Roland Barthes, Écrivains et Écrivants(1960年)

 この論考「作家と著述家」でロラン・バルトは、言語活動には2つのカテゴリーがあると述べている。一つ目のカテゴリーは作家(écrivain)。作家の仕事は「いかに書くか」を問うことであり、そのために作家はことば(パロール)を加工し、ことばを彫琢する。それが作家の役割であり、そのことばは文学言語となり、やがて文学言語は社会の中で規範化され(たとえば国語の授業で文学が使われる)て保護されてきた。

それでも作家は世界と関わらないわけではない。ただその関わり方には距離があり、またその距離によって世界に対して「問い」を発することができる。バルトは作家は「世界を揺さぶる力」を持ちうるとするが、その条件は「参加しそこない」である。参加するとは世界と直接関わりをもつこと、参加しないとは、世の中とは無縁に自室に閉じこもって美的な作品を描いているような「大作家」の態度である。そのどちらでもなく、すなわち世界と距離をとりながら、世界を再現することが、作家のもつ可能性である。

 もうひとつのカテゴリーは「著述家」(écrivant)。日本語では「著述家」という訳語があてられているが、もともとはécrivant、書くという動詞の現在分詞であり、それを名詞としてバルトは使っている(英語でいえばwriter and writingで後者を「書く人」という意味で使っている)。こちらはいわばことば(パロール)を手段としてある目的を達成しようとして活動している人間である、その目的とは「証言、説明、教えること」(邦訳p. 201.)であり、それは「マルクス主義語、キリスト教語、実存主義語」と言い換えられているように、「政治/宗教/哲学」の言語である。

 近代にはいると芸術は資本の対象となり、それが買われたり、消費されることで、流通するものとなる。対して著作家は自己の思想を述べることが第一義なので、それが受け入れられるならば、「ただ」でもかまわないだろう。

 このようにバルトは、言語活動を文学と政治/宗教/哲学を対置させる。そして最後に作家と著述家の混合型として知識人という3つ目のカテゴリーを提示する。彼らは文学が要請してきた文学言語の規範から自由でり、そして著作家たちのように社会に思想を伝えようとする。しかし彼らの思想は、社会によって、うまく飼い慣らされてしまっている。つまり「政治/宗教/哲学」がラディカルに言語活動として実践されれば、それは社会革命へと繋がっていくはずだが、知識人の思想は、社会のなかに包摂されてしまっている。しかもマージナルなところに棲息させられている。これはおそらくサルトルのような知識人への批判なのだろうが、最後に示されているように、社会に制度化された場所(=大学)で、社会批判をしているような大学教授がバルトのもっとも辛辣な批判対象となっている。

41b6JqfXSmL._AC_SY355_.jpg レスリー・ダンカンは1943年イングランド生まれのシンガー・ソング・ライター。The Everything changesは彼女の3枚目のアルバムにあたる。エルトン・ジョンがまだ内省的な曲作りをしていた時代の最後に発表された1970年の3枚目Tumbleweed Connectionに、彼女の作品であるLove Songが収められている。本人が、バックコーラスだけではなく、アコースティックギターも弾いている。この後のきらびやかな作品群に比べれば、かなり地味とはいえ、ピアノの音色やストリングスによるエルトン・ジョン的世界を十分に体現しているこのアルバムにあって、ギターだけの質素なLove Songは異質な印象を受ける。それでもこの曲にはエルトン・ジョンがもともと持っていた憂いを帯びた静謐な世界が描かれている。

 寒天の空のもと晴れはしないけれど、それでもかすかな柔らかな日差しが差し込んでくる。ブリティッシュ・フォークはそうした薄い光をイメージさせるが、レスリー・ダンカンの声も曲調も、当時のフォークの質感にとてもよく合致している。とはいえメアリ・ホプキンスほどフォークロアを感じさせることはない。おそらく自分で曲を作れたことから、そのソングライティングのセンスのままで、あまり伝統を意識する必要はなかったのかもしれない。

 「英国女性シンガーソングライター」という肩書きは1枚目と2枚目によりふさわしい。このThe Everything changesが出されたのは1974年で、フォークソングの時代が終わろうとしていた。そのためかバックの演奏も結構厚みが増しているし、ストリングスにも工夫が施されている。だからといってレスリー・ダンカンの歌には余分な力は入っていない。若干低めの、落ち着いた声で歌い、決して声を張り上げることはない。

