tumbleweed_connection.jpg Elton Johnと言えば、「きみの歌はぼくの歌」であり、あまりに優れたラブソングなために、この曲がおさめられた1stアルバムもリリシズム溢れたロマンティックなアルバムだと勘違いしそうになる。実際には冒頭におかれたこの曲をのぞけば、いたって内省的な曲が多いことに気づく。またアルバム裏ジャケットにミュージシャンの写真が並んでいるが、当然ながらElton Johnのアルバムは決してピアノロックではなく、一流のミュージシャンによって固められたセッション性の強いアルバムである。

 もちろんロマンティックという形容詞にふさわしいメロディアスな曲は多いけれど、でもそれだけではアルバムの醍醐味を表現したことにはならない。内省的でありつつ、しかし音楽表現としては技術的にしっかりとバックアップされ、シンガーソングライター的な繊細さとは一線を画した、プロフェッショナルとしての、完成度の高い「音楽作品」。だから単純な主観的印象だけではElton Johnの魅力は語れないように思う。

 メランコリックでありつつ、力強い音作りをきかせる、この情熱と内省の交錯が初期のアルバム群の魅力であると感じる。とくにこの3rdアルバムは、アメリカのルーツ音楽をふんだんに盛り込み、コーラスの迫力や、ゴスペルっぽい曲の盛り上がりなど、かなり骨太である。と、同時にスタジオワークも素晴らしく、個々の演奏力の高さに感服する。

 アルバムの色調は、ジャケットの色合いに似て、決して派手ではない。後年のエンターテイメント性などもない。だが、音楽を制作することの確信が、Elton Johnの声から溢れてくるようだ。

 もちろんLove songのように心象風景がそのまま音に投影されたような、憂いを感じさせる曲も収められていて心に響く。それに続くAmoreenaはピアノの音色を中心にしながらも、曲の盛り上がりにあわせて、ドラムが実に渋くはいってくる。こうしたバランスのよい楽器編成が決して曲がセンチメンタルにならない理由なのだろう。

 意匠はアメリカかも知れないが、Elton Johnの芸術度の高さは、その場の感受性ではなく、一流の計算されたプロの技なのであり、それは最初から一貫した、確固としたElton Johnの世界なのだ。

on_slow_boat_to_china.jpg 自分のまわりで死が頻繁に起こる。友人たちが短期間に次々と死んでゆく。それは「殺戮」と表現されている。しかし「死は死でしかない」とは、誰がどのように死のうが、その差異を抹消してしまうほど、死は圧倒的な一つの事実であるということだ。あらゆる差異を消し去り、人を無名性に押しやるほど、死の力は強い。

 友人が次々と死んでゆくとは、同時に自分が歳をとってゆく過程でもある。それは青春の終焉でもあり、そしてまだいつかは見えないものの、やがて来る自分自身の死の準備となるだろう。ただし、「いつかは見えない」、「やがて」というあいまいなときは、今来てもまったく不思議ではないあいまいなときだ。いつかはわからないとは、いま来てもおかしくはない。やがてとはすぐ先の未来であってもおかしくはない。

 死者へと意識的なあるいは無意識的な思いは常に残る。「夜中にものを考え過ぎる」というとき、それは、生者の死者に対する一つの喪の作業となるだのだろう。その喪に直面するのを避けるためには身体を動かすしかない。「掃除機をかけたり、窓を磨いたり」とは、きわめて日常的な社会性であろう。もうひとつの方法はテレビだ。「好きなときに消せる」とは、つながりうる関係を、突然断ち切ってしまうことを意味する。その可能性、私と他者とのつながりの可能性そのものを断ち切ることになるのだ。死があらゆる無名性へと人を落とし込むならば、友人の死も、テレビの中の死も何も変わりはない。それは「匂いのない死」だ。「あなたは私が殺した人に似ている」ならば、「あなた」の方が死んでいてもなんの違和感もないのだ。生者と死者を分つものなどなにもない。

 しかし、もし無名性から死者を救うために、「夜中に物事を考え始める」ならば、それはテレビの世界にもやがてつながることになる。それは息をひそめて待っている人を、助けに地下へ降りてゆくことになる。テレビの向こう側に、地下奥深くに、沈黙して待っている人がいる。もし私たちが、向こう側に渡れるならば、地下に降りてゆけるならば、私たちは、その人にしかない匂いをかぎながら、救助へと向かうことができるのだろうか。