ミュージックレビュー

41b6JqfXSmL._AC_SY355_.jpg レスリー・ダンカンは1943年イングランド生まれのシンガー・ソング・ライター。The Everything changesは彼女の3枚目のアルバムにあたる。エルトン・ジョンがまだ内省的な曲作りをしていた時代の最後に発表された1970年の3枚目Tumbleweed Connectionに、彼女の作品であるLove Songが収められている。本人が、バックコーラスだけではなく、アコースティックギターも弾いている。この後のきらびやかな作品群に比べれば、かなり地味とはいえ、ピアノの音色やストリングスによるエルトン・ジョン的世界を十分に体現しているこのアルバムにあって、ギターだけの質素なLove Songは異質な印象を受ける。それでもこの曲にはエルトン・ジョンがもともと持っていた憂いを帯びた静謐な世界が描かれている。

 寒天の空のもと晴れはしないけれど、それでもかすかな柔らかな日差しが差し込んでくる。ブリティッシュ・フォークはそうした薄い光をイメージさせるが、レスリー・ダンカンの声も曲調も、当時のフォークの質感にとてもよく合致している。とはいえメアリ・ホプキンスほどフォークロアを感じさせることはない。おそらく自分で曲を作れたことから、そのソングライティングのセンスのままで、あまり伝統を意識する必要はなかったのかもしれない。

 「英国女性シンガーソングライター」という肩書きは1枚目と2枚目によりふさわしい。このThe Everything changesが出されたのは1974年で、フォークソングの時代が終わろうとしていた。そのためかバックの演奏も結構厚みが増しているし、ストリングスにも工夫が施されている。だからといってレスリー・ダンカンの歌には余分な力は入っていない。若干低めの、落ち着いた声で歌い、決して声を張り上げることはない。

A面の1曲目こそ多少勢いの強い曲調になっているが、全体としてはアップテンポな曲はなく、まろやかなヴォーカルアルバムとして
仕上がっている。特にB面はもはやフォークというよりも、むしろカーペンターズのようなポップスに近い。レスリー・ダンカンもカレン・カーペンターも、ポピュラーな曲調であっても、声に力強さを失わないところが魅力だ。だから単に耳障りがよいのではなく、私たちの心にまでしっかり伝わってくる。
 
その後の4枚目以降はもはや「メロウ・ソウル」といったほうが、アルバムの表情が伝わると思うが、このアルバムではまだそこまで
音の輪郭がシャープにはなっておらず、ひかえめな雰囲気が保たれている。冬の薄曇りの昼下がりに聞くにはぴったりの音楽だ。 
 

102039.jpg Robyn HitchcockとAndy Partridge。自分が夢中になって聞いていたミュージシャンが、一緒に曲を作ったという知らせは、まるで自分のレコード棚を二人が覗いていたのかとあらぬ幻想を抱くくらいにうれしかった。

 とはいえ今回はEPどまり。収められたのは4曲だけ。でもどの曲からもブリティッシュな音作りのこだわりが伝わってくる。
 一曲目、Tune me on, Deadmanは実際にはTaxmanの展開。ビートルズのこの曲を下敷きに、ドライブ感のあるサイケデリックなメロディが展開される。あのリヴォルヴァーの感覚である。

 二曲目Flight Attendantsは、よりサイケデリックな展開の曲。今回のEPのメインヴォーカルはヒッチコックだが、彼の爬虫類っぽい粘り気のある声がねじれたメロディにうまく絡んでいる。

 三曲目は、うってかわって、アコースティックな小曲。物語形式の歌詞の雰囲気もあわせて、ポール・マッカートニーの『ラム』を彷彿とさせるメルヘンチックな曲調が楽しい。

 そしてラストのPlanet Englandは、クリスマス・ソングかと思わせる華やかな美しい曲。華麗なストリングスから、後半はギターのリフレインへと移っていくその流れがきらびやか。

 4曲を通してきいてみると、全面に出ているのはヒッチコックだが、曲の構成やメロディはパートリッジの味がよく効いている。それはXTCよりもむしろ彼らの変名バンドDukes Of Stratosphearを思い起こさせる。それはやはりサイケデリックなねじれ具合が感じられるためだろうか。いずれにせよ、この二人のアルバムを早く聴いてみたい気持ちに駆られる、充実したEPだった。

411PDSKQ9VL.jpgのサムネイル画像 金延幸子は、60年代末に関西のフォークムーヴメントから出てきたシンガーソングライターである。72年に細野晴臣プロデュースでアルバム『み空』を出した後、この1枚を残しただけでアメリカへ渡ってしまう。この「レア・トラックス」は98年に出されたもので、ライブ音源の他、同じく関西の中川イサトたちと組んだグループ「愚」のシングルなどもおさめられている。

 ライブは70年の中津川「フォーク・ジャンボリー」や、同年の東京・文京公会堂の「ロック反乱祭」のステージがおさめられている。はっぴいえんどのコンサート音源もそうだったが、このCDでも司会者のステージでのコメントも収録されていて、それがかえって金延幸子やはっぴいえんどの音楽と時代のズレをはっきりと感じさせて興味深い。

 「ロック反乱祭」では、「監獄ロック」を披露したおちゆうじが、金延幸子のボサノヴァ風にアレンジされた「あかりが消えたら」のあとで、「ロックといえないでしょうね」とあきれた声を出している。彼によれば、プレスリーやエレキがロックを代表するらしい。あるいは「ロック反乱祭」だと念押しをしているところから、「反乱」を予感させるものがロックなのだろう。しかし「あかりが消えたら」は、そもそもアコースティックギターで演奏されている。おそらくバックは中川イサトが弾いているのだろうか、リズムはまさにボサノヴァだがアクセントをきかせた力強い演奏である。全体のアレンジは軽快で明るい。金延の歌も素朴ではあるが、とても伸びやかに歌っている。次に歌われる「ほしのでんせつ」は、フォークといっても、原義の「フォークロア」に近い、民族音楽の旋律を含んだエキゾチックな曲である。

 司会者が「ロックの形式」にこだわるのに対して、金延幸子、あるいはグループ「愚」は、まさに形式にこだわらない音楽を展開している。自分たちの可能性を試すかのように、今述べたボサノヴァや民族音楽をかかんに自分たちの音楽に取り入れている。ロックということばがすでに硬直化しているのに対して、彼らの音楽は実に柔軟で、その場で展開される創造性に司会者はまったく追いついていない。

 「ほしのでんせつ」は71年のフォーク・ジャンボリーの音源も収められている。こちらはギター演奏にトラッド・フォークの影響がよりはっきり認められる。だが、それは決して「まね」ではなく、卓越した演奏技術によって、自分たちのものとして十分に咀嚼されている。次の演奏「あなたから遠くへ」は、ジョニ・ミッチェルのギターの音色に近い。

 そして金延幸子の音楽をたとえフォークとも呼んだとしても、それは「私」とは無縁のフォークだ。「私の生活」や「私と社会」のような時に過剰な自己意識を見せつけるような音楽でもない。また湿った叙情性とも無縁な、どこまでも乾いて軽やかに飛翔するフォークだ。

 金延幸子の歌と演奏を聞いていると、今述べてきたアメリカやイギリスの音楽の影響という言い方が不確かなものに思えてくる。むしろそうした音楽をいち早く理解し、方法として取り入れることで、自分たち独自の音楽を実現したといえるのではないか。その意味で、ロックとは既存のさまざまな音楽形態を取り込み、そこから新しい表現を産むための手段であるという認識が、世界で同時に共有され、日本でもそれに呼応した音楽家がいたと言えるのではないか。

America, Here & Now (2006)

81nyX49vMML._SX355_.jpg アメリカは70年代初期に「名前のない馬」、「ヴェンチュラ・ハイウェイ」、「金色の髪の少女」などのヒット曲を立て続けに出したグループだ。「名前のない馬」は、少しメランコリックだが、ハーモニーが美しい曲。繊細なフォークロックを下敷きに親しみやすいメロディライン。でも単に耳に心地よいポピュラー・ソングのグループというだけではない。「Holiday」では、ジョージ・マーティンを迎え、ビートルズ的な凝った音づくりをしてトータルアルバムに仕上げており、アーティスト性の高さを見せている。

 こだわりがあったとしてもそれをひけらかすのではなく、あくまでもポップに聞かせる。その職人らしさが、このアメリカの魅力ではないだろうか。そして、その姿勢に多くの若いミュージシャンが影響を受けた。

 このアルバムは、ジェームス・イハとファウンテンズ・オブ・ウェインのアダム・シュレシンジャーという、若手のミュージシャン二人がプロデューサーをつとめている。さらに演奏にも参加をしている。敬愛するグループと一緒に演奏するのはどれだけ胸のときめくことだったろう。

 とはいってもそうした若手陣の参加はあくまでひかえめで、音楽的には70年代のアメリカとそれほど変わらない。1曲目はアコースティックギターの旋律から始まる。その憂いのあるメロディラインはまさにアメリカ。2曲目の「インディアン・サマー」は少しノスタルジックな感じにさせられる曲。ここでも間奏のギターのメロディラインが美しい。3曲目の「ワンチャンス」もアメリカらしい、コーラスに比重が置かれた曲。この曲のバックはジェームス・イハだが、その控えめなコーラスが実によい。使い古された表現だけれども、まさに聞いたら耳から離れなくなる素敵なメロディなのだ。

 なかでもAlways Loveは、このアルバムの中ではアップテンポで、ロックっぽいエッジの効いた音とアコースティックの静けさがよいバランスで配置されている、このアルバムのクオリティの高さを象徴する曲だろう。

 4曲目はマイ・モーニング・ジャケットのジム・ジェームスの曲。6曲目の「ライド・オン」という曲にはライアン・アダムスとベン・クウェラーも参加している。こうした若者たちに囲まれてアルバム制作がされたわけだが、企画物ではまったくない。どの曲も新鮮で色褪せない魅力をたたえている。

Billie-Marten-Writing-of-Blues-and-Yellows-Deluxe-2016.jpg 16年に出されたイギリスの女性シンガーソングライターBillie Martenのデビュー・アルバムである。基本はギター、あるいはピアノの弾き語りにあわせてささやくように歌う。しかし素朴なフォークではないし、決してかよわさや清らかさを単純に表現した音楽ではない。

 曲ごとに様々な意匠がこらされ、奥行きのある音作りになっている。プログラミングされた加工音、弦の音が響くストリングス、そうした数々の破片の音がギターとピアノで構成される空間を無限に広げてゆく。

 その音を聴いていると、弦の擦れる音がまるで船の櫂を漕ぐ音を想起させ、ゆっくりとこの世界を離れてゆくかのような幻想を抱かせる。Heavy Weatherはイングランドの冬に雨に打たれながら歩く二人を描写する。雨、光、暗がり。その自然そのものの風景がいつしか現実感を失わせる。その現実と幻想のあわいにこのアルバムの魅力があるように思う。

 そしてその世界が、ドノヴァンのフェアリーな雰囲気や、バート・ヤンシュのトラディショナルな音構成や、ニック・ドレイクの静謐な叙情へとつながってゆく。

 はからずもブリジット・セント・ジョンやヴァシュティ・ヴァニアンといった女性ヴォーカルが浮かばなかったが、彼女たちのもつほのかな明るさが、このアルバムにはあまり感じられないのだ。たとえばIt's a fine dayという一見晴れた日を歌う曲があるが、その場所にいて主人公が思い出すのは、かつてこうして野原に座った過去なのだ。はっきりと語られないがきっとそれはもはや失われてしまった過去だろう。
  
 この作品で歌われているのは、人の心には知らないうちに微かな傷がついていくことに気づいてしまったティーンエイジャーのまなざしではないだろうか。無邪気さや素朴さを最初の喪失として体験したときの表現がこのデビューアルバムにはこめられている。

a1493544012_10.jpg 楽器が上手いとか、美声であるとか、何か圧倒的な力量で音楽を聴かせるのではない。小石をひとつひとつ丁寧に拾い集めて積み上げながら、やがて音の形を作り上げたようなミニマムな音楽である。アコースティックギター、ピアノ、そしてシンプルなドラムにかすかなホーンの音。それらのかすかな音の響きは、聞いている者を夢想へと誘う。

 Drink My Riverはクラシカルなピアノから始まり、ホーンがそこに重なる。そしてDo you dream of me when I'm far away ?と夢が素直に語られる。

 I'm not falling asleepはタイトル通り、完全に眠りに落ちてしまうのではなく、かといってはっきりとした意識を持っているのでもない、そのあわいを歌う。3拍子のピアノの旋律、そしてエリック・サティを想起させるような管楽器がアクセントとして加えられる。そのアンサンブルが永遠に続く夢うつつな雰囲気を曲全体に漂よわせる。

 Covered in Dustでは「君を夢見ながら死んでゆく」と口ずさむ。緩慢な死を予感させながら、ゆっくりとしたリズムが意識の下降を描く。ゆるやかな流れの川で船をこぐ櫂のような一定のテンポで奏でられるアコースティックギターの音、合間に入る控えめなストリングス、いつまでも続くような短調なドラムで構成される。

 エリオット・スミスに例えられるが、確かに高音を歌うときの繊細でかすかに声がかすれるところなどは似ているかもしれない。

 また曲の手法でも細部に類似点が認められる。たとえばYou're out wastingのヴォーカルの二重録音、メロディライン、アコースティックギターだけのバックにしたヴォーカルパートなどだ。

 Lick Your Woundsのイントロは、カセットの録音ボタンを押す音がする。そして奏でられるギターの弦が擦れる音が入る。こうした曲とは直接関係はないが、しかしエリオット・スミスの音の生々しさを感じる上では必須の要素が、このアルバムにも録音されている。

 だがエリオット・スミスの曲にはたえず「未完成感」がつきまとう。ふと頭をついて浮かんでメロディを口ずさんでみる。そのかけらをかけらのままカセットテープに録音したような曲だ。聞いているとそのかけらがこぼれ落ちていき、やがて消滅していくような気分にかられる。

 一方、Andy Shaufの曲は極めて端正だ。構成もきちんとしており、相手に伝えようというアーティストとしての意識は明瞭だ。エリオット・スミスの曲は、その生まれる現場に他人の不在を強く感じる。徹底的に孤独だ。

 メロディラインが似ているJerry Was A Clerk。ピアノやドラムの入り方は十分エリオット・スミスを意識している。高いメロディを歌うヴォーカルラインも。しかし、もしエリオット・スミスだったら、2分過ぎの«Boys, our time has come»で終えてしまうだろう。だがこの曲は«to live among the privileged ones»と続けられ、その後物語はきちんと完結し、聴く者に届いてくる。こうした端正なストーリー形式はエリオット・スミスにはあまり見られない。エリオット・スミスのyouはどこにもいない。

 エリオット・スミスの場合、どうしても死への意識に最終的に辿りついてしまうのだが、Andy Shaufの場合は意識の喪失だろうか。その意味でこのアルバムのテーマを一語で表すなら、歌詞によく出てくるfallingだろう。落ちてゆく感覚。その結果が幸福なのか不幸なのか、意識が混濁してもはやはっきりとはわからない。アルバムタイトルThe Bearer of Bad Newsは「悪いニュースを持ってくる人」という意味だが、それがバッドニュースなのか、グッドニュースなのか、もうどうでもよいほど眠くてたまらない。それがまだ現実なのか、もう夢の領域に入っているのか。そんな意識が消失する直前をかろうじてすくいあげて音が奏でられる。

 この死と意識の薄明には大きな隔たりがある。どれだけパーソナルな音作りをしようと、Andy Shaufは死の一歩手前で必ず踏みとどまるだろう。The Man On Stageのサビの明るい瞬間はエリオット・スミスには書けなかっただろう。

TLBarrettCover.jpg 宗教の話をフランス語でしていると、なかなか話がかみあわないことがある。それはreligionという単語の意味するところが日本語の宗教とはときどき異なるからだ。教義や宗派の話をするならば問題はないのだが、人の心の精神性について話すときはspiritualitéといったほうが齟齬が少ない。

 ゴスペル音楽が、キリスト教のための、あるいはアフリカンアメリカンのためだけの音楽ではなく、信仰者でなくとも、その心に響いてくるのは、もっぱらその音楽が高いスピリチュアリティをたたえているからではないか。それはたとえ神を想像しなくとも、自分の存在を遥かに越える圧倒的な力に引き寄せられる感覚を私たちの中に生むからではないだろうか。

 ゴスペル音楽をひとつの職能として、アーティストとして活動している人たちが多くいたわけだが、牧師自身も歌い手として、その声を教会に集う信者に聞かせていた。このアルバムのバレット牧師もそのひとりである。バレットはシカゴの教会で聖歌隊を結成し、若者たちを教会に足を運ばせるよう活動をした。それは単に信仰に誘うというだけではなく、60年代のアメリカにおいて、何とか真っ当に生きるための生活の場という意味があった。

 教会で歌われた音楽はレコードに録音され、人々の生活に染み渡っていたのだが、そうした音楽は地域に密着しているがゆえに、より大きな反響を得ることは少なく、あくまでも対象は信仰者のためのものであった。

 このバレットが録音したレコードも同様であるが、2009年、マニアックなソウル音源発掘レーベルとして知られるNumeroのコンピレーションアルバム「Good, God! Born Again Funk」に、そのうちの一曲が収められ、これが大きな話題となり、ついにこのアルバムが再発へと至った。

 地域も時代も越えて、火がつくようにこのレコードが求められたのはは、当然ながらその音楽の質の高さによる。まずはバレット牧師の歌が本当にうまい。ファンキーでシャウトに力がある。メロウな歌い方もできる。また数曲で聞かれる女性ヴォーカルも彼に負けずファンキー。

 だがこのアルバムが広いポピュラリティを獲得するのは、その音楽が極めて洗練されているからではないか。それはフィル・アップチャーチなどプロのミュージシャンが参加しているということもあろう。ただそれ以上に言えるのは、それぞれの曲がきちんとした構成をもって作られているため、完成された楽曲として聞けるということが大きい。

 タイトル曲Like A Shipのベースラインのなめらかさ、鈴を鳴らしているかのようなリズムセクション、心地良いグルーヴ感に聖歌隊のコーラスが重ねられ、その上に、牧師のソウルフルな歌声が聞こえてくる。

 あるいは2曲目Wondefulや5曲目Nobody Knows冒頭のダニー・ハサウェイを彷彿とさせる軽やかなピアノの旋律。特にWonderfulは歌い方もダニーを彷彿とさせる。70年初頭のまさにニューソウルに雰囲気をたたえ、コーラスや「ハレルヤ」の掛け声がなければ、ゴスペルだということを忘れてしまうようなスイートなソウルである。

 かと思うと、1,2,1,2,3のかけ声で始まる4曲目のEver Sinceは、アグレッシブなゴスペルファンクで、コーラスもアップテンポ、バレット牧師もジェームス・ブラウンのようである(かけ声で発する単語は違うが...)。

 こうした当時のソウル、ファンクの最新の形式がしっかりとそれぞれの曲に生かされている。それは当時の若者の心を捉えるという意味もあっただろう。だが何よりも、そのソウル、ファンクの音楽形式がきちんと曲にはめ込まれてなければ、これらの楽曲が普遍性をたたえることはなかっただろう。

 単なる情熱や宗教心ではなく、あくまでも音楽として楽しめること、そのために楽曲自体がソウルやファンクの形式に沿っていること、それがあるからこそ、牧師のスピリチュアリティが、今、現在へと伝わってくるのだろう。音楽は楽しい、そんな単純な喜びを素直に感じられる名盤である。

Feelies(The), Here Before (2011)

homepage_large.811e6dcd.jpg 85年大学に入ってから聞いていたアメリカの同時代の若者ロックといえば、R.E.Mやスミザリーンズ、そしてこのフィーリーズだった。彼らのデビューが80年だから、5年遅れでその存在を知ったことになる。

 パンクという現象が短期間に終わったとはいえ、その余韻はまだまだくすぶっていた。その余韻が鬱屈してできた音楽が好きだった。もはや声高に叫ぶこともない、派手なファッションで周囲を煙たがらせるのでもない。でも音には鋭さがあって、それでいて内省的な憂いもあった。たとえばdB'sのような音。

 パンクの前にはアンダーグラウンドという現象があった。こちらは退廃と攻撃性が入り交じった夜の火花のような音楽。それを文字通りヴェルヴェット・アンダーグラウンドが体現してたとするならば、その喧噪とスキャンダルから離れて生まれた音楽が、メンバーの一人でもあったジョン・ケールだ。ルー・リードがトランスフォーマーやベルリンによって、退廃を極めていく音楽をつくっていたときに、ジョン・ケールは午後のまどろみのような音楽を作っていた。

 アンダーグラウンドとパンクが過ぎ去った日常で、それでもアヴァンギャルドな精神と音楽でしか表すことのできない衝動をどう継続してゆくか。そんな場所から生まれたのがR.E.Mやフィーリーズだったのではないだろうか。そして日常とはどうしても折り合いをつけることのできない切迫はニルヴァーナのようなグランジ・ロックを生んでいったのではないだろうか。前者が息が長く、後者が短命だった理由も、生きづらさとの折り合いのつけ方にあったように思う。

 フィーリーズのファーストを今聞いてみると、リズムは単調でまだパンクの余韻が残っている。だが、ギターの音は細く、神経質な印象をかきたてる。事実、1曲目はナーヴァスな若者の話。また2曲目や3曲目のギターのメロディはオルタナ感あふれる奇妙な旋律を弾いている。

 そんなフィーリーズも91年に4枚目のアルバムを出して、その後は音楽シーンには出てこなくなってしまったようである。自分自身も88年のOnly Lifeを聞いて以降はほぼその存在を忘れてしまっていた。

 先日、ユニオンの特価品コーナーをゴソゴソやっていたらこのアルバムに出会った。まったく見たこともないジャケットで、編集盤かとも思ったが、200円という値段もあり購入。そして調べてみると2011年に出された20年ぶりの復帰作とわかった。しかもちゃんとセカンド以降のフル・メンバーである。内ジャケには中年になった5人が仲良くベンチに座っている写真があって微笑ましい。

 全13曲、45分。3分から4分前後のシンプルな曲が並んでいる。シンプルだが、メンバーの演奏のハーモニーの見事さに聞き惚れる。リードのカッティングギター、そのリードに並走するサイドギターは曲に奥行きを与える。昔は「手が痙攣しちゃったの?」って感じのつたない感じのカッティングもあったが(それが魅力だったといえば魅力なのだが)、今回は熟練の技という感じだ。
 
 このバンドは「リフが命」なのだが、これがどの曲もキマっている。1曲目はこのアルバムを象徴するような素朴で明るいリフ。曲の途中で演奏が一瞬止まり、カウントをとる小さな声が聴こえ、アコースティックギター、ベース、パーカッションそしてエレキギターと重なってくる。例えばこんなところにバンドのコンビネーションの良さがあり、惚れ惚れする。

 2曲目はドラムから入って、すぐにカッティングギター、きらびやかでは決してないが、浮遊感のあるメロディだ。こうした目に見えない空気を描くのがこのバンドのオリジナルなところだ。そして素朴なバックコーラス。後半1分は、ギターとコーラスがゆっくりとキーを上げていき、それにずっとパーカッションがサポートしている。こんな構成にバンドの愛らしさを感じられる一曲。

 3曲目はトム・ペティやマーク・ノップラーなどのオールド・ロックの叙情をたたえた曲。この曲の聞き所は間奏部分の少しハウリング気味のギターの音。

 4曲目はノイズ多めのギターが心地よい。Yo La Tengoを思い起こすようなギターの音だ。後半に入ってさらにノイズや信号音のような音が入り混じり、ひしゃげるようなドラムの音量を上げながら一気に突き進んでゆく。アルバム全体に歌詞がシンプルなのだが、この曲でもWhen You Knowとシンプルなフレーズをひたすら繰り返している。

 5曲目は4曲目とは対照的な白昼夢という形容がふさわしいポップな雰囲気の曲。

 6曲目は左右から聞こえる2本のギターのシンコペが見事な1曲。Way downというタイトル通り、なかなかアーシーなサイケデリックソングだ。展開がAとBだけで、最後にリードギターが前面に出てくるといういたって単純な曲なのだが、バンドの一体感だけできかせてしまうところが熟練のワザ。

 8曲目は、このアルバムの中では、わりと展開のある曲。懐かしさを醸し出すリフから始まり、You can change your mindとタイトルを歌うところでコード進行が変わる。ここでの高音を担当するギターリフの変化にしっかりと作り込まれた曲の完成度の高さを感じる。曲の途中、ワンテンポおいて、ギター、ドラム、そしてリードギターがメロディを奏でる。基本的にはいつも同じ構造なのだが、それでも飽きないのは曲の構成がやはり緻密だからだ。最後はタイトなドラムのリズムにみなあわせながら, Running along, Coming onと歌ってゆくところが本当にかっこいい。

 12曲目On And Onはまさにヴェルヴェットを彷彿とさせるリフで、そこにCommon, Hey Nowのような短い言葉がつぶやかれる。同じリフで押しながら、パーカッションがアクセントをつけ、このアルバムのなかでは攻撃性が高いサイケデリックな世界を見せてくれる。単純でありながら密度の濃い1曲だ。

 そして最後のSo Farは、再び優しく素朴で少し切ない曲。

 音楽のスタイルは35年前と何も変わらない。ギターのリフ中心で曲が作られていること、単調なリズムワークだが、それがギターサウンドを支えていること。しかしそれでも以前は前のめりがちだった雰囲気が、今では端正なテンポを保っている。衝動がないわけではない。ただ、かつてはその衝動がそのままストレートな音に結びついていた。だが今は、その衝動と向かい合う余裕がある。それを大人ぽいとは言わない。彼らのギターのきらびやかさは永遠の若々しさをたたえている。かつての擦り傷をつくるような刺々しさしさは影を潜め、曲全体にわたしたちを包み込むふくよかさがある。アンダーグラウンドやパンクといった時代の寵児として一世を風靡しながらも消えていった音楽ではなく、まさに日常そのもののを歌にしようとする粘り強い表現意欲にこのバンドが貫かれていることの証明だ。

James Iha, Let It Come Down (1998)

James_Iha.jpg スマッシング・パンプキンズのメンバー、ジェームス・イハのソロアルバムである。バンドの歪んだ音とは対照的な、シンガーソングライターの叙情性をたたえた音楽が奏でられている。甘くてせつなくなる、少し憂いをふくんだ音は、きわめて簡素だ。一応バンドサウンドではあるが、装飾的な加工は一切なく、アルバムジャケットそのままに、純粋な光に包まれた音作りとなっている。

 1曲目のアコースティックギターから始まるイントロがアルバム全体の雰囲気を集約している。また控えめな弦楽器の伴奏もアコースティックな雰囲気を作り出す。唯一、これはニール・カサールだろう、彼の特徴的なエレクトリックギターのワウワウ音がバックに聞こえる。それがきわめて控えめだが、アルバム全体にドリーミィーな世界感を与えている。

 曲のタイトルも至って素直だ。Beauty, Jealousy, Winterなど、シンプルな曲名が並ぶ。そして歌詞も素直な心情を歌っている。Be Strong Nowのサビの部分、And if I come and hold you nowの歌詞のように、もう少しで、彼女に寄り添えるのに、わずかなところでの戸惑い。淡い距離感。あるいはOne and TwoでもIf I hold you tight and never let goと、ここでもifの世界が歌われている。

 さらにLover, loverのサビの部分。

If you say that you love me
And if your heart's one and only
If you live with me for just one day
Until tomorrow

 現実から少しだけ離れた「もし」の世界。それは少し夢のようであり、ぼんやりと照らされて輪郭を失った世界のようだ。その中で、とても親密に二人の世界がスケッチされる。何となく当時のイハのプライベートまで透けてみえるようだ。

 そしてこのアルバムは確かにシンガーソングライターとしての優れたアルバムなのだが、決して単調にならず、意外に深みや広がりを感じるのは、バック・ヴォーカルの多彩さがあるからだろう。よく耳を澄ますと、イハのやや金属的で伸びのあるヴォーカルに寄り添うように、丁寧でシンプルなハーモニーが奏でられている。バンドという形体とはまた違う、友人たちとの交流が、音の力強さを作り出している。

 シンプルで簡素。だがイハのヴォーカルは意外に力強い。低音も響く。自分の作りたい音が、それを十分に理解してくれる友人に支えられたとき、アコースティックを主体にしながらも、十分に広がりのある光に満ちた音楽世界が実現したのだろう。

a2480213325_10.jpg  一時期アメリカ、イリノイ州のインターネットラジオを聞いていたときに耳に入ってきた。バンド自体はオレゴン州ポートランドの出身である。ポートランドといえば、何よりもエリオット・スミスがすぐに浮かぶが、このDoloreanもエリオット・スミスへのトリビュートアルバムでThe Biggest Lieをカバーしている。

 奏でる楽器がアコースティック主体だけに、ややもするとカントリー音楽っぽい雰囲気もあるが、自然の風や土の臭いはしない。むしろ静物画のような、一枚のスケッチ画のような印象を与える演奏である。何よりも全体のアンサンブルのよさが、絵画について話すときの均斉や構成と言ったことばを喚起させるのだろう。

 弦楽器が主体であるとはいえ、このバンドの芯にあるのは、カントリーでもないし、フォークミュージックでもない。ヨ・ラ・テンゴがフォーク・ミュージックとは呼びにくいように。確かに生音が大切にされてはいるが、彼らの音楽の特徴はそれらの音の「反響」にあるように思う。ロックバンドが室内楽をしているかのように、彼らの音はこだまにつつまれているようなおぼろげなところがある。

 たとえば2曲目Put You To Sleepでは、ペダル・スティールとオートハープが演奏されているが、それぞれの音にわずかなエコーがかけられ、音像が広がってゆく印象を受ける。こうした音響処理がこのバンドの特徴的な音を作っていて、そこがカントリーやフォークといったジャンルとは異なる点だろう。細かい点だが、8曲目のラストは、アコースティックギターに、エコー処理された口笛が重ねられ、さらにシンセサイザーの音が重なる。こうした生の音と人工的な音が溶け合うところに、音像の特色がある。

 ヴォーカルにはエコーはかけられず、素朴な声が聞ける。だがバックヴォーカルと重なってハーモニーが生まれると、声が幾重にも結び合わされ、静かな響きを伝えてくる。こうした繊細なヴォーカルがアルバム全体に静謐な印象を与えている。

 デビュー以来、15年で4枚程度しかアルバムを出しておらず、本当に寡作だが、それでも丁寧な音作りをしているからこそ、どの作品もきっと長生きするに違いない。これで人生をやっていけるのだろうかと余計な心配をしたくなるが、たとえ多くの人が聞くわけではなくても、彼らの音楽は、出会った人の心の中にゆっくりと沈んでいき、ふとしたときに、口をついて再び生まれてくるような永遠の美しさをたずさえている。

TTB_Cov_5x5-HI.jpg これまでの2枚のアルバムとはかなり趣の異なるアルバムである。RevelatorやMade Up Mindを聞いたときには、例えばMidnight in Harlemのようなアルバムを代表するような名曲や、The Stormのようなデレクの荒れ狂ったギターが堪能できる曲など、これぞ真打ちと呼べる作品があった。しかし今回のアルバムにはそのような圧倒的に飛び抜けた曲はない。

 その代わりどの曲を聴いてもひしひしと伝わってくるのは、お互いを理解しつくした演奏集団が繰り広げる充実した演奏だ。内ジャケットに写っているのは総勢11人。人数の多さにも関わらず、その一人一人のパーソナリティが伝わってくるようなアルバムだ。誰か一人だけにスポットライトがあたっているのではない。誰か一人が欠ければ到底成立しない絶妙なハーモニーとバランスが作り上げる、しなやかだけれども強靭なバネがどの曲をも貫いている。

 その結果、このアルバムには完成された曲を楽しむ以上に、メンバー一人一人の卓越した演奏によって曲が生まれてゆく、その過程に立ち会っているかのような楽しみにあふれている。メンバーが間合いをとりながら、音楽を生んでゆく生成の時間こそグルーヴと呼びたい。

 「オレがオレが」という私心がないぶんだけ、リラックスした印象を多くの曲から受ける。そこからさらにジャム感覚の自由さが加わる。そのためか、これまで時にやや力みがちに聞こえていたテデスキのヴォーカルも今回は、いい感じに力が抜けている。4曲目のRight On Timeは、今までにはない、ユーモラスとペーソスをたたえたジャグバンドを思わせるような曲である。街から街へと流浪しながら日銭をかせぐ旅芸人一座のような風情だ。この曲ではマイク・マティソンが最初ヴォーカルをとり、その後テデスキにバトンタッチして、男女の仲直りを演じているが、二人のセリフまわしが面白い。

 これまでの2枚がバンドとしての可能性をどこまで追及できるかという多少緊張がみなぎる雰囲気だったのに対して、今回のアルバムでは、その試みを経たことによる、バンドへの十分な信頼を各自が持ってパフォーマンスをしていることが印象的だ。例えばMidnight~と8曲目のHear Meを聞き比べてみるとその印象はより強まるだろう。どちらもノスタルジックな落ち着きのある曲だが、Hear Meはアコースティックギターの生音を聞かせ、ドラムの刻みはやや控えめ。バックコーラスはよりやさしくテデスキによりそっている。歌詞の内容もパーソナルな恋の歌である。Midnightの楽曲の完成度からみれば、小さくまとまっているようでありながら、大地に根を張ったようなゆるぎない自信を伝えてくるのはむしろHear Meではないだろうか。

 マイク・マティソンがリードヴォーカルをとる曲もある。これなどは、時に応じて自在に役割を交代してゆくバンドのしなやかさを強く示している事例だろう。だれがリーダーなのでもなく、それぞれが共同体の一員として、自由に音楽をかなでる。そののびやかさがこのアルバムの特徴だ。どの曲にも派手さはない。しかしこれ見よがしの「ウケる」曲を作る必要はさらさらないだろう。ここには共同で自分たちがよいと思うものだけを作り上げる職人魂が十分につまっている。その中に私たち聞き手も誘われて、いつのまにか手拍子を鳴らす。曲のクレジットで手拍子がAllと書いてあるのは、単なるデータではない。それはみなが手をたたき、ともにあることの歓びの伝え合うための記録なのだ。このアルバムはテデスキトラックスの「歓喜の歌」だ。

DRM_cover_email-1024x1024.jpg ジャケットの中心には、Dave Rawlingsと、その音楽パートナーGillian Welchが写っている。ソロ名義になってはいるが、全曲とも二人の共作である。またGillian Welch名義のソロアルバムでも、ジャケットには二人のイラストが描かれ、Daveが全曲に参加している。どちらがメインヴォーカルをとっているかの違いだけで、デュオの作品と言える。実際アルバムのクレジットはback vocalではなく、単にvocalと記されている。

 音の作りも変わらない。主に2人のヴォーカルと、ギター、ベース、マンドリン、フィドル、マンドリンそしてドラムという最小限の構成である。ただ今回のアルバムでは3曲にストリングスが入っている。

 使われている楽器からすれば、カントリー、ブルーグラスと分類したくなるが、少なくとも単純に陽気な曲はない。またノスタルジックなところはあるものの、懐古的な雰囲気はみじんもなくはなく、たとえゆったりしたテンポでも、張りつめた緊張感が、アコースティックギターの弦の金属の響きから伝わってくる。

 彼らの魅力は、ゆっくりしたテンポのなかで、音がひとつひとつきわだちながら、やがてひとつの旋律をなめらかに奏でていくところにある。

 たとえば1曲目The Weekendの2分30秒過ぎのギターによる間奏。早弾きすることは決してないのだが、弦が跳ねながらもメロディアスな旋律を奏でてゆく。やや哀切を帯びたそのメロディは、だからといって湿っぽくはならず、一音一音をはっきりと聞かせる。

 2曲目Short Haired Woman Bluesも、アコースティック・ギターの前奏から始まる。この曲は、彼らの曲調には珍しく、かなりストリングスが導入されている。

 3曲目は11分近くもあるThe Trip。ここでの歌は朗読詩に近く、寄る辺ない旅が語られる。モノクロの映画の画面で、人々が南へ向う列車に乗り込む姿、男の擦り切れたブーツ、そして年老いた黒人男性の表情、それらがすべて風景の中に溶け込み、つづられてゆく。

 4曲目はドラムもベースもなく、ギターの弾き語りで歌われる。エコーのかけ方、そしてミシシッピーへの言及が、ボブ・ディランのMississippiを少し想起させる。ただタイトルがBodysnatchers(墓堀泥棒)というように、こちらの曲はずっとディープではあるが...

 5曲目と6曲目は、このアルバムのなかではスタンダードなカントリーナンバーで、ほっとできる。そしてラストのPilgrimはボブ・ディランのOne of Us Must Know(sooner or later)を彷彿とさせる、少しワイルドな歌い方。そして、ラスト近くKeep rollin'のフレーズはザ・バンドとヴァン・モリソンのかけあいをも思わせる。

 7曲とアルバムにしてはちょっと物足りない曲数だが、どの曲もGillian Welchのアルバムと同様、実に丁寧に作られている。ギターの一音一音に気を配り、絶妙な間を取り、ヴォーカルのハーモニーもどちらかが主張することはなく、まさに「調和」している。職人というにふさわしいできばえのアルバムだ。

Pops_Staples.jpg ステイプル・シンガーズの娘たちの父親ポップス・ステイプルズの最後の録音が死後にアルバムとして発表された。ステイプル・シンガーズはゴスペルを下敷きとしながらも、ブルースの音色やポップスにきらびやかさをまとって、彼ら固有のアメリカの音楽を創造した。さらには公民権運動に呼応して、プロテスト・ソングを作曲する。彼らの音楽が時代が流れても聞かれ続けているのは、オリジナリティがあってもひとりよがりではなく親しみやすさがあること、プロテストと言っても体制への反抗とともに、彼らが訴えたのは自らに尊厳を持つことという普遍性があったこと、その2点が大きいと思う。

 歌を歌う娘たちこそがこのグループの華であるが、実は音楽的創造性という意味でこの娘を支え続けたのが父親ポップスであったことを、このアルバムを聞いてあらためて思った。ポップスは1914年生まれ。ということは黒人として音楽に携わるということは、黒人霊歌などあくまで伝統の世界で生きることを意味したはずだ。だがエレクトリック・ギターをかかえた姿からは、一人の音楽家としての人生が浮かび上がる。

 このアルバムの歌とギターは、1998年、死の2年前に録音されたものである。ポップスが84歳の録音である。おそらく死が遠くないことを意識して録音をしたのだろうが、まるで音楽自体が一人の音楽人生を歩んできた老人を通して生まれてきたかのようである。力むところはいささかもなく、十分に艶のある声である。

 本人に発表の意志があったのかどうか、またどのように吹き込まれた曲を完成させようとしていたのかはわからない。ただ彼は娘メイヴィスに«Don't Lose This»と言って歌とギターの演奏だけのカセットテープを渡した。それを聞いたメイヴィスは、この演奏に何かを付け足す必要があると感じる。それは、ブルースとゴルペルスピリッツを感じさせながらも、ひとつのポピュラー音楽として作品化することを考えたのではなかったか。

 そこでメイヴィスは、ウィルコのジェフ・トゥイーディにアルバム制作を依頼する。このジェフの仕事が素晴らしい。デモ録音にたいして、すき間を埋めるような音作りはしない。どの曲にも絶妙な間合いがあって、その音とすき間が、アーシーなリズムを作る。ミシシッピーの川をゆっくりとうねりながらくだっていくような粘り強さを作り上げる。

 そして随所に入る娘たちのバック・ヴォーカル。あたかも同時に録音しているかのように、それぞれの声が生命力を持って響いてくる。父親の声が、娘たちの声によって命を吹き込まれたかのように。

 死者の気持ちや意志を汲み取ることは難しい。ポップスがこれらの曲を吹き込んだときに、どんな気持ちでいたのか、どうしたかったのか、それは推し量るしかない。だが一方で、本人自身、どう作品にしたらよいのか、つかみかねていたかもしれない。本人も、どのように完成に持っていってよいのか見えていなかった音のかけらである。

 トゥイーディは、未然のままの音を音楽にすることに取り組む。おそらくポップス自身も意識できていなかった音の形、それを最小限の脚色によって明確にした。

Staple_Singers.jpg 名盤であることはわかっていても、確認作業として聞くのではなく、新鮮な出会いとしてはたしてどれだけ聞けているだろうか。世の中で名盤と言われるものをひとしきり聞いてみることは勉強にはなるかもしれないが、音楽自体との出会いに感動して、音楽そのものを体感できるかは、世間の評価とはまったく別だ。たくさん音楽を聞いているからといって、そうした体験がいつもやってくるわけではない。

 最近になって、突然虜になってしまったのがこのアルバムだ。70年代初頭のソウルが持っていた社会的な運動を、Respect Yourselfというタイトルほど象徴するものはない。だが、このアルバムの面白さは、さまざまな音楽ジャンルが融合していることだろう。本人たちのバックボーンであるゴスペルサウンドを基調としながらも、ブルース、ソウル、ファンク、ロックそしてレゲエまでいろんな音が混じり合って強い力動感を生んでいる。このアルバムは、黒人による黒人のための音楽ではない。人間の解放という願いを持ったときに、万人が表現しうる音楽がこのアルバムには満ちあふれている。

 そしてこのアルバムがマスル・ショールズで白人ミュージシャンを起用していると知ったとき、このアルバムが、黒人的伝統に根ざすだけではなく、同時代の音楽と呼応しようとする高い志のもとに作られていると思った。

 とにかくリズムがタイトである。Respect Yourselfの地を這うようなリズムは切れのよいドラムワーク(特にスネアの音)と、冷静なベースのリズム進行によるものだ。怒りに任せるようなことはまるでなく、淡々としているが、同じリズムを聞いているうちに、じわじわと「自分を尊ぶ」という意味の重さが伝わってくる。

 その後に続く、Name The Missing Wordは、ポップなストリングスから始まるが、すぐに転調して、アーシーな雰囲気に、メイヴィスのヴォーカルが重ねられる。このポップさとアーシーさが交互に展開する、このアルバムの幅広さを表現している曲だ。

 そしてI'll Take You ThereとAre You Sure?はレゲエの色調の曲。ゆったりとしたメロディにユーモアさえ感じるこの曲を聞くと、脅迫的で強制されたメッセージでは決して世の中は変わらないとひしひしと感じる。メイヴィスを始めとする歌い手の寛容さ、度量の広さを感じる素晴らしい曲だ。

 ゴスペル音楽も、そのまま演じられるのではない。例えばThis Old Townは、リズムもアップテンポでご機嫌な曲だが、だが、その繰り返されるリズム、そしてそれに乗せて、だんだん高揚していくヴォーカルの熱はまさにゴスペルを彷彿とさせる。教会という場所に縛られない、誰であっても思わず踊りたくなるような、ご機嫌なゴスペルである。

 ステイプル・シスターズ、そしてグループを統括するお父さんも、黒人文化の土壌の中で鍛えられたプロである。だが、彼らが素晴らしいのは、仲間内の閉じていないことだ。音楽のもつ最大限の可能性を持って音楽を作る続けたことだ。それは60年代のライブなどを聞くとよくわかる。その場にいる信仰者に向けての音楽。だが、このアルバムの音楽はそうしたものではない。宗教や人種を越えて、ひろく希望を掲げるあらゆる人に呼びかけられた音楽なのだ。高揚感とは、人々の出自を問題にせず、人々に呼びかけるための人間的感情だ。

新川忠_Paintings.jpg この作品に描かれる世界は、透かしガラスを通してスケッチされたような印象。もう決して実物に触れることはできず、鏡に映った表情だけしか私たちには届かない。その憧憬とノスタルジーが控えめに音楽を流れている。

 シンセサイザーの音が丁寧に重ねられ、奥行きのある世界が造形される。しかし重苦しい感じはまったくなく、軽やかで心地よい。

もっと近くで見つめていたい
柔らかな髪に指すべらせて     「アイリス」

 たとえば、こんな透明な距離感が、このアルバムの風通しのよさを象徴している。

 基本的には内向的なアルバムだ。それぞれの歌の主人公は、彷徨っていたり、漂っていたり、あるいは立ち尽くしているだけだ。ただそこから、ずっと広がる世界を見つめる視線の可能性がある。

果てなくつづいてゆく
空に舞う鳥を見つめ     「ハワースの荒野」
 
ここから始まる 君のすべては
眺めのいいこの部屋で     「眺めのいい部屋」

 そしてタイトルにも使われている「光」の淡さ。輝くような明度はなく、音の中に静かに吸収されていくような淡さである。夜明けの光(「渚」)、霞む風景(「霧の中の白」)、黄昏の光(「ハワースの荒野」)、そして木漏れ日(「眺めのいい部屋」)。たとえ降り注ぐ光があったとしても、それはもはや遠い過去の記憶の風景として、淡いシルエットになってしまっている(「シルエット」)。

 基本的にはどの曲もたゆたうような色調で、リズムというよりも、ゆっくりとしたうねりがよせては返すような印象を受ける。とはいえ、決して感傷的なムード音楽には流れていない。たとえば次のような言葉の音と連なりが、きちんとしたリズムを刻んでいる。

吹き荒れる/西風の
ざわめきも/聞こえない
張りつめた/眼差しで
閉ざされた/心の扉を叩く

 こうした同じ音の連なりによって、曲に適度な張りが生まれ、私たちに爽やかな緊張感を与えてくれる。

 今回のアルバムは10年ぶりに作られた3枚目の作品ということだが、どの曲も本当に丁寧に作られている。歌詞のひとつひとつ、シンセサイザーの一音一音が丁寧に選び抜かれている。もうこの音しかないというぎりぎりのところまでつきつめた厳しい職人技だからこそ、逆に柔らかく包み込むよううな優しい音の世界を創造できたのだろう。

Derek_Songlines.jpg ロックに惹かれる理由は、結局のところロックというジャンルが曖昧で、雑食であることにつきている。クラシックでもジャズでも民族音楽でも、ロックっぽく演奏することができる。その意味でさまざまなジャンルの音楽を浸食してしまうのがロック。でも何でもありだからといってそれでよい音楽ができるわけではない。ロックミュージシャンの優れた人は多かれ少なかれ、優れた探究者でもあった。

 今のロックの世界でその探究を最もどん欲に進めているのがデレク・トラックスではないだろうか。そしてそのロックの探究を頭でっかちではなく、あくまでも心地よい喜びの生まれる音楽として実現したのがこのSonglinesである。このアルバムではジャズ、ソウル、宗教音楽、民謡、さまざまな伝統を持つ音楽が、デレクによって解釈され、演奏されている。他人の曲でありながら、そしてライブでもないのに、とても生き生き感じられるのは、まさにかれらがジャム・バンドであり、メンバーのやり取りを通して音楽が今ここで生まれているからだろう。

 1曲目はローランド・カークの曲だが、まずタンバリンから入り、パーカッションが重ねられた後、デレクのスライドが切り込んでくる。そしてかなり黒いコーラスがアルバムの開始を告げる。そして、ドラムの一打で次の曲へと移る流れが心地よい。この2曲目はデレクとプロデューサーとの共作。曲の間で、ドラムがリズムを刻みながら、キーボードが全面に出て、ワンクッションあいた後にギターのソロが始まるところなど、バンドの一体感を生き生きと感じる。