A面の1曲目こそ多少勢いの強い曲調になっているが、全体としてはアップテンポな曲はなく、まろやかなヴォーカルアルバムとして
仕上がっている。特にB面はもはやフォークというよりも、むしろカーペンターズのようなポップスに近い。レスリー・ダンカンもカレン・カーペンターも、ポピュラーな曲調であっても、声に力強さを失わないところが魅力だ。だから単に耳障りがよいのではなく、私たちの心にまでしっかり伝わってくる。
 
その後の4枚目以降はもはや「メロウ・ソウル」といったほうが、アルバムの表情が伝わると思うが、このアルバムではまだそこまで
音の輪郭がシャープにはなっておらず、ひかえめな雰囲気が保たれている。冬の薄曇りの昼下がりに聞くにはぴったりの音楽だ。 
 

Nicole Lapierre, Sauve qui peut la vie (2015)

 Sauve qui peut la vieは、社会人類学者Nicole Lapierreが自分の家族の来歴を語ったessaiである。母方の祖父母はユダヤ系で1905年ポーランドからフランスへと移民として渡ってきた。父も同じくユダヤ系で1926年に同じくポーランドから医学の勉強のためにフランスに留学し、そのままフランスの国籍を取得した。ユダヤ系移民を出自とする家族と自らを見つめながらも、家族と自分を時代と呼応させ、そして<今>を考察している。

 私を主語にして書いたとしても、私の物語とは限らない。私を主語とすることは、私の声を聞かせることではあるが、本書では私の声は、むしろ家族の声を伝えるための声でもある。
 
 1. Un kilo de plumes, un kilo de plomb
 第1章では、家族の女性たちの死の経緯が語られている。Lapierreの母方の祖母は1934年に事故で亡くなっている。姉のFrancineは1982年に自死、また母のGilberteもそれから8年後に同じく命を絶っている。

 Francineの死の後、両親はその理由、説明を求めて自問する。父親にとっては、戦争中の出来事がその根拠となる。ドイツのフランス占領が拡大し、両親はFrancineの命の安全を考えて、ある家族に預けることにする。泣き止まない彼女を置いて立ち去ったが、心配でその昼に戻ってみると、依然彼女は泣いており、結局その家族に預けることをやめた。父は、Francineが命を絶ったとき、このわずかの時間とはいえ捨てられた記憶が、後年夫が彼女に関心を向けなくなった時に、蘇ったことが理由だと考えていた。母は、Francineの夫が愛さなかったことに理由を求めた。いずれにせよ、こうした理由、説明を求めることが、彼らには必要であり、たえずその死のことを考えていたとLapierreは書いている(p. 24.)。

その一方で、両親は、嘆きや悲しみの感情を表に出すことはほぼなかった。そうしたことへの軽蔑の気持ちがあったし、そもそも両親の世代は自分の心の中のことは話さなかった。両親からの声は聞こえてはこなかったのである(p. 26.)。

 ただそれでも母が、ひょっとしたら亡くしていたかもしれないFrancineを大事に思い、2人目を望んでいなかったこと、父の方は、息子が欲しく2人目を望んでいて、結果として女の子であった自分を愛してくれていたことはLapierreに伝わっていた。また戦後生まれのLapierreの世代は、戦争後の希望と約束としての子供たちだった(p. 28.)。

 Lapierreは、父のこと、イギリスへ渡った叔母のこと、そして自分自身の家族のこと、一族の家具が集まった現在の家のことを語りながら、家族の系譜を素描する。そして最後にplomb「鉛」とplume「羽」のイメージを使いながら、自分の家族の歴史は決して、重い出来事だけがあったわけではなく、羽のように軽やかな出来事もあったのだと語っている。

 2. Familles dans la tourmente
 第2章は、父方の祖父母の話から始まる。祖父母はポーランドの比較的裕福な層に属し、家庭ではイディッシュ語ではなく、ポーランド語を話し、ショパンのワルツとアダム・ミツキェヴィチの詩を愛好していた。1926年に父親がフランスに留学できたのも家庭が裕福だったためである。

