Prévert, Jacques

Jacques Prévert, Enfance (1972)

 本当は単純に割り切ることはできないのだが、職人と芸術家に区別をつけるならば、前者はいわば注文をうけて作品をつくる人間であり、後者は自らの天性によって作品を創造する人間である。プレヴェールは明らかに前者である。そもそも彼は自らの芸術的な創造性の発露や、自らの体験からの作品の創出ということをおおよそ表明したことはない。
 しかしそのほとんど唯一の例外と言ってもよいエッセイがChoses et autresにおさめられたEnfanceである。子ども時代の描写がおもしろいのは、子どもであるプレヴェールが、本能的な愛情と本能的な嫌悪によって周りの世界を、そして大人たちを分類しているからだ。彼が愛したのは家族、ヌイイの街。彼が嫌悪したナショナリストの群れ、厳格なカトリック家庭であった祖父母。
 彼が愛を傾ける人々は無名の市井の貧しい人々ー職人と芸人である。オリーヴを売り歩く行商人、煙突掃除夫、錫メッキ職人、イスの張替職人、食器修繕職人、廃品回収業者、下水清掃夫。そして祭りの興奮と哀愁を体現する道化師、大道芸人、歌手、曲芸師たち。そして何ももたない物乞い、酔っぱらい、道ばたに立つ病人。プレヴェール少年の視線は常に社会の辺境にいる人間たちに向かう。職人と芸人、そして社会の境界に立つ存在。プレヴェールは自分の詩人という仕事もその人々の中にはいるとずっと考えていたはずである。
 その中でも、とくに社会からだんだん追いやられ、貧困と病に陥っていく人物がプレヴェールの父親である。プレヴェールの幼い心に消しがたい痕跡を残したのは父親の存在である。父親からの愛、父親への愛、それは疑うべくもない。子どものプレヴェールは父親と二人で、ヌイイの街を、パリの中を、そして南仏移住時には浜辺を、再びパリに戻ってからは、父親の仕事の訪問先を一緒にまわる。彼は父親をもっともそばから見ている、愛にあふれた視点をもった観察者である。しかし、父子の愛の現実の具体的な姿は、十分な金もないのに酒を飲み、子どもを自転車の荷台に載せて家路に着く哀切の姿であろう。父親は、自分のしたいこともわからず、たとえあったとしても才能がないことを認めざるをえず、時代の流れに翻弄され、だんだんと精神を蝕ばまれていく存在でもあった。沈鬱な病に侵されてゆく愛する存在が、プレヴェールの創作に影を落とさないことはないだろう。もちろん常に作品に直接その屈折が反映しているとうことではない。むしろその屈折を否定する表現として作品が生まれることもありうるだろう。社会で成功しないどころか、社会の辺境へと追いやられていく、失意の父親への惜しみない愛である。
 そして仕事中の父親を外で待っている子どものプレヴェールは、まわりを観察する。「窓辺の花、壁に描かれた落書き、ネコ、鳥、鳥のさえずりを聞く赤ん坊」。この風景は、プレヴェールの詩のモチーフだ。
 日常に誰からも注目されず、むしろ社会の視線から排除されているけれども、しかし確かに存在するもの。その確かさこそプレヴェールの詩の原初である。