の終焉でもあり、そしてまだいつかは見えないものの、やがて来る自分自身の死の準備となるだろう。ただし、「いつかは見えない」、「やがて」というあいまいなときは、今来てもまったく不思議ではないあいまいなときだ。いつかはわからないとは、いま来てもおかしくはない。やがてとはすぐ先の未来であってもおかしくはない。

 死者へと意識的なあるいは無意識的な思いは常に残る。「夜中にものを考え過ぎる」というとき、それは、生者の死者に対する一つの喪の作業となるだのだろう。その喪に直面するのを避けるためには身体を動かすしかない。「掃除機をかけたり、窓を磨いたり」とは、きわめて日常的な社会性であろう。もうひとつの方法はテレビだ。「好きなときに消せる」とは、つながりうる関係を、突然断ち切ってしまうことを意味する。その可能性、私と他者とのつながりの可能性そのものを断ち切ることになるのだ。死があらゆる無名性へと人を落とし込むならば、友人の死も、テレビの中の死も何も変わりはない。それは「匂いのない死」だ。「あなたは私が殺した人に似ている」ならば、「あなた」の方が死んでいてもなんの違和感もないのだ。生者と死者を分つものなどなにもない。

 しかし、もし無名性から死者を救うために、「夜中に物事を考え始める」ならば、それはテレビの世界にもやがてつながることになる。それは息をひそめて待っている人を、助けに地下へ降りてゆくことになる。テレビの向こう側に、地下奥深くに、沈黙して待っている人がいる。もし私たちが、向こう側に渡れるならば、地下に降りてゆけるならば、私たちは、その人にしかない匂いをかぎながら、救助へと向かうことができるのだろうか。

Paul Ricœur, La mémoire, l'histoire, l'oubli (2000)

 第一部記憶と想起について、第二章訓練される記憶力ー慣用と濫用、第二節自然的記憶力の濫用、3.倫理的・政治的レベルー強いられる記憶力をまとめる。
 ここでリクールは、この場所ではまだ時期尚早であると断りながらも、記憶の義務の批判を行なっている。その批判の中心は、思い出すことへの命令が、歴史の作業を短絡化してしまうことにある。
 まずリクールはアリストテレスの「記憶と想起について」で述べられている想起の自発性(évocation spontanée)と、記憶の義務とを対比する。果たすべき務めとして過去へと向かってゆくと同時にその動きは未来を志向する記憶(過去にあったことを未来においても忘れるな)と、記憶の作業、喪の作業の関係を問う。
 たとえば、精神治療においては、記憶の義務は務めのように定式化されている。被分析者の精神分析に寄与する意図は、命令の形をとっている。一方、喪の作業においては、失われたものと自分とをつなぐ絆をひとつずつ切り離していく作業を続け、和解への作業は果てしないものである。
 このように考えてくると記憶の義務と対比したとき、記憶の作業と喪の作業という「作業」(travail)に欠けているのは、「命令的要素」(élément impératif)だと言える。さらに明確に言えば、義務(devoir)には以下の二つの面がある。一つは、外部から欲望に強制が課されるいうこと、二つめは主観的に感じられる制約が、実は課されるべきものとして働くということである。そしてこの二つの面が結びつくのは、justiceの理念においてである。
 こうしてリクールは次にjusticeの理念と記憶の義務の関係について問う。その答えは次の三つである。1.justiceの美徳は他者へと向かう美徳であること、記憶の義務は他者の正しさを認める義務である。2.負債の概念。我々は現在のある部分を過去の人々に負っている。3.我々が負債を負う他者の中で、道徳的な優先権は犠牲者に与えられる。この犠牲者とは我々以外の犠牲者である。
 ではこうした三点において、記憶の義務が正義の義務として正当化されるのならば、どのように濫用という事態が、良き利用の上に現れてくるのか、とリクールは問い、それは、歴史のより広汎で批判的な目的に対立して、記憶の義務に脅迫的な色合いをつける、感情的な記憶、傷ついた記憶によってあると言明している。
 そして、やはり留保はつけつつも、慣用が濫用へと至ることについて二つの解釈を述べている。ひとつはアンリ・ルッソの『ヴィシー・シンドローム』の説明。ここでの記憶の義務は、direction de conscienceが、犠牲者のjusticeの要求を代弁する形でなされており、記憶の濫用はまさにこのような形で犠牲者の無言のことばが絡めとられてしまうことにある。二つ目はピエール・ノラの『記憶の場』の説明である。それは記念顕彰のモデルが歴史のモデルに勝利してしまったという事態である。
 最終的にはリクールは、justiceの命令としての記憶の義務は道徳の問題に属するとする。

 二宮宏之のテキストは、例えばアンシャン・レジーム期の社会を具体的なフィールドとし、検証を重ねた緻密な歴史研究を実践する一方で、自らの思索に裏打ちされた歴史学そのものへの批判的視野をも兼ね備えた、第一級の研究者である。

 ここに紹介する「歴史の作法」は、叢書『歴史を問う 4 歴史はいかに書かれるか』の序に代わるテキストであるが、今現在歴史学がかかえる問題を包括的に示すだけでなく、筆者の考えも綿密に盛り込まれた、文章である。多くの史料、文献を読み込み、かつ、日々自ら思考をたゆまぬ筆者ならではの卓見に富んだ文章である。

 1.で問題になるのは歴史家の出発点である「問い」である。その「問い」をまず「今」と「自分」から始めている。「自分」については、色川大吉への上野千鶴子のインタビューを取り上げ、主体的な歴史という考えを紹介するととともに、自己の記憶が本当に自分固有のものであるとは簡単に断言はできない、この問題の複雑さをまとめている。「今」については、発生史的、遡行的発想と、「いま」を異文化として再発見する発想の二つにわけて整理されている。前者は過去と現在を反復する運動であり、後者は、現在の視点から過去を理解することを戒める態度である。たとえば今の意味概念で無神論者というレッテルでラブレーを眺めるような姿勢を批判する態度である。

 2.で問題にされるのは、過去という痕跡とどう向かい合うかという問題である。普通に考えれば、過去の痕跡とは史料ということになるが、史料を再検討することが歴史の課題となってきた。そのため、考古資料、民族史料、絵図・古地図、絵画史料、文学作品までもが歴史の対象となってきたのである。そしてもう一つの問題は痕跡の欠如である。たとえば、文字の世界に現れてこない、女あるいは子供の世界、男の世界であっても被支配者層や被差別民の歴史などである。さらにはアーレントの「忘却の穴」の問題が挙げられる。

 3.では、歴史記述の問題があげられる。ここで挙げられるのは19世紀ヨーロッパで支配的となった実証主義的歴史認識論に対する、「言語論的転回」の潮流である。これは「物語り論的転回」として歴史学の分野では現れてくる。ここではダントー『歴史の分析哲学』、ホワイト『メタヒストリー』、リクール『時間と物語』が紹介される。

 この歴史叙述の問題を3つの部類にわけて考えることで、今まで混乱して語られてきた歴史の物語性の問題を明快に整理している。第一の部類は、「歴史を大局的に捉える歴史記述」である。特定の時代の全体像を描いたり、評伝などがこれにあたる。代表例として挙げられるのがギボンの『ローマ帝国衰亡史』、ミシュレの『フランス革命史』である。第二の部類は、研究論文である。ここでは史料に基づいて綿密な検証を行ない自説を提示することがその目的となる。ここに、歴史家の問い、史料の読み(分析)そしてなによりも論文の構成という点で、ナラティブ性を認めることができる。第三の部類は、年表や歴史地図である。そこに載せる出来事、表示、表現も決して価値中立的ではない。ここにもひとつのテクストとして固有のナラティブ性を認めることができる。

 4.では、歴史記述の固有のナラティブについて言及する。ここではたとえば、歴史と文学に関して二宮の所見が示される。ここで二宮が依拠するのは歴史家の仕事が具体的にどう進められるかという点である。ここで二宮は歴史家には2つのオペレーションー史料を発見し読解することと、そのように読み解いた諸々の事柄を相互に関連づけ構成していくことーがあり、この2つの側面が重なり合って進んで行くことが歴史家の作業であるとする。確かに歴史家の本文として、読む=読者でなければ出発できないということ、文学者にとっては、この条件は必要条件とは必ずしもならないところに歴史と文学の叙述の差があるように思える。この両者の違いは虚構性と事実性の違いではないのだ。その意味で歴史家の作業、「読む込むことと、読み込んだものの意味連関の構築」に求めていることが二宮の卓見であると言える。文学者はむしろ、言語そのもの、表現の彫琢を相手にしているのではないだろうか。

 最後に二宮は、こうした以上の主張は歴史を限りなく歴史家の方に引き寄せたものだと述べている。その上で、こうした論考が相対主義に陥らないのは、歴史家がみずからの責任と矜持をもってみずから構成した歴史を述べているからであり、また歴史家は絶対的神ではありえず、常に他者と論じあう開かれた場所に身をおくからである、と述べている。「相互の討議の場」これがなければ、歴史は真実と混同されてしまうだろう。

 トドロフの思想とは、一言でいうと「中庸」の思想である。そして中庸の見定めは、あくまでも討議することによって、行なわれる。その意味で対話者の関係の中で、暫定的な真理が生まれてくると言えよう。しかしそれはあくまでも暫定的であって、決して絶対的=不変不動の真理ではない。むしろ絶対を標榜し、議論を排する態度こそ、トドロフにとってはもっとも排すべき考えである。また対話によって真理を見定めてゆくということは、相対主義、すなわち、干渉しない複数の真理が並び立つということを戒めるという意味でもある。そして対話の原理は、彼のバフチン論にその起源を求めることも可能であろう。
 Mémoire du mal, tentation du bienの第4章Les usages de la mémoireでも、「記憶」利用の2つの極端なあり方、sacralisationとbanalisationを排し、歴史における記憶の位置づけについて検討を重ねている。
 トドロフは「記憶それ自体は、良いものでも、悪いものでもない」という。しかし、それが極端な二つの方向、sacralisation「思い出を根本的に分離すること」か、banalisation「現在と過去を過度に同質化すること」のどちらかに傾く危険があることを指摘する。
 ではsacralisationの問題とは何か。まず、sacralisationは出来事の唯一性とは異なる。出来事の唯一性が問題なのではなく、その出来事が、別格のものとして、他の出来事との関係づけ、比較、検討も許されない、「触れられない絶対的な出来事」として祭り上げられることが問題なのである。それは理解の不可能性、表象の不可能性ということばで語られるが、これは実際には理解や表象を「禁止」しているのである。それによって、人類は、その唯一の出来事から教訓を引き出すことがもはや不可能となる。
 出来事のsacralisationはどのような事態をもたらすのか。トドロフが指摘するのは、現在と過去の遮断である。「ホロコーストを忘れるな」と叫ぶそのそばで、ルワンダの虐殺に対しては無関心である現実をトドロフは批判する。
 一方banalisationとは何であろうか。その危険性は、現在の固有の出来事が、過去と同一化されることによって、その固有性を失う点である。たとえば、ある人物を、「現代のヒットラーだ」と安易に形容することによって、現在の特殊性を等閑視してしまうという態度である。
 過去がそれ自身では善でも悪でもないということは、過去と現在との関係において、過去における<悪>が、現在において<善>を生むどころか、新たな<悪>を生む下地となる、という逆説的な事実からも言える(言わざるをえない)ことである。非抑圧者は、それによって善を備えた人物となるわけではない。トドロフはいくつかの例を出しながら、この事実を指摘する。簡単に言ってしまえば、「他者の過ちから何も学ばない」ということである。それが「復讐の連鎖」という事態を生む。その最たる例が、イスラエルの場合であり、過去の経験というものが、現在の政治の正当化に利用され、結果サイードのいう「犠牲者の犠牲者」が生まれている。その意味で、トドロフにとっては、20世紀末におけるアルジェリアの暴力は、それまでの120年に渡る植民地化での暴力のトラウマの結果であり、悪が容易に消えるのではなく、むしろ悪の波及という現実があることのひとつのヴァリエーションである。
 こうしてトドロフは、歴史の教訓とは、過去からそのまま引き出されてくるものではなく、現在における政治的・倫理的確信から生まれてくるものであると言う。
 ここでトドロフはひとつの問いを立てる。「記憶よりも忘却の方が望ましいのではないか」と。そして、記憶の問題として、トドロフは「復讐」の問題を取り上げる。つまり、過去を記憶によって喚起することが、復讐のきっかけになっており、新たな悲劇の到来は、この「許さないこと、忘れないこと」から起こることも確かである。しかも、「復讐」とは、我々にとって、決して無縁のものではない。それは、死刑という制度に根強く残っている。死刑をめぐって、トドロフは、復讐を法の正義と対置する。復讐とは、許しと同じく個人的なものであり、それに対して、法とは非人称なものである。しかし、たとえ抽象的かつ非人称的であるとはいえ、法こそが暴力を減じる唯一の方策であるとトドロフは言う。
 記憶が復讐の原因になることがあるとはいえ、忘却がよしとされるわけではない。ここで取り上げられるのが精神分析で言われるところの抑圧である。それは過去を回復(recouvrement)することをめざす。喪の作業と同じく、過去を忘れるのではなく、その位置、イメージを変えることによって、その過去から解放されることが目的となる。では公のレベルではどうだろうか。トドロフがここで主張するのは、やはり「変化」ということである。この場合の変化は、ある個別の出来事から一般的な行動基準への変化である。具体的には、そこから公的正義の基準、政治的理想、倫理的基準を引き出すことである。この抽象化は、個別のケースから離れるということであり、上述の非人称の抽象化を経ることで、法は到来するのである。
 従って過去を思い出すこと、再生産することが記憶の利用の目的ではない。その目的は、我々の価値の選択によるのであって、思い出に忠実であることではない。そのときに重要となることは、個人のアイデンティティを正当化し、近隣者の死を悲しむことは十分真っ当なことである。しかし、他者の不幸へと自らを転じるとき、そこにはさらにおおきな尊厳と価値があるとトドロフは言う。ユダヤ民族の大虐殺から、黒人奴隷の問題へと転じたシュワルツ=バール、アルジェリアでの拷問を前にして職を辞した、収容者Paul Teigenなどの例が出される。
「記憶の義務」と言う時、それはえてして、過去を回復し、その過去の事実を解釈していく営みではなく、むしろある事実を選び取ることの正当性を訴え、善悪を固定化することに通じてしまう。したがって、必要とされるのは、ポール・リクールが言うように、「記憶の作業」である。この作業とは、それだけでは何の価値や意味もない歴史的過去を問い直し、判断していくことを意味する。トドロフは最後に、「理性の鍛錬」、「討議の試練」に過去をさらし、自らの利益ではなく、他者にとっての倫理とすること、ここに記憶の利用がかかっているとする。

 シャルル・カンプルーは、1908年南仏生まれで、南仏オック語、オック語文学などを幅広く研究した大学教授である。『オクシタン文学史』などの著作もある。訳者は島岡茂、鳥居正文。
 Que sais-je ? 基本的な著作であるが、その基本的な知識を全て網羅するには、当然ながら、圧倒的に幅広い知識と、その知識を裏打ちする信念に近い文化への奥深い理解を必要とする。碩学という言葉にまさにふさわしい研究者である。序論はロマン語の定義。フランス語において、Romanzは、romanの起源となる、「ラテン語のテキストを翻訳、もしくは手直しした、フランス語やオック語による卑俗なテキスト」を当初は意味した。
 第1章は「ロマン語研究の歴史的発展」である。トゥルバドゥールの言語、ダンテの『俗語論』(俗語を文法的に考察することの意義)、コイネーとしてのオック語、語源研究としての出発、ジアン・ド・ノートルダムによる修辞学的関心から、19世紀のロマン言語学への歴史的変遷が扱われる。19世紀ロマン言語学とは、文献学、言語学的研究である。レヌアール、パリス、シュライヒャーなどの言語論、おして19世紀末の新文法学派への反動として、クルティウス、ブレアルの研究、明日凝りなどの方言学の研究が紹介される。20世紀のロマン言語学としては、フォスラーの観念論学派、グラモン、ギョームの心理学的関心、言語地理学、ロマン言語学における構造主義が紹介される。
 第2章は「ロマン語の起源」である。まず最初に、古典ラテン語から俗ラテン語への移行ではなく、文字ラテン語と話されるラテン語があったことが指摘される。後者は当然ながら<非>均質なものである。次に言語層の問題が扱われる。5世紀においては、「もはや俗ラテン語を持ち出すことができない」(p.60.)と指摘する。また「ロマニアの言語的分化は、おそらく最後にはこのような司教の権限に従う人間集団の境界へと到達した」(p.61.)との指摘もある。そしてロマン語の存在が意識されたのが、8世紀末から9世紀始めに位置づけられる。
 第3章は「ロマン諸語」である。ここではロマン諸語の分類が扱われている。イタリア文学言語についてはベンボ(Bembo)の『俗用語文論』の言及もある(p.83.)。それに続いて類型論として、音、形態・統辞、語彙についての紹介がある。
 第4章は「拡張」である。現在のロマニアについての紹介がなされている。

 第三章で言及されるのはホメロスである。ホメロスの意図は感情を人格化して描くことにあった。詩の完成に至るためには、精髄を豊かにする想像力とその飛躍を支配する理性を調和させることが必要であるが、ホメロスはそれをなしえた詩人である。ギリシアの詩は、音楽的リズム(rythme musical)によって計られ、長音節と短音節の混合によって構成され、韻の拘束を揺るがしてきた(p.62.)。リズムとは、詩が作られる拍の数とそれぞれの拍の長さのことである。古代ギリシアでは、筆耕法が使われていたが、これは長くは続かなかった。もしこの方式が存続したり、あるいは、韻が形式を拘束していたならば、ホメロスは叙事詩を仕上げることはなかったであろう。韻が詩の形式を支配するところでは、才能はその形式にばかり気を取られ、知的啓示(inspiration intellectuelle)を無駄にしてしまうのだ。

 第四章では、まずプラトンに言及し、詩人が天啓を伝える人として描かれる。それは最初の天啓を受けて、最初の叙事詩を創ったホメロスから、その天啓を広めたrapsodes(吟遊詩人)のように、人々に広がっていく。さらには、教育の基礎ともなる。
 この時代には二種類の詩があった。poésie eumolpiqueとpoésie épiqueである。前者はintellectuel et rationnelなものであり、後者はintellectuelでpassionnéなものである(p.74.)。
 次にFabreは、劇の起源について述べる。それはオルフェウスの秘犠の俗化したものであり、デュオニソスの収穫の祭りがその始まりである。さらにFabreはdrameの語源に触れ、サンスクリット語で、輝かしい、美しいという意味をもつRamaという名が、フェニキア語でも同じ意味をもち、そこにアラム語とシリア語に共通の指示冠詞がつくことによってdramaという単語が生まれたとする。
 最初はぶどうの収穫時の「田舎の余興」であったが、それが人々をすぐれて魅惑したことから、教養層の眼にもとまることになった。それをとりあげたのがThespisとSusarionであり、それぞれが悲劇と喜劇の起源となった。
 こうした事態に気づいた国家は、宗教と風俗に危険となる場合、厳格な規則を課した。秘儀をもとに劇を仕立てることは許したが、秘儀の意味を解き明かすことは禁じた。作品の善し悪しを判断するにあたっては、音楽と詩の知識に秀でた審査官を置き、彼らは、すべてを秩序と規則に収めなくてはならなかった。プラトンはこの法がすたれたこと、人民が演劇を支配したことが、芸術の最初の頽廃であると言っている。
アイスキュロスは、演劇の真の創造者であり、ホメロスからうけた天啓にのっとって悲劇のなかに叙事詩の文体をとりこみ、簡潔で荘厳な音楽をつけた。さらに、音楽、絵画、踊りによる総合的な演出を試み、舞台装置による効果を展開した。
 ギリシアの劇が秀でていた点は、秘儀の宗教から生まれた道徳的な意味を持っていた点である。したがって、普通の人々が舞台や音楽の華やかさに魅了されているだけなのに対して、賢者は、その中に潜む真理を受け取ることによって、より純粋で永続的な喜びを得ていたのである。
 ソフォクレスとエウリピデスは、アイスキュロスの後継者として、ともに秀でていたが、形式を完成させることに心を砕き、劇の本質、すなわちアレゴリーの精神(génie allégorique)を変質させることになったことは否めない。さらには、エウリピデスが描いた逆境において堕落した英雄、恋に狂う王妃、といった情景の魅力が、アテネの道徳の腐敗の原因、宗教の純粋性を貶める最初の原因となった事実を認めざるを得ない。弱さや罪といったものが、本来ならばその意味を探すべきアルゴリーとして示されるのではなく、単なる歴史的出来事、想像力の気まぐれな戯れとして示されてしまっているのである。
 こうして二世紀しないうちに、テスピスのもとで生まれ、アイスキュロスによって劇として高められ、ソフォクレスによって栄光につつまれた悲劇は、エウリピデスにおいてすでにかげりをみせ、アガトンの起源の思い出を失い、急速に人々の気まぐれによって頽廃を迎えてしまったのである。
 エピカルモスにはじまり、アリストファネスにつらなる喜劇も、同じような歴史をたどっている。