 3曲目はブルースナンバー。4曲目はイスラム宗教音楽のヌスラット・ファテ・アリカーンの曲のメドレー。10分近く続くインストゥルメンタルの曲なのだが、この曲こそ、アルバムの中でもっとも挑戦的で志の高いデレクの演奏が堪能できる。最初のシタールようなギターの演奏から始まり、1つのフレーズが、変奏されながら、バックのドラム、コンガと呼応する。フルートの音色もまざり、演奏が次第に熱を帯びてくる。そして最後は熱狂的なリズムへと変調し、ゴスペルにも似た密度の高い演奏へと、ハンドクラップとともに一気に上り詰めていく。この曲は実際にはロックには聞こえないかもしれない。しかしイスラムやインドという地域に限定された音楽ではなく、音楽そのものが普遍的にもつ高揚感を実現しているところにロックのスピリットをひしひしと感じるのだ。この解釈はアルバムの一つの到達点と考えてよい。

 5曲目は、スライドギターによるディープなブルースナンバー。タジ・マハールが演奏する同曲のファンキーなブルースの熱気をここにも感じるが、こちらはずっとアコースティックな演奏。6曲目は、レゲエを下敷きにした軽快な曲で少しここでリラックスできる。そしてタイトな演奏のオリジナルの7曲目へと続く。8曲目はソウル歌手O.V.ライトの曲だが、ワウワウとエコーを効かせた面白い処理をしている。9曲目はオリジナルの楽曲。10曲目もオリジナルで、モロッコの民族音楽を意識したインストゥルメンタルだが、その音調をギターでしっかりと再現しているところが面白い。11曲目はグリーンスリーヴスの解釈だが、デレクの超絶ギターテクニックが堪能できる。12曲目はソロモン・バークのカバーだが、軽快な乗りで、デレク・トラックスがライブバンドであることを強く印象づける。とりわけマイク・マッチソンのヴォーカルが素晴らしい。そしてアルバムの最後はそのマイク・マッチソンの曲This Sky。やはり中近東風のギターフレーズが繰り返されながら、fly fly awayと歌われるように、だんだん空へと上がっていく開放感のある曲。

 デレクがこのアルバムを制作したとき、まだ27歳であった。すでに十分なキャリアを持ちながら、さらに自分のギターの表現の可能性をとことんまで突き詰めた意欲的な作品である。この創造へのどん欲さこそロックだと呼びたい。

the_jerry_ragovoy_story.jpg 60年代東海岸でソウル音楽のプロデューサー、作曲家として活躍したジェリー・ラゴヴォイの作品集である。タイトルに1953ー2003とあるように、その仕事は60年代だけではなく、20世紀後半の実に50年にわたっている。

 有名な曲としてはローリング・ストーンズ、アーマ・トーマスがカバーしたTime is on my side。このアルバムにはオリジナルの、トロンボーン奏者Kai Windingによる演奏が収められている。トロンボーンがそこはかとない哀愁を漂わせるが、ヴォーカルの入ったヴァージョンの方がソウル音楽の黒さを感じさせる。

 ジャニス・ジョプリンがカバーしたCry baby。オリジナルはGarnet Mimms & The Enchantersで、63年に発表されビルボードチャート4位、R&Bチャートでは1位とヒットしている。ラゴヴォイはバート・バーンズと多くの仕事をしているが、これが最初期のもの。

 そして、誰でもが一度は耳にしたことがあるであろう。Pata Pata。この曲は、歌い手であるMiriam Makebaのアフリカン・フォークに、ラゴヴォイがアメリカン・バラードの雰囲気を脚色したダンスナンバー。

 他にもGood Lovin'など、多くのカバー曲をもつラゴヴォイの仕事は、ソウルやブルーズそしてアカペラなどの黒人文化の音楽を、決して黒人だけのものではなく、その音楽自体のもつ魅力に親しみやすさを与えて、商業ベースにのせたことにあるだろう。

 特に彼が得意にしたのは、ミディアム・テンポで少し哀愁を漂わせながらも、さびで一気に歌い上げる作風ではないだろうか。ジャニス・ジョプリンの歌い方もまさにそんな感じだが、Carl Hallという女性ソウル歌手も、多少ハスキーな声をもつが、泥臭くはない。スローなところの情感とさびでのシャウトの対照が実に見事で、魅力的な歌手だ。彼女の歌うYou don't Know Nothing About Loveは、この作品集の中でももっとも聞かせる一曲である。ちなみにここには収められていないが、この曲は、ラゴヴォイがプロデュースしたHoward Tateの同名アルバムにも収められてる。

 Howard Tateとラゴヴォイの付き合いは長く、この作品集にも3曲と一番多く収められている。64年のYou're Looking Good、72年のアルバム制作後の74年のシングルAin't Got Nobody To GIve It To、そして、歌手をやめ、不遇な環境に身を落とし、辛酸をなめるような生活をずっとしていたTateに、ラゴヴォイがプロデューサーとして手を差し伸べたかのような2003年の復帰アルバムから、60年代の曲の再録Get it while you can。この曲が作品集の最後に収められている。若い頃の力強い歌い方ではなく、むしろ淡々を歌われるだけに、二人の歩んできた人生の道のりを感じさせ、胸をうつ好演である。

Tété, Homebrew52 (2014)

homebrew_52.jpg わずか4曲のミニ・アルバムだが、どの曲もテテにとってはとても大切な曲なのだろう。テテの音楽の魅力のひとつは「フランスらしくない」こと。もっと言えば「どこでもない」場所から生まれてくるのがテテの音楽。街路でも、カフェでも、場所など関係なく歌っていたからこそ、テテの曲にはどこにも属さない自由さがある。そしてさまざまな音楽を屈託なく取り込んでいくどん欲さがある。

 このどん欲さは、たとえば彼のカバー曲のレパートリーの広さにも伺える。ビートルズやボブ・マーリーのカバーといった、彼の音楽の源をまっすぐに感じさせる選曲から、今回のジョーン・ジェットという意表をつくレパートリーまで実に幅広い。このどん欲さは、音楽を純粋に楽しむ彼の心の素直さと言い換えることができるだろう。

 テテがどこでもない場所にいるという意味は、彼が常に旅をしているということでもある。だからフランスに根を降ろした音楽でも、アフリカにルーツを持つ音楽でもない。今回は英語で歌っているが、たとえフランス語で歌ったとしても、言葉によってテテの音楽は左右されないだろう。

 今回のアルバムはあくまでもデモ録音のものだ。でも、それだからいっそうテテのギターの強いタッチが楽しめる。おそらくずっとテテは、こんなふうに、アンプがなくても、街中に、魅力的なギターを響かせてきたのだろう。

may.e, 私生活(2013)

shiseikatsu.jpg 懐かしい親しさがするアルバムだ。といってもどこかで聞いたことがある音楽という意味とは少し違う。確かにこの音源を初めて聞いたとき、真っ先にトレーシー・ソーンの『遠い渚』を思い出した。でもそんな過去の音楽を引き合いに出さなくても、何かどこか、懐かしく、そして親しい。

 それはどこからくるのだろう。この音楽を聞いていると、曲になるまでの雰囲気が何となく伝わってくる。まずはアーティストに対する親しさ。ふと曲の一節が浮かんできて、それを口ずさんだとき、もう少し歌ってみたい、声を伸ばしてみたいという感覚。楽器に触れたら音が鳴って、それをもう少し鳴らし続けてみたいという感覚。そんな素直な衝動が伝わってくる。

 そして印象的なリフレイン。シンガー・ソングライターの特質でもある、少ないコードを繰り返しながら、歌のメロディを乗せていく手法は、簡素ではあるが、私たちにとって何かなじみ深い印象を与える。

 たとえば「おちた生活」は、まるで眠りにおちる直前に聞こえてくる子守唄のように、美しい声の音色を聞かせるだけだ。でもそれが懐かしい感覚を呼び覚ます。

 歌詞は、同じメロディに、短いことばが置かれて、ことば同士が強く結びあわされる。

丸い空気 愛でていて
広い両手 あなた               (あなた)

 そして深いエコーがかけられた声が美しい。特に短い単語の母音を伸ばす歌い方は、日本語の母音の持つ、まろやかさをうまく使っている。

何よりも優しい 何よりも柔らか
声 肌 髪               (おいで)

 最後の三文字の母音、「エ」、「ア」、「イ」の音がとても印象的だ。あなたの声や肌や髪の優しさや柔らかさの親しい感触を、母音がもたらす優しい柔らかい音色で私たちも体感する。

 この母音の音色は、このアルバムのおぼろげで、少し憂いがあって、ドリーミィでもある空気を作るのに実に効果的である。

優雅 眠れば 消えてしまいそう
→ ゆぅうが ねむれば きえぇてしまいそう
確か なぞれば すぐに止む
→ たぁあしか なぞれば すぐにやぁあむ
目を閉じれば ついこぼれて
→ めぇえを とぉじぃれぇばぁ つぅい こぼぉれて
波寄せるまで そっと待つ
→ なぁみ よせぇるまで そうっと まぁつ  (スリープ)

 文字に起こすとちょっと変だが、このたゆたうような歌い方が、エコーの深さをとあいまって、私たちを夢幻の境地へといざなってくれる。

 アルバムとしての完成度も高いと思うのは、ダウンロード音源の最後の3曲の構成の素晴らしさだ。「スリープ」の出だしのギターの音は少し力強く、多少ロマンティックで、終わりが近づいてきた予感にうたれる。「浜においてきて」は、このアルバムの中では、感情の起伏が大きい曲だ。ただ感情は乱れることなく、音程の起伏へと昇華される。最後の「いつか どうか 何も言えない」の最後で、感情の糸が切れてしまうかのように、高音になり、ふっつりと一瞬、声が消える。そして最後の「モユルイ」は、ギターの音数も少なくなり、メロディは私たちをゆっくり揺らす。

 作品全体に靄がかかったような空気は、おぼろげで、あいまいで、親しげで、懐かしい。創作というよりもむしろ一つの記録と言ったほうがよいかもしれない。アーティストの日記のようなものかもしれない。しかし、プライベートな生活空間で生まれた叙情詩は、私たちにとってきわめて親密なノスタルジーの情をもたらしてくれる。

Ben Watt, Hendra (2014)

hendra.jpg 気負うところのみじんもない作品だ。アコースティックギターを手に取ると、自然にメロディが流れてくる。その旋律にあわせて、仲間たちが、他の音をあわせてくれる。意気投合した彼らと一緒に演奏しているうちに、曲が完成し、そしてひとつの作品にまとめられた。音と音の調和と距離に、ミュージシャンたちの絶妙なバランスと関係を感じる。アルバムテイクとボーナスで収められたデモの差は歴然としている。

 10曲のうち、ベン・ワット一人で演奏している、5曲目のMatthew Arnold's Fieldsを除いては、他のミュージシャンが参加している。彼らの音作りが曲の発想に、十分な具体的な形を与えている。少し歪んだエレクトリック・ギター、アコースティックな印象を支えるアップライト・ベース、そして軽くリズムを刻み、軽快さを与えてくれるコンガ。

 たとえば4曲目のGolden Ratio。最初のアコースティックギターの音色は一瞬『ノース・マリン・ドライブ』かと思わせるが、その後にエレクトリックなギターの歪み音とベース音の生な音、そしてコンガのリズムが、メロディとテンポを練り上げ、ずっと熟成し、深みのある曲に仕上げている。

 確かに全体の印象はメランコリックであるが、その雰囲気と折り重なるように、感じるのは落ち着きや穏やかさである。そこには、50を過ぎて、感情の起伏にまかせて表現しなくとも、自分の納得できる音楽を作ることができるという、現在の境地があるのではないか。

Can you name a great fighter over forty-nine ? (Young Man's Game)

 人生も半ばを過ぎて、さすがに若いとは言えなくなっている。とはいえ老いるにはまだ早すぎる。時を経て、何かを過剰に意識することなく、自分に自然に向き合う準備=距離を持って向き合う準備が始まったのではないか。そんな態度で音楽を奏でようとすると、少し憂いを帯びた、少し枯れた音になるだろう。

 でもこのアルバムにはさまざまな若さがある。

 たとえば「シングル・カット」という表現がすぐに浮かぶようなSpring。ベン・ワットのシンプルなピアノの音が美しい。ベン・ワットの落ち着いた声が優しい。

My love, it's real
My love, it's not over (Spring)

 と歌われる、始まりの歌。And you can be one who shinesの歌詞のベン・ワットの高い声でshinesをのばす歌い方、ロバート・ワイアットをも思い起こさせて本当に切なくなるほど素敵な歌だ。

 そしてラストのThe Heart Is A Mirrorは、心の逡巡を描いている歌だと思うが、それは傷つきやすさではなく、悩みを抱えながらも、今を受け止めようとする決意へ至る逡巡だ。

So, come on my heart, where do we start ? (The Heart Is A Mirror)

 こんな心への向き合い方に、ベン・ワットらしさを感じる。

「ノスタルジック」は、耳に届いてくる、全体の曲調の穏やかさや澄明さにもあるが、こうした心の躊躇いを描くことのできるベン・ワットという人の音楽表現そのものの精神性にあると言えるかもしれない。

Beck, Morning Phase (2014)

morning_phase.jpg 音がゆっくりと光の粉末のように舞っている。その光は確かに朝の光なのだが、その粒子にはまだ夜の余韻や、嵐の跡が残っている。あるいは深い海に落ち損ねた光がまだ波のまにまに漂いながらも、ときおりきらきらと姿を見せる。

 朝霧が聞いている者をゆっくりと包んでゆく。だが朝のイメージが波のイメージと重なって、空気に包まれているようでいて、いつしか漂いながらも、海の底へと落ちてゆく。

And If I surrender
And I don't fight this wave
I won't go under
I'll only get carried away

Wave


Wave





Isolation



Isolation


Isolation

Isolation


 
<Wave>

 ただ波に運ばれているようでいて、それでもいつしか波にのまれて、孤独の淵に落ちてゆく。

 アコースティックの弦の響きと、深いエコー処理。円弧を描くかのように全体をゆったりと包むストリングス。ひとつひとつの音が粒となって、ときに跳ねて、漂い、やがて消えてゆく。音を聞いているようでいて、実は音の消失の時間に立ち会っているかのようだ。最後の曲はまさに喪失の曲だ。長い夜が終わり朝が来る。でも光と同時に消えてゆくものがある。夢も記憶も、新しい朝が来て、過去へと置き去りにされる。

When the memory leaves you
Somewhere you can't make it home
When the morning comes to meet you
Lay me down in waking light

<Waking Light>

 朝の光の中で記憶を失ってもはや漂うしかない。光は目覚める。しかし私は身を横たえ、記憶を失ってゆく。

 このアルバムは、もう戻っては来れないほど遠いところまで行ってしまった人間が、何とかこの世に戻ってきて、常人のふりをして作ったアルバムという印象を受ける。質の高い創造性は、音を作り込むという常軌を逸した執着と、音を空間にきちんと構成するという冷静さの両者が共にあって発揮される。

 インストゥルメンタルの短い曲から始まり、Waveでストリングスが強く奏でられA面が終わる。次のDon't Let It Goの控えめなアコースティックギターがB面の開始を告げる。そして最後のWaking Lightでは、このアルバムで初めてノイズの音が渦巻き、アルバムが終わる。これほど見事が構成をもったアルバムはなかなかない。

 もう若くはないが、それでも今を生きる音楽人として、いや、これまでの創作活動があったからこそ、その歩みによってここまでの完成度に達したのではないかという気がする。人生の深みと音楽の深みが呼応する傑作だ。

youth.jpg 1曲目のタイトルは「レクイエム」。「人は死んだらここから消えて何処へ行くんだろう」のことばから始まる。ヴォーカル&ギターの吉村秀樹が亡くなって、この作品が生前最後のアルバムになってしまった。

 とはいえ、この1曲目は、歯切れのよいドラムから始まり、その勢いのまま、一気にバンドの音となってゆく。まさに「青春」にふさわしい瑞々しさにあふれた一曲だ。

 2曲目「コリないメンメン」では、リズムギターから始まり、そこにもう1本のギターが重ねられる。電気で増幅されたギターの音のうねりが素晴らしい。途中ブレークも入れられ、パンク魂を感じる一曲。

 3曲目「デストロイヤー」は、吉村秀樹のかき鳴らすギターの音が激しく耳に打ち付けられる。そして、中盤(2分40秒過ぎです)、田淵ひさ子の、彼女にしか出せないような、唸りながらどこまでも増幅するノイズギターの音が空間に充満する。

 4曲目「ディストーション」は、ライブそのままに、ドラムのカウントから始まる。そして終わりも、ひずみまくるギターの余韻が残るなか、再びドラムがカウントをとって、重厚な次曲「サイダー」のイントロへとうつる。観客がウォーと叫びながら、体を揺する姿が目に浮かぶ。

 この「サイダー」は、確かライブで吉村が「よい曲なんだ」と言ってた気がする。愚直なほどストレートで、それでいて切ない「青春」を感じる。最後のギターにあわせて、メンバー全員が楽器を打ち鳴らす数十秒は本当に圧巻だ。

 そしてアルバムの後半はインストゥルメンタルから始まる。後半はさらに澄み渡った音が流れている。8曲目は歌詞に「狂った和音に生ずるビートよ」とある通り、性急なビートに乗せて一気に走ってゆく、潔い作品。続いて3拍子のイントロから始まる「youth パラレルなユニゾン」に移り、だんだん終わりが近づいていることを予期する。そう、ライブでもうラストが近いと感じさせるような曲。ルースターズの後期にも似た高揚感、もはやこちらがその高みについてゆくことができず、あきらめさえも感じて、ただ音に体を投げ出してしまうような高揚感。

 マイナーなメロディが何かを予兆するようなギターのフレーズから始まるラスト曲のタイトルは「アンニュイ」。ライブのアンコールにふさわしい曲だ。アルバムの中で一番短い、4分に満たない曲で、ヴォーカルが入るのはわずか最後の1分半だけ。ギターのハウリングだけが最後に残って、曲が消えてゆく。まるで、「また今度歌うからね」と予告して、ステージを立ち去るかのような短い歌詞。短い歌。

 だが、もう彼がステージに戻ってくることはない。アルバムの最初から最後までを一気に、何度も何度も、彼らのライブに立ち会っているかのように感じながら、このアルバムを聞いている。

Billy Bragg, Tooth & Nail (2013)

tooth_nail.jpg どの曲もゆっくりとしたテンポで、一音一音、一言一言を確かめながら、演奏され、歌われる。ビリー・ブラッグのこれまでの活動を知っている人ならば、少なからず驚くに違いない音の雰囲気だ。

 ビリー・ブラッグは1983年にデビュー。サッチャー首相の就任が79年、フォークランド紛争が82年である。保守化路線をひたすら進むイギリスにおいて、労働者階級のために歌うーそれがビリー・ブラッグのロックだった。

 怒りこそが表現の核であり、歌うべき内容は、社会が貧困や失業という問題をかかえればかかえるほど、無尽蔵に溢れ出す。その抜き差しならぬ状況のなかで、ビリー・ブラッグという人物は単なるミュージシャンではなく、活動家として捉えられる側面を多分に持っていた。革命の旗振り役と言おうか。

 彼の歌は、イギリスの日常、好転する兆しはこれっぽっちもないどころか、泥水を飲まされているかのような最低の、屈辱の日々を過ごさざるをえない人々に寄り添っている。揺るぎない信念と意思ゆえのかたくななまでの歌い方。それがビリー・ブラッグのイメージだった。何枚ものレコードを聞いてよいなあと思った。それでも、そこで歌われる世界が、イギリスの薄暗い日常に根ざしていることが、頭ではわかっていても、心は少しばかり常に遠いところにあって入れこめなかった。

 こうして久しくビリー・ブラッグを聞かなくなっていたが、数年前にビリー・ブラッグがウィルコとウディ・ガスリーのカバー(というか、彼の遺した歌詞にメロディをつけて歌う)を出していることを知り、久しぶりにアルバムを買った。

 そして今回の新譜である。イギリス人であるビリー・ブラッグが、アメリカ人の、それもルーツロックの再評価の立役者であるジョー・ヘンリーをプロデュースに迎え、彼のスタジオでわずか5日間で完成させたとのことである。

 もはや怒りにまかせた歌はない。激しく打ち鳴らすリズムもない。朴訥と歌う50も半ばを過ぎたビリー・ブラッグの声は、しゃがれて、味わい深い。ただ、このアルバムが心に響くのは音の手作り感だけではない。その手作りの暖かさを通じて、ビリー・ブラッグが人間の生そのものに寄り添って歌っていると感じるからだ。

 確かに30年過ぎても何も変節はない。ただ、イギリスの下層階級の人々の生活の苦しみや喘ぎを代弁することから、このアルバムでは、私たちが等しく経験する、愛、他者への思いやり(Do Unto Others)、明日への希望(Tomorrow's Going To Be A Better Day)、別れ、そして死が素直に歌われているのだ。私たちの生を織りなすいくつものテーマがシンプルなことばで、衒いもなく、悟りを得たかのように歌われる。根底は変わらなくとも、生活から生への広がりが、より彼の歌の世界を普遍的なものとして伝えてくれるのだ。

Goodbye to all my friends, the time has come for me to go
Goodbye to all the souls who sailed with me so long
 
友人たちよさようなら そろそろ去るときがきた
ぼくと一緒にこんなに長い航海に出てくれた人たちよ さようなら

 そう歌いだされるGoodbye, Goodbyeは友人たちに別れをつげる歌だ。「コーヒーポットも冷たくなった ジョークもみんな言い尽くした 最後の石は転がっていった」。人生の長い海路も終わりに近づき、私は友人にグッドバイと言う。

 悲しくて優しい歌だ。ゆっくりとしたテンポで、ぬくもりのある弦楽器がかなでるメロディの中、少しだけ苦みのある声でGoodbyeという声が空に響く。落ち着いたベースの音、深みのあるパーカッション、どこまでも繊細なアコースティックギターの音。

 人を優しく包みこんでくれるような音の空間作りが素晴らしい。たとえば2曲目。弦楽器の音が幾重にも重なり、ドラムがゆっくりとリズムを聞かせた後に、歌が始まる。こうした丁寧な音の響きがこのアルバムの特色でもある。

 とはいえ、ビリー・ブラッグの意思は決してひよってはいない。アルバムタイトル『歯と爪』は、歯と爪だけになっても戦い続けるという意味らしい。いかにもビリー・ブラッグだ。そういえばウッディ・ガスリー作詞の曲も一曲収められている。I Ain't Got No Home, 金持ちに家を取られ、妻は死に、自分は町をさまようしかない。哀歌としての民衆の歌を引き継いでゆく、ビリー・ブラッグのかたくなな意思がこの一曲に込められている。

Tété, Nu Là-bas (2013)

nu_la_bas.jpg テテのファーストアルバムL'air de rienに収められたAiséは、彼が初めてフランス語の歌詞で作った曲である。そのなかにこんな一節がある。

Comment veux-tu que l'on aime
Quand on ne sais même
Pas comment se prendre soi-même ?
Moi, je ne suis qu'un trouillard.
 
人はどんなふうに愛せるっていうのさ
自分自身が誰なのかさえ
わかっていないというのに
ぼくは、ぼくは単なる臆病者。

 臆病者だからこそ、自分を隠す。人から身を隠す。テテの出発点はここにあったと思う。歌を歌うことは、決して自分をさらけ出すことではない。このファーストでこそ、アコースティック主体で、自分を歌っている曲もあるが、セカンド以降では、アルバムごとに異なった意匠が施されることになる。セカンドは叙情性、サードは演劇性、そして4枚目は、アメリカのルーツロック、ブルース。それぞれが音楽的にかなり綿密に作りこまれ、サウンドクリエーターとしてのテテの才能がいかんなく発揮されている。

 またセカンド以降のテーマはいずれも旅である。テテにとっての旅は自分探しではない。旅をしながら人に出会うことであり、テテは出会ってきた人について歌にしてきた。と同時に自分については歌うことはなかった。歌詞は韻や言葉遊びに溢れ、語りではなく、詩であった。

 しかし、この新作は違う。もちろん様々な音が作り込まれているが、とてもシンプルなのだ。そして自分についてもきわめてシンプルに語っている。

Guitare au poing
J'appris alors des bars du coin
La corne aux doigts pas à l'égo
L'art de l'esquive et du chapeau
 
ギターを握って
ぼくは覚えた、街角のバーから
指には固いタコ でも心は固くなく
身をかわしたり、帽子にお金を入れてもらうこと

 こうしてテテは自分の過去を「歴史」の一コマとして振り返る。自らを隠すことなく、またさらけ出すのではなく、あくまで登場人物として、落ち着いた目で過去の自分を眺めながら。この大人の視点は、自分の母、父、祖父母、さらにはアメリカの黒人たちへと注がれる。

 そして曲はどこまでも明るい。その明るさは、今まで隠れていた暗い場所から、日ざしの注ぐ明るい場所へ出てきたようだ。

 特に好きな曲はヒューストンだ。ここでは遠い、今は消息もわからなくなってしまった友人が歌われる。

Houston
On t'a perdu
Ici l'Essone
C'est moi Tutu
(...)
Entends l'ami d'antan
Moi seul scellerai ton salut...
Moi seul scellerai ton salut...
 
ヒューストン
みんな君のことを見失ってしまった
ここはエソンヌ
ぼくだよ、チュチュだよ
(...)
聞いてくれ いにしえの友よ
ぼくだけが、君の救いの印となるだろう
ぼくだけが、君の救いの印となるだろう

 過去は決して流れさってはいない。もう会わなくても、会えなくても、でもあのときの友だちは、ずっと友だちで、だからどんな境遇になっていたとしても、救えるのは僕なのだ。そんなテテ本人の優しさに満ちあふれたヒューストンが好きだ。

freewheelin.jpg 中村とうようがライナーで書いているように、このアルバムは、シンガーとしては2枚目だが、ソング・ライター、創作者としてのファーストアルバムである。2曲を除いて全曲オリジナル。

 今あらためて聞くと、プロテスト・ソングやフォーク・ソングという言い方から想像すると肩すかしをくらうようなパフォーマンスが収められている。

 まずは何よりもブルース。例えば、Down The Highwayのギターの鳴らし方、声の延ばし方は、完全なブルースだ。

 全編を貫くディランの声は、20歳そこそこの若者とは思えないほどつぶれている。1920年代の黒人ブルースシンガーが歌っているかのようだ。そういう錯覚をさせる恐ろしさがディランにはある。歌なのか、語りなのか、つぶやきなのか、あるいは唸りなのか区別のつかない声。そして声そのもののざらつき感によって、音楽を楽しみとして受け取ることが拒絶される。

 とはいえ、音楽は政治的なメッセージのためにあるのではない。当時人々がディランをどう受け止めていようとも、そうした限定的な目的に奉仕するためにディランの曲はあるのではない。もしそうならば、とっくにディランの曲に耳を傾けられることはなくなっていただろう。しかしこのあるアルバムが出て50年経った今でも、記録ではなく、パフォーマンスとして聞かれ続けている。

 ディランが時代に影響を与えたというより、本当は時代の思潮を斜めに眺めながら、自分の創作の材料にしたのではないか。自分の溢れ続ける創作意欲を満たすため、反戦の風潮を、あるいはそこにうずまく、怒りや絶望の予兆をうまく自分の曲に取り込んだのではないか。そんな気がしてくる。それが今でも初期のディランが聞き続けられる最大の理由だ。私たちはそこに反戦歌を聞くのではなく、若いディランの激しい表現を聞く。

 他にもフォークソングとはおよそ呼べない理由がある。初期のビートルズやストーンズのロック・アルバムは30分そこそこである。だがディランのこのアルバムは収録時間が50分を超えている。フォーク・ソングが想起させる、シンプルで短い楽曲とは正反対である。そもそもここには6分を超える曲が2曲収められている。その中で「激しい雨が降る」はアルバム屈指の名曲だ。

「激しい雨が降る」は、当時のキューバ危機がもたらした絶望感を歌にしているということだが、歌詞はすでに抽象度が高く、難解を極めている。そして同じ文句が果てしなく続く。第一連はI saw、第二連はI Heard、 第三連はI met、そして第四連はWhere。それは終わりのない連祷のようだ。イメージが奔放に連鎖して流れていく歌詞世界をもつこの曲はディランを代表する一曲だろう。

 プロテストという言葉があまりそぐわないのは例えばDon't think twice, it's all right。「くよくよするなよ」は、とてもよい邦題タイトルだが、これは誰かに向けて声をかけているのではない。自分に「しょうがない、どうしようもない」と言い聞かせている独り言だ。愛する彼女とは別れてしまった。そんな男が思わず自分につぶやかざるをえない、誰にも聞き取られることのないことばが詩となっている。

 ディランのこのアルバムは、単純なレッテルを貼ることをずっと拒否し続けている。時代の空気に飲み込まれることなく、それに対峙しうるほどの強い表現意欲に貫かれている。そんなアルバムをすでにセカンドとして出してしまったディランはやはり恐ろしい。

henshin.jpg このアルバムの初回限定として付いているDVDのスタジオライブが素晴らしい。2人で対面で位置取って演奏をしている。2人の表情には音を「あわせる」ことへの喜びがあふれてる。そんな中で聞こえてくる音楽は、商品へとパッケージ化される前の、加工を免れた音楽だ。

 『表情』に収められているThree Sheepという曲が一番好きだと言ったら、「これはシューゲイザーですよ。先生、やっぱりシューゲイザーが好きなんですね〜」と言われた。「ああそうか。オレの30年間は何も変わっちゃないな」と納得したが、趣味として音楽を聞いている限りは、ずっとシューゲイザーが好きでも誰に何も言われない。一方、演奏する側は、ずっと同じ地点に立ち続けることはさまざまな状況の中でおそらくは許されないことなんだろう。いつまでも「サラバ青春」ではいられない。

 変身。くるくる変わっていくという意味か。今回のアルバムはとてもヴァリエーション豊かだ。だがその豊かさはそれぞれの曲が、何らかの用途にあわせて作られていることと無関係ではない。テルマエ・ロマエのような曲は完全に効果を狙って道具化され、パッケージ化されているような曲だ。そこまで露骨ではなくても、レディメイド感漂う曲が多い。

 シングル「用」や、手がけるプロデューサー「用」、あるいは映画等の演出「用」と、そこまで曲を文脈にあわせなくてはならないのだろうか。

 演奏も元気いいし、ヴォーカルも誰にも取りかえることのできないユニークさ。でも屈折感や向う見ずさは失われてしまっている。風が吹いてない...のか。

 「変身」というより「まだ柔らかな幼虫」、「満月に吠える夜」よりも「世界が終わる夜」に身をひそめたい。

 でもDVDのスタジオライブは素晴らしい。音楽が突き動かす衝動がある。こんなことができる人々はチャットモンチーしかいない。田舎出身のおじさんは、いやだと言われてもいつだってこうした若者を応援し続けるよ。CD買い続けるよ。

coming_from_reality.jpg アメリカの音楽サイトWolfgang's VaultからのメールでRodriguezがアメリカで今も元気に歌っていることを知った。とはいえプロというわけではないらしい。それを知ったのは、実に驚きなのだが、Rodriguezを追ったドキュメンタリー映画がアメリカで公開され、彼のことがさまざまなホームページで語られていたからである。映画のタイトルはSearching For Sugar Man。Sugar Manは、1970年に発表されたファーストアルバムの1曲目。全く売れないまま、その後ほとんど消息不明になっていたRodriguezの40年も前のアルバムが、南アフリカでは、抵抗の象徴として大きな反響をよび、それを知った制作者が、アメリカでSugar ManことRodriguezを探すという映画らしい('Searching for Sugar Man' Spotlights the Musician Rodriguez - NYTimes.com)。

 Rodriguezを初めて聴いたのは、2009年の仏Téléramaのpodcast音楽番組Hors pistesだった。発売当時も話題にならず消えてしまったミュージシャンの2枚のアルバムが、どういうわけかCDで再発になった。番組ではセカンド・アルバムからIt started Out So Niceという曲がかかっていた。かすかに枯れた声とアコースティックギターによる弾き語りの美しい曲。そして控えめにストリングスがアレンジされている。すぐにAmazon.frで2枚のアルバムを注文した。

 ファーストのほうが若干サイケデリックっぽいだろうか。セカンドはぐっと質素で、飾り気のない優しい曲が多い。ポエトリー・リーディングのような曲もある。基本はアコースティックギターと控えめなストリングス。そして朴訥とした声。ジョン・ケールにも似たロマンティックな曲調だが、決して歌い込んだりはしない。あくまでも控えめに語るだけだ。Silver Wordsで歌われている「ああ、あなたに会って、ぼくがどんなに変わったか、わかってもらえたら」というひかえめな希望がこのアルバムを象徴しているように思う。決して声高ではない、ただいつかあなたに聴いてもらえたなら、そんな控えめな希望が、何十年たって、実際に本当になった。

 とりわけ印象的なのはCauseという曲。いきなり「クリスマスの2週間前にオレは仕事を失った」と歌い出される。不運と自虐的ユーモアという意味では、こちらの曲のほうがSugar Manより、Rodriguezにふさわしいかもしれない。ヒットや反響という意味では、きわめて不遇のキャリアだったかもしれない。しかしWolfgang's Vaultのヴィデオで歌っているつい最近のRodriguezの姿は、本当に楽しそうなのだ。ギターを肩からかけ、かるく体をゆすりながら、歌う姿は本当に素敵だ。決してヒットはしないだろう。でも良い音楽は少しずつでもずっと聴き継がれてゆく。いつか彼の3枚目のアルバムを聴きたい。

west.jpg ルシンダ・ウィリアムスのしわがれ声は、人とハーモニーを奏でるような声にはなりえない。呼吸を合わせることはおおよそ困難な異質な声だ。それが彼女の魅力なのは明らかだが、それにしてもWhat ifでの彼女の声のかすれ具合は、尋常ではない。まるで泣いて、泣いて、声も出なくなり、それでもかろうじて絞り出しているかのようだ。hasやhouseなど[h]の呼気はほとんどかすれてしまい、聞いているこちらが苦しくなる。

 What ifは、絶望に沈んでいる人間が、それでも何か頭の中に描こうとしたときに、ふと浮かんでくるような非現実的なイメージが歌われている。娼婦が王女となり、月に雨が降り、花が石に戻り、といったイメージが次々と歌われているだけだ。それは精神的に追いつめられた人間が、唯一残している悲しい想像の自由の世界であり、その悲しみは、これほどまでにつぶれた声でなくては表現しきれないかのようだ。

 次のWrap My Headは9分にも及ぶヘヴィーな曲。捨てた元恋人に対するつぶやきが祈祷のように延々と繰り返される。それにあわせてドラム(ジム・ケルトナー)が激しくリズムを打つ。Unsuffer Meの重々しいギターもほとんど絶望的な気分にさせられる。

「別離」がテーマである。恋人との別れ、母親との死別。愛する人がいなくなってしまったとき、私たちはその愛をどこに向けてよいかわからない。行き場を失った愛は、私の内奥へと向きを変え、自分を傷つける絶望となる。もうだれも助けてはくれない、救ってはくれない、癒してはくれない。その苦しみがルシンダ・ウィリアムのしわがれた声によって伝わってくる。

 歌詞の中の「あなた」と呼びかけられる存在はもはや目の前にいない。「元気?」(Are You Alright ?) と呼びかけるその相手が、今、どこで、どんな暮らしをしているのか知ることもできない。「愛してるわ」(Mama You Sweet)と呼びかける母親はもはや決してことばを返してくれることはない。そんな行き先を失ったyouへ向けられたとてもパーソナルなアルバムだ。

 それでもwestには、不在を抱えながら歩こうとしている毅然としたルシンダの姿を見いだすことができる。不在の中から生き方を学ぶと歌うLearning How To Live。表現者として言葉を手放すことはないと信じるWordsなど、決して表現を失うことなく、むしろ喪失に言葉を与えるしたたかな試みがこのアルバムにはある。ジャケットのルシンダは屹然と見えない先を睨んでいる。

 大傑作という称号はCar Wheels On A Grave Roadにふさわしいが、Westは、どんな人生であっても感情を殺してでさえ、その人生を厳しく見つめ直し、生きることを選択しなくてはならないと強い意志を投げかけてくるという意味で、私たちが対峙しなくてはならない、心の中に石を抱かせるようなアルバムだ。

the_great_puzzle.jpg マシュー・スィートを教えてくれた大学時代の先輩が、「これもきっと気に入るはず」と教えてくれたのが、ジュールズ・シアー。しかも「アンプラグドのCD付きが限定盤で出ているから急げ」とも。このアルバムが出たのが92年。ということは27歳のときに、まだこんな青臭い音楽を必死に追いかけていたことになる(それからさらに20年経った今でも結局追いかけ続けているのだが)。

 鼻がつまった、特に高音で息ができず、苦しそうに絞り上げるような歌い方が好きだ。そんな声を美しいと感じられるのだから、ロックは楽しい。そしてメロディがこよなく甘い。70年代からコンスタントに活動し、美しい旋律の曲を多くかいてきているのに、どうもアレンジで失敗していたように思う。装飾過剰な色の濃いアレンジが原曲のあわい妙味をかき消してしまっているのだ。

 しかしこのアルバムはセールス的には怪しいが、ジュールズ起死回生の名盤である。楽器それぞれの生音を大事にしつつも、メリハリの効いたタイトな音で仕上げられている。メロウさと骨太さがうまく調和した傑作だ。

 1曲目はハードなエレキギターのリフから始まりながら、ジョニー・マーのような繊細なアコースティックギターにのって軽やかに雰囲気が転調する。サビのメロディも本当に甘酸っぱい、アルバム全体を見事に予告するナンバー。2曲目は明るめなメロディに、少しささやくような歌い方がとてもよく調和した落ち着いた曲。
 
 アレンジさえはまれば曲のクオリティの高さが前面に出る。6曲目のMake Believeなど少しマイナーな音調から始まり、サビの部分で一気にせつなさが押し寄せるジュールズの真骨頂と言える展開。また9曲目のように、ハーモニーをうまく効かせたしゃれた小曲もある。

 そしてラストはアコギ1本の弾き語り。実はこの弾き語りこそ、ジュールズ・シアーの曲の良さを十分に引き出してくれると言える。おまけにつけられたCDには弾き語りで歌われた曲が8曲収められている。その8曲はジュールズ・シアーのキャリアを辿るように選ばれている。

1. Following Every Finger
- Jules & Polar Bearsのファーストから
2. Alle Through The Night   
- トッド・ラングレンがプロデュースしたWatchdogに収められ、シンディ・ローパーが取り上げた曲。なおトッドは例によってオーバープロデュースでわざと売れなくさせているのではないかとかんぐりたくなる。
3. Whispering Your Name    
- 同じくWatchdogから。
4. If She Knew What She Wants
- バングルスのバージョンでおなじみ。本人のテイクはEternal Returnに収録
5. If We Never Meet Again
- 彼が新たに組んだバンドReckless Sleepersのアルバムに収録。トミー・コーンウェル、ロジャー・マッギンがカバー。
6. Jewel In A Cobweb
- グレート・パズル収録
7. The Sad Sound Of The Wind
- グレート・パズル収録
8. Never Again Or Forever
- リック・ダンコとの共作。イェイ!

 と成功(大成功はないが)も、失敗も、もろもろ含めて、ジュールズ・シアーのこれまでの多岐に渡る活動とコンスタントに良い曲をかいていたことを証明する選曲である。

 95年ジュールズ・シアーの来日コンサートは全曲弾き語りであった。しかもあの独特の弾き方は他にみたことがない。左利きの彼は、右手で弦を押さえるのだが、なんと親指だけで上から押さえて、その親指と、弦を弾く左手を器用に動かしながら音階を調節しているのだ。そう、単に美しいだけではなく、なんとなく不思議なのが、ジュールズ・シアーの魅力だ。

 その後もコンスタントにアルバムを出すものの、どれもそれほど当たったわけではない(そういえばMTVの司会もやっていたな...)。数年前に出したアルバムは買っていないが、どうやらまたまたプロデューサーの選択に失敗したらしい。どこまでいっても小さな失敗がやむことのない愛すべきミュージシャンである(そういえば昔バウスシアターで『まだ天国じゃないの?』という映画を観たが、その主人公のような平凡な失敗の人生が重なる)。

Harrow_and_Harvest-thumb-150x150-375.jpg 一音一音、丁寧に織り込まれたかのような手作り感のする作品である。実際、アルバム・カバーからして、職人が手仕事で版を作って、凹凸印刷した素晴らしいもの。アルバムタイトルも「馬鍬と収穫」。地道な労働によってこそもたらされる収穫物。それがこのアルバムに収められた10曲だ。

 演奏しているのは2人。男女のヴォーカルと、それぞれのギター、バンジョー、ハーモニカ、そして手拍子、足拍子だけである。そんなわずかな音だけなのに、ふくよかな世界が描かれる。

 1曲目Scarlet Townは、少しブリティッシュフォークロック風味のする憂いを帯びた弾き語りから始まり、Gillianの力強い歌が加わる。そしてその声に寄りそうかのようにDavidの声が加わる。2曲目は、Take me and love me if you want meと相手への問いかけから始まる、心に孤独の暗い影をかかえた女の子の話。3曲目The Way It Goesは最初から2人で歌われる、声の重なりがきわめて美しい曲。

 4曲目でようやく曲調が多少アップテンポになるが、5曲目Tennesseeでは元のテンポに。Now let me go, my honey oh... Back to Tennesseeのサビの部分がいかにももの悲しい。

 そして6曲目Down Along The Dixie Lineはさらにゆっくりとメロディが流れる。3分過ぎたあたりのギターの間奏部分が特に美しい。繊細で壊れやすいマイナーな雰囲気を感じさせながら、徐々に音階を上げながらつまびかれるメロディラインがきわめて印象的だ。深い確信を持って歌われるヴォーカルと、それを支える繊細なギターが自然に調和している完成度の高い曲。

 7曲目Six White Horsesはハーモニカとバンジョーで始まる、シンプルだけれど、アメリカのルーツミュージックの憧憬を感じられる佳曲。同じくバンジョーの素朴な音だけに乗せて歌われるのが8曲目Hard Times。この曲もシンプルで、そして力強い。

Singing hard times
Ain't gonna ruin my mind, brother
Hard times
Ain't gonna ruin my mind
Hard times
Ain't gonna ruin
My mind
No more

 と歌われる部分は、彼ら音楽観自体をよく表す一節だろう。そう、心を荒廃から救ってくれる慈しみに満ちた音楽。

 下敷きにはブルーグラス、フォーク、カントリーなどさまざまなジャンルが散りばめられているのだろう。しかし古めかしさはまったく感じられない。熟達した職人が作ったクラフトがいつまでも愛され、使い続けられるように、ここに収められている曲も職人の手によって作られているからこそ、時代の風潮には決して流されない強さを湛えている。

Ronnie Lane, Live in Austin (2000)

live_in_austin.jpg ロニー・レインの映画を観てから、彼のテキサス時代の音源をずっと聞きたかった。ようやく神保町ユニオンで「Live in Austin」をゲット。88年にテキサスのミュージシャンと録音したスタジオ・ライブである。

 ジャケットのデザインはいただけないが、CDには「Ronnie Lane The Texas Years 1984-1990」というタイトルのブックレットが付いている。ライナーノーツを書いているのは、このアルバムのプロデューサーでもあるKent. H. Benjaminという人物。テキサス時代のレインのすぐ側にいた人らしく、アメリカに渡ってからのレインの生活、そしてこのCDがリリースされたいきさつを愛情溢れる筆致で書いている。またブックレットのなかには何枚もレインの写真が収められている。ニック・ロウやイアン・マクレガンと一緒におさまっているレインの姿もある。ただ、おそらくすでに病魔に蝕まれ始めていたのだろうか。以前よりやせて、視線も少し定まらないようだ。

 しかしライブのパフォーマンスはすばらしい。レインのヴォーカルはノリがよい。バックのヴァイオリン、アコーデオン、バンジョーも、大道芸人の演奏のようなレインの曲のよさをしっかり表現している。

 弦楽器のアコースティックな響きに、ゆったりとしたテンポで演奏されるOoh La La、同じくヴァイオリンの音が全面的にフュチャーされたKuschty Ryeなど実に心和む演奏だ。

 See Meなど後期のアルバムからのテイクだけではなく(クラプトンとの共作Barcelonaなんて実に良い曲だ)、PoacherやRoll On Babeなどスリム・チャンス時代の曲も収められている。ラジオ局のスタジオライブということで、レインのおしゃべりなども入っていて、本人自身が上機嫌で収録している様子が伝わってくる。

 ロニー・レインはSmall Facesの時代から始まって、さまざまなバンドを作って演奏をしてきた。ロッド・スチュワート、スティーブ・マリオット、ロン・ウッド、そしてピート・タウンゼントのような時代を画するロック・スターと、ギャラガー&ライルのような職人肌のようなミュージシャンと。そしてこのテキサス時代には、地元の決して有名でも何でもない人々と。しかし、有名無名は関係ないだろう。今・ここで、気の合うメンバーと一緒に演奏できればそれで十分。その飾らないレインの人となりが十分に伝わってくる好盤である。

山下達郎, Ray Of Hope (2011)

ray_of_hope.jpg 山下達郎のSuger Babeのなかに「雨は手のひらにいっぱい」という曲がある。アレンジは大滝詠一らしいフィル・スペクターサウンド。ライナーで山下達郎は「このアルバムのベストテイクだ」と書いている。プロとしてやっていくかどうかの苦悩の時期に、この曲が先輩ミュージシャンにほめられて、それでずいぶんなぐさめられたとの記述もある。内省的でありながらも決して個人的な鬱屈を表に出すような曲ではない。雨を比喩として用いながら、憂いと軽みをそなえたポップミュージックとしての普遍性をもった曲だ。この曲を出発点として現在に至るまで、ほとんどそのスタイルは変わっていない。

 個人的な心象を歌いながらもそれがしっかり他者へと伝わってゆく、しかも時代を経てもそうした「伝わる力」は変わらない。その一曲前に収められている「今日はなんだか」も素敵な曲だ。

今日はなんだか
君の心が少し
開いた気がする

 という歌詞がいい。35年も前のアルバムなのに色あせることがない。そして今この歌を山下達郎が歌うとき、「心が開く」という歌詞が、恋人同士の関係でありながら、それに重なるようにして人と人の心のつながりが歌われているように強く感じる。

 歌詞が当初作られたときとは、異なる意味内容をもつようになる。ひとつ、ひとつの独立した曲が、アルバムにおさめられたとき、それぞれの曲が影響しあって、新たな意味をもつようになる。そんなトータルな作品性をたずさえ、おそらく2011年という時点をこえて普遍性を得て聞かれ続けるであろうアルバムが今回の新作Ray Of Hopeだと思う。