 とはいえ、祖父はロシア占領時代に軍服を手がけていたたため、ロシアとドイツの間にあるポーランドのユダヤ人としてかなり神経を使っていたと言える。1918年のポーランド独立後は家業も好転していく。故郷はLodzウッチであり、繊維業が栄えていた。1924年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの作家レイモントの『約束の地』の舞台はこのウッチであり、工業化社会の資本主義の収奪のむごさを描いている。父の弟もこの地で製糸工場を建てている。メンデルというこの叔父について知りうることは少ない。彼の経営ぶりや労働者の扱いがどうだったのか、それについて父はあまり語らなかった。

 戦争中の叔父家族の経緯は、父自身の話と、赤十字を通して父に送られてきていた手紙から復元される。妻と子供はおそらく連行され、また叔父は、手紙が途絶えたことから1944年のワルシャワ蜂起で命を落としたとされている。こうした話を語る父の口ぶりからは、スターリンの政策に対する怒りもはっきりと伝わってきた。

  1970年代に両親は、ウッチの墓を訪れる。父の両親、弟の墓碑を建てるためと、家族の消息を知っているとコンタクトしてきた人物に会うためである。だが、その人物は、それを口実にお金を騙し取ろうとした詐欺師であった。当時は家族の消息を求めるユダヤ人を騙すこうした手口は決して珍しくはなかった。その時に写された墓の写真が残っている。碑銘には、ユダヤの印もヘブライ語の文字も含まれてはいない。Lapierreは、万が一の墓荒らしを避けるためか、あるいは父がヘブライ語を彫れる職人を見つけられなかったからかと推測をしているが、理由は定かではない。

 父の家族を考えるとき、さまざまな問いが残される。なぜ彼らはポーランドを離れなかったのか。事業がうまくいっていたからか、父の留学費のためにパレスチナの土地を売ったからか、あるいは両親はもうすでにかなりの歳だったからか。それははっきりとしない。

 母方の親族は多くがフランスに移住をした。祖父母は羽毛関係の仕事で財産をなし、母たちはブルジョワの生活を送ることになる。母の姉の予期せぬ妊娠や、父からその事実を隠すための工作など、家族史がここでは綴られていく。家族の記憶を聞き取ったとったとき、Lapierreが驚いたのは、親族たちが、その時代の出来事に対してほとんど言及していないことである。Lapierreはその理由を、戦争という大きな出来事のインパクトがそれに先立つあらゆる事柄を消し去ってしまったこと、自分の質問が「家族の歴史」に限定していたこと、あるいはそもそもフランスに着いたことが政治的出来事からの解放だったことに求めている。もちろんどれが決定的な答えということはない。

 その後Lapierreはドイツ占領が進んでいく情勢の中での両親の行動を書いていくが、ここで強調されるのは、戦時における母をはじめとする女性たちの力強さ、大胆さ、巧みさである。そしてまわりの人々の協力と支えである。Lapierreは、事実としてユダヤ系の人々の物語は「逃げ出し、追い詰められ、逃亡」として語られるが、生き延びた人々の「決心し、切り抜け、大胆」に行動していく生命力については忘れられがちであると指摘している(p. 73.)。 

(3. 省略)

 4. Un goût de France et de science
 この章ではポーランドで生まれた父が、1926年留学生としてフランスにやってきた出来事を軸にして、移民の人々の姿が描かれる。両大戦間に多くのユダヤ系の若者がポーランドを離れた。この世代は、移民先の国に知り合いがいる場合が多く、そうした縁者を頼って国を移ってきた。縁者からの手紙には魅力的な話題が並び、実際の困難な状況はたびたび伏せられた。またこの時代にはまだ、今後やってくる状況など想像はできなかった。

 Lapierreの1980年の著作Le Silence de la mémoireは、この時期に国を離れた人々へのインタビューをもとにしている。当時は移民とはいっても、時間と費用が許せば、まだ行き来ができる状況であった。しかし今から当時を思い出すと、その後に実際に起きた別離、死別が、それより前の時代にも反映し、最初に国を離れたこの時期も、罪悪感をもって思い出されてしまうのである。

 そして「悔悟と忘恩」(ジャンケレヴィッチ, p. 135.)から、「以前の世界」へのノスタルジーが生まれる。こうして「失われた関係」が主題となる。

 そのLapierreは父親の語りを引用する。出発時の様子、フランスを留学先に選んだ理由、フランス語は学んだことがなかったこと、そしてその後のことを考えれば、フランスで生き延び、医者になることのできた自分は家族の運をひとりですべて奪ってしまったのではないかという気持ち。 