 オルフェウス教は、紀元前6世紀に古代ギリシアで発達したが、その意義は、当時のギリシアの市民生活と宗教に対立する運動であったという点である。しかし、「オルフェウスの金板」を除けば、資料としては間接的な証言しかない。またオルフェウス教は、オルフェウスとその弟子ムサイオスを以外は、無名の人々が信者である。このような点で、オルフェウス教の実像を掴むことには困難がつきまとっている。

 この教義の重要な点として、生け贄を捧げる義務に反対したことがまずあげられる。次に、死と魂の考え方である。当時ギリシアでは、魂は肉体を離れたあと、死者の国で永遠にさまようものとされた。それに対してオルフェウス教は、魂の不死性を主張した。この意味において人間の魂は、神的な性質を持っていると言える。また魂は決して死ぬことはない。ただしその魂は先祖が犯した殺害という罪で汚れている(p.10)。そしてその戒律は禁欲、身を清め、肉食を禁止することにあった。

 オルフェウスの伝説は、「音楽の賛美」である。彼の歌には、全世界のあらゆる存在物を従える、並外れた力がある。その歌の力をたずさえて、死者の国へも降りていったのである(冥界降り katabasis)。また頭を切られても、歌を歌い続ける。(第一章 オルフェウスー神話とオルフェウス精神の成立)

 オルフェウスの宇宙誕生譚は、アリストファネスの喜劇『鳥』の中で、宇宙卵(=時の具体化)に言及している箇所にその反映がみられる。またダマスキオスの「ヒエロニュモスとヘラニコス」の誕生譚にも似ているとされる。また『二十四の叙事詩からなる聖なる言説』では、時(クロノス)が原初の生み出す力という非常に重要な役割を演じている。宇宙の統治における最初の存在が、ファネス、プロトゴノス、エリケパイオスである。(第二章世界と支配権)

 オルフェウスの人類誕生譚は、ヘシオドスの人間と神々を分離して考える論理とは反対に、人間と神々は本来単一であったという論理に基づいている。その意味で人間は不死性という性質を持つことになる。(第三章 人類誕生譚と人類の不死なる二つの対極)

 しかし不死なる魂をもつ人間は、その起源において、神々の間で生じた汚れを負っている。この汚れを清めて救われるためには、神に同化することが必要となるが、これには日常生活において禁欲の掟を実践することが求められている。殺生を禁じることがその第一の掟である。許される肉と許されない肉と区別をしたピュタゴラス主義は、結局生け贄を認めており、それにたいしてオルフェウス教はどんな些細な殺害も禁じている。肉食を控えることは、まさに神々のように振る舞うことである(p.96.)。この菜食主義が古代にはあったという言い回しは、たとえば、オウィディウスがピュタゴラスに語らせるせりふなどで、よく現れる。プラトンも『法律』のなかで、オルフェウス教は先祖伝来の伝統を踏襲していると述べている。生け贄は、神と人間の越えられない距離を前提とするという意味で認められないのである。ただ、オルフェウスの秘儀については仮説の域を出ない。(第四章 日常生活と秘教世界)

 魂は死ぬことができないので、取るべき道は、自分を忘れ、その神的起源を忘れるか、神的起源を思い出すかである。前者の道は「忘却」の泉に通じ、ふたたび「陽の光」の下に、新たに誕生することとなる。後者は記憶であり、神との失われた同一性の回復である。それぞれ無知と知ること、不幸と幸福、転生と、誕生の円環からの解放という対立がある。ホメロスの「忘却」は、魂を、地上での過去を決定的に忘れてしまった虚しい影に変える役割を果たすだけである。それに対して、オルフェウスの金板は、「忘却」は、魂のなかにある神的起源の記憶を消すものであり、その結果魂は転生するとする。つまり忘却とは、死の象徴ではなく、生成の円環に投じられることを意味するのである(p.116)。こうした不死の考えは、ヘラクレイトスとも共通点があると言われる。(第五章 死後の世界の記憶)

 のちにバランシュは、オルフェウスの教えはキリスト教を予示しているとした。

 第二章では、その後のトラキア信仰の拡散を語る。つまり原初の統一を失い、さまざまなセクトが誕生する。ここから半神、高名な英雄などが生まれてくる。ここでFabre d'Olivetは今度は歴史という観点で2つの考え方を区別する。まずはアレゴリーの歴史であり、こちらは、道徳のみを扱う。そして個人ではなく、集まり(masse)の動きを見つめ、そうした集まりを一般的名称(un nom générique)で指し示す。したがって、こうした集まりを統率する長というものもこの歴史の言及するところではない。それにたいして実証的歴史(histoire positive)は、個人が全てである。それらの個人と出来事の日付、経過などを記すのである。

 続いてホメーロス以前の詩人、Linus, Amphion, Thamyrisがそれぞれ、月にまつわる詩、太陽にまつわる詩、Olenの普遍的教義をそれぞれ表しているとして紹介される。次にオルフェウスについて語られる。オルフェウスが現れた時期というのは、純粋なアレゴリーと、弱められたアレゴリー、知性で把握できるもの(l'intelligible)と感覚で把握するもの(le sensible)が分かれる時期である。その意味でオルフェウスは理性の能力と想像力を折り合わせることを学んだ。このオルフェウスとともに「哲学」の基礎が生まれたのである。この時期のギリシアはすでに野蛮な状態ではなく、また詩は、人間精神の幼い時期に生まれたのではない。詩は、つねに人々の中に長く生き、進んだ文明を持ち、力強い時代の輝きを持っている。

 長い間ギリシアは政治的にも宗教的にも混乱の時代に陥っていた。様々な寺院、都市が割拠し、対立する。その直前にアジアでもインドが分裂し、混乱の状況を迎えていた。地中海と紅海の交通も途絶え、インド洋に定住していた原フェニキア人とパレスチナのフェニキア人の交流も断たれた。アラビア、ペルシアも同様である。エジプトは王権が権力を広く延ばすようになり、ギリシアもその影響下にはいる。

 そのような状況の中、トラキアに生まれ、エジプトで学を積み、詩の崇高さ、知識の深さを極めたのがオルフェウスである。Fabre d'Olivetによれば、妻エウリュディケの存在もアレゴリーに過ぎない。それはすなわち、遠ざかっていく美と真のアレゴリーである。真理は知の光の中で初めて到達する、暗闇で凝視したところで、それは決して得られない。このようにFabreはアレゴリーの解釈をしている。

 オルフェウスは、神の神秘を知るために、学校を作り、そこで知を高め、真をしるためのイニシエーションの修行を行なわせた。古代においては真理はひとつの声があるだけであり、それはこのオルフェウスに帰せられることはソクラテスの証言通りである。こうした知のあり方は、その前のモーゼ、その後のピタゴラスと同じである。

 ここで先ほどの混乱の時代に話題が戻り、Fabre d'Olivetは詩の真理の分裂は、本来の啓示を得ることのできない僧侶たちが、感情の高まりをそれと同等のものと見誤ったことを原因だとする。それによって、神がその能力、そして名前によって数多く生まれることとなった。こうしてそれぞれの都市がそれぞれの神を抱くこととなる。もちろんこれらの神々をよく検討するならば、それらは最終的に普遍的な唯一存在へと還元されるだろう。しかしそれぞれの守護神を見いだしていた民衆にとって、そのような考えをすることは不可能であった。

 オルフェウスは、モーゼと同じようにエジプトの寺院で教育を受け、神の単一性についてはヘブライ人と同じ考えを持っていた。しかしこの考えを表に出すことなく、秘儀の根本に据えるとともに、詩の中で、神の属性を人格化した。モーゼの教団が厳格なものである一方、オルフェウスのそれは、輝きがあり、精神を魅惑し、想像力の発展を促すものであった。喜びや快楽の下に、オルフェウスは役立つ教え、教義の深みを隠したのである。詩、音楽、絵画、それらにおける荘厳さ、優美さが信仰者を熱狂で包み込んだのである。オルフェウスの言う真理は、モーゼよりもさらに進んだものであり、時代を先んじていた。オルフェウスは、神の単一性を教え、その存在の計り難さを述べた。またこの唯一神を三神の表象のもとに描いた。

 また弟子に芸術がもたらす感興を信者に与え、彼らの生活が簡素で純粋であることを望んだ。こうした教えは後にピタゴラスが引用するものである。

 この教えの究極の目的は、神との交流にある。輪廻の輪を断ち切り、魂を純化し、肉体を抜け出した後に、原初の状態、光と幸福に到達するよう、魂を飛翔させることにある。

 オルフェウスについて長々と論述してきた理由は、詩が余興の芸術ではなく、それが神の言葉であり、予言者の言葉であることを言うためである。オルフェウスはこの意味で、まさに詩と音楽の創造者であり、神話、道徳、哲学の父であった。オルフェウスが源流となり、ヘシオドス、ホメロスのモデルとなり、それがピタゴラスやプラトンにとっての光明となったのだ。

 オルフェウスは、自らの教義を俗なるものと、神秘的なものに分けた上で、詩の中にも神的なものと俗なるものが混じり合っていることから、一方を神学、もう一方を自然学(la physique)にわけた。オルフェウスは、神学と哲学の数多くの詩を作った。それらの作品は残っていないが、人々の記憶には留められた。(この場合の哲学とは、コスモロジー、すなわち、自然学のことか?)。同時にオルフェウスには叙情的な詩群もある。ここからギリシアのメロペーが生まれ、それが次いで、劇を生んだ。

 Fabre d'Olivetによるピタゴラス『黄金の詩』フランス語翻訳につけられた詩論である。論文タイトルにあるように、詩を「本質」と「形式」に分けて検討している。

 以下簡略訳をしながら要旨をまとめる。

 序文で、ピタゴラスの詩のフランス語訳が、フランス語自体にもたらす有用性に触れた後、第一章では、まずベーコンの『学問の尊厳と進歩』を引用し、詩が本質と形式に分けられていることに言及する。本質とは、想像力に属するものであり、これだけで学問の一分野を構成する。形式とは文法に属するものであり、哲学の、理解の合理的形式に包含される。この考えはプラトンに流れを発するものであり、プラトンによれば、詩はひとつに思想にそれに合致した形式をあたえる技術であり、これはたんに才能による。もうひとつは、神の啓示である。したがって、詩人とは単に詩作の才能をもった人間と指すのではない。魂を高揚させるこの神の熱狂を身にたずさえてこそ、詩人となるのである。

 この意味で、オルフェウス、ホメロス、ピンダロス、アイスキュロス、そしてソフォクレスの名声が、単に作品の構成、詩節の調和、その才能にあるのだと考えることは誤りである。これらは単に詩の形式に過ぎず、本当の詩というものは、詩人の精髄(génie)が、その高揚の状態において、知性(nature intellectuelle)によって捉える本源的な概念(idées primordiales)にあるのであり、この概念は、続いて、詩人の才能によって、自然要素(nature élémentaire)の中で明らかにされる。これは自然界の物質の似姿を、魂の啓示を受けた動きに会わせるのであって、この動きを似姿に合わせるのでは決してない。これについては、ベーコン自身が次のように言っている。

「感覚の世界は魂の世界より劣っている。詩がこの性質に、現実が拒んでいるものを与えなくてはならない。詩が新たな存在を生み出すのだ。摂理の歩み(la marche de la Providence)が、出来事に潜む最も隠された原因を明らかにするのである。」

 ベーコンにとって詩の登場人物とは仮象であって、それら登場人物の善悪、行為の中には深い意味が込められており、そこに宗教の神秘、哲学の秘密が隠されているのである。現実世界の法を離れた行為の根底には、崇高なる哲学が潜んでいるのである。それが本質と呼ばれるものであり、形式が時の流れとともに変質するのにたいして、本質は不変である。

 この本質とはアレゴリーの精神(génie allégorique)、啓示、すなわち精神の魂への流入によって直接生まれるものである。それは上に述べたように、知性(nature intellectuelle)においては潜在的に留まっていたものが、行為によって自然要素(nature élémentaire)を通過することによって顕在化するのである。詩人の詩作とはこの自然要素に感覚しうる形式をまとうことである。これが神的な啓示であって、知性(nature intellectuelle)から生まれでて、時代、民族を越えて共通である。これが精髄(génie)を作り上げる。一方、俗に啓示と呼ばれている、心の内的な動き、未完成な感情(passion)の方は、感性(nature sensible)に備わるもので、こちらは時代、風俗によって様々に変化する。こちらは精神(esprit)と呼びうるものだ。

 こうしたことは新しい発見ではなく、ヘラクレダイ一族、ストラボンが指摘していることであり、デュオニュシオス・ハリカルナッセウスが「自然の神秘、道徳の最も崇高な概念は、アレゴリーのベールによって覆われた」と言っている通りである。

 古代ギリシアの初期においては、詩とは祭壇にまつられ、人民の教化(instruction)のためにのみ、神殿から出された。つまり、詩、詩節で書かれたテキストとは、神託、教義、道徳戒律、宗教上の、あるは社会生活上の決まりなどである。その意味で詩とは神の言葉である(Fabre d'OlivetはCourt de Gébelinを引用し、語源的にもpoésieはlangue des Dieuxを意味するとする)。

 この詩の起源はThraceトラキアであり、それを聞かせた者をOlenと呼んだ。Fabre d'Olivetはそれぞれの語源をl'Espace éthéré、l'Etre universelであるとする。

 さらにこれらpoésieの歴史を考えるうえで、そこにはフェニキア人の言葉の影響がギリシアの地にれっきとして残されていることを考えなくてはならない。

 トラキアは古代ギリシアの信仰の中心であった。このトラキア人たちからギリシア全体へ神の神託が広まったのである。デルフォイの神託も同じように考えることができるであろう。この2つの信仰は、前者がバッカスとケレス、あるいはディオニソスとデメテル信仰に、後者が本来のギリシアにおける信仰、アポロンとディアナ信仰となった。

 この分裂がどうであれ、ながらくギリシアを支配したのはトラキアの信仰であり、デルフォイの信仰はほとんど知られていなかった。その近くに生まれたヘシオドスがなんの言及もしていないのがそのよい例である。ミューズ、詩の女神がうまれたピエリ(Piérie)もトラキアの山である。

『零度のエクリチュール』はフランスにおいて、langue、あるいはstyleの歴史ではなく、文字(文学・文章)言語の歴史を追うことを目的とした作品である。(p.6)
バルトは、ブルジョワジーのイデオロギー的単一性が続いている間は、作家とは普遍性の証人であった。この意識は1850年ごろ終焉をむかえる。それはフローベールにとって「オブジェ」という対象物になり、形式の制作が始まり、そしてマラルメによる言語の破壊(いわゆる指示対象の不在ということか?)となる。p.6.

 Langueとstyleは人間の歴史的事実の外側にあるということか。バルトはこれら二つは「時間と生物学的人間の自然な所産」と述べ、それを「文法の規範や文体の常数」と言い換えている。それにたいして文字言語は「歴史的な連帯行為」であるとする。文字言語には選択とその選択の制限が働く。作家はある文学言語を選択し、また過去の全体を含みこんで活動をしていく。p.15.

 歴史的な行為である以上、そこにはイデオロギーが発生する。それは政治的ディスクールにおいて顕著となる。知識人的エクリチュールも同様である。これらは制度であり、「わたし」はそれによって拘束され、「形式」は自律的なオブジェになる。p.25.

 古典主義的言語は、個人や意味の創造、偶発性を欠いた言語であり、伝統への厳格な依拠によって中性化され、語彙は慣用としての語彙であり、その語を集め、関係づける表現術なのである。したがって修辞や決まり文句は語と語の関係によって成り立っているもので、驚きを生むことはない。このような古典主義的言語は、ある集団に閉じられた社会的な言語であり、その集団の人々の間を流通するという意味において、厳しい法則をもっていながらも本質的にはひとつのパロールである。p.44.

 この文字言語が現れるのは、まず言語が国民的に構成され、それが否定性を帯びるようになる、すなわち、起源や正当性を問題にすることなく、禁じられているものと許可されているものをと隔てる地平線となるときである。そしてこのとき言語は、時間的推移というものを離れ、普遍的なものとなる。そしてこのときとはフランス社会においてブルジョワが勝利をおさめたときである。したがって、それは、民衆の自然発生的な主観性による文法的手続きを純化することによって、作られた階級的な言語である。p.52.

 ここで問題になるのは修辞、すなわち言述の秩序だけであり、道具的、装飾的な単一の文字言語だけが存在する。このイデオロギーは革命をくぐりぬけて1848年までつづくことになる。ロマン主義も道具性という古典主義言語の本質を保持しているのである。p.53.

 1850年以降、ヨーロッパ人口の増大、近代資本主義の台頭、社会における階級分裂と自由主義の幻想の崩壊という3つの歴史的事実が、ブルジョワ・イデオロギーの単一性、普遍性を終焉させ、文字言語は以後多様化し、作家たちは、みずからのおかれた条件そのものの不安定さという悲劇をかかえることになるのである。p.56.