 「ぼくの中の少年」のパーソナルな内省とは違う形の内省がある。それは時代を個人の中に引き受けた上で、「何が歌えるのか」と真剣に問いかける、社会に開かれた内省である。本人も、自分の作った曲が、聞く人々に文字通り「生きる希望」として受け取られたことによって、作品のもつ「生命感」を実感したのではないだろうか。いや「ぼくの中の少年」のパーソナルな部分をふくみこみながら、「生きる希望」が人々へと伝わってゆくと言ったほうがいいだろうか。

「希望という名の光」はスローテンポで、派手な曲ではまったくない。それでも生への、生き続けることへと強い確信がある。

 そして山下達郎本人が好きな曲「僕らの夏の夢」。この曲にも人と人がつながる希望がある。

心と心を重ねて
光のしずくで満たして
手と手を難く結んだら
小さな奇跡が生まれる

 希望といっても、大々的なものではない。しずくのように落ちてはすぐに消えてしまうようなもの。奇跡のようにめったに訪れはしないものかもしれない。しかし心と心を重ねれば、たとえ小さくとも希望が生まれてくるのだろう。

 この曲も決して明るい色調ではないが、一歩一歩踏み出すような確信に満ちている。その印象はアルバム全体に言える。未来は混迷し、薄暗く、どちらに足を踏み出してよいかわからない。そうした時代の状況にもかかわらず、もし「ひとときでも耳をすませば」、「かすかな希望の音」が聞こえてくる。「手と手がつながる/心が伝わる」瞬間を私たちに与えてくれるアルバムがこのRay of Hopeだ。

banging_the_drum.jpg 80年代に結成されたバンドはどんな音楽を志向しようと活動を始めたのか。パンクやニューウェーブといったアメリカ、イギリスのロックは、様式美から隔たった地点で、そして社会を変革することができるという意気込みからは遠ざかった地点で、自分の日常を見つめ直し、その日常自体も、そして生活の中での鬱屈とした不機嫌さえ表現の原点となると認識した時点で始まったのではないか。

 パンクというムーブメントは、たとえばジミ・ヘンドリクスやジョン・レノンなど大御所の名前を挙げれば歴然とするように、音楽による社会変革とは言い難く、自分を中心に置いたとはしても、それを表現へと高めるにはあまりにもつたなく、かつ幼いわがままでさえあった。しかし死んでしまうパンクと生き残るパンクがある。ファッションとして消費されていくパンクと、日常を不器用に問い直し続けるパンクがある。

 パンクとは日常へのささいな違和感を真正面から抱き続ける人生の態度ではないだろうか。パンクとは衝動ではなく緊張を保った持続であり、慣性に流されることなく意味を問い続ける行為ではないだろうか。

 だからこそパンクとは単純な曲調で衝動的に叫べば出来上がるものではなく、目に見えない屈折やためらいを曲の上に反映させてゆく繊細な精神が必要になるのだ。

 ブッチャーズを聴くとヴォーカルの直情的な歌い方がまずは耳に入ってくる。その歌い方は一本調子で、不器用だ。しかしそうした欠点を補ってあまりある切実感と緊張感がこのヴォーカルにはあるのだ。ぶっきらぼうなのにこよなく繊細なヴォーカルだ。

 ブッチャーズの曲は、パンクでありながら、展開に味がある。パンクだから、イントロの入り方がいかにかっこいいかがもちろん大事。Yamaha-1のギターのカッティングからドラムがはいってくるところ、爽快とまでいえるほどかっこいい。Maruzen Houseもパンクの定番。ギターのカッティングからタテノリリズムがはいってくる構成はパンクの書式にしっかりとのっかっている。だがブッチャーズが素晴らしいのはそのことよりもバンドという複数のいるメンバーでそれぞれがどう曲に関わりながら、ひとつのまとまりを作り出してくかということにきわめて意識的であるところだ。
 卓越した技術を持っていることは言うまでもない。しかしその上で、せめぎあいながらも、それぞれが個性を殺さず、緊張感を携えながら、それぞれが切り結びながら、やがては1つの曲への結実していくところがブッチャーズの真骨頂なのだ。

Donovan, Open Road (1970)

open_road.jpg カックルさんの番組でかかっていたRiki Tiki Taviがもう一度聞きたくて、探していたら見事横浜レコファンでゲット。850円也。

 冒頭ヴィレッジグリーンと間違えそうな牧歌的なイントロで始まるChanges。タイトルの印象もあってボウイをも彷彿させるロック志向の曲である。このアルバム、ドノヴァンがロックバンドを結成して制作したファーストである。そのせいかドラムの音がやたらうるさい。

 全体の印象としては、フォーキーだったドノヴァンの繊細な曲が、楽器編成によって大げさに演奏されたという感じがしないでもない。とはいえ、60年代の叙情性を保ちながらも、吹っ切れた潔さがあってなかなか聞きごたえがある。

 2曲目の牧歌性、3曲目の叙情性そして4曲目のドリーミーさなど、時代の音とドノヴァンらしいの音作りがうまくブレンドされ、十分に堪能できる仕上がりになっている。

 5曲目People used toは、タイトル通り昔の生活の回想を歌ったfolkloreな曲。そして6曲目はCeltic Rockという、こちらもタイトル通りケルティックなメロディを翻案した曲だが、ケルトについての憧憬はむしろ次作H.M.S.Donovanのほうが徹底しているだろうか。

 Season of Farewellもドノヴァンのfolkloreな色調が堪能できる曲。アコースティックギターの音色にあわせてFinallyと静かに幕を開けながら、やがて少しハードなバンドロックの音へと転調してゆく。そしてまた静へ。こうしてゆったりとうねりながら、やがて曲はサビの部分へ。

Mystery, sorcery, and guile
Used to be
What made me the lonely one
But now
I'll be the only one to plea

 ヴォーカルが入れ替わりながら歌われるこの一節が、韻の調子もあって強く印象に残る。そして「このメロディどこかで聞き覚えが...」と思って、必死に思い出していたら、そうMidlakeのBranchesという曲の郷愁ととっても似ていた。40年も開きがあるけれど、Midlakeの音が多分に70年代初頭の音っぽいのだろう。

 そして実はこのアルバムで一番気に入っているのが最後のNew Year's Resolution。iTunesでも、また再発のこのCDのクレジットもResolutionだが、オリジナルはResovolutionとなっている。RevolutionとResolutionの掛け合わせなのだが、どうもそれが現在では反映されていないようだ。

 この曲のアコースティック感、そして自分が最も弱い男性ヴォーカルの高音で声がひっくりかえる部分、そして、曲がアップテンポになっていきながら、ドラムと弦楽器の音だけが残りそこにドノヴァンのヴォーカルが重なり、最後はラーガロックのような呪文にも似た歌い方になってフェイドアウトしてゆく展開。実に完成度の高い、ドノヴァンのなかでも優れた一曲ではないだろうか。

 ある曲が聞きたくて買ったアルバムで、他の素敵な曲を発見する幸せ。フォークやロックといったジャンルに収まらない、その意味で中途半端でドノヴァンを代表するアルバムとは言えないが、曲のクオリティから考えればドノヴァンの創造性がいかんなく発揮されたアルバムと言えるだろう。

another_side.jpg このアルバムにはフォークのアルバムとして考えれば極端に長い曲が2曲収められている。1曲は「自由の鐘」。もう1曲は「Dのバラッド」。それぞれ7分、8分以上の曲である。それ以外の曲が2分〜4分ということを考え合わせれば、この2曲の例外ぶりがわかる。だが「自由の鐘」はこのアルバムのベストテイクだと思う。

「自由の鐘」は歌詞をじっくり聴いたならば、この長さが必然性を持っていることがわかる。中村とうよう氏がライナーで言っているようにこの曲は自由を求める歌だからといってプロテスト・ソングではない。もっと普遍的に人間はどのような生存の状況に置かれるときに、自由を希求するか、それを歌った曲である。

For the countless confused, accused, misused, straung-out ones an'worse
An'for every hung-up person in the whole wide universe

「自由の鐘」のほとんど最後の歌詞だが、-edで終わる単語がつながる部分の歌い方は凄まじい。殺気をはらんでディランは歌い込む。これはプロテストだろうか。これは流派を越えた、おおよそあらゆる辛酸をなめ、運命を呪わんばかりの境遇に置かれたあらゆる人間のための、祝福の祈りを込めた歌である。それは歌に運命への叛乱を仮託する人間の絞り出す歌である。

 この曲を聴くだけでもこのアルバムを聴く価値があるが、もう1曲選ぶとするならばMy Back Pagesだろうか。もうすぐロックが生まれる予感のするなかで、音楽の若さを高らかに宣言してもよいのに、この曲での若さはすでに老成した人間から語られる若さになってしまっている。

Ah, but I was so much older then,
I'm younger than that now.

 あの若いときのほうが老けていた。そしておそらく歳を経たであろう今の方があの頃よりも若いとディランは歌う。すでにロックという若者の音楽は、最初から歳をとってしまっているかのように。

 ところでこのアルバムの1曲目All I Really Want To Doの最後、そして9曲目のI Don't Believe Youではディランが笑いながら歌っている箇所がある。それもきわめてシニカルな、社会を、私たちを冷徹に見下すような笑いである。同時に「歌はばか正直に歌うものではない」という、歌いながらもその歌う自分を冷徹に見透かすディランの姿が浮かんでくる。

 そしていよいよ最終曲でディランは私たちを決定的に突き放す。

No, no, no, it ain't me, babe It ain't me you're lookin' for, babe

 こうしてディランは自らの虚像を否定し、表現者へ、時代の真の批判者へと歩みを進めて行くことになるのだ。

mcguinness_flint.jpg 自分の来るべき葬式のためにBGMを編集しておかなくてはとつくづく思っているのだが、ついに決定的な一曲に出会った。McGuiness FlintのWhen I'm dead and gone(M君、O君よろしく)。何年か前に、1st, 2ndのカップリングを見つけ購入したのだが、あんまり本腰を入れて聞いてなかったらしい。

 ロニー・レインと一緒に音楽活動をしていたギャラガー&ライルも参加しているこのバンドは、キンクスに象徴されるような英国牧歌ロックの代名詞のようなバンドである。

 先日のカックルさんで一曲かかっていて(2曲目のBodang Buck)久しぶりに聞き直したら、When〜の方にすっかりはまってしまった。「おいらが死んで逝っちまったら~」という曲だが、すっとぼけた明るさがあって実によい曲だ。基本はアコースティックギター、そこにマンドリンが加わり、最後はウー・ラ・ラーのハーモニー。これ、ロニー・レインが歌っているでしょ? といっても疑わないほどFaces度満点の曲です。

 検索してみたら、実に音楽愛に満ちたブログを発見。その方によると、この曲はシングルカットされ、全英2位にまでなったらしい。さらに日本盤も出ていてそのタイトルが何と「死」。さらにはこの曲はStatus QuoやDef Leppardもカバーしていた(さすがに後者はぼくにはつらかった)。

 いわゆるあか抜けない音楽なのだが、その朴訥とした感じが実にいい。カックルさんがかけたBodang Buckは、リンゴを彷彿とさせるドタドタドラムにポールがロッキー・ラクーンを歌っているかのようなビートルズ・フォロワーな曲。

 1曲目はLazy afternoon。タイトル通り、多少ブラスをかませたところもまさにキンクス的な脱力感ただよう名曲。3曲目や6曲目はマスウェルのHolidayのような、ボードヴィル調の明るくもどこかもの悲しい風情のよく出た曲。4曲目はポールのラム・オン。こうした60年末のイギリスのロックのコクをしっかり取り込んだ曲が並ぶ。7曲目のようないたってひかえめなハーモニーを前面に押し出した曲もよい。

 そして最後はギャラガー&ライルのInternational。メアリ・ホプキンも歌っている定番。

 時代を代表するアルバムとは言い難いし、スターダムにのし上がって一世を風靡したわけでもない。しかし、それよりももっと大切な日常的なポピュラリティがこのアルバムにはあって、愛さずにはいられない。仕事帰りにふとパブによってビールを飲みながら憂さを忘れて心から楽しめるような曲ばかりだ。ビートルズとFacesとニック・ロウをつなぐような、ブリティッシュロックにとって、実はとっても大事なアルバムなのではないかという気がしてきた。

newyork.jpg アル・クーパーは、ディランのアルバム録音に参加したり、バンド活動を繰り広げるなかで注目を集め、ソロ・アルバムも何枚も発表した。しかし根本的にはセッションバンドのキーボード奏者であると思う。よく言われることだが、彼のヴォーカルは、声量があるわけではないし、細やかなニュアンスに欠ける。

 それでも彼のアルバムの魅力が衰えることがないのは、次々とあふれてくるアイデアを、アルバムであますことなく表現しえたからであろう。ハードロック調の曲もあれば、都会的なバラードもある。脈絡なぞあまり考えずに、頭の中に浮かんだものをとにかく音にしてみるという、考えてみれば贅沢な、しかしそれだけ高い制作意欲につらぬかれたアルバムである。

 代表作として、そして日本で人気があったのは『赤心の歌』であり、自分も一番最初に購入したアルバムである。しかしNew York City (You're a woman)は、アル・クーパーの強い思い入れを感じる好盤である。プレイヤーとしての自信にあふれ、さらにプロデュース、アレンジも手がけ、一枚の作品へとアーティストの発想が結実している。

 特に表題作の1曲目。ピアノと語りかけのヴォーカルから始まるイントロが素晴らしい。アル・クーパーのニューヨークによせる郷愁を歌ってはいるが、中盤からの力強さこそこの曲の魅力だ。この曲があるだけでこのアルバムは名盤と言える。そして切れ目なく2曲目へと。こうした着想や、ソウルロックのテイストがTodd Rundgrenを確かに思い起こさせる。

 作曲能力の高さ、オリジナリティという意味ではインパクトに欠けるかもしれない。Elton Johnのカバーもあるが、これも楽曲がもともと良いから聞けるという点は否めない。それでも一人のミュージシャンが創意工夫をこらしてひとつの作品を創造できたということ、その音楽を創造する高い志に深い敬意を抱く。

northern_lights_southern_cross.jpg ジョージ・カックルさんのレコード・コレクターズの連載は、ミュージシャンの意図をきちんとあぶり出しながら、そこに自分の人生や思いも反映させるという最高の音楽エッセイなのだが、今月はもう決定打ではと思うほどの深い内容。The Band『南十字星』A面4曲目「アケイディアの流木」である。

 思えばこの曲もアメリカ独立前のアケイディアンの悲惨を扱いながら、そこにロビー・ロバートソン自身の人生も反映させ、歴史と個人が溶け合う深みをたたえている。ルーツへの思いと、ルーツは結局幻想であり、根無し草としての自分の存在を哀しみを抱きながらも、しっかりとみつめるーそうした人間の本質的な孤独まで感じてしまうアメリカン・ロックの名曲である。

 それ以外にも完成度の高い曲が詰まったこのアルバムはThe Bandの最高傑作ではあるのだが、しかし単純にそうは言いきれない複雑さがある。The Bandといえば、泥臭いアメリカのルーツロックというイメージがあるが、このアルバムの音はそれとは対極に、高級ステレオで聞きたくなるほど洗練されている。そしてどの楽器も独立したパートを奏で、重なりあいながら曲を構成していくところにバンドの醍醐味を感じるが、当時のメンバーたちが実はもはやバラバラであったという事実。このアルバムが最高傑作であるのは、それが音楽を表現したいという情熱とは別の場所で、綿密に計算されつくして制作された「失敗のない」アルバムだという意味だ。

 例えばファーストのTears Of Rageの渋さに心をえぐられたり、セカンドのWhispering Pinesのせつない歌声に涙したり(『国境の南』でこの曲に聞き入るマスターの陰影を帯びた微笑みを見ているとさらに涙腺がゆるんでしまう)といった感情の素直な動きにまかせた単純な聞き方を許さない、異質の次元を持っているのがこのアルバム。

 だいたいロックは、どこか過剰だったり、まとまりがなかったり、違和感を感じさせるもの(20歳そこそこのディランの声が老人のように聞こえたり)であって、だからこそこよない愛情を注げるのだが、このアルバムにはそうした精神の弛緩を許すような隙がない。

 リチャード・マニュエルが自殺してから25年。もはや最後のころのライブは音楽のていをなしていなかったらしい。ロビー・ロバートソンはつい最近ソロ・アルバムを出した。数曲耳にしたがアルバムを買う気にはどうしてもなれなかった。そこにはどうしても「優等生の答案」のような面白みのなさを感じてしまうからだ。

 『南十字星』は名曲ぞろいである。それは才能と技巧の極みとして制作された名曲であって「こうした表現しかできなかった」結果なのではない。こうしたロックの矛盾をかかえた意味でも歴史的な一枚であることには変わりはないけれども...

Magga, Caravane du désert (2008)

caravane_du_desert.jpg 歌はどのように生まれるのか。ことばはまず声であり、声は何よりもひとつの音である。だから単にハミングしたり、あるいは叫んだりしても、それは当然音楽とみなされる。ときには声そのものが楽器のように聞こえてくることもあるだろう。

 しかし歌には多く歌詞がある。声は音でありながらも、それはことばとして同時に意味を伝える。朗読と歌は違うと直感的にわかるように、歌にはそれを歌だと私たちに思わさせる規則が、言い換えれば制限がある。それが抑揚やリズムだ。したがって、そのような歌に課せられる制約が、同じことばであっても、歌詞に独自の特徴を与える。フランスのミュージシャンの場合、この歌詞のオリジナリティによって評価されることが多い。それは定型詩にも見られる韻や、言い回しに乗せたことば遊びの妙でもある。

 そしてまた歌は、ロマン主義の時代に言われた民族の覚醒という概念から見れば、古来からの魂の継続性の表象とみなされる。たとえばブルターニュにおいてケルト文化の復興および伝承に携わる人々にとって、民族楽器を用いて、ブルトン(ブレーズ)語で歌を歌うことは、彼らの精神的支柱となる活動であると言っても差し支えないのではないか。

 だが文化は決して単層ではありえない。文化はたえず浸食しあい、多層的な表象を作り上げる。かつてアラビア詩を触媒としてトゥルバドゥールが生まれたように、現在でもフランスでは、とくにラップやエレクトロなどの音楽が、国籍を無化する形で生まれ続けている。

 Maggaというミュージシャンについて調べてみてもほとんど詳しいことはわからない。10年ほどグループで活動した後、ソロに転向したらしい。その顔立ちから北アフリカ系のフランス人であろう。以前FNACでファーストを試聴して購入。その音楽は英米ロックの影響を受けたアコースティックフォークで、その外見が伺わせる民族的な背景はほとんど皆無だった。

 しかし今回やはりFNACで見つけたセカンド(だと思う)には、イスラム的な意匠がかなり色濃く施されている。ジャケットしかり。タイトル曲Caravane du désertではサハラ砂漠の遊牧民トゥアレグ族が使うとされる楽器を奏でる女性が歌われる。また1曲目、2曲目はアラビア音楽の旋律がそのまま使われている。そして歌詞の主人公の男は「王妃たちの心を盗む男」として描かれる。

 なぜここまで彼の作る音楽に民族性が反映しているのかはわからない。ファーストと同じアコースティックギターを基調としながらも、歌詞はずっと寓話性が高く、その哀愁はアラビア音楽に似た哀愁だ。エキゾティックな情景、女を前にして、夢幻の世界に浸る男、野生の熱、動物の息。音楽も歌詞も素直なまでに、アラビア音楽の表象をそのままなぞるようなアルバムになっている。

 ようやく見つけたビデオの本人は、背が高く、細長い顔立ちで、アルバムの印象よりずっと内省的な青年であった。これほどまでに民族性を意図づけながらも、実は彼のピッキングによるギターの音はBen Wattを思いださせる。特にラストの、少しエコーがかかったギターの音色、憂いのあるヴォーカルは、Ben Wattの『ノース・マリン・ドライブ』だ。海辺の波にも似て、ギターの音色がせつなく近づいては、遠ざかってゆく。

 音楽には定型がつきまとう。それらの定型の混ぜ合わせの妙がひとつのオリジナリティとなる。しかしこのアルバムではまださまざまな要素が分離している印象を受ける。それでもやはりBen Wattに似て、彼の声、ギターにはきわめてまれな透明感をたたえている。繊細で素直なこの音世界こそ、彼のオリジナリティなのだろう。

telling_the_truth.jpg レコファンで久しぶりにジャケ買いした一枚。しかも宣伝文には「フォークソウル」、「激レア再発」と書いてある。さらには5インチヴィニールシングルのおまけ付き。この文句とフェティッシュ感についひっぱられ、まったく聞いたことのないミュージシャンだったが、たまにはそんな音源にも触れてみようということで購入。

 最初聞いたときは、確かにフォークというか音数が少ないというか、一言で言ってチープ。いろいろ調べてみると「自家録」のように制作したとのこと。しかも声が脱力しまくり。もう少し力入れて歌ってくれてもと、少し食い足りないところもあった。

 だが裏ジャケには次のように書いてある。

-これはディスコミュージックではありません。
-世界中の大人のために制作されました。
-ティーンエイジャーにはこのアルバムはあまりにlyricallyでつらいものがあるでしょう。特に普段ファスト・ミュージックしか聞いてない耳には。
-でももしギターサウンドに入れこんでくれればきっとこの音楽を楽しめることでしょう。

 確かに77年という年を考えれば、まったくダンスとは無縁の、極端に音数の少ないソウルミュージックが世間に受け入れられるはずはない。

 だが、このアルバムを聞いてみると、実はソウルという基本はありながらも、カリプソや、ボサノヴァのようなワールドミュージックのアプローチが見られ、なかなか懐の深い音楽作りをしていることがわかる。

 また一曲Curtis Mayfieldの社会派ソウルをカバーしているとはいえ、基本的には個人的で内省的な曲や、ラブソングが多いようだ。失恋をした友だちをなぐさめたり、またシングルにはAfricaという曲があり、自らの家族、ルーツへのまなざしが歌われている。

 レコード屋にふらっとはいって、たまたま丁寧なリイシュー作業によって再発されたCDと出会い、30年以上も前に吹き込まれた音楽に感動する―歩いて、目に入って、手にとって、レジでお金を払う。そんなアナログ感から音楽への愛がふつふつとわいてくる。Jackie's Songの冒頭「ウー、ダディダディダー」というハミングがずっと頭の中を流れている。

Ryan Adams, III/IV (2010)

ryan_adams_iii_iv.jpg Ryan Adamsのニュー・アルバムが昨年末に出た。タイトルは『III/IV』。CD2枚組。カーディナルスとの共作として3枚目と4枚目にあたるという意味だろうが、それぞれのアルバムでコンセプトが違うわけでもない。曲の順番など雑然としていてとても考えて並べたとは思えない。単に出来上がった曲を適当におさめたら、CDの容量を越えてしまったので、じゃあ2枚組にしてみるか、という風采だ。しかも紙のジャケットの両面に裸のCDと歌詞カードが突っ込んであるだけで、何だかがさつだ...

 というわけでラフでヨレヨレの曲が脈絡なしに並んでいるのだが、それでもやはりRyan Adams。練りきれていないように聞こえて、どの曲も人を引き込む魅力で満ちあふれている。時間にして3分に満たない曲がほとんど。基本はギターぎんぎんのストレートなロック。

 毎度のことだが、今までのロックがさんざん聞かせてきたおなじみの「約束事」のようなメロディのオンパレードだ。中には『III』の4曲目Ultraviolet Lightのように『Easy Tiger』を彷彿とさせる曲もある。ただ全般的には80年代のニューウェーブ調の懐かしさを感じさせる曲が多い。同じく5曲目、Stop Playing with my heartはわずか2分半の曲。青春歌謡のような瑞々しくもいささか単純な曲。最後の10曲目は一瞬ヴァン・ヘイレンのデビット・リー・ロス?と思ってしまう。『IV』のトップNoでの、エッジの効いたギターの単純なリフなどは、Birthday partyを彷思いださせる。

 しかしそれでも陳腐にならないのが、Ryan Adamsが一流である証拠だろうか。今回のアルバムはそうしたなじみのメロディを、なじみのバンドで一発で演奏した印象である。サビで同じフレーズを連呼するような曲が結構多い。とにかくスピード感があって一気に聞かせてしまう。このあたりがRyan Adamsの力量か。

 むらっ気のある求道者、老成した若者、一筋縄ではいかないパーソナリティは健在と思わせるアルバムだ。

greetings_from_asbury_park_nj.jpg 学生時代に、友人のお姉さんに「会社でもらったから」とチケットをいただき、友人と二人で東京ドームにライブを観に行った。ネットで調べたら1988年のヒューマン・ライツというイベントだった。多くのミュージシャンが出てきたが、もう誰一人覚えていない。ただトリがBruce Springsteenだったことだけは覚えている。2曲目のBorn in the USAに辟易して会場を出てしまったからだ。

 当時の自分にとっては拳をあげて聴衆をあおる(ようにみえた)コンサートはとてもロックには思えなかった。最初にSpringsteenを聞いたのは1980年のThe River。2枚組で曲がたくさん入っているだけでお得な気分だった。友人に借りてカセットテープにダビングしたのだと思うが、この時はアルバムタイトル曲の翳りのあるメロディなどがとても好きだったのを覚えている。

 その後Springsteenは「アメリカの権化」のように思えて聞く気にはなれなかったが、ある先輩から「ファーストはよい」と聞かされていた。以来20年余。先日のLazy SundayでFor youがかかっていて、これが実によい曲で、ついにユニオンで800円で購入。

 グレアム・パーカーにも似た前のめりの歌い方、言葉数の多い歌詞、サウスサイド・ジョニーと共通する軽快でありながらも骨太な演奏、サックスとヴォーカルのからみ、すべてがつぼにはまる。

 歌詞を読むと喧噪や怒りややりきれなさに満ちているのに、演奏は爽快ですらある。決して足を止めることなく、町を駆け抜けながら風景を切り取っていくような描写には、様々な人間、様々なモノがあふれかえっている。だがそれらは心に映る風景であり、だからどんなに奔放に思えても、内省的な翳りがアルバムを染めている。

「光で目もくらみ」、「成長するってこと」、「82番通りにこのバスは停るかい?」、「都会で聖者になるのはたいへんだ」ーこれら曲のタイトルも、そして邦題のつけ方も詩的で素敵だ。

 これがデビュー作。「荒削り、地味」という評価も聞かれるが、聞いてみればわかる通り、「ハートがひりひりする」ティーン・ロックとしてこれほど完成度の高いアルバムもないだろう。もちろん決して完成なんかしない、大人にもならない、未熟で愚直なまま、生き続けたい、そんな叫びに満ちたアルバムである。

Nick Lowe, Party of ONE (1990)

party_of_one.jpg CostelloのArmed forcesのB面最後の曲Love, peace and understandingからニック・ロウの名前を知ったとき、イギリスのロックの歴史を遡ることの楽しさを覚えた。しかも、ニュー・ウェーブからブリティッシュ・ロックに入ったせいか、ビートルズやストーンズよりも、むしろパブ・ロックの歴史のほうが身近に感じられた。

 それからブリンズレー・シュワルツやロックパイルのアルバムを聞いたりしていたが、その中心人物Nick Loweのソロ・アルバムもずいぶん集めていた。年末に久しぶりに聞きたくなって、CDで探して手元にあったのがこのParty of Oneである。このアルバム、ほとんど聞いた記憶がなく、またいつ買ったも覚えていない。しかしあらためて聞いてみると、ひねくれた英国ポップではなく、ストレートなロックンロール、アメリカ・ルーツミュージックを聞かせてくれる好盤である。バックはRy Cooder, Jim Keltner, Paul Carrackと鉄壁な演奏陣だ。

 それでいてドラムもギターもテクニックを聞かせるというよりも、音楽が演奏したくてうずうずしている連中が、お互いの趣味を確かめるようにして、好きな曲を演じている。その音楽への素直な喜び、どれだけ歳をとってもかわらない音楽への純粋な喜びを表現している実にいいアルバムだ。

 5曲目、What's shakin'on the Hillはたそがれ感が実にしぶいオヤジの音楽だ。7曲目All Men are liarsもパブロックの雰囲気をかもしだしながらもアメリカの「古き良き音楽」を奏でていて、イギリスとアメリカの幸福な出会いを感じさせる佳曲。続くRocky roadも軽快で、Cruel to be kindにちょっと似たチャーミングな歌だ。

 ギター、ドラムの乾いたドライブ感覚は、すぐにJohn HyattのHave a little face to meが入った名盤Bring the Familyを思いださせる。というかそれも当然、このアルバムもギターRy Cooder、ドラムが Jim Keltnerで、そしてベースがNick Loweである。John Hyattを初めて知ったのは、ポッパーズMTVで流れたHave a little face to meの印象的なPVだった。この曲は長く不遇が続いていたHyattの実質的には初めてといってよいヒット曲である。モノクロのジャケットにふさわしい、皺の刻まれた本人の正面からの表情が音楽の渋さを物語っている。

 この2枚のアルバム、演奏者が同じということもあるけれど、それ以上に売れようが売れまいが、自分たちの好きな音楽を、一人でではなく、気のあった仲間同士で高い志をもってバンドとして演奏しているところに強い精神的同一性を感じる。

 ところでこのアルバムの3曲目はGai-Gin Man。1988年暮れの日本を訪れた外国人の日本のスケッチである。この曲はイギリスならではの皮肉が効いていてじっくり歌詞をつきあわせながら聞きたい曲である。

Isley Brothers, 3+3 (1973)

3+3.jpg アルバムが一斉に再発されて、「局所的」に盛り上がりを見せているIsley Brothers。ピーター・バラカンの一押しはこの「3+3」とのこと。前作までのフォーク・ロックのアプローチも一段落し、いよいよメロウなグルーヴ感覚を活かしながら、そこにファンクの骨太なリズム・セクションが加わった記念碑的なアルバムである。

 しかしこのメロウ感は、たとえば彼女を部屋によんでこのアルバムをかけてしまったら、絶対に失敗するメロウ感である。それは良い意味での過剰だということ。どう考えてもこのアルバムはBGMには使えない。クリスマス・イヴにかけるには完全にミスマッチなアルバムだ。たとえば2曲目のDon't let me be lonely tonightとか、James Taylerの曲だけど、甘すぎて聞いているこちらが狂ってしまいそう。解釈が良すぎて音楽に聞き惚れてしまうし、だいたいこのタイトルを日常的にはささやけないでしょう。そうした日常から乖離したところに音楽の固有の世界を作ってしまうIsleyのクオリティに感服...

 バラカンが勧めるだけあってどの曲も完成度が高い。3曲目、If you were thereなど「キラキラ」していて、心も体もうきうきになれる名曲(というかこれ、シュガーベイブがコピーしていた)。6曲目もリズム・セクションのはつらつとした進行に引き込まれる。そしてこのアルバムには、Summer Breezeが入っているし。この暑苦しいバンド(by 「国境」のマスター)が「夏の清涼」を歌ってしまうのだから、これは脱帽もの。

 一番好きなのは4曲目You walk your wayか。最初のハモンド・オルガンのせつなさがたまらなくいい。そしてヴォーカルの語尾の跳ね上がりがとてもセクシー。精神的に腰砕け状態になる至上の名曲。

The Clash, Sandinista! (1980)

sandinista.jpg 今日12月22日はジョー・ストラマーの命日である。クラッシュの『サンディニスタ』は、出た当時ピーター・バラカンが興奮気味にFMラジオで紹介していたのを今でもよく覚えている。毎週土曜日放送だったその番組では毎回新譜を取り上げて紹介していたが、『サンディニスタ』が出たときには、バラカンはまるまる1ヶ月、4回にわたってかけつづけた。

 なにせLP3枚組である。ちょうど高校に合格したときで、そのお祝いで当時4700円したこのアルバムを購入した。各面6曲、全36曲にもおよぶ大作だが、散漫な印象はまったく受けなかった。むしろ「クラッシュによるパンク」という定型を打破して、あらたな創造へと向かうどん欲な追求の結果が、このような多くの曲を生んだのだろう。

 まずはA面1曲目、当時多くのバンドが用いていたダブのリズムを基本としたエコー処理が顕著なThe Magnificent Seven。次のHitville UKはまさにUKなせつないメロディを聞かせてくれる。そしてレゲエ風味のJunco Partnerへ。

 B面の1曲目はRebel Waltz。この時期のクラッシュの特徴である、不器用で、ナイーブな哀しみに満ちた曲だ。そのあとB面を聞いているとパンクの微塵もないのだが、今から考えれば、こうした非西洋のリズムや進行を自らの曲作りに入れることは、決して珍しいことではなかったのだ。C面3曲目のLet's Go Crazyは完全にラテン・ミュージック。

 またパンクのレッテルは外してしまっているから、たとえばSomebody Got Murderedなど、サイケデリック・ファーズかと勘違いするほど華やかなアレンジだ。あるいはPolice On My Backのような緊迫感はあるのにポップなアレンジの曲もある。

 確かに混迷したアルバムだ。でもE面1曲目など、確かにリード・ヴォーカルが女性で、もはやクラッシュの曲と呼べるのか疑問がわくほどだが、だがこれもとてもよい曲。何よりも音楽への切迫した態度がある。

 どれほどのミュージシャンがこれほど切迫した態度で音楽を作ろうと思っているだろうか。それが記録されただけで十分に時代を証言するアルバムだ。たとえ普段は聞かなくなってしまったとしてもいつまでも愛すべきアルバムだ。

 昔NHKで1時間ほど、クラッシュのライブを放映したことがあった。歯が抜けたまま絶唱するジョー・ストラマーの姿が今でも目に焼き付いている。イギリスの若者たちに少しでも聞いてもらうために、ライブチケットを安くしているのだと真摯に語っていたジョー・ストラマー。こんなにも時代にコミットしてしまったバンドでありながら、今でも聞かれ続けるのは、時代の資料としてではなく、「お前はなぜ音楽を聞いているのだ」と正面切った問いかけを今でもクラッシュは聞く者に投げかけてくれるからだ。

some_girls.jpg ディスコ、パンクミュージックに対するストーンズからの返答と言われた『女たち』。しかし今から振り返ればディスコやパンクは一過性のブームや衝動に過ぎず、その中で生き残ったミュージシャンはごくわずか。それに対して今でも『女たち』は聞かれ続けている。

 そもそもこのアルバムにディスコやパンクの影響を見つけることにどんな意味があるのだろうか。確かにMiss Youはディスコを意識した当時の「音」である。しかしそれ以外の曲はストーンズの刻印がしっかりと押されている。2曲目When the Whip comes downの性急な感じは「パンク」とあい通じるところはあるかも知れない。しかしそれよりもタイトル歌詞のリフレイン部分の騒々しさはいかにもストーンズである。ライブで観衆を一気に煽る「定番」だ。

 3曲目はテンプテーションズのカバーということだが、ギターの「ジャラーン」という音だけですでにストーンズ自身の曲だと言ってしまえる。「定番」のバラードにもいい曲がおさめられている。9曲目のBeast Of Burden。

 このアルバム、もちろん名盤なのだが、それでも何かしっくりこないものがある。それは、ストーンズが「再生産」されてしまっているということだ。ディスコやパンクではなく、まさしく「ストーンズ」がどの曲にも認められるならば、それはすでに「ストーンズ定番の音」が決まってしまっているということだ。すでにレシピはわかっていて、これで調理すればどういう味かも決まってしまっているかのような...もはや驚きや失望もない、このアルバムを聞いていだくのは「安心感」なのだ。この時代であっても「ストーンズ健在」のような。健在していてもしょうがない。むしろ存在をたえず否定し、更新してゆくところにストーンズの見かけとは反対の音楽に対する禁欲なまでの探究心があったのではないだろうか。

 そう考えると「音」のざらつき感もないし、なんだか衛生殺菌されたような音作りになっている。むしろこのアルバムに時代の影響を求めるのならば、この生気を消し去るような音のパッケージなのではないだろうか。

hatful_of_hollow.jpg イギリス、キャメロン首相が好きなミュージシャンは「スミス」だと公言したところ、ジョニー・マーが「お前はスミスを聞くな」とtwitterで叫んだとのこと。それで久しぶりにLPを取り出したら、なつかしい輸入盤のにおいがした。

 自分が始めて聞いたスミスはこのシングルや、ジョン・ピールセッションなどがおさめられたお得なベスト盤だった。なにせ16曲も入っている。のっけからクオリティの高い曲が並ぶ。Willam, It Was Really Nothing, What Diffrence Does It Make ? この「そんなことどうだっていいのさ」という、若者たちの絶望の、身を切るようなせつなさが初期のスミスにはある。少年のもつ投げやりな態度と傷つきやすい感受性のアンバランスさ、今を持ちこたえることのできない弱さがスミスの魅力だ。

 Handsome DevilにはLet me get my hands on your mammary glandsなんていう歌詞があるが、この情けなさが心にささってしまう。シングルを集めたにもかかわらず、この曲からHand In Gloveへの流れが実に自然だ。ジョニー・マーのギターのリフの素晴らしさが光る一曲。メロディひとつで最後まで突っ走ってしまうところがこの時代らしい。A面最後はStill Ill。この曲もギターの美しさが光る。そしてAsk me and I'll dieなんていう歌詞は、ナイーブすぎるのだが、青春の特権だろうか。

 そういえばスミスのデビューはRough Tradeである。初期のスリッツやキャバレー・ヴォルテール、ポップ・ミュージックなどのオルタナ色の強いミュージシャンとは全く異なる、曲そのもののもつ繊細さで勝負するバンドがこのレーベルから出てきたことに驚いた。ドラム、ベース、ギターどれをとってもアコースティック感があり、テクニックとは全く異なる次元の愚直さを突き通した音だ。

 B面3曲目You've Got Everything Nowもジョニー・マーのギターのリフが光る。パンクの余波もようやく過ぎて、もう一度メロディを見つめ直して音楽を作ろうとする時代の雰囲気を最もよく伝える曲だ。最後のモリッシーの裏声が決して過剰には思えないのはひとえに曲のノリがよいからだろう。そして当時もっとも好きだったReel Around The Fountain。

 イギリスが年老いてゆく時代に、スミスは「青春」にこだわって曲を出し続けた。ロックに若さを求めるかぎり、スミスのアルバムは決して廃盤になることはないだろう。

Frank Zappa, Bongo Fury (1975)

bongo_fury.jpg 数々のライブ音源のオーヴァーダビングと徹底的な切り貼り編集によって完璧なアルバムを作り出すザッパだが、このアルバムのもとになっているのは1975年5月の二日間のコンサートである。

 その前年の74年にはApostropheとRoxy & Elsewhere, 75年に入ってからはOne Size Fits All。それに続いてだされたのがこのBongo Furyである。この時期は実験的な音楽というよりもバンドアンサンブルを前面に出し、ロック色の強い演奏を繰り広げていた時期である。それは緻密な計算による予定調和の世界と、超絶テクニックと音圧によって生まれるインプロヴィゼーションの予定不調和の世界がいっしょくたになった、ザッパだけが到達した唯一無二の音楽だ。

 さらにザッパのジャケの中でもおそらく最高の1枚であるここにうつっているのがキャプテン・ビーフハート。3曲にヴォーカルとして参加しているのだが、A面の冒頭変拍子のイントロに続いて、いきなりしぼりだされるだみ声はほとんど雑音のようである(ちなみに手元にある当時の日本盤につけられた対訳には「対訳不可能」とあり)。それにたたみかけるようにテリー・ボッジオのドラムを始めとしたやたら音数の多い演奏が入ってくる。

 そのまんまのタイトルA面2曲目のCarolina Hard-Core Ecstasyでは、ザッパのハードなギタープレイが堪能できる。また5曲目の「200歳のウェイトレス」ではありえない詩の内容にあわせて、本格的なブルースロックギターが弾かれている。そしてアルバムタイトルはA面3曲目の歌詞から。しかしこの歌詞も対訳によれば「さしたる意味なし」とのことである。

 このアルバムで何といってもすばらしいのがB面最後のMuffin Manである。このタイトルもほとんど意味がないのだが、そのナンセンスきわまりなく、猥雑ななかにありながら、演奏はどこまでもストイックである。メンバー紹介に続く、ザッパのギタープレイはまさに究極の「泣き」である。指さばきもすごいが、これだけのテンションの中で、冷静にメロディラインが保たれているところが、まさに「永遠に続く奇蹟」だ。

abandoned_uncheonette.jpg 今から20年も前。トッド・ラングレンの再発の頃だったか、その話を友人にしたら「こんなアルバムもあるよ」と紹介してくれ、CDまで貸してくれたのが、Hall&Oatesの「War Babies」だった。そのままCDは返さずじまいで今も手元にある。このアルバムは、彼らのサードにあたり、ソウルな風味にロック色を入れたいと思った本人たちが、トッドにプロデュースを頼んで制作された。オーバー・プロデュースで有名なトッドだが、このアルバムもかなり激しいアレンジになっている。

 それに対してこのセカンドは、まだ本人たちの手探り感というか、もがき感が残っていて、甘酸っぱさをかきたてている。特に裏ジャケの二人の表情はやるせなさが漂っている。その後の哀愁を帯びてはいてもパンチの効いたロック調とは異なる、エルトン・ジョンに似た青春の青さを感じさせる内省的な音楽だ。1曲目のハーモニーの繊細さ、高音の美しさがこのアルバムの瑞々しさを伝えてくれる。アコースティックソウルの肌触りとしては、たとえば5曲目の、弾き語りからヴォーカルが重なるI'm just a kidの冒頭、そしてサビのハモリなどに十分感じられる。

 ちなみにこのアルバムにはBernard Purdieなど一流ミュージシャンが参加しているが、確かにアレンジが素晴らしい。2曲目のフックの効いたドラム(これはPurdieではないが)などセンスの良さが光る。

 ここには彼らの初期のヒット曲She's Goneが入っている。10ccのようなしっとりとした曲調から、親しみやすいサビに入り、そしてサックスの音色へと、とても聞きやすい構成だ。AORやディスコサウンドへ行く手前の、というかもうすぐそこにひかえているような音作りだが、たとえばはずかしい音色のギターの音にもならずあくまでアコースティック、機械音の打ち込みのようにならず、あくまでも肌ざわりを大切にした、手作りの音楽だ。

 名盤はこんなところに眠っている。

let_it_bleed.jpg バンドの音だが、スタジオミュージシャンすべて含めてのバンドの音になっている。それによってアルバムの雰囲気も、一曲一曲も、決まったジャンルにはおさまりきらない、スケールの大きさを獲得している。血統のない雑種としての音楽だ。そしてそこには、音楽自体を創造してゆこうとする高い志がある。

 バンドは、それぞれが強い個性を発揮しながらも、決してバラバラにならずひとつのエネルギーを作ってゆくから面白い。ブライアン・ジョーンズが抜け、ミック・テイラーが加入するという過渡期に制作されたこのアルバムには、メンバー交代の不安定さなど感じられない。それどころか、アメリカのミュージシャンが入って、様々なバックボーンを持った音が混じりあい、そこから強い緊張感をもった音楽が生まれているのだ。

 1曲目からMary Claytonの力強いヴォーカルにからみつくようにミックのハープが響き、ニッキー・ホプキンスのピアノが跳ねるなか、曲がどんどん進行してゆく。2曲目のロバート・ジョンソンのカバー曲に参加しているのはRy Cooder。埃が舞い上がるような寂寥感の演出が実にうまい。

 ここにおさめられているのは、ジャンルを無視したポピュラリティあふれる曲ばかりだ。3曲目はフィードルから始まる、ブリティッシュロックと南部アメリカンロックの混合が見事なCountry Honk。4曲目はディープなスワンプロックのコード進行から始まり、ぐいぐいと疾走してゆくスピード感見事な一曲。最後のドラムのシンバルがひたすらたたかれまくられるのがかっこいいです。そしてA面最後のLet it bleedは、クレジットをみると、このスライドはキースが弾いている。Ladies&GentelmensのDVDではミック・テイラーの職人技の微動だにしない姿勢から生まれるスライドギターの音が、実にバンドの要となっていたが、この曲のスライドはテイラーに負けていない...