 父は1935年に博士論文を書き上げ、博士号を取得し、それに基づく論文も発表している。ではなぜ研究者にならなかったのか。同年にフランス国籍をとったユダヤ人にとって、研究者の道は難しかったのであろう。当時大学で教えるためには国籍取得後少なくとも5年は移住歴がなくてはならなかった。医学アカデミーからの賞も受けた父は、その後ある知人からの提案を受け入れ、クレッシュという町で「田舎医者」となることを決める。

 戦争中家族には、フランスを離れることを勧める声が届く。父の恩師からの手紙が残っており、そこにはヴェネズエラの知人が受け入れ先として紹介されている。その手紙には推薦状も添えられていた。だが家族はフランスを離れることはなかった。そして戦後はパリに移って医師を続けた。電気放射線学の資格もとり、新たな知識を身につけながら父は活動していた。

 その間に苗字もLipsztejnからドイツ的なLipsteinそして、Lapierreと変えた。ただLapierre本人は13歳のときに、ユダヤ系の歴史の教師から「ユダヤ人にとって名前を変えることは恥である」と諭されたことを覚えている(p. 161.)。後年LapierreはChanger de nom『名前を変える』という本を書き、人々が名前を変える理由を探っている。戦時中Lapierreの両親はLipotinという名前で証明書を作成していた。ヴィシー政府では1942年2月にユダヤ人の氏名変更の権利を剥奪する法令を出している。Lapierreという名は父がフランスへの愛着と、元の名前の痕跡をとどめるために選んだようだ。そしてもちろん、変更は、もし万が一歴史が繰り返されたとき、子供たちをその災厄から守るためである。

 もちろん名前を変える態度と、ユダヤの人々が亡くなった親類の記憶をとどめるために、彼らの名前を記録することにこだわったことは矛盾しない。それは死者を無名性と集団の中への埋没からすくいだすためであった(p. 169.)。また親たちは、伝統にのっとって、亡くなった親族の名を子供たちにファーストネーム、セカンドネームとして与えた。

 親たちは名前を変えてもユダヤ性を失うことはなかった。子供たちにはユダヤ人と結婚することを望んでいたし、孫たちには、ユダヤと関連がわかる名前をつけること望んでいたし、父は孫の割礼も望んでいた。父はユダヤ性とフランス性の2面を持ち続けたのである。

 現在の世代には、もとのユダヤの名前へ戻ることを希望する者たちもいる。法律的には「外国名」へ戻ることは難しいが、「ヴィシー政府の排斥に対する象徴的修復」としてこの要望を考える弁護士もいる(p. 174.)。

 ただし名前にこだわる傾向についてLapierre自身は留保をつけている。「名前を変える」こと、烙印を押されること、そして移民としてやってくる者たちは、ユダヤに限定されない。その中でナショナリズムの高まりや人種差別の執着心は名前へと集約される(p. 175.)。Lapierreにとっては、人間をこうした「アイデンティティの印」から守ることこそ重要なのである。 

 5. L'héroïsme des immigrés
 この章ではLapierreは、移民という事態には、時にさまようこと、その危険と孤独、別離、いわば「悲惨主義」で語られることが多い事実を指摘する。また彼らは、助ける対象という意味で犠牲者とみなされ、ときに差別、不公平にも遭遇する。

 だが同時に、国を離れ、異国に暮らすためには、「意志、勇気、大胆さ、ときには意識しないこと、そしていくぶんかの希望」が必要であると指摘する。移民は犠牲者であるだけではなく、「社会におけるアクターであり、自らの人生の主体」でもある(p. 182.)。したがってクリシェで語るのではなく、フランスで生きることを決めた外国人たちのより正確で価値付けられたイメージを示す必要がある。そして移民の道程における勇敢さを語る必要がある。勇敢さは単に力を持ち、栄光につつまれることではないはずだ。新しい人生を切り開くため、果敢に、我慢強く戦いを続けることにも認められるはずだ(p. 183.)。

 それらを表現するためには小説形式も有効だろう。Mathias Enard, Rue des voleursの主人公は20歳のモロッコ青年であり、彼の移動を描く。Ariane MnouchkineのLe Dernier Caravansérailはオデュッセイアの副題がつけられており、人物たちは世界各所からの旅人である。