 言語は、古典主義自体には共有財産であり、使用価値を持っていたわけだが、これ以降、作家たちは職人のように自らの形式を彫琢することなり、この価値は労働価値へと転化する。この職人芸的文字言語もブルジョワ的遺産の内部にあり、決して秩序を乱すことはなかった。これらの作家は文字言語を解放するのではなく、自らを正統化できる言語を創造する。そして解体をめざす作家は、基本的には書くことの不可能性、言語の崩壊、そして沈黙へと陥る。もうひとつの解決策は中性の文字言語の創造である。それは直説法的な言語、否定的な法であり、社会的、神話的性格は廃棄される。

 バルトがこの作品を書いていた時期の眼下に広がる世界は、市民世界が自然を形作り、その自然が語りはじめている世界である。作家は歴史に準拠するかぎり、つまり歴史性をもった文字言語しか使えないならば、作家はこの世界から除外されてしまう。こうした伝統としての記号をどう断ち切って文学を創造するか、はたして零度の文字言語が構想できるのか、ここに新しい文学のユートピアがかかっている。

 篠田浩一郎は『形象と文明』で、ブルジョワジーに関する一章をとりあげ次のようにまとめている。ルネッサンス期は個人単位で自由奔放なフランス語であり、17世紀前半はマレルブが、古語、外来語、新語、地方語、技術語を追放し、代名詞の省略を禁止する。つまりフランス語の「純化」が行なわれる。そしてアカデミの設立によって文法と語彙を国家がコントロールするとともに、近隣の諸言語に対してフランス語の支配権を要求する時代となった。これらはヴォージュラによって完成する(ヴォージュラは古典的文章言語を権利の状態ではなくて事実として勧告する)。この17世紀の文法家たちはフランス語という言語体系の非時間的な根拠を創りだすことによって体系を普遍的なものにした。このシステムは、政治的、文化的な力によって固定され、この国語の書き方が制度化され、「唯一のもの」となったときに、姿を現す。

 1803年、Fabre d'Olivetが36歳の時にパリで出されたLe Troubadour, poésies occitaniques du XVIIIe siècleの文学的な意味についての論文。この作品は作られた当初から、Fabre d'Olivetの作為によるものであることはほぼ明らかであった。そもそもFabre d'Olivetの意図は、その序文ですでに明らかなように(p.VII.)、北方のオシアンと同じ価値をもつ南方のトゥルバドゥールの広く知らしめることにあったのだ。

 このような作品を生み出すにあたって、Robert Lafontは、まずFabre d'Olivetのオキシタン語とフランス語という2重言語状況から、vocation «patriotique»を説明する。vocation patriotiqueとは、故郷を愛するがゆえに、その故郷のために自分が何をすることができるのか問いかけることを意味すると言ってよいであろう。その気持ちは、早くも1787年、20歳の時にlangue d'ocで書かれたForça d'amourとして結実している。

 ここで着目しなくてはならないことは、Lafontによれば、Fabre d'Olivetは故郷という場所の「原初的な文化の復元」(primitivité de la culture restaurée)を試みたのではなく、オキシタン文学の系譜に自らを置いたことである。

 この文学の系譜の筆頭に挙げられるのがPèire Godolinである。またpré-renaissance d'ocとしてJean-Baptiste Fabre (l'abbé Fabre)も挙げなくてはならないだろう。18世紀のこのようなラングドックの文学思潮にFabre d'Olivetは位置づけられるのである。

 もう一つ挙げなくてはならないのは中世史家の系譜である。特に1774年に出版されたl'abbé Millotによるl'Histoire littéraire des troubadoursである。これは当時から議論のあった北と南の優越性についての問題につらなるものである。またたとえばMme de Staelの北方文学と南方文学の主張にもつらなっている。しかしこれらの風潮はきわめてパリという場所で起きている風潮であった。

 このパリにおけるオクシタンの復興という歴史的状況のなかで、Fabre d'OlivetのTroubadoursは、伝統の覚醒であると同時に、きわめて近代的な事象として位置づけることができる。

 さらにこの時期に、1575年に書かれたJean de NostredameのVies des plus célèbres et anciens poètes provançauxが、当初の政治性という面は忘れられ、神話的な面だけが語られ続けることになる。その中でもっとも重要なのが«cours d'amour»であり、Fabreはこの作品から第2巻の題材すべてを借りてきている。ただし、Nostredameのようにすべての詩人をプロヴァンス化してはいない。つまりFabreは別の資料ももちいて再構築をしていたのである。

 Fabreは、騎士道的な愛とトゥルバドゥールの関係について19世紀の中世学者と同じ見識を明らかにする一方で、あまりにもキリスト教的な解釈に偏っているところがあり、アルヴィジョワ十字軍以降の詩人にのみ見られるような恋愛感情と宗教感情の関係を強調しすぎているのだ。このあたりには ChateaubriandのGénie du christianismeやCoppetなどの考えにつらなるものがある。つまりFabreのTroubadoursはNostredameの親和性と当時の風潮の混淆として考えることができるのである。

 このキリスト教的なモチーフというのは作品の中に強く見られ、たとえばmerveilleux chrétienをもちいたり、さらにはサンクレティスムのモチーフもみられるのである。つまり、最終的にはトゥルバドゥールもNostredameもひとつの機縁にすぎず、19世紀において開花する、ネルヴァル的なサンクレティスムが展開されているのである。

 したがってLafontはこの作品にみられるFabreの「恋愛と詩に関する感受性」から考えて、これは中世的なものではなく、フランスの18 世紀とヨーロッパのロマン主義の交錯点に位置するものとし、古典主義としては、作品における、トゥルバドゥールとは異なるエロティスムの展開を、そしてロマン主義としては「ウォルター・スコット」を彷彿とさせる、やはり、トゥルバドゥールからはほど遠い、登場人物の悲壮な状況における詩的感興を指摘するのだ。

 しかし、こうした作品世界は、オクシタン語の表現を近代的なものへと押しやるひとつの機会になっている。そのためにLafontはオクシタン語での「引用」部分に着目する。といっても、ここでもFabreは原典を引用するのではなく、自らの創作を載せているのである。つまりここで扱われる作品はトゥルバドゥールの仮装のもとに現れる19世紀の詩人Fabre d'Olivetの言語なのだ。そしてLafontは、偽装ではなく、自ら詩人として現れれば、当時のもっとも優れた詩人とみなされたであろうと最大限の評価をしている。 以下、そのいくつかの例が示されている。

 PhaonとSaphoの手紙における、rhétorique d'écoleによるérotique classicisant、トゥルバドゥールのジャンル、pastorèlaであり、ヴェルサイユ風のPastoura acoutidaであり、そして当時パリでも好評を博したCassanéa de MondonvilleのDaphinis et Alicimadureのようなオクシタンのジャンルでもあるpasotorale enrubanéeなどに、あたらしい「近代の」文学言語を認めることができるのだ。つまり、Lafontの洞察によれば、Troubadourは新しい近代的表現の開拓ということになる。Lafontはこの言語の完成が、フランス語からの借用ではなく、オキシタン語の内部で行なわれたことに関して Fabre d'Olivetを最大限に評価する。

 つまりFabre d'Olivetはその作品Troubadoursにおいて、文芸復興のための言語的彫琢を行なったと言える。この言語という表現手段を彫琢したからこそ、大きなジャンル、Chant royal, Sirventés、そしてフォルクロールなどの作品も創造することが可能となった。この文学作品の創造こそ、19世紀におけるrenaissance occitaneの始まりである。

 その後Fabre d'OlivetはLangue d'oc rétablieを構想する。ここでは確かに言語の神話的起源が夢見られてはいるが、それ以上に比較言語学的な枠組みをもつものであり、アルプスからピレネーにわたる地域の言語としてオック語を考えようと試みた。

(國枝付記)
ここで大切なのは、言語の復興が、文学言語の復興であるということ、言語への問いは、詩的言語の彫琢であることに、Lafontの言う18世紀的古典主義とロマンティスムの交錯が認められるということではないか。言語について問うとうことが、18世紀的なレトリックの創造になっているということは、言語そのものに対する視線が、文学へはむけられても、言語そのものの歴史性には届いていないことを意味する。それもそのはずで中世の作品を標榜しながら、ここで行なわれていることは、文献学的な探索ではなく、この時代の文芸思潮におけるオキシタン語の文学言語としての表現の拡大可能性なのである。母語を契機としながらも、その別離を越えて、表現へと立ち向かう時、Fabre d'Olivetの行なったのは、歴史的に高度な文学言語をもっていたオキシタン語の、19世紀初頭現在における彫琢であった。なぜ母語幻想が文学に結びつくのだろうか。

 まずは12世紀の南仏の愛の形式を語る前に、11世紀末に書かれた『ローランの歌』の内容を概括し、「粗野で無骨な、戦闘的なゲルマン民族の一途な騎士魂の発露というものが見られ」るが、「女性への愛や雅の精神のひとかけらも」見られないと指摘する。

 その上でトゥルバドゥールの検討にはいるが、伊東はまず、トゥルバドゥールの語源オック語のtrobarの起源を、アラビヤ語のtariba「喜びや悲しみにより心が動かされる」(p.250.)ではないかと推測する。また吟唱のために用いた学期luteもアラビア語が語源であるとする。 そしてジョフレ・リュデルやベルナール・ド・ヴァンタドゥールを取り上げて、その伝記に描かれる「命を賭ける愛」というテーマが、ギリシア、キリスト教世界にもなく、トゥルバドゥールに淵源をもつものであるとする。

 伊東は、このような「ロマンティックラブ」の出現は、「アラビアに発してスペインのカタルーニャから南仏のラングドック、プロヴァンスへと伝えられたため」(p.259.)と推定している。実際にアンダルシアからスペインの東海岸に沿って、トゥルバドゥールに近いものがすでに存在していた。

 ひとつの具体例として、13世紀前半の『オーカッサンとニコレット』が挙げられ、主人公の設定、名前にアラビアとヨーロッパの混淆がみられること、形式の上で、韻文と散文が交互に現れることがアラビアの韻文の形式に似ているなどのことから、「アラビア的色彩がきわめて強い作品において、典型的なロマンティック・ラブの物語が現れてきた」ことが指摘される。

 実際に重要なことはアラビア文化のヨーロッパへの影響は、「十字軍と同一視」(p.264.)できるものではなく、上述のロマンス語圏がひとつながりとなって、文化を形成しており、「騎士道とか婦人に対する礼儀の理想は、イスラム教下のスペインで、一足先に作られていた」という事実である (p.264.)。

 ではイスラムの騎士道とはどのようなものであったのか。イスラムにおいては、すでに「道徳・倫理上の準則があり、武術や馬術も立派な芸術」となっていた。11世紀から12世紀にかけてのスペインでは、すでに華麗な宮廷生活がなされており、貴族はすでに詩歌を評価していた。より具体的には、コルドバ生まれの詩人イブン・クズマーンが、アンダルシアで目覚ましい発展を遂げた叙情詩の形式の名手として知られ、女性をたたえた愛の歌は、その韻の踏み方においてトゥルバドゥールに影響を与えたと言われている(p.267.)。

 また形式だけではなく、両者には、内容の上でも共通する点があった。「官能的な恋愛」、「恋人を守るために自分の身を犠牲にする男性の心情を歌うこと」、「女性への尊敬と奉仕」である(p.267.)。そして、このトゥルバドゥールは、スペインで発祥し、アラビア楽器のリュートとともに北上していったのである。一方武勲詩においては、ロマンティックな要素もなく、またオウディウスのラテン詩の伝統においては、「恋の手練手管」を語るものであり、トゥルバドゥールとは大きく異なっている。つまりは、アラビア世界に早くから存在していた伝統につらなっているのである。

 そもそもアラビア世界には、ロマンティックな愛の観念の伝統があり、リュデルの歌った「遥かなる愛」は、『アラビアン・ナイト』680話にも見いだすことができ、さらに古くは、ウズラ族には、純潔の恋を歌う伝統がある。それをイブン・ダーウードは『花の書』にまとめている(p.272.)。

 こうしたイスラムの愛の伝統を11世紀において受け継ぐのがイブン・ハズムの『鳩の頸飾り』である。第4章「噂に始まる愛」では、「噂を聞いただけでその女性が好きになり、熱烈な恋に陥るタイプの愛」を取り上げ、また第12章「愛の秘匿」では、恋愛の相手の名前は言ってはいけないというトゥルバドゥールと同じ戒律を述べている。伊東は、この書を「11世紀のスペインのハティバで書かれた、このアラビアの指南書が、その後のヨーロッパの同種の書の起源となると同時に、12世紀のトゥルバドゥールの思想に、何らかの仕方で少なからぬ影響を与えた」と結論づける。

 さらに13世紀のはじめにはスーフィー神秘主義者の一人であるイブヌル・アラビーの愛の叙情詩集『渇望の解釈者』では、愛の象徴と宗教思想をつなぐものとして女性が描かれている。ダンテのベアトリーチェへの愛は、トゥルバドゥール的愛にこの形而上学的愛が重なったものとして解釈される。こうして最終的に、ダンテとペトラルアによってトゥルバドゥールの愛の形式は完成をみる。

 最後にまとめとして、次の4点が「イスラムにおける愛の伝統がトゥルバドゥールの発生を刺激した」として述べられている。

1. 時代的地理的関係
2. 詩には歌がともなったが、それはリュートによって奏でられた。
3. 詩の形式が、スペインで盛んであった詩の形式の似ている(ロマンス語の混入したザジャル体の詩)
4. 詩の内容

 Fabre d'Olivetは、Langue d'oc retablieにおいて、トルバドゥールの詩人たちによって、アラビアの詩形式が、現代の詩にまで伝えられた、つまりトルバドゥールの詩人たちは、アラビア文化の影響を受けて詩を書いたことを述べている。本論文では、このトルバドゥールとアラビヤ文化の影響関係が自明のこととして語られることに対し、それを前提としながらも、より精緻な指摘を行なっている。

 まずはトルバドゥール芸術とはどのようなものであるか、愛について再定義を行なう。新倉のよれば、これらは「優れて精神的でありながら、最終的には肉体の合一を希求する愛を歌った作品」(p.287)であるとし、プラトニックな愛であるとするルージュモンに代表される考え方を排除する。そしてこのような女性を崇敬し賛美する文献が、すでに聖職者の手になるラテン語詩の中に存在する事実を指摘する。またさらに音楽の形式は、「西ヨーロッパの最もキリスト教的環境に生まれたとするのが、現在の通説である」とする(H.ダヴァンソン『トゥルバドゥールー幻想の愛』を参照)。

 とはいえ、アラビヤ文化の影響もれっきとして存在する。新倉が挙げるのは、9世紀バグダットの「ウズリー的愛」の観念(p.299)、そして 11世紀初頭のイスラム=スペインにおけるイブン・ハズムの『鳩の頸飾り』である。後者については、特に第4章の「噂に始まる愛』が、ジョフレ・リデルを想起させるとする。それ以外にも第12章「愛の秘匿」における「恋の相手の名を絶対に口外してはならないとするトゥルバドゥールの戒律と軌を一にする」とする(p.290.)。以上に基づき新倉は「アラビヤのエロチックが、トルバドゥール分かの形成と精錬の課程においてかなり重要な役割を果たした可能性を否定できない」とする(p.291.)。

フランス文法の非ラテン語化

1. 形容詞の独立

 ラテン語文法において、adjectifはsubstantifと同じ語形変化をすることから、品詞の一分類とは見なされていなかった。 substantifもadjectifも「名詞」のカテゴリーであった。フランス文法もこれを踏襲していたが、adjectifを初めて独立させたのは、l'abbé Gabriel Girardであった(Les vrais principes de la langue française, 1747)。以後、この方式がBeauzé, Court de Gébelin, Domergue, Lhomondによって継承される。

2. 語形変化の放棄

 16、17世紀のフランス文法の伝統では、フランス語の名詞は、ラテン語同様、格変化をすると教えられていた。フランス語とラテン語を並列に扱うことによって、フランス語をラテン語の学習をするための、準備段階としていたのである。もちろん、教師も文法家も、フランス語から格変化は消滅していることは知っていたが、ラテン語の衰退を先延ばしにするためにこのような策を講じたのである。たとえばRestautは、先達と同じく、「nominatif(主格)はle Prince, génitif(属格)はdu Prince、accusatif(奪格)はle Prince」と記述している。 Restaut自身、フランス語の格は存在しないことは自明であり、「語尾は、単数と複数、男性形と女性形を区別するためにあり、ある名詞と別の語の関係を明示するものではありえない」と述べているにも関わらずである。

 1670年から1750年にかけて、学校のフランス語文法の教科書は、格体系のフランス化を、統辞のレベルで考えることにより、格を nominatif, datif(与格), génitifの3つにまとめるようになる。しかしそれは、ラテン語の体系に模してフランス語を叙述するだけであり、たとえば、àに先立たれる名詞はすべてdatifとみなされた。こうしたラテン語とフランス語の間に起こる齟齬があったにも関わらず、ラテン語格体系のフランス化は18世紀なかごろまで続く。こうした格変化の放棄は、1794年のNoël-François de WaillyのGrammaire française, ou la manière dont les personnes polies et les bons auteurs ont coutume de parler et d'écrire (1763年の再版時にPrincipes généraux et particuliers de la langue françaiseと名前を改称)になってようやくなされたのである。

 18世紀を通じて、Restautの著作とDe Waillyの著作は競合関係にあったが、徐々にDe Waillyが優勢となる。これはつづり字の教育が、基本文法の教育よりも重要視されるようになった流れと期を同じくしている。しかしながら1810年まで、フランス語の名詞の格変化は数々の文法テキストに残っていたのである。

3. 主格、«un cas particulier»

 nominatifという用語は、フランス語文法の中でも使われ、その後sujetという用語が使われるようになるのだが、両者は同義語ではない。sujetとは「話題」であり、論理哲学では、「文の主辞」である。一方nominatifは格変化とは関係がなく、「動詞と一致をする語」という意味である。このように文法用語として、フランス文法においては、長らくこの「nominatif du verbe 動詞の主語」という言い方がなされた。

 Propositionという概念の導入によって、sujetとcomplémentというコンセプトが広まったが、nomnatifと長い間共存することになる。sujetが広く優勢になるのは、1780年代のことである。

4. «particule»の消滅

 Parciculeという用語の定義は、明確になされることはなく、たとえばイエズス会の教育者たちは、この中に、ラテン語学習を単純化するために、学習者にとって学習上の難問をこのカテゴリーに入れていた。

 基本的にはparticuleは前置詞、接続詞、代名詞、冠詞を指す。18世紀のフランス語文法の発展にあわせて、particuleという概念もあらためて厳密さをもって文法理論の中に取り込まれるようになる。Pariculeが、完全にひとつの品詞として確立できるかどうかということをめぐり、Dangeau, Girardがそれぞれの著作(1717, 1747)でparticuleという章をさくが、実際には後継者はあらわれず、Restaut, Beauzée, Domergue, Lhomondもparticuleについては言及をしてない。また一般文法でも、純粋に便宜的に役に立つだけのこのカテゴリを認めていない。この一般文法と文法分析の勝利とともに、particuleは、他の品詞分類に改称されていく。しかしそれは1830年代に入ってからのことである。というのも、 particuleに何らかの意味を与えようとした教師や学校機関の長がいたからである。ある者は、たとえばpréfixeのような語をさすことで、他の品詞とは分類を分けたり、不変化語をここにまとめたり、と様々な見解が出されたが、対象が「小辞」であることを除いては、統一したものはなかった。

5. いくつかの痕跡

 フランス語文法の非ラテン語化は、いくつもの跡をのこしている。たとえばrégimeはラテン語文法から生まれた概念だが、19世紀半ばまでフランス語の学校文法の中に残っていた。substantifはadjectifが品詞として認知されたときに、nomにとって代わるはずであったが、 Lhomond(1780)、Chapsal(1823)は依然としてsubstantifを使っていた。«nom ou substantif»という表記は実に20世紀初頭まで続くこととなる。

 «Degré de signification»は、フランス語文法に定着しているが、それにも関わらずcomparatif, superlatifは教科書に留められ使われ続けている。

 動詞の活用分類は、ラテン語の動詞が4つに分類されていたことから、それにならってフランス語も-er, -ir, -oir, -reの4つに分類されていた。最終的に3つのグループにまとめる分類方法が大勢を占めるのは19世紀末になってからである。言語学者たちは、4つのカテゴリーのうち、2つだけが現在も「生きていて」、新しい動詞を造ることができる、それに対して、他の2つはそうしたさまざまな活用をする、古い動詞が入れられているという根底的な違いがあるとしたのである。

 この論文は、laconismeとabondanceという対立する2つの文体概念を取り上げ、一般的には革命期のディスクールはlaconismeを評価しabondanceを批判していたという論に対して、その両方が共存していたことを指摘し、laconismeを一方的な支配概念とする従来の見解に修正をはかっている。

I - Le laconisme

 論文はまずlaconismeの系譜を辿る。その哲学的観点から挙げられるのは、ジョン・ロックである。人間知性論の中でロックは、「レトリックの方法は、完全なるまやかしをつくる」と主張し、以後啓蒙主義の思想の中では、演説者の「まやかし」を批判することがその課題となる。革命期においては、コンドルセが「演説においては、雄弁に頼る者は、人々の理性をまどわせるだけである。国民の代表者が行なうべきことは民衆の啓蒙である」として、雄弁を断罪する(Condorcet, Rapport sur l'instruction publique, 1792)。またシェイエースなどイデオローグが提唱するのは、分析体«style d'analyse»であり、これは哲学言語として記号の一義性を求めるものである。

 文体論からみれば、このlaconismeにたいする「趣味」は、イエズス会などのloquacité(饒舌さ)にたいする嫌悪からである。反対に laconsimeの評価は、たとえばJaucourtによって書かれた百科全書の項目にみられる。またJaucourtの前にはモンテスキューが法的言語は簡素であることを指摘している。革命期においてもlaconismeの文体こそがautoritéが持たなくてはならない言語であるとする。

Il est temps que le style mensonger, que les formules serviles disparaissent, et que la langue ait partout ce caractère de véracité et de fierté laconique qui est l'apanage des républicains. (Grégoire, Rapport sur la nécessité et les moyens d'anéantir les patois et d'universaliser l'usage de la langue française, 16 prairial an II/4 juin 1794)

 嘘の文体、隷属的な表現は消え去る時がきた。言語は、どこにおいても、本物であることと、簡潔さを誇りとする性質をそなえる時がきた。この性質こそが共和主義者固有のものだ。

 以上、革命期においては、laconismeこそ、議会、教育といった公のあらゆる場所で重視されるべき文体であると言える。しかし、その一方で、それとは逆の考えも存在した。

II - Un anti-laconisme ?

