Philippe Dagen, Le Silence des peintres(2012)

第1章 États de guerre 戦争状態
 第一次世界大戦の勃発によって画家たちのコミュニティはどう変わっただろうか。大戦が始まる前までは、画家たちの世界はひとつのコスモポリタンな世界であった。国境を越えて、画家たちが交流し、同じ芸術運動が国を問わず浸透していった。例えば、キュビスムは、ミュンヘンでは青騎士、ミラノでは未来派、パリではオルフィスム、そしてロンドンでは、ヴォーティシズムと名前を変えたが、いずれも「美的革命の一般的な動き」(p.26.)の中で呼応しあっているのであり、作品はヨーロッパは巡回した。芸術家たちは、書簡で交流をし、土地を移動し、展覧会を各所で企画した。

 戦争の最初の影響は、このコスモポリタリズムに終止符を打ったことである(p.29.)。そして芸術は、一気に国粋主義の色に染まる。この戦争はフランス側では「文明と野蛮の闘い」というイメージが作られるのだが、そこからドイツにおける芸術の存在自体が否定され、教会への爆撃が、その野蛮さの象徴して喧伝されることになる。

 このようなドイツ批判は、アポリネールによってもなされる。戦前にはドイツの現代芸術に賛美を惜しまなかったアポリネールは、戦争勃発後、手のひらを返したように、ドイツ芸術を「アカデミスムという、偽古典主義」(p.32.)と形容するとともに、キュビスムで名前を挙げられるドイツ人画家はおらず、これはすぐれてフランスの芸術運動であって、フランス芸術には文明的ミッションがある(p.33.)と主張する。

 このように第一次世界大戦は、芸術世界で、すぐに、画家たちの交流を分断し、芸術をナショナルなものと性格づける事態を到来させたのである。

 戦争時において、芸術家が「沈黙」したのは、他にも物理的理由がある。戦争勃発後、戦火を避けて疎開した者、レジェのように出兵した者、キルヒナーのように出兵後、身体的にも精神的にも強い傷を負った者たち...。こうして戦争は、画家の生自体も分断していったのである。

第2章 La guerre photogénique 写真写りのよい戦争
 第一次世界大戦が明らかにしたのは表現メディアの移り変わりである。すなわち、記録媒体としての絵画(挿絵、イラスト)は、この時期を通して、写真そして映画に取って代わられる。戦争は、週間グラビア誌を発展させ、これらの紙上では、写真が大々的に掲載されるとともに、大衆がそうした写真を求めるようになった。L'Illustration, そして開戦後創刊されたSur le vif, J'ai vuといった雑誌である。

 そして写真が雑誌を占めるようになると、そこに写し出されるのは、数多くの死体である。しかも、戦争によって傷つけられた無惨な遺体がいくつも掲載され、それと呼応して残虐な写真こそ求められるようになる。さらにはそうした「特別な写真」には高い値段がつけられ、商業的なプロセスにすぐさま組み込まれていく。「イメージの消費者」(p.59.)が生まれたのである。

 もちろん写真でも、アングルやポーズといった作為と無縁になることはない。だがそれは、手によって描かれるイラストに比べれば、限りなく軽微であり、イラストには「不正確さ」がつきまとうが、写真は「必ずそこにあった」という現場性を本質的に持っている。イラストには、兵士という証人による「本当の戦争はこんなものではない」という否定から逃れることができないのだ。

 イラストによる美化、戦意の高揚は、写真による死者が埋まる壕の写真だけで、一気に否定されてしまう。さらに写真は、たとえ不完全であっても、かえってその不完全さが迫真をもって事実を捉えていること、手が加えられていないことの証左となる。

 この大戦時に普及したもうひとつのメディアが映画である。映画によって、観る者は、たとえわずかであってもあたかも兵士たちの生活に自らも参加しているような錯覚を受ける。それも映画館という大衆が集まる場所で、共同でわかちもたれる錯覚である。しかも死者の姿がひとつのスペクタクルとして享受されてゆくのである。