 B面1曲目は、ふたたびねちっこいブルース。最後のYou can't always get what you wantは「地の塩」に続くアカペラ路線を拡大した曲。アル・クーパーのホルンに、アコースティックギター、そしてヴォーカルが入り、一気に曲が盛り上がっていく。アル・クーパーはピアノ、オルガンも担当し、コーラスの編成はジャック・ニッチェ。これこそストーンズの真骨頂ではないだろうか。どこまでも音を厚く塗り重ねて、猥雑とさえいえるような、いろんな音の混ざり具合こそストーンズの音楽を聞く醍醐味だと思う。ロックの雑種としての魅力に強くひきよせられるのだ。ロックだと思う。

yuming_singles.jpg もはやおぼろげな記憶しか残っていないのだが、ユーミンが、自分の曲を校歌にした瀬戸内海の小学校を訪ねる番組を見たことがあった。小学生たちと交流をしたユーミンの目には涙があふれていた。自分の曲を大切に歌ってくれる子どもたちと、その子どもたちが暮らす海の風景に囲まれて、自然のなかで自分の歌が歌い継がれてゆくことの喜びゆえの涙だったのではないだろうか。

 校歌になったのは「瞳を閉じて」。「遠いところへいった友だちに 潮騒の音がもう一度届くように 今 海に流そう」。今は一緒にいる小学生たちも大きくなればやがて島を離れていくだろう。しかしどれだけ遠くに離れても、この育った海の潮騒のことをいつまでも覚えていてくれるように、そしてどれだけ遠くに離れていても、ずっと友だちのままだということを伝えるために、ガラスのびんを海に流す。自分の書いた詞が、子どもたちの心のよりどころになっていく。それを実感してユーミンは泣いたのではなかったか。

 荒井由実時代の7枚のシングル、計14曲を集めたこのCDは、実に贅沢なCDだ。A面、B面関係なく、どの曲もおもわず口ずさめる親しみさと、おしゃれでありつつも「翳り」をふと感じる陰影に富んでいる。デビューシングルの「返事はいらない」のピアノ、ギターのイントロから「この手紙が届くころには」という歌いだしのメロディに驚く。ロックというにはあまりに素朴で、フォークというにはあまりに洗練されている。

 そして自分がはじめて聞いたユーミンの曲「あの日に帰りたい」。その後松任谷由実という名前を見つけて、あれっと思ったことを覚えているので、おそらく荒井由実をオン・タイムで聞いていたのだろう。もっともハイファイセットのほうがなじみがあったのだが。

 ところでこのCDの曲解説はだれが書いたがクレジットがないのだが、簡素な説明でほぼ曲の魅力が言い尽くされている。たとえば先ほどの「瞳を閉じて」については、「海をテーマにした数々の作品を創っているユーミンだが、すがすがしさという点ではこの曲が秀でている」。うん、その通り。

 そしてシングルを集めているということで、バージョン違いが何曲もありマニアの心を満たしてくれるCDでもある。

one_for_the_road.jpg このアルバムを聴くたびに、音楽の素晴らしさだけではなく、Ronnie Laneという人間の生き方そのものを深く考えてしまう。誠実に生きることと、音楽ビジネスの中で生きることとは相反することが明らかになり、多くのミュージシャンがアメリカに旅立ちショービジネスに身を染め、あるいはコンサートを産業として成功させ巨富を得ていく中で、Ronnieはただ、自分の好きな音楽を、生な音をそのまま演奏したかっただけのように思える。好きな音楽を演奏する。ただそれだけ。だから生活そのものが音楽になる。今生活している場所で、音楽を楽しむ。それがRonnieが行ったパッシング・ショウと名づけられたツアーだ。金には全くならなくても、最も音楽が身近に感じられるひとときだ。

 プレミアのついたチケットに大枚をはたいて、それで豆粒のような、あるいはスクリーンに映った姿を楽しむような、消費が生み出す喜びではなくて、観客のすぐ目の前で演奏し、楽しむ観客の姿を見ながら、自分も楽しむような、そんな雰囲気だ。

 愚直なまでの音楽への姿勢は、社会的な成功に安住する人間に恥ずかしさを感じさせないではいられない。うまく社会で立ち回って疲れて帰ってきたときに、Ronnie Laneを聞くとかろうじて正気を保つことができる。

 Ronnieのアルバムはどれをとっても素朴な曲ばかりだ。親しみやすく、またアイリッシュトラッドの楽器、フィドルやハープの音色が美しい。音の肌触りが実にいいのだ。2曲目、23nd streetなど本当に心をうつ。とてもシンプルなメロディが繰り返されるだけなのだが、Ronnieの声にあわせて、他のメンバーが合唱するところが、とても熱く、バンドはこうでなくてはと実感する。どう考えてもFacesにはなかった雰囲気だろう。

 そしてこのアルバムを聴き続けて20年近くになるけれど、このアルバムの印象はずっと変わらない。ふとした瞬間にOne for the roadの一節が浮かび上がってきたりする。心に確信をいだいて歌われるこの声にはありったけの真実がつまっている。

live_at_the_royal_festival_hall.jpg 数年前に、メアリ・ホプキン・ミュージックというところから秘蔵音源が発売され始めたとき、食指が動いたものの、どのCDにも3000円以上の値段がつけられており、2000円以上のCDはめったに買わない自分としては、限定盤だとは思いながらも結局決心がつかなかった。

 ところが先日ユニオンをのぞいたら2100円で再発されていたのである!しかも、何枚か出されていたうちのライブ音源盤。モノクロ美ジャケ。というわけで5年越しに購入がかなった。

 メアリ・ホプキンが、アイドル歌手ではなく、地元のケルト音楽の歌い手であることは今ではきちんと認識されている事実であろう。このライブの中にはおそらくはゲール語で歌われている曲がおさめられている。どんなトラディショナル・ソングでも、時や空間を越えて、普遍性をもった曲に聞こえるのは、ホプキンが真の歌手であるからだろう。どのような曲を歌っても、彼女の力強い声によって曲が生き生きしているのだ。

 このライブはほとんどアコースティックで、パートナーのトニ・ヴィスコンティらの弾き語りにあわせて、彼女の生々しい歌声が聞ける。しかも、特に編集など施していないため、歌い終わったホプキンの咳払いまで聞こえるくらいだ。まさに記録としてとどめられたライブという雰囲気がいい。

 曲も、ギャラガー&ライル、ビートルズ、ジョニ・ミッチェル、などどれも歌うことの喜びに満たされている。72年当時、ホプキンがいかに高い志をもって音楽創作に打ち込んでいたか、それを証明する貴重な音源である。

rhymes_reasons.jpg 一流のミュージシャンには「歴史的名盤」が存在し、そうしたアルバムを聞くと、ついつい他のアルバムを聞かずじまい、ということがよくある。キャロル・キングの場合も『つづれ織り』という決定的名盤があり、その後に出されたアルバムは、たぶん良いに決まっているし、まああえて聞かなくてもという気になってしまっていた。

 ところがどっこい、やはり一流ミュージシャンというのは、どのアルバムであっても、そのミュージシャンにしか求めようのない独自の音楽を聞かせる一方で、そのアルバムにしか存在しない唯一のテイストというものもまた作り上げてしまうのだ。アーティストの普遍性と、その一枚のアルバムにこめられた唯一性ーそれをあらためて確認したのがこの「Rhymes & Reasons」である。このアルバムは4枚目、『つづれ織り』から2枚目にあたる。SSWという以上に、バンドアンサンブルが実に効果的に生かされている。とはいえあくまでもひかえめ。『つづれ織り』の1曲目のようにアップテンポでせまってくることはない。不器用な感じのストレートな歌い方でもない。むしろ『つづれ織り』の次に出された『Music』の1曲目「Brother, Brother」のまろやかさに近い。でも似ているようで、このアルバムにしか感じることのできないものがある。それはアルバムを1枚ずつ経るごとに実感できる落ち着きのようなものだろうか。

 1曲目Come Down Easyはパーカッションの音の暖かみが伝わる佳曲。3曲目のPeace In The Valleyも最初のメロディラインが実に印象に残る素敵な曲。4曲目Feeling Sad Tonightや5曲目First Day in Augustは、シンプルでいて、でもストリングスが実に効果的に使われた名曲。6曲目はベースとドラムのリズムセクションが、控えめながらも、軽快なテンポを与えてくれる。そしてストリングスをバックにキャロル・キングがハミングするパートがとってもチャーミングだ。そして一番好きな曲が最後のBeen to Canaan。サビのBeen so long, I can't remember whenのメロディ。ずっとロックを聞き続けていても、いまだにこんなに美しいメロディに出会えるとは! ほぼ40年も前のアルバムなのに、今生まれてきたかのような新鮮さをもって、何度でも心にあふれる喜びを感じながら聞けるアルバムだ。

dreams_come_true.jpg このアルバムを渋谷のHMVで試聴したとき、ジュディ・シルのことはまったく知らなかったが、1曲目を聞いた瞬間に、他のどんなミュージシャンにも求めることのできない世界に触れた気がした。試聴機の前で文字通り立ちつくしてしまった。

 宗教的ではないのに、きわめて宗教性を感じさせる音楽と言おうか。もちろん1曲目のタイトルがThat's the spiritとつけられているように、歌詞の内容には神を感じさせるものが多い。しかしその詩の内容よりも、音楽そのものもつ高揚感がそう感じさせる。彼女の声の高音へと上りつめるときの、抑揚のきわめて細やかな変化が、聞いている側を崇高な気持ちにさせる。

 メロディ自体は飾り気のないシンプルなものばかり。ホンキー・トンク調の曲や、フォーク、ポップス、カントリー、そしてクラシックさえもが自由にまざりあっている。だが、1枚目や2枚目の簡素さに比べると、この3枚目には、それまでに見られなかった華やかさがある。それまでの内省的な雰囲気から、希望へと移るような音楽に対する信頼感が感じられる。ソフトな歌声なのに、その歌には彼女の強い確信があるのだ。歌うこと以外の生き方はありえないような心の底からの確信だ。

 このアルバムはデモテープのまま残され、本人の生前には発表されることはなかった。オーバードーズで35歳で亡くなってから、26年の時を経てようやく発売へと至った。ローラ・ニーロの初期のアルバムにも鎮魂歌のようなものを感じるが、どちらかというと厳粛な気持ちを起こさせる雰囲気があって、明るさが指してくるのは、活動休止後に出したSmileぐらいになってからだろう。それに対してジュディ・シルは同じ鎮魂歌であっても、彼女の生き様とは正反対に本質的におだやかなのだ。魂の救いや、希望というものをこれほどまでに素直に表現したミュージシャンは希有なのではないだろうか。

 そして再発にあたったジム・オルークを始めとするスタッフの愛情がそのまま伝わってくる丁寧な作業ぶりが目をひく。その後ライノからデモテイクがたっぷりとはいった1枚目、2枚目の再発、そしてロンドンでのライブの発掘音源と、ジュディ・シルの仕事をしっかりと歴史化するアルバムが出されることになった。

the_bootleg_series_vol_7.jpg たった一言のことばでも心がふるえることがあるように、簡素なギターの音色とつぶやくような歌だけでも、心がかきむしられることがある。『No direction home』は61年から66年までのディランの音楽活動を追った映画だが、はたしてここで歌われている歌はフォーク歌手の歌だろうか。これらの音源を耳にすると、そうした音楽ジャンルが本当に吹っ飛んでしまう。またこれが20歳に満たない人間のパフォーマンスであることにも驚く。甘さやつたなさなどみじんもない、激しさと氷つくような冷徹さが同居しているような演奏だ。

 まず耳をひくのはDisc1の5, 6曲目におさめられた61年演奏の「ミネソタ・ホテル・テープ音源」。当たり前だがデビューすらしていないディランの演奏だが、ここには単純なギターの音なのに恐ろしいほど攻撃的なにおいが漂ってくる。たとえ誰かのカバーだろうと、ディランがやってしまうとディランにしか聞こえない鬼気迫るものがある。特に6曲目のタイトルI was young when I left home。この曲の圧倒的な孤独感が胸をしめつける。ほとんど自分のテーマ曲にしたいほど素晴らしいパフォーマンスだと思う。

 もちろんここにおさめられたオルタナティブ・バージョンもよい。「くよくよするなよ」、「風に吹かれて」、「戦争の親玉」などもともと名曲なんだけど、別バージョンを聞いてもそのクオリティには優劣がない。というかそもそもディランはもうどの曲がいいとか悪いのレベルではないのだ。その瞬間を凝縮させるパフォーマンスこそが彼の歌であり、歌の生命であり、それだからこそ、彼が演奏しているという事実そのものが、こちらを曲に正面から向かわせる。

 瞬間が凝縮されているからだろう。彼のパフォーマンスには8分を越える曲が何曲もある。「はげしい雨が降る」(8:23)、「自由の鐘」(8:04 しかし何でこんな歌い方をするのだろうか...がなっているのか、大声張り上げているのか、でもその吐き出すような歌い方にぐっとくる)、「廃墟の街」に至っては11分を越えている。しかもギターソロがあるわけではなく、ひとつのメロディだけで延々と続いていくわけだが、時間の長さというか、時そのものを感じさせないほど濃密な歌なのだ。
  
 そしてクレジット上はやはり8分を越える「ライク・ア・ローリングストーン」。観客との緊張感張りつめたやり取りはロック史上の一事件として有名だが、その後のディランの演奏が何もなかったかのように「冷静に熱い」のが、もうほとんど狂気に近いと思わせてしまうのだ。これが今からほとんど50年も前のものだとは思えないほど、熱気が伝わってくる。冷めて保存された遺物ではない。今でも私たちに刃物をつきつけるような鋭敏さをもって、50年前のディランは歌いかけてくるのだ。

The Damned, Strawberries (1982)

strawberries.jpg パンクの一過性のブームが終わった後に、アルバムをどのように出し続けて行くか。例えば、1980年に出されたクラッシュの「サンディニスタ」は、もともとニュー・ウェーブがアプローチしていたワールド・ミュージックを全面的に音楽に反映したアルバムだった。しかも、とにかくやるだけやってみようと、何でもありでLP3枚組になってしまった。

 80年代に入って、音楽性の高いアルバムを作らなければ、バンドの将来もない。そのせっぱつまったところに出したダムドの答えは、圧倒的にポップであることだった。それだけにダムドの代表作にはなりえないし、彼らのデビューが衝撃的だっただけに、80年代のアルバムはほとんどかすんでしまうだろう。しかし、時代の中でどう生き延びるか、そのしたたかさがこのアルバムにはある。

 1曲目こそ、ドラムの早打ちに、ギターの早弾きが重なるやかましい音楽だが、2曲目からがらっと雰囲気がかわる。とにかくサビがポップ。サイケデリック・ファーズと区別がつかないくらいに。3曲目はそのサビの部分にブラスまで入って、雰囲気が実に明るい。4曲目はテクノポップ的キーボードまで入ってしまい、時代の音をとにかくつめこんでしまった感がありあり。

 そして8曲目のような英国的憂いをもった曲。これなどはダムドというパンク・バンドというよりも、80年代のイギリスの音楽そのままで、ダムドらしさはほとんど感じられない。

 パンク、ニュー・ウェーブそしてイギリス的な伝統の音。こうしたアルバムは確かに今ではもう聞けない古い音なのかもしれない。しかし時代の証言としてははずすことのできないアルバムだ。この時代の挑戦も失敗も、音の古さも、パンクを越えて、どんな音を作っていくか、その答えがまだ見つからない中で制作されたということも含めて、「あのダムドがつくったアルバム」なのだ。

 そしてイギリス的な迷いは、少なくとも政治的にはサッチャーによって払拭されることになるのだろう。自らの階層を意識して。その政治性に加担して音楽を作るのか、それとも箱庭的に音楽の楽しみに興じるのか。今度は違う次元の問いが始まる。その見事な返答がボブ・ゲルドフだったのは、イギリス的音楽の敗北だったのではないだろうか。そしてもうひとつはU2。適度に政治性をからめながらも、音楽がショーであることをしっかりと証明してくれた。その代わりBoyの激しい視線はすっかり曇ってしまったが。

Jesse Davis, Jesse Davis (1970)

jesse_davis.jpg バラカン・モーニングを聞いていたら、今日6月22日はジェシ・エド・デイヴィスの命日だそう。88年にドラッグ中毒で43歳で死亡。出したCDは3枚。ごそごそCDラックの中から探し出して、本当に久しぶりに聞いた。どのアルバムもいいけれど、最も地味かもしれないが、ファーストが一番彼のパーソナルな部分がでていて好きだ。(でもジャケはセカンドの写真が素敵かな...サード裏ジャケのスタジャン姿の本人も陽気なネイティブ・アメリカンの雰囲気でいい写真だ)

 70年から73年のわずか4年の間に、あたかも早すぎる死を予期していたかのように3枚のアルバムが出された。アルバムによって曲調が大幅に違うということはない。スパンが短かったこともあるが、それ以上にジェシの音楽スタイルは最初から確立されていたと言える。彼のスライドギターにのせたバンド演奏で、爽快なスワンプロックを聞かせてくれる。その意味でまさにこの時代の音だとも言ってしまえる。しかしこの朴訥な、決してうまいとはいえない歌声はジェシ独自のものだ。そしてリトル・フィートのように、実は繊細なメロディラインで決して泥臭くならないところが、彼をソウル、ゴスペルの味わいを残しながらもむしろSSWとしてとらえたくなるゆえんである。2曲目、Tulsa Countyの「町を抜け出して、国境までいってしまいたい」という所在なさもよいし、次のWashita Love Childでは、彼の卓越したギターを堪能できる。そして、4曲目はうってかわってロックパーティのにぎやかさをそのままリズムラインにした曲だ。B面にはいっても名曲が続く。最初の曲はホンキートンク調のピアノから入り、女性コーラスがはいってくるところなど、いわゆる南部ロックの骨太さが感じられる。次のRock'n Roll Gypsiesは、クレジットをみたらスワンプ・ロック・シンガーRoger Tillisonの曲だった。これもほんのりとゴスペルの味わいがあってほのぼのする。最後はVan Morrisonのクレイジー・ラブ。

 デビュー当初は、ジョージ・ハリスン、エリック・クラプトン、レオン・ラッセルの交流から彼の名前も知られたらしいが、そのような人脈がなくてもこの3枚のアルバムはずっとロックの名盤として残り続けるだろう。

i_can_hear_the_heart_beating_as_one.jpg Yo La Tengoのアルバムを買ったのは確か80年代後半で、DB'sなどのアメリカインディーズを聞いていたときに、DB'sのピーター・ホルサップルやクリス・ステイミーの同志のアルバムとして買ったように思う。しかしそのアルバムの内容はむしろ、Peru Ubuなどのアングラ・ロックに等しく、聞くのに「忍耐」が必要だった。

 ところがこのバンド、粘り強く存在していたようで、今も活躍しているとのこと。入学以来500枚以上CDを買っている愛すべきO君から最近の愛聴盤と紹介され、聞かせてもらったところ、なるほど彼のいうようにソニック・ユース+ダイナソーな音作りで、さっそくCDを購入した。

 ただこうして聞いてみるとむしろこのアルバムは4ADっぽい、マイ・ブラッディ・バレンタインのような音像処理のほうが耳に入ってくる。たとえば5曲目などはJoy Divisionにあるギターのエコーを最大限に聞かせて、それにヴォーカルを埋没させるような音作りである。そして途中からはFeeliesのようなアメリカのガレージバンドぽいギターを聞かせてくれる。でも面白いのはこのギターの音、結局はイーノの実験音楽的ロックと同じ音色なのだ。まさにこの雑食性こそ、このバンドの魅力なのだろう。

 実際にはどうかわからないが、スタジオの録音代がまったくかかっていないようなチープな音、脱力したヴォーカルが全体の雰囲気を作っている。この金のかかっていない貧乏くさい音が、このバンドにシンパシーを感じてしまう理由である。もちろん本人たちはスタジオにこもっていろいろ機材をいじくっては楽しんでいるのだろうが...

exile_on_main_st.jpg ストーンズといえば、あまりにもキャッチーで「キマっている」ところがどうしても聞けなかった。「黒く塗れ」、「悪魔を哀れむ歌」などあまりにも出来過ぎで、約束事を聞かされている気になってしまう。それにくらべればKinksのだらしなさ、音のすかすか感が気持ちよく、ロックは不良のためではなく、すなわち外見ではなく、日常において社会に違和感を持っていながらもなんとか暮らしている人間のためでもあるという意を強く持たせてくれた。

 しかしこの『メインストリート」を聞いて、ストーンズは「キャッチー」や「決め」ではなく、ポピュラリティなのだと強く認識した。ここにあるブルース、ソウル、そして今でいうワールドミュージックなどが、白人の若者たちによって咀嚼され、演奏され、広いポピュラリティを獲得している。それがストーンズの魅力だと感じた。ここにあるのは、ロックという混血の音楽であり、始源から切り離された私生児が持つ音楽の魅力だ。

 とにかく今回のSHMCDは、よい意味で音の分離が明確で、それぞれの音が粒だっている分だけ、それぞれの楽器がここぞというタイミングで絡み付いているのがよてもよくわかる。たとえばロバート・ジョンソンのカバーStop Breaking Downのミック・テイラーのぐねぐねにワイルドなスライドに、ミック・ジャガーのマウス・ハープ、ニッキー・ホプキンスのキーボードがからんでくるところなど、すでにブルースでありながら、それを超えるポピュラリティを持ってしまっている。ポピュラリティとは、人種や出自を問題にせず、どんな生き方をしてきた人間にも通じる音楽ということだ。

 自分はロックミュージシャンがなんだかわけもなく「イェー」と叫んでいるのを心から唾棄する人間だが、1曲目Rocks Offの冒頭の「Yeah」にはゾクゾクしてしまう。無礼講のパーティにふさわしい猥雑なかけ声だ。

 個人的に心に突き刺さるのは、ソウルテイストというかゴスペル感のあふれるTorn and Frayedや、Let It Loose, Shine a Lightだろうか。「ベガーズ・バンケット」の「地の塩」を聞いて卒倒した自分としては、この高揚感にしびれっぱなしである。

 このCDを買ったときには、焼け買いで他にも買いあさったのだが、このアルバムがハードローテーションで、まったく聞けていないし、ボーナストラックもまだまだ聞く体勢になれない。

 そう、ソウルといえば「ダイスをころがせ」。この曲にもロックの恒例の代名詞「ベイビー」が連呼されるが、この曲ほど「ベイビー」がかっこいい曲もないだろう。バックコーラスとの盛り上がり、夜を徹して踊りたくなる名曲です。

brother_brother_brother.jpg フランスの詩人アラゴンについて調べていて、次のような彼のことばがあった。「プロレタリア文学は、形式において民族的であり、内容において社会主義的であろう、というスターリンの言葉をもう一度思い出そう」。

 文学同様、音楽も民族の精神、階級の精神に結びつけて語られやすい。たとえば音楽に託された虐げられた人々の魂の声というような言い方である。たとえ抑圧ということばを持ち出さなくても、なぜマイケル・ジャクソンが兄弟ともども幼くして芸能生活を始めているのか、そこには黒人と芸能という切っても切り話せない社会生活の一端がはっきりと示されている。

 アラゴンからずいぶん飛躍だが、それでも音楽という文化はメッセージをもち、ある階級や人種の抵抗のシンボルになりうる。しかし音楽が本当に生き始めるのは、その音楽が、当初の対象であった、階級や人種の閉じられた壁を越えるときではないだろうか。Isley Brothersは、当初から曲が白人ロックグループに取り上げられ、ひとえにポピュラー・ミュージックとしての俗化に寄与してきた。

 そして70年代前後。ソウルにインスパイアされた白人ミュージシャンの曲をカバーすることになる。それも洗練されたアレンジのメロディラインと、練り上げられたファンクのリズムで、音楽が何らかのジャンルに属す必要などまったくないことを実感させてくれたのである。時代の重々しさを引きずった前作も重要だが、Isleyらしい吹っ切れ感があって、こちらのアルバムのほうを何度も聞いてしまう。

 たとえばSweet Seasonの解釈が好きだ。60年代のポップスの定型を抜け出して、軽やかなコーラスを聞かせて、後半はファンク調のギターをからめて、Keep On Walkin'にうつり、コーラスもドゥワップにかわるとこころがスリリング。

 Work To Doも最初のピアノの音が印象的だが、ヴォーカルはその甘さを軽く拭うかのようにパンチが効いている。このシャウトしながら、高音をのばしてゆくサビの部分が最高です。

 スイートであるが決してBGMではない。この静かな主張が、70年という時代を越えて現在まで届いてくる。そこには洗練という音へのこだわりが必要だったのだ。だから、このアルバムを聞きながら、歌詞ではなくサウンドへと注意が行ってしまう。そうした聞き方はアルバムが出された当時ならばできなかったかも知れないが...

rare_and_unreleased.jpg 1966年から1974年までのアウトテイク35曲。アレサを手がけたジェリー・ウェクスラーが編んだ未発表音源集は、とにかくアレサへの愛に満ちあふれた丁寧な仕事から生まれたアルバムだ。こればかりは日本盤のウェクスラーの解説を読みながら聞きたい。実にアレサへの信頼、尊敬、愛情に満ちた最高の解説なのだ。もちろんアレサをスターダムに押し上げたのがウェクスラーだが、自慢話はいっさいない。裏方として、これらの音楽がいかに生まれたのか誠実に説明してくれる。このアウトテイクを作ったときウェクスラーは91歳。

 実に様々な曲がおさめられている。スイングしたくなるグルーブ感に満ちた曲もあれば、こちらの涙を誘うスイートなバラード、ゴスペル・ソウルの崇高な力強い曲もある。どんな曲でもアレサは歌いこなしてしまう。しかも、けっして激しくシャウトしているわけではないのに、魂からの叫びがこちらの魂も揺さぶるのだ。

 アウトテイク集というとばらばらな曲が記録として並んでいるというものがけっこうあるが、このアルバムに関しては、そうした「とりあえず、眠っていたものを発掘してきました」という雑さがまったくないのだ。年代を追いながら、60年代から70年代にかけて、黒人のための音楽ではなく、音楽に人生の誠実な喜びを求める人すべてに向けられた音楽へと、世界が広がってゆくのを実感するのだ。

 そして最大の愛。それはウェクスラーのもとに送られた、ピアノの弾き語りのアレサのデモ・テープから始まり、やはりピアノの弾き語りで終わる、この構成だ。最後の曲はAre you leaving me...彼にとっての本当に愛は、自分のもとを離れて、さらに広い世界へと出て行くことを、心から見送ることになったのだろうか。

music_of_my_mind.jpg 自分の創造したい音楽を実現してくれる楽器を手に入れたあふれんばかりの喜びが伝わってくる、若々しく高い志に満ちたアルバムである。シンセサイザーと出会い、とりあえずいろいろ試してみたのではなく、すでに自分の意図のもとに、自分の音楽にあわせてこの楽器を使いこなしていることに驚く。

 1曲目は、後年の慈愛に満ちた表情からは想像もできない、かなりアグレシッブなファンク・ロックだ。はじまりのかけ声からしてテンションが違う! その後の「マ、マ、マ、マ、ベイビー」の激しい唸り声に、最初から圧倒される。2曲目は反対にその後のスティーヴィとの共通性を感じる、甘美な名曲。しかしぼくが一番好きなのは、3曲目のI Love Every Little Thing About Youだ。ささやくようなヴォーカルから始まり、「チャ!」、「シュ! パア!」というバックコーラスにのせられながら、曲は次第にアップテンポになって、一気にサビへとはいり、I love, I loveのタイトルフレーズの連呼になる。最後の盛り上がり、ドラムのスネアが最高に効いていて、それに太いスティーヴィの声、女性コーラス。あっという間に終わってしまうのだけど、このグルーブ感は至福の一瞬だ。

 そして最初にバラカン・モーニングで耳にしたHappier Than Morning Sunの瑞々しさ。アコースティックギターの音色に、少しだけヴァーヴのかかったスティーヴィの声のとろけ具合が最高なのだ。

 このアルバムはいわゆる「ソウル」のアルバムには属さないし、かといって、当時聞かれていた「ロック」でもない。シンセサイザーとの出会いは、おそらくそうしたジャンルの制約を打ち破るにあまりあるものだったのだろう。とにかくこのアルバムには、時代を駆け抜けてゆくスリルがある。8曲目のKeep On Runningなどはそんな張りつめたスピード感をもっともよく表しているだろう。そして最後のEvilは、シンセの音の粒子が飛び交い、スティーヴィらしい崇高感を抱かせるスケールの大きな曲だ。

 自分でも抑えられない音楽が次々と流れてくる、それをシンセによって実際の音にして、曲ができてしまう。無限の創造意欲がこのアルバムに普遍的な力を与えている。だから確かにトータルアルバムではないだろう。しかしだからこそ、その奔放さには限界がないのだ。22歳という若さですでに達してしまった恐ろしくレベルの高い完成度。天才スティーヴィ・ワンダーがこのアルバムから始まった。

if_youre_lonely.jpg ピアノの音が流れる。しばらくしてドラム、ベースが加わり、ぼくとつとしたヴォーカルが始まる。そのバックにはゴスペル風のコーラス。Singin'Only you can help meが祈りのことばとして伝えられる。そして間奏にスライド・ギターとストリングス。控えめであり荘厳であり、ロックであり、ソウルであり、こんなアレンジの曲があったのかと驚きながら、海にたゆたうように曲に誘われる。

 二曲目はピアノとハーモニカが、If You're lonelyというタイトル通りの音色を奏でる。たとえばポール・ウィリアムを思い出させるようなせつなさだ。

 ジャケットからは、おだやかでのんびりした私的な空間で奏でられる音楽という、SSWらしい雰囲気が伝わってくる。しかし、このアルバムはそれだけにとどまらない、スケールの大きさがあると思う。聞いていて静謐な気持ちにうたれるのは、叙情さだけではなく、宗教的な荘厳さがあるからだ。最後の曲Christ, it's mighty cold outsideはピアノにのせてせつせつと祈りのことばを歌う。もしKazの声が少しでも低かったら、もはやポピュラー音楽として聞き通すことは難しかっただろう。また聞く人をおそらく限ってしまったに違いない。しかし彼のうれいを帯びた声が、このアルバムを普遍性をたずさえたロックの良質盤にしてくれている。

 このアルバムが90年代後半に「名盤探検隊」の一枚として人気を集めた理由がわかる。孤独で憂愁に満ちたヴォーカル。その感情を高めるストリングスの物悲しさ。しかしそれをサポートするアレンジと楽器はあくまでも力強いのだ。ソウルフルであり、かつファンキーな奥行き。その希有なバランスがこのアルバムの魅力なのだ。

live_2002.jpg John Mayerを聞いていたら、フランス人の友人から「これが好きなら絶対気に入るよ」と紹介されたのがGérald De Palmasである。確かにJohn Mayerぽい。とはいえ、このアルバムがライブであることもあり、むしろブルース・スプリングスティーン兄か。最初の« On y va ! »「イクぜ!」や曲の間の« Est-ce que vous êtes avec nous ? » 「お前らオレたちと一緒かい?」と煽るところなど、熱いです。

 曲はきわめてシンプル。ギターが印象的なリフを繰り返し、サビでもTu vas manquer「寂しくなるぜ」やRegarde-moi en face「オレを真っ正面からみてくれ」など、「ああやっぱりフランスって」という赤面するような歌詞が歌われる。でもそれは結局ロックというパフォーマンスが持っている共通の部分だろう。それを越えると、たとえばディランのような詩人の聖域に入って行くのだ。

 そうフランスにも卓越したテクニックをもったミュージシャンは数多くいる。このDe Palmasのライブでも、まったくぶれのない、端正ともいえる演奏が楽しめる。

 フランスのロックがほとんど聞くにたえないのは、甘ったるい叙情性、耽溺したナルシシズムのようなヴォーカルが多いためだが、De Palmasは珍しく硬派だ。ロックのリズムにうまくフランス語が乗っている。少しハスキーな声も魅力的だ。John Mayerほど弾きまくるわけではないし、むしろ控えめなのだが、ギターもいい音色を出している。とっても誠実なミュージシャンなのだ。

 でもやっぱり曲が終わって言われるMerci Beaucoup !はちょっと谷村新司かも...

le_premier_clair_de_laube.jpg 最初のハミングとギターの弦をかする音だけで、今回のアルバムが旅を続けるシンガー・ソングライターの遍歴を描くアルバムであることを印象づける。前作の、スタジオでしっかりと練られた、ユーモアとペーソスがうまく混じり合った演出のなされたアルバムとは異なり、このアルバムは旅のスケッチ、旅の合間に綴った日記のようなアルバムだ。広島、パリ、オレゴン州、ブリュッセル、モントリオールなど、土地の名前が曲のクレジットに挟まれている。ツアーの間の日常的なスケッチと言えばよいだろうか。流れ者テテの記録としての音楽だ。アルバムにも何枚もライブの風景写真が収められている。

 基本的にはシンプルな小品が集められている。どの曲も3分前後で終わる。ドラマティックな展開もない。むしろブルースやフォークの原風景ーアメリカの大地の中で、ギターをもった人間が最初につまびいたに違いない音、そんな簡素な音楽である。

 そのせいか、たとえばMaudit bluesのようなわりと素直な曲が多い。その中で最もテテらしい曲は、やはりアルバムタイトルのLe premier clair de l'aubeだろうか。2分45秒のギター一本の弾き語り。何ていうこともない。アルバムの曲と曲の間にはさまった間奏曲のようでいて、それでいて、テテの微妙な節回しが堪能できるなかなかの佳品だ。Petite chansonはまさに曲のタイトル通り、簡単なメロディラインの曲だが、それでいて、いつものテテのやさしさが感じられる素敵な小曲。Les temps égarésもいい曲だ。いかにもテテらしい乾いた空気のなか、叙情的なメロディが流れてくる。

 いつもどこかの街角でギターを持って歌っているテテの等身大の作品集が今回のアルバムだ。アンプなしでどの曲もできてしまえる肌触りのここちよい音楽がつまっている、最後のBye-Byeもご機嫌な一曲。おそらくライブではこの曲をアンコールにやって、幕が閉じるのだろうか?

付記

 Tétéのこのアルバムは日本盤でも4月11日に発売される。しかも、特別限定盤にしかついていなかったデモ5曲が、日本盤にはボーナストラックでおさめられいる。さらにはvideo-clipもつくとのこと。

 Webサイト(メタカンパニー)によれば、Tété初のアメリカ録音で、プロデューサーはロス・ロボスのメンバーらしい。確かに今まででもっともアメリカっぽい音だ。Tétéはあらためて流浪の詩人だという気がする。どの場所でも柔軟に生きていける自由さと寛容さをもったミュージシャンだ。

live_at_fillmore_west.jpg 年末にめずらしくテレビをつけていたら、いきなりピーター・バラカンがCMに出ていて驚いた。自宅で撮られたInter-FMのためのCMだった。それでバラカン・モーニングを知って、ラジオサーバーを購入し、以来ほぼ全番組を聞いている。

 今日3月25日は、アレサ・フランクリンの誕生日で(自分の父親も今日が誕生日だった・・・)、それでかかったフィルモアのライブがあまりにも素晴らしかったので、思わずレコード屋に直行してしまった。購入したのはレガシーエディション。ソウルにはまったく不勉強な自分だが、このアルバムは万人を受け入れてくれる、度量の広いアルバムであること、そしてだれであっても音楽好きならば、間違いなく感動する素晴らしい音楽が詰まっていることはわかる。

 ということでまだ全然聞き込んでいないのだが、このCD2がいい!Call meからMixed-up Girlの2曲がいい。心をふるわせ、体が思わずスイングする音楽の力を十二分に感じることができる。でもそのあともたたみかけるように素晴らしいパフォーマンスが続く。

 いったい歌とは何だろう。それは素朴な言い方だが、音楽を聞くことで、喜んだり、泣けてきたり、感情の深み、感情が一気に振幅することを体験するのだと思う。普段の生活の中で忘れていた、感動ーちょっとキザにいえば、魂の震えーそれを感じられるのが音楽の素晴らしさだ。アレサのヴォーカルを聞いていると、自分の感情がだんだん深く、繊細になっていく気がする。鉛のようになってしまった感覚が、彼女の声を聞いているうちに、だんだん溶けていって、音楽とひとつになるような気がする。自分がこんなに感情をあらわにすることなんていったいいつ以来だろうか、そんな思いにさせてくれるほど、アレサの声は心に沁み入ってくる。

 人間はこんなにも感動できるのか・・・

kiroku_series_1.jpg CD4枚+DVD1枚。ディスク・ユニオンの中古で2000円ちょっとで購入。DVDはオースティンでのライブだが、これは必見。どの曲もメンバーがはねている。とくにギターとベース。若いバンドの演奏って実にいいと感じさせてくれる。とにかくすばらしい。

 Disc2は前半が新宿JAMでのライブ。あの狭い空間で濃密な音楽が流れたかと思うと、感慨深い。一曲目Omoideはもったいぶったイントロが実にかっこよく、ドラムのロールからギターが入ってきてのっけから最高にスリリングなのだが、このテイクはドラムのバランスが大きいせいか、かなりストレートな曲に出来上がっている。解散直前にくらべれば曲のもつレンジがせまいけれども、ライブバンドとして卓越した技量をみせつける爽快さがこのテイクにはある。次の「大あたりの季節」もノイジーではあるが、いわゆるロックバンドの定式を抜け出しているわけではない。ライブバンドのノリだけで押し通してしまう若さがあるといおうか。いったいこのバンドはどれほどのスピードで円熟へと達してしまったのだろうか。

 このdisc2を聞くと、演奏力だけでは歴史にならないことを強く感じる。このライブだけでは、Number Girlが日本のロック史に名を刻むバンドになったかどうかわからない。演奏だけではなく、いわゆるオーラのようなもの、唯一無二なものが生まれて初めて、歴史の中でこのバンドを考えることができる。解散時の圧倒的な存在感、何かが取り憑いたような存在感ではない。たとえば8曲目「日常を生きる少女」など、このテイクでは単調なタテノリで、性急で突っ込みがちだ。しかし「シブヤ」では、それだけではおさまらない幅がある。ヴォーカルが遠いといおうか、それでも曲として深まりがあるのだ。空気をつかんでひきのばしたような、それでいてはりつめた音の世界が広がってゆく。

 Disc4は、裸のラリーズのように、ギターのエコーと、それがノイズとなって渦巻くところから曲が始まる。最高にかっこいい始まり方だ。この1曲目の「日常に生きる少女」から2曲目の「Omoide」へとつながるところも実にいい。Omoideは渋谷のライブ盤、そして札幌ラストコンサートのテイクの鬼気迫る「いってしまった」感にくらべると、こちらのテイクは、たたみかける「まともな」演奏だが、音の圧力はひけをとらない。

 このdisc4のベストテイクはZazenbeats kemonostyle。もともとヴォーカルは叫びではなくうなりのようなものだが、この曲では吠えまくっている。サイケデリックなギターによる演奏が延々と続き、そこにひたすらヴォーカルがかぶってくるところ、この10分のノイズの渦巻きが圧巻だ。そのあとのeitht beaterもやたら攻撃的だ。もうこれ吠えまくりでほとんど歌になっていない・・・実にエフェクターの効き具合がたまらない。

 で、disc1,4はまだ聞く時間がない・・・

John Mayer, Battle Studies (2009)

battle_studies.jpg 09年のニューアルバムは、John Mayerのブルース・ギターはほとんど聞かれない。ギターは落ち着いた音色で全体の曲のアンサンブルにとけ込んでいる。心地よいエコーが聞いた静かな印象のアルバムだ。

 アルバムのテイストとしてはHeavier Thingsのコンセプトに近いだろう。しかしそのときには実現できなかった音楽が見事にこのアルバムに実現されている気がする。飾り立てたり、ひけらかしたりすることのない、質素で節制が効いていて、聞き終わった瞬間にゆっくりと心の中で音楽が熟成されていく。ラストの曲を聞き終えるとまた1曲目から聞き直したくなる。

 シンプルな深みーたとえばAll We Everは、アレンジだけとれば叙情的な曲だが、アコースティックなシンプルさと、途中で入るギターがとても控えめで、とても上品な曲に仕上がっている。Perfectly Lonlyはもう定番といえるようなキャッチーな曲だ。しかし決してコマーシャルではない。ただ純粋に楽しんで音楽を演奏している。そこに心ひかれる。Crossroadsのカバーも何の飾りも力みもない。ストイックにブルースギターがはじけて、いさぎよく終わっている。War of My Lifeは、ドラムも単純だし、ギターのリフもほとんど変化しない。Mayerのヴォーカルにもまったく力みがない。でもだからこそ自然体の音楽がすんなり体に染みてくるのだ。

 そしてラストの曲になってようやく、Mayerのしびれるギタープレイが聞ける。この曲はHPで公開されていたライブでもエンディングで演奏されていてかなりの盛り上がりを見せるのだが、アルバムテイクはそれにくらべてばかなり控えめだ。

 聞き込めば聞き込むほどこれは名盤だという確信がふつふつとわいてくる。大人の挑戦としてロックだ。ひとりのミュージシャンをずっと追いかけていく楽しみはこんなところにある。

Squeeze, Frank (1989)

frank.jpg 当時はロックしか聞いてなかった自分にとって、スクイーズはひねくれたブリティッシュ・ニュー・ウェーブバンドということで気に入っていた。しかし今聞き返してみると、このバンドは、了見のせまかった自分にとっても十分聞けるソウルテイストのロックだったのだと思う。たとえばポール・ウェラーのソウルへの傾倒はあまりに素直すぎて聞けなかった。それに対してスクイーズはもっと洗練されていて、ルーツを気にしなくても聞けるバンドだった。

 また当時はXTCと並んだあまのじゃくバンドという印象だったが、アンディ・パートリッジのようなインテリ然としたそれゆえ攻撃的な(もう少しいくと人の悪い)アプローチは感じられない。むしろいろんな実験的なことをやるんだけど、どれも結局は同じ味になってしまって、でもまあそれでもいいか、といった枠を破れないというか枠のくっきりしたバンドだ。そんな投げやりなユーモアはたとえば5曲目の雰囲気によく表れている。

 89年のFrankはなかでも最もストレートなポップアルバムだと思う。ベスト・テイクはLove Circlesだ。とっても爽やかで、でもどこかせつない。20年も前に聞いたのに、今だに胸がしめつけられるのは、曲がフォーエバー・ヤングなのか、自分がそうなのか・・・ギターのリフがこの頃のニュー・ウェーブのいかにもの音で青臭いのだけど、曲の展開は完璧、とくにサビの前の少しマイナーなメロディがいい。青春の代表的な一曲。

 もちろん他の曲もいい。冒頭のイントロ明けのIf it's Loveは一回聞いただけですぐに口ずさめる優れたポップソングであり、そうしたところでビートルズに近いと言われるのかもしれない。この曲はヴォーカルがほどよくパンチがあって、曲のノリのよさとあっている。どの曲も親しみやすいのに、それでもスクイーズのオリジナリティを十二分に感じることができる。そのあたりの個性と普遍性を兼ね備えているところが、このバンドの卓越したところなんだろう。

 数年前にでたクリス・ディフォードの弾き語りライブも感動ものだった。かつてのスクイーズの曲を弾き語りで演奏しているのだが、それだけによけい曲のよさが際立つ。その意味でもイギリス・ニューウェーブの文脈を超えて、ポップ・ロックとしての代表バンドとしてスクイーズをあげることができる。

fulfillingness_first_finale.jpg 前作Innervisionsは、完璧な作品で、一音一音まで緊密に構成され、その完成度の高さに聞き終わるとちょっと脱力状態になってしまうが、このFirst Finaleは、もう少し余裕をもって聞けるアルバムである。

 それはたとえばToo shy to sayやThey won't go when I goのようにメロディだけとるならば、あまりにも直接的で平明な曲があるからかもしれない。

 だが24歳にしてすでに人生の「ファースト・フィナーレ」と言ってしまうほどアルバムの充実度は高い。ポップでいて驚きに満ちた音楽だ。その驚きというのは実は細かいところに現れる。たとえば1曲目、さびのBum, Bumのバック・コーラスの「ニャー」というかけ声が不思議だ。

 このアルバムで一番好きなのはA面5曲目のCreepin'。のっけからドラムスの入り方がかっこいい。その後もこの曲はシンセではなくて、ドラムスが見事におかずをいれながら入ってきて、甘い愛の歌にもかかわらずタイトな雰囲気に仕上がっている。それから2曲目のゴスペルタッチのHeaven is〜。こちらの気分をいやがおうにも高揚させてくれる。

 B面にはいると、ファンクのねばりこいリズムにのせて、曲がはねる。「ジャクソン5が僕と一緒に歌うよ〜」っていうところもノリノリでいいです。最後のPlease don't goも卓越したセンスを感じる曲だ。おなじみのハーモニカもよいし、Tell me whyの力のこもった歌い方もよいし、Don't go babyとたたみかけてくるところの迫力、そしてクラップ音がはいってゴスペルテイスト全開で終わっていくところなど、まさにフィナーレだ。

 高みに達した落ち着きが感じられるとはいえ、音はあくまでカラフルだし、ヴァラエティに富んでいる。やりたいことをそのままできてしまえる、そのような天才の恍惚を満喫できる一枚だ。

streetlights.jpg 前からちゃんと聞きたいと思っていたが、1枚もアルバムは持っていなかった。先日ラジオでかかっていたAngel from montgomeryがあまりにいい曲だったので、この曲がおさめられているアルバムを購入した。それ以来この曲、ヘビーローテーションである。

 R&Bの姉御として、渋いギタープレイを聞かせてくれ、90年にグラミー賞を受賞してからはその迫力にますます拍車がかかるとともに、円熟味をみせているBonnie Raittだが、このアルバムはなんと全編ヴォーカルアルバムである。その意味では特殊なアルバムなのかもしれない。豪快さや颯爽としたところもないまろやかなアルバムだが、だからと言って決して悪いアルバムではないのは、取り上げている曲がすばらしいからだ。

 プロデューサーはJerry Ragovoy。60年代の有名なプロデューサーとのこと。このあたりの人脈をもっと知らねば・・・。

 1曲目、2曲目はジョニ・ミッチェル、ジェームス・テイラー。そして3曲目にAngel〜がかかる。これはJohn Prineの曲。このミュージシャンもアルバムを聞いたことがないのだが、小尾さんのSongsでは、この曲の歌詞もひきながら紹介されている。たそがれ感がただよいつつも、大地にしっかりと根ざした確信がひしひしと伝わってくる名曲だ。

 このアルバムが必ずしもBonnie Raittのアルバムである必然性はないのかもしれない。それほど切実な歌い方ではないし、この時代の才能ある女性ミュージシャンならば多かれ少なかれアプローチしていた方法だと思うからだ。アメリカのルーツを意識しながらもあくまでもポップ。とはいえAORにはならず。趣味のよいストリングスが入り、スタジオ・ミュージシャンによる粋なアレンジの上に、ヴォーカルがかぶさってくる。

 ただここに歌われている曲は、彼女がとりあげたことで、よりいっそうこれからも歌われ続ける、歴史に埋もれたりはしない名曲であることを確信させてくれる。とにかく曲が生き生きしているのだ。結局はアルバム通して一気に聞いてしまえるご機嫌な音楽なのだ。

this_is_it.jpg 開始早々涙してしまった。その後も終わるまで涙、涙。なにせ全編にわたって愛があふれているのだ。家族への愛、スタッフへの愛、ファンへの愛、人間への愛。本当に愛に満ちた人物は、映画の中でバックミュージシャンが証言していたように「フレンドリーで謙虚」なのだ。決して怒ることもない。他者を傷つけることを最も恐れる繊細な魂。そのような魂だからこそ、最終的には環境をまもろうというメッセージを真剣に考えるようになってしまったのだろうか。

 この映画を観ていると、マイケルの音楽がジャンルの垣根を越えていることを実感する。一音、一音へのこだわり、オリジナルを再現しようとする完璧かつストイックな精神、とにかく観客のためを考える、慈悲といってもいいサービス精神。どれをとっても超一流である。

 もちろんマイケルも現役バリバリのミュージシャン。体の切れは指の先にいたるまで精密にリズムを刻んでいるし、高音の美しさもまったくJackson 5のころと変わらない。それから生のバンドのクオリティもすごい。聞いていて匹敵するものとしてはザッパが浮かんでしまいました。ギター=スティーヴ・ヴァイだし・・・マイケルもザッパもすべてを掌握する指揮者のようだし・・・

 人間は完璧に近づけば近づくほど、犠牲にするものも増えてゆく。睡眠も食事も、そうした人間の日常の営みからはるかに遠いところへと行き着かざるをえない。それが不幸なのだ。そしてその不幸な人間が、他人へは無限の幸福を注いでくれるという逆説。そのような逆説に生きるアーティストはもう生まれてこないのかもしれない。

 修行僧にも似た孤高のアーティストの姿がこの映画には刻まれている。そして無限の音楽への愛も。

shibuya_rock_transformed.jpg Sonic YouthやDinosaur Jr.などの名前が浮かんでも、そうした音楽の影響関係を語ることはほとんど虚しい。Number Girlだけの固有の音楽は、その一瞬の凝縮度から生まれてくる。ライブにおいてこの一瞬だけの音、もう二度と出せないような音の塊が、彼らの音楽を唯一無二のものにする。

 それぞれのパートの音が激しくぶつかりあう。高度な演奏力に裏打ちされた緻密な計算と、金属音の凄まじい破壊の衝動が一曲の中で混じり合う。鍛えられたミュージシャンの破壊の衝動は、決して音楽そのものを破壊はしない。根底のところで曲として成立しているところが並じゃないのだ。

 好きなところはいっぱいあって、突然ドラムとベースがやんで、ギターのリフがえんえんと続くところ、ドラムのロールがギターの爆音と重なりあうところなど。聞かせどころを心得ている。「我起立一個人」の歪みきったギターの音など、アンプに耳をくっつけたくなるほどよい音だ。そこから「Super Young」のロック定番のリフへと入っていくところなど、実にうまい。

 ロックは、うまく歌わなくても曲として成立するジャンルだ。こんな叫び声で歌っても音楽として成立するところがロックだ。

 何度も成立ということばを使ってしまうが、まさに音楽として成立するかしないかのぎりぎりのところで、曲として成り立たっているところが素晴らしい。あるいは「日常を生きる少女」なんて、けっこうスカスカなところがあるんだけど、それがサビにきて一気に空間が音で埋め尽くされるところなど、音楽に立ち会っている気にさせてくれる。