 まず大切なのは、ロックの主張が18世紀の主張がかならずしも支配的な考え方であるとは言い切れないことである。たとえば、synonymeの考察をする立場からは、かならずしもlaconismeが悪いとは言い切れない。Synonymes français(1736)を書いたGirardにおいては、正確に話すことと雄弁であることは矛盾しない。Beauzéeはpléonasmeや métaboleを、 Marmontelは、abondanceやamplificationを使用することを進めているほどである。これは2名に関しては、同時代の中で古典主義的規範に属する人物ではないかという反論もあろう。しかし同じ考えはDiderotやRousseauの中にも認められる。さらにRousseauの後継者を自称するMaratは、«éloquence du coeur»(心の雄弁)を主張する。

III- Deux modèles discursifs pour deux situations de parole

 実際に啓蒙主義者たちにとっても、絶対君主制の批判のためには雄弁は必要であったし、百科全書派も、こうした単純な対立を乗り越える道を探っていた。たとえばMarmontelはジャンルによる区別、哲学においては、laconismeを、詩や弁論においてはabondanceを提唱した。前者においては語の「本質」が問題とされ、後者はより「自由」であり、正確さがあれば十分であるとする。また革命家たちも法律の執筆においては laconismeを採用するものの、決してabondanceを捨て去ってはいない。たとえばDomergueにとってはlangue exacteとlangue ornéeは等しい価値を持つものとして扱われる。

La langue exacte est d'une utilité reconnue par tout le monde, sans exception. Ces grands écrivains, qui embellissent la raison des charmes de l'éloquence et de la poésie, en font aimer et en étendent l'empire. La langue ornée va devenir très utile à toutes les institutions publiques, à tous les jeunes gens que le nouvel ordre des choses destine à porter la parole dans les assemblées civiques, à toutes les personnes de l'un et de l'autre sexe qui voudront être initiées dans l'art d'écrire. (Domergue, Journal de la langue française, n° 4, 22 janvier 1791, p. 134-135)

 正確な言語は、例外なく全員が有用性があると認めている言語である。これらの偉大な作家たちは、雄弁と詩の魅力で理性をより美的なものとして、理性を愛させ、そしてその帝国を広げるのだ。飾り立てられた言語は、あらゆる公の組織にも、物事の新たな秩序によって、市民の集まりで発言をするようになる若い人々にとっても、書く技術を身につけようとしている人なら男女問わず、有益な言語である。

 さらにLa Harpeは弁論術の手ほどきを提言する。また革命期中の唯一の弁論術の書、Drozのl'Essai sur l'art oratoire (1799)は、最終的にはいかなる反響も呼ばなかったが、雄弁の最終的なコンセプトがここに存在する。「自由な状況における弁論術の有用性」ということである。

 以上、laconismeとabondanceは概念的な対立があるのではなく、言語のジャンルによって使い分けられるべきなのだ。すなわち哲学者、立法者においては前者の、詩人、演説家においては後者の使用が勧められるのであ

 この論文で扱われているのはフランスの文献学の成立における政治性と、その言語と政治の関係性を覆い隠すことによって、言語学の科学性が打ち立てられるようになった19世紀における言語への問いの変遷であり、それをロマンス語の重視と、基層文化としてのケルトの重視という2つの「極端な考え」を、 François RaynouardとFrancisque Michelの活動によって検討するとともに、そうした極端さ、いわば偽りの科学が消えるとともに、中性化された言語学が生まれたことを明らかにする。

 まずはロマニスムである。トゥルバドゥールの詩によって代表されるオック語文学は、その草稿が個人によって所蔵され、忘れ去られていたが、18 世紀になると、中世の遺産に注目が集まることになる。しかしそれが文学研究となるためには、コーパスを整備し、一貫性のある原則のもとで研究されなくてはならない。それを最初に手がけた人物として位置づけられるのがFrançois Raynouardである。

 アカデミー・フランセーズ辞書第5版の共同執筆者でもあったRaynouard(1761-1836)は、1816年から21年にかけて、Grammaire comparée des langues de L'Europe latine avec la langue des troubadours, Choix des poésies originales des troubadoursを編纂、出版する。そしてこの中でRaynouardは「プロヴァンス語が諸新ラテン語の起源にあった」と主張した。一方今日でも彼の主要な著作とされているのは、死後出版も含む1836-1844年にかけて編纂された6巻本、Lexique roman ou DIctionnaire de la langue des Troubadours comparée avec les autres langues de l'Europe latineである。この書において十分な文献がそろったといえる。ここにおいてロマンス語とは何か、その位置づけが確定することになる。つまりプロヴァンス語が一文化として復活したわけである。

 Saint-GérandはRaynouardのトゥルバドゥールの言語に対する考えを次のようにまとめる。

 11世紀に新ラテン語諸語の分化が決定的になる前に、ラテン語からロマンス語が生まれており、これが«intermédiaire»、「介在」となっている。ストラスブールの誓約とBoèceの物語を語る南仏の叙事詩がこの言語の書き言葉としての形態を伝えている。1000年頃のシャルルマーニュ帝国の分割後も、この言語は現在の南仏諸地方言語でありつづけた。この考えにしたがえば、ここで推定されるロマンス語とは、ラテン的価値をヨーロッパの別の言語を通して保証していくことになる言語の母であり、かつその長女ということになる。そしてヨーロッパ諸語は、それぞれの民族の発音に対応した変化をこのロマンス語に加えることになったとRaynouardは言う。たとえば、ラテン語のpanemは、南仏、あるいはプロヴァンス語ではpanとなり、これがイタリア語でpane, フランス語でpainとなったとする。このRaynouardの主張が否定されるためには1836年のFriedrich DiezによるGrammatikを待たなくてはならない。これをもってようやくプロヴァンス語も他のラテン語系の言語と等しい位置におかれたのである。

 Raynouardの論拠の出発点となったのは、オイル語の音声は、オック語とは異なり、後者が昔からの音声の色合いを保っていたという点である。しかしSaint-Gérandは同時代におけるイデオロギー的なコンテクストを2点指摘する。

 まずは比較言語学の影響である。その思想的影響とは、すなわち、印欧諸語を通して、言語と宗教の起源へと遡ることができ、それが人類の文化の原初的状況を明らかにするという点である。この視点から言えば、Raynouardにとってのプロヴァンス語とは、まさに原始語といってよい地位を持っていたのだ。言語の過去を遡ることは、文学テキストという形式のもとで、文化的な財産、共同体の伝統の一部となっていくことを意味する。こうした国民、民族意識は、政治的な意図に先立っているのだ。

 2つ目にあげられるのが、詩という表現形式である。スタール夫人が、「ロマン主義の詩がトゥルバドゥールの詩がその起源となっている文学の直接の後継である」だと言う時、このロマン主義の詩とは、フランスという民族、フランスという土地に結びついているものである。この主張は、 Raynouardにとっては、プロヴァンス語とトゥルバドゥールの作品は、民族とその祖先へとつながる伝統を持っていたことを意味する。 ではRaynouardの「誤り」はどこにあったのか?第一の段階においては、Bopp, DiezのようにRaynouardも言語を、言語以外の人間的事象から分離させ、文字、語、語源について歴史的変遷を考察していた。しかし次の段階において、こうした言語形式を、トゥルバドゥールの文学作品に結びつけることによって、言語の中に原初の人間の真実というものをみようとしたのである。この点がSaint-Gérandが指摘する「誤り」である。つまり言語外のものへの言及は、言語の科学性を証し立てるのに役立たないのだ。

 次にFrancisque Michelのスコットランド研究が挙げられる。Michelは1830年代から中世のテキストを出版し始めるが、特にイギリスにわたり、様々な第一次資料をまとめあげたことで知られる。つまり国民文学を作り上げるために必要な草稿を収集するのに寄与したわけである。Saint-Gérandが詳細に分析するのはCritical Inquiry into the Scottish Languageである。

 Saint-GérandはMichelのテキストを10の要旨にまとめている。1)スコットランド語が古英語の方言であるとすることへの批判、2)英語とスコットランド語は同じ語根を持っているがそれぞれ独立して変化していったということ。3)スカンジナビア諸言語のスコットランド語の単語に対する影響、4)ノルマン民族によるケルト世界の没落と、フランス文化のイギリス圏における影響、5)文学にも適用される氏名の、語源にさかのぼっての作成、6)中世初期におけるフランス語の宮廷における浸透、その一時的衰退と14世紀における復活、7)パリの大学で学んだスコットランドの僧侶たちの言語、文化に対する影響、8)托鉢修道会における説教の言葉への俗なる現地の言葉の使用、9)蔵書における、フランス文学の資料への強い興味、10)スコットランド文学へのフランス文学への影響。つまりMichelの主眼は、フランスという言葉の定義もおろそかに、フランス文学の、スコットランド文化創成期における影響を謳っているのだ。以後、言葉にはひとつの亀裂がはしり、フランス語をモデルとした技術に関連した言語を使う層と、ゲール語の影響を受けた共通語を使う、洗練されていない社会層である。この社会層の中ではフランス語からの借用語は急速に消えていった。

 Michelが集めた原典や歴史に関する情報は、同時代においては「信頼に足る入念な仕事」と評され、この時代において知りうることはすべて集約された観があるテキストである。しかしながら、MIchelのテキストにおいては、フランス人がスコットランドに文明をもたらしたという前提がいたるところで見られ、文献学の批評理論にのっとった作業はなされていない。しかしこのような指摘では単に言語学を学問内部に押し込めるだけで、Michelにみられるイデオロギー性、政治的な意味は浮かんでこない、とSaint-Gérandは指摘する。そのためにSaint-Gérandは、Michelにおけるlangueの厳密な定義、そして言語学の論争から生まれてくる様々な考えー国民語、ケルトとロマンスの対立、方言研究の目的と結果ーに着目する。

 Michelにとってlangueとはmoyen de communication quotidienne dont la littérature fournit l'image la plus intéressante parce qu'elle en fixe le mouvement et permet l'inscription de norme d'usage「日常のコミュニケーションの方法であり、そのもっとも興味深いイメージは、文学が、その動きを固定し、慣用という規範によって書き記すことによって、もたらしてくれる」という直感的なものでしかなかった。それによってMichelはフランス語は、文明化された社会の表現媒体であり、それがスコットランドにもたらされたという文化論に終始してしまう。またさらに「フランス」語、「フランス」文化、と言った時のフランスそのもののアイデンティティも問われることがない。またスコットランド語の方は、当時の言語学者たちが規定していた「クレオール化」している言語とみなされていた。

 第2にSaint-Gérandが挙げるのは、Michelの文献学がロマン主義の時代を出発点としていることである。Saint-Gérandはかつての外交官であったPaul de BourgoingのLes Guerres d'Idiomes et de Nationalitésを取り上げ、言語の特殊性に基づく国民的要求が起こったのが、19世紀半ばであり、これが政治的混乱を作り出しているとするBourgoingの指摘に言及する。この考えに対する返答が4年後のAuguste ScheleicherによるLes Langues de l'Europe moderneである。ここでは民族の歴史が言語の歴史によって強化される。

 一方D.Monnierは1823年の時点ですでに、音声現象にもとづく地理的な図を作ることを考える。1844年にはNaberが英語とスコットランド・ゲール語の境界を画定する。1866年、Schuchardtは言語的な境界線が引けるとしてもそれはメタフォリックにしか可能ではないと強調する。1878年にはSébillotがブルターニュの地においてgalloとbritonとを区別する。こうした事実はイデオロギーの反映に他ならない。つまりスコットランド語の語彙の多くがフランス語で構成されているということは、ケルト語の拡張に反対し、ロマンス語に起源を求めることと等しいのであり、征服者のケルト人を文明世界の境界へと、印欧語族の隅へと追いやることに等しいのである。

 こうした時代の流れをみてくると、Michelは結局言語を語彙の分類というレベルに限定して、国民的同意によって統一化される共同体の政治表現形式としてのlangueには行き着いていないのだ。Michelの言う、文明の進歩、文献学の方法論といったものの背後には実は、政治性が露見してしまうのだ。 結果として、RaynouardやMichelの考えは、ロマンス語あるいはプロヴァンス語の優越化、フランス文化のスコットランドへの流入という「非学問性」のために、否定されるに終わる。しかしそれにともなって登場した科学とは何か? 1866年、言語の起源という言語外的要素に依拠する研究を、パリ言語学協会は拒否する。それはしかし同時に、言語のもつ政治性を覆い隠してしまうことになった。文献学の起源は、起源の問いを無化することから始まり、やがて国語の単一性のために、ロマニスムとケルティスムの対立を消し去ったのだ。つまり学問の科学性は、国家語という政治性と新たに結びつくことで成立したのである。

 この「芸術について」という章で明らかにされるのは、ヨーロッパの普遍的な言語になったフランス語が、どのように自らの資質をルイ14世紀下において、完璧にまで高めたかということである。

 フランス語がそのような普遍的な地位を占めるためには、ラテン語を凌がなくてはならないが、まず冒頭で紹介されるのは、法律家たちがラテン語では立派な文章がかけても、フランス語ではそれが不可能であるという現実である(p.62.)。

 しかし、フランス語の格調高さ、耳への心地よさが、説教という雄弁術(ジャン・ド・ラジャンド)や散文(バルザック)にも見受けられるようになる。そしてフランス語の純化に大きな役割を果たしたものとして、アカデミー・フランセーズ、ヴォージュラの名が挙げられる(p.64.) 。ラ・ロシュフーコーの『箴言集』も、その表現、考えを圧縮した「簡素かつ微妙」な表現という点で引かれている。そしてフランス語の形を決めた作品として、ヴォルテールはパスカルのLettres provincialesを挙げる。またボシュエについても『世界史論』を挙げ、評価するのは、もっぱら、その文体、「雄渾な筆致」、「簡潔で真に迫る表現」である(p.68.)。またこの時代においては、古代にはなかった形式が生まれる。それがフェヌロンの『テレマック』、ラ・ブリュイエールのLes caractèresである。後者において、ヴォルテールは「緻密で、簡潔で、力強い文体、絵画的な表現、斬新で、しかも文法的な規則に背かぬ文章」と述べている(p.71.)。

 続いて、ヴォルテールは国民文学の概念に言及する。国民の文学は、「まず詩が天才の手で生まれ、これに導かれて雄弁が現れ」るとする(p.73.)。そしてフランスの場合散文の技量を進歩させた作家としてコルネイユがひかれる。

 ヴォルテールは次にラシーヌを引くが、このラシーヌ観こそ、17世紀におけるフランス語の完成という主張の代表であると思われる。ラシーヌはヴォルテールにとって「言葉の自然な美しさを、いわば完璧の域に到達させた」(p.76.)作家である。

 ルイ14世の時代の最後に出た作家として挙げられているのがラ・モット・ウダールとジャン=バティスト・ルソーで、後者についてはマロを引き合いにだしているが、マロの文体を「無様な」ものとし、それに対して現代は「純粋な言葉」であるとする。

 ヴォルテールは、「時代と、主題と、国民性にふさわしい美」(p.83)は限定されており、一人の作家がそれを表現しえたなら、あとの時代は何も表現することがなくなると述べ、まさにこの時代が、芸術の完成された時代であると位置づける。

 そして最後に、いささか唐突に、「フランス語はヨーロッパ語になった」と述べる。ルイ14世紀の偉大な作家たちの後継者が、フランスから外へ出ることによって、フランス人持ち前の社交性を生かし、他国民にフランス語を広めたのである。

 Urbain Domergueが1791年から1811年までに設立した言語学の団体についてその詳細を検討するとともに、団体の組織が何にモデルにして構成されたのかを明らかにした論文。4つの団体について言えることは、そのどれもがフランス語の普及と完成を目指していることである。会誌を発行しながら(Le Journal de la langue française)、フランス語の具体的な問題を解決していくことを目的としている。

 これらの団体は、いずれも同時代の政治的状況と密接な関係を持っている。Domergueは、時の革命思想を指示した、熱烈な革命主義者であったが、彼の団体はその言語的活動における実践である。délibéranteやlibreという言葉、また«La langue française est devenue un besoin pour tous»というSociété libre des amateurs de la langue françaiseの標語に示されているように、国民みなにむけたフランス語のモデルの具現化という使命を持っている。

 国家とフランス語という問題に解決をもたらすという団体の活動は、当然ながらAcadémie françaiseの活動をかさなってくる部分がある。Domergue自身、Académie françaiseの改革案を何度か提案している。40人に限定するのではなく、広く才能ある作家に席を用意し、衆人の目の前で言語の完成のための方策をはかっていくこと(Prospectus de la société des amateurs de la langue française 1791)、言語は3つの方法で完成されることー天分をもつ作家の作品、書く方法についての考察、文法についての洞察ーそして、それだけでなく、一般の言語の愛好者も含めること(le 15 mars, 1788)を提案する。実際1795年にアカデミー入りしたDomergueはAcadémieと自らの団体を橋渡しする役目を担った。

 では、このようにAcadémieとは異なる実際的な役割をもった団体は、どのようなモデルにそって構成されたのだろうか?これは疑いようもなく、Républiqueのモデルである。Domergueは言語を完成へ導くという目的の具体的イメージを「憲法の高みまで我々の言語を近づける」と表現している。

 団体の組織と機能は、Assemblée législativeをモデルにしている。各種のcomité(委員会)で個別の問題が討議される。メンバーはどの委員会に、いくつ加入しても自由である。またAssemblée nationaleが政治の問題を議論するように、団体のAssemblée généraleも言語にまつわる種々の問題を取り扱うことになる。このようにDomergueにおいては、政治がまさに言語のモデルとなっていたのである。以後こうした団体は1837年のSociété linguistiqueまで続くこととなる。

 以上が論文の概要であるが、ここで留意したいことはDomergueがCondillacと同じく、言語の完成には、grands écrivainsの存在だけでは不十分であると考えていること、同様にgrands écrivainsのフランス語はフランス語の完成ではなく、規則も明確で、だれにも等しく手に届く言語になってこそ、完成であると考えていたことである。もちろんDomergueはLe Jounalで言語をexacteとornéeにわけて、grands écrivainsを排除してはいない。しかしその影響力はきわめて相対的なものへ低く見積もられている。Académieの改革案で4つの社会カテゴリーが提案されているということは、裏を返せばGrands écrivainsは言語を完成するためのその一部にしか過ぎないのである。革命期にあっては、Grands écrivainsだけがAcadémieを支配することは、貴族階級の特権にひとしく、社会を抑圧することにしか働かない。愛国主義者Domergue はアカデミシャンもふくめ、国民が広く参加する「文芸の共和国」を構想するのである。Domergueのjaconbin派としてのDeviseはまさに régénération des languesである。その意味からも、新たな言語の完成を考えることは必然であったろう。そして新たな言語、すなわち明晰な言語とはidéologue の考えにそった、一言で言えば「語ともの」の一致をめざす言語である。そして、ならば、どのようにフランス語の規則を明確にしていくかがその課題となってくるのである。