第3章 La guerre invisible 見えない戦争
 前章がイラストを扱ったのに対して、この章では絵画が扱われる。フランスの絵画史を振り返れば、戦争画は、第一帝政以降、ポピュラーなテーマとなり、また20世紀初頭の画家たちは、自然主義、現実主義の教育を受けてきた。しかしながら、第一次世界大戦では、戦場をリアルに描く絵は登場しなかった(p.83.)。

 ジャック・エミール・ブランシュは「この戦争は色彩をつけて描くことはできない」と言い、絵画を制作することはなかった。アメリカの派遣画家Sargentが描いたのは、疲れて横たわる兵士など、「戦いの後」であり、戦闘そのものを描くことはなかった。

 では、自ら出兵し、レアリズムに属する画家はどうか?Jean-Louis Forainは4年間従軍した画家である。彼の描いたものは、雑誌のためのデッサンと個人的なスケッチブックの描かれたものにわけられる。前者は、敵としてのドイツ、英雄的な自国兵といった寓意の表現であり、そこにレアリズムを見出すことは難しい。後者は、このデッサンのための下書きだけである。しかもそこに描かれた馬や人物が戦場の馬や人だとは必ずしも特徴づけられないのである。結局Forainが描いたのは、廃墟のような戦いの部分的な像、あるいは上述したように寓意的なものしかないのである。

 逆に従軍画家が描いた絵はどうか。Vuillardは例えばドイツ兵の尋問の風景を描くのだが、今度は現実に近づけば、近づくほど、写真との差異がなくなってしまう。あるいは、Maurice Denisの場合なら、実際の風景とはいえ、戦闘の場面ではなく、人々が落ち着いてたたずんでいる「風景画」を描くに終わっている。Vallottonの場合は、人は画面には現れず、廃墟のみを描いている。やはり動きのない世界である。Vallottonは次のように言う。「描かれるのは、戦争ではなく、装飾、断片、観賞用の絵画だ」。

 批評家に視点を移せば、たとえばLe Rousseurは、戦争絵画の不在の理由を、画家たちの前線での本当の体験の不在と、戦争の絶対的な新しさに求めている。第一次世界大戦の新しさとは、戦争の全貌を捉えることの不可能さである。

 La Sizeranneも同じ立場だ。彼も「この戦争は、これまでのものとまったく似ていない。だからこそ、戦争のイマージュを更新しなくてはならないのだ」と言う。そして「戦場、行為、人物」の三点からこの主張を展開する。まず戦場とは、すべてのものが根こそぎ破壊される場所であり、そこには何もない。かつての意味での「戦場」の姿ではないのだ。また戦争行為もすべて隠れた場所で行なわれる。塹壕に隠れ、砲弾は目に見えない遠い場所から放たれる。兵器はカモフラージュされる。また兵士の顔も対毒ガス用マスクの下に隠れてしまっている。

 同じく、Camille Mauclairも、この戦争が「不可視の戦争」であると言う。さらにMauclairは、写真以上に私たちの感情を揺さぶるものはなく、結局新しい戦争には、新しい方法が必要であると説く。

 このように結局、第一次世界大戦という戦争がもつ、不可視という性質によって、視覚芸術にとっては主題にはならなくなってしまったのである。

James Iha, Let It Come Down (1998)

James_Iha.jpg スマッシング・パンプキンズのメンバー、ジェームス・イハのソロアルバムである。バンドの歪んだ音とは対照的な、シンガーソングライターの叙情性をたたえた音楽が奏でられている。甘くてせつなくなる、少し憂いをふくんだ音は、きわめて簡素だ。一応バンドサウンドではあるが、装飾的な加工は一切なく、アルバムジャケットそのままに、純粋な光に包まれた音作りとなっている。

 1曲目のアコースティックギターから始まるイントロがアルバム全体の雰囲気を集約している。また控えめな弦楽器の伴奏もアコースティックな雰囲気を作り出す。唯一、これはニール・カサールだろう、彼の特徴的なエレクトリックギターのワウワウ音がバックに聞こえる。それがきわめて控えめだが、アルバム全体にドリーミィーな世界感を与えている。