 もちろん「透明少女」や「OMOIDE IN MY HEAD」のようななんだか青春ロックの定番のようなメロディラインの曲もある。でもまたこれがいい。まさに今を生きられないような前のめりの性急さが限りない魅力だ。「透明少女」のドラムのロールがいい。「OMOIDE IN MY HEAD」のドラムにギターがかさなって、一気に全員の音が轟音となって、さらにギターのリフが静寂に響いて、またふたたびバンドの音に戻ってくるのがいい。この演奏力、構成力、メロディのキャッチーさと、マイナーな感じのヴォーカル。どれをとってもこれほどまでに見事に破壊されているのに、緊密な構成をもっている曲が演奏できるバンドは本当に希有だ。虚空に響くギターのエレキ音をずっと聞いていたい。

 ずっと前に解散していても、その会場に若い自分がいたと錯覚させてくれるライブアルバムだ。

Brett Dennen, So Much More (2006)

so_much_more.jpg シンガーソングライター。自分で作詩、作曲をして、自分で歌う。とてもパーソナルな行為とはいえ、そうしたシンガーソングライターが生まれたのは、70年以降のバンドスタイルとは異なる、内省的な表現形態を求めていた時代の要請があったからだ。どれだけ個人的にふるまおうとも、そうしたふるまい方自体を社会が求めていた。だからこそシンガーソングライターは、自分を歌いながらも社会的な求心力を持ち得た。ニール・ヤングの『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』は、たとえばそうした力が、さらに時代を超えて普遍性を持ちうる代表的なロックアルバムだ。

 では今現在シンガーソングライターであるとはどんな意味を持つのだろうか。たとえばすでにキャリア十分のRon Sexsmithがいる。あるいはJack Johnsonのようなひとつのムーブメントを作れるミュージシャンもいる。だが彼らの音楽には時代と切り結ぶ緊張感はない。社会自体が音楽にそれほど強い切迫感を要求しないからだろうか。そうするとシンガーソングライターの善し悪しは、まずはその曲の雰囲気、特にパーソナルな表現としての憂いのようなもの、そして声質で決まってしまうところが大きいだろう。そうした資質のよって音楽の価値が決まってしまうのが、今のシンガーソングライターだろうか。もちろん彼らの音楽は胸をうち、人々に愛される。だが、どれほど多くの人に彼らの声は届くだろうか。結局はある趣味を同じくする人々にとっては愛される、しかし、そのコミューンに属さない人には素通りするだけのイージーリスニングに終わってしまうのではないだろうか。Jack Johnsonは優れたミュージシャンだとは思うが、そのムーブメントは単なるムードと言い換えてしまってもよいような希薄さがどうしてもつきまとう。たとえばふだんブラックソウルを聞かなくても、ウィルソン・ピケットを聞いて感動したり、そうしたジャンルを越えて届いてくるような波及力をどれだけ持ちうるのだろうか。

 Brett Dennonは、まさにその声質が魅力的なミュ−ジシャンだ。かすれた、線の細い声は、他のだれにもまねしようのない天賦のものだ。一瞬男性なのか女性なのか分からない中性的な声は、一度聞いたら彼だと分かる。そして曲全体をおおう憂いとその声質はみごとにマッチしている。曲調は、ただ自分が歌いたいことを歌ってしまったようで、何らかの影響を感じさせることなく、自由だ。だがそれは同時に、曲自体の必然性、「こう歌わざるをえない」とか、「こういうメロディ、アレンジにせざるをえない」というような必然性が希薄だということにもなっている。それはニール・ヤングとは究極的に反対の世界だ。だから曲の美しさが、単に耳に心地よいことの同義になってしまっている。こちらの気分にあわせてどうとでもなる音楽といおうか。ニール・ヤングには、こちらの気分を変えてしまうほどの強い求心力がある。だから誰にでも聞かせられる音楽ではないだろう。でもBrett Dennonならば、そんな心配はない。

 アメリカのインターネットラジオで聞くと、ぐっと印象に残るが、アルバムを通して聞くと、結局さらっと流れていってしまう。声のよさ、曲のよさに聞き惚れるならば一曲だけで十分なのだ。そうしたミュージシャンはアメリカに数多くいる。それがアメリカの豊かさなのだけれど。でも、そこからアルバムで聞かせてくれるミュージシャンはどのくらい生まれてくるのだろうか。こちらを振り向かせ、日常を違った空気で染めてくれるミュージシャンはどのくらいいるだろうか。

The Eagles, On the Border (1974)

on_the_border.jpg イーグルスというバンドはアメリカらしさを体現しているバンドである。70年代にアメリカの失墜と衰退を象徴するようなホテル・カリフォルニアは、当時のアメリカの雰囲気をよくもわるくも表現している名曲だ。

 アメリカとはどのような国なのか。第二次世界大戦後、戦争に入ることのなかった日本と比べるとき、アメリカはまさに戦争をし続けている国ではないだろうか。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そして最近のアフガニスタンにいたるまで、アメリカの戦後は戦争をおびただしく繰り返してきた時代である。それほど緊迫した状況にありながら、それをロックは表象してきただろうか。

 ベトナム戦争の無意味さを「私」の体験として語ったオブライエンのような作家がいる一方で、アメリカンロックはそれほどの鮮烈な虚しさをはたして表現しえたのだろうか。そう考えるとき、自分自身のロックの聴き方がそうした批判意識のない、メロディ主体の聴き方で、十分歌詞を理解しない浅薄な聴き方だったことをあらためて反省してしまう。

 しかしイーグルスがたんなる叙情的なバンドではなく、ハードにタイトに自分たちの音楽を飾り立てようとしたとき、時代を穿つような指向はすでに消え失せてしまったのではなかったか。たとえばホテルカリフォルニアにベトナム戦争への言及を読み込むことができるのかもしれない。しかし当然ながらイーグルスにプロテストソングはないだろうし、とがった楽曲もほとんど存在しない。その意味ではイーグルスのカントリー指向はまさに意匠、さまざまな歴史性を捨象したところに生まれる「スタイル」なのではないか。

 思想などなんにも感じない。だからこそ安心して聞ける。そんな時代の要請に舵を切って見事に成功したのがイーグルスであり、土着性さえも振り切って、タイトにせめたのがこのサードアルバムOn the Borderである。

 もちろん泣けるアルバムだ。なかでも4曲目のMy Manはグラム・パーソンズをしのんだ曲ということで、バーズっぽいフレーズをはさみながらじつに胸にこみあげる名曲。そしてもうひとつの極が、次のOn the Borderのようなハードな曲だ。

 こうしてイーグルスは私的な叙情性とロックを産業として成り立たしめるハードな形式性をうまくとりまぜて制作している。それがこのアルバムの後に実に見事にはまることになり、イーグルスは押しも押されぬビッグバンドとなる。

 しかしイーグルスの音楽は時代をえぐるよな切実さをもはやたずさえてはいない。それはこれ以降のアメリカがまるで思想性など必要としなかったことを表しているようである。ジェームス・ディーンという曲などそのおめでたさしか感じられない曲である。

 もちろんイーグルスのメロディは美しい。しかも懐かしい美しさだ。その美しさは前の時代への追憶でもある。思想性をはぎ取った美しさ。感情の暴発とは関係のないハードな音楽。しかしだからこそ万人受けするのだろう。少しばかりの後ろめたさと喪失感。でもイーグルスはそれを本当に表現しているわけではない。それは「スタンス」なのだ。

 いま最後のThe Best of My Loveという全米チャート1位の曲が流れている。なんの文句もつけようのない美しい曲だ。微妙な潤いがこちらの気持ちを鎮めてくれる。ほとんどBGMといってもよい心地よさ。もしそれ以上のものがあることがアートだとするならば、イーグルスは形式性を無視して、なにを私たちに運んでくれるのだろうか。

captain_fantastic.jpg 名前は世界的に有名なのに、先入観だけでアルバムをきちんと聞いたことのないアーティストがいる。Elton Johnもその一人だった。初期のアルバムは何枚か聞いたが、70年代中頃からの大規模なコンサートを開いては巨額の富を得るようなイメージの作品はあまり食指が動かなかった。しかしそういった偏見というのは本当に自分の趣味を狭くする。

 Elton Johnの自叙伝というべきCaptain〜は、ロックの奥深さを実感させてくれるすばらしいアルバムだ。良質なエンターテイメントと音楽的水準の高さがそのぎりぎりのバランスのところでつりあった芸術作品である。もう少し派手なところでは、当時のイギリスならばクイーンが体現したアートロックである。またそれはボウイが時代的に体現できなかったアートでもある。そう考えるとクイーンとボウイのデュエットは、時代に乗り遅れたボウイの苦し紛れの一手だったのだろう。クイーンがかわいそうだった・・・。

 さて、このアルバムはそんなイギリスのロックの成熟を思う存分味あわせてくれるアルバムだ。どの曲も軽妙で、ドラマティックで、それぞれの楽器の音が生き生きしていて、ポップで、深みがあって、ほろっとさせてくれてと、申し分ない。そしてどの音がいかにもイギリスなのだ。

 ところでこのアルバムはデラックス・エディションで購入したのだが、そのおまけがきわめて豪華。75年のライブがCD1枚分収められているのだが、なんとアルバムと同じ曲順でそのまま再現しているのだ。このライブが素晴らしい。バンドの緊密な音のアンサンブルが見事だし、ライブの高揚感があるし、We all fall in love sometimesの最後は一緒に合唱しないではいられない! というわけで本当はCD1は余分な4曲のボーナスをつけないでほしかった。Curtainsの荘厳なコーラスで終わってほしかった。20秒の曲間はあるものの、この完結した世界には余分だろう。

John Mayer, Inside Wants Out (1999)

inside_wants_out.jpg 35分のEPということだが、最初の1曲を除けば、残りの8曲はすべてアコースティックであり、十分統一感がとれた1枚のアルバムだと言ってよいだろう(日本盤は1曲ボーナスつき)。

 曲の最初の一小節を聞いただけで、まわりの風景が変わってしまう。ギター1本で、色彩豊かな世界が目の前に広がってゆく。No Such Thingは朝の起き抜けに聞きたい、さわやかで瑞々しい曲だ。つぎのMy stupid mouthは、少し落ち着いた、ギターのリフレインが心にじっくり刻まれる名曲。最初のわずか5秒のメロディだけれど、その刹那のメロディが、ずっと心に刻まれる。ふと気づくと自然に口ずさんでしまう、忘れられない曲だ。そしてサビのJohn Mayerの高音のヴォーカル・・・こういう曲を聴いてしまうと、なぜ自分がクラプトンに感動できないのか納得してしまう。John Mayerの曲の美しさは、こちらが立ち止まって、曲に向き合うことを余儀なくさせられる、そして、曲が終わっても、そのメロディがいつまでも響き続けている、強い「出会い」に満ちているのだ。ぼくにとってクラプトンの大方の曲はBGMでしかない。心地よくても、消費され、時間の流れにそのまま運びさられていってしまう音楽だ。

 John Mayerの曲には、繊細さと強さが同居している。たとえば去年のライブアルバムでも1曲目にはいっていたNeonでのギターワークなど、繊細な弦からきわめて力強い音が流れ出してくる。もちろんcomfortableのような、ストリングスの入った泣きの曲もよいけれど。そして最後のQuietは三拍子の静謐な曲だ。リンゴ・スターのGood nightとあわせて聞きたい「おやすみソング」だ。

 もし自分が17歳で、アメリカに暮らしている高校生で、ふとラジオから流れてくるJohn Mayerの曲を耳にしたら、おそらくはずっとJohn Mayerに寄り添って彼の音楽を聞き続けていくことになるだろう。30歳になっても40歳になっても彼の曲を聞いている間は17歳のままだろう。John Mayerもいくらキャリアを重ねても決して大御所にはならないだろう。プロでありながらも、デビュー当時の繊細さをずっと持ち続けてくれるだろう。

Booker T, Evergreen (1974)

evergreen.jpg Booker T.のファーストソロアルバムはプリシラとの3枚目の共作の翌年に出されているが、そうは思えないほど、アルバムの色調が違う。このソロには軽快さがあふれている。もう少しで、AORと言ってもおかしくない曲が多いが、ファッションな音楽ではまったくない。それはここで聞かれる音楽ジャンルの豊かさのせいだろう。ゴスペル、ソウル、ジャズ、さらにはフュージョンの雰囲気までも・・・だがそのどれもが強く自分を主張したりはしない。あくまでもひかえめな演奏が、アルバムを単純な色で染めあげることを防いでいる。

 たとえばA面3曲目のTennessee Voodooはタイトルからも、ヘヴィなスワンプロックを期待するところだが、パーカッションも軽妙で、情念といったものを感じない、それがプリシラとの共作と最も異なる点だろう。Bookerのハイトーンヴォイスは、あくまでも颯爽と、そしてやさしく歌を歌う。この軽やかさがアルバム全体の演奏にも言える。たとえばA面4曲目のSong for Caseyのベースラインなどに象徴的に現れているのではないだろうか。またB面1曲目のEvergreenは、ハモンド・オルガンの音がすべるようにながれてゆくのも、心地よい。 

 インストが2曲収められているが、このアルバムの素晴らしさは、結局Bookerの声の質感にあると思う。白人特有の、とか、黒人特有の、といったよく使われる安易なクラス分けには一切くみしない、普遍的な美しさをたずさえた声だ。もちろんJamaica songはピースフルな名曲だが、2曲目のMama Stewartの生ギターとヴォーカルのハーモニーもよい。A面最後のSong for Caseyは、たとえばSteve EatonあたりのAORを感じさせる軽快な一曲だ。B面3曲目のWhy meはゴスペル・ソング。とはいえ、Bookerの歌い方はあくまでもソフトで、たゆたうようだ。憂いといってもいいほど、繊細な歌い方。そしてサビのところのオルガンの音。ゴスペルなんだけれど、そうしたジャンルをこえて歌そのものへの愛情が感じられる。 

 そう、歌を歌うことへの愛情、その愛情がこのアルバムからは伝わってくる。Jamaica Songでは子どもたちが歌い、手拍子をあわせ、Bookerのまわりに集まってくる。歌がもたらす平和と愛。それはStevie Wonderの『心の詩』などにも感じる、作為のない無限の愛だ。

高野寛、確かな光 (2004)

tashikanahikari.jpg.jpg 高野寛は、どのように売り出すか、そのキャッチコピーだけがきわめて表層的に記憶に残っていた。自分とほぼ同じ世代、つまりはYMOフォロワー、高橋幸宏のプッシュといったことや、日本のトッド・ラングレンといった言い回し・・・

 でもそれは高野寛がだれに似ているかを言っているだけで、高野寛がいったいどういうミュージシャンであるのか語っていることにはまったくなっていなかった。

 ふとしたきっかけで、2004年に出されたこのアルバムを聞いた。ここには高野寛というアーティストが日常を基盤としながらも、決して内省的にはならず、日常に寄り添いながらも、高い意志をもって音楽を作っていこうとするゆるぎない自信が感じられる。一曲目のタイトル「確かな光」は、そんな高野寛の創作意欲の高さを象徴することばじゃないかなと思う。確かな光につつまれて今日も外へでてゆくいさぎよさ。そんな吹っ切れた雰囲気がこのアルバムにあふれているように思う。五曲目「hibiki」の最初の「ラララ」と歌い出す瞬間、そのひかえめな決意を感じる。

 もちろんポップセンスあふれた曲、たとえば三曲目「Rip of Green」は颯爽としたせつなさとひとなつかしさにあふれた佳曲だ。四曲目「歓びの歌」はアコースティックギターの音色が美しい、朝のやさしい光と風につつまれた曲。そう、高野の曲にはこの風の感覚がある。

 それ以外にも高野寛というミュージシャンのその少しシャイな人柄を感じられる素敵な曲もある。七曲目「声は言葉にならない」は、「あれじゃなくて、それじゃなくて、そうじゃなくて、そんなんじゃなくて」と、高野の声にマッチした軟弱な歌詞がほほえましい。

ああ 響き合う歌が届いたら
この闇を照らす光になるから(「hibiki」)

 このアルバムは、またアートワークが素敵だ。表紙の影になった高野寛もいいけど、CD内ジャケ(?)の公園の犬の写真がいい。まさに音楽とジャケが響き合っている。それは高野寛という人とまわりの人間の響き合いでもある。その響き合いからつたわる友情や愛情、それがまたこのアルバムを、愛おしいものにしている。

 09年ニューアルバムが出たらしい。いそがずゆっくりレコード屋に行って、購入することにしよう。

George Harrison, All Things Must Pass (1970)

all_things_must_pass.jpg 昔プログレ好きな先輩が、「プログレロック系統図」を得意そうに書いていた。メンバーチェンジなどで、あるメンバーがどこのバンドに移ったか、新加入したメンバーは前はどこのバンドにいたのか、そんな系統をおってゆくとひとつの一大ロックファミリーが出来上がるというわけである。

 ジョージ・ハリスンのレコーディングに参加した仲間、セッションをした仲間などをそうした系統図にしたら、かなり広大が地図ができあがるだろう。だが、プログレロックは仲間内の密度を明らかにするだけであるが、ジョージのそれは、ロックという音楽の可能性の広さをみせてくれるものだ。それはジョージという一人物をこえて、ロックという音楽そのものがもつ可能性をみせてくれる。それはまた、ロックがコミュニティとして動きうるという70年代前半の歴史の証しでもある。

 このアルバムを聞いて、ビートルズの痕跡を聞きとろうとしてもほとんど無駄だということは一聴してわかるだろう。もちろんジョージのソロ曲との類似は認められるとしても、それ以上にここで聞かれるのは、当時の様々な音楽の響きだ。まずは分厚い音作りのフィル・スペクターによるサウンド構築。たしかに大げさかもしれないが、音の厚みはひ弱なジョージの曲にひとつの芯を通すような役割を果たしている。そしてライナーによれば、クラプトン、ビリー・プレストン、ディラン、デラニー&ボニーといった名前がつらなる。ブリティッシュ・ロックも、アメリカの南部音楽も、ジョージを介在してひとつにつながっているのだ。たしかにジョージはそうしたミュージシャンを束ねる「中心」ではない。しかしジョージも一緒になってそれらのミュージシャンとひとつの「星座」を描いているのだ。そのうちの一人でも欠けてしまえば、もはや星座にはならない。そんな布置をつくりえた類いまれな性格の人物がジョージだったのだと思う。(ところでポール・サイモンと二人の弾き語りビデオを見たことがあるけれど、あれは何だったのだろう。)

 しかしこのアルバムの旧A面の曲のながれはどうだろう。ゆったりとした曲調にも、リード・ギターの骨太さが随所に現れて、さあこれからアルバムが始まるという気にさせられる。Let me〜というフレーズが繰り返されるが、「〜させておくれ」という歌詞は本当にジョージのヴォーカルに似合う。そしてMy sweet Lordだけど、この曲もギターの音色にここちよい気分になっていると、とつぜんジャカ、ジャカとドラムがやってきてびっくり。でも、このアルバムのなかで聞くと、代表曲というより、つなぎの一曲という感じがする。なにせ、つぎのWah-Wahはまさに音圧の世界。ここまでさわがしい曲もあまり聞いたことがない。いよいよA面の佳境にさしかかった感じです。そしてIsn't It a Pity。ここで高揚感は一気に頂点へ。終わりの美しさ、儚さが、じんわりと伝わってくるんだけど。この曲もドラムがいいです。終わりが永遠に続くようなサウンドは、「針よ、上がらないでくれ」という気持ちにさせる。

 この後も、素晴らしい曲が続くけれど、もうこのA面だけでこちらの気力がもたなくなりました。

chronicles.jpg あやうくポップスに陥りそうなほど、円熟味をみせているサードアルバムである。デュエットが、互いに切り結ぶような緊張感を感じさせず、むしろ愛の姿としてよりそうような歌唱を聞かせている。しかしその甘さがとても心地よい。それは音楽の懐の深さによるのだろうか。

 Flyは聞きようによってはとても大仰だし、When two people are in loveは、ムード歌謡として片付けられなくもない。でもたとえばRings around the worldは、アメリカのルーツミュージックを思わせる、しみじみした曲だし、サビのプリシラの歌いっぷりがすがすがしい。二人の音楽を探す旅がここでも健在だと実感させてくれる名曲だ。おなじく5曲目のMendocinoはやっぱり甘いんだけれど、でもふたりのかけ合いが、至上の親密さを感じさせ、こちらをふくよかな空気でつつんでくれる。実にいい曲だ。特に後半のパートを受け継ぐBooker T.のヴォーカルがいい。Is you, only you/It's been a long waitのあくまで控えめな歌い方が実にいい。

 このアルバムには、それでも様々な音楽の咀嚼がある。Cherokee Riverは素直なルーツ・ミュージックであるし、Timeは、リタによる良質なアメリカン・ポップミュージックである。そして最後のWounded Kneeの重みのあるソウルミュージック。きわめて多彩な曲がおさめられたアルバムは、二人のプライベートなアルバムでありながら、時代そのものがもっていた音楽の追求を、しっかりとみせてくれる。

parkerilla.jpg Graham Parkerはアルバムを買いあさった時期があった。コステロとは違って後追いで、おそらく90年に入ってから聴き出したのかもしれない。またこれも90年ごろだったか、もう記憶さだかではないが、渋谷のクアトロのライブを見に行った覚えがある。サングラスをかけたその顔はほとんど横山やすしだが、そのしゃがれ声からしぼりだされるヴォーカルは本当に魅力的だった。そのときは弾き語りのソロかギターリストが一人いたかも知れない。

 ライブが理由ではないが、スタジオ録音もよいけれど、The Rumourとのライブ盤は本当に熱くなれる一枚だ。78年の発売。コステロやイアン・デューリーもそうだが、当時はパンクもパブ・ロックもニュー・ウェーブもはっきりしたジャンルの意識はなく聴いていた。Parkerも時代としてはパンクの土壌だったのかもしれないが、このライブを聴くと、70年初頭以来のイギリスのパブ・ロックの流れを汲んでいることは明らかだ。だがそれほど朴訥としてはいないのは、パンクのエネルギーがあるかも知れないし、Parkerというロック・ミュージシャンのもつ鋭利な資質のせいだろう。とにかく切れ込み方が鮮やかなのだ。それは「今日を生きられない」のような性急さを感じさせもするが、だがたくみな演奏に下支えされた曲は、暴発では決してなく、イギリスのロックを代表するといってもよいクオリティの高さを持っている。

 今、本当に20年ぶりくらいに聞き返したのだが、Fools GoldやHey Lord, Don't Ask me Questionsなどの曲のよさに心を締めつけられる。Gypsy Bloodの泣きのはいったサビもよい。切迫感のある場面もあるが、ブラスがはいって、まさにビール飲みながらくつろげるご機嫌な曲も入っている。たとえばHeat Treatmentなどその代表だろう。そしてWatch The Moon Come Downは、スタジオテイクより若干ゆったり目だけれど、しみじみとした盛り上がりで、いよいよライブも佳境に入る。New York ShuffleからSoul Shoesにかけて一気にたたみかけてくるエネルギーはやはりParkerならではのものだ。これほど緊迫した音楽は、やはりパンク〜ニュー・ウェーブまではなかったのではないだろうか。ロックは単なる約束事のアートではないこと、単に演奏のうまさを披露するものでもない。とはいえ、ロックが単なる感情の爆発であれば、それは自己満足の遊戯としてやっていればすむことになる。Parkerのすごさは、ロックの命が技術の水準ではなくて、表現の切迫さによって保たれうるものであることをみせてくれたことにある。しかしその音楽が時代に巻き込まれて消えてしまわなかったのは、Rumourという名うてのミュージシャンの確かな演奏力に支えられたからだろう。どんな革新も伝統に支えられて、その力を発揮する。イギリスの懐の深さを感じさせるミュージシャンである。

booker_t_priscilla.jpg 二人の親密な愛をアルバムにしてしまう。二人の永遠の愛の刻印としてこのアルバムが生まれた。1曲目からしてThe wedding songである。ジャケットを見れば一目瞭然、誰も間に入ることもできない。For Priscillaはきわめて甘いラブソングだ。もはや詩などというものではない。「死ぬまで一緒だよ。流れる川のようにずっと一緒に愛して、笑って、涙しよう」と、普通ならば、「もう二人の勝手」となるところだ。

 だが、このアルバムはよく言われることだが、ソウルやゴスペルとスワンプロックの調和をはかったきわめて野心的なアルバムでもある。ジョーンズのやや甘くせつない色恋にそまったヴォーカルに比べて、プリシラのヴォーカルは野太く、黒人の文化であったゴスペル、ソウルに激しくせまろうとする。ここにはひとつの音楽的な冒険があると思う。ルーツへと回帰しながらも、そこに魂と体を投げ込むことによって、決して過去をなぞるのではなく、今を確認しようとする、音楽的な創造性があるのだ。

 71年。ヴァン・モリソンも西海岸で音楽活動を続け、『テュペロ・ハニー』を出す。このアルバムもひとつの「ラブ・アルバム」で、当時の恋人を「きみは太陽だ」と歌い続ける。アイルランドの荒涼とした風景から、西海岸の明るさのなかで、きわめてプライベートなアルバムを制作していたのだが、でもこのアルバムも私日記ではない。モリソンはここでも新しい音、新しい表現を求めていたのだ。ずいぶん聴きやすいアルバムとはいえ、決して音楽的に妥協しているわけではない。

 モリソンとのもう一つの共通点は、宗教である。魂の奥底から歌を歌うとは、日常をはるかにこえて、自分の存在を弱小のものとし、弱小ゆえに、祈りを歌にし、神に聴かせる。それはひとつのナルシスティックな高揚感に過ぎない。だが歌そのものは人間のものだ。決して神から与えられたものではない。その歌をうたっている肉体をもった歌手がいる。私たちはその肉体から絞り出される声そのものに感動を覚える。そうでなければ、歌は宗教の道具となってしまうだろう。そこに歌い手と聞き手の深いつながりが生まれる根拠があるのだ。

 愛から祈りへ。深みをたたえながら、私的でありながら、美しい歌がしっかりと聞き手に届けられる。深い音楽への理解に下支えされた表現者の愛を感じる名盤だ。

agnes_in_wonderland.jpg 時間のないときに限って、ついユニオンに寄ってしまう。このときも少しだけと思い店内に入った瞬間に、ピアノの弾き語りに英語の歌詞、転調のきらびやかな曲にすっかりみせられた。Now Playingをみると、アグネスの文字が・・・だがあらためてよくみると、タケカワユキヒデのクレジットである。

 そのときにかかっていたのはオフィシャルのアグネスのほうではなく(こちらはまだ聞いていない)、その再発CDに2枚目として収録されていたデモ録音である。79年に発表されたゴダイゴが全面的にバックアップしたアグネス・チャンのアルバムのことはまったく知らなかった。またゴダイゴは、当時のはやりの曲を耳にしていたくらいである。だがこのデモ録音を聞くとメロディメイカーとしてのタケカワユキヒデの創意に舌を巻く。そう、よいメロディがどんどんあふれてきてしまい、気づくとすでに曲ができてしまっているような、なにも恐いもののない瞬間と言おうか。たとえば当時で思い出すのは、原田真二のシングル三連発だろうか。「てぃーんず・ぶるーす」、「キャンディ」、「シャドーボクサー」と立て続けにシングルがでたのは77年。「てぃーんず」のあとに、「キャンディ」のせつないメロディを聞いたときは、本当になんてこの人は才能がある人なんだろうと思った。そして「シャドーボクサー」はほとんど愛唱歌のように歌詞が浮かんでくるようなキャッチーでクールな名曲だ。

 デモ録音とはいえ、ヴォーカルが重ねられていたり、かなり凝ったつくりで実に完成されている。ビートルズのマジカル・ミステリー・ツアーではないが、マジックでミステリアスなんだけれども、それよりも曲自身のもつ高揚感と、それをしっかりと表現するヴォーカルの力強さに圧倒される。そう、「不思議の国」といっても、ドノヴァンのような伝統歌謡とは違って、彼の曲は洗練されているのだ。

 70年代後半とはどんな時代だったのだろうか。もはや音楽にメッセージ性はなく、さきほどの原田真二や、尾崎亜美、久保田早紀のようなメロディのきらびやかさと新鮮さが世界を明るく染めるような、そんな時代だろうか。

 いずれにせよ30年を経て今回日の目をみたこのデモには、バラードっぽいせつない曲もあれば、ポップスの軽快感を感じさせる曲もある。実に幸福感に包まれたアルバムなのだ。店内では2曲目のJabberwockyのサビのところですっかり購入を決心した。この曲、静かな予兆を秘めたメロディが、いっきに親しみやすいサビにいくところが、本当によいです。そしてWho am I?の静かに幕が開けるようなバラードの進行も素敵。で4曲目はビートルズ〜XTCの路線を忠実に踏んだ曲。と聞き惚れていて、あわてて現物を購入してそそくさとユニオンを立ち去りました。

山下達郎, SPACY (1977)

spacy.jpg 夏の午後にまどろんで、ふと目をさますとあたりはすでに薄暗くなっている。寝起きのぼんやりした頭のなかで、「もう朝になってしまった。翌朝まで眠りこんでしまった」と思っていたら、実はそれは夕暮れの薄暗さだった。薄墨色の空は、まわりの風景も同じ色で染めて時間の感覚を失わせる。「朝の様な夕暮れ」を聴くとそんな情景を思い出す。山下達郎自身自曲解説で「徹夜明けで夕方に起きて、今が朝なのか夕暮れなのか、一瞬時間感覚を喪失した時に作ったモチーフ」だと語っている。インターミッションに過ぎないような2分少々の小曲だけれども、このアルバムの憂うつな雰囲気を、ビーチボーイズの倦怠感をも取り混ぜながら、象徴的に表しているように思う。その雰囲気はつぎの「きぬずれ」へも引き継がれる。この曲も「夕闇」や「雨粒」といった、静謐感ただよう一曲だ。そして「Solid Slider」のセッションでアルバムが終わる。

 いきなりアルバムの後半の曲の話になってしまったが、この3曲はアルバム「Spacy」の内省的でありながらも、その世界が多くの人々に共感をもって受け入れられるような予兆をもった曲だと言える。「万人受け」とはまったく違うスタイルなのに、それでも、曲を耳にした人がふと「この人は誰だろう」とその世界に引き込まれるような雰囲気を持っている。

 もちろん1曲目の「Love Space」からリズム・セクションの音がまぶしく、グループではなくても、それぞれのミュージシャンが独自の音世界を作りながらも、それが結果的に1曲に仕上がる構成の素晴らしさに心をうたれる。山下達郎はこの時22歳。

 3曲目も「たそがれ ほんのわずかに」の歌詞があるように、華やかでありながらも、街路に電灯がつくような暮れなずむ空気をただよわせた曲だ。

 やはり山下達郎の解説に「音楽的好奇心」ということばがある。たとえ楽器のテクニックに詳しくなくても、またどんなミュージシャンが弾いているのか知らなくても、このアルバムには人を惹き付けてやまない魅力がある。それがこの「音楽的好奇心」ではないだろうか。クリエイトしてゆくことの颯爽とした若者の意志。東京城北地区生まれの若者が、粋を大切にしながら、ポピュラーミュージックを代表することになる他の若者たちと創りあげたこのアルバムは、山下達郎のアルバムのなかでもっとも好きなアルバムだ。

くるり, 魂のゆくえ (2009)

tamashiinoyukue.jpg 自分がくるりに求めてきたのは何だったのだろうか。それは青春の未熟さ、そして未熟ゆえのたわいもない毒ではなかったか。そして未来へのあいかわらずあいまいな希望。「なにか悪いことやってみようかな」とか、「車の免許とってもいいかな」とか、そうした獏とした未熟さがくるりの魅力ではなかったか。せっぱつまった青さ。どうにもならないいらだちからの毒づき。そんなアンバランスさがくるりの魅力ではなかったか。

 今では新譜の発売日に即購入するミュージシャンはほとんどいない。くるりはその珍しい例外で、発売日前夜に買ってここ三日間聞き込んできた。悪くはない。だがここに並べられた曲はいったい何の表現なのだろうか。何を追求しているのだろうか。必然性とか、性急さのような素人くささはない。だが「太陽のブルース」、「夜汽車」「リルレロ」と続くところなど、もうお約束を聞かされているようで、これらの曲をだれが10年後に思い出すだろうか?

 自分が聞きたいと思うのは、たとえばたくたくで行なわれたバンド編成のライブ。これを聴いていて気持ちよいのは、そのつんのめるような、ライブハウスのテンションだ。もちろん曲自体のもつ魅力もあるけれど、それを超える音楽が発する高揚感、そしてその高揚感を下支えするくるりの技術と表現力。一言「ロックって最高!」と言ってしまえる潔さがある。これを聞いていると、そうしたライブハウスへ足を運ぼうともしない自分のほうが今度はロックをかたるだけの欺瞞に満ちた存在に思えてくる。

 じゃあアルバムに何を求めるのか。それは何らかの意図を貫徹できるはずの場所であり、曲のよさを超えて、私たちにつたえられるそのバンドの音楽へのひたむきさを求めたいと思う。そう、曲のよさについてはそれほど言うことがない。むしろそれを通してこちらに伝わってくる魂の情動こそ感じたいのだ。くるりの最近のアルバムにはそれが希薄なような気がしてならない。そう、Come togetherという感覚。その感覚がだんだん希薄になっているような気がする。

 よい曲ならいくらでもかけるだろう。しかし私たちを今いるこの場所からどこかへ連れて行ってはくれない。そんな失望をこのアルバムに感じざるをえないのだ。

Sonic Youth, Sister (1987)

sister.jpg 中三のときに、いつも夕方聞いていたFM愛知の番組でパーソナリティが「今日は、今までとまったく違う音楽をおかけします」といって紹介したのが、ラフ・トレードの初期リリース5枚だった。そのほとんどを買ったのだが、そこにはポップ・グループ、キャバレー・ヴォルテールという名前が並び、5枚目は「クリア・カット」というオムニバスで、ジョゼフ・K、スクリッティ・ポリティ、ザ・フォール、オレンジ・ジュースそして、ロバート・ワイアットというごった煮状態の曲がおさめられていた。パンク以後、「オルターネイティブミュージック」のイギリスでの誕生である。ニューヨーク・パンクは詳しくないので、ポスト・パンクもふくめてきちんとしたことが書けないのだが、ノイズとはその後White Houseなどの殺戮的な実験音楽、あるいはDAFのようなインダストリアル・ロック(その後のノイバウテン)、そして日本の裸のラリーズへと自分のなかでは広がっていった。しかしこうした名前を並べただけで、ノイズといってもそれは音の表面的な印象を指すに過ぎないということは明らかだろう。ラリーズをノイズ・ロックと言ってしまっては、ラリーズの夜の闇と夜明けの曙光をまったく看過してしまうことになる。

 Sonic Youthは今まで素通りしてきたバンドである。先日Télérama musiqueで72年生まれの作家が自分のロック経歴を語るインタビューがあり、そこでこのSisterに収められているSchizophreniaを初めて聴いて、さっそくアルバムを980円(at レコファン)で購入。インディ時代の最後のアルバムとのことである。発表されたのはもう20年も前のことだが、まったく時代の流れに巻き込まれてしまうことなく、今でも一枚の完成度の高いアルバムとして聞くことができる作品だ。

 オルタナバンドによくある、衝動の垂れ流しではまったくない。とはいえ、ヘヴィメタバンドのように計算高いところもない。形式へ上昇しようとする美しさとそれを破綻へと至らしめる衝動のアンバランスさと緊張関係が素晴らしい。ノイズ・ギターの一音が、ハウリングをともなって消えてゆくとともに次の一音のために弦が鳴らされる。Dinosaur JRのギターが絶え間ないメロディの叙情性をたたえているとするならば、Sonic Youthのギターは叙情性を切り刻んでしまうカッティングギターだ。

 Sonic Youthは、Killing JokeやHappy Birthdayなどのグランジという言葉が生まれる前のノイズ・ロックの文脈に位置づけられるように思う。ひるがえってDinosaurは、これは疑うべくなくニール・ヤングのフォーク・ロックの文脈だ。前者がニューヨークのハコでセッションを繰り返しているイメージなら、後者は自分の部屋にギターとアンプをもちこんで、ヘッドホンをつけてベットの上でギターを弾きまくっているイメージだ。

 繰り返しになってしまうが、ノイズ・ロックはジャンルではない。もしそれをジャンルとするならば、White Houseのようなもはや曲や音楽とはいえない「雑音の塊」しか扱えないだろう。ノイズ・ロックはあくまでも技法であって、その技法の先に音楽が現れる。よく聴いてみると、Sonic YouthもDinosaurも、叫び、わめくようなヴォーカルは驚くほど少ない。叫ばずとも、わめかずとも、その衝動を伝える音楽を創作することはできる。この創作への意識の高さが、Sonic Youthを現在でも最高のロックバンドのひとつにしているのであり、エレクトリックという電気で生まれる音をどう音楽にするのか、そのロックの課題にジミ・ヘン以後最も誠実に答えを出したのがこのバンドではないか。聞くに耐えない音楽と、何度もターン・テーブルをまわしてしまう音楽の境目にあるこのバンドの音楽はまさに中毒になる魅力をたたえている。

the_bootleg_series.jpg「創造の瞬間」に立ち会えるアルバムである。Bootlegというものの、未完成の曲の集まりではない。アルバムテイクになる前の、曲が誕生した瞬間をおさめた貴重な録音がならぶ。単にアコースティックだから生々しいのではない。ディランが演奏をし、歌詞を口ずさむ。時代を越えて、まるで聞いている者がディランの創造の証言者になったような気にさせる、古びない記録がこのアルバムだ。

 特に63年から74年までをおさめた2枚目をよく聴く。のっけからもうすでにロックなディランが聞ける。Subterranean Homesick Bluesのたたみかけるディランの唱法やSitting On a Barbed wire Fenceのディランのぶっきらぼうな歌い方は、きわめて攻撃的で、65年の時点でロックが生まれていたことを実感する。It takes a lot to laughに至っては、もろエレクトリックギター弾きまくりで、激しいロックサウンドになっている。驚くのはこうしたアウトテイクに「手探り感」がまったくないことだ。強い確信を持って演奏しながら、けっしてとどまることなく曲を創作してゆくディランは、若さといったエネルギーとは別種の強い創造力がやどっている。

 そして後半にはThe Bandとの共演もおさめられていて、これがまたしぶい。けっして派手ではなく、じわじわと盛り上がってゆくところで、こちらも高揚させられる。このセッションもまた「創造の瞬間」だ。今、ここでしか生まれない音楽だ。

 そして名盤『血の轍』からのアウトテイク。最後の曲はIdiot windだ。この曲もアルバムテイクとはかなり異なる。演奏とはそういうものだろう。コピーしたり、完成形をなぞったりするものではない。もう二度と同じ演奏はできないその鬼気迫るものがこのブートレッグシリーズにはある。

 ディランの新譜にしても、ニール・ヤングのアーカイブにしても何種類もの仕様で出したり、あまりにもせせこましくないか。「これを聞け!」と堂々とリスナーに届けてもらいたいものである。それでこそこちらも真剣に音楽に対峙できるのだから。単なるコレクターのための、お蔵出しはやめてほしい。そこにはロックの研ぎすまされた緊張などありはしないのだから。

Tété, Le Sacre des lemmings (2006)

le_sacre_des_lemmings.jpg Tétéの3枚目にして、代表作といえるアルバム。1stのビートルズ、ボブ・マーリーに触発されたフォーク・ロックを聞いたときに、フランスにもついに野暮ったさとは無縁のロック・ミュージシャンが現れたと感動した。セネガルで生まれ、その後すぐにフランスへ。そのせいかアフリカを背景に感じさせるものはなく、かといってフランスの音楽の影響もない。そんな無国籍のなかで育まれたのがTétéのロックだ。とはいえ、とくにボブ・マーリーの影響は明らかで、たとえ彼のRedemption songが最高の1曲だといっても、それは素直なオマージュ、レスペクトにとどまっていた。

 2枚目は、叙情性のあふれる美しいアルバムである。メランコリックで繊細なTétéのよさが出ている。とはいえトータルなコンセプト性は薄く、「よい曲を並べました」という印象が強い。

 だが、この3枚目はアルバム全体を貫くコンセプトが明快であり、ついにミュージシャンがアーティストになったと確信させる傑作となった。「レミングの朝明け」で幕が開け、「レミングの夕暮れ」で幕が閉じられるまで、ひとつの色調で曲が成り立っている。その色調とは、「悲喜劇」だ。喜びのなかにある悲しみ、ペーソス感といおうか。単に叙情性に流れないドラマがどの曲にもある。そのためどの曲も3分かせいぜい4分なのに、十分聞きごたえがある。

 Fils de ChamやLa Relanceで聞けるとぼけた雰囲気のなかに哀れみを感じさせるようなメロディはTétéにしか作れないオリジナリティあふれるものだ。Madeleine Bas-de-LaineやCaroline On yeah Heyは、Tétéらしい繊細かつポップなメロディが美しい佳曲。そしてComme Feuillets au ventのように懐かしさやせつなさを感じさせる美しいメロディ。またA la vie à la mort、A Flanc de Certitudes、Mon Trésorのようなジプシーとは言わないが、昔の民衆歌謡を彷彿とさせる曲もある。

 このように書くと、きわめてバラエティに富んだ印象もうけるが、Tétéの曲にはどれにも単純にはわりきれない情感の豊かさを感じる。その情感の起伏に今回のアルバムでは特にストリングスなどのオーケストラをバックとして、奥行きが与えられている。

 アフリカ、パリ、モントリオール。Corneilleはそうした旅を余儀なくされた人物であるが、彼の音楽は素直なほど、アメリカのソウルの文脈に忠実である。それに対してTétéは同じように音楽の旅を続けながら、そしてどんよくに様々な音楽を吸収しながら、やがて彼にしか作れない、豊かな叙情の音楽へと至った。その美しく細いヴォーカル、決してわかりやすくはないが随所に感じられるユーモアセンスや寓話性に満ちた歌詞、そして最初からTétéの才能を決定づけていたメロディの美しさ、それらをすべて含みこんだうえで、出来上がったのがこのサードアルバムである。

ontime.jpg「オブラートにつつんだ」声と言おうか。ハナレグミの魅力はその少しだけハスキーで、少しだけ鼻にぬけるような、ノスタルジックな気分にさせる声だ。肩肘をはらず、ジャケットのようなギターの弾き語りを中心につくったアルバムは、とてもパーソナルで、大上段にかまえたところがない。ロックがもっていた批判精神のようなものはすっかり抜け落ちている。その代わりここで描かれるのは、日常へのオマージュだ。CMにも使われた「家族の風景」は、まさにそうしたパーソナルで、普段の生活の風景を描いている。ハイライトとウイスキー。

 アレンジもきわめてひかえめで、楽器の木のぬくもりがするような音作りだ。レゲエやスカのリズムはあまりにもあっけらかんとしすぎであるが、それは愛嬌ということで受け流しておこう。そうしたちょっとはずかしいアプローチは3枚目の『帰ってから歌いたくなってもいいようにと思ったのだ』ではすっかり消えてしまい、アルバムの完成度としてはこちらのほうが高いだろう。ハナレグミ節が十分満喫できて、ゆとりさえ感じられるし、「催促嬢」のようなふざけた曲も十分楽しめる。それに比べれば『音タイム』はあまりにも素直すぎる曲が多い。でもそれでも歌いたいことがいっぱいあったのだろう。そんな音楽への愛着と衝動が感じられる若いアルバムだ。

 そしてなによりもこのアルバムには前述の「家族の風景」が収められている。この一曲がはいっているだけで「買い」だ。(ただ、やはり聞き比べると『帰ってから〜』はやっぱり充実している。くるりの「男の子と女の子」、ラブソング「僕は君じゃないから」、単純な弾き語りだけどメロディが印象に残る「かえる」、「おまえはポールか」とちゃちゃを入れたくなる「ハナレイ ハマベイ」など。う〜ん、やっぱり3枚目を推します)。

Faces, Long Player (1971)

long_player.jpg 深夜にすっかり酔っぱらっているのに、まだまだウイスキーを飲みたいときに聞きたいもっとも最高のバンドといえば、もうこのフェイシズ以外には考えられない。なぜロニー・レインのしぶい曲をここまでロッドが歌い込めるのか。その一点だけでロッドは天才ヴォーカリストだ。と同時に、不器用な連中のなかにあって、ロッドだけがスター街道を歩めたのはいったいなぜなんだろうという疑問もわく。バンドの仲が悪かろうと、ぐだぐだだろうと、こうしてレコードに刻まれた音は、このバンドが最高に「イカしたイカれたバンド」だとわかる。

 一曲目のひずんではじけたギターのリフがまず最高。ロッドの疾走感あふれるヴォーカルにおもわずこちらもシャウトしたくなるご機嫌な一曲。さらにファンキーなオルガンとスライドギターが重なり、聞き所が多い。そして二曲目は、Ronnie Laneの名曲Tell Everyone。この曲のTo wake up with you / Makes my morning so brightという何の変哲もない歌詞がなぜだかLaneの心持ちを表している気がしてとっても好きだ。三曲目はロッドの泣き泣きのヴォーカルに思わずしんみりしてしまう佳曲。四曲目はLaneのヴォーカルによる家畜の匂いただようほのぼのカントリーソングだ。

 B面の一曲目も適度にひずんだギターから始まり、そこにピアノが重なってくる始まり方がまたまたかっこいい。しかもサビの部分のロッドのシャウトの濃密感がたまらない。その勢いがそのままピアノやブラスバンドへ流れこむ展開に実に圧倒される。そして最後はRonnie Woodのボトルネックギターに聞き惚れながら、アルバムが終わり、完全にボトルが空になる。

 ライブが二曲収められていたり、アルバムのトータル感などあっさり無視しているかのように、雑多な曲が並んでいるが、でも楽器をもたせたら最高の連中がそろい、しかもそこにロッドがヴォーカルをとるわけだから、これはもう無敵です。

parce_quon_vient_de_loin.jpg 自分があまり今のソウルを聞けないのは、どれほど才能があると思っても、音がきわめて企画化されてしまっていることが多いからだ。美しい声、恵まれた声量をもって、メロディアスな歌を歌っても、バックの打ち込みや、おきまりのアレンジに、ミュージシャンの個性がかき消されてしまっている(日本で最近よく聴く歌姫たちもそうだろう。一人一人がきわめて才能の高い歌い手であるにもかかわらず、売れ筋の歌しか歌っていない。もっと魂をこめた曲を歌わせてあげられないものだろうか)。

 このCorneilleも本編の方は、ちょっと類型化された音作りで、彼にどんなバックボーンがあろうと、その内面にまで入っていきにくい。ただ、彼には歌うべき詩がある。そしてその詩がきりきりする程の痛みとともに伝わってくるのは、Disc2のアコースティックバージョンの方だ。一聴して胸を激しく揺さぶられた。あまりの切なさに電車の中でも泣きそうになって、必死にiPodを握りしめた。

 アコースティックであるだけ、歌詞の青い、甘ったるいところが、切実に胸にせまってくる。この青さを許してしまうのは、この歌手があまりにも壊れやすい弱さを感じさせるからだろうか。

 たとえばDisc2の1曲目Sans rancune(恨みっこなしさ)のサビの部分。

Sans rancune
La première étoile que je déchroche,
je te la donne
La première place dans mon rêve,
je te la réserve
 
恨みっこなしさ
僕がつかんで降ろす最初の星
それを君にあげるから
僕の夢のとっておきの場所
それは君にとっておくから

 こうしたみえすいた言い訳は、ナイーブさの裏返しだ。

Je suis désolé
mais il faudra que je prenne ma chance.
 