 ユダヤ系フランス人の言語学者Arsène Darmesteterの歴史的位置づけを、社会学的観点、特にブルデュー理論に依拠し、学問を社会的・歴史的制度として捉える観点から検討した研究である。

 Arsène Darmesteterは1846年に生まれ、1888年に42歳の若さで世を去っている。早くに世を去ったこともあり、その業績は忘れ去られた観がある。しかし決してDarmesteterの業績が価値のなかったものではない。その再評価を試みたのがBergouniouxの本論文の意図である。

 19世紀後半のユダヤ系フランス知識人にみられたように、Darmesteterは、ユダヤ人であることをその特殊性ではなく、フランスの中に同化させることから研究を初める。21歳から準備し始めた博士論文の研究、Les Laaz(ヘブライ語の語彙の欠如のために、古フランス語から借りてきて、ヘブライ語で表記した言葉)は、ユダヤという過去と、自分の祖国フランスという2つの文化的潮流を融和させるものであった。ここには「人種や祖先ではなく、文化への忠誠を誓う愛国主義」(p.109)がある。

 故郷のLorraineを離れたDarmesteterはEcole pratique des Hautes Etudesのロマニスト、オリエンタリストたちに迎え入れられることになる。ここに集った面々の特色は1)ラテン・ギリシア研究を行なうソルボンヌに大公して、中世のフランス語テキストを典拠とすること、2)大教室での授業ではなく、少人数でのセミナー形式であること、3)言語そのものを研究対象とすること、であった。ノルマリアンでもなく、また反ユダヤ主義からも守られた場所として、DarmesteterはGaston Parisによってこの場所に迎えられることになる。ここでLaazの研究を押し進めるわけだが、しかし、父の死などもあり、経済的に困窮した DarmesteterはHatzfeldの辞書の編纂に関わることとなる。

 1872年DarmesterはE.P.H.E.で自習監督となる。この時期提出した論文De la formation des noms composés en françaisでは、これまでゲルマン系の言語にしかなく、それがこの言語の優位の根拠となっていた、名詞の複合をロマン語系のフランス語に認める内容であった。

 当時の言語学を巡る社会学的状況を考察すると、文学のヘゲモニーにたいする言語からの対抗と言えるであろう。「趣味と感受性」、「文芸の創造的特質」、「Lénientの中世の愛国的な詩についての講義」にたいして、「ドイツの批判学派」、「文献学の不毛さ」、「Parisによる聖アレクシスの講義」という対立である(p.112)。もうひとつ重要なのはロマニストたちが、フランス語のmanuscritsを対象とする過程において、ロマン語同士に生まれるのは、civilisationを基軸とした共同性であり、これはスラブ、ゲルマン系のraceに基軸をおく考え方とは根本的に対立している。

 DasmesteterがE.P.H.E.で直面した研究課題は、phonétiqueとsémantiqueである。Phonétiqueに関しては、文学よりの研究者たちに、音の価値を認めさせることが課題となった。この分野では«La protonique, non initiale, non en position»(1876)という論文で、accent toniqueの問題を扱っている。Sémantiqueに関しては、«Sur quelques bizarres transformations de sens des mots»(1876)で、言語の変化における意味の問題を扱っている。

 1877年Darmesteterはソルボンヌにおいて二つの博士論文を提出する。ひとつはラテン語で書かれた文学論で、ここで Darmesteterは、国民的な伝説が、トゥルヴェールによって詩形式におかれ、ヨーロッパ全般に広まったとする。この見解は、ドイツの学会のゲルマン系の神話学に西洋叙事詩の伝統を置く考え方と対立し、また文学部の、叙事詩の起源はラテン語であり、僧侶たちによって伝えられたものだという考え方とも対立する(p.115)。この見解は、民衆のなかから創作者が生まれたとするロマン主義の考えと共通するが、これを契機として、Mistralと接近することとなる(1883年には«Félibrées de Languedoc»をMistralとともに主催する)。

 フランス語の博士論文は、De la création actuelle de mots nouveaux dans la langue française et des lois qui les réagissentという題名で、まさに文学言語ではない言語を扱うという意味で、ソルボンヌの教授陣にとっては、ほとんど承服し難いものであった。Saint-René Taillandierの助けのもと論文は受理され、Darmesteterはソルボンヌの教授となる。

 Romaniaがあまりにも文学的であったためDarmesteterはRevue Pédagogiqueに投稿するようになる。この雑誌は高級官僚による教育改革を目指して作られたものであり、Darmesteter自身 E.N.S.de Sèvresの女子学校でフランス語文法を教えることとなる。この時に編まれたのがCours de grammaire historique de la langue françaiseである。また綴り字改革の提案にも賛成の立場を表明する。

 70年代暮れから、DarmesteterはRevue des Etudes Juivesに関わることになる。ここでも彼が目指したのは「賞賛もロビーの精神もない」歴史研究である。1886年にはLa vies des mots étudiée dans leurs significationsを書くが、これは最初の意味論のテキストであると言ってよい。

 しかし、1888年に42歳の若さで亡くなる。この早すぎる死によって、辞書における功績はLittréの影に隠れてしまい、意味論の研究は Bréalの華々しい活躍によって忘れられてしまった。また音声学における功績も、文字中心の研究の中では、かき消されてしまった。また彼を継承する弟子もいなかったことがDarmesteterを忘れられた言語学としてしまったのである。

 テキストは、Etienne Pasquier, Recherches de la France(1561)の引用から始まる。 Pasquierはフランス語がラテン語に匹敵するだけの価値をもち、イタリア語よりも優れた言語であることを同書で述べた。しかしフランス語の出自が「俗なる=崩れた」フランス語であり、また、中世における言語の混乱状態(様々なidiomeの存在)を持っていることは、フランス語を顕揚する上で、おおきな支障となった。ここからフランス語の起源の神話形成が始まるのである。崩れたものではなく、純化された起源、あるいはラテン語以外の起源の探求、単一性と一貫性の検証、そしてIle-de-France優位の論証付けなどである。Cerquiligniは、français orphelineが正統なる両親=出自を求めていく歴史を緻密に跡づけていく。

Chapitre I MISERE DE FILIATION

 第一章Misère de filiationは、フランス語とラテン語の関係をめぐる考察である。法律文書におけるフランス語使用を義務づけたヴィレ=コトレの勅令(1539)や、Louis Meigretによる最初のフランス語文法書(1550)が示すように、16世紀半ば以降、フランス語が支配を拡大するようになった。それと同時にこの言語の起源の探求が行なわれるようになる。そして、ヘブライ、ギリシア、ケルト諸語(ケルトマニーの強い運動があるとは言え)ではなく、ラテン語をその起源とするためには、なぜラテン語とフランス語は、屈折、語順、単語、どれをとってもかくも離れているのかを証明しなくてはならなかった(p.15.)。ここで生まれるのは、Claude Faucher(Recueil des Antiquités gauloises et françoises, 1579 ; Recueil de l'origine de la langue et poésie françoise, 1581)やGilles Ménageのような混合説である。しかしケルト系、ゲルマン系の影響を認めながらも、柱となるラテン語を古典ラテン語に求めていたところに限界があった。

 こうした«érudits»には堪え難い事実、それがラテン語には古典ラテン語以外に、もうひとつのラテン語、こちらは古典ラテン語より劣った、田舎の、そして民衆のラテン語である。このラテン語こそ、フランス語の起源となったラテン語である。この考え方が主張されるには18世紀を待たねばならない。 Cerquigliniが重要視するのがPierre-Nicolas Bonamyである。BonamyはSur l'introduction de la langue latine dans les Gaulesのなかで、フランス語の起源は「日常表現の中で話され、使われていたラテン語に他ならない」と明確に主張する(p.18.)。フランス語の起源を俗ラテン語とする考え方は、この時点においても大胆きわまりないものであった。

 18世紀におけるフランス語は矛盾を抱えていた。それは普遍的な言語として、ヨーロッパに拡張する傍らで、フランス語は17世紀に古典主義の作家によって完成され、以後は頽廃をしていくしかないという矛盾である。したがって思潮はpurismeという言葉通り、規範からの逸脱を許さない保守主義的傾向にはいっていた。そうした傾向のなかで、名声を克ち得たフランス語が「泥にまみれた出自」(=une source bien bourbeuse, p.21)であるという事実こそ、文法家たちをメランコリーに追い込むものであった。

 しかし、メランコリーの要因は、その親となるラテン語の性質だけではなく、様々な他の言語との接触による「クレオール化」にもあった (p.23.)。つまり、10世紀におけるフランス語のプロトタイプは、口語としてのラテン語が、ゴロワと接触し、そして続いてフランク、すなわちゲルマンとの接触をうけて形成されたのである(そしてゲルマンとの接触が強かった北部ではlangue d'oilが、弱かった南部ではlangue d'ocが形成されることとなる)。

 ならば、puristeたちはどのような方向へ向かうのか?それはフランス語を上品で、ラテン語に匹敵するものにするという古来からの欲求の充足である。それが新旧論争における、Modernes派の勝利である。ここでフランス語の顕彰は、王を讃えることと同義となる(p.26.)。 Dominique BouhoursのEntretien d'Ariste et d'Eugèneをひきながら、Cerquigliniは、出自不明のフランス語でありながら、その比類なき精髄(génie)、大作家による賞揚、そしてフランス王によってもちいられることによって、フランス語が「偉大さ」を獲得する過程を追う。

 出自の不明をあがなう方法としては、上述のフランス語を高貴なものにする以外に、フランス語の「ラテン語化」が挙げられる(p.28.)。ラテン語からの借用による新語の増加(たとえば、entierに対応するintègre)、つづり字(書かれた文字としてのフランス語は、ラテン語に典拠する)におけるラテン性の保持である。ここからフランス語を改革することに対する論争の激しさも理解できる。またその言語的アイデンティティを脅かすようなヴァリエーションの存在への嫌悪も理解できる。

 こうした単一性を乱すものへの恐れは、政治的理由とも関係する。たとえば19世紀のRaynouardがlangue d'ocはlangue d'oilの前身となる形式だということで、単一性のほころびを回避する(p.32.)。Langue d'ocのラテン語との近親性、文学的成果などにもかかわらず、言語的多様性は、「豊かさ」(abondance)ではなく、「放棄」(abandon) に結びついてしまう。それはすなわち、地域の口語への軽蔑や、patoisの撲滅、第三共和政の代表的ロマニスト、Paul MeyerやGaston Parisのgallo-romanに本質的な単一性を認めようとする試み、といった政治的、歴史的、そして学問的態度にまで現れてくるのである。

Chapitre II EPIPHANIE PARISIENNE

 この章では、パリの言葉が、フランス語の規範とみなされるに至った歴史的経緯を振り返る。Cerquigliniによれば、言語的優位性をある地域に与えるならば、それはどこがふさわしいかという問いは、歴史的には二つの時代、16世紀と19世紀に検討されることになる。この章では、16世紀にパリをその地として選ぶに至った経緯を跡づける。

 まず、パリの言語的優位性の考えが、同時代のイギリスから出てきた(フランス語を外国語として考察する時代に入ったことを意味する)ことに言及した後、フランスにおいては、言語は変化する、要は、頽廃に向かっているという悲壮な考えから出発しているために、当初は、パリの言葉も他の方言と同じく、不完全なものであるという認識があったことを指摘する。これはたとえばGeoffroy Tory(Champ Fleury, 1529, p.39)のように、そうした認識をもつ人物がラテン語学者であったためである。また同じ認識にたつJacques Duboisは、フランス語をラテン語のような当初の純粋性を取り戻す意図をもって、文法論を書くが、その典拠となったのはノルマンディー、ピカルディー方言であった。Charles de Bovellesはよりいっそう悲観的に、言語の混乱状態を嘆く。パリの言葉もその分散してしまった一方言に過ぎない。

 したがって、パリの優位性という考えが出てくるためには、まずは俗なる言語に対する肯定的な考え方が始まらないといけない。これは同時に俗なる言語としてのフランス語を、そのもの自体として考察するということを意味する。その第一歩がLouis MeigretによるLe Tretté de la Grammere Françoezeである。ここでMeigretは、正しい用法を、パリ、すなわちフランス宮廷、すなわち王とその一族に求めるのである(p.43.)。この問題を考えるにあたっては次の二つの要素を考慮する必要がある。

 まず、言語の規範を問うときにおける社会階層という観点である。Ile-de-Franceから特にパリに言語的優位性を与える考え方が広まる。しかし優位性は地理的な意味だけではなく社会的な意味でも問われなくてはならない。たとえばHenri Estienneにおいて、規範はパリのエリートたちの言語である。これは社会的にみて、パリは一様ではないことを示している。たとえばRamusは、パリの民衆のことばに規範をもとめる。しかしパリの民衆の口語は、以後価値のないものとして貶められ、社会階層的な亀裂が生まれる。つまり言語の規範化を問うことはこの時点ですでに社会階層的要素を含み込むものだったのである(p.46.)

 次にEtienne Pasquierによる宮廷言語の批判である。ひとつはフランス語の最もよい用法フランソワ一世の時世においてのみ達成されたということ。二つ目は、パリの優位性により、他の口語はその正当性を失っていくが、そうした言語から、パリの言葉は様々な言葉を吸収していくということである。

Chapitre III LA FABRIQUE DE L'ORIGINE

 この章では、19世紀におけるフランス語の起源についての思潮を扱う。19世紀とは史的言語学が形成された世紀である。印欧語族の系譜について科学的に検証され、フランス語がラテン語起源であることはもはや前提となった。それと同時に、ナショナリスムの勃興によって、国民語、つまり国語としての言語の起源の探求が始まることになる。そして、フランスにおいては、この国民的共同体は中世に求められることになるのだが、このことがまた失望を生んだ。そしてそもそもがこの考え方自体が誤りに満ちたものだったのである。

 失望-それは、中世に国語の起源を求める場合、その資料となるのは、文学作品であったが、それがおおよそ統一的な基準を欠いたヴァリアントの集積として、目の前に呈されたからである。その意味でこの時代の学問は、一見ばらばらな状態にみえているテキスト間をつなぐような法則性を求めていくことになる。しかしそれがはたして真正なるものなのか?ここに疑問が生まれてくる。

 では実際にはどのような解決策がはかれるだろうか?ひとつは文学作品ではなく、尚書局の証書の現物を資料として用いることである。日付も場所も確定できるし、公的文書である以上、書き手の主観も混じることがないので、まさに信用できる資料、というわけだ。こうして1821年、古文書を解読する専門家を要請する期間が設置され、以後、19世紀を通じ、現在にいたるまで、古文書の出版がなされる足場が築かれた。問題はフランス語で書かれたといえる公式文書は、13世紀以降にしか現れず、それ以前のものはやはり文学作品に頼る必要がある。しかし、国家語としてのフランス語を考えるには、こうしたテキストに現れる言葉はあまりにも一貫性を欠いたものであった。

 この問題を解消するのが文献学の読解方法の厳密な適用である。それにより、変質前のテキストと言語の、完全な形での復元が可能であるとされる。 Lachmannの方法によれば、数学的方法によって、正しい読み方を決定することが可能であり、それによって、作品のオリジナルな状態、すなわち、作者が最初の書記に書き取られた状態、誤りのない状態が復元できるとする。CerquigliniはこうしたLachmannの方法論に、初期の印欧語族研究と同様の、比較という方法論、復元の欲求、そして始源の状態からの頽廃という要素を指摘する。これは始源から線上につらなる、過ちの系譜であって、それゆえにヴァリアントが生まれるのだという考え方である。Lachmannによれば、同じ間違いはそのまま引き継がれ、またある一つのmanuscritと複数のmanuscritの対立がある場合は、後者に真正さがあるとする。

 Cerquigliniが批判するのはこの、真正なるテキストという大前提、それに伴う著者という独自の存在それ自身である。つまり Cerquigliniによれば、中世の作品というものは、口語にきわめて近い書き言葉の文化に属しており、著者概念、さらにはそれを取り巻く権威という概念はさらさらなく、常なる書き換え、解釈をもたらすものであった(p.58.)。これがラテン語、ギリシア語を対象とする文献学と異なる点である。

 たとえば聖アレクシスの校訂を出したGaston Parisは実証文献学の目的は「作者の手を離れた瞬間の作品の形式をできる限り復元すること」(p.61.)、「オリジナル」(p.62.)をできる限り復元することであった。しかしCerquigliniはこのParisの作業が必ずしも「数学的方法」にのっとって行なわれたわけではないことを、例証する。Parisの主眼にあったのは、古フランス語によるテキストの復元であり、その意味ではParis自身が最もオリジナルに近いとする manuscritに準拠しない解釈がいくつも現れている。その結果、古フランス語自体(Parisによれば11世紀なかば)がParisの手によって「純粋、優美、簡潔」(p.64.)なものにされていくのである。つまりは文学作品を通して、ラテン語に似た簡素さをそなえたまま生まれたフランス語、優美なるフランス語が「発見」されたのである。しかしこの「発見」は、Parisによる「始源の創作」(fiction de langue primitive)に他ならない。冠詞、代名詞、前置詞をフランス語における夾雑物、ロマネスク様式に12,13世紀になって付け加えられた装飾と Parisは見なしているが、これらはすでに俗ラテン語の中にみとめられる。Parisはしかしその点に言及することはないのである。

 さらにParisはこの言語の地理的起源をIle-de-France、とりわけParisに置こうとする。Parisによる方言数はきわめて数が少ない。その中でも断定はしないがSaint-Germain-des-Présという中心がParisの中で浮かび上がってくるのである。

 こうして19世紀におけるParisを代表とする文献学は、異本の中から純粋な言語を構築(=再現)することによって、冒頭で述べたように、国民語を中世において起源づけることに寄与したのである。

 一方、異本の中にみつかる規則性を欠き、つづり字もばらばらで、一貫性を欠いた状態、そのものが始源のフランス語であると考える学者もいた。たとえばFrançois Guessardは、このフランス語を、言語そのものの子ども時代と考える。

 しかし、大方の学者たちは、これとは逆の方向を辿る。言語の規則性の探究において注目されるのは、文法性である。たとえば現在完全に規則化されている複数の-sは、古フランス語においては、きわめて不確か(aléatoire)なものであった(p.68.)。この現象は古フランス語の整合性を持ち合わせていないことの代表的な例であった。しかしプロヴァンス語専門家であるFrançois Raynouardは、18世紀の南仏語研究者Hughes Faiditを読み、-sの使用に規則性があることを示した(p.70.のCerquigliniの引用を参照のこと)。Raynouardの学説は、形態論的にみて規則性(語の位置の自由を規則によって裏打ちされたものとして保証する規則,p.72.)が働いていることを証し、さらにその規則性は曲用というラテン語との系統をしめすものであった。

 この結論に対し、前述のGuessardはさっそく批判を開始するが、AmpèreやBurguyといった古フランス語研究者は賛辞を惜しまない。Burguyは、この形態論的規則性が示すラテン語との親縁性によって、古フランス語は、現在のフランス語よりも調和のとれた明晰な言語であるとする。つまり18世紀にRivarolがフランス語の明証性の根拠とした語順の厳密さという根拠にまっこうから対立する。この根底には起源としての言語を完成したもの、均整のとれたものであってほしいという学者たちの欲望があるのである。

Chapitre IV LA RAISON DIALECTALE

 フランスの言語学史における1830年から1860年の30年間は、言語有機体説と国民語としての言語の起源の探究、すなわち、土地の言葉=方言、俚語の探究と2つの傾向が交錯する時代であった。たとえばGustave Fallot(1807-1836)は、この両方について考察を進めた言語学者であった。

 言語有機体説においては、Fallotは、あらゆる言語はという3段階にわたる円環を巡るとする(p.77.)。そしてフランス語ももちろん、内在的な法則に典型的に従っている言語であり、またfixationの段階は中世に相当するとした。Fallotが対象として選択するのは13世紀の公的文書であり、目的はそこに使われているフランス語から、文法的規則性を見いだすことである。ここでCerquigliniが注目するのは、Fallotが、Gaston Parisのように始源における言語の完全性というものは信じていず、また、混沌状態だとも捉えていない点である。Fallotによれば、13世紀は、ある完全な形態(=fixation)へ向かっていった時期なのである。