 曲のタイトルも至って素直だ。Beauty, Jealousy, Winterなど、シンプルな曲名が並ぶ。そして歌詞も素直な心情を歌っている。Be Strong Nowのサビの部分、And if I come and hold you nowの歌詞のように、もう少しで、彼女に寄り添えるのに、わずかなところでの戸惑い。淡い距離感。あるいはOne and TwoでもIf I hold you tight and never let goと、ここでもifの世界が歌われている。

 さらにLover, loverのサビの部分。

If you say that you love me
And if your heart's one and only
If you live with me for just one day
Until tomorrow

 現実から少しだけ離れた「もし」の世界。それは少し夢のようであり、ぼんやりと照らされて輪郭を失った世界のようだ。その中で、とても親密に二人の世界がスケッチされる。何となく当時のイハのプライベートまで透けてみえるようだ。

 そしてこのアルバムは確かにシンガーソングライターとしての優れたアルバムなのだが、決して単調にならず、意外に深みや広がりを感じるのは、バック・ヴォーカルの多彩さがあるからだろう。よく耳を澄ますと、イハのやや金属的で伸びのあるヴォーカルに寄り添うように、丁寧でシンプルなハーモニーが奏でられている。バンドという形体とはまた違う、友人たちとの交流が、音の力強さを作り出している。

 シンプルで簡素。だがイハのヴォーカルは意外に力強い。低音も響く。自分の作りたい音が、それを十分に理解してくれる友人に支えられたとき、アコースティックを主体にしながらも、十分に広がりのある光に満ちた音楽世界が実現したのだろう。

a2480213325_10.jpg  一時期アメリカ、イリノイ州のインターネットラジオを聞いていたときに耳に入ってきた。バンド自体はオレゴン州ポートランドの出身である。ポートランドといえば、何よりもエリオット・スミスがすぐに浮かぶが、このDoloreanもエリオット・スミスへのトリビュートアルバムでThe Biggest Lieをカバーしている。

 奏でる楽器がアコースティック主体だけに、ややもするとカントリー音楽っぽい雰囲気もあるが、自然の風や土の臭いはしない。むしろ静物画のような、一枚のスケッチ画のような印象を与える演奏である。何よりも全体のアンサンブルのよさが、絵画について話すときの均斉や構成と言ったことばを喚起させるのだろう。

 弦楽器が主体であるとはいえ、このバンドの芯にあるのは、カントリーでもないし、フォークミュージックでもない。ヨ・ラ・テンゴがフォーク・ミュージックとは呼びにくいように。確かに生音が大切にされてはいるが、彼らの音楽の特徴はそれらの音の「反響」にあるように思う。ロックバンドが室内楽をしているかのように、彼らの音はこだまにつつまれているようなおぼろげなところがある。

 たとえば2曲目Put You To Sleepでは、ペダル・スティールとオートハープが演奏されているが、それぞれの音にわずかなエコーがかけられ、音像が広がってゆく印象を受ける。こうした音響処理がこのバンドの特徴的な音を作っていて、そこがカントリーやフォークといったジャンルとは異なる点だろう。細かい点だが、8曲目のラストは、アコースティックギターに、エコー処理された口笛が重ねられ、さらにシンセサイザーの音が重なる。こうした生の音と人工的な音が溶け合うところに、音像の特色がある。

 ヴォーカルにはエコーはかけられず、素朴な声が聞ける。だがバックヴォーカルと重なってハーモニーが生まれると、声が幾重にも結び合わされ、静かな響きを伝えてくる。こうした繊細なヴォーカルがアルバム全体に静謐な印象を与えている。

 デビュー以来、15年で4枚程度しかアルバムを出しておらず、本当に寡作だが、それでも丁寧な音作りをしているからこそ、どの作品もきっと長生きするに違いない。これで人生をやっていけるのだろうかと余計な心配をしたくなるが、たとえ多くの人が聞くわけではなくても、彼らの音楽は、出会った人の心の中にゆっくりと沈んでいき、ふとしたときに、口をついて再び生まれてくるような永遠の美しさをたずさえている。