悪いけど
でも自分の運をためさないと

 Corneilleは惜しげもなく自分について歌う。

On dit : Corneille est froid
Il n'a rien dans le coeur que sa maudite carrière
On me reproche, entre autre
De n'avoir la tête qu'à mes poches et pas assez aux autres
 
人は言う「コルネイユは冷たいやつだ」と
あいつのこころには、自分の忌まわしい仕事のことしかない
人は僕をせめる、とくに
自分のことしか頭になく、他人のことはあんまり考えないと

 こうしたフラジャイルな内面をもちながら、Corneilleは言う。

Le but de ma démarche est plus grand que ça
 
僕がこうしていることの目的は、みなが考えていることより大きいんだ

 そして、モントリオール、パリ、ルワンダとそのために自分が渡っていくんだと歌う。

 ナイーブにも自分の内面をさらけ出してしまうこの若さ、そこにとても惹かれるのだ。

 そしてアコースティックバージョンは、無駄な装飾がない分だけ、曲それぞれのヴァラティの豊かさが感じられる。ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸をわたってきた人物らしい、様々なバックボーンを感じさせる曲々だ。歌い方はソウルフルなところもあれば、北アフリカっぽいリフレインがあったり、シャンソンの叙情性を感じたり、フォークのたたずまいがあったりと、彼の豊かな音楽経験が上品にそれぞれの曲に溶け込んでいる。

 コルネイユにはどうしてもそのルワンダでの体験が、影を落としている。

C'est la mémoire qui m'empêche de vivre
dont souvent je me sers afin de survirre
 
私が生きてゆくのを邪魔するのはあの記憶だ
そして私は生き続けるためにこの記憶に頼るのだ

 このアンビヴァレントな歌詞が、Corneilleの傷つきやすさをとてもうまく表現しているように思える。強いメッセージと、それを直接には表現せず、歌という美しさにのせるCorneilleのアーティストとしての意識が、このアルバムをクオリティの高い1枚にしている。

David Bowie, Hunky Dory (1971)

hunky_dory.jpg「芸術のための芸術」といった世界となんの関わりももたないような、自律した芸術作品という考えに立ってものを考えることは、最近はあまりないが、しかし、ロックには、幻覚作用によって、この世界を消し去ってしまう強い魅力があることは確かである。現実を忘れさせるような、強いカリスマ性をもったロック・スターが、60年代から70年の初頭にかけて何人も登場した。その中でもデヴィッド・ボウイは審美性が高く、「地球に墜ちてきた男」という形容が実にふさわしいアーティストだ。

 初めて聞いたボウイのアルバムは、『スケアリー・モンスターズ』だった。Ashes to ashesの壊れやすいヴォーカルが、自分にとっては以後好きなロックを見分けるひとつのレフェランスになった気がする。たとえばOrange Juiceのエドウィン・コリンズのヴォーカルなど、自分にとっては「高音裏返り男性ヴォイス」の代表だった。

『スケアリー・モンスターズ』をエア・チェックしたFM番組は、しかし一曲目にボウイの代表曲として「Starman」をかけた。そのときの、文字通り鳥肌がたった瞬間は今でも覚えている。アコースティックギターとささやくような軽くかすれたヴォーカルから、サビのスターマンへと一気にもりあがる曲の展開は、けっして大げさではなく、しかしドラマティックだった。もちろんジギー・スターダストの高揚感にくらべれば地味かもしれない。だが、音をどれだけ削りとったとしても、聴く者を幻惑するロックの魅力をスターマンという曲はそなえている。わずか数分の間に、圧倒的な盛り上がりへと至る展開は、ボウイの当時の曲のエッセンスといってもいいのではないだろうか。

『ジギー・スターダスト』という時代を象徴するアルバムと聞き比べると、『ハンキー・ドリー』はその予兆をこめた一枚ともいえる。しかしけっしてその前段階にあるアルバムではない。このアルバムには、「ブリティッシュ・ロック」ならではのメロディセンスがあふれた名曲がいくつもおさまっている。まず一曲目のChanges。サビの「チェ、チェ、チェ、チェンジ〜ズ」のところで、開始そうそう胸が締め付けられる。二曲目はピアノのイギリスっぽい旋律に、ボウイのヴォーカルがかさなり、またまた胸がどきどき。Oh! You Pretty Thingsの歌詞の部分、たそがれた雰囲気を醸し出しながらも、力強く歌われる展開が実にロマンチックで、イギリスのロックにしかありえない甘美なメロディだ。4曲目の「火星の生活」のイントロも甘美でありながらも、瑞々しく、ダイナミックで、ストリングスもはいる。それなのに大げさではないのは、曲のコンセプトがしっかりしているからだろう。

 今回聴き直して思ったのは、本当にイギリスでしか出せない音がここにはつまっているということ。6曲目Quicksandの展開もそうだ。ヴォーカルにアコースティックギター、ピアノの伴奏、そしてやはり一気にさびへといたる展開は、まさにイギリスのもつ叙情性の最高の表現だと思う(CDにおさめられているデモトラックは実にかっこいい)。そうボウイはライブで「Thank'you sincerely」と言ってしまうようなイギリス人なのだ。

 最初に、この世界を消し去る魔力がこのアルバムにあると書いた。だが同時に、このアルバムを聞いたあとには、世界の見方が変わってしまう。それは単に耽美やアングラという趣味の問題ではない。そうではなくて、ボウイの生き方自体がこちらを挑発するのだ。60年代後半から70年代を疾走したボウイのようにだれも生きることはできない。生のエネルギーをあれほどまでに激しく燃焼させることはだれにもできない。だから、1980年にLodgerのジャケットのように死ぬべきロック・スターは、実はボウイだったのではないか。

john_wesley_harding.jpg ベースメントテープスの音源と同じ67年に収録されたこのアルバムは、音数も最小限で、曲も非常にシンプルである。しかし、きわめて豊かな深みをもったアルバムだと聞くたびに感じる。どの曲もほとんど2,3分で、4分を越える曲が1曲、5分を越える曲が1曲である。そんな小品が集められたこのアルバムだが、力を抑えている分だけメロディの美しさが際立つ。アルバムと同タイトルのJohn Wesley Hardingは、一聴してすぐに口ずさめてしまう親しみやすいメロディだ。激しいライブテイクのほうが印象に強い「見張塔からずっと」のオリジナルテイクは、各楽器の生の音が際立つきわめて簡素な曲だ。それでももちろんメロディの切迫感は、どれほど音がアコースティックでもひしひしと伝わってくる(ちなみにこの曲のベースラインは裸のラリーズの「何が欲しいときかれたら、紙切れだと答えよう〜」と似ている)。

 そして同じメロディが繰り返される小品も多い。次の「フランキー・リーとジュダス・プリーストのバラッド」は、ほとんど単純なリフが繰り返されるだけだ。二人の登場人物を巡る寓話につけられた伴奏のようである。ちなみにこの曲だけが5分35秒と1曲だけ長い。

 一番好きな曲はI pity the poor immigrantだ。3拍子の切ない美しいメロディの曲である。とても単純なメロディなのに激しく心を揺さぶられる。怒りや、激しい感情の起伏がなくとも、いやそうしたセンチメンタルさがないぶんだけ、ディランの声からは憐れみと悲惨がこぼれおちてくる。歌詞が難解なぶんだけ、明確なメッセージ性を感じることは難しい。だが、それゆえに、たとえば「笑いに満たされた口」、「彼の血でつくられた街」など、きわめて象徴性の高い比喩的形象によって、移民のあわれな物語が紡がれる。わずか4分で、一人の人生を語り、かつその世界を私たちに届けてしまうディランとは、ほんとうに優れた詩人なのだ。

where_the_light_is.jpg John Mayerは自分が最も聞きそうにないミュージシャンである。なにしろ顔よし、声よし、ギターよし。自分が惹かれる顔は、たとえば上前歯の2本の間にすきまがあるような顔。声は高音で裏返ってしまうようなへろへろ声。ギターは、弦が弛んでるのではと思うような、しまりのない音。その理想はKinksのLolaのB面一曲目All this tomorrowだ。イントロのギターのなさけなさ、ぐ〜っともりあがっていくところのRayの鼻づまり声。そしてあのニヒルな顔。すべてが好きだ。

 それに比べるとJohn Mayerはギターの弦は張り詰めている。声に一点の曇りもない。そしてあのルックス(アメリカ的美男子!)。どこを聞けばと思ったのだが、やはりアメリカン・ロックに対する憧憬の深さと、真のオリジナリティにまで達する技量の深さだろうか。ジェフ・ベックやクラプトンにはどうしても感動できないのに、彼のギターの音色にはほんとうに翻弄される。そしてヴォーカルはギターと同じく変幻自在。歌いながら、ギターをこれほどまでに弾くのだからまたすごい!

 それから彼の魅力のひとつは、最近のスマートなブルースの影に多少隠れているが、90年代以降のミュージシャンぽい叙情性だ。この内省的ともおもえるメロディの美しさが、彼の音楽を手に届く等身大のものにしてくれる。とはいえおそらくヒットしたはずのWaiting on the world to changeは、一聴して親しみやすい、なつかしさを感じさせるメロディラインだが、Paul Youngほどではなく、どちらかといえば凡庸で叙情性とはほど遠い。それよりもアコースティックということもあるのだろう、Stop this trainや、名曲Daughtersは、確かなギターワークに裏打ちされた叙情性がうまく表現されている。特にDaughtersの最後、彼の声が高くなっていくところは、このアルバムの最高の瞬間だ。このアコースティックセットはこのライブアルバムの聞きどころだろう。

 とはいえ実際は6曲だけ。なんだかここのパートは余技にすぎないと言っているかのようである。

the_psychomodo.jpg ブリティッシュ・ロックの芸術表現としての高まりは、アルバムをひとつの作品として仕上げるというコンセプチュアル・アートの運動としてとらえることができるだろう。そうしたアート性を志向してゆくと、ビートルズのように歌って踊らせるようなコンサートはできなくなる。スタジオにこもって、幾重にも音を重ねてゆく作品はステージでは再現不能だ。

 しかしコンセプチュアル・アートはアルバムとしての作品志向以外にも、ステージ自体をひとつの芸術表現の舞台として、スペクタル的な要素を強めていく方向性ももつ。つまりショーだ。そのときに「きわもの」的なショーとしてアートを実践したのが、デヴィッド・ボウイであり、ロキシー・ミュージックであった。その系譜にこのコックニー・レベルは属するだろう。プログレッシヴ・ロックではないのだが(といっても、このCD、プログレッシヴ・ロック・シリーズと銘打たれたアルバムの1枚として発売されている・・・)、それでもアルバムはひとつの様式美で貫かれている。その様式美とは、頽廃だ。

 先日フランスのTéléramaが提供してくれているpodcastのロック番組で、Voix fragiles(壊れやすい声)というタイトルでイギリスのロックヴォーカルを特集していた。Kinks, Prety thingsそしてその次がこのコックニー・レベルのTumbling downだった。The Psychomodoのラストを飾る曲で、か細い、ひきつるような、そして粘着質のスティーヴ・ハーリーのヴォーカルが最後に絶叫に代わる、スケールの大きな曲だ。

 久しぶりにアルバムを聞いているうちに、プログレとの親和性を示しながらも、大作志向ではなく、あくまでもひねくれたポップセンスにこだわるバンドがこの当時のイギリスにはいたことを思い出した。Deaf SchoolやKorgis、そしてStackridgeなどである。

 しかしその中でもとりたてて、頽廃美にこだわっていたのがこのコックニーレベルだろう。抽象度の高い歌詞には狂気ということばが散見する。だがそれはあくまでも周到に演出された狂気であって、役者はあくまでも冷静に狂気を演じる。そうした人工的な美しさがこのバンドの魅力だ。特にこのアルバムは全編にわたって、道化師の皮肉な笑顔とでも言えるようなパフォーマンスが繰り広げられている。こうした歪んだポップというのはいかにもイギリスのロックのものだ。

 ちなみにYoutubeにも何本も動画があって、75年のヒット作Make me smileを初めて聞いた。たしかに以前の毒気は影をひそめているが、鼻につまった、うれいをおびたヴォーカルは依然として魅力的だし、曲も質の高いポップソングだ。A級では決してないけれど、でもこうした卓越したメロディは誰にも書けない。こんな歌い方も誰もできないだろう。70年代のあだ花のような感じが一見するが、じつはスタンダードなポップソングをかいていたのが、このスティーヴ・ハーリーだと実感した。

the_ballad_of_todd_rundgren.jpg 今でもあるのかわからないが、学生時代にもっとも信用のおけるレコード屋のひとつは池袋パルコの山野楽器だった。ここは銀座の山野楽器とはまったく違い、いつもぼさぼさあたまのあいその悪いお兄さんがひとりで切り盛りしていた(あるいはある売り場の一画だけだったのかも知れない)。しかし、仕入れなどはそのお兄さんが自らしていたということで(これも聞いただけだが)、とにかく品揃えが半端ではなかった。というか、山野に仕入れされる新譜をみて、ロックの勉強をしたといってもよい。とにかくそこに置かれるものだったら買って間違いはない。店の壁にはいろんなレコードのジャケが飾られ、お兄さんのロック趣味がもろに反映された店作りだった。そして、当時はそんなレコード屋のお知らせこそが重要な情報源だった。

 中でもTodd Rundgrenのライノレーベルからの再発は、ちょっとした大事件であった。とくにファースト、セカンドは当時ほとんど手にはいることはなく、そのジャケットセンスと名曲Be nice to meがはいったセカンドはかなりの値がついていた。それがすべて再発である。

 このアルバムは、Toddのメロディセンスがいかんなく発揮されたアルバムであるが、何よりも手触り感のする音の作りが素晴らしい。1曲目はドリーミィな雰囲気をただよわせた、Toddらしいポップな曲。そして2曲目はチャイムの音が美しい、バラード。いかにもToddらしい甘美でメランコリックな名曲。5曲目はワルツのリズムにのせた、わずか2分半の小曲だが、ギターの音色のせつなさが心に響く名曲。そしてアコースティックギターから始まり、Toddのヴォーカルが重なるうちに、曲が壮大に展開する6曲目は、このアルバムの一番の盛り上がりどころである。とくにThis is the ending of my songの歌詞にぐっとくる。

 Toddのアルバムのなかでこのアルバムが人気があるのも、どの曲もメロディがまとまっていて、他のアルバムにある変調や、あるいはとっぴょうしもなくヘヴィーな曲がほとんどはいっていないせいだろう。その分Toddがかなりの嗜好をみせるハードロック感はここでは抑えられ、こじんまりした感じも受けるが、それほどソウルでもなく、もちろんフォークでもなく、エンジニアとして凝りに凝ったというほどでもない・・・。それらのテイストがほどよく織り込まれ、そのあたりのアレンジの品のよさが、Toddの職人芸のなせるわざなのだと思う。ここまでのポップアルバムをつくるのは並大抵のことではないだろう。そしてここにおさめられた曲は決して古くならない、時代をこえたエヴァー・グリーンな輝きがある。

 Be nice to meはやっぱり美しい。曲の後半、nice to meの「ミ〜」の高音のところがすっとひきのばされ、ピアノと鐘の音がかさなるところなど、何度聞いても心をうたれる。

 なんだか凡庸な比喩ばかりで、「Toddらしい」という言い方に終始してしまった・・・が、とにかく時代の流れとはまったく関係のないところに存在する、ロックアルバムの古典だということは間違いないだろう。

my_friends_all_died_in_a_plane_crash.jpg 昔からフランスとロックというのは折り合いが悪く、バタ臭い音楽しか存在したためしがなない。むろん、Johnny Holidayのようなエンターテイメントに徹した潔さは、80年代以降のロッド・スチュワートのようだし、詩に限るならば、才能あふれたミュージシャンは多くいる。だが、アメリカやイギリスのような「ロック」を聞かせるバンドはほとんどいない。かつてTéléphoneというバンドが存在したが、このくらいだろうか、パンクロック風のさっそう感を感じさせたのは。

 だが、ここ数年英語でそのままロックを演奏するミュージシャンが増えてきた。先日Téléramaのpodcastを聞いていたら、トゥーレーヌ地方のバンドにはイギリスのロックの音を聞かせるものも多く、いまやトゥールはイギリスのマンチェスターに匹敵すると言っていて、おもわず微笑んでしまった。それはほめすぎだと。

 このCocoonも、フランスらしさをみじんも感じさせないデュオ・グループである。エリオット・スミスに影響を受けたということだが、確かにピアノとアコースティックギターによって織りなされる曲の進行は、もろエリオット・スミスだ。On My Wayや、Christmas songなどそっくりそのままである。

 しかし、マンチェスターだのエリオット・スミスだの言われても、感動しないのは、彼らの音楽には、どうしても音楽にたいする「せっぱつまった」ところを感じられないからだ。これしか方法がなくて表現されている音楽には聞こえてこない。たとえばTétéのサードなどは、ビートルズとボブ・マーリーの影響から抜け出して、トラジ・コミックのようなせつなさとユーモアをうまくまぜあわせた名盤だと思う。ここにはTétéが自分のスタイルをサードにして打ち立てた充実感がある。それに対して最近の英語で歌うフランスのバンドの大半には、結局はそうした表現の必然性を感じられないのだ。内省的であること自体はそれでいいのだが、それに陶酔していても、こちらに届く音楽は生まれない。ならばHip-Hop系の音楽のほうがよっぽど今のフランスの音楽シーンでは質が高いのではないだろうか。自らの表現手段に確信を抱き、それを信頼して自己を拡大させていくような、そして他者にぶつかってくる迫力の方がよっぽど、音楽の素晴らしさを教えてくれる。

 アマチュアリズムが悪いというのではない。アマチュアであろうと、そのミュージシャンが「これしかできない」という緊迫感をもたらしてくれるのであるならば、それがそのミュージシャンへの思い入れにつながる。たとえばMy name is nobodyというNantesのSSWは、これもほとんどニール・ヤングなのだが、「おれはギター一本でこうしか歌えない」という潔さが十分伝わる好盤である。

 音数の少なさや、男女コーラスの心地よさは、彼らの一つのミニマルな美意識の表れであるとはいえるだろう。しかしそれは、しょせんおしゃれなカフェでかかるBGMなのではないか。彼らの寂寥感は、人の心を締めつけるものではなく、午後のひとときを心地よく過ごすための材料にしか過ぎないのではないか。

 これは飾りであっても、表現ではないだろう。

the_basement_tapes.jpg アルバムというものにはタイトルがつけられ、プロデューサーがいて、どんなものであれ、それはひとつの作品と呼ばれうる。もちろん、曲の間にバランス感がなく寄せ集めと評されるアルバムも多い。しかしそれはあくまでアルバムはまず何よりも作品であり、そのトータル感の濃度ということが評価の基準となっているから、そういう批評がでるのだ。

 さて、このアルバムのタイトルはBasement tapes。「地下室」でのセッションを「寄せ集めた」アルバムである。セッションの記録である以上、ここにはアルバムのトータル感=作品としての完成度はもちろんない。しかし、そうした作品性とは別の次元で、アルバムを通した強い意志がすべての曲を覆っている。それは真摯に音楽と対峙し、「私にとっての」音楽とは何か?「今この場で生まれる」音楽とは何か?そうした問いを正面から受け取って、曲をつくり出しているそのエネルギーだ。A面4曲目のYazoo Street ScandalやD面2曲目Don't ya tell henryのロックンロールのヴォーカルと演奏の激しさが物語るエネルギーだ。

 とにかく力強さが充満している。いわゆるリハーサル音源なのだが、練習も本番もない。バンドとしての音の強さが、今それぞれの楽器とヴォーカルを合わせようとする緊張感が、アルバム全体を支配している。

 トラディショナルなのに新しい。「ロックにはもう何も新しいものはない」といったディランだが、その過去の音楽を自らの手に入れ、そこにロックにしかありえない切迫感をもって演奏しているところが、それまでの音楽にはなかったのではないだろうか。この古い新しさがディランの汲めども尽きせぬ魅力だ。私と伝統の妥協のないぶつかり合い、アメリカの懐の深さを感じさせる。

 音質やアレンジではなく、演奏している「人」を感じさせるのが、このセッションだ。The Bandのセカンドだったろうか。全員がやさしく目を閉じて写っている写真があった。うっとりと音楽を聞いているのか、あるいは眠りにつこうとしているのか。そこには死を想わせるほどの静謐があった。20歳そこそこにして人生の悲しみを表現しうるほどの演奏に達してしまった、The Bandの面々そしてディランには、彼らにしか出せない、老成した個性がある。

 ところでこのアルバムはディランが素晴らしいのは言うまでもないのだが、実は心につきささるのは、メンバー同士のヴォーカルのかけあいだろうか。A面3曲目Million Dollar Bashの「ウー、ベイビー」というコーラスのはもり、6曲目Katie's been goneはリチャード・マニュエルのリードヴォーカルがまずもって泣ける。そしてB面2曲目Bessie Smithはセカンドあたりにはいっていてもおかしくない。オルガンの音にこれまた泣けるけれど、この曲もハモリが高揚感を募らせる。決定打はやはり「怒りの涙」か、最後の「火の車」か・・・いや、D面1曲目You ain't goin'nowhereのサビの部分だろうか。

 ロックはこうして生まれたといっても過言ではない、アメリカン・ロックの礎としてのアルバムだ。

 で、ジャケも最高。隠遁しながらも、たえず創造へと向かう、男たちの群れを描いた傑作。

everybodys_in_showbiz_everybodys_a_star.jpg「好きなミュージシャンは?」と訊ねられれば、やはりThe Kinksと答えるだろう。しかし「人は愛するものについては常に語り損なう」。The Kinksについてどうやって語ればいいのか、いまだ表現に迷ってしまう。

 Everybody's in Show-bizは、The Kinks混迷期の一歩手前で出されたアルバムだ。しかし、この2枚組アルバムの2枚目のライブを聴けば、もうすでに、60年代ブリティッシュ・ロックの鋭さはなく、70年代、所詮ロックも商業主義の一分野に過ぎなかったことを十分に承知したうえで、ならばどこへわれわれは漂流すればよいのか、そんな手詰まり感が痛い程伝わってくる。これはコンサートではなく、ショーなのだ。

 しかしこのアルバムにはThe Kinksのなかで最も好きだといってもよい曲が収められている。Sitting in My Hotelだ。ここにはレイの、ツアー最中の果てしない繰り返しの中でうまれる倦怠と孤独が自嘲気味に歌われている。自分を突き放す、シニカルな視線がもっともよく表現された曲だ。有名であることは、ロックを創造してゆくことと相反し、ビジネスが成立することになる。盲信すれば金が入ってくる。それを拒否して芸術家気取りのうぬぼれのままでは、生きていけない。いったいロックは、余興なのか、それとも世界を塗り替えうる力を持っているのだろうか。ショービズにどっぷりつかるThe Kinksは、そのどっちつかずのところで、かろうじてシニカルな視線を保つことでロックでありつづけている。

If my friends could see me now, diriving round just like a film star.
In a chauffeur driven jam jar, they would laugh.
They would all be saying that it's not really me.
(...)
Sitting in my hotel, hiding from the dramas of this great big world
(...)
Sitting in my hotel room, thinking about the country side and sunny day in June.

 ここにあるのはロックの幻想から醒めてしまったロックスターの諦念だろうか。ホテルの窓から、外の世界を眺める。ロックビジネスにあることは、この外の世界とは異なる世界に生き続けることになってしまっている。ロックはムーヴメントでも、スペクタクルでもない。70年代にはいってロックは消費文化へと向かう。そのステータスの変容を不器用なまでに、微笑みを浮かべてその中に立ち尽くしていたのがレイの原像だろうか。友人というパーソナルな人々のつながりをもはやロックは赦さない。約束事が形成され、その役割を果たすことがエンターテイメントとしてのロックなのだ。レイ・デイヴィスはそれを演じることでしか、答えが出せなかった。Beatlesのように芸術として現実を撃つ力はもはやなく、Rolling Stonesのように潔くパフォーマーになるわけでもなく。

 だがその屈折が素晴らしいのだ。有名でもなく、無名でもなく、コンサートをすればそれなりにお客が、おそらくは批評眼などないであろうお客が集まってくる。そのお客を楽しませるショーが今夜も始まる。でもかつての友人たちは言うだろう、「それは、お前のやることではない」と。だがその不器用さがこのうえもなくいとおしいのだ。 Aristaに移ってからの成功はまさに起死回生の感があるが、それでもNight Walkerは聞くにたえるアルバムだ。

XTC, Skylarking (1986)

skylarking.jpg このアルバムは何と言ってもトッド・ラングレンがプロデュースしたことで大きな話題となった。大きな、というのも当時音楽雑誌でアンディ・パートリッジがこのプロデュースを気に入っていないという、なんだか芸能ネタのような記事があちこちに乗り、やっぱり気難しい職人同士ではうまくいきっこないんだと、音楽ファンのマニア意識を奇妙な喜びで満たしてくれたのである。

 とはいえ、ずっと前からもうニュー・ウェーブという呼称ではそぐわなくなってしまったアルバムを出し続けていたXTCにとって、このアルバムはその決定打であるばかりではなく、あらたなポップミュージックの出発点であり、イギリス風のねじれたポップミュージックのひとつのレフェランスとなった。

「ねじれたポップロック」。それはたとえば10CCだけではなく、Deaf School, Stackridgeなど、イギリス独特のひねりの利いた音楽はひとつのメインではないが、しかしイギリスの音と呼べるストリームを作っていた。

 それらのバンドとくらべてXTCは格段に違う資質を持っていた。それはやはりパンクの洗礼を受けたことによるだろう。その性急さは、それまでのポップバンドが映し出していた田園の風景ではなく、まさに都市の風景の反映だ。Black Seaのような音の厚みは、確かにパンクとまったく違う。かといって、70年代のロックとも異なるダイナミックさを持っている。ギターの早弾きとか、ドラムの連打のような定番スタイルからは最も遠い。電子音もひっくるめた、さまざまなスタイルの混合(それは音の混合であり、ジャンルの混合でもある)、それがXTCの音だ。

 しかしそうした音作りとはまったく違った、優雅ささえただよわせる落ち着きをもったアルバムがこのSkylarkingである。初期のころにあったひきつったベースラインとかピコピコ感は当然ながら消え去っている。従来のXTCの躍動感はB面1曲目ぐらいであり、それ以外の曲はまさに空に浮かぶかのような浮遊感をそなえた楽曲がならぶ。そのどれもが練りに練られた完成度の高い曲だ。

 たしかGrassのPVだったと思うが、メンバーが芝生に目を閉じて寝そべりながら、ゆっくりと体を前へ前へと移動させてゆくシーンがあった。そんな夢遊病者のまどろみような歩行、それがこのアルバムのテンポであり、トータル感をもって実現された世界だ。

 ところでシングルカットされたThe Meeting PlaceのB面には4曲のデモトラックがおさめられていた。これがどれもよい曲で、とくにFind The FoxはXTCの牧歌的側面がとてもうまく表現された名曲だと思う。

king_of_america.jpg Elvis Costelloのアルバムで初めて聴いたのは1979年のArmed Forcesで14歳のときだった。Costelloは25歳。ロックを聴き始めたころに夢中になったのは、Costello、Talking Heads、そしてIan Dury&The Blockheadsだ。Talking Headsは初めて行ったコンサートだった。前座はプラスチックス。Ian Duryには大学になってコンサートに行った。Elvis Costelloも何度か見に行った。だが、Get Happy以後、I wanna be lovedのヴィデオクリップを見るまで、Costelloからはかなり遠ざかっていた。New Waveを過ぎてからのCostelloと自分の趣味とが合わなくなっていたのだ。そのCostelloを再認識したのがこのKing of Americaだった。Costelloは32歳。

 架空の物語として自分のオリジンをもう一度見つめ直すような、過去への回帰がそのころの自分の心持ちに呼応したと言えばよいだろうか。New Waveを聴き続けながらも、大学に入って、それよりも過去の、Kinks、Eno、Kevin Ayersなどを知るにつれて、いままで聴いてきた音楽が流行に過ぎなかったという気が強くした。そんなときに出されたのがこのアルバムだ。ここにはアメリカへの屈折した憧憬がある。だがあくまでも音作りは正面から切り込んだシンプルで素直な音作りだ。臆面もなく過去と対峙する姿勢が、当時のロックを聴く自分の姿勢と重なって、このアルバムは何度も何度も聴いた。その後も、LPのみならずボーナストラックにつられてCDも買い直して、ライブ収録のはいった2枚組CDなども追っかけた。

 バックにアメリカのルーツ・ミュージックの演奏を代表する面々をそろえ(おそらくCostelloより年上のメンバーが多いのでは?)、アコースティックな構成で、スタンダードと言える楽曲が並んでいる。カバー曲であるDon't let me be misunderstoodなどあまりにも素直すぎて、微笑ましい程だ。7曲目Little Palacesではアコースティック・ギターとマンドリンの音だけにほぼあわせて、Costelloのせつないシャウトが聴かれる。そしてこのアルバムを一番象徴しているのはB面の1曲目American without tearsかもしれない。アコーデオンの音色が喜びと悲しみをないまぜにした微妙な感情を伝えてくれる。しかしこのB面には他にも名曲が並んでいる。Jack of all paradesやSuit of ligthsなどCostello流のポピュラー音楽の粋を集めた曲だと思う。New Waveの余韻とルーツへの憧れがうまく調和している曲ではないだろうか。

 このアルバムを契機として、しばらく新譜を買い続けるのだが、SpikeにしてもBrutal Youthにしても、強く何度も聴きたいとは思えなかなった。こうして再びCostelloと離れていった。今度はいつCostelloに再会するのだろうか。

gonna_take_a_miracle.jpg R&Bのクラシックを歌ったこのアルバムが好きな理由は、はっきりしている。オリジナルよりも、Laura Nyroが歌っているからここまで思い入れができるということにつきている。オリジナルを聞いてもここまで感動することがないのは、それはオリジナルの楽曲がどんなに素晴らしくても、ある形式、約束事にのっとっている感じがしてしまうからだ。もちろん、それは僕が聞き所を心得ていないということなのだが。

 では、Laura Nyroのこのアルバムの何を聴いているのか。それは、黒人音楽へのオマージュではない。むしろ、歌いたい曲を、歌いたい仲間と歌っている喜び、その喜びから発する、曲自体の生命感だ。どんなに素晴らしい曲であっても、歌い継がれなければ、単なるクラシックになってしまう。愛情を持って歌い継ぐ人間がいてこそ、曲に新しい命が吹き込まれる。

 その歌い手としてこのLaura Nyroほど、素晴らしい白人歌手はいない。たとえば3曲目のメドレー、バックヴォーカルとのかけあいのはつらつさ、後半の曲へつながるところの躍動感、5分弱でありながら、どんどん高揚してゆく流れが素晴らしい。それと対照的なのが、4曲目のDesiree。エコーのかかったヴォーカルの静謐さは、死の直前まで変わらなかったことを改めて再認識する。

 このアルバムも他の好きなアルバムと同じように、白人/黒人というカテゴリーでは決して分けられない。そしてどんな定番の曲であっても、ぬくもりのあるハミングを聴かせ、豊かな声量でソウルフルに歌いあげ、変幻自在に色づけされている。音楽の歴史的・社会的背景に、歌い手の歴史的・社会的背景には決して還元できない、パフォーマンスの現在性(今、ここで、歌が歌われているという事実そのものがもつ重みのようなもの)こそに惹かれるのだ。

 その瞬間を収めたこのアルバムは本当に希有な幸福感を伝えてくれるアルバムだと思う。他のアルバムも素晴らしいけれど、どれか一枚を選べと言われれば、このカヴァー集だろうか・・・

bells.jpg 86年に限定盤としてだされ、02年にリイシューされた吉田美奈子のミニ・アルバムである。吉田美奈子の活動は大きく何期かに分けられると思うが、このミニ・アルバムの色調は、95年のExtreme beautyや96年のKeyに近い。モンスター・イン・タウンを絶頂とする時期は、そのきらめく高音の素晴らしさに引き込まれるのだが、この90年代後半は、そのなめらかさを保ちながらも、低音の落ち着きが、曲にやさしさと静謐をもたらしてくれている感じがする。2曲目Chrismas treeの「街の灯が輝き増すたびに 魅せられる程の物語りがある」という部分など、低音ヴォイスの充実を感じる。4曲目Shadows are the througts(of the radiance)の「拾い集めて 心に停める」という部分もそうだ。この曲などは、「時よ」や「風」を彷彿とさせるけれど、ずっと大人なアレンジだ。

 もともと自主制作盤だったせいか、アレンジがずっとシンプルなのだろう。3曲目のゴスペルテイストの曲や、5曲目のヴォーカルの多重録音など、趣向はこらされているのだが、とても手作り感があって、聞いていて落ち着く。

 昔クリスマス・イヴに編集テープを作っていて一晩を過ごしてしまった先輩がいたが、クリスマス・イヴに聞くに最高の一枚がこのBellsだと思う。宗教的な情熱や敬虔さが、音楽にソウルを吹き込んだことは否定しない。しかし神を歌わずとも、曲の美しさに感動し、心が洗われることがある。吉田美奈子の音楽にはそうした質素な充実があるのだ。ただ、そこに音楽があるだけでいい。その声があるだけでいい。それはなにものの対象としない純粋な祈りなのだ。

highway.jpg 大学の学食で、大学院生のmrt君と昼飯を食べながら、日本の音楽の話になった。年齢のわりには古いものをよく知っている彼と、年齢の割には新しいものをかろうじて知っている僕の間には、非常に親密な「わかる」感覚がある。この日も「エグザイルにはメンバーが何人いるかわからないし、アンジェラ・アキはこちらが気恥ずかしくなってしまう。でサザンにたいしてはまったく無関心でしかいられない、好き嫌いの次元以前に、視野に入りようがない」ということで、大いに盛り上がってしまった。平成生まれがまわりにちらほらいるなかで、ぼくらの話はほとんど意味不明だろう。

 では日本のロックにだれがいるだろうか。ここで名前がのぼるのが若い割にはロックの歴史をしっかり咀嚼している「くるり」。というわけで、その夜家に帰って「ワルツを踊れ」を聞いてみた。I-tunesをみたら、なんと最後に再生したのは去年の12月・・・結局そう、最近のくるりは少し聞くに耐えないところがあるのだ・・・たくたくのライブはとてもよかったが。

 では何が一番再生されているか。それがこのThe Guitar plus meという日本的な文脈からかなり遠いところにいるミュージシャンである。今回の新譜も今までとまったく変わらない。歌詞はすべて英語で、対訳つき。この新譜は大手コロンビアからの発売だが、音数は今まで通り、きわめて質素である。1曲目のhighway througt desertから、まったく今までの音作り同様のやさしいアコースティックギターが流れてくる。音を重ねながらもこのすきすき感があるところがなんともいえない魅力だ。

 また3曲目school bus bluesのようなコード進行、ヴォーカルも音の階梯を降りてゆくような、せつなさ、それがI can't see your smileという歌詞と重なる。

 次のBlue printもほぼギターの弾き語りで、そこに多重ヴォーカルが重なる。

 YouTubeでみたthe guitar〜は超絶ギター少年だったが、アルバムではそこまでテクニックに走ることはない。fortune-tellerには途中でギターソロが挿まれるが、それもテクニックを聴かせるものではなく、あくまで曲の流れの一場面だ。それよりも一本一本の弦の音色がここまで違うのかと教えてくれる、丁寧な演奏である。winter afternoonは、リフが幾度ともなくくりかえされ、そこにハミングのようなヴォーカルが重なってくる。その溶け合いかたが、とてもやさしい。

 1stアルバムから基本的には何の変化もない。アルバムジャケットも音の構成も。ギターの肌触りと、人工音の類い稀なフュージョンといえばよいだろうか。最後の曲horizonはそうした人工音の中に、アコースティックギターが流れてくる魅惑的な構成だ。イントロを3秒聴けば、すぐに彼の音楽だとわかる。

 そして詩的喚起力の強さーそれが、作品に淡い物語性を生んでいる。それもこのミュージシャンの魅力であり、アルバムを通して聴きたくなる強い磁力のもとであるのだろう。

avalon_sunset.jpg Van Morrisonのアルバムにはアストラル・ウィークス、ムーンダンスといった初期の傑作群がある。これは誰もまねしようがないし、Van自身再演することなど不可能なほどオリジナリティにあふれたアルバムである。白人によるソウルの咀嚼。かつロックというジャンルがあらゆる他のジャンルを咀嚼しつくすエネルギーをたずさえたジャンルであることを証明してくれるアルバムだ。またライブにもIt's too late to stop nowのようなソウルフルなアルバムがある。しかし、Van Morrisonのアルバムは70年代だけではない。80年のInto The Musicなどずいぶん聞きやすいが、魂の充実を感じさせる好盤である。そして80年代終わりにだされたこのAvalon Sunsetも時代の制約をはるかに超えたアルバムに仕上がっている。

 初期のアルバムはLaura Nyroと同じくこちらに緊張を迫るが、この時期のアルバムはすこし肩の力を抜いて、楽しみながら聴けるのがよい。どの曲もオーソドックスな感じがするが、じっくり練られているし、多少「お決まり」であってもVan Morrisonならば許してしまおうという気になる。

 とくに4曲目。Have I told tou lately that I love youの甘さはいったい何だろう。叙情に押し流されてしまいそうな曲ではあるが、Van Morrisonの落ち着いた懐の深い歌い方に、素直に感動するのだ。Take away my sadnessという甘ったるい歌詞も一緒に口ずさみたくなる。そんな静かな魅力に溢れた曲が並ぶ。ストリングスもまったく大げさには聞こえない。

 7曲目のWhen will I ever learn to live in Godもよてもよい曲だ。しかしなぜ神を歌うのだろうか。それはゴスペルのような神と強い関係をもつ音楽との共通性ゆえだろうか。たしかに曲の最後女性コーラスとサビを繰り返すところなど、神へのゴスペル讃歌と言えなくもない。

 それ以外にも美しい曲が収められている。ストレートにR&B色の強い曲を聴くよりも、実はこのAvalon Sunsetのような、控えめであっても、じっくり歌を聴かせてくれるVan Morrisonが好きだ。80年代のうすっぺらな音楽が席巻するなかで、ここまで歌を大切にしたアルバムを出していたことに驚く。

 ようやく40枚ほどレヴューを書いてきて80年代のレコードを初めて紹介することができました。でもこのアルバムはもっとも80年代らしくないアルバムだけれど・・・

blood_on_the_tracks.jpg『血の轍』は、おそらくディランの数々の素晴らしいアルバムの中で、「歴史的名盤」、ロックの歴史を刻む記念碑的アルバムではないだろう。むしろきわめてプライベートな愛聴盤として、ごく個人的に孤独のうちに聴かれながら、実に多くの人々の心をとらえきたアルバムと言えるだろう。きわめて個人的な事柄が、大きな普遍性をもつ、その意味でこのアルバムは、名盤である。

 これだけ美しい曲が並んでいるのに、好きな女の子にあげる編集テープにはどの曲も入れられない。それがディランのヴォーカルの魅力。みうらじゅんが書いていたが、なんでこんなダミ声の唸るような歌が、心を引くのか。本当にそう思う。中学生のときに聴いたディランは、とにかく曲という体裁を感じられなくて、ブツブツ言っている感じがして、聴けなかった。

 ディランをあらためて聴いたのは大学時代の先輩の最も好きな曲が、このアルバムにおさめられている、You're gonna make me lonesome, when you goとIf you see her, say helloだというのを知ったからだ。

 このアルバムにはディラン自身の別離から始まる、喪失やあきらめや、人生へのまなざしといったものが痛々しいほど散りばめられている。

 Simple Twist of Fate「運命がくるっと回る」とでも訳せばいいのか自信がないが、

彼が目をさますと 部屋はからっぽ
彼女はどこにもいなかった
彼はかまうことないと自分に言い聞かせ
窓を大きく開けて
空虚を中に感じた
それは彼がかかわることのできない
運命のひとひねり

 朝目を覚ます。それは毎日訪れるささいな事柄だ。昨日とも明日とも変わらない。しかしそこではすでに運命がひとひねりしてしまっている。今日からは空虚なのだ。この喪失がこのアルバム全体を浸している。Lonesomeからsay helloまで心はどのような軌跡を描くのだろうか。それが描かれているのがこのアルバムである。

 その軌跡とは「血の轍」である。心から血を流すディランの痛ましさが、ロックという音楽に乗って、同じ心を持つすべての人を訪れるのだ。

Elliott Smith, XO (1998)

xo.jpg Elliott Smithが好きかどうかは、その相手とロックの話ができるかどうかのもっとも大きな分岐点である。Elliott Smithのロックは、人格の陶冶や、癒し、共感、励ましとは最も遠いところにある。背中を押してくれる音楽とは最も遠いところにある。ふと気づいたらささやいてしまっていたひとつのフレーズ。しょうがなく生み出してしまったメロディのかけら。それが羞恥の感情にも似て、生の最も純粋な部分を表しているのがElliott Smithの音楽だ。

 Elliott Smithが「音楽流通」の形態を意識して「アルバム」として仕上がったのがこのXOである。したがって、それ以前のアルバムとは桁違いにアレンジがカラフルだ。ドラマチックですらある。1曲目はこれまでであれば、最初のギターのリフだけで完成とされていた曲だろう。指のかするギターの弦の音、それだけで成立しうるのがElliott Smithの曲だ。しかしXOにおいては、この1曲目はピアノ、ドラムのバックが入って奥行き広く展開してゆく。2曲目は、今までの世界に近い音作りをしている。ギターの弦が、か細い金属の線でできていることを実感させてくれる弾き語りの曲だ。4曲目はビートルズのリフそのままのブリティッシュな雰囲気の濃い曲である。これまでと比べればずいぶんポップな曲だが、Elliottの作曲クオリティの高さを実感させてくれる佳曲。それは7曲目も同様だ。キャッチーなサビの部分が印象的なポップな曲だ。また9曲目では、J.Macsisなみのハードなギターを聞かせてくれる。グランジとはまったく違う方向性をもつElliottだが、この曲あたりは少し似ていなくてもない。

 しかし基本はビートルズだろう。10曲目、そして最後のI Didn't Understandなどはまさにビコーズの世界だ。Elliott Smithの音楽は決して死や終末を歌うものではない。むしろ日常の中にたえず訪れるいくつもの小さな死、小さな別離、喪失。そこからのわずかな再生のきざし。それが内省的な音楽の色調を決めているのではないだろうか。

 XOとFigure 8は、スタジオワークとしてもかなり充実していて、まさに職人としてのアルバム作りを確信させる作品だった。しかしそれが彼の音楽性と相反してしまったと思わざるを得ないのは、この2枚が彼の人生の最後の仕事となった歴然とした事実からだ。もうこれ以上どんな可能性も残されていない。ぎりぎりのところまでとぎすまされた音楽へのストイックな傾倒。それがこの2枚なのだ。

time_the_conqueror.jpg James Taylorの最近のライブを聞くと、若い頃と比べても遜色なく、かえって今のほうがずっと輝きのある声になっていることに驚く。衰えるどころか、今が一番脂の乗り切った充実期であることを感じる。Jackson Browneも、2枚のアコースティックシリーズでの弾き語りを聞くと、依然声質が衰えていないことがわかる。そしてアルバムテイクよりも、実はこちらのアコースティックのほうが曲の良さが断然生かされている。

 そのアコースティックシリーズを経て、今回出されたニューアルバムはバンドでの録音である。Jackson Browneの曲でひっかかるのは、明確なメッセージがあることはわかるが、それを「音楽」という媒体を使って表現する必然性が果たしてあるのだろうかという点である。愚直といえばそれまでで、もちろん愚直であることの潔さを曲から受け取ることはできるのだが、それはたとえばニュース番組と同じで、メッセージが情報として伝達されれば、「再放送」されないように、一回聞けば終わってしまう危うさがある。そうした一回性で終わらないがために音楽が選ばれるのだと思うが、はたしてJackson Browneの曲は、その一回性で終わらないほどのクオリティが保たれているだろうか。

 アコースティックシリーズをつい何回も聞いてしまうのは、やはり曲自体をクオリティの高さが一番純粋に出ているからであり、だから繰り返しに耐えられるのだ。

 こうした実直なミュージシャンがはまり込む陥穽は、純粋な表現として音楽を作ることができず、自分が置かれている今の状態や、社会情勢にどうしても真摯に立ち向かわざるをえないという不器用さにあると思うのだが、ではこの60歳のミュージシャンが出したこのニューアルバムはどうなのだろうか。なんだか歯切れの悪い言い方になってしまうが、「歌うべきことをもっている限りは、曲は生まれてくる」という点で、命のこもった曲が並んでいるとは言える。しかしそれが初期のアルバムにおさめられたような、永遠性をもちうるかといえば、それはなかなか難しいのかも知れない。アレンジは、大人といえば大人なのだが、あまり切実さが感じられず、バンドといってもお互いに切り結ぶものはなく、雰囲気にながされてしまっている。

 だがそれでも歌い続けるということ、その生きる姿をけれん味なくみせてくれるということ、その態度自体がロックなのだろう。誠実に音楽を作り続けるということ、しかも何十年にもわたって。過去ではなく、今を共有できることの喜びはなにものにも代え難い。どんなに歳月を経ても、友人から便りがとどけば、うれしいように、今後も僕は新譜を買い続けるだろう。

Ryan Adams, Cardinology (2008)

cardinology.jpg 今年のRyan Adamsの新譜が出た。Easy Tigerと同じゆとりのある雰囲気を漂わせながら、正統的なアメリカン・ロックを堪能させてくれる曲が並ぶ。

 青春の最高傑作Heart Breakerのようなナイーブなところは影を潜め、Rock'in Rollのようなニュー・ウェーブのひ弱さのようなものもすっかり払拭されている。

 もちろん憂いに満ちた曲もある。しかしAdamsのヴォーカルは酔いどれのつぶやきではなく、あくまでも骨太で、シャウト寸前の歌いっぷりだ。曲の沈んでゆく感覚と歌の激しさのアンバランスが素晴らしい。

 Easy Tigerよりもとにかく曲がヴァラエティに富んでいる。Magickのようなバンドの緊迫感を感じさせる曲は、前回のEasy Tigerとは違うところだ。いたって短い曲だが、密度は濃い。次のCobwebはU2っぽいニュー・ウェーブの残り物のような曲で、途中のギターのリフがダサイ。ヴォーカルのエコーもダサイ。でもキャッチーで、深みもあってと、なんだか中途半端な曲だけど引き込まれる。かと思えばEvergreenのような可憐な小曲もあり、Like YesterdayのようなCold Rosesを思い起こさせる泣きのギターに心を揺さぶられる曲もあり、これでノック・アウトだ。最後はピアノの弾き語りでRyanの優しい声でしめくくられる。