 方言の重要視については、Fallotは方言に着目することによって、語の形態の分類が可能になるとする。

 事実1830年代にはpatoisへの興味が再びわき上がってくる。patoisは長らく、矯正する対象であり、地域のヴァリエーションが学問の対象になるということがなかった。百科全書のpatoisの定義が示すように、これは頽廃した(corrompu)言葉だったのである。それが19世紀にはいって、考察の対象になったのには様々な理由が考えられる。1806年にMonbretによって行なわれた「放蕩息子」に関する方言調査はフランスにおける地理言語学の基礎を打ち立てた。このようなpatoisへの興味は、「民衆へのロマン主義的興味、過去への憧憬、オシアンの風景といった文学、南仏やブルターニュといった地方主義的運動、そして革命によって行き場を失った田舎貴族の自らの土地への回帰ちった政治」(p.82.)という三重の運動として考えることができる。

 地方における失われた民族的過去を復権する試みが、patoisの再評価へとつながる。たとえばCharles NodierはNotions élémentaires de linguistique(1834)の中でpatoisが書き言葉よりも豊かであると主張し、patoisのことばはそのことばが形成された時の起源を宿しているとした。つまりpatoisの研究こそが、フランス語のかつての綴り字、発音を知る手立てになるのである。

 またpatoisが、「言語の本質と言うだけではなく、具体的な存在物であり、フランス語の頽廃した形ではなく、原初形態」であるみなされる背景には、フランス語がラテン語起源であること、またラテン語からプロヴァンス語、そしてフランス語と変化したのではなく、ラテン語が、それぞれのロマンス語に分化したこと、それが「方言」となっていたという認識がある。

 方言学は、当初応用音韻論として始まる。また地域を確定していくことも重要な作業であった。しかしこの確定という作業は困難を伴う。 Cerquigliniが引用するBrun-Trigaudによれば、19世紀を通じてlangue d'ocとLangue d'oïlの確定は大きな論点であった。

 だが、話し言葉であるpatoisの探究は、地域の方言による発音の差が、つづり字のヴァリエーションをもたらすというように、混乱の理由を明示することができる。綴り字と音との関係を、3つの方言(ノルマンディ、ピカール、ブルゴーニュ)にまとめること、これがFallotが行なったことである。これは別の観点から言えば、Fallotが言語の単一性というものを認めていないということを意味する(p.89. l'ancienne langue laquelle ne possédait aucune langue)。そしてFallotにとって、この差異は、歴史的事象ではなく、言語に内在する特徴であり、歴史性によらないということは、パリを上位に置く言語的ヒエラルキーの正当性を認めないということを意味する。そして書くという行為が始まって(14世紀より前ではない)、共通語の形成がなされるようになる。混合と融合から書き言葉としてのフランス語が形成され、このことによってdialecteはpatoisへと座を追われることになる (p.90.)。

 次にCerquigliniが検討するのは、「進歩と理性」、ジャコバン的思想をもつ言語学者、François Géninである。GéninはFallotの業績であった、ドイツの言語学、古フランスにおけるflexionの問題、そしてflexionに関連する方言の問題、これらをすべて否定する。Géninは、Fallotと同じく古フランス語の一貫性を求めようとするが、彼の目的はあくまでも始源の言語の根本的単一性を明るみにだすことにあった。Fallotの功績は、混沌としたものと思われていた中世の言語に方言化という考えを提出したことにあった。しかしこの方言化ということは、まさにフランス語は、最初の段階において「地域ごとのヴァリエーション」(p.94.)でしかないことになる。この点がジャコビニストGéninには到底受け入れられない点である。たとえば、規範と普遍をもとめるGéninにとって綴り字とは、音と文字が正確に一致しなくてはならないものである。表面上のヴァリアントに目先が狂い、古フランス語の単一性に気づいていないのがFallotの致命的欠点である。Géninにとって、国の中心はすでにパリに置かれ、フランス国民という一つの集団には、フランス語というひとつの言語があったのである。

 同じく国民語の誕生を描いたのがJean-Jacques Ampère(p.99.)である。Ampèreが強調するのは、中世の言語における一貫性と法則性であり、共通語が現れたのは決して遅い時代ではない、という点である。Fallotの主張では、中世の言語の異質性だけが目立ってしまい、現在のフランス語とのつながりが見えなくしてしまう。またパリに中心を置き、francienのフランス語を区別し、そこに現在のフランス語との関連を直接づけたのもAmpèreであった。

Chapitre V LES RECITS DE LA GENESE

 19世紀の国民語の起源の学説は大きく次の2つにまとめることができる。一方はFallot, Littré, Brachetの系譜で、古フランス語の諸方言にはみな同等であり、統一化は遅くになってからであるという立場。他方は、Ampère, Génin, d'Abel du Chevalletの系譜で、中央のフランス語によって統一化がはかられたという立場である。

 この章でCerquigliniが最初に取り上げるのは、Emile Littréである。Littréは起源のフランス語と、フランスそれ自体の歴史的栄光(Charlemagneをはじめとしたヨーロッパにおけるフランスの覇権)を重ね合わせる(p.111.)。Littréが着目するのがflexionとdialectesである。

 まずLittréがdéclinaisonを研究するのは、langue d'ocとlangue d'oïlだけが、ラテン語のdéclinaisonをとどめているからである。そしてdéclinaisonをもつ、すなわち学者語であるラテン語との系列関係をもつならば、この、ラテン語ほど複雑ではないものの、現代語ほど単純でもないこの古フランス語にpatois grossierという言葉をあてることはおかしいとする(p.112.)。こうして今まで貶められていた古フランス語をとして復権をはかったのである。以後歴史的にみると、14世紀にflexionの衰退が始まり、15世紀以降、現在のフランス語の形成が行なわれる。そして LittréがFallotと異なるのは、歴史的経緯を論証に用いる点である。封建制、俗文学の隆盛、こうした歴史的要素が古フランス語の再評価に役立ったのである。

 dialecteについては、Littréはdialecteを4つにわける。ノルマンディ、ピカール、ブルゴーニュに加えて、フランス中心部が加わる。そしてあくまでもこれらは、patoisではなく、dialectesである。その意味で、中心部のフランス語も地方の一つのヴァリアントとみなされ、idiomeとpatoisにわかれてはいなかった(p.115.)。

La culture était égale partout : la Normandie, la Picardie, les bords de la Seine produisaient, à l'envi, trouvères, chansons de geste ou d'amour, fabliaux. Il est manifeste que les auteurs ne se conformaient pas à une langue littéraire commune et qu'ils composaient chacun dans le dialecte qui lui était propre.(Emile Littré, Histoire de la langue française. Etudes sur les origines, l'étymologie, la grammaire, les dialectes, la versification et les lettres au Moyen Age.I. p.127)

 つまり、Littréにとって、フランス語という呼称は、抽象化でしかなく、諸方言の類似につけられた名前に過ぎないのである。そしてこの認識は、 Diez, Fallotの影響を受けながらも、やはり歴史的要素を考慮している点で、Littré独自のものである。それはつまり、封建制の形態である。地方が同等に併存する封建制という政治的形態こそが方言の分化状態を保証していたのである。そして王権の伸張による封建制の解体が、同時に中央部の方言の進展につながる。それが14世紀のことである。そしてそれはflexionを含んだ言語の消滅でもある。こうして14世紀を転回点とした13世紀から15世紀への、古フランス語から現代フランス語への変化をLittréは見事に描いてみせる。

 しかし、現実には、歴史は長期持続の中であくまで変化していくのであり、断絶という見方をとらない。たとえば、987年、カペー朝の始まりにおいて、言語と政治の関連性がすでにみられる。つまりLittréがいう14世紀よりかなり前のことである。これに対してLittréは、王と諸侯との関係が、「臣従の誓い」をしないうちは、langue d'ocもlangue d'oïlも方言の状態のまま存在しつづけているとする(p.119)。だがlittré自身、変化や動きはないという主張の一方で、歴史事象における、王権の漸次的伸張、パリの言葉の漸次的伸張を認めてしまっている。

 結局Littréは、中央部の方言が、それ以外の方言と融合し、現在のフランス語になったことをあくまでも主張し、中央部の方言が、はやばやと優位を占めたという考えをきっぱりと否定する。

 Cerquigliniによれば、Littréの誤りは、パリの他地域への伸張をあまりにもはやく認めすぎた点にあった。しかし、言語学において、歴史的観点を取り込んだ点は、大いに評価できる。

 Albin d'Abel du Chevalletも、歴史的見地になって中世における諸方言を考える。そしてFallotなどとくらべChevalletによる方言数は飛躍的に多い。こうした細分化の意図は、Ile-de-Franceの優位さを打ち立てるためである。この方言がフランス語という名で呼ばれることになり、また王権の伸張によって、この言語も同様に優越性を持つようになる。こうしたChevalletの考えには、はっきりした時代区分がなされていないが、12世紀にはこの優位性が獲得されたとする。Chevalletはその理由として、2人の証言をひく。Conon de BéchuneとAymon de Varennesである。たとえば、後者は自らの母語、リヨンの言葉で書くことを望まない。そしてこれ以降、Ile-de-Franceの言葉は、王権の補助も得て、広まっていったとする。ここにある物語(récit)は、フランスにおいて言語は、長らく国家が関与する問題であったことを示している。これは現代にまで続く物語となる。

Chapitre VI L'INVENTION DU FRANCIEN

 1870年以降、共和国の体制が整うのと呼応するかのように、言語学もひとつの科学的学問として確立される。Gaston Paris, Paul Meyer, Michel Bréal, Arsène Darmesteterは、g言語学の学者・研究者として、学派を形成していく。言語学、文献学、文学など多方面における活躍、そして、綴り字改革や教育改革などの社会参加など、さまざまな形で共和国そのものに関わっていく言語学者たちの課題は、もはやラテン語という親の問題ではなく、フランス語そのものの起源をいつ、どこにおくかということであった。つまり俗ラテン語という失望の事実よりも、フランスの国土において、中世という時期にどのように起源を画定できるかということが問題となった。

 この課題は、Fallot-Littréが古フランス語に規則性を見いだしたものの、結局は諸方言が同等にばらばらに存在するという見解の見直しを目的とする。それは、第3共和制において、教育現場で、共通の言語、すなわち、共和国と理性の言語であるフランス語を普及させるという使命と深くつながっている。つまり言語的統一のためにdialectの併存という事実は都合がわるいのである。

 こうして言語学者たちは言語における規範の形成へと乗り出していく。その規範は、貴族の作り上げたものではなく、パリの大衆の言語実態から得られることが求められる。首都とは、国家と学問と言語(p.130)を一緒に結びつける場所なのである。特にパリの方言の優越性を証だてる理論的構築がセダンの戦いの後、本格化する。

 その代表的な学者がGaston Parisである。Parisの言語観は、ドイツにおいて積み重ねられた言語有機体説からの脱却であり、言語の変化において歴史的要素を導入することであった。その考えが展開されるのが、1868年、ソルボンヌにおける開講講義«Grammaire historique de la langue française»である。

 言語とは、社会的対象物であり、生活様式、時の権力、そして土地の影響を受ける。実際、言語は文化の伝達手段であり、文化もまた言語を形づくる(p.132.)。ただし、Parisは「歴史」と「科学」とに言語研究を分割するのではなく、両者を融合することを提案する。

Le développement du langage est dirigé par des lois qui lui sont propres, mais rigoureusement déterminés par des conditions historiques.
 
言語の発達は、それに本来的にそなわった法則によって導かれる。しかし、同時に歴史的条件によって厳密に規定されている。

 しかし、この歴史的条件は、大きな力を持ち、言語の不動性に「打撃」を与えることになる。その大きな力とは、「文芸文化」(la culture littéraire)である。この文化こそが、言語における「慣用」と「恣意性」をもたらし、その一方で、言語に美的価値を与えることになるのである。

 この歴史的手法においてフランス語が検討される。フランス語の歴史、それは間違いなく、ラテン語を起源とするものであり、そこからの継続性はもはや明らかである(la continuiét est indéniable, p.134.)。しかしラテン語が、様々な言語に分化したことが事実である以上、この「ばらばら状態」から出発するしかない。しかしParisの中でそれが最終的に「フランス語」として統一されることは、必然であった。そのために選ばれたのが、Ile-de-Franceの方言である。

 Parisは5つの方言群を分類するが、その中にIle-de-Franceが含まれている。しかしそれは明確に画定されるのものではない。むしろ4つの方言に「含まれない」方言という消極的なものであった(p.135.)。しかしParisはIle-de-Franceという言葉がFrance という言葉と同時に生まれたものと考える。さらに奇妙なことにfrançaisという呼称を、なんの証拠もなく、langue d'ocに対立するものとみなす。CerquigliniはParisの理想を「ガロ=ロマン語のLangue d'ocとlangue d'oïlへの分裂、langue d'oïlの分裂とそれによって生まれる諸方言の同等性、Ile-de-Franceの言語の価値付け」と整理する(p.139.)。しかしParisの論拠では、時間軸の取り方の上で、方言の同等性の時代を設けるのは難しく、ひとつの言語の正当性を言う以上、その他の言語はpatoisと見なさざるを得なくなる。

 それから20年後、文部大臣を含めたインテリ階層に向けて行なった、«Les parlers de France»と題する講演において、Parisは、国民語の浸透によりpatoisが死滅の状態に陥っているという前提から出発し、その保護を聴衆に向かって呼びかけるが、それは、patoisのヴァリアントがそのままラテン語から離れて以降の変化を跡づけるからという理由のためである。そして郷土の風習、民話に結びついたpatoisはこれまで、地元の愛好家によってもっぱら保存されていたが、今後は科学的学問の対象として取り扱うべきだと訴える。

 またParisは、イタリアのロマンス語学者Ascoliが3つ目の言語としてfranco-provençalを提唱したことに対し、これまでの方言学の成果を無視してまで、その論を否定しようとする。それは、1870年の普仏戦争を契機とし、フランスが分割されることを拒否するためである。ここにはParisの矛盾が浮き彫りになっている。学者としては言語の分割が、言語の変化において必然であることを理解していながら、ジャコバン派としては、フランスの統一を希求してやまないからである。

 この矛盾を解くために、Parisは3つの概念を提唱する。一つ目はcontinuum「連続帯」(p.145.)である。隣の住民との相互理解という点から、等語線を否定する。二つ目はlangue d'ocとlangue d'oïlの分割の否定である。フランスはタピスリーのような広がりであって、現実に境界を引くことは不可能であるとする。三つ目はdialecteではなくtrait dialectalという概念を入れることによる、分割地図ではなく、様々な特徴が偏在する地図を作り上げることである。こうした操作により、Paris はフランスの分割は避けようとする。そしてフランスにおける言語的単一性は、ラテン語からの変化の敷布での上から、Ile-de-Franceで編まれた一様な敷布がフランスを覆うことよによって実現したとする(p.147.)。

 Ile-de-Franceの言葉は、Parisに言わせれば、古い形をほとんどそのままとどめている言語である。なぜこのようなファンタスム(p.149.)が可能になったのか?Parisにとっては、この言語は、中世においてはっきりとした言語的特徴を持った言語ではなく、他諸方言の均衡の上に形成された言語である。土着ではない分、どのようなoïlの話者によっても受け入れられる。こうしてIle-de-Franceの言葉は、最初からフランス語として、フランス全国土を覆っていったという考えをParisは強く表明する。

 しかしIle-de-Franceの言葉を現代フランス語の始源とするには様々な欠点がある。たとえば、その地方の言葉をさす用語さえ存在していない。

 このフランス中心部の言葉の重要性を深く検討したのは、文献学の分野で進んでいたドイツである。Ernest Merzkeはその博士論文(1880, 1881)において、13,14世紀の中心部の言葉の特徴を、他の言葉が持っている「特徴の欠如」(p.151.)にあるとする。続いてSuchier (1888)は、北の文学語の基礎となる方言を、中心部と類縁性をもつノルマンディー方言であるとする。そしてその方言が、中心のことば、Suchier の言うfrancischへと移っていったとする。これが中心部のことばをさす「名」であり、francienと翻訳される。

 Parisはこのfrancienという考えを積極的に押し進める。Ferdinand Brunotが、Ile-de-Franceの言葉に対して、政治的状況以外の優位性を与えることに慎重であるのに対して、ParisはBrunotの仕事に敬意を払いながらも、まさにその点が不十分であるとする(p.156.)。Brunotはfrancienという言葉を用いないし、Ile-de- Franceで話されていた言葉の地理的な画定もしない。それにたいして、Parisは批判を行なうのである。

 Brunotは1905年のHistoire de la langue françaiseの第一巻において、ついにfrancienという言葉を用いる。

Le francien ne doit pas être considéré comme un amalgame, une sorte de koiné, analogue à la koiné grecque. C'est essentiellement le parler d'une région, comme le normand est le parler d'une autre.(p.325.)