 次にLapierreが強調するのは、比較の可能性である。かつての移民は彼女の親たちのような東ヨーロッパからの移民であり、今日は中近東、北アフリカからの移民である。Lapierreにとって「差異を抹消することではなく、多様なものと類似なものが同時に存在することを前提とする」のが比較である。

 Lapierreが批判するのは、「比較可能なもの(=近接しているもの)しか比較できない」という態度、また「何も比較できるものはない」という態度である。比較不能とは差異のみを認めることであり、それは自らの居場所を固定し、その場所を保全することである。Lapierreは自分の場所を動かないことが、ヒエラルキーを保証し、偏見を助長してきたと言う(p. 189.)。そしてこれが所有の論理、「根っこをはった」者たちだけの縄張りを作りあげてしまうのだ。

 過去の移民たちと現在の移民たちが異なるのは明らかである。それぞれの固有性もある。では共通性はないだろうか?Lapierreは次の3点を挙げる。まずは知らないところに飛び込んでいく彼らの選択と経験。次に周縁化されているという事実。最後に移動にともなう苦しみと豊かさ、特に世界や社会への異なった視線の獲得である。

 Lapierreはノルベルト・エリアスとジョン・L・スコットソンの『定着者と部外者』を引用し、お互い似ているにもかかわらず、定着者は既存権益を保持し、新たにきた者を部外者として排除する。ここには「経済危機、階級、言語、文化、宗教、出自、肌の色」の差異はないのに、軽蔑と排斥は激しく存在する(p. 197.)。問題はそれぞれのグループに固有の性質にあるのではなく、そのグループ同士の関係の編制のされ方にあるのだ。

 私たちの両親の過去を思い出せば、過去と現在の類似するところから、「理解と共感と連帯が可能になるはず」とLapierreは言う(p. 200. )。

 最後にLapierreは「移動の価値と外国人の視線」を擁護する。それは明らかなもの、確実なものから離れた視点である。Lapierreは社会科学の数多くの著者における、移動の体験と社会の批判的分析の間の親和性を、その著書Pensons ailleursで明らかにしている。社会、その社会の常識、権力、制度から距離をおくことが、その社会を理解するためには必要なのである。移動した人々は、どこかに根を張ることなく、多くの世界を知ることになり、少し外に、そして同時に少し内にいるのである。

  6. Aléas de la mémoire
 この章の始まりは1970年代にあらゆる議論で聞かれた「どこから話している?」という問いについての考察である。つまり、どんなことばも自分の社会的ヒエラルキー、権力関係に規定されているということ、つまり主体や主体の持つ省察力、行動力は考慮されていないという姿勢がこの問いからは見えると、Lapierreはいう。

 ユダヤ系といってもLapierreの世代は、フランスの文化に十分に浸っており、ユダヤの伝統からの影響はごく限られたものであった。家族でユダヤの風習、たとえばPessah過越に行ったりもしたが、子どもたちの目にはエキゾティックなものに映っていた。母はこうした風習を皮肉な目でみていた一方で、子どもたちにかける愛情のことばはイディッシュであり、それはおそらく祖母から受け取ったものである。家庭でのケーキもポーランドのユダヤ料理のものであった。こうした違いは、両親があまり伝えようとしたり語ったりしなかったと同時に、子どもの世代も特に尋ねたりしなかったことから生じている。

 70年代には、地方文化の擁護が時代の風潮となったように、アイデンティティの起源を探る傾向が生まれてくる。それと同じように自らのユダヤ性を発見することにもなるが、ただそれをどうしてよいかわからない、「使い方」がわからないのだ。ジョルジュ・ぺレックもEllis Islandで「ユダヤ人であるとはどういうことか、ユダヤ人であることが自分にどういう意味があるのかはっきりとわかってはいない。ユダヤであることは明白だが、それは平凡な明白さだ」と述べている(p. 212.)。

 こうした不安は、ぺレックの世代、すなわち戦争中に子どもだった世代をとらえている。Lapierreの戦後世代は希望が回復するなかで生まれている。ナチズムの体験を両親が話すことはあまりなかった。また戦争によって失われてしまった時代のことも。その沈黙にはさまざまな理由があるだろう。重い過去から自分を切り離したい、あるいは何よりもまず自分たちの子供をこうした過去から切り離し、未来への向かわせたいという気持ち。特にLapierreの両親にとって、未来は勉学に打ち込むことで拓けるという確信があった。