 アルバムのトータル感はEasy Tigerのほうがあり、今回は多少散漫なところもなきにしもあらずだ。朝聞いたほうがよいのか(Goldの前半のように)、深夜に聞いたほうがよいのか(Goldの後半のように)・・・しかしどんな曲も聞いた瞬間にRyan Adamsでしかありえない。駄作、傑作という評価の定規にひっかからないところがこのミュージシャンの偉大なところなのだろう。

tumbleweed_connection.jpg Elton Johnと言えば、「きみの歌はぼくの歌」であり、あまりに優れたラブソングなために、この曲がおさめられた1stアルバムもリリシズム溢れたロマンティックなアルバムだと勘違いしそうになる。実際には冒頭におかれたこの曲をのぞけば、いたって内省的な曲が多いことに気づく。またアルバム裏ジャケットにミュージシャンの写真が並んでいるが、当然ながらElton Johnのアルバムは決してピアノロックではなく、一流のミュージシャンによって固められたセッション性の強いアルバムである。

 もちろんロマンティックという形容詞にふさわしいメロディアスな曲は多いけれど、でもそれだけではアルバムの醍醐味を表現したことにはならない。内省的でありつつ、しかし音楽表現としては技術的にしっかりとバックアップされ、シンガーソングライター的な繊細さとは一線を画した、プロフェッショナルとしての、完成度の高い「音楽作品」。だから単純な主観的印象だけではElton Johnの魅力は語れないように思う。

 メランコリックでありつつ、力強い音作りをきかせる、この情熱と内省の交錯が初期のアルバム群の魅力であると感じる。とくにこの3rdアルバムは、アメリカのルーツ音楽をふんだんに盛り込み、コーラスの迫力や、ゴスペルっぽい曲の盛り上がりなど、かなり骨太である。と、同時にスタジオワークも素晴らしく、個々の演奏力の高さに感服する。

 アルバムの色調は、ジャケットの色合いに似て、決して派手ではない。後年のエンターテイメント性などもない。だが、音楽を制作することの確信が、Elton Johnの声から溢れてくるようだ。

 もちろんLove songのように心象風景がそのまま音に投影されたような、憂いを感じさせる曲も収められていて心に響く。それに続くAmoreenaはピアノの音色を中心にしながらも、曲の盛り上がりにあわせて、ドラムが実に渋くはいってくる。こうしたバランスのよい楽器編成が決して曲がセンチメンタルにならない理由なのだろう。

 意匠はアメリカかも知れないが、Elton Johnの芸術度の高さは、その場の感受性ではなく、一流の計算されたプロの技なのであり、それは最初から一貫した、確固としたElton Johnの世界なのだ。

miracle_of_science.jpg 最初にMarshall Crenshawを聞いたのは、Someday, Somehow。甘酸っぱい青春の憂うつを感じる曲だった。そして宅録のようななんだかチープな音の感触が、またCrenshawという人物の内省的な、繊細な感性を表しているような気がしてずいぶん聞き込んだ。

 その後も大々的に宣伝されることはないけれども、レコード屋に言ったおりにふとコーナーをみると新譜がでているのに気づいて、そのたびにレコードを買って聞き続けてきた。どんなミュージシャンが好きかとたずねられて、Marshall Crenshawの名前をすぐに出すことはないけれども、それでも振り返ると、デビューからずっと追いかけてきたミュージシャンの一人である。Good EveningやMary Jean & 9 Othersなどずいぶんターンテーブルの乗せていたように思う。The 9 Volt YearsなんていうデモをあつめたチープなCDもしっかり聞いてきた。

 そんなつかず離れずの関係のなか、96年にでたこのMiracle Of Scienceの本人の顔写真はすっかり憂いもとれて、なんだかパワーポップの仲間入りをしたかとおもうような振り切れ具合を感じさせるアルバムだった。

 しかし曲を聞いてみると、多少音圧は上がったかもしれないが、依然良質なメロディを聞かせてくれるアルバムであることを実感した。その吹っ切れ感がアルバムのヒットにつながったかどうかはおぼつかないが、それでも自信を感じさせる楽曲がならぶ。そう、少なくとも宅録、四畳半的情けなさはだいぶ影をひそめ、なんだか立派なスタジオで録音することができたのかな、と幾分保護者的な観点で安心して聞くことのできるアルバムだ。

 10曲目Theme From «Flaregun»のようなインストの曲なども彼のギターセンスのよさを十分堪能できる。アルバムラストのThere And Back Againなど、本当に彼にしかかけない、そして歌えない胸キュンのすてきな曲だ。

 そうこの甘酸っぱさはたとえばJules Shearなどとも共通だ。でも、Shearもなんだかうまく立ち回れば、もっともっとヒット曲を飛ばせただろうに、なんだか器用じゃない。Crenshawもそうだ。ギターはうまい。曲もいい。でもなぜだかビッグヒットにはつながらない。いったい何が欠けているのかわからないが、やはり器用じゃないのだろう。でもそれだけ小手先だけの音楽ではないことが実感できる。音楽にあまりに詳しすぎるとミュージシャンとしては不幸に陥るとよく言われるが、ひょっとしたらMarshall Crenshawもそんな「わかり過ぎて、いまさら売れる曲なんてかく気にならない」タイプの人間なのかもしれない。そんな人生でいつも損ばかりしているミュージシャンなんだけど、だからこそ愛してやまないミュージシャンのひとりなのだ。

Kenny Rankin, Like a Seed (1973)

like_a_seed.jpg 長らく廃盤状態が続いていた『銀色の朝(シルヴァー・モーニング)』がようやく最近になって再発された。名盤との評価を受けてきたアルバムだが、実際に聴いてみると、それまでのフォーク、ソフト・ロックから、ストリングスをいかし、ワールドミュージックのテイストをもったAORへの過渡期にあるアルバムという印象で、アルバムとしての散漫さ、アレンジの過剰さをどうしても感じてしまった。それに対してこのLike a seedは1、2枚目にあった青さは多少影をひそめ、落ち着いたトータル感を大切にしたアルバムだと思う(「Comin'down」を除いては)。いろんなことを試してみようとしてなんだか力がはいっている『銀色の朝』よりも、こちらのほうがアルバムとしては完成度が高いと言えるのではないか。アレンジもあくまでひかえめであり、ケニー・ランキンの歌声が堪能できる。

 決して老けているわけではない。それでも初期のフォークの雰囲気からすれば、老成したといおうか、力ではなく、技術で聴かせるヴォーカルになっているように思える。たとえばSometimesやStringmanのような、ソフトな曲でも、たんにAOR風のムードを漂わせるだけではない。メロディはけっこう暗めで、内省的でさえある。またカリプソ風の楽器のアレンジも、むしろメランコリックな音をきかせている。この2曲に続くEarthheartはさらに憂いを帯びた曲だ。初期エルトン・ジョンのもっていた内省的なメランコリー感に通じるものがある。

 そしてケニー・ランキンの声の美しさの極致であるYou are my woman. Be my woman foreverとささやくその声はずっとこちらの心に響いてゆく。ラストのIf I should go to prayは、けっして大げさな曲でもない。それでもケニー・ランキンの最後のハミングが永遠に聴いていたいと思うほど美しく、荘厳さまで感じる曲だ。

 どのアルバムも決して悪くはない。それぞれジャズやボサノバなどテイストは異なるが、このヴォーカルは変わらない。それでも全曲を自分自身で手がけたからではないが、Like a Seedは、ランキンの音楽にたいする資質がバランス感覚という点でもっともよく表現されたアルバムではないだろうか。

taking_the_long_way.jpg Dixie Chicksのこのアルバムと前作を聞いて思うのは、フリードウッドマックをあらためて聴き直したいということだ。カントリーという名称がほとんど意味をもたない良質なポップな曲がならぶChicksのアルバムだが、その影響が実はフリードウッドマック、スティーヴィ・ニックスにあることを実感する。前作では一曲カバーもしているが、繊細でありながらも、力強さを感じさせるヴォーカルの唱法は、そんなところからきている感じがする。

 自分の聞く音楽のなかで、これほどまでに直裁なメッセージをもった歌をうたうミュージシャンも珍しい。だが、それはアメリカの今ときちんと向き合った、正々堂々とした内容だ。自分の感情や考えの変化、あるいは何があっても変わらない自分の芯としている部分。自分を見つめ、自分と社会のつながりを見つめる視線は、誠実で説得力をもつ。そしてそれが先鋭的なメッセージソングとならずに、美しいメロディに乗せて歌われるところが、アーティストとしての奥深さを感じさせるところだ。Not ready to make it niceは、強い意志をもって歌いあげる決意表明の歌であるが、決して感情の起伏にまかせた歌いかたではない。シャウトする寸前までいきながら、しかしあくまで歌を伝えようとする冷静な意志がある。

「成熟・深み・知性」。ライナーノーツに載っていたインタビューの抜粋だが、この女性バンドを表すもっとも本質的な表現であろう。

 そしてこのアルバムにはもうひとつ「優しさ」がある。Lullabyのような素敵な曲がおさめられているのもこのアルバムの魅力だ。

 ここまで書いてきてあらためて思うのは、このバンドは「カントリーバンド」ではまったくありえないということだ。ぼくにとってのカントリーはウィリー・ネルソンです。彼女たちはそんな安易な制約などとっくに破ってしまっている。クオリティの高い音楽は、どんなジャンル分けも無効にしてくれる。

nine_lives.jpg 自分がロックを愛している理由を考えてみると、結局はロックというジャンルは、はっきりしていないことにつきるように感じる。ロックとは関係ない映画をみてて、「これってロックだよね」などとつい言ってしまうが、そのロックの意味の根拠など実はきわめてあいまいなのだ。だがそれがロックの強みなのだ。

 かつてトルコ人の友人に、「日本人はとても優秀な民族であり、自分は尊敬している。だが、西洋の文化に汚染されてしまっているのが残念だ。日本には素晴らしい伝統ミュージックがあるのに、なぜおまえはビートルズやローリング・ストーンズなど聞いているのだ(注:ぼくはあまりストーンズは聞かないけど)」と言われたことがあるが、まさにそこにロックの秘密がある。ロックは、イギリス、アメリカで生まれたかもしれないが、その源流にはブルース、ジャズ、あるいはフォークなどの影響があるわけで、「源流」は結局「源流」にはなりえない。だがその雑食性にロックの楽しみがあるのだ。ぼくは、いまだに「本物」のブルースやソウルは聞けない。日本の伝統音楽も同じ理由で。

 そう考えると、このSteve Winwoodのアルバムはまさにロックアルバムである。アフリカンなパーカッションに、ブルースぽいギターライン、それに白人Winwoodのソウルフルなヴォーカルがからむ。この雑食性に富んだアルバムに、Winwoodの音楽観の豊穣さが十分に凝縮されている。60歳のミュージシャンが作るアルバムは、これまでの音楽を咀嚼しつくした上で、それらを奥深くまで含みこんだロックである。

 どの曲もリズムの進行が素晴らしい。パーカッションとギターのリフのからみや、ハモンドオルガンがフューチャーされる瞬間、個々の楽器がこれほど完璧にセッションしているアルバムが他にあるだろうか。

 そしてSpencer Davis Groupの頃から変わらない、これこそホワイト・ソウルというヴォーカル。

 とくに心を奪われるのはたとえば、ソプラノサックスが美しい、大地の広がり、飛翔の高みを感じさせる二曲目。On a brave new morning, smiling at the skyという歌詞のすがすがしさから始まり、どこまでも深みを感じさせるアレンジが展開され、やがてOh what you're healingと、歌い上げられる。このヴォーカルも素晴らしい。だが一番素晴らしいのは、この曲がアフリカにもイギリスにも、どこにも根をはっていない、真にロックとしかいいようのない曲のエッセンスだ。

 もちろん繰り返されるギターリフが印象的な一曲目から、ロックのかっこよさに引き込まれる。三曲目の変則拍子の展開も緊迫感があり、そこにはりのあるヴォーカルが重なるところが、聞き所だ。そしてブルージーなギターがはじけ飛ぶ、クラプトン参加の四曲目。黒っぽいロックが聞きごたえたっぷりである。他にも八曲目の最初のハモンドオルガンが入ってくるところなどは、何度聞いても鳥肌がたってしまう。パーカッションの効いた部分と、盛り上がるところでのハモンドオルガンとヴォーカルの絡みの対比に本当にどきどきする。最後の十曲目はまずもって泣けてくる名曲。

 40年以上のキャリアをもつ人間が、今だにクリエイティブなアルバムをだし、人々を感動させ続けている。ロックの存在価値は、Winwoodのような最高の仕事人によって保たれているのだと実感できる2008年最高のロックアルバム。

Thin Lizzy, Black Rose (1979)

black_rose.jpg ロックを聞き始めたころは、フォーク、ハードロック、あるいはアメリカン・ロックのようにジャンルで聞いていたわけではなかった。FM放送で自分のお気に入りのDJをみつけ、そのDJがかける曲で、新しいグループを知っていった。ロックの知識もなく、あるミュージシャンを系統的に追いかけるのではなく、ただただ自分の耳にひっかかったものを、DJの趣味を信頼して、お気に入りミュージシャンとして、レコードを買っていた。しかし、気に入ったもの全部をかえるわけではない。結局ヒット曲としては記憶しているものの、LPは買わずじまい、ということも多く、Cars, Police, Bommtown Rats, などLPは1枚も持っていない。

 ヒット曲を追いかけるなかで、出会ったのがこのThin Lizzyである。当時「アリバイ」という曲が売れていた。それは、ニュー・ウェーブ全盛時で、ポップで疾走感があり、キャッチーなリフで、まさにロックらしいかっこよさに溢れた曲である。だからThin Lizzyがハードロックに分類されるといった意識もなく、自分の中ではCarsのヒット曲と同じだった。

 しかしこのバンドもLPは買わずじまい・・・。大学に入ってから、おそらくレコード・コレクターズの特集で思い出し、「アリバイ」の曲がはいったアルバム「Black rose」を買う。当時は、Poguesが人気を集めており、いわゆるアイリッシュな風味のロックが注目されていたが、そのときにはじめてこのThin Lizzyも同じ風土のロックを感じさせるハードロックバンドであることを知った。

 CDで「アリバイ」以外の曲を聞くと、ビート感があって、ギターのフレーズも疾走感があり、曲にエネルギーがある。このエネルギーはこのバンドの生命線なのだろう。2曲目、Do anything you want to(邦題「ヤツらはデンジャラス!!」!!)のドラムの決め方に、サビのギター早弾きなど、「ロックといえば」の様式美に見事はまっている。そして5曲目Sarahはこう歌われる。

When you came in my life,
You changed my world,
My Sarah,
Everything seemed so right

 ハードロックというよりも、愛情のあふれたポップスだ。7曲目はミッジ・ユーロが参加しており、まさにニューウェーブ感あふれた曲の展開にどきどきする。そして9曲目Roisin Dubhは、アイルランドの伝説に基づいた、自らの根を見つめた曲である。

 79年。パンクからニュウェーブへと時代が移るなかで70年代初頭から活動してきたハード・ロックバンドThin Lizzyもその時代を感じさせるアルバムを発表した。しかし歌をかなでることは、いつか自分の故郷を振り返ることになる。単なる伝統回帰ではない。むしろ伝統をエレクトリックな音で引き受ける度量がフィル・ライノットにはあった。ライノットは86年に34歳で死んでいる。「ハードロックな子守唄」。そのやさしさがThin Lizzyの奥深さを物語っている。

sound_like_this.jpg タワーレコードで初めてレコードを買ったのは、受験のために東京に上京したときだった。試験が終わった翌日、念願の渋谷のタワーレコードに行った。買ったレコードは2枚、The Smithsの新譜、The meat is murderと、友人から借りて録音したカセットしか持っていなかった、Elvis CostelloのArmed Forcesだった。友人のレコードはカッティングが悪く、A面の最初に針を落とすとすでに曲が始まっているような代物だった。自分でLPを買って、はじめてコンプリートなイントロを聴き、強い感動にうたれたのを今でも覚えている。

 東横線が事故で止まったため、久しぶりにタワーレコードに行き、いろいろ試聴した。金曜日の夜、ゆっくりアルバムを見ている人は、実はそんなにいない。試聴の順番をおとなしくうろうろしながらまっているのは、おっさんばかり。店内には「大人買い」や、「おやじのための紙ジャケ、ボックスコーナー」という文句がならぶ。

 今日はまだ買わなかったAimee Mannの新譜、She & himという男女デュオのデビューアルバム、Steve Winwoodの新譜などを存分に聞きまくった。その中でタワーレコードがプッシュしていたのが、このEric Hutchinsonである。タワーの説明によると、メジャー契約を結んでいない中で、ヒットしているミュージシャンらしい。これがファーストであることに確かに驚く。タワーの推薦ということで購入した。

 かなり老成したミュージシャンである。まずソウルフルでありながら、どこかフォークっぽい情けなさのただよう、ヴォーカルが印象的だ。そのわりにはバックのアレンジはかなり人工的でしゃれている。曲の雰囲気からは様々なミュージシャンが浮かぶ。フリージャズ的な即興性が潜まり、曲としてのまとまりを強く感じるようになったInto the musicの頃のVan Morrison。6曲目Oh!のサビは、Todd RundgrenのSomething, anythingのピアノワークを感じさせる。控えめなグルーブ感はThe fifth avenue bandなんかも浮かんでくる。そしてもちろん、Stevie Wonder。8曲目のパテティックなちょっとださい感じもする音はElton Johnあたりだろうか。

 ただ、そのようなミュージシャンの名前を連ねると、この新人は、その模倣なのかということになるが、全くそんなことはない。とにかく凝ったアレンジには新鮮なオリジナリティを感じる。曲によって目玉がストリートミュージシャンぽい弾き語りの音だったり、ピアノだったり、ブラスバンドだったりと様々で飽きさせない。声もまた実に奇妙なのである。ただ最大な魅力は、「明るい遊び心」だろうか。アルバムトータル37分の一気にきいてしまえる軽快な、遊び心がこのアルバムにはつまっている。

 もっぱらインターネットで情報を仕入れることが圧倒的に多くなってしまった今だが、タワーレコードのバイヤーたちのセンス、ポスターなどで宣伝して、プロモで1500円で売ってくれるところなど、タワレコ文化、まだまだ健在です!

earth_song_ocean_song.jpg 1970年初頭のイギリスのフォークムーブメントを最も良く表現した一枚であろう。重厚なベースの音、スコティッシュな伝統の響き、アコースティックなギターの旋律、そして控えめでありながら全体の空気を作り上げているストリングスなど、シンガーの、こうしたアルバムを創りたいという意図がひしひしと伝わってくる力作である。他人の曲だけを歌っていても、SSWのドノヴァンや、ニック・ドレイクなどに決してひけをとらない、時代を代表するアルバムである。

 しかし、全体が同じ色調で染められているとはいえ、内容は単調ではない。ホプキンのヴォーカルは、瑞々しいが、決して少女っぽい歌い方ではない。むしろ堂々と声を響かせ、凛々しい歌声を聞かせてくれる。There's Got To Be Moreのようにノリがよく、しかも力強い抑揚を聞かせてくれる曲、Streets of Londonのようなフォークのミニマルな美しさが際立つ曲、さらにはWater, Paper and Clayは、単純なメロディが何度も打ち寄せるトラッドっぽい曲であるが、次第に、どんどん熱く荘厳になっていく展開は、決してフォークの一言ではすませられない、豊かな情感を表現している。

 このアルバムでのメリー・ホプキンは、まさに日本盤タイトル『大地の歌』にふさわしく、しっかり大地を踏みしめ、自然の息吹を感じながら、生命があふれる喜びを歌っているように感じる。それはジャケットの美しい写真のせいもあるだろう。表のEarth Song、裏のOcean Song、それぞれにふさわしい情景の写真が使われている。写真におさまる19歳のホプキンには、イギリスの過去と今が見事に結晶化している。

Aimee Mann, I'm with Stupid (1995)

im_with_stupid.jpg 最近はiTunesに登録されているインターネットラジオで、Radioio acousticという番組を聞くことが多く、ここで気に入ったミュージシャンのCDをAmazonで購入というパターンが続いている。とにかく日本では知られていない、でも質の高いミュージシャンがアメリカには多いのだと当たり前のことに気づかされる。Aimee Mannは、もちろん日本でも知られているし、日本盤も出ている。それでもソングライティングの高さから考えるに、もっともっと話題になってもよいはずだ。

 95年に出された本アルバムは何と言っても10曲目のThat's Just What Yous areだろう。スクイーズのメンバーが参加しているこのアルバムであるが、この曲のサビのバックコーラスは、まさにスクイーズというか、なかでもChris Diffordのクセのある声に引き込まれる(去年出た、スクイーズの曲をアクースティックに演奏しなおしたSouth East Side Storyは名盤です。ときに過剰な味付けもあったスクイーズの曲が、本当にすばらしくよみがえっています)。この曲をはじめとしてAimee Mannのソングライティングとスクイーズのポップな世界はこれ以上ないというほど、素敵な取り合わせだ。

 そして職人が作るポップロックの風味は、このアルバムでも何も変わりはしない。70年代後期、イーノ、ケール、ラングレンといった70年代初頭のポップマニアアーティストがえさをついばむようにして、ニューウェーブバンドのプロデュースをしたが、このアルバムにはところどころ、そんな70年代の雰囲気がただよっている。それはスクイーズとの相性のよさでもうなづけるが、たとえば、5曲目Superballの楽器の音色や、曲の途中のギターのフレーズとそれに重なるハンドクラッピングはイーノのTaking Tiger Mountainを彷彿とさせる。

 アルバム最後の曲、It's not Safeの一気に盛り上がる始まり方は、これはまさにマイケル・ペン。途中のギターソロ、これもちろんマイケル・ペンが弾いているのでは? とにかく最初から最後までドラマチックで、でも控えめで、最後を飾るにふさわしい一曲だ。

 80年代のうすっぺらい打ち込みの音の時代を経て、90年代楽器の音自体にこだわるアルバムが復活してくる。その音の作り込みがもっとも丁寧になされているアルバムとして、もっと評価されてもよいだろう。

Aimee Mann, Lost in Space (2002)

lost_in_space.jpg 往々にしてロックは、「瞬間」に生まれることがある。一夜にして録音を終えてしまったとか、1テイク録りでアルバムを作ってしまったとか、その時のエネルギーを一気に凝縮して、緊張感をそのまま閉じ込めたアルバムは、それだけで伝説として語り継がれたりもする。

 そうした最高度のテンションで、バンドの音を作り上げるようなロックがあるとするならば、Aimee Mannのこのアルバムはおよそそうした創作の仕方とは対極にあるものだろう。このアルバムは決して「偶然の産物」ではない。丁寧に織り上げられたハンド・メイドの肌触りがあるアルバムだ。これだけポップな曲作りをしていながらも、安易な既製品の音はまったく聴かれない。こうした仕事にはいったいどのくらい時間がかかるのかわからないが、音楽にまっすぐに対峙して、丹誠をこめて作られた曲が並んでいる。

 これだけポピュラーな音作りをしていながら、なぜ平板な音にならないのだろうか?たとえばReal Bad Newsのアレンジは、夫Michael Penのアルバムにも似てとても深みがあるエコーの音で、けっこう不思議な音色だ。Pavlov's Bellのギターソロは、これだけ聞くと、曲の憂うつな感じとはそぐわない結構派手な音なのに、曲の中では違和感がない。そしてInvisible Inkの慎ましやかなヴォーカルに重ねられる控えめなストリングス・・・どの曲も実によく練り上げられたプロの音だ。Aimee Mannのヴォーカルを一切邪魔することなく、いやそれどころか単に美声で歌われるだけのなじみやすいメロディでは終わらない、聞き込めば聞き込むほど、全体のカラーが浮かんでくるコンセプトのしっかりしたアルバムに仕上がっていることがわかる。もちろんAimeeのヴォーカルの表現力もすばらしい。 This is How It goesのようなヴォーカルが全面に出ている曲での、彼女の抑揚の効いた歌い方は、とても地味なのだが、聞き終わった瞬間から、心の中で彼女の声が再生し始めるような印象深い歌い方だ。Pavlov's〜のOh Mario, という歌いだしなど、ほんとうにぞくぞくする。

 なぜこんな音作りができるのだろう。それはやはりこのアルバムがソロ・アルバムではなく、バックミュージションとの共同作業によって作られたことが大きいのだろう。しかしそれが仲間内の楽しみに終わらないところが、Aimee Mannというミュージシャンの職人芸のなせるわざなのだろう。どこにもあるようでいて、実はどこでも得られないような、コマーシャルに十分なれるのに、安易な使い回しの手法は一切ないというストイックさに貫かれているアルバムだ。この作品は上質なポップアルバムとして、年を経ても聞き継がれていくであろう名盤である。

strangers_almanac.jpg Ryan Adamsの在籍したWhiskey Townのセカンドアルバムがデラックスエディッションで再発になった。オルタナ・カントリーと言われる彼らの音楽だが、聞いていて感じるのは若さゆえの、破裂感を持ったと言おうか、結構パンキッシュな曲が多いのに驚く。この青々しさを聞いていると、Byrds〜Gram Personsというより、ニュー・ウェーブの動きを作り上げていった、あるいは、その中から生まれてきた、Big Star, dB's、Feeliesなどの、熱さの中にもどこか醒めてしまったバンドの音がむしろ浮かんでくる。だからBarn's On Fire sessionsのプロデューサーに、元dB'sのChris Stamyの名前があることにとても納得がいく。

 屈折したというほどニヒルではなく、情熱を向けるほどの希望への確信もない。そんな中途半端なやるせなさが、いろんな曲調で表現されたのが本作ではないだろうか。喜びや怒りといった単純な感情に流されることもできなくなってしまったアメリカの若者の心理を知るためには、もっとアメリカの時代思潮を考えた上で捉え返してみる必要があるのだろう。そうすればREMなどとつながる線もみえてくるかもしれない。

 Ryanのアルバムを聞いていてうれしいのは、突然、今まで聞いたこともない美しい曲に出会えることだ。もう何十年も音楽を聞き続けているはずなのに、Ryanの曲にはいつも新鮮な発見がある。様々なバックボーンを感じさせながらも、新しく瑞々しい体験をさせてくれる、これこそRyan Adamsが天才的とよべる証拠ではないだろうか・・・

there_goes_rhymin_simon.jpg Paul Simonのソロ作品は、ワールド・ミュージックの剽窃だなどとよく言われたせいか、自分の中でも、安易なミュージシャンというイメージがずっと残っていた。それはピーター・ガブリエルが、同じくワールド・ミュージックの文脈に依拠しながらも、それをスタジオ・ワークによって高度に再構築してみせたアルバムを出していただけに、Paul Simonのアルバムは、ろくに聞いたこともないのに、素人くさいものと思ってしまっていた。

 今回この実質ソロ2作目を初めて聞いてみて、Paul Simonの仕事の根幹には、良い意味でも悪い意味でも、「アメリカ」をどう歌い込むかという問いがあると感じた。そして、それらを飾るアレンジはまさに飾りでしかないと。

 1993年12月号の『レコード・コレクターズ』で高橋健太郎は次のように書いている。

「ただし音楽的にそのような要素を取り入れても(レゲエやゴスペルコーラスなど)、サイモンのアプローチにどこか醒めた距離感があり、ニューヨークのインテリが作り上げた文学的、あるいは映画的な作品であることを逸脱しない」
 つまりどのような他者の音楽に触れようと、結局出来上がった作品は、アメリカのポップ・エッセンスをセンスよく取り込んだものになっている。ゴスペルやカリプソがあったてもそれは、ゴスペル「風」、カリプソ「風」であって、趣味の範疇をでるものではない。そしてこのアルバムには、永遠に歌い継がれるだろうポップソングが、上質なアレンジでもっておさめられている。それは4曲目のSomething So Right、そして6曲目のAmerican tuneだ。この2曲に代表される質の高いポップスこそ、このアルバムの通底音ではないだろうか。「明日に架ける橋」ほど大げさではない。 American Tuneで歌われるアメリカは、mistaken, confusedといった言葉に象徴されるような疲弊したアメリカである。しかしそれでもTomorrow's going to be another working dayと歌われるように明日がやってくる。このささやかさがこのアルバムをつくったときのPaul Simonの気持ちではないだろうか。

 だからこのアルバムは奔放な音楽探究の旅とは到底言い難く、たとえば自分の子供のためにつくった子守唄、St Judy's Cometが、Paul Simonのプライベートな心情をつづっているように、パーソナルな小品をまさにアルバムジャケットの様々なオブジェのように集めたイメージが強い。 Something〜も、パートナーにあてた感謝の気持ちをこめたラブソングだ。このように自分の生活に向き合っている姿を素直に眺めれば、様々な音の意匠はまさに飾りで、そこには音楽を丹念に生み続けるひとりの才能あるアメリカの音楽家の姿が浮かび上がってくるのではないか。イギリスにPaul McCartneyがいるように、アメリカにはこのPaul Simonがいる。そして何よりもこの2人のポールの曲は思わず口ずさみたくなるほど、親しみがあり、それでいてきらめくほど美しい。

 ところで、06年の紙ジャケにはボーナストラックがはいっているが、これが最高によい。あらゆる意匠をとりさった、原曲だけが歌われている。

where_you_live.jpg まず耳をうつのは、何年にもわたって使い込まれたと感じさせる、素朴だけれども味わいの深い楽器の音色だろうか。日本盤ライナーにあるように、プロデューサーのチャド・ブレイク、そしてレコーディングに参加しているミッチェル・フレームのコンビといえば、ロン・セクススミスでの仕事が思い浮かぶ。たとえば 5曲目、Never Yoursのアコースティック・ギターのエコー処理、同じリフが浮遊感をもってくりかえされるところなど、同じ空気を共有しているといってよいだろう。弦楽器の弦がゆっくり指ではじかれる響きや、パーカッションの鉢が太鼓の表面をかすめる響きが、丁寧に掬い取られて、やがて少しずつ消えていく、そんな一音のはかなさにまで気を使った音作りである。

 なかでも一番好きな曲は3曲目の3,000 milesだ。パーカッションの懐かしい響きから始まり、そこにトレーシー・チャップマンの声が重なる。さびのI'm 3,000 miles awayの誠実な歌い方が心をうつ。次のGoing Backもよい。とても淡々とした曲なのだが、そのゆっくりとしたリズムが、心を落ち着かせる。

 トレーシー・チャップマンは88年にデビューしているので、今年で20年になる。こうしたミュージシャンが20年にわたって活動をし、7枚のレコードを出していることを考えるとき、アメリカの音楽の奥深さを感じないではいられない。もちろん、彼女が優秀なシンガーソングライターであることは間違いない。しかしそれでも、彼女の作品は、けっしてコマーシャルではないし、派手な社会的メッセージを全面に出す訳でもない。彼女にあるのは歌だけだ。しかしその歌には確信がある。ことばがひとを揺り動かす、そのフォークロックのスピリットがまだ、彼女には生き続けているようだ。そんな存在が、きちんと評価されて、コンスタントにアルバムを出せるアメリカとは、やはり文化の度量が広いと言わねばならない。

angel_in_the_dark.jpg このアルバムは、まるで自分自身に対する鎮魂歌のようである。初期の3枚にあった激しい情念はここではすっかり昇華されている。しかし確信をもったその歌い方は、初期のアルバムと変わらない。強い情念として歌を表現する代わりに、ゆっくりとやさしく、しかし強靭な精神をたたえて歌が表現される。

「癒し」とはいったいなんだろうか?心が平安を取り戻し、前向きになれるということだろうか?ローラ・ニーロの声を聞いて感じるのは、そうした単純な自己肯定ではない。もっと深く自分の生をみつめ、その生を愛する、その人生のすべてを含み込んで愛する、きわめてひかえめな態度だ。それは肯定ではなく、希求だ。

Angel of my heart
Come back to me
Angel in the dark
So I can see
Cause I can't live no more
Without an angel
Of love so if you hear

 祈りの中の愛の希求、ここにローラ・ニーロの音楽が真のソウル・ミュージックであると言える理由がある。誰かが、何かがそばにいてくれないと、すぐにもくずおれてしまうような弱さ、そんな弱さを抱え込みながらも、人生をしっかりと自分の目で眺め、自分の足で歩んでいく、達観した強さ、それがローラ・ニーロの魂だ。彼女のまわりでは天使だけではない、子どもたちや、犬たちも彼女のやさしいまなざしとほほえみの中、踊っている。ニューヨークのビルの屋上に偶然根をおろした一本の草花への愛から、大地にしっかりと根を下ろした木々へ愛へと、ローラ・ニーロのみている世界は変わっていった。しかし、歌うことによる、対象への愛は、どの時代のアルバムであっても、どの曲であっても変わらない。

 このアルバムにはキャロル・キングのカバーなどもおさめられているが、オリジナルを知らなければ、すべてローラ・ニーロの曲だと思ってしまう。それほどどの曲も強い説得力に満ちている。何度も何度も聴き直しても、決して感動は薄れることのない傑作である。

passing_show.jpg 冒頭の、イギリスの田園風景をツアーバスが走り、ミュージシャンたちのインタビューが挟まれるシーンをみただけで、この映画がいかに素晴らしいかよくわかる。ロニー・レインの生涯を素直に追っていく構成だが、使われる映像、写真、そして曲の選択、どれもがいかに制作者がロニー・レインを愛しているかを教えてくれる。

 70年代にキンクスがPreservation を発表し、いったいどこに行ってしまうのかという混沌とした状況の中で、結局はアメリカに渡り、ハードロックバンドとして成功を収めたのに対し、ロニー・レインの場合は、そうした道に重なるようでいて、決してショー・ビズの世界には身を染めなかった。

君と一緒に目覚める
朝の光がさしこんでくる
外では犬の鳴き声がする

 ファーストソロアルバム(Anymore for Anymore)に収められているTell Everyoneの一節だが、ここに描かれる農村での生活の情景が実際にはどのようなものであったか、今回の映画をみてよくわかった。ファーストアルバムは、セカンド、サードにも増して名曲ぞろいだが、これら素晴らしい曲が、こうした生活だったから生まれたのか、それともこうした生活をしていたにもかかわらずなのかよくわからない。それほどロックとは遠く隔たった世界なのだ。でも仲間との演奏が、農作業や、パブでの談笑や、そうした日々の一部であり、彼らの生活そのものから生まれてきたことはとてもよくわかる。

 普通に考えれば、ロニー・レインほど、ロックの裏街道のような人生を歩んだ人もいないだろう。なにせまわりにはスティーブ・マリオット、ロッド・スチュワートという、稀代のヴォーカリストがいた(映画では彼らがいかに才能があり、ロック的興奮のるつぼにいたのかを実感させられるライブ映像があって、どぎもをぬかれる。ロッドスチュワート、まさにスーパースターです)。そしてクラプトンにピート・タウンゼント。マリオットを除けば、みなロックの栄光を掴んだ連中だ。そんな人脈がありながら、ロニー・レインだけはロック的成功とは縁遠い生活を送る。

 インタビューの中で、「みな、アメリカへ行こう。アメリカに行けば成功が待っている。しかし実際に行くことはなく、バンドは解散した」という証言がある。すでに病の予兆があったのかも知れない。ロニーは、田舎の生活を続ける。その後多発性脳脊髄硬化症の基金設立のためにようやくアメリカへ行ったときには、基金を横領されるという不運に見舞われる。みなが成功したその場所でロニーだけは裏切られるというのが何とも痛ましい。

 マリオット、スチュワートというカリスマティックなヴォーカルがいたので、目立たないのだろうが、しかし、ロニーのヴォーカルはとても素敵だ。何と言ってもアコーディオンやマンドリン、そうしたトラディショナルな演奏に見事に溶け合った声だ。スリム・チャンスに関係する、グリースバンド、ギャラガー・アンド・ライル、マクギネス・フリントも同じ空気をもっていて楽しめるが、やっぱりロニーのヴォーカルが最高だろう。

 映画の最後の方で、病気が進行し、もうベースも弾けなくなった(バンドを始めたころ一番人気のなかったベースを担当したというのもロニーらしい)ロニーが、腰をかけて、精一杯声を振り絞って歌う姿が素晴らしい。これが音楽だと思う。ロックを聞いてきて、ロニー・レインに会えてよかったと思う。

 インタビューに答えたすべての人々がロニーを愛していた。ロニーのレコードを聞けば、だれもが彼を愛したくなる。そうならないではいられない。

 ロニー自身が最後に言っている。「人生は短編映画だ」でも、その短い一瞬に無限の愛が込められている。

John Cale, Paris 1919 (1973)

paris1919.jpg 「これ絶対気に入りますよ」と、大学時代に後輩が貸してくれたレコードは、Small FacesのSmall Facesと、The WhoのSell outと、John CaleのこのアルバムParis 1919だった。ロックは前衛であるだけではなく、一線を引いたところにもロックを探求したレコードがあるのだと、気づかせてくれたのがこのアルバムである。Velvet Undergrandを信奉したり、Lou ReedのBerlinをやたら褒めそやすのではなく、喧噪のその後にも、たとえポップな音楽であっても、「前衛」でありつづけることができる、 Velvetのようなスタイルをとらなくても、禁欲的に「ロック」であり続けることはできる、それに気づかせてくれたのがJohn Caleである。

 今あらためて聴き直してみると、オーケストラの入り方が過剰で、仰々しいのが耳につく。脳天気な曲もあったりして、John Caleの「転向」は果たして正しかったのかと疑問に思わないでもない。

 しかしJohn Caleが作りたかった、クラシックとは違う世界での「美の世界」、Roxy MusicやT-Rex、あるいはDavid Bowieのようなまがまがしい見せ物とは違うレベルで追い求めようとした美の世界が、ここにはある。その意味でこのアルバムは、ロックがアンディ・ウォホールが口出しするようなまがいものではなく、ひとつのジャンルとして認識されうる標準まで達したことをきちんと証明してくれるアルバムであると言える。

 Lou Reedは「インテリになりたかったやくざ」、John Caleは「やくざになりたかったインテリ」。確かにJohn Caleの音楽は、その品の良さからいえば、インテリの遊戯なのかも知れない。表題曲などは確かにオーケストラを導入して、きわめてインテリぽく作られていて、鼻につくかもしれない。でもこれを聞いていた当時の僕は、たとえ寝そべって聞いていてもロックは存在し続けるのだと、考えていた気がする。それは今から考えれば、早くも60年代半ばにたとえばThe KinksがSunny Afternoonで描いていた世界だ。しかもThe Kinksは70年代にはいってもしつこくその世界をMirror of Loveのような曲で何度も念を押す。John Caleも、Velvetへの反動なのか、Lou Reedへの敵意なのか、そのけだるさを全面的にロックとして演奏してはばからない。その決意がこの70年代初頭の動きだったのだろう。しかしこのけだるさは、けっしてこの時代だけにとどまることはない。ロックを聴き始めて、正面切った反抗だけがロックではないと気づくとき、日常の生活の中でもロックを聞き続けようと思うとき、John Caleの作り上げた様式美もひとつの地道な営為だと思うのだ。

silver_snow.jpg あるレコード屋(死語!)の試聴機に、「洋楽ファンにもぜひ」と書いてあったので、早速試聴し、見事気に入ってしまった日本のミュージシャン。しかしその音楽は、洋楽とか日本とか、そうした国籍を消し去った雰囲気がある。the Guitar plus meは全編英語で歌っているが、だから洋楽っぽいというわけではない。むしろこうした種類の音作りが、今、世界のあらゆるところで様々なミュージシャンによって行なわれている気がする。趣味や、感性が日本も欧米もそんなに変わらなくなってきているし、日本にこだわって音楽を考える時代でももはやなくなってきている。みな最近の若い人たちは、軽々と国境を越えて、自由に自分の世界を表現しているように思う。

 the guitar plus meはミニアルバムも含めて5枚ほどアルバムを出していると思うが、どのアルバムも構成はほぼ同じである。無表情なうち込み、ときおりループする電子音と、アコースティックギターの音色がすべての曲調を作っている。

 このアルバムのテーマは冬。小品が多い彼の作品の中では珍しく、1曲目Silver Snow, Shivering Soulは10分ほどもある長尺な曲である。でもこの曲の中で果てしなく続く、打ち込みと電子音のゆらぎがとてもすばらしい。ここまで人工的でありながら、ゆっくり舞い散る雪の自然の情景がとてもリアルに浮かんでくる。

 どの曲もリズムは単調であるのだが、その曲、曲ごとにテーマがあって、微妙な曲調の違いがそのテーマを浮き立たせているのが楽しい。例えば4曲目はNew Year。新年を迎える時の浮き浮き感が伝わってきて、ちょっとした幸福を噛み締めることができる。

 the guitar plus meの憎いところは、同じように見えても、この「テーマ」ということにとてもこだわってアルバムを作っている点である。動物のユーモラスな情景がうかぶZoo、水をテーマにしたWater Musicなど、音によるイメージの喚起がとても上手に作られている。

 そう、職人の手仕事感といえばいいだろうか。それが一番よく感じられるのは、やはりアコースティック・ギターの音色である。パーカッションが作る音の空間を刻むようにしてギターの音がおかれていく。そんな構成美にとてもひかれる。そんな構成にとことんこだわったのは、2003年のTouch meだろう。ミニアルバムの5曲目Bakeryから6曲目Castleへの流れは、ギターの音は、チェンバロにも似て、バロック的な構成が見事に生かされている。特に5曲目の終わり、単純なリフを繰り返すギターの音色がだんだん大きくなっていき、突然途切れて終わるところで、僕は大きく息をついてしまう。

high_winds_white_sky.jpg ながらく再発を待っていたカナダのシンガーソングライターBruce Cockburnのセカンド・アルバムです。サードもよいけれども、初めて聞いたのがこちら『雪の世界』だった。弾き語りの質素なアルバムであるが、聞き込むとかなり曲ごとに雰囲気が違うことがわかる。比較的ピッキングが強くて、Stephen Stillsのギターワークを思わせもするが、このアルバムはずっと内省的だ。

 1曲目はタイトルにブルースとついているが、ギターの音色はずっと軽快で、あざやかなコード進行が楽しめる。朝起きたら外は一面の雪景色、まさにジャケットの写真通りの世界が1曲目から描かれる。2曲目もずっとひかえめなギターとヴォーカルだけで作られていて簡素な感じだが、それでも、ギターの緩急をつけた展開が実はダイナミックな曲だ。

 また曲調もヴァラエティに富んでいる。4曲目はカントリー・フォークの懐かしい雰囲気をたたえた曲。かとおもうと5曲目はピアノがはいり、6曲目はブリティッシュフォークの憂いをたたえ、8曲目はブリティッシュトラッドの香りがする。

 このように様々なテクニックを随所にちりばめながらも、決してそれを全面に出さず、音を織り込んでいるところがこのアルバムの素晴らしいところである。

 曲がずば抜けてよいわけではないし、ボーカルも朴訥として、けっしてうまいとは言えない。アルバムのどこかに盛り上がりどころがあるわけでもない。CDで聞いているとB面の1曲めがどこだか見当もつかない。それほど単色の世界なのだ。しかし、このように控えめでありながら、聞けば聞くほど、1曲、1曲が個性を放ち始めるところが、このアルバムが名盤たるゆえんではないだろうか。

 ところでこのBruce CockburnやArtie Traum(名盤Double back!)といったシンガーソングライターは、その後いわゆるギターの教則本といった世界に入っていく。それはそれで彼らのギターテクニックが卓越しているという証拠ではあるのだが、もはやアルバム1枚でひとつの世界を創りだすだけの余力は残っていないのだろうか。そこが少々寂しいところである。ジャケットもそうで、近年のアルバムはなんだかヘアーバンドが似合いそうなふぜいで、それじゃあ南こうせつだと少し悲しくなったりもする。

Ryan Adams, Rock N Roll (2003)

rock_n_roll.jpg お決まりのリフ、無駄なシャウト、どこかで聞いたことのあるおなじみのメロディ展開、そこらへんに落ちている、「ロックンロール」の常套句をちりばめたこのアルバムは、普通のミュージシャンであれば、オリジナリティのかけらもない失敗作として、片付けられてしまうだろう。

 でも、Ryan Adamsのアルバムに感じることは、「この程度のことならば、やってしまえる」という、不敵さだ。「ロックンロール」は中途半端な、彼のアルバムにして珍しく、ボーナストラックの方が本編よりいいのではと思ってしまうほど、本心の見えないアルバムなのだが、「望みとあればくだらない作品だって作れるぜ」という歪んだ心情を堪能できるところに、Ryan Adamsの一筋縄ではいかない、持って生まれたロック気質を感じてしまう。こうしたアルバムが出てしまうと、あくせくとロックンロールのパーツを接ぎ木してアルバムを作っている凡百のミュージシャンは塵と消えてしまいそうだ。とはいえ、これは音楽の健全な聞き方ではないだろう。音楽を聞くというより、ミュージシャンの破天荒な生き方そのものに音楽を通して接しているようなものだ。

 Neil Youngのアルバムにもそうしたものを感じてしまうことがある。アルバムそのものの楽曲より、こんなアルバムを作ってしまう人間とはいったいどんな人間なのだ、という人本位の聞き方だ。

 実際一曲目から、どう考えてもミスマッチなプロデュースでしかない楽曲が並ぶ。ヴォーカルも一歩調子だし、サビも、今は死語かも知れないが「産業ロック」のエッセンスがふんだんにぶちこまれている。シングルカットされたらしい5曲目のSo Aliveなど、ギターのメロディの陳腐さに苦笑いをしないではいられないほどの、古びた80年代ブリティッシュロックを聞かせてくれる。そして10曲目のアルバムタイトル曲Rock N Rollだけがピアノの弾き語り、しかも中途半端なフェイドアウトというふざけ方である。

 結局はRyan Adamsが好きだからこそ、こんなアルバムにも価値を認めてしまうのだ。こうした生き方をしてしまうロック・ミュージシャンだからこそ、駄作にもリスナーとして愛を注いでしまうのだ。ミュージシャンにつきあって、新譜がでればどんなものでも買ってしまう、Ryan Adamsはそうしたつきあい方をせまられるミュージシャンである。

 日本盤のボーナストラック「Funeral Marching」はなかなかの名曲です。

Matthew Sweet, Girlfriend (1992)

girlfriend.jpg ギターを弾くのが大好きな青年が、その自己満足的な音楽生活を捨てて精一杯攻撃的なレコードを作った。それが思いもせず90年代のアメリカを代表とするアルバムとなった。

 Matthew Sweetはカリスマ的なロッカーでも、超絶なテクニックをもつミュージシャンでもない。それでもキャッチーなメロディがかける大学生、ただプロとしてもそこそこは売っていけるミュージシャンとして、Girlfriendの前に2枚のアルバムを出している。2ndのジャケットをみれば分かるように、内省的な青年が自宅録音をしたような、ナイーブなアルバムである。