 以後、francienは辞書の世界にも入っていくこととなる。francienという新語は、恣意性がみとめられず、領土を画定するでもなく、しかし中央部と関係し、さらにその名から国家的統一も喚起する。ここにきて、francienはfrançaisとみなされる。そしてParisにとっては、この言葉は最終的にparisienにもつながっていく。

 以下続く

 再生ということばは、革命以前に遡るが、しかし現実味を帯びたのはルソー以降である。その意味で、再生は革命による断絶がきっかけになっているといってよい。またこの再生は、あらゆる領域に関わる再生である。

 たとえば、子ども、若者、老人に関わる肉体自身の再生。また宗教的な意味に捉えられれば、新たな生(洗礼による生まれ変わり)、原初社会の再生という意味にもなる。たとえキリスト教という宗教的文脈に頼らなくとも、革命の思想の中に、法から慣習までのすべてを含み込んだ「回心」を認めることは誰もが受け入れる考えであったろう。

 そして「再生」ということばは、「改革」という言葉を追いやった。なぜならば、「改革」には、まだ過去の痕跡が残っているからである。それは「専制、教権、封建制」の残滓といってよく、革命は、それらの過去を「腐敗と頽廃」とみなす。こうした過去を裁断し、あらたな人民(peuple)を到来させるために「再生」を必要とするのだ。

 この再生の具体的方法としては2つの方法が示される。一方は未曾有の出来事をした人間は、「自然と」、「突然奇跡のごとく」新しく生まれ変わるという考え方である。他方は、「再生」を遂げるためには、まだ過去の残滓があり、これを抹殺しなくてはならないという人々の考え方である。現実の変化と魂の変化の間にはまだ差が存在している。これを考えていかなくてはならない。そのためにはまず内心の中にある過去の残滓を強制的であっても解体しなくてはならない。しかしこの考え方は、疑わしき成員を、再生された共同体から排除していくことも意味する。

 そして重要なのは、この自由・自律の再生と制約・他律の再生とは、異なる政党、異なる時期、異なる人物にきれいにわけることができないという点である。

 再生において最も重要になるのが教育の再生であり、子どもをより有益な国民にするために、学校は課題の中心を占める。そしてやはり自由か規律かということで方針はたえず揺れ動くこととなる。たとえば革命初期におけるコンドルセの公教育案は自律と自由にまかせたものであり(無償で、義務ではない教育を提案)、一方ジャコバン期の教育とは、制約である。この案では、再生の道具は、寄宿舎と義務である。

 しかしこの2つの再生には共通点がある。それは第一に「時間」がもたらす限界である。実際に精神や魂の育成には時間が必要となるが、「突然奇跡のごとく」再生が果たされると思っている革命家たちにはこの遅さは致命的である。また、体系的に新しい人間を創り上げていこうと考える革命家にとっては、時間の存在は、いくら法令を布告しても、時間の経過によってこそやりとげられる現実もあるということを思い知らせる存在なのである。

 第二に、新しいものの誕生に古い世界を使うことはできないということである。前者にとってはすでにそれは存在しないものであり、後者にとってはそれは消えるべきものである。

 最後は、感覚論である。この問題は、前者に、個人が変わるのは、たとえば革命の光景といった外在的なものであり、その意味で人間個人の自発性とは言い難い。他方、後者にとっては、制約を課す教育も、人間が変わりやすい存在である以上、その制約は逆の教育によって解体されてしまうという危機意識である。そして、この統制主義が優位にたっていく。

 革命の難しさは、個人にそのまったき権利を与えた後に、その個人を集団へとつなぎ止めなくてはならない点にある。革命が混乱の事態に陥るにつれ、個人の精神を従わせることのできるほど強力な集団精神が必要となった。そして集団精神により大きな統制力をもたせるために、権力はあらゆる方法を用いるのである。

 200ページにも満たない小書である。しかし筆者は、この本を書き始める前に、いったいどれだけの莫大な時間をかけたであろう。イギリスからピエモンテへ、おびただしい資料にあたりながら、丁寧にヴァルド派の歴史を追った労作である。イギリス名誉革命期のプロテスタントを専門とする著者が、ヴァルド派の人々の書簡に目を留め、やがて「プロテスタント同盟」の信仰篤き人々とともにヴァルド派の谷へ旅行をし、そこでイギリスで学んだシプリアン・アッピアの手による教区簿冊を発見するくだりは、読者の感動をさそう。この本の醍醐味は、我々の記憶から消えて、文書の中に乾燥した形でしか残っていなかった人間の事実を、丹念に文書から読み明かし、当時のヨーロッパをかけめぐった人間の生の歴史を、そして、ヴァルド派を基軸とした当時のヨーロッパの広汎なネットワークを、まざまざと復元してくれる点にある。人間の具体的な生を描き、かつ歴史の大きなうねりも丁寧にたどっていく、優れた歴史書である。

 ヴァルド派とは、中世ヨーロッパにおいて、聖書主義を厳格に守り、キリスト教会から異端とされた宗派である。しかしその歴史は、宗教改革から弾圧の時期を乗り越え、現代まで命脈を保っている(工藤進『ガスコーニュ語への旅』によれば、フランス北方のカトリック国家に対する南仏の不満が「異端」という形をとったとされている。ちなみにカタリ派ともそうした不満から生まれた「異端」であるが、教義上の共通点は少ない。またこの本の中で、百年戦争がフランス南西部を占めているイギリス勢力と北のフランスとのフランス国内での争いにほかならないとする、くだりがある。これが南仏軍の敗北であるとする見解に、『ヴァルド〜」と同じく、汎ヨーロッパ的視野にたつ著者の鋭さが認められる。)

 ヴァルド派の人々が住む谷は、サヴォイア公国ピエモンテ地方、すなわち、フランスとサヴォイアの国境地帯にまたがっている。この地形がヴァルド派をヨーロッパの歴史の変動の中に絶えず巻き込むことになる。それは領地だけの問題ではなく、プロテスタントの国、オランダ、そしてイギリスと深いつながりを持つことになる。そこには「ローマ教会はすでに腐敗し、ヴァルド派のみが真の教会を伝え、プロテスタントはその後継者である」という(p.37)根強い信念があった。

 著者が足跡を追う中心的な人物シプリアン・アッピアは、1680年か82年に「谷」で生まれている。その後捕虜としてジュネーヴに向かう。その後「谷」に戻ったか、そのままローザンヌの神学校に送られたかは定かではない。その後「谷」は、イングランドやオランダの援助を受けながら復興していくことになる。このあたりのつながりを考えるにあたり、やがてはもう啓蒙の時代はすぐそこまで来ているヨーロッパにおいて、たとえ政治的なもくろみはあったにせよ、宗教によってつながるネットワークがあったことは、まさに著者が言うように、プロテスタントの国際主義があったわけであり、宗教的イデオロギーの冷たい戦争がまだ続いていたことがわかる(pp.95-96)。

 こうした「プロテスタントの環」の中で、シプリアンは弟ポールと主にイングランドへ送られ、聖職者として勉学に励む。1707年「谷」にもどったシプリアンとポールは、聖職者総会で問題を起こすことになる。それは二人がイングランド国教会の普及に燃えていたことである。しかしやがて二人はヴァルド派の中心人物としてコミュニティに溶け込み、聖職者として活発に動き回る。そしてイングランドのとのつながりも決して絶やさないし、また当時のイングランドではヴァルド派に対する関心は十分に保たれていた。シプリアンは1744年に、ポールは1754年に死去する。そして時代はいよいよ啓蒙の時代へと入り、宗教によるつながりの意識は失われていく。

 こうした失われた記憶が復活してくるのは、19世紀にはいり、イギリスで出版されるヴァルド派に関する書物による。たとえ現実には異なっていても書物で描かれるヴァルド派はやはり、真のキリスト者なのである。イギリス福音主義の高まりが、ヴァルド派への関心の再興を促すのである(p.158)。その後イタリアにおける国民意識の高まりが、ヴァルド派の同化を促すが、ヴァルド派の特異さは現在まで受け継がれている。

 まさに中世から現在にわたるヨーロッパ史として読める作品である。この見取り図がヴァルド派という「異端」とみなされる宗派の資料の読解から語られることにこの本の深い意義がある。

 この報告は、2005年にパリ第4大学で行なわれたシンポジウム、「1902-1914, la première guerre des humanités modernes」で行なわれた。Chirstophe Charleは特に19世紀後半における知識人研究などで知られている研究者である(『「知識人」の誕生1880-1900』(藤原書店)参照のこと)。 Histoire de la langue françaiseの著者であるFerdinand Brunotの、論争家、活動家としての面に焦点をあてて、第三共和制において、言語学者がどのような社会的立場を担ったのかを解明する報告である。事実、Charleが挙げるようにBrunotは時代と正面から向き合った言語学者である。大学改革、ドレフュスの擁護、中等教育改革、綴り字改革、文法教育の現代化、女子への教育の擁護、外国におけるフランス語の普及、などその活動には枚挙にいとまがない。その中でCharlesは次の3点を挙げて、それぞれにおけるBrunotの立場を明らかにする。

1899年中等教育に関する調査
1905年の綴り字論争
現代における古典教育とフランス語

1)1899年中等教育に関する調査: Brunotの改革の骨子は、反教権主義に基づいたものであり、宗教から公空間へ教育を導くことに重要性を置く。そのためにBrunotはカトリックの学校に対抗しうるだけの、質の高い教師の養成を目指し、また初等教育の自習監督の採用を視野にいれるための、agrégationの改革を要請する。
 次にBrunotが批判するのは、古典教育のカリキュラムである。ただ廃止するのではなく、ギリシア語、ラテン語は一握りのエリートにとっては重要でああるが、一般の生徒にとっては廃止してもよい科目であるとする。つまり中等教育とは、ラテン語知識階級である聖職者によって独占されるものではない。それは同時にフランス語を教育の中心に置くことを意味する。ここにはひとつの新旧の文化闘争があるわけである。そしてフランス語を深く知るためのギリシア語、ラテン語という位置づけ自体を変えるために、Brunotはフランス語の歴史を教えるという可能性を示唆する。そしてその延長上には古典の作家ではなく、ヨーロッパ文学の作家たちのテキストを教えるということも浮上してくる。 いずれにせよ、宗教と古典教育という結び付きに対して、現代的な観点から、一部古典教育を残しながらも、フランス語の教育を促進し、公教育を宗教学校に対抗させることが主眼となっている。

2)つづり字の現代化: 1903年に文部省によりつづり字改革の委員会が設置された。Brunotはそのメンバーとなる。ちなみにこの委員会は、アカデミー・フランセーズの会員が一人だけであった。この委員会が1904年に出した改革案には、アカデミー、雑誌、大学界からの非難を受けることになる。Brunotは、彼らが打ち出す伝統擁護の姿勢に対して、大作家のものと言われる作品でも、彼らが書いていた当時と、現在ではすでに綴り字に顕著な違いがあることを指摘する。1906 年に最終報告書がBrunotによって書かれるが、その骨子は大多数の人々が、苦労なく文字がかけるよう配慮するというものであった。つまり、つづり字の規則化、簡素化である。Charleは、報告書の次の部分を引用する。
 「我々が忘れているのは、かなり多くの国民にとって、フランス語はまだ母語ではなく、獲得言語であるということである。子供たちは学校で、おそらくは口頭練習や、読書をしながらフランス語を学んでいる。また、小学校で学業をやめてしまう子供たちは、かなりの言葉を知らないままだ、ということも我々は忘れている。こうした子供が大人になって、新聞を読んだとしても、聞いたこともない言葉は、ほとんど外国語に等しい。そしてそうしたことばを書いてある通りに読むために、その読み方はきわめて奇妙なものになってしまっている。」
 Brunotにとって、こうした単純なつづり字は、外国人や植民地の人間たちが、フランス語を学ぶときの障害になっているという認識にたった上での要請でもある。また、反対派の根拠である「伝統の擁護」については、Brunotはつづり字の規則は、実は19世紀において、学校教育の中で教えられて定着したにすぎず、反対派がやはり根拠とする「大作家」もつづり字上のミスをしていることを指摘する。すべての人間が、言語および文字を maitriserできること、これがBrunotにとっての共和国の命題である。言語的な階層差、文化障壁をなくすことが、共和国の単一性を保つのである。

3)現代における古典教育とフランス語:教育におけるラテン語の位置づけについては、2つの愛国主義が対立している。一方は伝統の擁護と、古典文化の遵守のために、ラテン語教育の退潮が、フランス文化の危機をもたらすという立場。他方は、フランス語の単一性を共和国の単一性実現の一つの必要条件と考え、フランス精神の普及を考える立場である。この普及はもちろん、国内にとどまらず、世界中へのフランス語の普及へと拡大していく。また普及ということ自体にフランス精神の栄光があるわけである。 Charleが引用する、フランス民族の精神が、経済的、政治的には影響力を失った植民地国で、フランス語によってふたたび領土を回復しつつあるというくだりは、Brunotの姿勢を如実にあらわす一節である。Brunotはこの後者の意味での愛国主義者として、旧守派に対して精力的に論陣を張る。 Brunotにとって、前者がいうフランスの危機とは、これまで一部の知識階級、ソルボンヌによって独占されてきた、知、および、その知によって成り立つ職業階層という旧習の危機に過ぎない。最後にCharleは、Brunotが中心となった団体「Les amis du français et de la culture moderne」の1911年の宣言を引用する。ここでは、ラテン語の優位性、ラテン語を通したフランス語の理解という主張をきっぱりと断罪する。こうした宣言文を読むといかにBrunotが戦闘的な言語学者であったのか理解できる。Charleのこの報告は、まさにこうした時代の論争の中心人物としての Brunot像をよみがえらせてくれる。

 ことばは、当然のことながら、生きて話している人間の生の具体性と切り離すことはできない。それは言語を思想として考える場合でも変わらない。普遍・抽象・理論化をいたずらに急ぐのではなく、その人の生きている現実の中から、思想が紡がれてくる過程を丹念に追ってみなくてはならない。ライプニッツについて考えるときも、彼の生きたその環境、時代の流れに、彼の思想を位置づけることは必須である。歴史的に言えば「三十年戦争の不幸の結果地に落ちていたドイツ語」(バッジオーニ『ヨーロッパの言語と国民』p.236)を、どのように復興するか、それはライプニッツの時代の課題であったろう。実際ライプニッツ自身『私見』において、「我々の言語は略奪され、フランス語かぶれが横行した」と述べている。まさに「私見」は、ドイツの国家、言語への誇りを回復するための試みなのである(『私見』pp.53-55)。また言語思想の流れからは、母なる言語としてのヘブライ語という聖書的世界観、すなわち、世界を説明し尽くす普遍的言語ではなく、感覚論(sensualisme)の広まりとともに、他者を理解する、つまり「人々の世界観や、内面の過程」の表現としての言語へと変化したことを十分考慮する必要がある(Droixhe, De l'origine du langage aux langues du monde, バーリン『北方の博士 ハーマン』p.112)。普遍から、歴史としての言語というこの転換期は、ラテン語の退潮と、普遍言語の構想から、フランス語のヘゲモニーの確立へと移っていく時期とも重なる。
 ライプニッツはまさにこうした転換の中で、結合術、普遍言語、国語の賞揚という様々な言語(および記号)をめぐる考察を行なった。言語思想はライプニッツの思想全体の根幹とも言える。普遍言語と言語の自然性については『人間知性新論』第三部「言葉について」の中にその主張がおさめられており、カッシーラー(『象徴形式の哲学』)、ロッシ(『普遍の鍵』)、エーコ(『完全言語の探求』)、ジュネット(『ミモロジック』第4章「言語創始者ヘルモゲネス」)など枚挙にいとまがない。

 以上のような背景をふまえてここでは1697年にドイツ語で書かれた『ドイツ語の鍛錬と改良に関する私見』(Unvorgreifliche Gedanken, betreffend die Ausübung und Verbesserung der deutchen Sprache)を見ていきたい。

 最初に注目すべきは言語の起源についての考察である。『私見』では、ドイツ語が「主幹言語」(Haupt-Sprache)であるという、起源の言語としてのドイツという見方が踏襲されている。したがって太古のドイツ語は、ラテン語の起源であり、またケルト人、スキタイ人と共同体を作っていたとされる(『私見』p.65)。この言語系統論は、十七世紀以降に広まる「スキタイ人起源論」である(cf.原聖『<民族起源>の精神史』p.103.)。ライプニッツのゲルマン、ケルト、スキタイの関係についての論考は、『私見』、『新論』、『小論』と立場を変えていく。(Cf.L'harmonie des langues, p.195.)。『新論』でははっきりと、「ひとつの根源的で原初的な言語がある」と述べられている。これはアダムの言語のような起源を認めてはいるが、その言語は「歴史的」に共通語根を遡ることによって見つけることができるという歴史性のもとづいた起源の言語の探求なのである。この転換に、ライプニッツの言語思想を位置づけることができよう(現在のところ、その起源をドイツ語とする主張については調べが追いついていないが、『新論』p.23.にはそのような訳注がつけられている)。

 起源ということに関しては、語源の探求におけるライプニッツの立場は、「クラテュロス」的である。語源を探求する過程において、単語が「何人かの人がいうほどに恣意的または偶然的なものではない」と指摘する(『私見』p.70.)。そして、『私見』では、およそ偶然というものを否定している。ここではヤコブ・ベーメ流に解釈された自然主義的言語の立場をはっきりととっている。しかし、こうした見方にもやがて時の流れという歴史性が導入される。それはジュネットがひく『小論』の一節、「しかし大抵の場合、時間の経過と数多くの派生の結果、原初の語義はかわってしまったか、あるいは不明瞭になってしまった」(ジュネット、邦訳p.93.)。である。

 ドイツ語の改良のために、全体を通してライプニッツが気を配るのは「単語」である。単語とは、「知性の鏡」(p.42.)であり、「言語の基礎および基盤であり、その単語という土壌の上でいわば表現という果実が成長する」という(p.57.)。ライプニッツには観念を適確にあらわす記号の術への強い関心があるのだろうか。語彙の拡充、特に抽象語彙の拡充をライプニッツは強く説くとともに、辞書の必要性とそのための単語の調査に取り組むこと、他の単語と調和した新語の形成を強く訴える。それらはすべて「的確に」を目標としたものであり、それが民衆の教育向上につながると考えていたライプニッツはすでに十八世紀の初頭にして、啓蒙主義的な視野を持っていたと言えよう。

 フランソワ・フュレは、革命史家として、フランス革命をブルジョワ革命とみなす史観を否定し、また、アンシャン=レジームと革命に断絶があり、それによって、旧・新という裁断が生まれたという見方を、19世紀以降に作られたものとして退ける。こうしたフュレの革命観は、トクヴィルの革命観と非常に共鳴している。そのフュレによる、トクヴィルの『一七八九年以前と以後におけるフランスの社会的・政治的状態』(1836)、『旧制度と大革命』(1856)を丹念に読解したのが、この論文である。

 断絶を否定するとは、たとえば、フランス革命を始まりと捉えるのではなく、結果と捉えるということを意味する。まず経済面においては、18世紀のフランスは、たとえ制度上は不平等であっても、習俗としては「民主的な」国になっていたとする。それは貴族層が、土地の細分化によって、中産階級の個人の集まりに解消されたり、第三身分の上昇によって、革命前にすでに「平等理念」が人々の精神に入っていたとする。政治面では、地方政権が、貴族階級の手を離れ、国王に与えられることによって、パリの地位的優位ならびに、ばらばらの地方の統一の必要性という事態から、中央集権化過程が押し進められていたとする。フュレは、このようなトクヴィルの見方を、ギゾーが情報源であるとする。特に封建制のなかから、君主制と自由が生まれてくる。つまり「下からは自由の名で、上からは公共秩序の名で」(p.248.)攻撃を受けるのである。ただし、ギゾーにとってフランスには「真の貴族主義的政治社会は決して存在しなかった」のに対して、トクヴィルにとっては、貴族社会とは、「中央権力に対して個人の自由を保証する家父長的地方社会」であり、この貴族社会が消えていったことによって、自由ではなく、平等へと道が開かれることになる(p.251)。つまり、これがトクヴィルにとっての民主主義なのである。これは「貴族制の諸社会は地方政権に傾斜するのに対し、民主制の諸社会は中央集権政府に傾く」(p.264.)という理論にまとめられよう。

 次に、フュレは『旧制度と大革命』を読み直していく。封建的諸権利の問題、旧制度と大革命の連続性の例証としての公共権威と行政的中央集権化の発展の問題である。と同時にトクヴィルの不分明さも指摘する。君主制官僚機構の形成にとって最も大切な官職売買への言及のなさ、中央集権化過程における伝統的な年代記に沿った発展(進歩)を裏づける根拠の希薄さ、経済的な現象に対する言及の少なさ、貴族の立場の変遷を言う場合の通俗にとどまる見解などである。

 そして、『一七八九年以前〜』と、『旧制度〜』を対比し、後者を支配するペシミズムから、トクヴィルの回帰したいと願う失われた時代のイメージを、貴族とその下に集う農民共同体として描き、それを君主制が破壊したのだと指摘する。またそれに続いて貴族主義的伝統は、気概と自由の感覚であり、それが民主主義的凡庸さと対照をなすのだと指摘する。

『旧制度〜』第三部については、革命は、貧困が問題ではなく、むしろ裕福な国を襲ったという事実、行政の面では、一七八七年、つまり、革命の2年前にすでに行政改革(選挙で選ばれる議会を地方総監のかわりに設ける)が行なわれたという事実をあげ、革命によって「再生」が実現したという革命観を否定する。ならば革命現象とはなにか?それは「暴力の役割とイデオロギー(言いかえると、知的幻想)の役割」である。

 このようにフュレにとって、大革命はすでに大革命のときにはおわっていたということになるのだろう。そしてこうしたイデオロギーを否定する態度が、フュレの同時代的な意識なのである。我々は果たして時間にくさびを打ち込むことができるのかという疑問、そしてアナール派のような、ゆっくりとした時間の流れにおけるたえざる変化という歴史構造に、フュレが位置していたことを知るのである。