 ただ文化的なレベルでの復興はあったものの、歴史学、社会学、人類学はむしろ弱まりゆく記憶継承を課題としていた。その流れにLapierreも入っていく。実際失われていく自分の家族、そのなかで消えていく記憶の問題が、「ユダヤの記憶」という研究主題を選ばせることになった。そして父の故郷の出身者たちへのインタビューとアンケートの調査から書かれたのがLe Silence de la mémoireである。これは体験を「復元した」(p. 218.)研究となった。

 「記憶とは一度で決定されるものではない(p. 219.)。私的空間、公的空間での沈黙の時代の後に、80年代には、言葉の時代がきた。ヴィシー政府の秘密が明らかになりはじめ、歴史修正主義に対抗する言説が起こる。そのなかでさまざまなアプローチが生まれるが、そのひとつがフィンケルクロートの『想像のユダヤ人』である。ここでフィンケルクロートはユダヤ人をやめるとは、「苦しみを年金として生活する者、絶対的正義の正式の受託者」であることをやめることだと述べる。

 1978年にはテレビドラマ「ホロコースト」が大成功をおさめ、ジェノサイドの表象が世界に伝播することになる。このテレビのフィクションの対極に、クロード・ランズマンの「ショア」があり、この作品が初めて上映されるのが1985年である。文学作品では1982年のHenri RaczymowのUn cri sans voixがLapierreに強い影響を与える。

 90年代はショアの記憶が多くの国で認められるようになる。フランスでは1995年に当時のシラク大統領がユダヤ人連行についての国家責任を公に認めた。

 しかしながら、こうした過去の認識が「現在の犯罪に対する本当の警戒」(p. 225.)へとは結びついていない。「記憶の義務」も「こんなことはもう二度と」も単なる題目として消費されてしまったのである。

2000年代に入り、ショアは世界的に拡散されていく。それによってイメージも出来上がり固定化されていく。こうした現象に対して、たとえばハンガリーのノーベル文学賞作家イムレ・ケルテスは「ホロコーストの消費」を批判する。またこうした物語化は、実際に偽の自伝を生むことになり、Binjamin WilkomirskiやMisha Defonsecaの偽の作品に「騙される」ということが実際に起きている。これらの作品が大きな反響を呼んでいたのは、それだけ「ショアが、犠牲者が今後主要な社会的像となる文脈において、あらゆる苦しみの典拠となった」(p. 232.)ことを示されているのだ。

 2011年に出されたLapierreのCauses communesは苦しみから派生する「犠牲者争い」を批判する意図で書かれている。この本はユダヤ人と黒人の「20世紀の間にあった、共通点、同盟、共同の戦い、相互の考察」をまとめたものである。その目的は、共感が存在し、他者の視点を理解する能力、他者の体験、思想、感情に考えをおよばせる能力が存在すること、決してそれは同情ではないことを示すためであった。

 こうした考えには、理想だけをかたる素朴なものだという批判もあった。だが似た条件がなければ連帯は生まれないだろうかとLapierreは疑問を呈する(p. 236.)。それは自分のおかれた環境に意識を支配されているということだからだ。まさに「どこから?」という所属においてからしか人間は行為できないのだろうか?

 Lapierreが最後に考察するのは被害を受けた者の感情・同情の問題である。Lapierreはpathétique(感情への訴え)は、「歴史の悲劇を理解する鍵とはならず」、「考えることよりも、沈めること、妨げることを行う」と言う。それによって「不正、不平等に対する必要な戦いは、pathétiqueが広げる淵の中に沈み込み、失われてしまう」(p. 239.)のだ。

 実際にショアの物語はパトスの物語だけではない。たとえばDanielle BaillyのTraqués, Cachés, vivants. Des enfants juifs en France (1940 - 1950)(追われた者、隠された者、生きている者、1940-1945年のフランスにおけるユダヤの子供たち)は、「活気、知性、抵抗のモデル」を私たちに示している。

 Lapierreは、両親も姉も亡くしている今だからこそ、この本を書いたのだが、それは不幸の遺伝、言い換えれば、ユダヤの困難の歴史を引き写すためではなく、それを否定するのでもなく、「この亀裂と憂鬱の上に、連帯と参加のモラルを作り上げる」ためであると述べている。また、犠牲者であっても主体的に振る舞えることを示すため、どのような困難さにあったとしても、あらゆることに立ち向かう自由はそれぞれうちに残されていると述べる。