 ところがGirlfriendとの別離を契機にして、どん底の生活から、なんとか音楽を作ってみるという、これまたナイーブな場所から届けられたこのアルバムは、ギターの音も生々しく、すべてをぎりぎりまでそぎおとした、きわめてストイックな作品として完成をみる。どんな加工もせず、そのまま感情を投げ出し、その感情をギターのひずんだ音色に反映させた時、Matthew Sweetは、他の誰にもまねのしようがない、ストレートな世界を作り上げることに成功する。ふだんは恥ずかしくて絶対に言えないようなこと、たとえば I'm alone in the worldのような歌詞を平気で歌う。しかも叙情的なギターのフレーズつきで。しかしそのいさぎよさ、時代の音など何も意識しない、虚飾のない音楽こそが、聞く者も、おそらく味わったことのあるつらい体験をやさしく包み込んでくれるのだ。

 川崎チッタで、Matthew Sweetが姿を現した時、会場がどよめいた。その理由は、アルバムの裏ジャケットの写真とは似ても似つかない、普通のアメリカ人並みに太ったおにいちゃんがステージに現れたからだ。本人はその観客の反応の意味はつかみかねていただろう。せつないほど、センシティブで神経質な青年を予期していた客の前には、ぜい肉のだらしなさがTシャツから透けて見えるアメリカ人が、脳天気にギターをひきまくっているのだ。

 その後、Matthew SweetはGirlfriend以上のアルバムは作れていない。というか作りようがないだろう。この密度ある時間はもう決して戻ってこない。それは青春時代に誰にも訪れる一瞬だけの才能だったのだ。だがその一瞬が、このアルバムに結晶として収められている。

Ryan Adams, Cold Roses (2005)

cold_roses.jpg CDで2枚組、原盤は18曲入りのアルバムである。といっても散漫な作りの曲は1曲もない。Ry CooderやJohn Hiattあたりの作品に敬意をはらいながらも、しかしそうした完成度の高さとは無縁でありたい、いつまでも未熟でありたいというロック的な激しい欲求が「オルタナ・カントリー」というような安易な呼称を斥けている。親しみのある思わず口ずさみたくなるメロディでありながら、しかしけっしてBGM的な心地よさへとリスナーを誘いはしない、正面切った叫びがこの作品をまさにロックのアルバムにしている。

 曲はどれも、ひとひねり効いていて、単純な展開を許さない。たとえばCherry Laneは、ガレージバンド風な始まり方をするが、途中でささやかれるI can never get close enoughのリフレインはほとんど後期のフリードウッド・マックといってもよいセンチメンタルな曲調だ。しかしそんな展開もまったく無理なく聴かせてしまう曲作りの才能が彼にはある。

 Goldはまさに青くて、胸がひりひりさせられるが、Cold Rosesはもう少し、自分に対する距離感が生まれているようだ。また演奏そのものも、バンドに対する信頼が、安定感を生んでいるのか、余裕が感じられる。もちろんGoldもよいアルバムなのだが、多少型にはまりすぎた曲もあるのに対して、Cold Rosesは、アルバムのトータルなイメージがきちんと作り込まれている。どの歌詞にもroseがちりばめられいて、ちょっときざなのも、かれの羞恥心の現れのような感じがしてとてもよい。

 Ryan Adamsのヴォーカルは、Stan RidgwayやChris Isaakなど、憂愁を帯びた感じなのだが、センチメンタルな叙情には流されない激しさを持っている。それが彼のどのアルバムも生々しい感情を感じさせる理由だ。

 60年代にBob Dylanの音楽が生まれ、70年代にはそれをBruce Springsteenが受け継いだ。どの時代にもその時代と対峙するボブ・ディランが必要ならば、00年代のディランはこのRyan Adamsだ。ファースト・ソロアルバムHeart Breakerの2曲目To be Youngの始まりは、完全にSubterranean Homesick Blues Farm、あるいはMaggie's Farmのそっくりコピーだが、これは単にディランへの憧憬ではない。ディラン程度のことなら、こんなに簡単にコピーしてしまえるという、Ryan Adamsの若々しい、不敵な決意の宣言だ。しかしその決意は、まさにHeart Breakerという言葉が表すように、傷を隠しきれないナイーブさと同居している。Dyranは70年代にはいってThe Bandと組む。Ryanも同じようにCardinalsというバックバンドとくんで、Cold Rosesなどのアルバムを作りあげることになる。それによって、たくましい土着のアメリカン・ロックをこの時代に謳いあげることに成功した。その骨太さがいかんなく発揮されたのがこのアルバムだと言える。

well_never_turn_back.jpg 67歳の黒人女性歌手Mavis StaplesとRy Cooderとの共作アルバムである。60年代の公民権運動で歌われた曲を中心に取り上げられているが、過去の歴史に対する郷愁はみじんもない。今に激しく切り込む、メッセージ性の強いアルバムである。

 メッセージ・ソングとは何だろうか?たとえば誰にむかって、何を歌うのかが明確になっている歌と定義できるだろう。しかし、そうした対象が明確であればあるほど、メッセージは時の流れには、逆らえない。歌われている問題が解決されていないのに、歌の方が薄命にも消えていってしまうのだ。また訴え方が直情的であればあるほど、それが喚起する反応も一過的なものになってしまう。結局は、当事者たちだけが、苦しみ続け、外にいる者は日々の生活に戻っていく。取り残された者は、表現を失い、内に閉じこもっていく。それがメッセージ・ソングのあやうさであろう。

 ではどうしたらメッセージ・ソングは時の試練を経て、生き続ける、あるいは生まれ変わることができるのだろうか?その一つの答えの試みがこのアルバムである。

 まずは音の塗り替えだろう。音のバランス、音質が素晴らしい。21世紀らしく、どの音もクリアに録音されている。特にRy Cooderの乾いて張り詰めた音色のギターは、曲に立体感を与え、空間の広がりを堪能させてくれる。きわめて現代的な音響処理である。

 そして、Mavisの声が素晴らしい。といっても、それは怒りや、悲壮な訴えなどではない。歌っているうちに、自らが興奮のあまり、気を失ってしまうようなファナティックなものでもない。迫力はあっても、それは、バネのようにしなやかな伸びをもつ声だ。叫んでもつややかな、ささやいても強くひびく声だ。

 こうした素晴らしい音楽だからこそ、そこで何が歌われているのか、耳を傾けるようになるのだろう。そして、そこにとても素朴な歌詞を発見する。リフレインで繰り返される言葉が、聞く者の心に強く刻まれる。寄せてはうちかえすリズムでくりかえされるDown to Mississippiのフレーズ。繰り返されるWe shall Not be movedからは、腕を組み、その場を決して去ろうとしない抑圧された者たちの決意の姿が浮かんでくる。アルバム最後の«Call him up and tell him what you want»の、繰り返すうちに次第に高揚してくるゴスペルの醍醐味。こうしてメッセージは、時と場所を超えて、聞く者の今・ここへと届けられるのだ。そして「あなたはどうする?」と問いかけられる。真の怒りが、告発が始まるのは、ここからだ。

 この音楽にはジャンルがない。ゴスペル、ブルース、ロック、フォーク、どの要素もあるが、決して一つにおさまらない。強いていえばここには音楽がある。だからこそ、このアルバムは普遍性を獲得し、永遠のメッセージ・ソングへとどの曲も高められていく。音楽が「芸」である以上、楽しんで歌えて、踊れなくては、聞きはしない。それが真に「芸」としての音楽ならば、声をだし、体を動かしているうちに、その声と体は「行動」へと向かう。権力と差別を撃つ行動へと。

くるり, ワルツを踊れ (2007)

waltzwoodore.jpg 一聴して、解放感のあるアルバムだと思った。それはロックの切迫感をかなりそぎ落とし、メロディの流れにヴォーカルを乗せていく、曲調のせいだろうか。

 そして、とにかくやりたいことをやってみたという潔さがある。しかし制約を受けずに自由にまかせて創られた作品が、その人間の想像力と創造力を十分に発揮した作品になるわけではない。限られた機材、予算、時間、スタッフ、そうした制約の中でぎりぎりの状態で創られた作品であっても、歴史的な価値を生む作品はいくらでもある。その意味でくるりの文脈では、意味をもつ作品であっても、現在の日本のロックシーンへの位置づけとしてはどれだけの価値をもつ作品になるだろうか?そうした今現在への共振の少ない作品であることは確かである。

 しかし走り続けるということは、ある意味貪欲に様々なものを吸収、咀嚼しないでは難しいだろう。様々なものに影響を受けつつ、しかし自分を律することで、自分であり続ける。それはけっしてたやすいことではない。なにせ自分で居続けるために、外からの影響を受けないではいられないというジレンマをかかえるわけだから。メンバーもどんどん少なくなっていく今のくるりはまさに「長距離ランナーの孤独」という状態かもしれない。しかし、作品がでるたびに、その作品に対峙し、丁寧に聞き込んでいるリスナーは数多くいるだろう。また真剣にアルバムに向かわせるほど、くるりの凝縮度は、今の日本のロックシーンにあって群をぬいている。今後どんな方向に向かおうと、誠実に創られたアルバムが創られる以上、それをきちんと受け止めるリスナーは存在し続けるだろう。

 今回も佳曲が多い。その意味では『アンテナ』以降のストレートな曲調が、このアルバムでも引き続き生かされている。特にアルバムの最後に無理矢理押し込められたような「言葉はさんかく、こころは四角」は、単純だが、くるりの叙情性がいかんなく発揮された曲だ。「ブレーメン」や「ジュビリー」も、『NIKKI』に入っていてもおかしくない、盛り上がりどころを心得た楽曲になっている。また初期ルースターズのような「アナーキー・イン・ザ・ムジーク」や、東欧民謡といった風情の「スラヴ」のような曲も、いさぎよいほどストレートに、シンプルに曲が創られている。その意味では、途中で聞くのをやめたくなるほど極端ではなく、とにかく「まやかしのない楽曲」が並んでいる。ただ、コンセプト性はほとんど感じられない。だからCMソングになっても十分通用するのだ。

 消費される音楽にどれだけ立ち向かえるか、くるりの果敢な挑戦にこれかも胸を躍らせていきたい。

taking_tiger_mountain.jpg Brian Enoは、私がロックを聴き始めたころに知った名前のひとつである。最初に夢中になったのは、Police, Elvis Costello, Ian Dury and the BlockheadsそしてTalking Heads(この中でPoliceだけがライブに行ったことがない!再結成ライブには行かねば)。このTalking Headsのプロデューサーとして、そしてDavid Burnとアルバムを作ったミュージシャンとしてEnoの名前を知った(発売日の前の晩に、閉店ぎりぎりに金宝町の電波堂にて購入)。その後 Discreet Musicを聞いたりはしていたが、ロックミュージシャンとしてのEnoの音楽はずっと聞く機会がなかった。70年代後半のEnoは事実、ロックミュージシャンを半ばやめていたのではないだろうか?

 大学に入ってしばらくしてから、友人が「Enoはこんなことをしていたんだよ」と貸してくれたのがTaking Tiger Mountainである。聴いてすぐ、そのポップセンスにうたれた。Enoのソロ4枚は、動から静を描いているが、このアルバムはまさに躍動感のあるポップミュージックである。Another Green WorldのB面や、Before and after scienceのB面における、静謐なメロディも大好きだが、1st, 2ndはそのジャケのごちゃごちゃ感もあいまって、Enoのポップへの病的とまで言えるこだわりを堪能させてくれる。

 このアルバムを聴くと、Talking Headsとの共通点が、まずはなによりもその「ひきつり感」にあることがわかる。たとえば一曲目のギターのリフなどは、なんだか普通ではない。しかし曲調には上品さがあり、このアンバランスがおかしい。二曲目も三拍子にEnoのひきつったボーカルがかさなるのがなんともミスマッチだ。他にもバックヴォーカルの声質とか、数え上げたらきりがないほど、「ビザール」なレコードだ。70年代初頭のポップとは、このエキセントリックさをいかにポップなものとして仕上げるかにその価値があったのではないか? それは職人といってもよい作業である。そうしたテイストがたとえばバウハウスのようなバンドに引き継がれていったのもおもしろい。つまり「ひきつり感」は、ニュー・ウェーブの先鋭性にもつながりをもつのだ。70年代に多くのミュージシャンがプログレに流れていったが、そうした大げさな音楽ではなく、あくまでも3分間のポップ・ミュージックにこだわったのがEnoである。そのひねくれ感こそが、次の世代を用意したのだ。B52'sや前述のTalking HeadsそしてDevo、Ultravox のようなテクノ黎明期のバンドもふくめて、Enoがその出発点であったことはこのアルバムがはっきり示してくれる。たとえばB面3曲目の反復されるメロディは、この数年後にうまれてくる交配雑種のニュー・ウェーブの音をすでに実現している。それは801Liveのような冗長なプログレとは完全に一線をかくしている。

 B面の最後Taking Tiger Mountainは、そうしたアグレッシブなポップの雰囲気にあって、唯一、けだるさを演出してくれるインストゥルメンタルの曲だ。この曲を初めて聴いて、おそらく僕はロックにおける成熟を知ったのだと思う。それはロキシーの喧噪からぬけだした、Enoの音楽に対する意思表明でもあった。そのEnoの姿に背伸びして、自分のロック観をかさねあわせていたのだろう。

The Who, Who's Next (1971)

whos_next.jpg The Whoのディスコグラフィーをみていて驚くのは、このWho's Nextがわずか5作目だということだ。わずか5作にして、ビートバンドからはるかに遠い地点にまで到達してしまった。25、26歳の若者たちがすでにブリティッシュ・ロックの金字塔を打ち立ててしまった。

 ロジャー・ダルトリーの一本調子の「がなり唱法」は正直苦手で、ピート・タウンゼントのソロ・アルバムの方にむしろ情感がわくのだが、このアルバムに限っては、アルバムのトータル性という点で、ほとんど気にならない。ヴォーカルも曲のうねりの中に見事に調和している。ピートの素晴らしいギター奏法、キースのドラムワークの独創性(一人ドラムの天才を選べと言われれば間違いなく彼を選ぶであろう)、そして控えめながらも曲を下支えするジョンのベース、どのメンバーが入れ替わっても、もはやこのような作品は不可能であると言えるほど、4人のパフォーマンスがしっかりと結ばれている。

 だから、どの曲も展開が頻繁で、ドラマチックであっても、決して大げさにはならない。ハードロックの頂点にたつレッド・ツェッペリンの音楽の美学がその形式性にあるのにたいして、The Whoの音楽は、4人の力量が渾然一体となったところからうまれてくる圧倒的な力のようなものにその魅力がある。だから、ツェッペリンのライブでは、ソロの聞かせどころがあり、それが時に冗長な感じが否めないのにたいして、The Whoにはそういったソロが際立つということがない。いかに素敵なパフォーマーたちであろうと、実は他のメンバーとの緊密な関係の上に成り立っているのだ。それがThe Whoという「バンド」の「バンド」たるゆえんだ。

 アルバムはシンセサイザーの人工音ではじまる。それが空間をゆったりとめぐる。そこにピアノ、そしてキースのドラムが重ねられる。この余裕をもった展開の中、ロジャーの正統的なヴォーカルが始まる。この始まりだけをとってみても、音の絡まりのスリリングさが伝わってくる。2曲目でほほえましいのは、クラップ音だ。こうした小細工も実はThe Whoの魅力だったりする。そしてA面の最後の曲The song is overには、小尾隆さんが指摘しているように、Pure and easy(Odds and Sods収録)からのフレーズが織り込まれている。これはピート・タウンゼントのファーストWho came firstの一曲目にもそのデモバージョンが収められている。実に美しい曲だ。

 めまぐるしい展開があっても、それが緊張感を保って曲として成立しているのは、「余裕」があるからである。それは「風格」といってもいいだろう。ロックが若者の好むやかましい音楽ではなく、楽曲としても成熟し、作品として十分聞かれ続けるにたる、そんな大人のロックが、The Whoによって始まった。それがイギリスの1971年だ。

Elliott Smith, New Moon (2007)

new_moon.jpg 本人は、どんなジャケットで、どの曲が、CDになって発売されたか知る由もない。しかし、この作品をみたら、きっと本人は満足するに違いない。ミュージシャンの死後、周りの人間がその仕事をきちんと外にだしてくれる。そうした作品に触れるたびに、そのミュージシャンがいかに愛されていたのかがわかる。そして私たちファンもそんな愛をともにする。

 From a Basement of the Hillは、制作途上のアルバムであり、そのせいか、アレンジのバランスが悪かったり、曲の展開が散漫だったり、やはり途中の仕事という事実は否めなかった。それに対して、アウトテイクを集めたNew Moonは、アウトテイクとはいえ、完成された曲ばかりだ。95年から97年ごろの曲が中心に集められており、Another Either/Orという雰囲気の曲が多い。これ自体が、アルバムとして発表されてまったくおかしくない。10年のブランクを経て私たちに贈られたアルバムと言ってもよいだろう。

 なかでもうれしいのはDisk1の13曲目、Thirteen。Big Starのファースト、No.1 Recordの4曲目に収められた曲のカバーだ。クリス・ベルとアレックス・チルトンの2人によるBig Starのラフさや、叙情的なメロディ、枯れた雰囲気は、エリオット・スミスに大きな影響を与えたに違いない(Big Starについては、そのアルバムもそうだが、クリス・ベルのソロ作品I Am the Cosmosもおさえておきたい)。そう、エリオット・スミスを語る際にニック・ドレイクの名前が出されることに今一歩しっくりこなかった理由は、ここにある。クリス・ベルやアレックス・チルトンの名前をむしろ出すべきだろう。彼らの音楽の質感のほうがずっとエリオット・スミスの曲の質感に近いからだ。ニック・ドレイクの叙情性は、けっこう華美だし、ウエット感がある。しかしエリオット・スミスの叙情性は、ずっと乾いた感じがする。言ってみれば大げさではないのだ。この乾いた感じがエリオット・スミスをBig Starにひきつける。

 このアウトテイク集を聞いて、様々なバリエーションの中から、アルバムテイクが生まれていったことがわかる。しかし、あらためてくりかえすが、ここに収められているのは、制作の途中のスケッチではない。セッションでギターをかなでる姿は、きっと幸福感にあふれていたのではないか。そうした自分の曲への愛情という点では、アウトテイクもアルバムテイクも何も変わりはしない。

Bob Dylan, Hard Rain (1976)

hard_rain.jpg アメリカ建国200周年を機に行なわれたライブツアー「ローリング・サンダー・レビュー」。旅芸人のように街から街を巡りながら、その日その日の音楽を奏でていく。同じ演奏は2度とできない。その瞬間、その場所で音楽が生まれていく。そんな音を切り取って収められたのがこのライブ・アルバム「Hard Rain」だ。このタイトル通り、とても激しい音楽である。といってもディストーションでひずんでいるとか、大音量で圧倒されるというわけではない。むしろそれぞれの楽器の音はひかえめでさえある。ギターはつまびかれ、ヴァイオリンの音は、哀愁を感じさせる。それでも激しいのは、ディランの魂の圧倒的な存在感、これにつきる。

 ディランの歌声は、本能的な感情の叫びではない。それは、確信をもった魂のうなりだ。単なるその場だけの感情の爆発ではない、表現をしようとする魂の激しい動きが、そのまま声にのりうつる。

 ディランの本質は、よく言われるようにアルバムではなく、ライブにあるのだが、それはこのレコードでも実感する。一曲目のギターのチューニングのような音を聞いているうちに、いきなり演奏が始まる。この唐突な始まり方に、鳥肌がたつ。そして例のごとく、原曲をとどめないアレンジに、この曲が Maggies' Farmだとはなかなか気づかない。この曲、ブレイクの仕方が最高にかっこいい。そして二曲目One Too Many Morningsは感傷的なようでいて、バンドの高揚感が激しいエネルギーを感じさせてくれる。そして三曲目The Memphis Blues Againは、サビの部分、ディランの声が虚空に響き、ゆっくり消えていく終わり方が最高です。四曲目はOh, sister.『欲望』収録の曲だが、張り詰めた空気の圧倒感で、こちらのライブバージョンのほうが断然いい、B面一曲目のShelter From The Stormはギターのかけ合いが最高、こんな生き生きしたナンバーを耳にしたら、踊り狂ってしまう・・・と、きりがないのだが、どの曲もその演奏のテンションの高さに驚かされる。『血の轍』と交互に聞きたいアルバム。そうでないと、こちらの緊張感がもたない。しかもどちらもLPで。

 76年11月にはThe Bandのラスト・ワルツが行なわれている。このコンサートは、ロックの終焉とよく言われるが、このディランのツアーと重ね合わせれば、確かにロック・コンサートのもたらしてくれるユートピア幻想に決定的な終止符がうたれたのがこの時期であるというもうなづける。ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンなど、ロックの伝説が死んでいくなか、残されたミュージシャンたちの苦しい模索が今後始まることになる。

blue_river.jpg ジャクソン・ブラウン、ジェームス・テイラー、エリック・アンダーソン。長髪の顔立ちには、内面のナイーブさ、繊細さが映し出されているかのようだ。社会に跳びかかっていくのでなく、自分を破綻に追いつめるのでもない。情熱と狂気が失われてしまった時代にあって、自分の立っている場所をもう一度見つめ返すような内省的な態度といえばいいだろうか。エリック・アンダーソンの2枚のアルバムジャケットは、どちらも本人のポートレイトである。そのまなざしは、外に向かって投げかけられた、というよりも、おそらくは自分自身の内にむかって深く沈んでいくような印象をうける。しかし、それは決して自己閉塞ではなく、控えめであっても何かを見据えた力強いまなざしだ。

 1972年に出されたこのアルバムは、もはやフォーク・シンガーのアルバムではなかった。フォークというには、あまりにも老成している。誠実ではあっても、もはや素朴ではない。いわゆるトラッドという、過去の伝承を歌い継いでいくような素朴さは、もはやここには認められない。憂愁や追慕はあっても、それはきわめて個人的なものである。この私的な音楽が、しかし、人々の心をとらえていくのだ。

 先に挙げた3人の中で、エリックの声が一番線が細い。ジャクソン・ブラウンの力強さ、ジェームス・テイラーのきらびやかな歌声に比べてと、エリックの声の特徴は、その震えだと言えないだろうか。名曲Blue Riverでは、ゆったりとしたリズムにあいまって、高音の震えがはっきり伝わってくる。感情をあらわにすることなく、たんたんと歌を紡ぎだす。もしかしたら、押し殺した感情があるのかもしれない。でももはやそれを語る時代ではないのだ。その失われたものへの憧憬をもちながらも、一歩前へ踏み出す決意、それがSSWたちの創造への意欲だったに違いない。

 この音楽はやさしい。軟弱といえばそれまでだが、あくまでも誠実な歌である。人に聞いてもらおうと、わざとおもねりはしない。彼の声はひとすじのよびかけだ。たとえどんなにかぼそくとも、よびかけは、多くの人の心に届いていく。エリック・アンダーソンを聞く者は、その音楽によって、孤独とは何か、おそらく問いかけるはずである。そうした繊細な魂に、彼はよびかけるのだ。Be true to youと。

Nico, Chelsea Girl (1967)

chelsea_girl.jpg 恋人の贈ってくれた歌を歌う時、人はどんな気持ちになるのだろう。愛し合う者同士の心は、きわめて私的なものだ。ジャクソン・ブラウンの曲を歌うときの、ニコの心情、ニコの歌を聞くジャクソン・ブラウンの心情、ふたりの想いは決して外の人間にはわからない。それなのに、私たちは、アルバムを聴きながら、ニコの声に心をうたれる。音楽の限りない魅力の秘密は、きわめて個人的なものが、多くの人々の心に共感を得て広がっていくところにあるのではないか。いつまでも手元に置いておきたい、そんな思い入れを強く感じさせるアルバムだ。

 このアルバムが出されたのが67年10月。その数ヶ月前には、ヴェルヴェットアンダーグラウンド&ニコのファーストアルバムがでている。ロックがひとつの前衛であること、トータルな芸術運動であることを、一つの作品という形におさめた類い稀なアルバムだが、ロックのコミューンとしての性格は、じつはヴェルヴェットよりニコのアルバムのほうが色濃くでているかも知れない。ヴェルヴェットがあくまでもバンドのサウンドを全面に出しているのに対して、ニコのアルバムは、ジョン・ケールとルー・リードのコラボレーションが音作りに生かされているからだ。ニコ、ケール、リードのとりあわせは、ロックが共同体の中から生まれてくる芸術であることを教えてくれる。人と人がある時、偶然出会い、お互いを触発し、強い創造性を生むこと、そこにロックの醍醐味があることを教えてくれる。

 だから、ソロアルバムでありながら、ニコと、彼女を取り巻く様々な人々のサポートによって出来上がったこのアルバムは、合作という感じが強い。しかし出来上がった音はあくまでもストレートでシンプルだ。弦楽器や吹楽器の音は美しく、ニコの声はとても生々しい。その少し鼻にかかったような、しかし芯のある歌い方は、ニコの魂の赤裸々な姿だ。

 死の直前のニコのライブは、すでに祈りにも似た、厳粛なものだった。しかしこのファーストアルバムのニコは、けだるくも、十分に瑞々しさを感じさせてくれる。実は光りにあふれたた、優しさに満ちたアルバムだ。

Dinosaur Jr., GREEN MIND (1991)

green_mind.jpg 10年ぶりにだされたDinosaur Jrの再結成アルバム Beyondを聴いた直後に、Green Mindを聴き直した。Matthew SweetのGirlfriendと並んで、90年代のアメリカのロックの冒頭を飾る傑作である。新作と聴き比べて歴然としているのは、やはり若いアルバムだということだ。この疾走感はもう二度と再現できないのではないか。Green Mindは、確かにそれ以前のDinosaurのアルバムより数段ポップで聞きやすい。しかしそれは、決してメジャー向きの音楽に転向したわけではなく、バンドのメンバーの緊張が結果としてバランスのとれた曲を生んだのだと思いたい。

 特にギターの轟音と、音数の多いドラムとの絡みはこのアルバムの魅力のひとつである。たとえば3曲目の「Blowing it」から4曲目「I live for that look」へのスリリングな流れは、ドラムからギターへと音の主役が移っていくことによっている。「Blowing it」のノリを決めているのは、まさにドラム。フックの効いた間合いの取り方がこの曲のスピード感を高めている。そして曲の最後になってからの轟音のギターが、4曲目への橋渡しをしてくれる。こうしてアルバムの構成に注意してみると、Mascisの爆音ギターは、ノイズの垂れ流しどころか、ここぞという微妙なタイミングで流れてくることがよくわかる。もちろんギターとドラムのかけあいは一つの美しいユニゾンも作ってもいる。たとえば8曲目(というか、 LPのB面2曲目)の「Water」では、ギターとドラムが同じ調子でリズムを刻む。2分26秒あたりの「ダ、ダ、ダ、ダ、ダ」というドラムにあわせサビが始まる瞬間のギターのメロディ、そしてその美しいメロディにかさなる「カモン、ベイビー」という歌詞の高揚感は、このアルバムの白眉と言ってもよい。

 そして耳をすませばすぐにわかることだが、Mascisのギターの美しさは、やはりニール・ヤングゆずりである。「Thumb」のようなスローテンポの曲では、まさに泣きのギターが堪能できる。ただそれは、ジョージ・ハリスン、エリック・クラプトンとは異なる泣きのギター、優秀なギターリストの音ではなく、衝動のギターリストの音なのだ。

 Dinosaur Jrの魅力はもちろんMascisのヴォーカルにある。特に彼の声が裏返った時の、情けない歌い方は、このバンドの人生に対するだめさ加減をこれでもかと伝えてくれる。そう、このだめさ加減がまた若いのだ。人生の目的をさだめてしまった大人には決してこのロックの素晴らしさはわからないだろう。そしてこんな音楽にのぼせてしまった人間は、いつまでたっても人生に責任をとるほどの成熟さには至ることができないだろう。だらしなくて、いいかげんで、無能な人間が、汚いソファーにぐったり寝そべって、ヘッドホンで大音量で聞く音楽。それがDinosaurだ。

Carole King, Writer (1970)

writer.jpg ポップスからロックへの移行をこの「Writer」ほど象徴的に表しているアルバムもないだろう。「Writer」の登場は、キャロル・キングという天才ライターのロックミュージシャンへの変化を意味するだけでなく、ロックというジャンルそのものの確立を意味している。もちろん、ことアメリカにかぎっても、すでにロックは存在していた。だが、それまでのロックはポップスのアンチテーゼという、「反」としての存在だった。キャロル・キングのロックは、時代遅れになりつつあったポップスというジャンルを吸収した上で成り立つロックである。

 ではこのアルバムの何がロックと呼ばせるのか?まず明らかなのは「Writer」というタイトルが示しているSSW(シンガーソングライター)という、個人を出発点とした音楽制作スタイルである。ポップスが担っていた、作曲家と歌い手という、職人の分業体制によって担われるビジネスではなく、個人の発露として音楽が生まれることがロックである。

 そして個人の発露というのは、キャロル・キングの場合、その唱法にある。いや、彼女は、意識してこのように歌っているのではないだろう。その歌は、一本調子で、はりはあっても、ふくよかな陰影はない。あくまでもストレートで、ただ声がのびるにまかせるような歌い方である。言ってしまえば職業歌手としては失格なのだ。しかしこの不器用なストレートさは、ピュアであることの裏返しだ。キャロル・キングの最高傑作といってもよい「The Carnegie Hall Concert - June 18 1971」で、この瑞々しい歌声は十分に満喫できる。

 そして楽曲の構成であろう。アレンジの妙はいかされているが、何よりも心をひくのは、ピアノやギターの生の感触だろう。その意味でたとえば「Rasberry Jam」のような曲は、どんなにすばらしいアレンジを聞かせてくれても、このアルバムの中ではすでに「時代遅れ」である。そして時代の幕開けを飾るのはアルバムの最後の曲「Up on the roof」だ。「The Carnegie Hall 〜」で、ジェームス・テイラーという、もう一人のSSWとの美しいコラボレーションが聞けるこの曲こそ、70年代ロックを運命づける一曲であり、そしてこの時点でロックは、前衛や実験であることをやめた。

くるり, THE WORLD iS Mine (2002)

the_world_is_mine.jpg ノイズに満ちた音で癒される。このアルバムで構築される音の渦は、ノイズと呼んでいいだろう。そのノイズの渦に身を浸しながら、癒されていく体験がこのアルバムにはある。それはどんな感覚だろうか。2曲目は「静かの海」。深海で砂が何らかの拍子にふと舞い上がるときのかすかな音は、きっとこのアルバムで聞かれるような音に違いない。それは音楽とはいえない、たんなる音のかたまり。しかしその音こそが癒しをもたらしてくれる。そんな雑音がちりばめられたこの「THE WORLD iS MiNE」は、くるりの最高傑作である。ここまで音響、音の破片でしかないものが、ひとつの音楽に結晶するなど、いったいどんな力量があればできることなのだろう。

 しかしこのアルバムが恐ろしいのは、極端に音数が少なくなる瞬間があることだ。「アマデウス」は、たとえいくつもの音が聞こえるとしても、印象に残るのは単調なピアノの音色とヴォーカルだけだ。そしてもう一つの特徴は、メロディとリズムの反復だ。「Buttersand/Pianorgan」や「Army」は、うねるノイズだけで構成されている楽曲だといえよう。

 しかしそんなアルバムの印象も「水中モーター」あたりから、ロック色が強まっていく。「水中モーター」のヴォーカルはスチャダラパー的なアプローチといってもよいが、そうした雑食性もまたくるりの楽しさである。「男の子と女の子」は、ハナレグミもカバーしているが、あきれるほどめめしい曲だ。そんなロックのストレートさは、「Thank You My Girl」で最高潮になる。そして再びアルバムは、「砂の星」、「Pearl River」を辿って、深海へ戻っていく。たゆたう水のうねりがゆったりとはてしなく円を描く。

 このアルバムが最高傑作と言えるのは、どう頭をひねってもシングルカットできない曲ばかりならんでいるからだ。どの曲もこの音の流れから引きはがすことができない。それほどの緊張感をもって作り上げられたアルバムである。

either_or.jpg エリオット・スミスの曲がとても生々しく聞こえるのは、それは「音楽が生まれる瞬間」に立ち会っている印象をとても強く受けるからではないだろうか?最小限の楽器。あらかじめ決まめられたリズムや、コード進行もないかのように、最小限のささやきと、ギターを刻む音で、音楽が始まる。エリオット・スミスが最初に浮かべたメロディそのまま、音はおさめられ、聞く者にとどけられる。だからエリオット・スミスの音楽を聞くと、本人の存在をとても身近に感じられる。エリオット・スミスの曲は、加工という作業からもっとも遠い。だから皮膚がすり切れるような痛々しいつぶやきまで僕たちは感じてしまう。

 およそ他人に聞かせることなど念頭になかったのだろう。おそらくはBasement Tapesにおさめられたまま、誰にも聞かれずに忘れ去られていくはずだったろう。しかし本人の意図とは別に、「グッド・ウィル・ハンティング」のサントラ曲として、突然、広く知られることになった。その時の違和感は確かに、彼の素直な反応だったのではないだろうか。自分の独り言にも似たメロディが、人にも聞かれてしまい、気に入られてしまうという戸惑い。そんな戸惑いによってその後の生き方そのものを縛られてしまうミュージシャンは多い。ピンクフロイドのシド・バレットはロック(産業)の歴史の中で、その最初のミュージシャンだろう。そして同時代のカート・コバーンを思わずにはいられない。ただしエリオット・スミスとカート・コバーンはとても対照的なミュージシャンでもある。あくまでも内に沈潜していくエリオットに対して、カートはやはり攻撃的だ。たとえその攻撃が結局は自分に向かってしまうとしても。

 タイトルもない、断片だけの曲。エリオット・スミスにとってはそれだけで十分だったに違いない。しかしエリオット・スミスは、自閉的な、自己満足の音楽ではない。彼の歌の中には、時に他人との深い関わりを感じさせる歌がある。そのときの彼のメロディは本当に優しい。

I'm in love with the world through the eyes of a girl who's still around the morning after. (Say Yes)

 恋する彼女の目を通して、世界を見る。そんな風に他人と重なるような一瞬がある。たとえ淡く崩れてしまう一瞬でも、それを静止画のように切り取ることのできるエリオット・スミスは素晴らしい詩人だ。こうしたまなざしをもったエリオット・スミスは、これからもロックを聞く者たちに一番に愛され続けていくだろう。ロックの優しさをここまで純粋に感じされてくれるミュージシャンは希有なのだから。

love_in_stereo.jpg ソウルというジャンルはいったいどうやって分類されるのだろうか?ひとくちにソウルといってもその幅はきわめてひろい。たとえばリズムの躍動はソウルの本質だろうか。それはジェームス・ブラウンのようなきわめて個性的なミュージシャンに負うところが大きいのかも知れない。ソウルのもつ高揚感、グル−ブ感ならば、まずはマーヴィン・ゲイを思い浮かべるだろう。そして黒人の魂の訴えならば、単なるメッセージソングに堕することはなく、しかし政治的なムーブメントとして大きな流れを作っていくほどの力をもったアルバムを生んだカーティス・メーフィールドだろうか。ここまで黒人の名前ばかりを挙げたが、ソウルは黒人の専有物ではない。60年のロック草創期からすでにスティーブ・ウィンウッドのようなきわめてブラックな、そして質の高いソウルフルなミュージシャンがいる。その歌唱の素晴らしさは、「ソウル=黒人文化」というきわめて安易な図式を払拭してくれる。

 少し振り返っただけでも、ソウルの歴史は、さまざまな豊かな財産を持っているわけだが、97年にファーストアルバムを出した、このRahsaan Pattersonの音楽が、ソウルと呼べるとしたら、それはどんな意味だろうか?

 まずはっきりしているのは、90年代以降のソウルの流れは、かつての黒人という人種的枠組みにもとづく、プロテストとしてのソウルとは根底から異なっているということである。また汗の匂いといった肉体性も、パッションを歌い上げるような魂の叫びもない。しかしそれでもなぜ彼の音楽がソウルとしてここまで人の心をひきつけるのか?

 Pattersonのソウルの魅力は、緻密に練り上げられた、楽器それぞれの粒だった音の構成にあるのではないだろうか?たとえばソウルを聞きながら「快適」と言えるのは、そのストリングスのアレンジのバランスの良さにあるように思う。それは、ソウルが本来持っていた、情念とも言えるスピリチュアルな部分を抜き取ってしまい、メロディの妙だけで聞かせるイージーリスニングにも似たお手軽なソウルになってしまったという危険も意味する。

 しかしPattersonの音楽が、そうした批判に耐えうるとしたら、それはまさに計算されつくした、楽曲のよさによる。それぞれの音が個性を持ちながら、うまくアレンジされることで、曲としての一体感を醸し出していく。音と音の間の取り方が、いわゆるグルーブを生み出していく。そこがかろうじてソウルなのだと言えよう。つまり徹底的に知性的な音作りをしているのである。天性の才能や、人間の激しい生き様を聞くのではなく、最高のスタジオ環境で、過剰になる部分は極力抑えながら、音を重ね合わせていくその妙を堪能するのだ。そうした音作りは、彼の男性としては、ずいぶん細くて、高音にいけばいくほど、金属質になっていく声質にとてもあっている。この中性的な声は、音のアレンジの中でほとんど楽器の一部として溶け込んでしまっている。いってみれば人工的なソウル。しかし音楽の楽しさは、なにも生身の人間らしさだけにかかっているわけではない。スタジオワークによってここまで完璧な音作りをしてくれれば、それは、ひとつのエンターテイメントとして、聞くに堪えると言えよう。

 なお、Rahsaan Pattersonはこれまで3枚のアルバムを出している。デビューはRahsaan Patterson、2ndはAfter Hours。どのアルバムも素晴らしいクオリティである。

曽我部恵一, Live (2005)

sokabekeiich_live.jpg このアルバムを聴くとちょっと驚くことがある。それは曽我部恵一の声が、とてもハスキーになっていることだ。ツアーのさなかで声が枯れてしまったのか?それとも彼の声は、シャウトするとこのようなしゃがれた感じになるのだろうか? 憂歌団というには、そこまで成熟していないというか、成熟を拒否しているか、どちらかなのだが、いずれにせよ、観客への挑発という点では、かなり魅惑的な声質だ。それは曲と曲の間に入れられている、しゃべりの部分でも同様だ。当日ライブの場に居合わせた観客はもちろん、このライブアルバムを聴く者さえ、どんどん音楽のなかに引き込んでいく。

 サニーディ・サービスのころには、こんなしゃがれた声を聞くことはなかった。「東京」のクレジットに記された吉井勇という詩人の名が示すように、とても内省的で、叙情的な詩にふさわしい声。「江ノ島」に歌われる、ゆるやかなカーブ、平日の昼間の海といった、静謐さを歌うのにふさわしい声、それが曽我部恵一の声だったと思う。でもこのライブアルバムでは、たとえば「浜辺」のような、グルーブたゆたう曲でさえ、彼の声は枯れて、震えている。

 そんな声質の違いが、サニーディ・サービスとソロになってからの彼の音楽の違いなのだと思うが、それでも変わらないところはいっぱいある。それはたとえば、「恋の始まり」。曽我部恵一ほど、「恋の始まり」を素敵にスケッチしてくれるミュージシャンもいないのはないだろうか。「恋に落ちたら」は、今日のデートで、おそらく二人は、お互いがすきだってことを感じるはず、だから、今家をでて、デートに向かう「僕」の心を歌う。「テレフォン・ラブ」は、相手が見えないのに、声だけは耳に生々しくすぐ近く聞こえてくる、「電話」。それはいざとなれば真夜中だって彼女の声がきけるのに、でもダイヤル(!)するには、とっても勇気がいる、そんな「恋」を歌ってくれる。

 ちなみにこのアルバムの名義は「曽我部恵一Band」である。Bandってなんだろうか?それはアンサンブルなんだけど、それぞれのパートが勝手に自己主張するグループのことではないだろうか。そんな緊張感をここちよく感じながら、一気につっぱしって聴いてしまえる、イカしたライブアルバムである。

sayonara_stranger.jpg 地方性を感じさせるミュージシャンがいる。くるりは京都の出身であり、様々な曲の京都を思わせる歌詞、ジャケットに使われる写真など、自分たちの故郷への執着を感じさせる。ただここではそのような地方への執着とは違う意味で、もう少し地方性ということを考えてみたい。

 たとえば若き日の細野晴臣が、東京の自宅で舶来品に囲まれながら、銀座山野楽器で買ってきた最新の輸入盤を友人たちと聞きながら、曲をコピーするような都会性にたいして、音楽の情報といえばNHK-FMの番組しかなく、地元の県庁所在地に、一軒かろうじて輸入盤屋があるような地方性という意味ではない。くるりの世代であれば、そのような情報格差はもはやなかっただろう。ブリティッシュロックの30年を咀嚼しつくしたような楽曲を聴くだけで、彼らがおびただしい量の音楽に触れてきたことはすぐにわかる。

 ここで考えたい地方性とは、東京へ出てきた人間が、地方の風土への感覚を、肌の感覚として忘れずに、自分たちの音楽へと組み込んでいく、その姿勢である。

 このアルバムにおさめられている「東京」で、彼らはこんな風に歌う。

話は変わって今年の夏は暑くなさそう
あいかわらず季節には敏感にいたい

 東京以西の人間からすると、東京ではよく三月に冬が戻ってきて、雪もちらつく風景をみることがあるが、そんな時に地方との差を肌で感じるような感覚である。自分の中はすでに春になっているのに、東京にいると、その肌に冷たい風がふいてきて、不意をうたれるような感覚である。

早く急がなきゃ飲み物を買いにいく
ついでにちょっと君にまた電話したくなった

 日常の切れ端のなかで、かつての自分の生活の場所を思い出すようなスケッチである。東京での生活の中で、「ついで」でするようなこと、「忘れてしまって」思い出せないようなこと、それが、心を強く締めつける感覚。電話の世界は、きっとすでに遠い世界なのだろう。でもそれが切れ端の間から、ふと痛みをもって、戻ってくる。

 岸田繁のこの曲でのヴォーカルは激しい。彼のすきっ歯から、絞り出されてくるだけに、いっそうその声は、切実さを帯びる。いったい彼の黒めがね、やせ細った頬、分厚くて紅い唇、そして歯並びの悪い口ほど、ロックっぽいものはあるだろうか。

 そしてこの曲の最後のさびの「ぱ、ぱ、ぱっぱぱっぱ」というコーラスを聴くと、実に仲のよいバンドなのだと思ってしまう。

 このファーストアルバムには、『アンテナ』以降ふりきった、屈折が痛ましいほど感じられる。でもくるりの最高傑作は『THE WORLD iS MiNE』です。

the_confessions_of_dr_dream_and_other_stories.jpg ケヴィン・エアーズの曲には、「ブルース」とつくタイトルの曲が多い。この「夢博士の告白とその他の物語」にも2曲おさめられている。一聴すると、どの曲もブルースっぽいところはないのだが、エアーズが「ブルース」とつける理由は、おそらく、ロック調のめりはりではなくて、ルーズさが曲の魅力だいうことなのだろうか。とにかくルーズという言葉がぴったりな人だ。ソフトマシーンにいながら、さっさと脱退してしまう。髪の毛もぼさぼさで、かなりだらしないヒッピーの雰囲気である。カンタベリー系のミュージシャンには結構ポップ志向の強い人がいるが(たとえばホークウィンドのロバート・カルバート。名盤多し)、エアーズほど、能天気なポップアルバムを作る人もいないだろう。

 しかしこのアルバムのポップさは、かなりシュールなポップさである。複雑な転調を繰り返すが、けっしてプログレのように壮大な展開にはならない、でもやはり直尺ものの曲。メランコリーな色調で心情にうったえるというよりも、こちらの頭の活動を鈍らせるような夢幻的なバラード。そんな一筋縄ではいかない曲がつまっている。

 そして何よりもエアーズの魅力は、その低くて、やや鼻につまった声だろう。アルバム最後のTwo Goes into Fourは、その低い声で紡がれる優しい子守唄である。リンゴ・スターのGood Nightと並ぶ最高のおやすみソングだ。

 この後、エアーズのアルバムは、どんどん平板なポップへと流れていく。しかし、決してルーズさは失っていないし、ルーズな人間ならではの優しさをつねに持っているミュージシャンである。下北沢のディスクユニオンで、あまりきちんとチューニングしているとは思えないギターで数曲を歌い、その後サイン会までしてくれたエアーズは、ずっとほほえんでいた。九段会館のコンサートでは、すでに客席に明かりがつき、終了のアナウンスが流れている中で、何度もアンコールをしてくれた。アンプも最後には故障してしまったが、そんなことは関係なく、楽しそうにギターをひいていた。そんなケヴィン・エアーズを私はこよなく愛している。人から「聴いてごらん」と貸してもらったレコードで、もっとも深い印象を抱いたのがこのThe Confessions of Dr. Dream and Other Storiesである。

Neil Young, Live Rust (1979)

live_rust.jpg ニール・ヤングのライブアルバム「Live Rust」は、その前作「Rust Never Sleeps」のツアーから収録された。「Rust〜」はヤングからの「パンクへの回答」と表現されることが多い。このアルバムのA面はアコースティック、B面はエレクトリックで構成されている。確かにこのB面のエレクトリックな曲調の激しさは、ロックがもつ緊迫感、「明日を生きられない」といった性急さを、見事に表している。それをパンク世代ではなく、60年代後半からアメリカン・ロックを生き抜いてきたヤングがしたことに、大きな意味がある。

 パンクとは果たしてそれまでのロックへの否定、断絶だったのであろうか?今から振り返ると、そうした「否定、断絶」といった衝撃度は、むしろショービジネスとして演出されたものという面が強い。たとえばピストルズの曲なども、今から聞けば、いたってポップ、言動に反社会的印象がつきまとうとしても、音楽的には、既存の音楽の破壊といった斬新さは認められない。つきつめていえば、パンクは、ロックがそれまで標榜してきた「否定、断絶」といったものを、ファッションのレベルで、パロディ化してしまったものではないだろうか。そして、もしロックの存在価値のひとつが「否定、断絶」にあるならば、まさにそれはヤングが70年代に実践してきたことである。

 ヤングの場合、「代表的なアルバム」というのが挙げにくい。まずどのアルバムも似ていない。毎回やることが違うのである。そして、アルバムを単位として聞くというよりも、ひとつの曲の緊張感に対峙するという、聞き方をせまられるのである。この決して一カ所にとどまることなく、常にぎりぎりの切迫感をもって、ロックミュージックを作り上げてきた、この態度こそ、ヤングが「パンクへの回答」としたものではないか。

 このライブアルバムもアコースティックから始まり、そしてエレクトリックへと展開していく。しかしある曲をアコースティックで仕上げるか、エレクトリックで仕上げるかはたいした問題ではないだろう。それは「My, My, Hey, Hey」、「Hey Hey, My, My」の2曲が端的に示している。Suger Mountainの澄み渡ったギターの音色も、Powder fingerの大音量のバンドのアンサンブルも、どちらであっても、会場に張りつめる緊張感は変わらない。