 Ferdinand Brunot(1860-1938)は、第三共和政下において、大きな足跡を残した言語学者である。とりわけL'Histoire de la langue française(以下HLF)は1905年に着手され、彼の死後も公刊され続け、11巻、20,000ページ以上に及ぶ畢竟の大作である(その後HLFは弟子の Charles Bruneauに引き継がれ13巻となった)。「人権擁護連盟」の設立に加わり、「Association des amis de l'abbé Grégoire」が、グレゴワール師没100年を機に、また時代の全体主義的な風潮への危機意識の中で1931年「Société des amis de l'abbé Grégoire」と改称したとき、その議長を、ソルボンヌ大学文学部名誉学部長として、務めたことからもわかるように(Cf. Rita Hermon-Belot, L'Abbé Grégoire, La Politique et la vérité, p.254.)、熱烈な共和国主義者であった、Brunotは、フランス語教育、その普及政策にも深く関わった。彼が傾倒したグレゴワール師と同様、啓蒙と進歩への揺るぎない確信から、その根底を作るとされる言語を多くの人間が学び、理解していくことに心を砕き、骨を折ったのである。ここでは「心を砕き、骨を折った」と言ったが、それは例えば、Louis-Jean Calvetが引用するように、「良き共和国主義者であるためにはフランス語を話さなくてはならない」という手段ー目的が明らかな前提になっており (Cf. Louis-Jean Calvet, Linguistique et colonialisme, p.214. )、Calvetのような言語学における人種差別的偏見に敏感な立場から見れば、こうしたBrunotの愛国主義的態度は、人種差別、植民地主義の裏返しとうつるであろう。確かに、例えばLHM第9巻は革命期の言語の問題を扱っているが、国民語形成の事実を、冒頭に載せたRenanの論調通り、「国民の意志がなしとげた、フランス語による言語統一」という観点が、ページの随所に見られる。しかし、こうしたイデオロギー的立場から、共和国主義者として生きた Brunotを裁断する前に、今一度、HLFという作品を検討してみなくてはならない。

 Les Lieux de mémoireの第3巻「Modèles」におさめられたJean-Claude Chevalier, L'«Histoire de la langue française» de Ferdinand Brunotは、その意味でいえば、イデオロギー色を排した、「人と作品」に焦点をあてた、Brunotの紹介である。ノルマリアンとしての大学でのキャリア、フランス語の教科書の出版、そして、録音という方法を使った口語資料の収集などを挙げながら、今現在のフランス語自体が、学問の対象となり、また学ぶべき教科の対象となっていく時代の中心としてBrunotを位置づける。それはつまり、規範としてのフランス語を明示し、伝える(学ばせる)ことを意味する。このことが「真理の追求、自由への愛、科学の信仰」(p.3391.)という共和国の価値に即していることはあきらかだろう。こうした信条をもった Brunotがフランス語教育法のマニュアルを書いたり(L'Enseignement de la langue française. Ce qu'il est, ce qu'il devrait être dans l'enseignement primaire)、正書法の改革に乗り出したのも、至極当然である。

 論文の後半は、中世、16世紀、古典主義時代、18世紀、そして革命期にわけてHLFの内容が紹介されている。その基本線は、旧体制下の連邦主義的な言語のあり方に対する、革命時の言語の政治学のあり方である。Chevalierのこの論文ではそのような視点には立っていないが、先に触れたCalvetが言明するように、フランス語以外の話者の地域=反革命の温床とは言い難く、またBrunotもおそらくはそうした淡白な見方はしていないだろう。ちなみにこの巻は、Brunot自身も認めている通り、他の巻に比べて恐ろしく資料が欠落している巻である(cf.久野誠「革命前後の仏語研究小史」 http://www.ha.shotoku.ac.jp/~hisano/revolution.html)。

 Chevalierはここで、革命期の語彙の増加、共同体の紐帯としてのフランス語という観点を概観しているが、その中でpatoisに対する、 Brunotの見識が、この人物の寛容さの証拠として述べられている。確かにBrunotはグレゴワール師と同じく、patoisを「啓蒙を阻み、国語の理想に反し、そして地方の連帯をも阻害する(patoisはさらに細分化されたものであるから)」ものと考えている。しかし、だからといってpatois を破壊するような、性急な態度はとらない。それはpatoisは話者の生活、日々の活動、深い感情の印だからである。Brunotは強制ではなく、「学校を通した自然な学習、時代を経て、そして人々の良識」に期待しているとChevalierは理解する。これは国家という枠組みと、その枠組みの中で制度化された学校を前提とした上で、Brunotの信条である、「人々が学びたいという意志の尊重」を意味する。すなわちフランス語とpatoisとはその慣用がまったく異なるのである。フランス語とはまさに国民語であり、啓蒙の言語、それに対してpatoisはやはり、人々の生活にとどまる言葉である。そしてさらにその前提には「愛国」、誰もが国を愛する証明としてフランス語を話したいという前提が不文律としてあるのではないか。

Pendant la première période de la Révolution, les Sociétés populaires alsaciennes n'ont pas travaillé consciemment à la diffusion du français. Néanmoins, j'estime qu'elles l'ont servie. Des gens de langue allemande y coudoyaient des Français et c'était beaucoup. Pour peu qu'ils eussent une première teinture de français, ils apprenaient à comprendre, sinon à parler. Si jamais la méthode directe a donné des résultats, ce fut là, dans ces milieux échauffés, où le patriotisme avivait singulièrement la curiosité, et où l'on souffrait impatiemment de paraître des Français incomplets.
 
「フランス革命の第1期においては、アルザス民衆協会は、意識的にフランス語の普及に務めてはいなかった。しかしながら、私は、協会はフランス語の普及に役立ったと考えている。ドイツ語を話す人々は、そこでフランス人と膝と膝を突き合わせた。それだけで十分だったのである。かれらは、話すことはなくても、理解することは学んだ。もしダイレクト・メソッドが結果をもたらしたとすれば、まさにこの熱気のこもった場所である。ここでは愛国主義は強く好奇心を刺激し、不完全なフランス人に見えることには、とにかく耐えられなかったのである」(Ferdinand Brunot, L'Histoire de la langue française, Tome IX, p.70.)

 ここには、人々の愛国心への十全たる信頼がある。これがあるからこそ、Brunotは強制に頼らず、慣用に任せるという立場に立てたのではないか。

Claude Hagège, L'homme de paroles, chapitre VII

 この章は5つの節から構成されている。

第1節:普遍言語を作るという欲求は、言語の多様性が人々の分裂を解消するという信念から生じる。また既存の言語は社会的慣用を作り出し、人をその意味である社会集団に属させるものであるから、この社会集団からの解放にも基づいたものである。しかしこれは、ひとつの夢に終わる、言語の文法性は決して普遍言語が望むような簡便なるものとしては構想できない。

第2節:ならば、既存の言語に関する創造としてはどのようなことが言えるであろうか?言語の歴史をみてみると、それは「改革」と「保存」であるといえる。しかもしそれは、民族意識が、文化や言語に関わる時期に現れる。具体的には、つづり方の問題、文法書、辞書の発刊、または国家が積極的に関与する新語の創作の場合などが挙げられる。

第3節:ただしこうした言語の創造は、語彙のレベル以外にはほとんどの不可能と言える。ただし、それでも、人間は自然に囲まれ、自然を加工していくように、言語に対しても同じ行為を働こうとする。こうした言語道具観の内部にあるのは、言語の機能の根本がコミュニケーションという認識である。この認識から生まれるのが、「言語計画」である。

第4節:こうした公的な形による言語の統制化に対する反論は、たとえばノディエの引用が示すように、その土地のことばの消滅に対する警鐘という形をとる。規範化は「改革」と「近代化」という意味合いを持ち、支配文化・社会と結びつき、マイナーな言語を追いやっていく。

第5節:以上、言語の改革、規範化はまさに政治と結びついている。

鹿島徹『可能性としての歴史』

 本書は物語的歴史理解のこれまでの論争を概観し、その上で「可能性の歴史」という、歴史の周辺に追いやられたもの、未然の形でとどまっているものの掘り起こしをめざす歴史観を考察する。その出発点は、ヘーゲル、カント、ハイデガー、それぞれの一節である。

「現に存在するこの家郷性そのもののうちに、さらにはこの家郷性の精神のうちに〔中略〕、この自由で美しい歴史性、追憶(彼ら〔ギリシア人〕が現にそうあるところのものが、追憶として彼らのもとにありもするということ)の性格のうちに、思想の自由の萌芽もまた存する」(ヘーゲル『哲学史講義』、p.99より抜粋)
 
「われわれは人間のやることなすことが大きな世界の舞台の上で演じられるのを眺め、そこに個々の点ではときおり知恵が現れはするけれども、全体としてはすべては結局のところ愚昧と子供っぽい虚栄によって、またしばしば子供っぽい悪意と破壊欲によって織りなされているのをみいだすとき、ある種の不快の念を禁じえない」(カント「普遍史のための理念」、p.156より抜粋)
 
「歴史学的対象の第一次的な主題化は、かつて現存在としてあった現存在を、そのもっとも固有な実存可能性へと向けて投企する」(ハイデガー『歴史と時間』、p.213より抜粋)

 いずれも物語的歴史に言及したものであるが、ヘーゲルの例は、現在を規定する過去を起源として位置づけることにより、そこに家郷のような居心地のよさを感じるという、「起源-現在」への「共同体の来歴」の物語の特性を明かし立てている。カントの例は、普遍史のような歴史の見方(ヘルダーに代表されるような)への懐疑の念をカント自身がいだいていたことをうかがわせる。そしてやがては普遍史の断念へといたる。ただし共同体としての歴史ではなく(民族に集約されるような)、あくまでも普遍史の構想を考えたことは、啓蒙と人類という<脱=共同性>の精神をそこにうかがうことができる。ハイデガーの例は、歴史が過去の遺物ではなく、まさに「可能性」にかかわっていることを強く訴える。未然のままにとどまる過去の潜在性を現在の生において「取り戻す」という読み方である。それが本来性の次元で行われるとするのがハイデガーの歴史論である。おそらくこれだけでは語弊があるハイデガーの読みをベンヤミンと対比させることによって、歴史から忘れ触れた人々の「取り戻し」を諮ろうとしたのが筆者の意図ではないだろうか。「危機の瞬間にひらめくような想起」(p.233)を既成解釈から解き放たれた時の、人間の生の可能性ととらえ、そこに「歴史の屑ひろい」の栄光を考えるのである。

 本書の意図は、啓蒙の時代の様々な思潮を、現代に生きる我々が批判的に受け継ぐために、検証することにある。今「批判」ということばを用いたが、このことばこそ、啓蒙の時代をそれ以前・それ以後からわけ隔てる根本的な人間の思想的態度であり、またトドロフの考え方の根本でもあると言える。批判をするとは、もちろん、自分とは異なる立場・意見を否定することではない。そうではなくて、絶対的な存在、絶対的真理、そして絶対であるゆえに人間から超越した存在というものを前提としないということである。そしてそれゆえに自律する人間が、おのおの価値を吟味するとともに、他者の価値をも吟味することによって、そのつどそのつどの暫定的な「真理」を作り出していくこと、つねに批判・吟味にさらされる合意を形成していくことである。啓蒙主義がその最終目的として、完全なる幸福の世界をユートピア的に描いたとすれば、トドロフが描くのは、相対主義に陥らない、多様性の尊重であろう。みなが賛成するような世界は一種の全体主義である。その具体的な現れが植民地主義における"bombes humanitaires"(p.106)であろう。また他方お互いの伝統文化を絶対的に他者が理解できない領域として批判を棚上げしてしまうのは、相対主義の悪しき形態である。たとえば死刑や、拷問への批判は人間の権利という、共通のノルムに則って、否定される。全体主義と相対主義を両極としながら、トドロフは、批判という動的な人間の思考の動きによって、決してその両極へと陥らない思想的態度をとる。

 トドロフが本書で特に依拠しているのは、モンテスキュー、コンドルセ、ルソーである。特にコンドルセのAutonomieを持った人間を形成するための教育の意義には深く納得されられるものがある。

Le but de l'instruction n'est pas de faire admirer aux hommes une législation toute faite, mais de les rendre capables de l'apprécier et de la corriger(p.44)

このように評価をしながらも、それを絶え間なく改善していこうという姿勢、これこそがよりよき社会を形成するのだというコンドルセの考え方は、権力の維持のために教育によって、絶対的価値を国民うえつけようとする教育(これは教育ではなく、訓練であろう)と真っ向から対立するものであり、公教育を考えようとした当時の人々の最良の部分を明かしだてるものであろう。それ以外にもなぜヨーロッパで啓蒙主義が最も明白な形で現れたのか(この地域に様々な国が並立していること、それによって、国が違えば、常識が違うというような現実に接触していたこと)、など、示唆に富む見解が得られる書物である。

コンドルセに関しては
富永茂樹『理性の使用』(みすず書房)

フランスの公教育に関しては
コンドルセ他『フランス革命期の公教育論』(岩波書店)

小川洋子『物語の役割』(講演)

 第4回目の授業(2006年春学期「言語とヒューマニティ」)では「虚構」ということばを使い、我々が他者を理解する時に「虚構」が付きまとう、しかし虚構をもって、意味づけることによって、我々は世界というものを生きていけるという話をした。下記の小川洋子の講演にある「物語」とは、まさに「虚構」であり、我々は人生を物語を形成しながら生きていくとされる。

たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。
 
あるいは現実を記憶していくときでも、ありのままに記憶するわけでは決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてというふうに、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分のなかに積み重ねていく。そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです。
 
作家は特別な才能があるのではなく、誰もが日々日常生活の中で作り出している物語を、意識的に言葉で表現しているだけのことだ。自分の役割はそういうことなんじゃないかと思うようになりました。

Webちくま 物語の役割 小川洋子

 声を主体にした人間の活動と、文字が現れて以降の人間の活動の変化を対象とした研究である。この中で特に扱われているのは、ホメロス問題に発する、古代ギリシアの声の文化から文字の文化への移行の問題である。ホメロスの叙事詩とは、まさに口承の文化であり、詩人は、詩の中に託された社会にとって重要な情報を、その社会という共同体の人々に語り継いだ。つまり声の文化とは共同体の文化であり、声とは個人のものではなく、共同体のものである。それに対して文字の文化は、正確に物事を論証し、人間が論理的活動をすることを可能にした。この物事を深く考えるとは、まさに個人が内面で行うことであり、文字の文化は、個人の営みを可能にしたと言える。共有される知識の伝達が声の文化ならば、文字の文化は、個人の思想の正確な表現であるといえよう。

J-W・オング『声の文化と文字の文化』(藤原書店)

 「これらの詩人たちは神々のことについてはいうまでもなく、あらゆる技術と、悪徳と徳にかかわるすべての人間的なことがらについても専門知識をもつとされている」(プラトン『国家』598E)詩人とは個人の芸術的創造を行う者ではなく、社会において必要な知識、しきたりを伝達する役割を持っていた。その行為は声によって行われたのである。そして文字の導入は、この古代ギリシアの文化にどのような変化をもたらしたのか?声の文化から文字の文化への移行に、プラトンによる詩人批判(国家追放)の理由を探ったのが、本書である。様々な知識を記憶するためには、自分の具体的な体験に結び付けて、覚えるのでなければ、到底覚えきれるものではない。「覚えるべき」ことを復唱する(真似する)と同時に、そこに個人の体験を練りこんでいくのが、口承の文化であった(主観と客観の混同)。「生きた記憶」によって、法や慣習が保たれていたのである。それに対して文字の文化では、個人とは、「覚えるべき」ことを批判的に吟味し、検証していく存在となる。つまり文字文化において、人は「自己」に目覚める。その自己は熟慮をし、深く物事を分析・理解するようになる。そして抽象的な思考が可能となるのである(ここからイデアについての考えも生まれてくるだろう)。この個人とはだれか?それは哲学者である。プラトンの詩人追放とは、哲学者の登場を促すためであったのである。「彼ら哲学者たちは、生成と消滅によって動揺することなくつねに確固としてあるところの、かの真実在を開示してくれるような学問に対して、つねに積極的な熱情をもつということを確認しておこう」(プラトン『国家』485B)

エリック・A・ハヴロック『プラトン序説』(新書館)

 ここで扱われているのはプラトンの『クラチュロス』である。ここではクラチュロスとヘルモゲネスが「名の正当性」について論議をしている。クラチュロスは物の名は、その物の性質に照らし合わせて、必然的なものが選ばれているとする。例えばディオニソスはディオデュスとオニノンに語源的に分解できる。これは「ワインを与える者」という意味になる。一方ヘルモゲネスは名に正当性を与えるのは、社会的規約であるとする。社会的取り決めによって名はその正当性をもつのである。さてクラチュロスにおける名の必然性はどのように証明されるのか?それは2つの方法によってである。1つは上にあげた「語源」をさかのぼる方法。しかしこれは所詮は語の分解に過ぎない。もう1つは音の象徴性である。例えばrの音は運動の象徴である。たとえば流れるはrheinという。しかしこの音の象徴性も全て語に当てはまるわけではない。そこからソクラテスが下す結論は「言語は決して完全ではない」というものである。ここから「完全な言語」という西洋思想における大きな夢想が始まるのである。

ジェラール・ジュネット『ミモロジック』(書肆風の薔薇)

川田順造『声』

 ここで問題にしているのは音が人間にもたらす感覚についてである。本書では1-2「音声の象徴性」、1-3「音と意味」、1-4「類音類義」で特にこの問題が扱われている。例えば記号としての言語観を相対化するための擬音語、擬態語の例などである。また、音がもたらす印象について、[i]の音が小ささを表すといった例が引かれている。こうした音のもたらす感覚の普遍性についての論証は、「充分」と言える地点まで至ることはないであろう。しかしこうした音象徴の例が音、音楽、楽器にまつわる文化的事象へと結び付けられるのが本書の特徴であるし、文化人類学者の視点からみた言語というものが浮かび上がってくるのである。

川田順造『声』(筑摩書房)

斧谷彌守一『言葉の二十世紀』

 この本の優れている点は、日常の観察から初めて、言語論にまつわるタームを明快に解きほぐしているところである。例えば第一章冒頭の富士山の例をとってみよう(p.21〜)。ここで言われていることは、富士山という言葉から喚起するイメージは人によって異なる。しかし意味の了解が取れているということは、誰もが「あああの富士山ね」と、自分の知識から富士山の「意味」を呼び覚ますからである。この意味こそ、言葉のシニフィエと呼ばれているものである。つまり人の知識はそれぞれであるが、それでもその知識の共通項があるからこそ、お互いに意味の疎通ができるのである。この最大公約数的な意味の領域がシニフィエなのである。そして言語が示すのは、じつはこの意味の領域なのであって、決して現実の富士山ではない。このことがはっきりわかる例が「山」である。山は世の中にありとあらゆるほどある。そのどれもを山と呼ぶが、もっとも山らしい山というのは世の中に存在しない。それは我々の頭の中だけにある。その概念と照らし合わせて、目の前のものを「山」と読んでいるのである。この作品ではそれを「山という語の表す山は、一種の抽象的典型としての山である」と言っている。言い換えれば世の中に一つとしてまったく同じ形をした山は存在しない。つまりすべて異なるのにそれをひっくるめて山と呼べるのは、この抽象的典型としての概念が我々の頭の中にあり、その概念を分かち持っているから意味の疎通が行われるのである。

斧谷彌守一『言葉の二十世紀』(筑摩書房)

菅野覚明『詩と国家』

 日本の哲学者和辻哲郎を批判的に読解した本で、和辻哲郎の倫理学の出発点を「私たちが社会で(共同体で)生きるということは表現と理解が一体化した状態だ」という認識におく。つまり私たちが相手に何か表現するということは、その場の状況やお互いの関係が理解できているから行えるのだという前提がある。だから社会は共通の理解のもとで成り立っている。しかしこのような認識は言葉をお互いが共有するものだという前提があるということも意味しており、さらにいえば、お互いが約束事を履行しながら生きているということにもなる。言葉が通じるということは「人間存在の共同性」があるからだ。それはそうでお互いが約束を守らなければ、つまり「倫理」がなければ、社会は社会として機能しなくなってしまう。、和辻は人間のあり方を四辻を歩く人間とたとえる。たとえば、異なる職業、年齢の人間たちが、相手とぶつかりもせず、四辻を交差する、そうしたイメージで、社会におけるお互いの存在了解を考える。しかしそこには、思わず歩みを止めてしまわざるをえないような、そんな言葉の存在もあるはずだ、というのがこの本の骨子である。それを「言葉の形式」(つまり意味を運ぶための一定の言語形式)、「感情に適合することば」といった表現で呼んでいる。

菅野覚明『詩と国家』(勁草書房)